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新国立劇場公演 ヤナーチェク 「イェヌーファ」 

大手企業で運動会など再評価 一体感醸成に効果「リアルな交流できる」
SankeiBiz 2月18日(木)8時15分配信
・・・・・
うそつけ。




新国立劇場初登場のヤナーチェク。正直なところ直前まで行くのを迷っていたのですが、友人の「一生後悔するよ」というメールで急遽楽日を観ることに。これは観ておいてよかった。

 2016年3月11日@新国立劇場
  ブリヤ家の女主人: ハンナ・シュヴァルツ
  ラツァ・クレメニュ: ヴィル・ハルトマン
  シュテヴァ・ブリヤ: ジャンルカ・ザンピエーリ
  コステルニチカ: ジェニファー・ラーモア
  イェヌーファ: ミヒャエラ・カウネ
  粉屋の親方: 萩原 潤
  村長: 志村文彦
  村長夫人: 与田朝子
  カロルカ: 針生美智子
  羊飼いの女: 鵜木絵里
  バレナ: 小泉詠子
  ヤノ: 吉原圭子

  指揮: トマーシュ・ハヌス
  演出: クリストフ・ロイ
  合唱指揮: 冨平恭平
  合唱: 新国立劇場合唱団
  管弦楽: 東京交響楽団


ヤナーチェクの音楽を聴くと、その独自性にいつも驚いてしまいます。質実剛健というか無骨な手触り、洗練というのとは全く違うが恐るべき完成度。過去のどんな音楽にも似ていない(少なくともどんな先行者がいたのかよく分からない)という点で、ムソルグスキーと並び立つ天才であると思います(ムソルグスキーの場合はダルゴムイシスキーが一応先行者ということでいいのだろうか)。
この「イェヌーファ」にしても、耳で聴くだけでは垢抜けない感じがしなくもないのですが、舞台で観るとその音楽と演劇との緊密な結びつきに驚嘆することになります。特に第2幕終結部の身を突き刺すような金管の扱い方や、第3幕の終わりの、カメラがパンして大きく視界が拓けるような音楽は、舞台と合わさることで物凄い威力を放っていました。
それよりなにより、どうしようもない登場人物ばかり出てくるこのオペラを貫く、ヤナーチェクの慈愛としか言いようのない暖かな視線には殆どたじろぐ思いがします。屑の中の屑であるステヴァだけでなく、他の登場人物だって多かれ少なかれろくでもない連中ばかりなのだが、ヤナーチェクは彼らに些かも下卑た歌を歌わせない。その真摯な音楽はモラヴィアの田舎の愛憎劇を人間の根源的な悲劇にまで昇華する。ヒューマニズムという言葉は手垢が付き過ぎて普段まず使わない言葉だが、ヤナーチェクの音楽に底流するものこそ、真のヒューマニズムだと言っても過言ではないような気がします。

今回の公演、私は新国立劇場の過去の公演の中でもトップクラスだと思いますが、まず主役級の歌手達が本当に素晴らしかった。特に、ラツァを歌ったヴィル・ハルトマンとコステルニチカを歌ったジェニファー・ラーモアはこの作品の上演史に残るだろうと思います。とりわけハルトマンは、まさにラツァを歌うために生まれてきたのではないかとすら思う(こんな感想は2012年「ピーター・グライムズ」の時のスチュアート・スケルトン以来かもしれない)。ハンナ・シュヴァルツも凄い。1943年生まれで、今回の日本公演では同時に「サロメ」のヘロディアスも歌うというから正にバケモノ。もちろんイェヌーファのミヒャエラ・カウネ、シュテヴァのジャンルカ・ザンピエーリも言うことなし。脇役を固める日本勢は、難しいチェコ語(モラヴィア方言)のオペラということで大変だったと思うのだが、これといって穴がないのは大したものだと思いました。
トマーシュ・ハヌス指揮東京交響楽団の演奏も大変優れたものだったと思います。ツイッターやブログなどぱらぱらと見ていると、概ねこの公演に対しては高評価ながら、海外で幾度か舞台を観た方の中にはやや辛口のものもありました。余りにも演奏がきれいに整理されすぎて、ドラマの生々しさが犠牲になっているとの評価を見ましたが、そのような見方があることは当然のことだろうと思います。ヤナーチェクほどの天才の音楽であれば、演出や歌手の如何によってもっと高いレベルがあり得て当然、これが最高ということはないのでしょう。だが、今後の日本におけるヤナーチェクの受容を考えた場合に、これほど高い水準の好演が新国立劇場という大箱で、多くの人の目に触れたということは大きな意義をもつはず。
これは演出にも言えることであって、今回それが残念ながらレンタルであって再演が望みえないことを残念に思われる向きもあった。だがこれも、レンタルであれ何であれ、とにもかくにも新国立劇場で取り上げられたということが大切なのではないか。その演出はというと、第1幕、オーケストラの序奏の前に、白々とした光に満たされ、机と椅子以外は何の調度もない刑務所の取調室のような部屋に、刑務官がコステルニチカを連れてくるところから始まる。以下はすべてコステルニチカの回想という見立て。この殺風景な白い空間は、ストーリーの進展に連れて、横幅が広がり、奥の壁がスライドして麦畑が見えたり、雪景色が見えたりと変化するが、その高さと奥行はこの劇場のキャパのおそらく半分も使っておらず、それがそのままイェヌーファやコステルニチカをとりまく閉塞的な社会を表している(現代の日本だって、すこし田舎に行けばこのような生き辛い社会はいくらでもみつかるだろう)。人物の動かし方は極めて演劇的で、途中何度も現れるゲネラルパウゼではとてつもない緊張を強いられます。登場人物は、第1幕でラツァが吊りズボンにアンダーシャツ一枚という野良着姿であるほかは皆現代風のファッション、ラツァも2幕以降はスーツを着ている。イェヌーファは最初深紅のワンピースで出てくるが終幕はごく地味な黒の衣装。このあたり、それぞれに意味があるのだろうがよく分かっていないので割愛。決して伝統的とも言い切れない舞台であるのに、観終わると深い充足感を感じます。

今回の公演に関して、特にツイッターで絶賛の嵐になり、最初の内興行的には苦戦していたようだが、私が観た楽日はまずまずの客の入りであったように思います。新国立劇場の客層は比較的保守的だとしても、その内容次第でこうしてマイナーなレパートリーであっても客が入るということは実に心強いことだ。来シーズンの新国立劇場の目を覆うばかりの陳腐なラインナップには心底がっかりしたが、関係者には今回の成功事例をよく分析していただきたいものです。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2016-03-14 22:29 | 演奏会レビュー | Comments(2)

新国立劇場公演 R.シュトラウス 「アラベラ」

会社関係のメールのタイトルに「御礼」とあるのを「割礼」と空目。重症。





関西転勤後、ひさしぶりの新国立劇場。「アラベラ」はやっぱり泣けるオペラです。

  2014年5月31日
  アラベラ: アンナ・ガブラー
  ズデンカ: アニヤ=ニーナ・バーマン
  マンドリカ: ヴォルフガング・コッホ
  マッテオ: マルティン・ニーヴァル
  ヴァルトナー伯爵: 妻屋秀和
  アデライーデ: 竹本節子
  エレメル伯爵: 望月哲也
  ドミニク伯爵: 萩原潤
  ラモラル伯爵: 大久保光哉
  フィアカミッリ: 安井陽子
  占い師: 与田朝子
  指揮: ベルトラン・ド・ビリー
  演出・美術・照明: フィリップ・アルロー
  合唱: 新国立劇場合唱団
  管弦楽: 東京フィルハーモニー交響楽団

