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The People United will NEVER be defeated!

「アリとキリギリス」のwikipediaの記述すごいな。
「この寓話には二つの寓意がある。一つは、キリギリスのように将来の危機への備えを怠ると、その将来が訪れた時に非常に困ることになるので、アリのように将来の危機の事を常に考え、行動し、準備をしておくのが良いというもの。 二つ目は、アリのように夏にせこせことためこんでいる者というのは、餓死寸前の困窮者にさえ助けの手を差し伸べないほど冷酷で独善的なけちであるのが常だ、というものである。」





なんとなくサヨク嫌いだと思っていた大井さんが、よりによってこんなプログラム。4月1日(エイプリルフール)というのと相俟って、これは何か悪い冗談なのか、と最後まで気が抜けない(笑)。


 2015年4月1日@カフェ・モンタージュ
  
  高橋悠治: 毛沢東詞三首 (1975)
  ジェフスキ: 「不屈の民」変奏曲 (1975)(カデンツァは池田拓実(2015)※)
  (アンコール)
  坂本龍一: エナジーフロー (1999)
  吉松隆: 左寄りの舞曲Op.35-2 (1988)

  ※カデンツァで引用された曲: 
  高橋悠治《管制塔のうた》(1978)〔成田空港入場検問廃止記念〕
  セルヒオ・オルテガ《ベンセレーモス》(1971)
  《サリール・アル=サワリム》(2014)

  ピアノ: 大井浩明


思うに大井浩明というピアニストは、自分の好む作品をリサイタルで提示するだけでは飽き足らず、その作品の生まれたコンテクストの全体像を示そうとする志向が強いのだと思います。この人が本当に好んでいる作品は、たぶんどこかで本人が話していたとおりシュトックハウゼン、クセナキス、ブーレーズあたりなのだとおもうが、それらの作品を繰り返し繰り返し取り上げるだけでは飽き足らず、その同時代の、あるいはそれに先行する、または影響を受けた人たちの膨大な作品のアーカイヴを提示せずにはいられないのだろう。
同様の志向は多かれ少なかれ、現代音楽(あまり好きな言葉=切り分け方ではないが、便宜的に1945年以降の音楽をこう呼んでおく)を得意とする演奏家に共通するものだろうと思います。ブーレーズもポリーニも、自身のプログラムビルディングによる大規模な現代音楽の連続演奏会を行っています。しかし、ブーレーズが一連の20世紀音楽の回顧展を行った際のインタビューで、ショスタコーヴィチがひとつも入っていないことを訝しんだインタビュアーに対し、「私はショスタコーヴィチが重要な作曲家だとは思いません。それに下品ですし・・・」と答えたように、ブーレーズにしてもポリーニにしても、そのプログラムは彼らの厳しい審美眼に耐える作品のみが選ばれており、彼らの「趣味に合わない」作品は厳しく排除されていたように思う。しかし、大井浩明はこれまで膨大な作品を取り上げているが、それは彼自身が好む作品だけではなく、そのコンテクストを構成するものであれば例え自分の趣味でなく、共鳴もしない、あるいは駄作であっても敢えて取り上げるという点で、他に比べるもののないピアニストという気がします。
そういった意味で戦後のある時期、60~70年代の音楽を取り上げようとすれば、このコンテクストを提示するには政治的メッセージ(それももっぱら左寄りの)の強い一連の作品をオミットするわけには絶対にいかないと考えたのだろう。誰がどう考えたって、思想的な意味で大井浩明とジェフスキーや高橋悠治が共鳴することはありえないにも関わらず、大井浩明は敢えて彼らの作品だけでリサイタルを行う、そういう人なのだ。しかも4月1日(四月馬鹿)に悪意を込めたアンコール曲と並べて。
大井浩明の「政治思想」がいかなるものなのか、彼のツイッターに溢れるネトウヨ風の露悪的なディスクールをどこまで真に受けたものかよく分かりませんが、今回のアンコールも含めた「サヨク的なるものに対するあからさまな悪意」は筋金入りという気がします。カフェモンタージュに集まった聴衆が実のところどう思ったか知らないが(案外、坂本龍一すてき!とか思ったかもしれないが)、もし坂本龍一や吉松隆がこの場に居合わせたなら、その微妙なおちょくり方に憤慨して席を蹴って帰ってもおかしくないとおもいます。

以上は演奏家の思考を忖度しながらの考察だが、一方で聴くものの立場からすれば、こういった演奏会に接して、「音楽は思想(政治)を語りうるか」という根源的な問いを改めて考えないわけにはいかない。私は再三再四書いてきたように、音楽というのは本質的にシニフィアンの連鎖であって、一切の意味作用を剥奪されていると考えるものであるが、反対に音楽というものは本質的に政治的なものであって、人はあらゆるところにそのメッセージ性を感じ取るべきであるという立場があるのは当然だろうと思います。特に革命歌の引用を聞いて人は何を思うべきか、というのはなかなか面白い設問であろう。例えばこれがベルクのヴァイオリン協奏曲であれば、バッハのコラールの引用から「われ満ち足れり」という章句に思いを致さずに音だけを聞くというのは困難だろう。音楽がシニフィアンの連鎖だとしても、いわば不純物の形で介入してくる言葉や意味というものを抜きにしてその音楽を評価できるのか、というのは意外に困難な問いだと思います。

大井浩明の演奏はここ最近いつも思うことだけれど、ディティールが粗っぽくて、長時間聞き続けるのは正直つらいところもある(初めて「不屈の民」を聴いたのがアムラン盤、なんて人は尚更だろう)。しかし今回はそのような演奏スタイルが案外合ってなくもない。学生運動華やかなりしころの集会で奏でられる音楽はこのような粗い手触りのものこそ相応しいだろう。そのような音楽はコンサートホールなんかじゃなくて、昔であれば京大の西部講堂なんかが相応しかったのだと思うが、この日のカフェモンタージュはある意味そのような特殊な空間のオールタナティブとして機能していたように思う。ひさびさにアングラという言葉をふと思いだす実に不思議な感覚。客の入りが少なくて20人ほどしかいなかったが、それもまた良し。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2015-04-02 22:58 | 演奏会レビュー | Comments(0)

西村朗ピアノ作品によるリサイタル

代替食品ソイレントが出荷開始ってニュース、40年ほど前の映画「ソイレント・グリーン」を知ってる世代にはガセネタとしか思えないんだが・・・





京都のカフェ・モンタージュで西村朗作品によるリサイタル。この40人ほどでいっぱいになってしまう小さなカフェがコンテンポラリー音楽の聖地になる日は近い?

                                            
 2015年2月8日@カフェ・モンタージュ
 西村朗作品集
  《炎の書》(2010)
   (トーク)
  《神秘の鐘》(2006)
  《薔薇の変容》(2005) 
  《カラヴィンカ》(2006)
   (トーク)
  《オパール光のソナタ》(1998)
  《タンゴ》(1998)
  《アリラン幻想曲》(2002)
  《三つの幻影》(1994)
   (アンコール)
  田中吉史《松平頼暁のための傘》(2010/11)
   〔松平頼暁・西村朗両氏の対談の音声素材に基づく〕(委嘱作品)
  ジョン・レノン(西村朗編曲)《ビコーズ》(1969/91)
  武満徹(西村朗編曲)《さようなら》(1953/2001)

  ピアノ:大井浩明、トーク:西村朗


大井浩明が東京でPOC(Portraits of Composers)と銘打ち、毎回一人のコンテンポラリー音楽の作曲家を取り上げて、そのピアノ曲を可能な限り網羅的に演奏するという意欲的なリサイタルのシリーズを続けているのは周知のことだろうと思います。今回のはいわばそのPOCの番外編といったもので、ピアノ曲のみとはいえ、西村朗の音楽がこれほど集中的に取り上げられるということも珍しいだろうと思います。
私は不勉強ながら彼の音楽をほとんど知りません。数年前のN響アワーで「蘇莫者」という舞楽の舞を伴うオーケストラ曲の抜粋を聴いて、かなり好意的な感触を得たけれども、その後あれこれ音源を取り寄せるところまではいかず今日に至りました。そんなわけで良くも悪くも殆ど何の先入観も持たないまま聴いた次第でしたが、ある意味非常に判りやすい音楽という感じがしました。そしてその判りやすさが、音楽としての面白さの根幹をなしているという風にも思えます。
これらの作品について、西村氏自身が大井浩明のブログに自作解題を寄せておられますので、詳細はそれを読んでいただくとして、

