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ワーグナー 「ラインの黄金」 びわ湖ホールプロデュースオペラ公演

マクドのポテトの端っことか切れ端がカリカリに揚がってるのがたまに混じってるのって、けっこう幸せ。





仕事の忙しさにかまけてたらあっという間に3週間以上も経過。いろんな方の感想も出尽くした頃に間の抜けたブログ更新ですが、自分の為の備忘として、あれやこれやの記憶が薄まらないうちにメモを書いておこう。

 2017年3月5日@びわ湖ホール
 ワーグナー 「ラインの黄金」
  ヴォータン: 青山貴
  ドンナー: 黒田博
  フロー: 福井敬
  ローゲ: 清水徹太郎
  ファゾルト: 片桐直樹
  ファフナー: ジョン・ハオ
  アルベリヒ: 志村文彦
  ミーメ: 高橋淳
  フリッカ: 谷口睦美
  フライア: 森谷真理
  エルダ: 池田香織
  ヴォークリンデ: 小川里美
  ヴェルグンデ: 森季子
  フロスヒルデ: 中島郁子
  管弦楽: 京都市交響楽団
  指揮: 沼尻竜典
  演出: ミヒャエル・ハンペ


「ラインの黄金」をまともに通して聴くのって久しぶりのような気がします。高校生の頃に「トリスタンとイゾルデ」の毒にあてられてしまい、大学に入った記念に、「ニーベルングの指輪」全曲のベームのバイロイト盤(当時LPレコードで16枚組だったと思う)を買って、浴びるように聴いたのも今は遠い昔。その頃も、「ワルキューレ」以降の3作に比べて、「ラインの黄金」は音楽的に今一つのような気がして、それほど真面目に聴いた記憶がありません。
しかし、今回の公演を聴いて、やはり抜群に面白い音楽であると改めて認識しました。以前このブログで「マイスタージンガー」のいくつかの動機を細かく分析したことがありましたが、この「ラインの黄金」についても一度はそういった作業をしてみたいという気になっています。そんな誘惑に駆られるのも、偏に沼尻の指揮のおかげといえそうです。
沼尻さんの指揮といえば、このブログでは過去プッチーニやコルンゴルト、そして「オランダ人」などを取り上げてきて、いずれもサクサクと進む音楽に何かしら不満めいたものを書いてきました。その指揮の真価に気付いたのは昨年のドニゼッティの時でしたが、今回の「ラインの黄金」の指揮は素晴らしいものであったと思います。冒頭の変ホ長調のコードが延々と続く序曲といえば、混沌から次第になにか形のあるものが浮かび上がってくる、といった演奏が多いと思いますが、沼尻の音楽は常に明晰で混沌の対極にある音楽といった感じ。こまかく動く弦の内声を克明に聴かせて、これほどの大曲の演奏としてはあり得ないほどの精緻な印象を受けました。こういったアプローチは敢えて言えばブーレーズのそれに近いと思いますが、沼尻のほうがより劇場的なセンスがあるというのか、醒めているようでいて、燃焼度が高いというのか、要は長時間飽きずに聴かせるオペラ職人としての技を備えているということでしょう。この人が昔からこうなのか、ここ最近進化を遂げてこうなったのか、数えるほどしか聞いていない私には俄かに判断がつかないけれど、今回の公演に限って言えば、情におぼれない音楽はそのままでありながら、四つの場をつなぐ間奏が文字通り白熱の演奏で、全体として大変メリハリのある強靭な音楽となっていたというのが真相かと思います(それにこたえる京響も素晴らしいものでした)。これから毎年一作ずつ行われる指輪の公演、とても期待できるものになりそうです。