この美しいプロダクションを観るのは2010年に引き続いて2回目。その時も、どうしてこんなに感動してしまうのか、と訝しい思いをしましたが、今回も第3幕、ズデンカの登場とともに全ての誤解が解けるにつれて涙腺が壊れてしまいました。でも冷静に考えると、物語としては何となく「ばらの騎士」の二番煎じ(実際には大して重複するプロットは無いのだけれど)、音楽としても「ばらの騎士」ほど官能的でもなく、「アリアドネ」ほど手が込んでいる訳でなく、「カプリッチョ」ほど精妙でもない。むしろお話はベタで野暮ったく、音楽的にも安直というか、いつものシュトラウスの精緻さと比べたら手抜きとさえ言えるのだが、上流階級というには些か品のない人々の悲喜こもごもを描くにはこうでなければならなかったのだろうと思います。この感覚というのは、関西出身の私にとっては正に松竹新喜劇の世界。寛美亡き後、最近は吉本に押されてテレビで見る機会も少ないけれど、私の若い頃は日曜のお昼は松竹・吉本二大新喜劇が勢力拮抗しながら張り合っていたと記憶する。私の年代の関西人は誰も知る通り、松竹のほうは徹底的に客を泣かせるのが売りでした。人生経験の乏しい子供はギャグ満載シモネタ上等の吉本が好きだったが、当時のじっちゃんばぁちゃんはみんな松竹が好きだったんじゃないかな。
つい下らないことを長々と書いてしまいましたが、私が心うごかされるのは例えば次のような場面。
第2幕冒頭の舞踏会。マンドリカとアラベラが初めて会話を交わすというのにマンドリカはよりによって死に別れた前妻の話をする。そういう垢抜けなさが却ってアラベラの心をつかむのだが、この前後の会話、相手をSieと呼びながら問いに対して問いで答えるもってまわった上流階級らしい会話が続くが、マンドリカが辛抱できずにアラベラをduと呼び、あまりにもストレートなマンドリカの求愛にアラベラも思わずduで返事をする。ちょっと冷静になったのち、アラベラはまた呼称をSieに戻して「でも今はもうお帰りになって」とささやく、こちらまで年甲斐もなく胸がときめくような会話。
また、第3幕でアラベラがズデンカに優しく語りかける場面の台詞(「オペラ対訳プロジェクト」より引用)。

  ありがとう。あなたは、とても大事なことを教えてくれた。
  何も望んだり、欲しがったりしちゃいけない。
  比較したり、値踏みしたり、物惜しみしたりしてはいけない。
  常に、与え、愛さねばならないんだわ!

こういった台詞、私はいつか真剣に昔日の船場言葉で訳してみたいと思っています。こんな台詞にリアリティを持たせる日本語はもはや現代の日本にはほとんど残っていないような気がします。
それはともかく、何より美しく、涙なしでは観られないのはラスト近く、騒ぎも収まって皆寝静まった深夜のホテル、アラベラが婚約のしるしの水の入ったグラスを手に大階段を降りてくる場面。音楽は実に単純明快だが、いざ聴き終わってみるととんでもなく豪奢なイメージが残るように書かれている。まったく不思議な音楽と言うほかない。

さて、演奏のほうですが、ひと様のブログを見ていると若干微妙な評価を書いておられる方が多いようだが、私の聴いた31日は概して歌手たちは好調だったのではないでしょうか。とくにズデンカを歌ったアニヤ=ニーナ・バーマンは素晴らしいと思いました。中性的な魅力とはちょっと違うのだが、男の子としての凛々しさと女の子としての可憐さがそれはそれ、これはこれとして並び立っているような、ちょっと比べるもののない声と容姿です。2010年のアグネーテ・ムンク・ラスムッセンが歌ったズデンカの記憶はかなり薄れてきているから、今回のバーマンは大当たりなのだろうと思います。
タイトルロールを歌ったアンナ・ガブラーは、このブログでも「こうもり」のロザリンデ、「ニュルンベルクのマイスタージンガー」のエーヴァを取り上げてきて、なんとも微妙な評を書いたが、今回は悪くないと思います。このアラベラと言う役、奔放なズデンカとの対比でどうしても分別臭い、華のない役になりがちだと思います。その難点を払拭するまでは行きませんが、私はとても良かったと思いました。声のデュナミークが非連続的にいきなり大きくなる癖があるようだが、粗というほどのことでもない。アラベラが、プレゼントの薔薇がマッテオからのものだと判って放り投げる場面(ト書き通りではあるが)や、舞踏会から帰ってきて靴をポーンと脱ぎ捨てたりする場面、2010年の演出がどうだったかあまり記憶がないが、あんまりお上品でないのも松竹新喜劇だと思えば許せる(笑)。
マンドリカのヴォルフガング・コッホも素晴らしい。2010年の時のマンドリカのトーマス・ヨハネス・マイヤーは男前でかっこいい大富豪という感じだったが、コッホはどちらかと言えば野卑な田舎貴族っぷりを強調した歌であり、演技である。見た目もマイヤーよりずっとガチムチ。まぁ好き嫌いはあると思いますが、私は今回の役作りはとても成功していると思います。ちなみにこのコッホという歌手、ヨーロッパではワーグナー歌いとして頭角を現してきているようだが、私のなかではライマンの「リア王」のタイトルロール(フランクフルト歌劇場のライブCD)で強烈な印象を残していますから、思いのほか知的なアプローチの結果としてのマンドリカの表現だと思います。
マッテオを歌ったマルティン・ニーヴァルはちょっと線が細い感じがしますが、オペラの役柄としては違和感はありません。もっと甘く、もうすこし太い声のマッテオも素敵だろうが、悪目立ちしてはいけない役なので、これでいいと思います。
脇を固める日本人勢ではなんといっても妻屋秀和と竹本節子が良いが、占い師や3人の求婚者もそれぞれキャラクターに沿ってよく考え抜かれた表現で歌い演じていたと思います。フィアカミッリの安井陽子のコロラトゥーラは、頑張っているけれどあともう一息、という感じでした。でもこの派手なヨーデルだけで第2幕の最後を引っ張りづつけるのは、ある意味ツェルビネッタよりも困難な歌唱なのかも知れないと思いました。
ベルトラン・ド・ビリーの指揮はガブラーのアラベラの歌唱同様、そんなに華のある感じではないが、この必ずしも精妙とは言えない音楽の柄にはとてもよく合っていたように思います。こういった音楽での東フィルのクオリティはいつものことながら大したものだと思います。
演出については、先にもすこし触れたように、あまりお上品でない演技を歌手につけることで、この物語の設定が没落貴族ではなく退役軍人一家であるという小さな差異(ブルデュー風にいうならディスタンクシオン)を強調して、市井の人情話に一歩近づけているように思います。それがホフマンスタールの意図に適っているかどうかはさておき、筋の通った演出だろうと思います。美術や衣装の美しさについては私が申し述べるまでもないでしょう。本当に素晴らしいプロダクションです。
それにしても、土曜日のマチネだというのに空席が目立ったのはとても残念。これでは新国立のプログラムの保守化がますます進行すると思うと、居てもたってもいられない思いだが、関西住まいではどうしようもない。あと4日の楽日が残ってますのでどなた様もぜひ。
(この項終り
by nekomatalistener | 2014-06-03 00:52 | 演奏会レビュー | Comments(0)

新国立劇場公演 ヴェルディ 「リゴレット」

ホラー映画を途中まで観て、舞台となった森で如何なる惨劇が起こったのか、カンニング竹山といっしょに調べに行く夢を見た(けっこう怖かったです)。




のっけから私事で恐縮ですが、この10月1日付けで関西に転勤となりました。仕事のことはともかく、これからオペラを観る機会が激減すると思うとちょっとブルーな気分です。そんなわけで赴任前の送別会もそこそこに新国立劇場の新シーズンの幕開けを飾る「リゴレット」の初日に行って参りました。

   2013年10月3日
   リゴレット: マルコ・ヴラトーニャ
   ジルダ: エレナ・ゴルシュノヴァ
   マントヴァ公: ウーキュン・キム
   スパラフチーレ: 妻屋秀和
   マッダレーナ: 山下牧子
   モンテローネ伯爵: 谷友博
   ジョヴァンナ: 与田朝子
   指揮: ピエトロ・リッツォ
   演出: アンドレアス・クリーゲンブルク
   合唱指揮: 三澤洋史
   合唱: 新国立劇場合唱団
   管弦楽: 東京フィルハーモニー交響楽団