http://ooipiano.exblog.jp/23409101/

まず目に付くのは、「水」や「炎」、「光の乱反射」や「鳥の声」といった視覚的、聴覚的なモチーフによる標題楽が多いということ。その当然の帰結として、これらのキーワードを目にしたときに誰もが思い浮かべるであろうピアノ曲の大家、ドビュッシー、スクリャービン、メシアンらの響きの、遠い木霊が聞き取れます。
その視覚的、聴覚的イメージというのは、当日のトークで上掲の解題よりも更に具体的に語られました。例えば、冒頭の《炎の書》は中目黒不動尊で目にした護摩の炎とそのゆらめく火影であること、次の《神秘の鐘》は嵐山の化野を訪れた際にインスピレーションを得たこと、第2曲の子守歌は水子を弔うものであり、両端楽章は渡月橋を渡ってあの世とこの世を往来するイメージであること、最後の《三つの幻影》の第2曲で、内部奏法(低い音の弦を指でミュートしながら鍵を強打する)の音はバラナシ(ベナレス)の河岸の火葬を見た時の、骨が割れる音であること、また第1曲はガンジス河そのもの、第3曲は火葬で唱えられるマントラの音による描写であること云々。
これらの身もふたもない直截な元ネタを、いくら作曲者自身の言葉だからと言って額面通り受け取ってよいのか、それともこれは一種のリスナーに対するサービスなのか、よく分りませんが、少なくとも抽象的な音の運動と響きのみを追求すると思われがちな現代の作曲家の中にあって、視覚的聴覚的かつ具象的なイメージから音楽を作る(今となってはもしかすると珍しいタイプの)作曲家であるということが判りました。そしてその語られたイメージと相俟って、耳で聴いた際にとても判りやすく感じられるということ。その音楽は、セリエリスムとは無縁ながらも新調性主義とも袂を分かっており、しかもところどころ調性的なフレーズが忍び入ることを拒んでもいない、といったスタイルだと思います。決して聴き手の耳に媚びるタイプではないが、ドビュッシーやメシアンを聞き慣れた耳であればそこそこ長時間でも聴きとおせるような判りやすさと言ってよいと思います。
更に、トークでご自身の作品を評して「よく言えばギャラント、悪く言えば饒舌」と仰った通り、一言で言えばものすごく音が多い。その点においても、さきほどから何度も名前を挙げたドビュッシー、スクリャービン、メシアンらと極めて近いところにある音楽という感じがします。これだけ多くの作品を立て続けに聴くと、やや食傷気味になるところ無きにしも非ずではあるが、少なくともリサイタルで一曲ないし二曲取り上げる分には、聴き手にも面白く、弾き手にもカタルシスをもたらすこと必至であると思います。

大井浩明の演奏はいつもながらの明晰なもので、硬質でブリリアントな音質が作品によく合っていたと思います。それと同時に、昨年のドビュッシーのリサイタルでも感じたことだが、以前よりも荒削りなところが目立ってきた感じもします。スコアを見た訳ではないので何とも言えないところもあるが、華麗なアルペジオなどでもっと一音一音の粒立ちが欲しいと思ったことが何度もありました。もしかすると、初見である程度弾けてしまうために、却って細部の磨き上げが上手くいかないタイプなのかも知れません。

アンコールが三曲。
田中吉史の作品はタイトルにもあるように、NHK「現代の音楽」で松平頼暁と西村朗が対談した時の音声をピアノに移したもの。こういうと、聞いたことがない人にとってはちんぷんかんぷんだと思うので、近い例として次のyoutubeを挙げておこう。伊賀拓郎という作曲家が作曲(?)した、元西宮市議の野々村某という43歳児の号泣会見を忠実にピアノに移したもの。これは抱腹絶倒、はっきり言って元ネタよりよほど面白いぐらい。およそ人類の役には立ちそうにないが、凄い才能です。

https://www.youtube.com/watch?v=CbrNtKd2nxQ

さて本家(田中作品)のほうだが、大井氏が曲目紹介を兼ねて語ったところによると、西村氏が放射線遺伝学とかなんとかの学者でもある松平氏にその方面の話題を振ったところ、松平氏が滔々と話し出したので西村氏が「はぁ・・」と気のない返事をする様子などが克明に描かれている(笑)。西村氏の声が素材となっているからこれをアンコールに取り上げたと大井氏が語っておられましたが、私の中では「人の声」を素材とする技法が「鳥の声」を素材としたメシアンを想起させ、技法と響きの両面でメシアンとの近親関係を示唆する西村作品に向けて大きなアーチを掛けてリサイタルを締めくくったといった感じがしました。いっそのこと、この作曲者にはメシアンばりに「人のカタログ」を作曲してもらったらどうだろうか。ジャパネットたかたの高田社長などは素材として極めて面白そうだ。
・・・と、ここまで書いて、ネットで調べてみると、この田中吉史という方、既にルチアーノ・ベリオやブルーノ・マデルナの声、あるいはもっとアノニマスなテレビの気象情報の音声や、専門的すぎて殆どの人にとってはわけのわからない音の連なりでしかない学術発表などを素材に作品を書いているようです。これは面白そうです。
アンコール、あとの2曲はまぁ他愛ないアンコールピースの類か。

それにしても今月のカフェ・モンタージュは20世紀以降の音楽ばかりでなかなかの壮観。私は都合で行けませんが、ジョン・ケージのフリーマン・エチュード演奏会(最初の二巻)とか、ブーレーズのピアノ曲全曲とか、びっくりするようなリサイタルがあるので興味のある方は是非。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2015-02-10 00:51 | 演奏会レビュー | Comments(0)

近藤譲ピアノ作品によるリサイタル The Shape Follows Its Shadow

ハロウィンもすっかり定着してきたみたいだし、いっそのこと「B層の日」とかなんとか祝日にしたらどうか?




カフェ・モンタージュで大井浩明の弾く近藤譲作品のリサイタルを聴きました。

 2014年11月3日@カフェ・モンタージュ

   クリック・クラック Click Crack (1973)
   視覚リズム法 Sight Rhythmics (1975)
   形は影にしたがう The shape follows its shadow (1975/2011)
   歩く Walk (1976)
   記憶術のタンゴ Tango Mnemonic (1984)

    (休憩)

   ピアノのための舞曲「ヨーロッパ人」 A Dance for Piano "Europeans" (1990)
   高窓 High window (1996)
   夏の小舞曲 Short Summer Dance (1998)
   リトルネッロ Ritornello (2005)
   長短賦 Trochaic Thought (2009)

近藤譲といえば、私が高校生の頃(70年代末~80年代前半)に友人から借りたLPで「ブルームフィールド氏の間化」など数曲を聴いたことがあり、興味を覚えたもののそれ以上深入りすることなく、その名前だけが記憶に残ったのでした。NHK-FMでたしか柴田南雄が司会をしていた番組で「風がでたとき」という作品を放送したのも、同じころだったと思います。これは耳に残るというか、ある種の懐かしさのようなものを感じさせる優れた作品だと思いましたが、もちろんその頃はまだ「海のモノとも山のモノとも」の時代で、その作品を体系的に聴くなど土台無理。それからウン十年、大阪のタワレコがまだアメ村の近くにあった頃、アヴァンギャルドからアンビエントまで、なかなかとんがったディスクばかり置いているコーナーがあって(現在の渋谷店を除くタワレコの情けない状況とは大違い)、そこであれこれ目についたものを買い込んだ中に「彼此(おちこち)」というアルバム(「風がでたとき」が収録されていた!)があり、けっこう夢中になって何度も聴いたのだが、結局その時も他の作品をあれこれ聴く機会を逸したまま(当時はこの世界ではそこそこメジャーになっておられた訳だが)、今日に至りました。
つい最近になって、その著書「線の音楽」の復刊に次いで、大井浩明が東京でピアノ作品全曲を弾くというとんでもないリサイタルをするなど、ごくごく狭いコミュニティの中の出来事ではあるが所謂プチブレイク状態になっているのは、私のような中途半端な中年世代には隔世の感があるのだが、それでも自分の若い頃の近藤譲体験を振り返ってみると、「ブルームフィールド氏・・・」の前衛の旗手としての顔と、「風がでたとき」の他に比べるもののない独特な世界の両方を期せずして聴いていたのは、今回のリサイタルまでの長い予習期間としては強ち無駄ではなかったのだと思いました。