オーケストラはこんなに素晴らしかったのに、全体としての印象がそれほどでもないのは、演出によるところが大きいと思います。ミヒャエル・ハンペのプロジェクションマッピングを駆使した演出については、以前に「さまよえるオランダ人」で絶賛したところですが、今回の場合、ト書き通りになんでもできてしまうが故のPMの限界というものをまざまざと感じたような気がします。確かに冒頭のライン河の水底の場面は大変美しく、水中を舞うラインの乙女の映像と、舞台上で歌う歌手が自然に入れ替わるのも見事というほかなかったのですが、ワルハラ城を望む天上界やアルベリヒとミーメの住む地下世界の描写は、あまりにも表現がト書き通りに過ぎて、どうにも興醒めのする思いでした。少なくとも聴き手の想像力の一切を封じ込めてしまうのは、やはり舞台芸術としてどこか違うのではないかとの疑念をぬぐうことができません。PMの威力を否定するつもりは毛頭ありませんが、この技術の凄さに、観客の想像の余地を残す工夫のようなものが加われば、というのは無い物ねだりでしょうか?

歌手勢は大変充実しており、特に私の観た二日目の公演、ほぼオール日本人キャストでよくぞここまで隙のない布陣を組めたものだと感心した次第。ここまで粒がそろっていると、個別の歌手について云々するのも、技術的にどうこういうよりは個人の好き嫌いの話になってしまいますが、それでも特に印象深い歌い手を記すと、まずはローゲの清水徹太郎。「ジークフリート」のミーメ同様、大変重要な役回りだと思いますが、十分に重責を果たしたといえるのではないでしょうか。そのドイツ語のデクラメーションについて云々する力は私にはないが、とにかく膨大な台詞を伝えるだけで流麗な旋律がまったくないと思われがちなローゲの歌が、音楽としても自律的で魅力あるものとして聞こえたことは強調しておきたい。アルベリヒの志村文彦も、性格的なバリトンとしての表現力が凄いと思いました。楽譜に書かれた音との乖離がどこまで許容できるかという問題はあるのかも知れませんが、オペラが一方で演劇でもあることを改めて感じました。
出番は少ないが、去年「トリスタンとイゾルデ」を聴いた福井敬(フロー)と池田香織(エルダ)のコンビがまたもや素晴らしい歌を聞かせてくれました。「ジークフリート」でのエルダはもう少し出番が長いから、是非とも彼女のエルダを再来年に聴いてみたいものです。
ヴォータンは神としての威厳を強調するか、それとも人間臭さというのか、神であるのに碌でもないことばかりやらかす輩という側面を出すかで表現が大きく変わるのだろう。かつてのホッターなんかを聴いてきたオールドファンの受けはいざ知らず、私はこの後者寄りのヴォータンは悪くないと思いました。
その他すべて割愛するが、どの歌手も誰一人これはちょっと・・という人がいなかったのは大変なことだと思います。できればダブルキャストの両方を聴いておきたかったと思いました(一日目を聴いた方の感想をみていると両日行く値打ちは十分あったようだ)。
「東京・春・音楽祭」では来月いよいよ「神々のたそがれ」公演。関西住まいの身には羨ましい限りだが、関西でも上質なリング上演が始まったことを心から喜びたいと思います。
(この項終り)

by nekomatalistener | 2017-03-28 00:27 | 演奏会レビュー | Comments(2)

ドニゼッティ 「ドン・パスクァーレ」 沼尻竜典オペラセレクション

毎朝ラジオで、
モノタロウ~、モノタロウ~、こうばでつかう~しょーもーひんを、ネットでちゅーもんモ~ノタロウ~
というCMが流れるのが頭にこびりついて離れないのでなんとかしてください。





びわ湖ホールで「ドン・パスクァーレ」を観てきました。

 2016年10月23日@びわ湖ホール
 ドニゼッティ 「ドン・パスクァーレ」
  ドン・パスクァーレ: 牧野正人
  マラテスタ: 須藤慎吾
  エルネスト: アントニーノ・シラグーザ
  ノリーナ: 砂川涼子
  公証人: 柴山秀明
  合唱: びわ湖ホール声楽アンサンブル、藤原歌劇団合唱部
  管弦楽: 日本センチュリー交響楽団
  指揮: 沼尻竜典
  演出: フランチェスコ・ベッロット