最近予算縮減の所為なのかどうか、若干プログラムが保守化しているような気がしないでもない新国立劇場ですが、このリゴレットは新制作とのこと。だが、なんというか、前半は人を酔わせない舞台。第1幕と第2幕はホテルだと言うんだが、予備知識なく観てるとなんだかよく判らない。グラサンを掛けた怪しげな男たちと、コールガールのようなこれまた怪しげな女たちが登場し、私は最初、娼館かなにかが舞台なのか、と思いました。ジルダは回り舞台の客室から出てくるので、これは自分が純真無垢な少女だと思い込んでいる頭のおかしい娼婦の幻覚なのか、とも思いましたがそういう訳ではなさそう。第2幕では下着姿の女たちが亡霊のように彷徨い、男たちはそのなかの何人かを弄ぶ。スパラフチーレは通りすがりの客としてバーのカウンターに腰掛け、リゴレットに語りかける。いや、確かに登場人物のどれをとっても酷い連中なのだが、この舞台を観てそういった連中同士の関係性のようなものがいくらかでも明確になったか、といえばノーと言わざるを得ない。第3幕はそのホテルの屋上で、ホームレスのような人々がたむろする殺伐とした光景。これも本来の河畔というイメージが邪魔をして、最初の内ホテルの屋上とは気が付きませんでした。もっとも、トラディショナルな演出でもここは殺風景な場面ですので、これはこれで前半よりは違和感がない。すぐそばに地獄が口をあけて待っているような場所(まさにアンリ・バルビュスの『地獄』そのもの)で、世にも美しい四重唱が歌われるというのもヴェルディ自身が想定していたところでしょう。それにしても、第1幕と第2幕が全く同じセットというからには、享楽の館が一瞬にして悲劇の舞台となる、その移ろいが感じられて然るべきところ、「え、ずっとこのままなの?」という戸惑いしか感じられませんでした。私はいわゆる「読み替え」は、決して好きではないけれども頭から否定はしないつもりですが、これは「読み替え」になっていないのでは、単に時代をいじっただけじゃないか、という思いが最後まで消えませんでした。ちなみに以前、同じ演出家による「ヴォツェック」の舞台を観たことがあるが、こちらはいかにも表現主義的な陰惨極まりないもので、好きにはなれないけれどもそれなりに筋の通ったものでした。それと比較しても、今回のリゴレットは些か読み替えとしては安直な部類かも知れません。
せっかくの新制作の舞台なのにあまり楽しめなかったのですが、歌手はその演出の不満をぶっとばすくらい素晴らしい出来でした。マントヴァ公のウーキュン・キム、どこまでもよく伸びる声、なめらかすぎてプラスチックのようなつるつるした感触がこの役には不思議とよく合っていると思いました。その輝かしさは、最初これはイタリア・オペラの輝かしさとはどこか異質なのでは、とも思いましたが、次第にそんなことはどうでもいいと思わせるような優れた歌唱であったと思います。ただこの歌手、マントヴァ公以外でどんな役が向いているかといわれると、ちょっと考えてしまいます。ヴェルディに限ってもなかなか思い浮かびません。案外、ベルクの「ルル」のアルヴァ役なんてどうでしょうかね?父の愛人で母を殺したルルに跪いて熱烈なアリオーゾを歌うという、ありえない役柄ですが、この人が歌ったらとても合うような気がしました。
ジルダのエレナ・ゴルシュノヴァも素晴らしい歌唱。最初のリゴレットとの二重唱は、いわゆる「お人形さん」タイプかなと思いましたが、これは計算の上なのでしょう。続くマントヴァ公との二重唱では、うってかわって切れば血の出るような歌を歌い、幕を追うごとに聴き手の心に迫ってくるようでした。終盤の瀕死のアリアは、もう不憫で不憫で、あたしゃもう涙でボロボロでした。タイトルロールのマルコ・ヴラトーニャは、この二人と比べると少し弱いと感じましたが、細やかな表情がそれなりに聴かせるので大きな不満はありません。ただ、第3幕の四重唱はちょっと埋もれすぎていたように思います。スパラフチーレの妻屋秀和はさすが。マッダレーナの山下牧子は、蓮っ葉な女の可愛さに溢れていて秀逸。
実は演出にケチをつけながらも、第2幕のリゴレットの「ララ、ララ・・・」あたりから私は恥ずかしながらほとんどハンカチを手放せないほど感動していました。ろくでもない人間ばかり登場するオペラで、これほどまでに人の心を揺り動かすとは、とヴェルディの天才ぶりに改めて感じ入った次第。たとえば第1幕、ジルダとマントヴァ公の二重唱。前半のカヴァティーナで愛を語り、続くカバレッタで抑えきれないほどに逸る心を歌う。音楽の形式と内容がこれほどまでに一体となっているとは、と衝撃すら感じました。第3幕の名高い四重唱も然り。ヴェルディが如何に天才であっても、こうしたアンサンブルで物語が停止してしまう瞬間はあるのだが(例えば「オテロ」のコンチェルタートなど)、この人間心理と一体となった四重唱については間然するところがありません。ヴェルディの傑作といえば、ついつい「オテロ」や「ファルスタッフ」を挙げて、この「リゴレット」なんかは後回しにしてしまいがちなのですが、やはり舞台を観るととんでもない傑作だと思い直しました。
新国立劇場合唱団の素晴らしさはいつも通り。ただ、このオペラの(ろくでもない連中の)合唱は感情移入が一切できない分、記憶にはとどまりにくい感じ。イタリアもののオーケストラには大体厳しめの評が多い私ですが、今回は歌手が優れていたのでそれを邪魔しなければそれでもう十分といった感じがしました。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2013-10-16 01:15 | 演奏会レビュー | Comments(4)

新国立劇場公演 香月修 「夜叉ヶ池」

外国語使い過ぎで精神的苦痛、71歳老人NHK提訴って・・・。裁判所もアレだな、「ちょ・・・おま・・・さすがにそれイミフだわ」とかなんとか言って蹴ったら面白かったのに。




新国立劇場で委嘱新作のお披露目公演に行って参りました。

   2013年6月26日
   白雪: 腰越 満美
   百合: 砂川 涼子
   晃: 西村 悟
   学円: 宮本 益光
   鉱蔵: 妻屋 秀和
   鯉七: 羽山晃生
   弥太兵衛/蟹五郎: 大久保 光哉
   鯰入: 志村 文彦
   万年姥: 森山 京子
   与十/初男: 加茂下 稔
   合唱: 新国立劇場合唱団
   合唱指揮: 三澤 洋史
   児童合唱: 世田谷ジュニア合唱団
   指揮: 十束 尚宏
   演出; 岩田 達宗
   管弦楽: 東京フィルハーモニー交響楽団

新国立からの帰り、電車の中でエアウィーヴ社の広告(マットレスの会社ですね)を見かけましたが、そこには浅田真央と坂東玉三郎のお二人の写真が・・・。そういえば玉三郎はその昔、映画「夜叉ヶ池」で百合と白雪姫の二役を演じていたなぁと思い出しました。これも何かの因縁ですかね?
それは兎も角、今回のオペラ版夜叉ヶ池、大変面白うございました。平日の夜の公演ですが、中劇場の一階はほぼ満席だったのではないでしょうか。例によって客層はオジ・オバ~後期高齢者が9割といったところだが、偶々私の隣に座ったお嬢さんは、第2幕の鯉・蟹・鯰の三重唱でくすくす笑って、幕が下りるとお友達と「おもしろ~い」とお話になっておられました。こちらまで嬉しくなります。昨年の「沈黙」もそうですが、邦人の現代モノとなると、我々聴衆も何となく作曲者やスタッフたちを微力ながら支援しているみたいな気がして、あんまり麗しくも無いパトロン気取りなのかも知れませんが、まぁ悪い気は致しません。

作曲者の香月修氏についてはほぼ全く予備知識なしで聴きましたが、水がテーマだからという訳でもないでしょうが全体にラヴェル風の抒情的な音楽でした。ただ、聴き終えて思ったのは、第1幕がドラマとしても音楽としても少し弱いと感じられること。逆に第2幕はドラマとしても良く出来ているし、音楽的にも非常に聴きごたえがあります。この前後のアンバランスの理由について少し考えてみたい。
まず泉鏡花の原作ですが、構成としては、①百合、晃、学円の対話→②水底の物の怪たちの滑稽な場→③同じく水底の主である白雪姫と眷属らの場→④雨乞いの犠牲を迫る村人と百合達の対決→⑤カタストロフ、という順で物語が展開します。①の部分は原作では全体のほぼ半分を占め、科白主体の対話劇だが、オペラの素材としてはやや平板に過ぎるというもの。対して②~⑤の部分は見た目にも面白く、物語も一気に動き出す感があります。まずは一夜の興行に相応しくほぼ同じ長さのニ幕もの、という構想が先にあったのでしょうが、そうなるとドラマトゥルギーとして②~⑤を前後に分けるというのはあり得ないだろうから、必然的に①の素材を第1幕に宛がうことになります。ところがこの①はオペラ向きの素材とは言い難い。必定、①の科白を大幅に削り、③あるいは④の要素を第1幕にも散りばめ、更には原作にない子役達の場を創造したという訳なのでしょう。しかしそれでも第1幕は些か長過ぎると思われ、しかも①以外の要素がどれもこれも水増ししたようにしか思えない結果となっていました。先に原作を読んでしまっているからそう感じるのかも知れませんが、鏡花の原作の構成はシンプルながらよく出来ていて、下手に弄れば弄るほど冗漫になってしまうように思います。作曲者としては一音符たりとも削れないところでしょうが、もし第1幕がもう少し短ければ、あるいは長めの一幕仕立てであったなら、はたまた前半が対話劇としての面白さを追求するような音楽的スタイルであったなら、もっと引きしまった音楽になったような気がします。不遜な物言いを許してもらえるならば、この作品は改訂版を作るだけの値打はあると思います。
次に、物語を離れて音楽的な要素についてですが、作曲者に拠れば、新国立劇場の尾高監督から「口ずさめるような親しみ易い歌のあるオペラを創りたい」と言われて本作を書いたとのこと。確かに第1幕の音楽は良くも悪くも平易で親しみ易いものでした。そのこと自体は少しも悪いこととは思いませんが、第2幕で最も感動を誘う場面、すなわち百合の自害の場であるとか、白雪の狂乱の場など、どう考えても「口ずさめるような」音楽でもなければ「親しみ易い」音楽でもない。このあたりが現代におけるオペラの在り方の難しさなのでしょう。要は第1幕に比べて、後半第2幕の方が親しみ易い音楽とそうでない音楽のバランスが良かった、ということなのでしょう。ちなみに百合の自害の場は、原作ではごく短い科白しか与えられていないので、かなりの補筆があったようだが、概ね流れを壊さない優れた台詞だったように思います。音楽としても大変良いものでした。また、白雪の科白の中でも最も美しいところ、(白雪)「思いせまって、つい忘れた。・・・・私がこの村を沈めたら、美しい人の生命もあるまい。鐘を撞けば仇だけれども、この家の二人は、嫉ましいが、羨しい。姥、おとなしゅうして、あやかろうな。」(姥)(はらはらと落涙して)「お嬉しゅう存じまする。」の部分の音楽は胸に迫るものでした。

