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ストラヴィンスキー自作自演集WORKS OF STRAVINSKY (その6)

どう考えてもピロリ菌ってかわいいよね。




CD6枚目もバレエの為の作品。

 バレエ「プルチネルラ」(1919~20/1920初演)〔※ペルゴレージによる〕 [1965.8.23録音]
   コロンビア交響楽団
 バレエ「オルフェウス」(1947/1948初演) [1964.7.20録音]
   シカゴ交響楽団

「プルチネルラ」は歌入りの全曲版。残念なことに歌手(ソプラノ・テノール・バスの3人)の表記がありません(全体にこのCDのブックレットやCDのデータは随分雑な感じがします)。組曲版に比べて演奏の機会は少ないですが、音楽的には全曲版のほうが圧倒的に面白い。演奏時間も組曲版の6割増くらいありますが、何度聴いても面白くてあっという間に時間が過ぎてしまいます。「プルチネルラ」の面白さについては、以前「妖精の口づけ」を紹介しながら少し触れましたが、この自作自演、私が素材(ペルゴレージその他のイタリアン・バロックの数々)の中に垂らされた墨に譬えたいたずらを、これでもかと強調するやり方。清朗な序曲から既に、伝統的和声から少し逸脱するような音があちこちに忍び込んでいます。続くラルゲットのセレナータ、組曲版にも入っていますがこちらはテノールのアリアMentre l'erbetta pasce l'agnella付き。弦のリコシェや弱拍に付けられたスフォルツァンドが強調され、長すぎるリズム・オスティナートも極端な強弱の変化が付けられています。アレグレットのソプラノのアリアContento forse vivere nel mio martir potreiも調子外れのピッツィカートが強烈、アレグロ・アラ・ブレーヴェのバスのアリアCon queste paroline cosí saporitineでは4拍子の中に突然3拍子の刻みが入ってきます。セレナータの再現Chi dise ca la femmenaに続くアレグロのソプラノとテノールの二重唱では変ホ短調から強引にへ長調に転調、組曲でもお馴染みのヴィーヴォはトロンボーンのグリッサンドにコントラバスのソロの珍妙な取り合わせ。このあたりからもうやりたい放題。終盤のメヌエットは三重唱Pupillette fiammette d'amore 入りで、最後は殆どクラスター状の響きにまで至り、アレグロ・アッサイのフィナーレはもうどっから見てもストラヴィンスキーそのもの。バロックと20世紀モダニズムの接ぎ木による異化作用の強調は、聴いていて少し疲れてしまう程で、私は他の作品を聴く時よりも少し音量を絞って聴きました。作曲者が表現したかったことを素直に音にしたらこうなった、と言わんばかりの天衣無縫の音楽です。全曲版は録音も少ないですが、ブーレーズのアンサンブル・アンテルコンタンポランの録音など、この「墨」の表現は少し抑えて上品かつ洗練の極みを行く演奏で、改めてブーレーズが現代音楽の作曲家という以前にフランスの指揮者であることがよく判る(昔のアンサンブル・ドメーヌ・ミュジカル時代のブーレーズは「怒れるブーレーズ」の面影を残していて、ちょっと違うけれど)。どちらを良しとするかは、まぁ人それぞれとしか言えませんが、私はこの自作自演、小さな子供が自分のおもちゃを自慢しているみたいなほほえましさを感じて、好きですね。ある意味作曲者にのみ許される表現で、現代の指揮者が真似たら下品ということになりかねませんが。
話は脱線しますが、それこそブーレーズの洗練された演奏だけ聴いていたころは、果たしてこの作品をストラヴィンスキー中期の代表作と言っていいのだろうか、という素直な疑問を持っておりました。オールモウスト・ペルゴレージ、オリジナルな作品と言えるのだろうか、と。それからいろんな演奏を聴いて、やはりこれはストラヴィンスキーの(敢えて代表作とは言わないけれど)オリジナルな傑作だと思うに至りました。的確な譬えかどうか判りませんが、ウェーベルンがバッハの6声のリチェルカーレをオーケストラに編曲したもの、あれをただの編曲と見なす人は少ないだろうと思います。あれはウェーベルンが全身全霊を込めて精緻に編み上げた完全なオリジナル作品(ただし素材はバッハ)、というのが一般的な見方でしょう。いや、それより適切な譬えは、ルチアーノ・べリオの「シンフォニア」の第3楽章かも知れません。あれはマーラーの「魚に説教するパドヴァの聖フランチェスコ」を土台に、古典派ロマン派印象派現代と一体何曲あるのか私も判らないけれど恐らく数十作の、古今の作品の断片をコラージュしたものですが、あれもどうみてもべリオのオリジナル作品、しかも言葉のごく普通の意味で「代表作」だと思います。そういった意味で、この「プルチネルラ」は、極めて現代的なコラージュ作品の先駆としても捉えることが出来ると考えています。