ドニゼッティ晩年の喜劇ということで、日本での上演は何かと難しいだろうと思ってましたが、全体としては大健闘といった感じがしました。だが同時にコンメディア・デラルテの末裔たるドタバタ劇で観客を笑わせるのは、日本ではまず不可能ということもよく分かりました。今回の公演では演出にフランチェスコ・ベッロットを招いて、いろいろと工夫の跡も伺えるのだけれど笑いに繋がらない。この7月にブリテンの「真夏の夜の夢」を見て、ルーシー・バージの振付に大笑いしたことを思うと、演出次第でもうちょっと何とかなるような気もするが、イタリアの気候風土の中で生まれたこういった喜劇は、温暖で湿度の高い国では無理なのでしょう。
もちろんドニゼッティの音楽が素晴らしいので、かならずしも笑いは必要ではないという意見もあると思いますが、感傷はほどほどで切り上げてさっさと乾いた音楽に戻っていくこの音楽のスタイルは、やはり舞台で観るなら笑いとセットであってほしいというのが私の無いものねだり。
話のついでで演出から備忘を記すと、舞台はドン・パスクァーレの豪邸の居間。壁にはちょっとくすんだ色合いの巨大な絵画がびっしりと飾られ、ギリシャ風の彫刻やソファなどの調度が設えられている。ノリーナがこれらを売り払ってしまうと、それまで重厚な邸宅の居間であった舞台が白々となにもない壁だけのセットになる。最初は正装の執事と召使がうやうやしく出入りしていたのが、後半は何やらいかがわしい連中も交じって賑やかにドタバタを演じる。演出家がドン・パスクァーレの孤独に着目した創意工夫はよく分かるのだが、肝心の笑いの要素がなければ些末な演出意図だけが独り歩きする感じもする。

歌手では売れっ子のシラグーザを招いたのが何よりの目玉だと思いますが、なにか突き抜けてくるような歌の力というものが少し物足りない。シラグーザをもってしてもアンサンブルとなると全体にこじんまりとした感じがつきまといます。それを承知の上でいうと、ノリーナの砂川涼子が素晴らしいと思いました。リリコが身上の歌手だと思うけれど抜群のアジリタのテクニックを持っているので今回の役まわりはぴったりだと思います。アジリタだけでなく、声に強い芯がある歌い手なので、しおらしい修道女から蓮っ葉な女に豹変してからの声質が更に役柄との一体感を感じさせます。終幕のロッシーニ風のロンドはお見事の一言。
シラグーザは、ロッシーニならいざ知らず、どうもドニゼッティでは声が脳天気すぎて殊更薄っぺらい男に聞こえてしまうのがどうも好きになれません。以前聴いたネモリーノ(愛の妙薬)なら、それでも観客の涙を絞る美しいカヴァティーナを堪能できて多少のことはどうでもよくなるのですが、ドン・パスクァーレではカヴァティーナもセレナーデも随分あっさりとしているので(それが晩年のドニゼッティの様式なのでしょうが)、物足りなさだけが残るといったところ。それでもこの人がアンサンブルに入ると俄然音楽が引き締まるのはさすがだと思いました。
マラテスタの須藤慎吾、脇役ですがバリトン歌手としてはアジリタがきちんと歌えていて気持ちが良い。ロッシーニのブッフォ歌手でもなかなかこうは歌えないのじゃなかろうか。タイトル・ロールの牧野正人はオーケストラより一歩飛び出す癖があって、ソロもアンサンブルもちょっとハラハラする。まぁイタリアの歌劇場のライブなどを聴いても、ブッフォのバス・バリトン歌手なんかこんなもん、という気もするが、せっかくのアンサンブルなのにもったいないと思う瞬間が多々ありました。マラテスタと聴き比べると、やはりなんだかんだ言っても技術があってこそ、と思います。
合同編成の合唱もなかなかのレベル。お話としてはあってもなくても一向に構わない役回りだが、だからこそ高レベルの演奏で聴くと尚更贅沢感が出るというもの。

