人気ブログランキング |
<< ヤナーチェク 「利口な女狐の物... ヤナーチェク 「利口な女狐の物... >>

新国立劇場公演 ヴェルディ 「イル・トロヴァトーレ」

多分その名を知らない人はいない大会社の重役さんと、メールで「薬師丸ひろ子」ネタで笑い興じる。
ふと思い立って、yahoo検索で"薬師丸ひろ子顔負けの演技"という言葉でサーチしたら何と1件ヒット、しかも「ミイラの作り方」について書いたサイト。めまいがする。




8日に新国立劇場に「イル・トロヴァトーレ」を観に行って来ました。

  指揮 ピエトロ・リッツォ
  演出 ウルリッヒ・ペータース
  レオノーラ・・・タマール・イヴェーリ
  マンリーコ・・・ヴァルテル・フラッカーロ
  ルーナ伯爵・・・ヴィットリオ・ヴィテッリ
  アズチェーナ・・・アンドレア・ウルブリッヒ
  フェルランド・・・妻屋秀和
  合唱 新国立劇場合唱団(合唱指揮 三澤洋史)
  東京フィルハーモニー交響楽団

もともとレオノーラを歌うことになっていたタケシャ・メシェ・キザールが体調不良で降板し、タマール・イヴェーリが代役。この人、以前新国立の「オテロ」でデズデモナを歌ってた人です。ソプラノ・リリコとしてはすごく良い歌手です。「オテロ」のデズデモナの舞台は本当に素晴らしくて、私は最後のアヴェ・マリアを歌うところで涙を禁じ得ませんでした。でもレオノーラはただのリリコではなく、リリコ・スピントの役柄。第1部のアリアのアジリタが全然歌えていないのはちょっと厳しいですね。その部分以外は、声もよく出ていて良いソプラノだと思いましたが、少しお疲れ気味なのか後半音程が下がり気味(ほんの僅かですが)。いずれにしても、レオノーラ(に限らず初期から中期にかけてのヴェルディ・ソプラノ)の役柄の難しさ、苛酷なアジリタの要求を満たしつつ、あくまでリリコでなければならない、という困難を痛感します。
マンリーコのヴァルテル・フラッカーロ、久々にイタリアオペラらしいテノールを聴きました(脳天気という側面も含めて)。ただ、音程が上振れしすぎ。声質はとてもいいので惜しいと思います。第2部のアズチェーナとの二重唱のカデンツァ、音程が狂うってなレベルじゃない。ほとんど事故レベル。もうこれは無かったことにしよう、と思いました(笑)。残念なのは、後半になって声はどんどん良くなっていき、音程はどんどん上がり気味、という法華の太鼓暴走バージョン。第3部のお約束のハイCは、合唱のストレッタを突き抜けてくるほどの力はなくてちょっと不発気味。貴重なイタリアオペラのテノールですから、これから精進して再来日してほしいですね。
アズチェーナのアンドレア・ウルブリッヒはとても良かったです。ヴェルディのメゾソプラノに絶対必要な邪悪さも十分。マンリーコに引っ張られて音程の悪いところもありましたが概ね立派な歌唱。
ルーナ伯爵のヴィットリオ・ヴィテッリは、声も見た目も良くて、過不足のない役作り。
主役4人については、以上のとおり、惜しいところもありますが、特段スター歌手を集めた訳でもなくてこのレベル、というのは実は物凄いことなのではないか、と思います。だって、メトやスカラでさえ、脇役のすみずみまで歌手を揃えて、というのは最近ではもうありえないのでしょう?オペラの外来公演は国家の威信を掛けてオールスターで、という時代はもう過去のもの、そんな時代に極東の島国でこのレベルの公演が日常的に行なわれているというのは大変なことなのだろうと思います。たまたまというのでなく、新国立は基本こうですから。欲を言えばキリが無いけど、とんでもなく酷い歌手は一人もいない、というのは凄いんだなきっと。
脇役とはいえ、フェルランド役の妻屋秀和、毎度思いますが日本人としては抜群の方じゃないでしょうか。その立派な体躯から出てくる声はまさに日本人離れしています。以前聴いた「ヴォツェック」の医者や「アラベラ」の父親の役など本当に素晴らしいものでした。今回も立派過ぎるくらいのフェルランドを聴きながら、この人ドイツものでもイタリアものでもこうして便利使いされてるけれど、一度新国立でこの人に誰か主役を歌わせてくれないか、と思いました。この人の声に合う主役ってすぐには思いつかないけれどきっと何かあるでしょう?ボーイトの「メフィストーフェレ」とかムソルグスキーの「ホヴァンシチナ」とか何でもいいけど。プロフィールを見ると物凄い数のオペラをやってますね、その大半は脇役なのでしょう。何をやっても上手いから却ってもったいないといつも思ってしまいます。ほんと新国立さん考えてあげてよ。