個人的な思い出話はこれぐらいにしておきますが、今回のリサイタルで弾かれた10曲のうち、「彼此」系(勝手に名づけてますが・・・)は「歩く」のみ。滅法楽しく、聴くだけでなく弾いてみたいと思わせる作風ですが、この「面白うてやがてかなしき」独自の世界は決してソフトコアな現代音楽ではなく、その類例のなさと俗耳におもねらない妥協のなさは、ハードコアな現代音楽にひけを取らないものであると思います。その他はもっぱらアヴァンギャルドな系列の作品ですが、例えば「視覚リズム法」などはモノクロームなピアノではなく、元の室内楽版で聴けば、この二つの世界がより近く感じられるのではないかという予感がする。こういった作品は、私のばあい、何度も聴かないと腹に入らないので、今回のリサイタルをきっかけに、これから体系的に聴いてみようと思っているのだが、すくなくともこれまでぼんやりと認識してきた「彼此」系とアヴァンギャルド系の音楽というものが非常に隣接していて、極論すればどの作品も金太郎飴のような近藤譲的世界なのではないかという感想を得ました。さらに、後半で弾かれた「高窓」のゆっくりと鳴らされるきらめく不協和音、この美しさは今回新たに知ることになったこの作曲家の魅力であったと思います。ふとモートン・フェルドマンの作品を連想しましたが、もしかすると初期の「視覚リズム法」からして、そのリズムを何倍かに引き伸ばしたら、フェルドマンのたゆたうような、しかし実は極めて精緻にかかれたリズムに通じるのではないか、という気がしました。

前半と後半の演奏前に、近藤譲ご本人の短いトークがあって、大変興味深く、かつユーモラスなものでした。一晩寝たら大分忘れてしまいましたが(笑)、すこし備忘で書きとどめておきます。
・音楽とは心とか気持ちとか、なにかを表現するものだという人がいる。あるいは、音楽とは建築のような、音の構築物を示すものであるという人もいる。私(近藤)はそのどちらでもなくて、昔も今もずっと、ある独立した音の隣に別の音を置くと、もとの音の意味合いが変わる、それがおもしろくて作曲をやってきた。実はピアノ音楽というのは、一人の奏者がこうして置かれた音を一つながりに弾いてしまうので、どうして書いたらよいかよく分らなかった。私は作曲するときはピアノを用いているのだが、何人かのアンサンブルでやる曲をピアノでそのままやれば別の作品になると思うようになった。本来は数人で演奏する音楽を一人で弾くのだから当然難しい。
・リストやショパンの演奏はとても難しいといわれているが、あれはスケールでもアルペジオでも、身体の一連の動きの中に回収できるものである。しかし、私の音楽は一つの音の隣にある音は、もとの音とは独立したものであり、しかも私は一つの音を書くときはかならず「これはこの楽器の開放弦でこんなボウイングで」という具体的・身体的イメージを持っているから、それをピアノで弾くには単に音を鳴らすのではない、ピアニストの解釈、ある種の創作行為が伴う。ピアニストが楽譜の枠内に縛られていることと創作に加担すること、作曲者がいかようにも楽譜を書けるが演奏者の解釈を通さないと音楽として実現しないこと、この両者のアドバンテージとディスアドバンテージは裏腹の関係にある。
・東京で大井さんによる全ピアノ作品の演奏会を先日やったが、今回は時間の制約でこれだけの作品になった。先ほど高田さん(カフェの店主)から大井さんと私が相談して曲目を決めた、という話があったが、これはウソです(笑)。大井さんが「これでいきます」というから、もう仕方がない。しかしよく見ると、今日の選曲は比較的抒情的な作品というのはすべて省かれている。大井さんの資質にあった作品を選ばれている。

もうすこしあったような気もするが・・・。ご本人はいたって気さくなおじさん風。サラリーマンでいうなら、昔はやり手だったけれどいまはちょっと脂っ気が抜けて監査役しております、みたいな感じ。
大井浩明の演奏は、こういった演目だといつもながら上手いなぁと思います。ピアノのレゾナンスを完全な静寂に至るまで完全に聴くことを聴衆に強いる音楽ばかりですが、彼の情に流されない演奏の緊張感というのは大したものだと思いました。
(この項終わり)
by nekomatalistener | 2014-11-04 22:30 | 演奏会レビュー | Comments(0)

ドビュッシー 前奏曲集Ⅰ&Ⅱ 大井浩明

HMVのつもりでHIVってこれまで絶対3回くらいは言ってると思う。




東京に行ってたせいでちょっと気が抜けてしまいましたが、京都のカフェ・モンタージュで大井浩明のドビュッシーを聴いてきたので一応備忘を書いておきます。

  2014年8月27日@カフェ・モンタージュ
  ドビュッシー
   前奏曲集第1巻全曲
   (休憩)
   前奏曲集第2巻全曲
   (アンコール)
   牧神の午後への前奏曲(レナード・ボーウィック編)


最初に断わっておくと、今回のリサイタル、私は感心しませんでした。一言で言えばドビュッシーの世界の表現にはあまりにも準備不足。2曲目の「帆」の長三度の下降がそもそも弾けてない、から始まって、技巧の粗が目立ち過ぎ。ぺダリングは不用意に切れたり濁ったり。極端なフォルテは音が割れて耳が痛い。音が少ない曲、たとえば「雪の上の足跡」なんかは音楽としての持続がなく、すかすかの譜面が露呈する。誤解のないように申し添えると、私が思う良いドビュッシーの演奏というのは、別に雰囲気満点にぼんやりとペダルを踏みまくる演奏でもないし、たっぷりとルバートをかけた「亜麻色の髪の乙女」が聴きたいわけでもない。あくまでも明晰な演奏を期待していたのだし、その結果「雪の上の足跡」だの「霧」だのといった作品のテクスチュアの薄さが仮借なく露わになっても構わないと思います。しかし、そのような演奏であっても音楽としての最低限の詩情が残るのがドビュッシーの音楽であるはずであり、それがないのであれば単に雑な演奏だろうと思ったわけです。
大井氏のケージやシュトックハウゼンの演奏、あるいはティンパニ・レーベルから出ているクセナキスの「エリフソン」や「シナファイ」のCD録音は本当に素晴らしいと思いますが、4年ほど前に渋谷の公園通りクラシックスで聴いたシェーンベルク・ベルク・ウェーベルンの時も甚だ感心しない演奏だったのを思い出しました。これは、シュトックハウゼンやクセナキスに対するシンパシーの深さに対して、新ウィーン楽派やドビュッシーへのシンパシーの欠如の所為なのだろうか。あるいは、ある一人の作曲家の大規模な個展といった趣で、長大な時間をかけて膨大なレパートリーを弾き、一曲一曲は多少荒っぽくはあってもその作曲家の全貌を俯瞰するといったスタイルが得意な反面、個別の作品を磨き上げる(暗譜も含め)というのが不得手なのかも知れません。そもそも彼の場合、その作品が好きだから、あるいは傑作だからレパートリーに入れるだけでなく、好きでもなければ傑作だとも思っていないが、同時代や後世への影響を示すという「教育的プログラム」の一環としてのプログラムビルディングも多いように思います。その意味では、彼自身がツイッターで書いているように、後のメシアン・ブーレーズ・武満・リゲティ・フェルドマンらの音楽の「ネタ帳」としての面白さを示すことがこのリサイタルの最大の目的であって、それ以上の愛情をドビュッシーには注いでいなかったのかも知れません。それはそれで致し方のないこととして非難するには当たらないと思いますが、せめてもう少し技巧的な穴をしっかり埋めてからリサイタルに掛けてほしかったと思いました。
ちなみにアンコールの「牧神の午後」はとてもよく出来た編曲で、IMSLPで楽譜のダウンロードが可能です。こちらは大井氏の演奏も本編よりよほどノリがよく良い演奏だったように思います。これまた、4年前の新ウィーン楽派のリサイタルで、オリジナルのピアノ作品よりも川島素晴が編曲した「モーゼとアロン」のなかの「黄金の仔牛の踊り」のほうがなんぼかマシだったことを思い出しました。こうした「ゲテモノ」は本当にお好きそうだし得意なのでしょうね(褒め言葉)。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2014-09-02 22:38 | 演奏会レビュー | Comments(0)

