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ストラヴィンスキー自作自演集WORKS OF STRAVINSKY (その2)

ある日の夢。単身先のワンルームは、ベッドの足元側がシンクと玄関になっているのだが、それがなぜか旧家の黒光りした階段のようになっていて、薄暗い中、その階段を腰の曲がった老婆が念仏を唱えながら物凄い勢いで昇ったり降りたりしている(ちなみにどれぐらい物凄い勢いかと言うと輪っかの中をくるくる回るハムスターぐらいである)。それをベッドに仰向けに寝たまま金縛り状態で見ていると、今度はその老婆がこっちめがけて突進してきた。汗びっしょりで目が覚めたのだが・・・だれか夢分析してくださいw。




CD2は超有名曲の組合せ。

 CD2
  バレエ「ペトルーシュカ」(1910~11/1911初演/1946~47改訂) [1960.2.12-17録音]
  バレエ「春の祭典」(1911~13/1913初演/1947改訂) [1960.1.5-6録音]
  作曲者指揮コロンビア交響楽団

「春の祭典」からいきます。前回「火の鳥」の版の問題について、あまり重要な議論ではないといったニュアンスの書き方をしました(少なくとも全曲版に関しては)。しかし、この「春の祭典」についてだけは、版の問題を抜きに語ることはできないと思います。最後の「生贄の踊り」、あるべきところに音がなくて初めて聴いた時は「録音事故」かと思ってしまうぐらい、ある意味衝撃的。階段を歩いていて、あともう一段あると思ったら無かった時みたいに、ひっくり返りそう、あるいは関節が外れそうになる。事故かと思ったら、繰返しも同じなので、これは版が違うのだとようやく気づく。時に金管群がごっそり16分音符一音分抜けたり、間違いましたと言わんばかりのタイミングでティンパニが鳴ったり、今までそれなりに色んな演奏を聴いてきたつもりだが、こんなの聴いたの初めてです。もともとこの作品はいろんな版があって、今手元になくて詳細は確認できませんが、Boosey&Hawkes社のスコアを見ながらいろんな録音を聴いても、ファゴットのパートに前打音があったりなかったり、といったレベルだと演奏によって細かいところがかなり違う。でもこの版の違いはそういった印税稼ぎみたいなものも含めたマイナーチェンジとは少しレベルが違う感じです。いったいどういう版なのか?この謎、ネットで調べてみたら意外と簡単に解決しました。
http://www.k4.dion.ne.jp/~jetter/cd/rite_edition.htm
という物凄くマニアックな方のHPで「春の祭典」の版の問題を整理しておられますが、これによればこの自作自演の準拠している版は1943年のAssociated Music Publishers版という、他の指揮者がめったに取り上げないレアな版ということになります。ただでさえ(=一般的な1947年版でさえ)、強烈な関節外しのリズムが続く「生贄の踊り」、それに輪を掛けるようにがっくんがっくんとつまづいたりつんのめったり、最後の一音まで異様としか言い様のない音楽が続いていきます(それにしても世の中には恐るべきマニアがいらっしゃるものです。「春の祭典」の版の問題について大変勉強になりました)。
ここ以外の部分はほぼオーソドックスな演奏(作曲者自身が振っていてオーソドックスというのもへんな話だけど)、第一部などどちらかと言えば大人しいくらい。「生贄への賛美」の部分も慌てず騒がず「正しい変リズム」を刻んでいきます。
「春の祭典」は指揮者もオーケストラも様々な組合せの無数の録音があるせいもあって、この自作自演集の中でも最も聴き手によって好き嫌いが分かれる演奏だろうと思いますが、私は大変感銘を受けました。私は、この自作自演集の殆どの演奏がファーストチョイスに相応しい演奏として人様にお薦めできるものと考えていますが、この「春の祭典」に限っては、ブーレーズでもアバドでも何でも良いけれど幾つかのスタンダードと目される演奏を聴きこんだ経験をお持ちの方(「生贄の踊り」くらい鼻歌で歌えるわそんなもん、と仰るような・・・)の、セカンドチョイスの対象として強力に推したいと思う。
作曲者だって恐らくこれが自分の最後の演奏になるだろうと判っていたはずだし、そこで敢えてレアな1943年版を用いたことに遺言としての大きな意味があるのだろうと思いました。彼自身、今後1947年版が一つのスタンダードとして浸透していくだろうということは容易に想像がついていたはずですが、最初は衝撃的であったものが次第に手垢にまみれ、角がとれていく、そういった歴史的必然に対して、敢えて事故と見紛うばかりの新たな衝撃を盛り込んだ版(しかもそれは作曲者自身が半ば引っ込めてしまったもの)を採用した、と。その録音からほぼ半世紀後、こうして日本の片隅で演奏を聴いた私は、作曲家の仕掛けた罠にまんまと引っ掛かって、「なんだこの演奏は?」とショックを受けているわけです。偶々今回目にしたいくつかのブログでも、この最後の部分のガックンガックン振りにとまっどったり、あるいは前回ご紹介した世間に流布されている俗説(指揮が無骨、あるいはもっと端的にいうとヘタ)を再確認されている向きもおられたり。みんな作曲家の仕掛けた罠に引っ掛かったという点では同じというのも、なんだかちょっと楽しい感じがしますね。

「ぺトルーシュカ」、これも本当に見事な演奏。作曲者自身が振っているから説得力があって当たり前、というのはやはり違うと思います。これだけのポリリズムの饗宴を正しく再現するスキルというのは、一朝一夕に身につくものではないと思います。むしろ後世の指揮者達が、荒ぶるポリリズムの氾濫にやすりをかけ表面を滑らかにしていく傾向があるように思われるのに対して、この演奏の特徴はそのぶつかりあい、もつれ合うリズムを強調、というか整理しないままで放り出すようなアプローチにあります。こう言うとまたしても、「その整理のしなさ加減が、いわゆる無骨とかヘタとか言われる所以じゃないのか?」と訝る方もおられるかもしれませんが、それは違う。指揮者の頭のなかにはきっと進む速度がそれぞれ異なる時計が3つくらいあって、混沌とは明らかに異なる明晰さでさまざまなリズムもテンポも異なる対位旋律が歌われ、音楽が進んでいきます。オーケストラの各楽器の音色は、火の鳥同様ギトギトした原色志向。ここに聴かれるのは歳をとって丸くなった老人の音楽ではなく、1911年当時の(アンファンテリブルというには少し歳をとりすぎているがまだまだ若い)作曲者自身の姿です。これは本当に、若き日の自作を一つの客体として完全に手中に納めた者だけに可能な表現だと思います。ちなみにこの演奏、CDを収めた紙ジャケには1911年版と記載されていますが、あれこれブログ探索していると1947年版の間違いとの指摘もありました。私はぺトルーシュカに関しても版の問題について詳しくないので何とも言えませんが、本当にネットの世界にはすごいマニアがうようよいますね。ブルックナー同様版がいろいろあるというのはある意味マニア心をくすぐり、薀蓄合戦もまた楽しからずや、というのも良く判ります。楽譜がもうすこし安くて版違いの入手が容易であれば私も参戦したいと思うけれどなかなかそうもいかない、というのが実情です。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2011-11-05 20:11 | CD・DVD試聴記
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