新作初演につき、個々の歌手の巧拙を論っても仕方がないという気もしますが、それにしても砂川涼子の百合は素晴らしかったと思います。前半の楚々とした歌い方もさることながら、自害を前にして、結った髪をほどいて「もう沢山でございます」と歌い始める場面の凄まじいばかりの強さに圧倒されました。ついこの間、魔笛のパミーナを聴いたばかりですが、今回の百合は本当に聴けてよかったと思いました。また、その他の歌手、管弦楽、いずれも不満のない出来栄えであったように思います。
演出については、回り舞台で晃と百合の住む茅屋の辺り、白雪が御座す夜叉ヶ池の水底、村人の集まる人里の石段、最後に鐘楼の沈む淵を次々と見せて秀逸でした。魚や物の怪など白雪の眷族の踊りは、ちょっと野暮ったい感じがするのと、その所作が少し煩いようにも思いましたが、概ね音楽を邪魔するほどではありませんでした。
歌詞が聴き取り易く書かれているとはいえ、基本は大正初期の言葉、歌詞が字幕で流れるのは結構なことです。これがなければ完全に歌詞を聴きとることは困難でしょう。

さて、2012~2013年のシーズンも本作で終了。10月のリゴレットまでしばらくオペラもお預けです。今シーズン最も感銘を受けた公演はなにか。私には何と言っても「ピーター・グライムズ」でした。次いで「ナブッコ」。歌手とオーケストラと演出の全てに満足出来たものといえば以上の2作が他を圧倒していました。来シーズンを楽しみに、しばらくCDなどで未知の作品を聴いたりなど充電します。
(この項終わり)
by nekomatalistener | 2013-06-28 00:03 | 演奏会レビュー | Comments(0)

新国立劇場公演 モーツァルト 「コジ・ファン・トゥッテ」

視力検査キット(ランドルト環視力表付き)、amazonで940円。こういう絶対要らないものって、なんか欲しくなるよね。で、カスタマーレビューが笑える。いわく、
「値段の割には付属品もしっかりしててお勧めです!
ただ視力表が1枚だけだと、頻繁に検査をすると覚えてしまうので
少し割高でも同じ製品の3枚セット¥ 1,440- の方をお勧めします。」
憶えるほど検査すな。





新国立劇場で「コジ・ファン・トゥッテ」を観てきました。ミキエレットの、現代のキャンプ場に舞台を移した演出で観るのは一昨年に続いて二回目です。前回に比べて目が慣れているせいか、あまり舞台に煩わされずにモーツァルトの音楽を聴きましたが、やはりこの演出、私にはしっくりこない。いろいろ考えさせてくれるという点では貴重ではあるのだが・・・。

  2013年6月15日
  フィオルディリージ: ミア・パーション
  ドラベッラ: ジェニファー・ホロウェイ
  デスピーナ: 天羽明惠
  フェルランド: パオロ・ファナーレ
  グリエルモ: ドミニク・ケーニンガー
  ドン・アルフォンソ: マウリツィオ・ムラーロ
  指揮: イヴ・アベル 
  演出: ダミアーノ・ミキエレット
  合唱: 新国立劇場合唱団(冨平恭平指揮)
  管弦楽: 東京フィルハーモニー交響楽団

「コジ」でいつも問題になること、しばしば観る者、聴く者が躓く原因となるもの、このオペラを好きになるか嫌いになるか、必ずや人に踏絵を踏ませるもの、それはこの物語の荒唐無稽さ、あるいは不道徳性、人によってはそのあからさまな女性蔑視だろうか。だが、19世紀のワーグナーじゃあるまいし、現代人がこのお話について不道徳を云々するのはあまりにもナイーヴに過ぎると言わざるを得ない。その一方で、ダ・ポンテがこの台本を書いた1789年、もちろんそれはフランス革命の年、アンシャン・レジームの崩壊の年であるのだが、だからといってこのお話を政治的に読み解く、というのも無理があるように思われます。では我々はこの物語をどう受け止めればよいのか。
コジには6人の男女が登場します。二組の恋人達と、彼らを教え導く立場の哲学者、そして小間使い。男女3人づつ、幾何学的にソロから二重唱、三重唱、四重唱、五重唱、六重唱が散りばめられており、あるいは愛しあい、あるいは憎しみ合うテキストが周到に組み立てられている。試しに全31曲の歌い手を整理してみよう。
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多種多様なアンサンブルの連続する二つのフィナーレを一曲と数えるとやや雑駁になってしまうのだが、そこは目をつぶって、この対称と非対称の交錯する表を見ていると、いくつも興味深い事柄が判ります。もっとも面白いのは、偽の恋人達の二重唱(第23曲、第29曲)はあっても、本来の恋人達、つまりフェルランドとドラベッラ、グリエルモとフィオルディリージの二重唱がないこと。フィナーレの中においても、本来の恋人達は決して二重唱を歌わず、専ら男同士の二重唱と姉妹の二重唱が交替するのみ。また、男同士の三重唱はあっても、女の三重唱はない、つまり小間使いは決して姉妹達と一緒に歌わない、ということ(アンシャン・レジームの崩壊と関連付けるのが無理というのがこのことからも判ります)。フェルランドとグリエルモの二重唱(第7曲、第21曲)、姉妹の二重唱(第4曲、第20曲)は仲良く2曲ずつあるのに、ドン・アルフォンソとデスピーナの二重唱はない、というのも同様。ではデスピーナは疎外された存在かと言えばそうではなく、ドン・アルフォンソと共に恋人達を翻弄する立場にいる。
ダ・ポンテの台本を荒唐無稽と見る見方は、登場人物の感情が僅かな時間でマイナス(無関心あるいは憎しみ)からプラス(愛)へと振れるところが人間の感情としてあり得ないという点にあるが、これを馬鹿馬鹿しいと考えるのではなく、ある種の思考ゲームのために敢えて人間性を捨象したと考えたらどうなるだろうか。本来の恋人達の二重唱がないことが、これは通常の物語とは違うのだと表明してはいないだろうか。