三澤洋史率いる合唱団はいつものことながら本当に上手い、プロらしい集団です。安心して聴けますし、今回の第3部の兵士の合唱など男声ばかりでも全然素人っぽさがないのはさすがです。
最後に東フィルを振ったピエトロ・リッツォですが、アゴーギクがところどころおかしい、というか、ソステヌートのつもりが単にがくっとテンポが落ちただけみたいに聞こえる箇所が数箇所ありました。この辺は経験の多寡は関係ないはず。厳しい言い方をすると、様式に対する理解度の問題だと思います。でも東フィルはオペラのオケとしては本当に上手いです。このあたりのクオリティの高さ、さすが日本ですね、という感じ。それが音楽的な感動に繋がるかというとえてして直結しないもんなんだが、今回は言うことないです。大したもんです。

さて今回最大の議論の的は演出、それも死の擬人化をどう考えるかということでしょう。私は、第4部で死神が魂の抜け殻のようなレオノーラを抱いてワルツを踊るところ、演出家はこれをやりたくて死神をでずっぱりにしたのだろうか、と考えましたが、それにしても死の舞踏というイメージそのものが陳腐、結局のところ死神は不要だったのでは、と思わせられました。それでも死神を舞台に上げるというのなら、もう少し通俗に堕さないビジュアルがあったような気がします。今回の劇画調の死神と例えばベルイマンの「第七の封印」の死神では、やはり格が違うような気がする。死の擬人化、死の舞踏、これはヨーロッパの14世紀に遡る美学上の大テーマなのですから、これを引用するというのは中世以降のヨーロッパの歴史を背負って、演出家が彼の全存在を賭して行なうというぐらいの覚悟が必要です。また、音楽上の死の舞踏の系譜というのもあって、リストとサン=サーンスが有名ですが、トロヴァトーレにそれへの連想を掻き立てる要素があるかと言えばNoですね。つまり演出家がお話を頭で考えてこねくり回した結果を見せられているのだと思うのです。音楽に死の舞踏のモチーフとリンクする点があって、そこに照準をあてて死神を登場させているのであれば納得もしますが、なんとなくのべつ幕なしに登場というんじゃ、ちょっと安直というか、チープな感じがしました。
死神が出てくること以外は概ねオーソドックスな舞台で、誰にも受け入れられ易いものではないでしょうか。私は変な読み替えとか勘弁してほしいほうなので見易かったと思います。
舞台は青を基調とした照明が美しく、改めて夜の場面の多いオペラだと認識しました。特に修道院の場の、ロマネスク風の交差ヴォールトを背景とした装置は息を呑む美しさです。ここにはさすがに死神も現れまいと思いきや堂々と出てきたのには、演出家の意図を疑ってしまう結果となりました。
これもつまらない指摘かも知れませんが、舞台転換がもたもたし過ぎ。舞台裏でゴトゴトやってる間、なくもがなの解説を字幕で見せるのも興醒め。
繰返しになりますが、なんだかんだ不満を書きながら、殊更特別でもなんでもない公演で、これだけのクオリティというのは本当に新国立劇場が歴史を積み重ね、お客の拍手やらブーイングやらに育てられてここまできたのかなぁという感慨がありました。文句をつけるのも実は楽しみのうち。実際、大いにヴェルディの歌を堪能した一日でした。
by nekomatalistener | 2011-10-10 21:37 | 演奏会レビュー
<< ヤナーチェク 「利口な女狐の物... ヤナーチェク 「利口な女狐の物... >>