今回の公演の立役者は実は沼尻の指揮だと考えています。プッチーニやコルンゴルトだと、泣かせてほしいところでサクサクと進んでいくので物足りない思いをしてきたのですが、こういう喜劇に思いのほか適性があったのかと驚きました。序曲からして、カラッとして粘らないのに絶妙なアゴーギグが効いていて、これぞドニゼッティ、と嬉しくなります。アンサンブルの推進力も見事。例によってカヴァティーナは良くも悪くも情に流されないものですが、この作品の性格にはむしろ向いている。エルネストのカヴァティーナなど、さあこれから、と思った瞬間にぷいっと喜劇の音楽に戻る瞬間が堪りません。大げさに言えば、こういった書法というのはヴェルディの「ファルスタッフ」第3幕のフェントンのカヴァティーナ、あの涙腺が緩みそうになる瞬間にもう終わってしまう変わり身の早さと共通するところがあるようにも思えます。ドニゼッティとヴェルディの格の差こそあれど、一生をオペラに捧げた人生の果てにたどり着いた境地といえなくもない。私はドニゼッティについて、世間で思われているよりずっと偉大なオペラ作曲家だと思っているけれど、改めてそんなことに気づかせてくれたのは今回の指揮の大きな成果じゃなかろうかと思っています。センチュリーも実に結構。多少のデコボコはあっても来て良かったと思える公演でした。
(この項終り)


by nekomatalistener | 2016-10-26 00:06 | 演奏会レビュー | Comments(0)

ワーグナー「さまよえるオランダ人」 びわ湖ホールプロデュースオペラ公演

プリッツCMのロシアン、小栗旬に化けてたくせに子猫すぎると家人から不評。





びわ湖ホールで久々のワーグナー。歌手や指揮に若干の不満があって感動とまでは行きませんでしたが、それでも全体としてはなかなかの好演でした。

 2016年3月5日@びわ湖ホール
 ワーグナー さまよえるオランダ人
 
  オランダ人: 青山貴    
  ダーラント: 妻屋秀和   
  ゼンタ: 橋爪ゆか  
  エリック: 福井敬  
  マリー: 小山由美   
  舵手: 清水徹太郎
  合唱: 二期会合唱団・新国立劇場合唱団・藤原歌劇団合唱部
  指揮: 沼尻竜典
  管弦楽: 京都市交響楽団
  演出: ミヒャエル・ハンペ

ダブルキャストで二日公演。もったいない感じがするが、空席の多さをみると興行的にはかなり苦しいのでしょうね。プロモーション次第でもう少しなんとかなるような気もしますが。
私は昨年の二期会の「ダナエの愛」でミダス王を歌った福井敬をもう一度聴きたいと思い、彼がエリックを歌う5日の方を選びました。しかし今回の公演で何よりも驚いたのはミヒャエル・ハンペの演出。
プロジェクション・マッピングを駆使した演出なのだが、この分野での技術の進歩には目を見張るものがありました。一昔前であれば、どうしても舞台のセットと映像の間に段差があったと思うのだが、今やバーチャルとリアルの継ぎ目が殆ど感じられないのですね。帆船の艫に見立てた大道具は超が附くほどリアルに作りこまれており、背景には嵐の海と不気味に流れる黒雲。そこに音もなく物凄い実在感で迫りくるオランダ船。その威圧感というのはちょっと信じがたいほど。だが何より驚愕したのは、第1幕が終わって映像が溶暗したかと思うと、今度はダーラントの家の作業場のような映像になり、艫かと思われたセットに暖色系の照明が当たると一瞬の内に女達が糸を紡ぐ屋内の場面に変わる。その映像の質感や奥行き感というのも凄いけれど、単に人を驚かすだけでなくてまるで17世紀ネーデルラントの写実的な絵画のような美しさと格調が感じられます。このあたりがハンペという人の凄いところで、舞台の隅々までヨーロッパ知識人としての教養が感じられます。CGを使えばどんなに無茶なト書きであっても、何でも出来てしまうので、却って演出とは何かという根源的な問いを禁じ得ないのだが、今回の演出には素直に「さすがはハンペ」と感心しました。
演出に関して附言すると、第1幕の終わりから終幕まで舞台の中央で眠りこけている若い船乗り、もう途中でネタバレしているのだが要はこの船乗りの夢でしたというオチについて賛否両論あるようだ。私は以前にも書いた通り、筋金入りのミソジニストたるワーグナーがとってつけたような「愛の救済」なるものを信じていないので、ノルウェー船の船乗りたちだけが朝焼けの舞台に残るこの「夢オチ」は悪くないと思いました。それに、この芝居の中でリアルな世界は船の上だけというコンセプトは、やけにマッチョなワーグナーの音楽とも違和感がない。
さらに附言すると、今回全幕切れ目なしで一気に演奏したのも、このプロジェクション・マッピングの威力を最大限活用できるからだろう。聴く側からすれば2時間半休憩なしは辛いところだが、場面転換の見事さはやはり見どころではあります。