この物語の構造を改めて考察すると、悪意ある権力者と淫蕩な小間使いに翻弄される犠牲者達という図式化が出来るのだが、これと奇妙な一致を見せる物語がある。ダ・ポンテがこの台本を書いた1789年に少し先だつ1785年、バスチーユの牢獄でマルキ・ド・サドが書いた『ソドム百二十日、あるいは淫蕩の学校』(ちなみにコジの正式名称は「女はみんなこうしたもの、あるいは恋人達の学校」)。4人の絶大な権力を持つ悪徳の権化のような男達、淫蕩極まりない4人の語り女と4人の召使女に8人の馬蔵、そして彼らのありとあらゆる想像の実践のための犠牲となる4人の貞淑な妻達、8人の少女と8人の少年が繰り広げる地獄絵図は、まさに人間性を捨象した思考ゲームであり、未完に終わったものの、もし完成していたならば権力者と召使と犠牲者の幾何学的組合せによる、ありとあらゆる性倒錯のリストが出来上がったはずだ。ここでは善意や美徳を極端なまでに排斥し、責め苛む者と手伝う者と犠牲者の男女さまざまな組合せそのものが興味の対象となっています。
コジの物語は私にはサドの簡略な、縮小版のように感じられるのだが、もちろんダ・ポンテがサドを知っていたというつもりはありません。そうではなくて、ミシェル・フーコーが『言葉と物』の中で分析していたように、同じエピステーメー(その時代の思考の枠組み)の中で同時代的、同時多発的に同じ構造をもつ精神的所産が生まれる、ということ。その意味で、ダ・ポンテの台本とサドの著作に奇妙な類似点があっても不思議でも何でもない。ダ・ポンテとモーツァルトは、そういった意味で実は革新的なオペラを書いていたと言えるのではないか。恋人達の二重唱のない恋愛劇。美徳の欠片もない権力者と小間使いの協働、犠牲者達の人間的感情の捨象。
私にとって今回の公演の演出が駄目だと思うのは、現代のキャンプ場という舞台の情報力の多さが抽象的な思考ゲームという物語の本質にそぐわないことが一つ。その点、オリジナルのロココ風の庭園のほうがよほど適しているだろう(アラン・レネの映画「去年マリエンバードで」みたいな舞台だったら尚良し)。それと、人間的感情を敢えて捨象しているのだとすれば、ドン・アルフォンソ以外の全員が怒り(人間的感情)を露わにして幕が閉じるのは容認できないことになります。モーツァルトの音楽が本来「許し」の音楽だからと言って、この演出(許しのない、殺伐とした終わり方)を非難する向きもあろうかと思うが、私はもうすこしひねくれているので、ここはオリジナルどおり、人間的感情としてありえない和解(結果として「許し」になるのだが)がやはり正しい結論だと思う。さらに、小間使いまで憤然とその場を立ち去るというのは、このオペラにおける彼女の役割と根本的に相容れないと思います。いずれにしろ、若者がすこしふしだらになるからキャンプ場、というのも、とても幼稚な読み換えに思われます。また、良くできたセットではあるが、どうも私には視覚的な美しさもあまり感じられませんでした(同じような設定の変更でありながら先日の「ナブッコ」の演出が私の気に入ったのは、つまるところ人工美の極致のようなセットの美しさの所為もあったのでしょう)。

演出についてはこれぐらいにして、音楽そのものについて。全体に一昨年の出演者たちよりも音楽的な満足度は高かったように思います。
歌手についてだが、まず感心したのがデスピーナの天羽明惠。最初、ミニスカ眼鏡っ娘(萌)みたいな格好で出てきて、これは人によってはキュンキュンしちゃうだろう(笑)。いや、そんなことはどうでもいいが、歌がとても上手い。私は以前「アラベラ」のフィアカミッリ役で彼女を聴いたことがあるが、その時よりもハマり役だと思いました。ちょっと小悪魔してました。
男声3人も一昨年より良い。特にフェルランドのパオロ・ファナーレの真面目さとグリエルモのドミニク・ケーニンガーの不真面目さのバランスがとても良いと思います。マウリツィオ・ムラーロ(ドン・アルフォンソ)のエロ親父みたいな歌い方はモーツァルト的ではないかもしれないが私はとても気に入りました。
フィオルディリージのミア・パーションは冒頭に「体調不良の申し出があったが出演します」云々という、意味不明なアナウンスがあって心配したが、不安気は感じられませんでした。第2幕の至難なロンドも素晴らしかった。ただ、テクニックはしっかりしているがやや精彩に欠けるように思われた点、やはり体調万全ではなかったのだろうか。ドラベッラのジェニファー・ホロウェイも悪くは無いが、姉妹の声がとてもよく似ていて、あまりキャラが立っていなかったことがちょっと困ったと思いました。アンサンブルが多いだけに、お堅いお姉さんと、色んな意味で色んなところがユルい妹が声だけでそれと判らないとどちらが歌ってるのか判りにくく、面白さも半減していまう。
イヴ・アベル指揮の東京フィルはとても良かったと思うが、先日のナブッコのような演奏を聴いてしまうと、生気にみちてはいるが、どこか安全運転のきらいがなくもないと思いました。もっと上を狙えるオーケストラのはずです。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2013-06-16 18:56 | 演奏会レビュー | Comments(2)

【ネタバレ注意】新国立劇場公演 ヴェルディ 「ナブッコ」

拾いネタですが・・・
Q:ネロとパトラッシュを迎えに来た天使たちがもめています。その原因を教えてくだされ。
A:パトラッシュがめっちゃ臭い。





ヴェルディ・イヤーに相応しく今シーズン二つ目のヴェルディ作品。結果はとても面白く興奮する舞台でした。

  2013年5月25日
  ナブッコ: ルチオ・ガッロ
  アビガイッレ: マリアンネ・コルネッティ
  ザッカーリア: コンスタンティン・ゴルニー
  イズマエーレ: 樋口達哉
  フェネーナ: 谷口睦美
  アンナ : 安藤赴美子
  アブダッロ: 内山信吾
  ベルの祭司長: 妻屋秀和
  指揮: パオロ・カリニャーニ
  演出: グラハム・ヴィック
  合唱: 新国立劇場合唱団
  合唱指揮: 三澤洋史
  管弦楽: 東京フィルハーモニー交響楽団

今日は公演3日目だが、すでにブログ等で演出に関して賛否両論、基本的に演出については保守的な私であるから、今回の現代風読み換えについては拒否反応が出るのでは、と懸念していたが、実際に目にしたのは極めて美しく刺激的な舞台でした。
開演30分前に劇場の扉が開くと、舞台はエホバの神殿ならぬショッピングセンターの、高級ブティックやカフェの並ぶ一際オシャレな一角。ブランド品を身につけた男女、あるいは携帯を耳にしている待ち合わせと思しきスーツの男性、沢山の人々が一階とニ階を行ったり来たりしている。ちょっと残念なのは、舞台右手のエスカレーターが動いてなくて、(あー予算がないのね)と思わせてしまうところ。普通に階段で良かったのに。一階左手のiPadなどをディスプレーしているショップは齧られたアップルならぬヒョウタン洋梨のロゴが輝いていて御愛敬。序曲が始まると、それまで普通に話したり歩いたりしていた彼らが、ブランドの小物やバッグなどを床において、それを拝んだり手にして身悶えしたり。これを物欲にまみれた現代社会への批判云々と絵解きしてしまうと身も蓋もないのだが、直前までの日常の光景との落差というか、強烈な異化効果に唖然としてしまう。
ユダヤ教祭司のザッカーリアは薄汚れたよれよれのシャツとジーンズのラフな格好で、LA FINE È VICINA(世界の終末は近い)と書かれたプラカードを背負って群衆を扇動する。そこに登場するアビガイッレとバビロニア兵達はテロリスト集団のいでたち。テロリスト達は豚や犬の仮面を付け、思い思いのラフな格好をしている。バビロニアの王ナブッコは彼らテロ集団のリーダーという訳だが、ナブッコが命じるとテロリスト達がブティックを滅茶苦茶に破壊し、壁やガラスに赤いスプレーを吹き付ける・・・と、まぁ終始こんな感じで芝居が進む。
今回何より私が気に入ったのは、破壊された後の舞台も、凄愴たる美しさを保っていて、美術スタッフ達の緻密な計算が偲ばれるところ。興味のある方は新国立劇場のHPに舞台写真がアップされているので是非ご覧頂きたい。
正直なところ、私はこの演出のあれこれの意味というか、何を象徴しているのか云々といったことには興味がない。むしろ「深読み」をしないで、ただただ眼前に繰り広げられる、今まで見たこともない光景を目を見開いて見ているだけでよいのではないかと思います。反対に、これは何、あれは何と絵解きしてしまうと少し鼻白む思いをするのではないか。従って、演出家があれこれと言葉で講釈を垂れて、それをチラシにして劇場のホワイエに置いてあるのは如何なものか、という気がしました。余計なことを言わずに、ひたすら視覚の悦びに身を任せていればよいのに、と思います。