フォーレのピアノ五重奏曲を聴く

「良識派」の方々からはろくでもないと思われがちな2ちゃんねらーだが、例の号泣県議をたった一言、「47歳児」と言い表す言語感覚ってのは凄いと思う。





久しぶりのブログ更新。京都のカフェ・モンタージュでフォーレの室内楽を聴いてきました。

  2014年7月15日@カフェ・モンタージュ
  フォーレ
    ピアノ五重奏曲第1番ニ短調Op.89
    ピアノ五重奏曲第2番ハ短調Op.115
  (アンコール)
  ショーソン
    ピアノ、ヴァイオリンと弦楽四重奏のためのコンセールより第2楽章(ピアノ五重奏版)

  vn:長原幸太、佐久間聡一
  va:中島悦子
  vc:上森祥平
  pf:大井浩明

大井浩明についてはこのブログでも度々取り上げてきましたが、弦の各奏者はいずれも在阪オケの首席奏者を務めている(もしくは務めていた)方々ということで、私は疎い分野だけれど関西のオーケストラを足繁く聴いてきた人には馴染みの面々なのでしょう。
弦楽四重奏団、もしくはピアノ入りユニットとして長く演奏してきた訳ではないでしょうから、当然のことながらそこには練れた表現というよりは一回性というものを強く感じさせる演奏、ややもすれば茫漠となりがちなフォーレの楽曲を力と若さと技巧でねじ伏せたといった感じがしましたが、概ねそれは成功していたと思います。
私は実のところ、フォーレのピアノ五重奏曲については第2番が圧倒的に傑作であって、第1番のほうはどうも捉えどころがないような気がしていたのですが、今回の張りつめた、やや線のきつい演奏を聴いて、はじめて第1番の素晴らしさを認識し、完全に腹に入ったような気がしました。
今回の第1番を聴きながらもっとも印象深かったことは、各楽章のここぞというところで現れる弦のユニゾン。弱い熾火かと思われた炎がゆっくり静かに白熱していくその頂点で突如ユニゾンになるのは、この1番に限らずフォーレの室内楽のあれこれに共通する特質なのでしょうが、この作品におけるユニゾンほど意義深いものはないのではないか。各奏者の音程の確かさ、その前後の身振りの大きさによって、この特質が強く浮き彫りにされていたように思います。大井浩明のピアノは、第1楽章こそ若干控え目でしたが、つぎのアダージョの、滴るような美音の点綴される中に所々思わぬほどきつい表現の混じるのが不思議とうるさく感じられないのも良かったと思います。また、フィナーレの冒頭の鼻濁音のような音色はまさにフォーレ好みのメゾピアノ。以前、この人がシュトックハウゼンの「自然の持続時間」を弾いた時にも、指回りだけでない音色に関するパレットの多さについて言及しましたが、今回の演奏も大変優れたものであったと思います。

短い休憩を挿んで第2番。この曲の冒頭の、破局めいた何か見えざるものがひたひたと押し迫るようないわく言い難い雰囲気、しかとは判らないがただならぬ気配のようなもの(それに近いものを敢えて他に探せば、ヤナーチェクの「1.X.1905」くらいしか思い浮かばない)、それはやはり弦楽四重奏団として長く演奏してきた人たちの表現に勝るものはないというべきか、今回の演奏では意外にもさらさらと耳を通り過ぎて行ったような感じがします。だが、後半に現れる弦のユニゾンはやはり素晴らしく、胸に迫るものがありました。第2楽章の猛烈なテンポも圧巻ですが、第3楽章の冒頭のヴィオラの旋律に他の弦が濃密にまとわりつくところ、これはフォーレが時間をかけて咀嚼し、完全に自家薬籠中のものとしたトリスタン和音の変形なのだと思わせられました。フィナーレの解放感、作品が良いのか、演奏が良いのか、もはや判別できないほどなのは、やはり良い演奏だったのでしょう。しかしながら、この第2番のフィナーレは単なる精神的な解放感だけでなく、とてつもなく瞑く晦渋なものを秘めているように思われます。その晦渋さは後の弦楽四重奏曲Op.121で頂点に達するものと思いますが、私はいまだにこれらの音楽がよく判っていないと言わざるを得ません。

アンコールはショーソンのコンセールを大井さん曰く「むりやりこの編成にした(笑)」ものだとか。フォーレの大曲のあとにアンコールは無くもがなという気もしましたが、この大して霊感に満ちているようにも思えないのに、不思議と熱量が高く途中から急激に発熱するような小品がなかなかしっくり来たのは事実。いろいろ考えた末の選曲なのでしょう。

最後に少し脱線。先日来、『ピアニストが語る!現代の世界的ピアニストたちとの対話』(焦元溥著、森岡葉訳、アルファベータ刊)という本を読んでいるのだが、この中で少し引っかかっていることばがあります。ドミトリー・バシキーロフというグルジャ生まれのピアニストがインタビューの中でフォーレについて語っていることば、
「・・・でも、私はフォーレを弾きません。私に言わせると、フォーレは二流の作曲家だからです。彼の作品には欠陥が多く、ドビュッシーやラヴェルとは比べものになりません。」・・・どうでしょうね。確かに、残された作品のすべてがあまりにも完璧で、そこに人間的な成長とか円熟といったものが容易には読みとれないラヴェルや、ラヴェルと比べると若干作品の完成度にムラがあるものの、「12のエチュード」や「遊戯」のような天才的な作品が突然変異的に時折現れるドビュッシーと比べると、フォーレの場合実に人間的というか、前期よりは中期、中期よりは後期と成長の跡が良くも悪くもはっきりと判る作風ではあるでしょう。しかし、少なくとも私には後期の(第9番以降の)「夜想曲」とか件の五重奏第2番、あるいはピアノ三重奏曲Op.120といった作品はどう考えても「二流」とは思えません。バシキーロフのいう「欠陥」が何を指しているのか、あるいはフォーレの作風にロシアとその周辺の人には理解しがたい何かがあるのか、とても気になっています。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2014-07-16 23:20 | 演奏会レビュー | Comments(0)

ピアノによるマーラー交響曲集を聴く

2chまとめサイトで、「今週のコナンで毛利のおっちゃんがヤバイ」というのを「毛剃のおっちゃん」と空目。そりゃたしかにヤバイ。





日曜の昼下がり、法貴彩子と大井浩明のジョイント・リサイタルに行ってきました。法貴さんについては昨年の11月にも本ブログで取り上げましたが、何ともあっぱれな雑食ぶり。いや、肉食と言ったほうがいいか、あるいはゲテモノ食いなのか(いずれも褒め言葉)。


   2014年3月2日 芦屋山村サロン
   マーラー 交響曲第4番ト長調
    (ヨゼフ・フェナンティウス・フォン・ヴェス(1863-1943)によるピアノ連弾版)
     *
   (休憩)
     *
   マーラー 交響曲第6番イ短調《悲劇的》
    (アレクサンダー・フォン・ツェムリンスキー(1871-1942)によるピアノ連弾版)
     *
   (アンコール)
   ショスタコーヴィチ 交響曲第5番からフィナーレ(L.アトフミアン編曲)
   大野雄二 ルパン三世のテーマ’79(神内敏之編曲)