先に書いた通り、今回のお目当てはエリックを歌った福井敬だったわけですが、声量もずば抜けているし思い切りの良さもあるのだが全体として少し雑な感じがしました。しがない猟師の役だが、単純なようでいて実は小心だったり小狡かったり、もっと陰影のある役なので勢いだけでは御しがたいのでしょうか。これと比べたらミダス王の方がはるかに直情的な役どころではありました。
今回最も優れた歌を聞かせてくれたのはダーラントを歌った妻屋秀和。バス役ならどんな役でも高いクオリティで歌えてしまうので器用貧乏みたいに思える時もあるが、これは声質からいっても天賦の体軀からみても当たり役だと思います。オランダ人の青山貴も悪くはないのだがところどころ音程が甘い感じ。前に新国立で聴いたときの歌手もこんな感じだったので歌いにくい役なのかも知れません。ゼンタの橋爪ゆかは、最初もう少し声量が欲しくてもどかしい感じでしたが後半はいい感じ。吼えずに丁寧に聴かせるところは良いが、もっとグラマラスな声をこの役には期待してしまいます。マリーと舵手についてはしっかりした歌手が脇を固めているなぁという印象。
合唱は新国立劇場・二期会・藤原歌劇団の合同出張ということで大変結構。幽霊船の船乗りの合唱はPAでなく本物(笑)が出てきて歌う。当たり前のことだと思うが最近ではこれが贅沢なんだそうである。この船乗り達は蛸だか烏賊だかの怪物のような恰好なのだが、「パイレーツ・オブ・カリビアン」みたいだなんて言ったらハンペ先生に怒られそう。
沼尻竜典指揮する京響は大変レベルの高い演奏でした。あまり情に流されない彼の指揮は、このマッチョな楽劇には打ってつけ。だが、細かいことをあげつらうようだが第1幕のオランダ人とダーラントの実に下世話な二重唱がト長調で終始すると見せかけていきなりヘ調の属七になり、舵手がSüdwind!Südwind!と叫ぶ場面、ほとんど世界観の断絶といってもよさそうなこの場面で何事もなかったかのように音楽がサクサク進むのはどうなのか。偶々好きな場面なのでこんなことを書くのだけれど、こんな細部の処理が一事が万事で真の感動に至らない要因だとすれば、やはりもったいない話だと思います。もっと感動を!体の震える程の感動を!と思ってしまいます。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2016-03-08 23:09 | 演奏会レビュー | Comments(0)

コルンゴルト 「死の都」 びわ湖ホール公演

【やっぱこっち~】
①コロプラ社のスマホゲーム「軍勢RPG蒼の三国志」のTVCMで、気まぐれ軍師たんが呟き兵士たちが復唱して叫ぶことば。
②ゴーチ&ガッキーネタに飽きてきたマスコミが最近雲行きのおかしい小●方さんのほうを見て叫ぶことば。参照→祭り。炎上。





びわ湖ホールでオペラ鑑賞。アクセスは悪いが、劇場内のラウンジから望む冬枯れの湖畔の景色はなかなか素晴らしくて、関西の文化的地盤沈下ぶりを嘆いていたのが少し癒された思いがします。