演出について長々と書きましたが、歌手とオーケストラの充実ぶりは新国立劇場のこれまでの演目の中でもずば抜けたものの一つではなかったかと思います。まずアビガイッレを歌ったマリアンネ・コルネッティ。ついこの間「アイーダ」で素晴らしいアムネリスを聴かせてくれたばかりだが、今回も凄まじいものでした。私は1988年のスカラ座来日公演の時の「ナブッコ」で、ゲーナ・ディミトローヴァの大迫力のアビガイッレを聴いているのだが、その時に勝るとも劣らない出来だったように思います。しかもコルネッティは、ただ声量に任せて吼えまくるのではなく、初期ヴェルディ作品の様式をしっかり押さえた、極めて音楽的な歌唱でした。第2部のカバレッタで少し息があがったようでしたが些細な瑕でしょう。至難なアジリタをものともしないドラマティコ、というヴェルディの苛酷な要求に見事に応える様子は、まるでクランクだらけの狭い道をダンプカーでぶっ飛ばすくらい歌手にとっては困難、聴き手にとっては快感です。
ナブッコ役のルチオ・ガッロも素晴らしい。いつの間にか当代最高のヴェルディ・バリトンとして、かつてのピエロ・カプッチッリばりの地位を築いていたわけですね。尤も、ナブッコはシモン・ボッカネグラやイヤーゴ、マクベスなどと比べると、やや奥行きや陰影に乏しい役柄という感じもして、これだけで歌手の力量を云々するのは気が引けるのだが、それにしてもこれだけの立派なナブッコを聴かせてもらえば大満足。
ザッカーリア役のコンスタンティン・ゴルニーも、先の二人に比べると少し見劣りするがこれはこれで立派なもの。意外に出番の多い役ですが安心して聴けました。
今回特筆すべきは日本勢の脇役が非常に充実していて、主役に引けを取らなかったこと。イズマエーレの樋口達哉は、出だしから火を吐くような熱い歌で、これぞヴェルディと快哉を送りたいと思いました。出番が少なくて歌手には実に気の毒な役だが、音楽的には大変重要な役どころで、シノーポリの録音では確かドミンゴに歌わせていて、なんともったいない、と思ったことがあります。フェネーナの谷口睦美も健闘。フェネーナは第4部フィナーレに短いが魅力的な聴かせどころがあり、歌手にとってもやりがいのある役だろう。私のお気に入りの妻屋秀和はバビロニア側の祭司長役で、ほんの少ししか出番がない。この人、凄い歌手なのにルックスで損しているのかなと(失礼)思ってましたが、今回はドレッドヘヤーにズタボロのジーンズ、B系っぽいブルゾンで若づくりしてみたら意外と(重ねて失礼)イケてました(笑)。これなら思い切ってザッカーリア役を歌わせてあげても良かったのに、と思いました。
このオペラの真の主役というべき合唱については今回も文句の附けようがありません。第3部の「行け、わが想いよ、黄金の翼に乗って」では盛大な拍手が起こりましたが、私は第4部のナブッコの「シェーナとアリア」のカバレッタの合唱が好き。この白熱のストレッタを聴くと体温が2℃くらい上昇する感じ。もう新国立劇場合唱団は世界でも最高峰の合唱団ではないかな。
最後に管弦楽について。初期ヴェルディの魅力はなんといってもその直線的な、怒りも悲しみもストレートにぶつかって来る力強い旋律、骨太のカヴァティーナと血沸き肉躍るストレッタなのだが、パオロ・カリニャーニの指揮は、このヴェルディの魅力をこの上なく引き出していたと思います。東京フィルハーモニー交響楽団も、恐らく指揮者に乗せられて、お行儀の良さなどかなぐり捨てた素晴らしい演奏でした。この時期のヴェルディのスコアは微温的な演奏では悲しくなるほど薄っぺらいスカスカの音がするものだが(それは多分にヴェルディのオーケストレーションが中期以降の作品に比べて稚拙であるということなのだろうが)、本当に良い演奏というのはこの稚拙ささえまばゆいばかりの輝きに変えてしまうものです。それこそ先に述べた1988年のナブッコを指揮したムーティがそうであったし、録音で聴いた「エルナーニ」もそうでしたが、これほどの演奏というのはとても稀なものだと思います。今日のカリニャーニと東フィルはそれらの名演に迫る、いや、歌手と合唱のレベルを総合的に考えればそれを凌ぐほどの出来栄えだったように思います。
日本のオーケストラは、この「スカスカのスコアを輝かしく演奏する」というのが極めて苦手であると感じてきましたが、実は指揮者次第で「やれば出来る子」だったのですね。ただ、これだけの演奏を成し遂げてしまえば、後々イタリアもののハードルがものすごく上がってしまって大変でしょうね。
(この項終わり)
by nekomatalistener | 2013-05-25 22:35 | 演奏会レビュー | Comments(9)

新国立劇場公演 モーツァルト 「魔笛」

(前々回の続き)泣けた本、他にもあった。吉田修一の『悪人』(汗)。でもこれ、連載時の束芋の挿絵も載ってたらいいのにね。





新国立劇場で「魔笛」を観てきました。

   2013年4月21日
   ザラストロ: 松位浩
   タミーノ: 望月哲也
   弁者: 大沼徹
   僧侶: 大野光彦
   夜の女王: 安井陽子
   パミーナ: 砂川涼子
   パパゲーナ: 鵜木絵里
   パパゲーノ: 萩原潤
   モノスタトス: 加茂下稔
   侍女: 安藤赴美子・加納悦子・渡辺敦子
   童子: 前川依子・直野容子・松浦麗
   兵士: 羽山晃生・長谷川顯
   指揮: ラルフ・ヴァイケルト
   演出: ミヒャエル・ハンペ
   合唱: 新国立劇場合唱団(合唱指揮:冨平恭平)
   管弦楽: 東京フィルハーモニー交響楽団

モーツァルトのオペラでは何が一番好きですか?私は断然「ドン・ジョヴァンニ」派だけれど、「フィガロの結婚」や「コジ・ファン・トゥッテ」を抑えて「魔笛」を一番に推す方も多いことでしょう。「魔笛」に限らず、モーツァルトの死の直前の作品には、ちょっと神憑ったような特別な雰囲気がありますね。それがフリーメーソンの所為かどうか私には判りません。昔LPの時代に、イシュトヴァン・ケルテスの指揮だったと思いますがモーツァルトがフリーメーソンの為に書いた音楽ばかりを集めたものを聴いて、いずれも大変すぐれた作品ながらも何となく居心地が悪いというか、よく判らない思いをしたことがありました。同様に「魔笛」も、この世のものとは思えないほどの素晴らしい音楽だとは思うけれど、「お墓にまで持っていきたいか?」と訊かれたらちょっと違うと言わざるを得ない。もう少し私自身が歳をとったらどう思うだろうか。
脱線するが、リリアーナ・カヴァーニが監督した「愛の嵐」という映画が私、大好きで、何度も映画館で観ましたが、ユダヤ人収容所で倒錯的な爛れた関係を持っていたユダヤ人少女(シャーロット・ランプリング)とナチスのSS(ダーク・ボガード)が、戦後、かたや高名な指揮者の美しい夫人、かたやホテルのポーターとして再会し、悲劇が始まるというものでした。この二人が劇場でお互い相手のことを意識しながら表面的には何食わぬ顔で観ているのが「魔笛」の、タミーノの笛に合せてライオンなどの動物(の着ぐるみ)が舞台で踊る場面。この場面の刷り込み効果は絶大なもので、モーツァルトには何の関係もないが、「魔笛」というとこの背徳的な悲劇を思いだしてしまう。もうひとつ、それと前後して初めて「魔笛」の全曲盤LP(ショルティの指揮したものだった)を買って聴いたとき、一番強烈な印象を受けたのが終盤の兵士の二重唱。なんて暗い音楽。弦の対位法に乗せてテノールとバスがユニゾンで歌うという趣向も、なんとも異常なものに思えたものですが、今でもモーツァルトの作品のなかで最も病的なものだというふうに思います。
そんなこんなで、どうも私には「魔笛」が楽しくて子供も大人も楽しめるメルヘン・オペラである、というふうには思えないのです。今回の公演にも、親御さんに連れられて小学生くらいのお嬢さんが聴いてらしたりしてましたが、ちょっと訊いてみたいな。「楽しいか?え、ほんとに楽しい?」(笑)。いや、ほんとに私、このオペラよく判らんのですよ。お話も荒唐無稽だし、実は夜の女王はマリア・テレジアでザラストロはヨーゼフ2世だの聞かされてもそれでお話が明確になるわけでもない。おまけにあちこちで女性蔑視も甚だしい台詞が頻出し、ムーア人のモノスタトスは黒くて悪い人、という扱いで現代人の感覚からすると実に困る。ちなみに今回の字幕は、そのあたりの「困った」台詞を改竄することなく、ありのままに訳していたのが良いと思います。お嬢さんを連れていた親御さんも、差別意識垂れ流しのシカネーダーの台本にはさぞかし困ったことでしょう(笑)。でも、「魔笛」ってこういうお話なんだから仕方ないよね。