通常のリサイタルで、このようなオーケストラ曲のピアノ・リダクションが演奏されることは極めて珍しいことだろうと思います。日本語にするとarrangementもtranscriptionもreductionも、みんな「編曲」になってしまいますが、今回のプログラムはまぎれもなくreductionに該当します。その原義は、(オーケストラ曲をピアノ・ソロあるいは4手連弾で弾けるように)音を間引いて少なくする、ということですから、そこにはどうしても「学習用」「間に合わせ」「代用品」といったマイナスイメージが付きまといます。実際、このリサイタルを聴きに来た人は余程の物好きだとは思うけれど、耳にしたのは極めて刺激的な面白い音楽でした。
気づいたことはたくさんありますが、まずマーラーの交響曲から、その大規模なオーケストラによる迫力とか、精緻なオーケストレーションによる華麗な音色といった魅力を捨て去ってもなお音楽として魅力あるものであった、という発見が何より大きいと思います。マーラーが第4交響曲で描こうとしたモーツァルト的世界、あるいは第6番におけるユーゲントシュティルの追及といった要素は、オーケストラで聴くよりリダクションのほうが寧ろ鮮明に聞こえるくらい。特に第6番の第1楽章の展開部で、原曲ではカウベルがごろんごろん鳴るところとか、フィナーレのハンマーの一撃に至る展開とかが如何に天才的かつ異常な音楽かということがありありと判りました。
4番と6番の聴き比べということに関しては、一聴した限りでは断然6番のほうが面白いと思いました。ただ、それが編曲者の違いによるものか、原作自体に起因するものか、あるいは演奏者の問題なのかは俄かに判断がつきません。編曲者の力量については、作曲もしていたとはいうものの一介の楽譜編集者であるヴェスと、作曲家としてそれなりの人であるツェムリンスキーでは格差は歴然としていそうだが、耳で聴いた感じとしてはそれほど明確な差があるとも思えません。4番のほうが演奏者二人の手が頻繁にぶつかって弾きにくそうな感じはしましたが、一般的な意味で言えば6番の方が技巧的には難しいだろう。結局は演奏者二人が、6番のほうがノリが良かった、ということだろうか。
会場で配られたチラシには、こういったリダクションの存在意義について、録音メディアが無かった初演当時、鑑賞用・普及用・学究用として使われた云々と書かれていますが、それってどうだろうか。連弾とはいえ、その演奏の難しさはハウスムジークの域を遥かに超えていると思われるので、これはあくまでもプロあるいはプロを目指す作曲家や指揮者のためのものだという気がします。ピアノ・リダクションにおけるハウスムジークからプロの為の研究ツールへの変遷について、詳細に歴史を紐解けば実に面白いテーマになりそうだが、それはともかく、このマーラーのリダクションに用いられているピアノ技巧というものが、従来の19世紀ロマン派的なそれとはかなり相貌を異にしていて、それがそのままマックス・レーガーの複雑極まりないピアノ書法に通じているように思われました。実際、レーガーのあの書法というのは、19世紀末から20世紀初頭に出版された、一連の複雑なピアノ・リダクションの学習と切り離せないのではないか。あるいはR.シュトラウス、シェーンベルク、ベルク、ツェムリンスキー等々、20世紀前半を飾るオーケストラの大家達の作風、書法すべて、このマーラーの交響曲のリダクションとその学習の成果といっても過言ではないのではないか、というのが今回得た仮説。そして、それを遡れば、19世紀後半に出版されたタウジッヒのような大ピアニストによるワーグナーのボーカルスコアが、それまでの「オペラ練習用のピアノ伴奏」とはレベルの違うものとして書かれていることに思い至りますし、その起源というのはおそらくリストによるベートーヴェンやベルリオーズの交響曲のリダクションに違いなかろう、と思います。オペラの裏方におけるコレペティトゥールの専門職化なんかとも関係がありそうな事象ですね。
ちょっと脱線しますが、ピアノ技巧というものが、ピアノそれ自体の制約の中でリストが開拓したものを超えて発展していく可能性は低かったのではないかと思います。基本的にピアノで物を考えるのではなく、直接オーケストラのスコアに音楽を書きつけることの出来た人の作品をreduceすることで、ピアノという楽器は既存の技巧になかったイディオムを発見し、さらに発展してきたのではないか。それはたとえばリストがベートーヴェンやベルリオーズのリダクションから得た書法であり、このマーラーのリダクションを通じてレーガーに至るイディオムもそのような一つであったように思います。
もう一つ脱線。ネットで拾ったコメントに、これらのリダクションとシェーンベルクらのいわゆる「私的演奏協会」との関わりについて示唆するものがありました。確かに新ウィーン楽派の人たちが自分たちの実質的な師であったマーラーの音楽を連弾で弾いて学ぶという機会は多かったに違いありませんが、私的演奏協会の旗揚げが1918年、ヴェス版の出版年は判りませんでしたが、ツェムリンスキー版の出版は1906年。直接的関連を云々するのは少し無理がありそうです。
脱線が尽きませんが(笑)、マーラーの演奏については大井氏がプリモで法貴氏がセコンド。ペダルは大井氏担当、ということで明らかに彼の意向が表にでた演奏。4番ではアンサンブルにいくぶん危なっかしいところもあり、この交響曲独特のカンティレーナの表現という点でも若干問題はありましたが、後半の6番は文句なしの凄演。80分に及ぶ演奏が全く弛緩することなく、あっという間に終わったという印象。フィナーレの大ハンマーを振り下ろす個所は是非とも大井君の足ドン!が見たかったなぁ・・・。
アンコールがあるというだけでも驚きだが、一曲目はショスタコーヴィチの5番のフィナーレ。大井氏はショスタコ嫌いだと思ってましたので、これはリダクション版でマーラーの劣化コピーぶりを満天下に晒そうという悪意の籠った所業だろうかと思いきや、意外に4手連弾の身もふたもない響きが曲想に合っていて、まるで元から連弾用に書かれていたみたいに聞こえる。ちなみにアンコールは法貴氏がプリモに回り、彼女の意志の強さみたいなものがビシビシと伝わってくるのも痛快。会場でお会いしたショスタコーヴィチ・フリークのK氏にだれの編曲か訊きましたが、どうもショスタコ本人の作ではない、ということ以外その時点では判りませんでした。つい先程、大井氏ご本人のツイッターに編曲者の名前が出てましたから上記で間違いないと思います。
そして最後に大井氏の「70年代の現代曲をやります」との前口上があって始まったのが超絶技巧版ルパン三世のテーマ。これ実際に聴かなければ想像もつかないでしょうが、腰抜かしそうな名編曲の名演でした。もうやんややんやの大拍手。法貴さんもノリノリ。いや~楽しかったです。
by nekomatalistener | 2014-03-03 23:01 | 演奏会レビュー | Comments(3)

大井浩明 Portraits of Composers ジョン・ケージ生誕100周年

パソコンの不調でメーカー・プロバイダー・ソフト会社と次々電話していて思いだした。「アンサイクロぺディア」で「たらいまわし」を引くと「タライ回しをご覧ください」とあって、クリックすると「もしかして『盥回し』?」、更にクリックすると「たらい回しを参照」と出る。これ、秀逸だなぁ。





「ジョン・ケージ生誕100周年」と銘打ったリサイタルを聴きに行きました。今回は数日間ネットが起動しなくなったお陰で少し気が抜けてしまいましたが頑張って備忘を書いておこう。

  2012年11月15日 代々木上原けやきホール
    ジョン・ケージ
    《一人のピアニストのための34分46.776秒》(1954)
    《易の音楽》(1951)

ついこの間、6月16日に大井浩明の演奏でケージの「プリぺアド・ピアノのためのソナタとインターリュード」と「易の音楽」を聴き、このブログにも感想をアップしましたが、半年も経たぬ間に再び「易の音楽」が聴けるとは望外の喜びでした。なんだかんだ言っても、これはケージの代表作であるだけでなく、戦後前衛音楽の金字塔の一つであり、かつ聴いて面白いことこの上ない音楽であると思います。音楽のコンセプトについては以前にも書きましたし、大井氏のブログに野々村禎彦氏の論文が掲載されているのでそちらを参照していただくとして、前回芦屋の小さいサロンで聴いたのと比較すると、ほんの少し得られる感興が薄いような気がしました。もちろん、今回平日の仕事帰りというこちらのコンディションの所為なのは判っていますが、サロンで聴くのと、小規模ながらそこそこ立派なホールで聴く、という違いは無視できないと思います。やはりこの作品は、微かに響く倍音にまで耳を澄ませるような行為の中から、その途方もない内実が浮かび上がってくるといった作品なのだろう。演奏は前回同様、作曲者の指定した43分という演奏時間の目安を大幅に逸脱して70分弱掛っていたと思いますが、それでも前回と比べると音が完全に減衰するのを待たずに先に先に、といった演奏だったように思う。断わっておくとケージのスコアは楽譜の2.5㎝が四分音符1個に割りつけられ、1分あたりの四分音符数は厳格に指定されているから、本来であれば演奏時間の大幅な伸張はあり得ないはずだが、芦屋での大井氏の演奏は敢えて音の減衰の美学とでもいったものにこだわり、無秩序に現われる長い休止(それもまたサイコロ投げの結果による偶然の産物)は気が遠くなるほど「何も起こらない時間」が持続するのでした。今回、演奏時間がさほど変わらないのに、妙にサクサクと進んでいく印象を持ったことをどう説明すればいいのか。今回の演奏は内部奏法によるフィンガーミュートが決まらずに通常の響きで音が鳴ってしまう箇所が数ヶ所あったが、前回のときより大井氏の集中力も若干欠けていたのだろうか。これは弾き手も聴き手も生身の人間である以上、仕方のないことなのか。あるいは弾き手と聴き手の生理的なコンディションによって異なる結果が得られることもケージが織り込み済みの事象なのか(笑)。このあたり、上手く言語化出来ないのがもどかしい。もっとも、ちょっと気乗りしない状況でも弾けるような生易しい曲ではないし、聴く側だって70分身じろぎもせず聴くだけでも相当の体力が要る作品であることは間違いない。私にとっては前回ほどの感銘は無かったとは云え、真剣勝負の70分(そういった御大層な聴き方が正しいかどうかは別問題)。やはりケージの音楽は面白い。

ちょっと脱線。大井氏のツイッターから引用(の引用)。
《鈴木大拙は風呂敷に包んだ本を持って教室に入ってきて、 ゆっくりと静かに話した。講義が始まっても10分くらい何も言わないこともあったが、その沈黙で学生たちが苛立つことはなかった。ケージはそのかわりに 「クエイカー教徒の集会でも経験できないような美しい静けさ」を体験したという。》
・・・「美しい静けさ」か。
「易の音楽」に現われる長い長い沈黙はかくあるべし、という感じがしますね。

