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ストラヴィンスキー 「兵士の物語」 作曲者指揮コロンビア室内アンサンブル(その3)

前の職場の現場にいた、コワモテ・スキンヘッドのバルキーな大男。ある日出張(黒の背広、どうみても堅気ではない)で淀屋橋から枚方まで京阪電車に乗っていて、三つくらい離れた吊革に両手をいれたところ抜けなくなった。電車はそのまま枚方を通過して終着駅の京都河原町。捕獲されたゴリラ状態で、怪訝な顔で下車する乗客を全員見送った後、駅員に「お客さん、何してまんねん?」と爆笑されながら開放してもらいましたとさ。




この連載のその2で、練習番号4まで詳細な音楽構造を分析しました。その結果、pseudo-tonalな部分とpolytonalな部分の交代が見られること、非常に特徴的な音形figure1とfigure2を確認しました。練習番号5から暫くの間、イ長調とコントラバスのト調とのpolytonalな音楽にfigure1と2がヴァイオリンを含む各楽器に受け渡され、練習番号8からはバス・ドラムとスネア・ドラム、タンバリンも参加しておもちゃ箱をひっくり返したような賑やかなイ長調の音楽が繰り広げられます。コントラバスの刻みと語りの後、練習番号10からはpseudo-tonalな音楽と打楽器が同様に賑やかに続きます。譜例は練習番号11から12のコルネットとトロンボーンのパートです。
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もう音程の詳細を書く必要はないと思います。ここではコントラバスのG-Dの刻みの他は調性を感じさせないようコルネットの旋律は捻りを加えられ、トロンボーンは3度の連続を避けつつディアトニックな進行に逆らうように後付けされているのは明らかです。練習番号10からの打楽器のパートも面白いので譜例を挙げておきます。
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ヘ音記号は気にしないでください。一番下のGがバス・ドラム、Dがスネア・ドラム、Aがタンバリンです。聴いていると関節が外れそうな乱れっぷりですが、よく見ると最初の八分休符を挟む4つの音からなるグループ(これをaとします)、次の休符を挟まない6つの音からなるグループ(b)、同じセットがもう一度、そして次の休符を挟む6音からなるグループ(c)から出来ています。練習番号12までの打楽器パートを図示すると、a-b-b-c-c-b-b-c-c-b-bという順に並んでいます。これがいわゆる「制御された混乱」です。短い部分ですからすぐにも構造が判りますが、ブーレーズが「春の祭典」の精緻な分析で発見した数学的な秩序も同様のものだと考えて良いと思います。だからどうした、と訊かれると困りますが、聴く者に生理的快感を与える、この一見暴力的なリズムにも実は単純な、ある意味経済的な原理が隠されているのは非常に興味深いことだと思われます。この後、行進曲は弦の刻みとファゴットのソロに乗せて語りが入り、短いコーダを全員(と言っても7人ですが)が奏して終わります。行進曲全曲の管楽器パートの構造を練習番号毎にまとめると下表のようになります。
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またしても「だからどうした?」と言う声が聞こえてきそうですが、これらの要素の組み合わせ、配列の妙、これを私の耳は洗練と受け止めます。本当にごく僅かな要素からこれでもか、というくらい豊穣な音楽が組み立てられています。私は要素という言葉を用いて動機という言葉を排していますが、動機はしばしば対立する二つの主題を生成し、その対立を経て止揚に至るという弁証法的な展開を辿るのに対し、ストラヴィンスキー(そして恐らくはラヴェル)のメチエは、要素間の矛盾や対立を生成原理とするのではなく、その組合せによってシニフィアンの鎖、連鎖構造を形作っていくものであると思います。これは判りにくい表現でしょうか。適当な喩えがなくて恐縮ですが、フロイトの「鼠男の症例」を読まれた方は、この患者の強迫神経症がまさにシニフィアンの連鎖が結晶化した「作品」であるという見方に理解を示して頂けるものと思いますが、ある種の音楽家にあってはこのシニフィアンの結晶は文字通り音楽作品という形を取ります。私がストラヴィンスキーとラヴェルを同列に論じた際に、その作品の響きをガラス質とか非人間的と評したのも理由のないことではないと思っている所以です。一方でドイツ流の作曲技法における動機はシニフィアンのレベルにありますが、主題はシーニュのレベルにあり、展開はいわばシニフィアンの交換という捉え方が出来ます。このような生成原理には人は必ずやシニフィエのにおいを嗅ぎとり、主題に「意味」を見出そうとしますが、結晶化したシニフィアンに対しては意味を見出すことは不可能です。いや私は、ストラヴィンスキーやラヴェルの作品に見られる構成原理がドイツ流のそれとは如何にも異質であり、彼らの作品に「意味」を見出そうとするのは全く無益なことだと言いたかっただけなのですが、この喩え話では牽強付会の誹りは免れないかも知れませんね。
私はいずれの構成原理がより優れているか、といった比較は有益な議論ではないと思っていますが、世間では「意味」のある音楽をもって良しとする風潮は幾らかあるのではないでしょうか。ああこれは悲しみの音楽だ、とかこれは歓喜だとか。「意味」のない音楽というと一段下みたいな。ラヴェルの作品を「工芸品」に例える類の言説が典型的なものですね。この問題についてはいずれ機会を改めて、もっとたくさん例証も挙げながら再考してみたいと思います。

ミクロな分析からこの作品のメチエが判るかと思いきや、結局のところ「天才の謎」としか名付けようのない闇をさまよったままです。学生の頃にブーレーズ指揮アンサンブル・アンテルコンタンポランのフランス語版を聴いてから既に30年近く、何度も何度も聴いてきてこの体たらく。この項続くのかどうか、私も判らないけれど、この作品の終わり近くに出てくる「小コラール」「大コラール」の和声構造については少し日を置いて挑戦してみたいと思っています。
(この項続く?)
by nekomatalistener | 2011-10-29 15:52 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)
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