まぁ、雑談はこれぐらいにして、今回の日本人キャストによる公演、びっくりするようなことは何も起こらないが、これといった穴もない、オペラハウスの日常公演としては十分なレベルだと思います。ただ、望月哲也のタミーノは歌い方もドイツ語も違和感がありました。この歌手もあちこちで聴いたなぁと、当ブログを検索したら「サロメ」のナラボート、「オランダ人」の舵手などで褒めてました。でも今回のタミーノは妙なところでヘルデンっぽくなってモーツァルトの様式にそぐわない。ドイツ語の子音がべちゃべちゃと響くのもいただけない。パミーナの砂川涼子は芯があってリリコよりスピントが勝った声質ですが、なかなか良かったと思います。安井陽子の夜の女王は素晴らしい歌唱でした。これだけの難曲ですからもちろん完璧とは云いませんが、舞台でこれだけ歌えたら大したもんだと思います。パパゲーノの萩原潤ですが、ちょっとキャラに合ってませんでしたね。前にもどっかに書いたと思うが、昔この人が「マタイ受難曲」のピラトを歌うのを聴いて、上手いとかどうとか言う前に、本当に真面目に渾身の力を込めて歌う姿にちょっと感動したことがありました。その印象が強くて、パパゲーノだからと、舞台の上でひょうきんな仕草をする度に、この人にはちょっと無理かも、と思いました(私だけの感覚かも知れませんが、観てるほうが痛い)。でも声は良かったですよ。それこそパパゲーノのキャラに全然あっていないパミーナとの高貴な二重唱は素晴らしいものでした。モノスタトスの加茂下稔、下品になる一歩手前でのデフォルメに知性を感じました。今回の登場人物の中でモノスタトスが一番頭がよさそうに思ったほど。ザラストロの松位浩、3人の侍女、その他の役回りの歌手も特に不満はありません。
東フィルの演奏も、良くも悪くも日常モード、平常運転という感じがしました。指揮者のラルフ・ヴァイケルトは以前「サロメ」を聴いてちょっと淡白すぎやしないか、と不満を書いた指揮者だが、今回はモーツァルトということで、大きな不満はありません。でも、今回の公演の趣旨から言えば、別に海外から指揮者を招聘しなくとも、日本の若手の指揮者に振らせるとか、他にやり様があったようにも思います。演出や美術然り。もともとシカネーダの台本には「日本の狩の衣裳で」などと書かれているのだから、純国産の舞台でも面白いと思うのだが。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2013-04-22 00:46 | 演奏会レビュー | Comments(0)

新国立劇場公演 ヴェルディ 「アイーダ」

以前、「メッシ知らんの?」と息子から上から目線で言われた私の気持ちが良く分かったと、関西在住の知人Aからメールが・・・。
知人A「何時まで雨降んねやろ・・・」
知人B「午後には雨やむってまさきさん言うてたで」
知人A「まさきさんってどこの職場の人ですか」
知人B「まさきさんしらんのん?関西に住んでてまさきさんしらんのん?写真が趣味でこのまえどっかきとったで。」
「メッシしらんのん?」と言われた●●さんの気持ちが分かりました。ネットで調べたらABCの気象予報士の正木明さんとのこと。顔は知ってますが名前までは知らんがな。・・・




話題の「アイーダ」を観てきました。明日から出張で暫く忙しいので、記憶の薄れない内に感想をメモしておきたい。

  2013年3月27日
   アイーダ: ラトニア・ムーア
   ラダメス: カルロ・ヴェントレ
   アムネリス: マリアンネ・コルネッティ
   アモナズロ: 堀内康雄  
   ランフィス: 妻屋秀和
   エジプト国王; 平野和
   指揮: ミヒャエル・ギュットラー
   演出・美術・衣裳: フランコ・ゼッフィレッリ
   合唱指揮: 三澤洋史 
   合唱: 新国立劇場合唱団
   管弦楽: 東京交響楽団

この公演、呼び物は何と言ってもゼッフィレッリの記念碑的演出の再演であること。第2幕凱旋の場の、豪華絢爛たる舞台を観れば今回の観劇の目的の7割方は達せられたといった感じがする。私は自慢じゃないが(自慢だけど)、1988年のミラノ・スカラ座の来日公演で、ゼッフィレッリ演出の「トゥーランドット」を観ており(NHKホールだった。思えばあの頃はまだ日本にはオペラ専用の劇場なんてものは無かったのだ)、これほど贅沢な舞台を観るのは実に四半世紀ぶり。1988年といえば世はバブル真っ只中だった訳だが、その頃のちょっと浮ついた世の中の空気とか、社会人になって4年目の私個人のほろ苦い記憶の数々まで呼び起されるようなバブリーな舞台でした。
その凱旋の場は、単に豪勢というだけでなく色彩と質感が見事。思わず、あのルーヴル美術館で一際偉容を誇るジャック=ルイ・ダヴィッドの大作、「皇帝ナポレオン1世と皇后ジョゼフィーヌの戴冠式」を思いだしました。こればかりは実物を観ないことには始まらない。
歌手の中ではアムネリスを歌ったマリアンネ・コルネッティが素晴らしかった。全体に主役二人が大味な中で彼女の表現力は際立っていたように思う。第4幕第1場の長いソロには涙を禁じえませんでした。
アイーダ役のラトニア・ムーアはちょっと評価が難しい。ソロを歌うと音程が悪く表現ものっぺりしていて大味。ところがアンサンブルになると、太い筆に墨をたっぷり含ませて一気に書かれた文字のように、実に存在感のある声に感じられる。第2幕の壮大なコンチェルターテや第3幕のアモナズロとの二重唱など素晴らしいのだが、一人で歌うところは概ね残念な出来。
ラダメス役のカルロ・ヴェントレは、第1幕あたりはちょっと粗っぽい歌い方で少し厳しいかな、と感じたが、後半は素晴らしい歌唱。今時これだけロバストでプロフォンドな表現の出来るテノールは貴重。
脇役の日本人男声3名も大変結構。アモナズロの堀内康雄、第3幕のアイーダとの対話は手に汗握る迫真の歌唱。エジプト王の平野和については本ブログで昨年の「ドン・ジョヴァンニ」のレポレッロを絶賛しましたが、まぁエジプト王の役ではこの人の美点はあまり活かし様がない。しかし舞台映えのする見目麗しい王でした。神官ランフィスの妻屋秀和はいつもながらの安定感。これだけ脇ががっちりしていると音楽の隅々まで実に楽しく聴ける。
ギュットラーの指揮は、経歴を見ると必ずしもイタリアオペラが得意という訳でもなさそうだが、トラディショナルなソステヌートなども様になっていて、様式感を大切にしようとする姿勢にとても好感が持てました(ちょっと走るところもあるが)。だがその様式感というものは本能的に湧き出てくるものというより、学習の成果として現われたものという気がする。とはいえ、こういう演奏は(イタリアものが鬼門になりがちな)日本のオケにとっても貴重な経験になると思う。イタリア・オペラとなると途端に薄っぺらい音になることが多い日本のオーケストラだが、今回の東京交響楽団の演奏は十分輝かしさもあって秀逸でした。
ま、いろいろ細かいところをあげつらうことも出来るが、総括すると終幕のアムネリスが良かったので結果オーライ。なんだかんだ言いながら、やはりヴェルディは素晴らしい。
by nekomatalistener | 2013-03-28 01:59 | 演奏会レビュー | Comments(5)

新国立劇場オペラ研修所公演 ヒンデミット「カルディヤック」

イオンがピーコック買収。でもピーコックって、英語のネイティブにしたら「おしっこち○こ」みたいに聞えないのだろうか。とっても謎。ピーはおしっこじゃなくて豆だろうって説もあるが、ならば「まめち○こ」かって言えばどっちもどっち。




一年ぶりのオペラ研修所公演。いつものことながら珍しいオペラを優れた演奏で、しかも格安で聴けるのがとてもありがたい。

   2013年3月3日
   カルディヤック: 村松恒矢(Br)
   その娘: 吉田和夏(Sp)
   士官: 日浦眞矩(T)
   貴婦人: 立川清子(Sp)
   騎士: 伊藤達人(T)
   金商人: 大塚博章(Bs)
   衛兵隊長: 大久保光哉(Br)
   指揮: 高橋直史
   演出: 三浦安浩
   合唱: 栗友会合唱団
   管弦楽: トウキョウ・モーツァルトプレーヤーズ

まず演出のことについて。幕明けの無声映画風の映像処理が素晴らしい。1920年の無声映画「カリガリ博士」を思わせるような演出、このオペラがまさに表現主義の時代に書かれたことを雄弁に提示していました。
三浦安浩の演出は、去年ラヴェルの「スペインの時」とツェムリンスキーの「フィレンツェの悲劇」の時にちょっと批判めいたことを書きましたが、今回は前みたいなどぎつい性的表現は抑えられていて大変良かったと思います。全体に闇を強調するモノクロームな色彩がスタイリッシュで知的な感じがします。コンパクトな回り舞台の仕掛けも秀逸でした。ただ、一つ二つ疑問もありました。3人ばかり黙役が出てきますが、私にはどうも意味不明で見た目にも煩わしく、演出家の言うようなドッペルゲンガーの恐怖は感じられませんでした。また、カルディヤックとその娘とのやり取りの中でボールの受け渡しの場面が出てきますが、これもこの演出家の独りよがりな解釈という気がして、なくもがなと思いました。さらに、騎士が貴婦人に贈るカルディヤックの手になる豪奢な金細工だが、これがなぜかストリッパーのおねえちゃんのバタフライ・パンツみたいで、とても下品。露悪的な表現を狙ったのかもしれませんが、どうもこういう所がこの演出家とは反りが合いません。