順序は逆になりますが、前半の「34分46.776秒」、同工で楽器や時間数が異なる幾つかの作品があるようですが、しっちゃかめっちゃか珍無類、これぞケージといった趣。ピアノはボルトやらゴムやら(大井氏のツイッターによるとアルミの洗濯バサミまで)様々な異物を弦にねじ込まれ、演奏の途中でそれらを抜いたり入れたり、といった操作が加えられます。しかもピアノを弾きながらクラクション(いわゆるパフパフホーン)や笑い袋、クラッカーを鳴らしたり、左横に置かれた電気増幅したトイ・ピアノを弾いたり、弦を引っ掻いたりピアノを叩いたり、唸ったり吼えたり、と八面六臂の活躍をしなければならない。1948年のブーレーズの「第2ソナタ」を「ピアニストが燕尾服で演奏できる最後のピアノソナタ」と呼んだのは柴田南雄だったと思うが、確かにその6年後に書かれたこの作品は最早通常のピアノ・リサイタルには本質的に馴染まないものだろうと思う。だがこれも音楽。前列で聴いていた男の子3人組が休憩後に消えたのも悲しくもおかしいが、前衛の季節も遠くなりにけりと思う昨今、彼らはこれをどう聴いたのか訊いてみたい気もする。私?わくわくして聴いてました。結局のところ、それはその時代における「自由」の追求であり、楽譜や演奏会といった制度や規律との闘いであったと思うから。そして残されたこれらの作品の起爆力は今でも威力を失っていないと思います。
来年1月、大井氏は今度はケージの大曲「南のエチュード」を全曲弾くらしい。この南天の星々をそのまま楽譜に音符の「点」として書き記した(ある種の楽音への変換の操作はあるにせよ)ある意味難曲をどう弾くのか、こちらも(怖いものみたさ半分で)聴いてみたい。

蛇足その1
ピアノはホール備え付けのものではなく、前回シュトックハウゼンを聴いたタカギクラヴィア松濤サロンのスタインウェイでした。日本のホールではやはり「内部奏法禁止」「プレパレ―ション禁止」のところが多いようです。
蛇足その2
演奏後ぐったりしている大井さんを楽屋に訪ね、あつかましくも「易の音楽」のペータース版の楽譜にサインしてもらいました(実はミーハーな私、とってもうれしい)。
by nekomatalistener | 2012-11-19 22:00 | 演奏会レビュー | Comments(0)

大井浩明 シュトックハウゼン歿後5周年リサイタル

10月29日のJR西日本のプレスリリースより。
「奈良線 六地蔵駅の社員が起床遅延したことにより営業開始が遅れる事象が発生しました。ご利用のお客様には大変ご迷惑おかけしましたことをお詫び申し上げます。」とあって、笑っちゃうのがその原因。
「六地蔵駅の社員が起床後に二度寝したためです。」
ニ度寝って・・・正直過ぎて「ああ、もうそれは仕方ないよね」って思ってしまう。



秋晴れの週末の昼下がり、大井浩明の弾くシュトックハウゼンを聴きに出かけてまいりました。

  11月3日 於タカギクラヴィア松濤サロン
  シュトックハウゼン ピアノ独奏のための《自然の持続時間》Natürliche Dauern(2005/06全24曲)
  (連作『音~一日の24時間』より「第3時間目」)

以前大井氏のリサイタルでシュトックハウゼンのピアノ曲Ⅰ~Ⅺを聴いた時に、アンコールとしてこの「自然の持続時間」の終曲を聴きました(アンコールといっても15分以上あった訳だが)。その時は随分とりとめのない作品だなぁ、といった程度の感想しか持ち得なかったのですが、今回全24曲を聴いてとても面白いと思いました。
私はシュトックハウゼンという人について、特段詳しい訳でもなければ大好きという訳でもありません。何枚か持っているCD(「ルフラン」とか「ツィクルス」とか)はいずれも1960年代までの所謂「初期作」で、2007年まで生きた作曲家の後半生に書かれた巨大な二つの作品、「光」と「音」についてはいくつかの抜粋を聴いたことがあるのみ(最近は有名な「ヘリコプター四重奏曲」も「ヒュムネン」もyoutubeで全曲聴けたりするので便利な世の中ではあるが・・・)。それにしても、「光」が全曲通すと28時間、「音」については11時間云々と聞くと、ほとんど誇大妄想狂かとびびってしまうのは事実だけれど、今回はとにかく余計なことは考えずに音に身を任せることにしました。
プログラムに記された作曲者による演奏時間の目安によると、前半12曲で70分ほど、後半12曲で60分といったところですが、大井氏の演奏は前半で1時間40分ほど掛ってました。特に最初の4曲、ぽつぽつと弾かれる音が減衰して完全に聞こえなくなるまで耳を澄ましていると、際限なく演奏時間が伸びて行き、この部分だけで1時間くらい掛っていたのではないか。休憩の後の大井氏のトークによると、シュトックハウゼン自身はけっこう現実的なところがあって、「音が完全に減衰するといっても、演奏者には聞えていても聴衆には聞こえないこともあるのだから、早めに切り上げてどんどん先に進むこと」と楽譜にも書かれている、とのことだそうだ。しかし、この日の会場は50人も入れば満席になる小さなサロン。良く手入れされているスタインウェイは果てしなく余韻が響き続けるので、ある意味苦行にも似た様相を呈していました。後半はさすがに少し早目に切り上げる演奏で、きっかり1時間ほどで終わりました。ちなみにwikipediaにはこの作品の表題について『自然な演奏時間』としたほうが的確であるように書かれている。まぁその通りかも知れないが、このタイトルの醸しだす多層的な意味合いはこの訳語では消えてしまいます。
それはともかくふと思ったのだが、シュトックハウゼン自身の「演奏時間の目安」が随分短めなのは、シュトックハウゼンをもってしても、音が減衰していくのをこれほどの時間を掛けて聴き入るというのに実は耐え得なかったのではないか、ということ。以前大井氏がケージの「易の音楽」を弾いた時に、ケージ指定の時間より随分間伸びしていたのも同様だろう。私自身、子供の頃、仏壇の輪を鳴らして完全に消えるまでじっと耳を澄ませていた記憶があるが、こういう減衰の美学のようなものは日本人独特のもので西洋には本来なかったものではないか、と。これは何の根拠もない思いつきの域をでないものだが、あながち間違いでもなかろうと思っています。
もちろんこういった作品を聴いていて多少の退屈さを感じないという訳ではない。これを、モートン・フェルドマンの例えば「ピアノ」とか「マリの宮殿」といった作品と比較すると、シュトックハウゼンのほうの一曲一曲よりもフェルドマンの作品のほうが遥かに演奏時間としては長いが、フェルドマンのほうがより短く感じます。どちらも耳で聴くとポツポツとしか音が鳴らないが、フェルドマンのほうは実はそのリズムは厳密に記譜されていて、そういったことが聴く側の感じ方に影響しているのだろうか。
シュトックハウゼンの話に戻すと、音の選び方としてはセリエールな手法も使われているようだが、むしろより自由な、時として若干の通俗性すら感じられる手法。広義の調性を感じさせるような作品では、リゲティのエチュードのような響きも聞こえる(「無限柱」とか「開放弦」のような)。しかもリゲティのような精緻さはあまりなくて、ぱっと聴いた感じは随分テキトーに書いてるなぁ、というもの。そうかと思えば例の「ピアノ曲Ⅹ」でお馴染みの手袋(プロテクター)をはめて弾くものがあったり(Ⅹに比べるとかなり穏健だが)、神事で使うような鈴や仏具の輪を鳴らしながら弾くものがあったり。あるいはピアニストが言葉を発したり、クラスターも内部奏法も要は何でもあり。こう書くとシュトックハウゼンのピアノ曲の集大成みたいに思われるかもしれませんが、そんなことはなくて繰り返しになるけれどものすごくテキトーっぽい音楽がたらたら続く(これは貶しているのではなく、そのユルさが凄く面白い)。初期のピアノ曲のような精密極まりない書法と比べると、なんと遠い地点にまで来たものか、と思いますがそれはそれでとても面白いものでした。これを機会にちょっとシュトックハウゼンを集中的に聴いてみたいと考えています。今ならユーロ安でStockhausen-Verlagの馬鹿高いCDも買い頃かも知れません。
演奏に関して一言。大井氏の演奏、さすがだと思います。息を呑むような最弱音から強烈な強音まで、そのデュナーミクの幅の広さとか、鼻にかかったようなウナ・コルダの響きをはじめとする音色のパレットの多彩さとか、本当に感心しました。この人の演奏について、ともすればその曲目の激烈さばかりが言及されがちだが、指の回りだけでない真のテクニックについてもっと喧伝されるべきだろうと思います。
若い子から年配の方まで幅白い年齢層の聴衆でした。年配といっても、この人達が若かりし頃は正に前衛の時代だったのかもなぁ。休憩のあと何ぼか減るかなぁと思っていたらほとんど誰一人帰った方はいらっしゃらなかった模様。さすが東京です。
by nekomatalistener | 2012-11-04 20:47 | 演奏会レビュー | Comments(0)

大井浩明 ジョン・ケージ生誕100周年記念 ≪ピアノ・アンバイアスト≫

テルメャーロメャーなんて言わんでよー。





月一回の週末の帰省を利用して、芦屋まで大井浩明のリサイタルを聴きに行きました。


  大井浩明 《ピアノ・アンバイアスト》第1回公演~ジョン・ケージ生誕100周年記念
  2012年6月16日 山村サロン(芦屋)