   2014年3月9日びわ湖ホール
   パウル:  山本康寛
   マリー/マリエッタ: 飯田みち代
   フランク: 黒田 博
   ブリギッタ: 池田香織
   ユリエッテ: 中嶋康子
   ルシエンヌ: 小林久美子
   ガストン: 羽山晃生
   フリッツ: 晴 雅彦
   ヴィクトリン: 二塚直紀
   アルベルト伯爵: 与儀 巧
   指揮: 沼尻竜典
   演出: 栗山昌良
   管弦楽: 京都市交響楽団
   合唱: びわ湖ホール声楽アンサンブル
   児童合唱: 大津児童合唱団


今回の公演、いろいろと残念な点は多々あれど、これだけ充実した舞台がたった2日の公演でおしまいとは、なんとも勿体無い話。しかし、日曜のマチネでもかなりの空席が目立つのではそもそも興業として成り立たないのだろう。過去のびわ湖ホールがプロデュースしてきたオペラのラインナップを眺めていると、本当によく頑張っていると思う(だって、東京ですらツェムリンスキーやベルクのオペラをそうそう観ることはできません)けれども、なんといっても関東に比べて集客力がないのは如何ともしがたい。今後このレベルの公演がいつまで続くのか、若干暗澹たる気分にならざるを得ないですが、頑張ってほしいものです。
充実した舞台、と書きましたが、内容を個々に見ていくと問題も多く、結果として満足というにはかなり物足らない舞台ではありました。マリエッタ&マリーの亡霊を歌った飯田みち代は肌理の細かい美声で、劇的であるよりは抒情的、グラマラスであるよりは知性の勝った歌い方。そのおかげで第1幕は理想的なマリエッタかと思いましたが、第2幕以降になると、その表現の知性と上品さが災いするのか、どうにも物足らなくなります。以前からこの歌手をよくご存じの方に聴くと、数年前の「ルル」のタイトルロールは素晴らしかったそうですが、同じファムファタール系の役柄でもルルとは違い、マリエッタ自体にはあまり奥行がなく、単に素性の悪い女という感じがします(その点、ルルはたとえ素性が悪くとも、娼婦に身をやつしても、最後まで天使みたいなところのある役柄)。このマリエッタを皮相的にならずに歌うには一定の下品さがほしいところ。同じ歌手がマリエッタの下品さとマリーの亡霊の品格のある悲しみの両方を歌わなければならないところがこの役の難しいところだと思いますが、飯田の歌唱はマリーと、まだ猫を被っている第1幕のマリエッタには相応しくとも、本性をあらわにしたマリエッタには不向きと言わざるを得ません。このあたり、彼女のパレットの狭さなのか、たまたま今回の役と少し合わなかったせいなのか、私は初めて聴いたのでなんとも判りかねますが、私の周りには彼女のファンがけっこういますので今後に期待してフォローしてみたいと思います。
パウルを歌った山本康寛についても、これだけの難役をよく歌い切ったと思う反面、あまりにも余裕がなくて聴いていてちょっと辛いと思いました。フォルテで音程が上がる癖も、ここぞというところでたまになら効果的でもあるのでしょうが、のべつ幕なしでは却って平板に聞こえてしまいます。神経質なビブラートはビジュアルも含めた全体の役作りに合わなくもありませんが、コルンゴルトの甘い音楽にはわずかにそぐわなさを感じるのも事実。このテノール殺しみたいな難役に果敢に取り組んだ歌手に対してこんなことはあまり書きたくはないのですが、自分自身の備忘のために感じたことを正直に書いた次第。
脇役では侍女ブリギッタを歌った池田香織が情感に溢れていて非常に優れていたと思います。この人は以前、カヴァレリア・ルスティカーナのルチアを歌っているのを聴いたことがあります。その時はあまり印象になかったのですが今回のブリギッタは素晴らしい歌唱。前から私が目をつけている清水華澄もそうだが、メゾで才能のある歌手というのは派手に人目を惹かないだけに追っかけ甲斐がありますね。フランク役の黒田博も声量があり、役に必要な暖かさもあって大変結構。フリッツ役の晴雅彦はちょっと私には合わない。ピエロの歌は全編の中でも聴きどころの一つなのでもっと甘く、人を誑し込むように歌えないものか。