歌手では仕官を歌った日浦眞矩がとても良かったと思います。ヒンデミットの書いた音楽はワーグナーばりにドラマティックで声量も必要、しかも知的で乾いた叙情表現も必要、という難しい役どころかと思いますが素晴らしい歌唱だったのではないでしょうか。最後ちょっとスタミナ切れのようでしたが、彼の名前は記憶に留めておきたいと思います。
カルディヤックの娘を歌った吉田和夏は昨年「スペインの時」のコンセプシオンを聴いていますが、その時のツンデレとは大違いで今回はいかにも若い清純な娘といった歌い方、芳醇さは感じられませんがこの役なら「あり」だろうと思いました。
貴婦人の立川清子はグラマラスな歌い方が役にぴったりですが、立ち姿があまり貴婦人といった感じがしないのがちょっと残念。騎士の伊藤達人は昨年「フィレンツェの悲劇」でグイドを歌っていた人。そのグイド役もそうだが、こちらの騎士役もハイテノールの至難なパートを果敢に歌っていました。金商人の大塚博章はまずまず、衛兵隊長の大久保光哉はちょっと厳しかったように思います(一ヶ所派手にドイツ語をトチッてたような気が・・・)。
肝心のカルディヤック役の村松恒矢は健闘だと思いましたが、もうすこし高望みしたくなるところ。予習でフィッシャー=ディースカウなんか聴いたのが失敗か(笑)。しかしこれだけの至難な役なのにたったの二日の公演で終わりというのも切ないなぁ。場数を踏めばまだまだ良くなるのに、と思います。

トウキョウ・モーツァルトプレーヤーズは(多分)初めて聴いたが素晴らしい演奏だったと思います。演奏は大変だろうと思うが、あまり官能的な要素がない分、テクニックと勢いでなんとかなるのかも知れない(そういう意味ではとても日本人向けw)。それにしても大熱演だったと思います。
今回の公演でなによりも印象的だったのはヒンデミットの音楽自体が大変な出来栄えだということ。今回が日本初演だとのことだが、ヨーロッパではときどき舞台に掛けられているようです。ひと様のブログも少し覗いてみましたが概ね好評。没後50年ということもあって、器楽以外の作品にも日があたってほしいと思います。ちなみに「カルディヤック」が気に入っていろいろCDを漁ってみようとしましたが、あまり手に入りません。とりあえず「画家マティス」と「聖女スザンナ」を買いましたので、これから聴いてみようと思います。
by nekomatalistener | 2013-03-04 23:56 | 演奏会レビュー | Comments(0)

新国立劇場公演 ドニゼッティ「愛の妙薬」

友達とシュラスコ食いに行ったのだが、最初に鶏とかソーセージとか原価安そうなもので腹いっぱいになってしまい、ピカーニャという牛の一番美味いところがちょびっとしか食えなかった。悔しい。





新国立劇場の「愛の妙薬」公演に行って参りました。

   2013年2月3日
   アディーナ: ニコル・キャベル
   ネモリーノ: アントニーノ・シラグーザ
   ベルコーレ: 成田博之
   ドゥルカマーラ: レナート・ジローラミ
   ジャンネッタ: 九嶋香奈枝
   指揮: ジュリアン・サレムクール
   演出: チェーザレ・リエヴィ
   合唱: 新国立劇場合唱団(三澤洋史指揮)
   管弦楽: 東京交響楽団

今回公演の一番の目玉はシラグーザがネモリーノを歌うこと。私はこのシラグーザという歌手について何の予備知識もなく初めて聴いたのですが、なんだろうね、このヤンキーの兄ちゃんが歌ってるみたいな感じは?いや、今回の公演に限っていえばネモリーノという役柄に合わないことも無い。適度にバカっぽくて適度に脳天気。見た目も(かわいい+かっこいい+バカっぽい)÷3ってな感じで、ちょっとインテリのアディーナがころっと参るのも判らなくもない。でもちょっと騒ぎすぎというか、ベルカントテノールの救世主みたいに持ち上げるのはどうかと思います。恐らくロッシーニなどを聴いてみないと真価が判らない歌手なのかも知れませんが、ネモリーノだけ聴いて絶賛する気分にはなりませんでした。
アディーナを歌ったニコル・キャベルについては、以前「ドン・ジョヴァンニ」のドンナ・エルヴィーラを聴いたときにこんな感想を記しています。「 ドンナ・エルヴィーラのニコル・キャベルもなかなかの出来ではありましたが、先程の4人と比べると少し精彩を欠く感じ。この人も発声に少し無理があるのか、あまり声が伸びない感じがします。でも第8曲のアリアの最後のアジリタはびしっと決まっていました。第2幕の方のアリアは少し苦しい、が、この至難なアリアを楽そうに歌う歌手を私は未だ知らない。」 (2012.4.30.投稿)
今回彼女のアディーナを聴いた感想もほぼ似たような感じです。声がちょっと拡散してしまう性質なんでしょうか、客席に声が届く前に散るような、ちょっともどかしい感じがするのに加え、前半は音程も甘くアジリタも今ひとつでした。しかし、終わり近くになってあの「受け取ってPrendi」の大アリアになってようやく調子が出てきたのか、これは素晴らしい歌唱でした。聴衆の反応はネモリーノの「人知れぬ涙」には熱狂するくせに、こちらのアリアに対しては冷淡。ま、でも、そんなもんでしょう。
ドゥルカマーラのレナート・ジローラミはベテランの味わいがあってたいへん結構。ベルコーレの成田博之はちょっと荒っぽくて興ざめでした。もう少し、精密さと奔放さが両立するような歌い手っていないですかね。

演出は派手な原色使いのキッチュかつポップ路線。といっても読み替えと言えるほどの逸脱は無し。他愛もないコメディーに対して野暮なことを言うつもりはないが、こういったおふざけでない田舎風恋愛劇仕立てを観てみたい気もします。アディーナがぼくを愛してくれるなら、神様、ぼくは死んでもかまいません、と歌うネモリーノの心情は、演出によってはもっと感動的なものになるでしょうから。
ジュリアン・サレムクールの指揮は推進力はあるものの、カバレッタの繰り返しはほとんどカットされ、各ナンバーのコーダはことごとく短縮されています。私は素直に、もっと聴きたいのにもう終わりかよ、と思ってとても残念。音楽的にも変な段差が出来てしまうところもあって、単に冗長だからカットした、では済まないところがあります。カットなしで多少尺が延びても大したことはなかろうに。
東京交響楽団は、最初の前奏曲の薄っぺらい音を聴いて、ああやっぱり、と思いました。ベルカント・オペラに対する適性だか理解だかに、どうも致命的な問題があるのではと思う。プルト増やしても駄目でしょうね。音の大きさの問題ではないから。でも出だしこそがっかりしたものの、あとは音が薄いながらもそれなりに心弾む音楽でした。輝かしいとまでは言いませんが。日本の聴衆は、ワーグナーだとやれ音が薄いの小さいの、ぐだぐだと文句垂れるくせに、イタリアもの(ヴェルディとプッチーニは別として)だとあまり文句言わないのね。やはりベルカントものを舐めてるのか。

せっかく楽しいオペラで、文句ばっかりいうのは我ながら自己嫌悪気味なのですが、私自身の備忘のために敢えて書かざるをえませんでした。繰り返しになるが、ベルカント・オペラって本当に難しいと思います。登場人物がすくなくてオーケストラも小規模、なんとなくコスパも悪い感じです。でも、私は幸か不幸か、以前ミラノ・スカラ座の引越し公演で、ムーティが指揮してバルツァが歌ったベッリーニの「カプレーティとモンテッキ」の舞台を観て、身震いするほど感動したことがある。ベルカント・オペラの真髄というものを、一応は身体で理解しているつもりだ。今回のごくごく日常的なレパートリー公演に対して多くを求めすぎてはいけないと思うが、新国立劇場のその他(つまりベルカントもの以外)の公演のレベルの高さから言って、もう少し何とかならんものか、と思いました。
by nekomatalistener | 2013-02-05 20:44 | 演奏会レビュー | Comments(0)