  J.ケージ: プリぺアド・ピアノのためのソナタとインターリュード(1946~48)
  片岡祐介(1969-): プリぺアド・ピアノ独奏のための《カラス》(2012 委嘱新作初演)
   (休憩)
  J.ケージ: 易の音楽(1951)

  (アンコール)E.サティ: ジムノペディ第3番


以前、大井浩明がシュトックハウゼンを弾いた際、「このブログが大井氏の目にとまるかどうか判らないけれど、次回は会場のイビキや寝息が気にならないように是非ジョン・ケージ特集をお願いしたいものです。『易の音楽』は我々聴衆にとっても絶対に素通りしてはいけない音楽だと思いますので」と書きました(2012.1.31投稿)。が、こうやって思いの他早く、「易の音楽」を聴けるとは!本当に今回のリサイタル、快挙だと思いました。「イビキや寝息」どころか、集まった聴衆は(100人もいないくらいだけれど)皆真剣に聴き入っており、それもまた大変うれしいものでした。駅前の商業ビルの3階、能の舞台に年季の入ってそうな小型のスタインウェイが鎮座しており、場所柄買い物客の声や子供の走り回る音が微かに聞こえたりするが、そこは目を瞑ろう。

リサイタル前半の「プリペアド・ピアノのためのソナタとインターリュード」は、ケージの作品の中では比較的CDも多く、よく知られている部類だと思いますが、後半の「易の音楽」はその名のみ有名で実際に演奏される機会は極めて少ないのが現実でしょう。因みに私は前者については高橋悠治の1975年録音のデンオン盤で親しんできましたが、この記念碑的CDについては別に稿を改めて取り上げてみたいと思っています。後者についてはヘルベルト・ヘンクが1982年に録音した独ヴェルゴ盤(WER60099-50)を聴いてきましたが、今回の大井浩明の演奏を聴いてしまうと、演奏・録音両面で些か情報量の少ない演奏に思えてしまいます。

詳細にきちんと時計を見ていた訳ではないけれど、前半の「ソナタとインターリュード」だけで70分くらい掛かっていたのではないか。高橋悠治のCDはトータルで61分位だが、大井の演奏はテンポがゆっくりしているというよりは、繰返しを全て行なった結果のようだ。全部で16曲あるソナタは、例外もあるが概ねAABBといった形式の、いわばスカルラッティ風の単楽章のソナタ。途中で4曲挟まれるインターリュードは幾分形式的な自由度が高く、敢えて言うならラプソディックな音楽。プリペアされた45の音は、弦にボルトを挟み込まれて「ビョ~ン」とノイズを含んで鳴る音から、ゴムを挟まれて「ポコッ」と死んでいる音の間の様々な表情(「カシャッ」とか「パシッ」とか)を見せる。また、ボルトの重さによっては、弦自体がその重みによりかなり音程が下がってしまい、奇天烈な響きを醸し出す。100人も入れば一杯になってしまう小さなホールで、ダンパーを上げた状態で鳴る音とも言えない音に息を詰め、時に一つ一つの音に淫するように、また時にガムラン風の響きにたゆたうように紡がれていく音楽に陶酔する思いでした。この山村サロンというホール、私は初めてでしたが、最初部屋の造りを見てデッドかな、と思ったら以外とよく響き、プリペアド・ピアノの響きを堪能することが出来ました。

続いて演奏された片岡祐介の「カラス」、チラシの解説には「必然性のある蛇足」とあるが、ネタバラシをすると、ケージの「ソナタとインターリュード」演奏後に弦からボルトやゴムを取り除いていく際の音響と一連のパフォーマンスが作品となっている、ということ。ケージ演奏後、大井はピアノの下にもぐりこんでペダルの後ろに木片のようなものを挟み込み、ダンパーを上げた状態にして楽譜(というか手順書)を見ながら、ボルトやゴムを順次取り除いていく。その際、低弦はビョーンと大きな音がなり、高音部はコリコリと小さな音、そして外したボルトやプラスチック片を容器に容れていく際のカラカラいう音、こういった全てが「作品」となっていて、実にケージの演奏会に相応しい素敵な「蛇足」なのでした。

後半の「易の音楽」、こういった演奏会というのは、語り継がれなくてはならないと思う。私はおよそ80分弱の間、身じろぎもできず聴き入り、とてつもない感銘を受けた。曲のコンセプトはよく知られていると思うが、8×8の方陣に記された音楽上のイベントとその構成要素としての音高・音価・強度などの全てが3枚のコイン投げの結果によって選ばれ、楽譜に確定的に記されていく、というもの。全4巻からなる大作だが、各巻の小節数もコイン投げの結果である。楽譜上の横方向2.5cmが四分音符一個の長さになぞらえられ、1分あたりの四分音符の数はこれまたコイン投げによって選ばれ、次々と変動していく。作曲のプロセスのかなりの部分が偶然に委ねられており、その結果数十秒の沈黙が続くかと思えば同時多発的なイベントによって超絶技巧を要するような音の密集が発生する。第1巻はそれでも比較的伝統的な奏法によるのだが、第2巻以降は、内部奏法や肘まで使ったクラスター、ピアノの胴体を叩いたり蓋をパシンと閉めたり、あるいは内部のフレームを棒で叩いたり、といったイベントが加わる。内部奏法は、弦を指ではじいたり棒で引っ掻く他、弦に指を置いて鍵を叩き、その瞬間ペダルを踏み込むことで「音を殺して響かせる」奏法もある(FINGER-MUTEDと記されている)。ソステヌート、ウナ・コルダとサステインの3種のペダルの使用は厳格に譜面に記されており、また打鍵後に音が消えようとする瞬間にサステイン・ペダルを踏むとか、鍵盤を鳴らさずに押しておいて倍音を響かせるといった特殊奏法に満ち満ちていて、こうして小さなホールで実際に聴くと驚くばかりの豊かで多彩な響きを作り出す。まったく不思議で仕方が無いのだが、この偶然の産物がどうしてこんなにかっこよく聞こえるのか。これは美なのか、といわれると少し躊躇する。響きというか、各イベント、各瞬間が言葉の通常の意味で美しいか、と言われたら、美しい瞬間もそうでない瞬間もある、といったところだと思う。ただ、それを黙々と演奏するという行為そのものが、私の貧しいボキャブラリーで表すと「かっこいい」ということになるのだ。CDで聴いていたときには全く思いもよらなかったことだが、大井はピアノから楽譜立てを取り外し、ペータース版の楽譜を拡大コピーしたと思しい冊子をフレーム手前に直接置いて弾いた。楽譜の下端が鍵盤に覆いかぶさり、鍵盤を弾く時はえらく弾きづらそうに見えるが、内部奏法が頻出するので致し方ないのだと思う。これって、プロンプターのような小さなモニターをフレームに置いて楽譜を写す、とか、やりようがあると思ったが。いずれにしても色んな意味で難曲中の難曲といえるだろう。CDが殆どないのも無理はないが、ヘンクのCDが46分強、ケージ自身の想定した演奏時間が43分に対して、今回の大井の演奏が70分超えとはどういうことか。全4巻の中で一番長い第2巻はヘンクのCDで約20分、楽譜に記されたケージ自身による目安の時間は16.5分であるが、このリサイタルでは多分30分を超えていたと思う。曲のテンポに関しては作品の性格上、もはや目安程度にしか現実には取り扱えないと思われる。実際耳で聞くと、ヘンク盤は各イベントの性格の対比にはあまり関心が払われておらず、一気呵成に作品の全貌を示そうといった趣ですが、内部奏法、特にFINGER-MUTEによる多彩な音色変化はややおざなりな感じで(演奏・録音両方に責任があると思う)、正直なところ、コンセプトあるいは現代音楽史上の重要性に比してさほど面白いとはいえない、というところでしょう。しかし大井浩明の演奏は、演奏時間が雄弁に示すとおり、どこまでも各イベントの醸し出す響きにこだわり、響きに淫するような演奏。音を鳴らさないままペダルを強く踏み込み、「・・・」(漫画なら「シーン」と書くところ)と音にならない音が消えるまで耳をすます行為。恐らくケージが(やや表層的に)鈴木大拙の思想などから夢想していた世界を、誰よりも正しく、ケージの想像をむしろはるかに超えて実現した演奏といえないだろうか。自分自身でもこれだけの長丁場、いっときも集中力が途切れることなく、最後まで聴き通したことに驚いています。