その他、バレエの一座のアンサンブルと合唱は十分な水準を保っていて文句なし。
沼尻の指揮は、第1幕の「マリエッタの歌」やパウルの幕切れの歌で意外にサクサク進んでいくので何か物足りない。もっと情緒纏綿というか、蜜がゆっくり滴り落ちるような演奏で聴きたいと思いました。その点、以前この人の指揮で「トスカ」を聴いたとき感じた不満を今回も感じました。その他の部分は精密さもあり、マッスとしての音圧も十分あって大変なクオリティだと思いますが、第2幕4場と第3幕2場の、パウルとマリエッタの対決でやや冗漫さを感じさせたのがちょっと不思議。何が足りないのかうまく言葉にできませんが、指揮者の所為というよりは歌手やオケの団員も含めた皆の、様式への距離感のようなものとしか言いようがありません。余談だが、第2幕のマイアベーア「悪魔のロベール」の引用がなぜかカット。その他はほぼカットなし(だと思う。私の聴いていたヴァイグレ指揮のCDでカットされていた部分がほとんどすべて再現されていた)なのになぜここだけカット?何か理由があるんだろうがそれを知る手立てはあるのだろうか?
栗山昌良の演出の狙いとするところについては正直なところ私にはよく判りませんでした。何と言って読み替えの要素はないものの、わずかな例外を除いて歌手が正面を向いて直立して歌う。演出家の御歳から想像するに、60年代のヌーヴェルヴァーグの映画のような、例えばミケランジェロ・アントニオーニの描く「愛の不毛」とかいったもの、あるいはアラン・ロブ=グリエとアラン・レネの「去年マリエンバードで」のようなコミュニケーションの不在を連想しましたがどうでしょうか。ただ、申し訳ないが私は愛の不毛でもなんでもいいが、このオペラでそういったものを描くのってどうなのだろうと違和感を持ちます。それは単に、このオペラが舞台形式では日本初演、大半の聴衆にとって馴染の薄い作品、ということではなくて、ありていにいえばそんな凝った読み解きが必要なご大層なオペラじゃないと思うから。以前も書いたとおり、ローデンバックの原作の上辺だけを骨格に作曲者のパパが書いたくだらない夢落ちの物語に、23歳の息子が器用にR.シュトラウスの「影のない女」とカールマン風オペレッタをつなぎ合わせた基本甘ったるい音楽ですよ。聴衆としては第1幕の「マリエッタの歌」と最後のパウルのモノローグで泣かせてくれたらそれで十分だと思う。それ以上の深読みは要らないんだがなぁ。ただ、この演出、舞台のそこここからよく考えられ、練り上げられたものだけがもつ重みが伝わるので、決して思い付きのレベルではないのだと思います。軽々に否定的な物言いを憚られることは書き添えておきたいと思います。
私自身のこの作品に対するアンビヴァレントな見方のせいもあって、あれこれ批判的なことを書きましたが、関西でこれだけの舞台を観ることができるのはありがたく素晴らしいことです。実際、パウルが歌い終わってからの後奏の素晴らしさには胸を締め付けられる思いがしました。わずか11小節の間にパウルが後ろ髪を引かれる思いで舞台を去り、侍女ブリギッタが舞台に置かれていた燭台を手に取ってしずしずと退く演出も秀逸。もうこの場面を観て聴いただけで十分ではないか、とも思います。今シーズン、新国立劇場もこのオペラを取り上げているが、このあと日本でこのオペラを聴く機会はそうそうあるまい。次に聴くときにはもっと演奏者がこの音楽の様式を知悉し、こなれた演出で上演されることだろう、その時を楽しみに待ちたいと思います。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2014-03-10 22:22 | 演奏会レビュー | Comments(4)