「オルフェウス」も、ストラヴィンスキーの作品の中では不当に冷遇されているものの一つでしょう。彼の諸作品の中でもとりわけ抒情性に富んだ傑作だと思います。冒頭、Orphéeと題された部分、弦とハープの合奏から抒情が滴り落ちるようですが、これはヴェトナム戦争以降のアメリカ映画の音楽などでおなじみの音作り、という感じがします。別にアポロやオルフェウスでなくとも、苦悩するFBI捜査官とか、兵役忌避の青年とエイリアンとの精神的交流、とかの場面でも多分何の違和感もない、21世紀に生きる我々には不思議な既視感のある音楽です。
最近はどうなっているのか、LPの時代には映画のサントラ盤というジャンルがあり、一本の映画の音楽を丸々一枚のレコードに収めたものがありましたが、ちょうどそういった音楽を聴いているようです。ソナタや変奏曲といった構成原理を持たないストラヴィンスキーの音楽にとって、バレエは恰好の器だったと言えますが、ハリウッドの映画音楽に興味を示した痕跡は、企画そのものが頓挫した「ロシア風スケルツォ」を除いては殆ど見当たりません。「大洪水」はテレビ放映の為に書かれたようですが、映画音楽というのではない。ストラヴィンスキーの音楽の資質から言えば、ハリウッド全盛時代よりもう少し後の映画音楽にぴったりな感じがしますが、思うに彼の強い肛門性格Analcharakterが、映画音楽という著作権の甚だはっきりしない様式を忌避したのではないか、という仮説を提示しておきます(フロイト流の用語を借りましたが、彼の印税収入に対するこだわりや、几帳面な手稿をみると強ち間違ってはいないと思います)。
脱肛、じゃなかった、脱線ついでにもう少し映画音楽について。ハリウッド映画の甘い音楽については、1938年から39年頃に亡命したユダヤ系作曲家、例えばコルンゴルトのような人々を抜きに語ることは出来ないでしょうが、ストラヴィンスキーのようなもう少し辛口の音楽も、アルフレード・カゼッラやマリオ・カステルヌオーヴォ=テデスコ、エルンスト・クルシェネックらを経由して、現代のジェリー・ゴールドスミスやジョン・ウィリアムスらの映画音楽に、細くとも確固たる水脈となって流れ込んでいる、という仮説も成り立つような気がします。私にはこの仮説を立証するだけの力がありませんが、博覧強記の音楽評論家に是非とも取り上げてもらいたいテーマです。要は、先日の「アゴン」の投稿にも書いたとおり、映画やテレビの実用音楽の中に、ストラヴィンスキーの影響というものが確実に今現在も存在し続けている、ということだけは確かだと思う訳です。
話を「オルフェウス」に戻しますが、冒頭部分以外にも、Pas d'actionからPas de deux、Interludeを経てもう一つのPas d'actionに至る部分のブラスの書法は、ほぼ10年後の「アゴン」を予言するかのような現代的な書かれ方をされていて、聴きどころの一つだと思います。Air de danseの部分は、何かバロック時代の元ネタがあるような気がしますが、それが何なのか思い浮かびません。海外のサイトもいろいろと調べてみましたが、この部分の引用(?)に言及したものは見つかりませんでした(モンテヴェルディとの親近性について書かれたサイトはありましたが・・・)。Pas de deuxの後半の弦楽合奏は、さしずめストラヴィンスキー版「愛が私に語ること(©マーラー)」といった美しさ。指揮するストラヴィンスキー自身の、感に堪えぬといった風情の唸り声が録音されています。最後のApothéose d'Orphéeでは冒頭のハープと弦楽の音楽にブラスが加わり、感動的な挽歌となって全曲を閉じます。私自身は未聴ですが、CDは数少ないながらもサロネンの指揮したものなどがあるようですので興味をお持ちでしたらご一聴をお薦めします。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2011-12-03 11:01 | CD・DVD試聴記
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