それにしても、ケージはやはりライブを聴くべき作曲家だとつくづく思う。特に後年の、図形楽譜や、本当に偶然の要素(ラジオを鳴らすという指示があれば、そのとき偶々ラジオでやっていた番組とか)による作品は、もはやCDのような繰返しの再現を前提とした記録媒体には向かないので当然だが、今回のような「確定的に書かれた作品」にしてもライブを聴いて初めてその面白さが体感できるような気がしました。そうはいっても、一般的なリスナーとしては、まずはCDやDVDから対象に近づいていくしかないのだから、とりあえず「易の音楽」などは何度もCDで聴くしか、ケージに近づく道はないと思う。少なくとも、ケージといえば「4'33''」、というのでは何も理解したことにはならないと思う。演奏家にももっと取り上げてほしいと思うが、「ソナタとインターリュード」はともかく、「易の音楽」の難しさは想像を絶するほどであるので、しばらくは大井氏に録音を期待するくらいしかなかろう。

「易の音楽」が終わって、アンコールにサティのジムノペディ第3番が演奏された。サティ→マルセル・デュシャン→ケージという水脈を知る者には何の違和感もない。実に素敵なアンコール。
by nekomatalistener | 2012-06-18 21:31 | 演奏会レビュー | Comments(4)

大井浩明 カールハインツ・シュトックハウゼン歿後5周年 初期クラヴィア曲集成

大阪万博のニュージーランド館で食べたマトンカレーをもう一度食べてみたい。
(ネタ切れ中)




大井浩明のPortraits of Composersシリーズの最終回はシュトックハウゼンの初期ピアノ曲の全曲
(KlavierstückeI~XI)と、晩年のオペラ「光」から派生的に生まれた作品KlavierstückXVIII のシンセサイザーによる演奏。

  2012年1月29日@白寿ホール
  クラヴィア曲I~IX 
    (休憩)
  クラヴィア曲XVIII ≪水曜日のフォルメル≫
  クラヴィア曲XI
  クラヴィア曲X
    (アンコール)
  ≪自然の持続時間≫より 第24曲


予想通りというべきか、やはりピアノ曲X の演奏が圧巻。前半はI からIX まで順番通り弾いたのですが、後半は順序を入れ替え、XVIII→XI→X という順番でした。
私のようなごく一般的な聴衆にとっては、シュトックハウゼンのピアノ曲Ⅰ~XI を全曲通してとにもかくにも聴き通すという事自体に大変な意義があった訳で、大井浩明のようなピアニストが出てきたから当たり前のようにこんなリサイタルを企画しているけれど、普通は一晩で全曲弾くなんてありえない話。しかし大井氏自身にとっても、全曲弾くという点に最大の眼目があった筈であり、こうすることによって作曲家の全体像に少しでも近づき、俯瞰する目線を得ようと考えたのだろうと思います。もしも時間的な、あるいは物理的・生理的、さまざまな制約がないならば、XI までとは全く作曲年代も様式も異なるXII~XVII や、「自然の持続時間」など、あるいは「マントラ」とか他のピアノ作品も含めて全部やりたいと思われていたに違いありません。そういった性格をもつリサイタルですので、聴き手としては全体を全体として受容するような姿勢さえあれば、小賢しいことは言わずとも、この演奏会を正しく享受できたといえるでしょう。しかしそうは言っても、個々の作品の印象は書き留めておきたいところ。
I~IV については、こういった性格のリサイタルですから殊更小手調べとして聞こえますが、V はメシアンを思わせるような装飾音符群の響きが大層美しく、早くも初期のシュトックハウゼンの音楽に陶然としてしまいます。V からVIII についてはいずれもダンパーを上げた状態で弦を共鳴させるハーモニクスや、3本のペダルの踏み込みの深さまで指定したペダリングなど、まずは音の美しさそのものを感じ取るべき作品でしょう。長大なVI、一つの音が完全に消え去るまで耳を澄ませなければならない、長い休符が頻発する作品ですが、本来こういったコンセプトは、梵鐘や仏壇のりんの果てしない響きが消え去るまで(大した我慢もせずに)耳を傾けていられる日本人には珍しくもないものでしょう。しかし、当日の会場では、この長い休符のところであちこちから深い寝息が露わに聞こえてきて恥ずかしい。これがジョン・ケージの「易の音楽」かなんかだったら、寝息もイビキも音楽の一部として許されるかも知れませんがこの時期のシュトックハウゼンの音楽は何というか、そういうノイズを許さないのですねぇ(笑)。困ったものです。
それはともかく、Ⅰ~VIII は基本的にはいわゆるクラシック音楽の延長線上にある音楽であり、伝統的なヴィルトゥオジテに則った作風。今の地点から振り返ればそんなにぶっとんだ感じはしない。これがIX になると相当いっちゃってる、というか、いきなり何かクスリでもやってそうなあぶない音楽になってしまいます。そしてX は今や戦後前衛作品の金字塔と言ってよいと思います。その規模の大きさ、後世への影響の大きさ、そして何よりも音楽それ自体としての力強さと美しさに掛けて、ブーレーズの第2ソナタと並び称されるべき作品でしょう。ただし、一般的な評価としては、X よりもXI の方が、その不確定性の採用によって、より歴史的に重要な作品と考えられているのかも知れません。

ちょっと個人的な思い出も含めて脱線しますが、ピアノ曲X といえば、なんといってもあのポリーニが1978年に来日した際の演奏が今も語り草です。私もこの時の公演の記録を昔読んで、実際に聴いた人達をどんなにうらやましく思ったことか。その記録はたいてい、それまできっちりした身なりをしていたポリーニが上着を脱ぎ、手にプロテクターをはめて舞台に現れたことへの驚きと、その後の火花の散るような凄絶な演奏への賞賛が書かれていたものです。私自身とシュトックハウゼンの音楽との接点に関して言えば、それからかなり時代が下って1989年のポリーニ来日時のリサイタルを聴く機会がありましたが、その時のプログラムはブラームスのOp.119、シェーンベルクのOp.11、シュトックハウゼンのピアノ曲VとIX、休憩を挟んでベートーヴェンの29番ソナタ「ハンマークラヴィア」という重量級のものでした(確か東京文化会館で聴いたはずです)。ヘルベルト・ヘンクやアロイス・コンタルスキーのCDを買ったのはそれよりずっと後のことですから、私はこのとき何の予習もなしでシュトックハウゼンのV とXI を聴いたことになります(今時はyoutubeでX だって聴ける時代ですが、その頃は絶望的に情報が少なかったのです)。そのせいか、V に関しては殆ど記憶にないのですが、対するにIX の記憶は今も鮮明です。強烈に憶えているのは、クラシック音楽の延長線上にあるV と、カルトな味わいのIX の間に横たわる深淵の目も眩むような深さ、それと、楽譜を見ながらポリーニは弾いていたのですが、途中で楽譜が楽譜立てからずり落ちそうになり、間一髪でポリーニが手で押しとどめたのですが、見ていたこっちが心臓がとまりそうになったことです。それでも、ポリーニのその時のIX は、終盤に出てくる、夜空に消えていく星屑のような装飾音符の乱舞が息を呑むばかりに美しく、シュトックハウゼンの音楽におけるピアノ書法(もっともそれは1952年から1961年という非常に限られた期間のことですが)に完全に魅せられてしまったのでした。私は最近のポリーニの公演には殆ど行っていないのですが、彼はその後もことある毎にシュトックハウゼンを取り上げています。ポリーニという演奏家に対する好き嫌いは措くとして、このことは大変素晴らしいことだと思います。
シュトックハウゼンのピアノ曲は、聴いた感じだけなので確信はないですが、X を除くとピアニズムという観点ではロマン派の名人芸の延長線上にあるといえます。指の回りと別次元の、リズムの複雑さや音価の測り方が極めて困難なことに由来する難しさ、さらにはハーモニクスや特殊なぺダリングの困難さはあっても、基本的には古典派やロマン派をきっちり学んだピアニストならば弾けるはず。しかしX に関して言えばもう完全に過去の音楽とは切断されており、ピアノの技巧ということに関しても、過去のそれとは全く異質。にもかかわらず言葉の通常の意味で超絶技巧の極致という感じがします。XI は不確定性が全面に出ている反面、ピアノ技法という点ではIX 以前に戻っている感じですが、これを事前の準備なしで本来の指定の如く、断片を目にとまった順番に弾く、というのは別の意味で困難さがあるのでしょう。いずれにしてもX 以外はプロのピアニストであれば何とか弾けるハズ。X だって、演奏には大変な困難を伴うと思うけれど、リサイタルに掛ける意義も大きく、報われるものも非常に大きいと思います。少しでも多くのピアニストが当たり前のように取り上げてほしいものだと思う。なんといっても、この時期のシュトックハウゼンのピアノ曲は、ピアノを弾きながら舞台の上で目玉焼きを作る必要もなければ、グランドピアノの蓋の上で全裸になる必要もないですから、その点は簡単ですねw。
話は変わるが、よく最近のピアニストが、現代モノ(同時代の作品、ということではなくて、一応エスタブリッシュメントとしての現代音楽という意味だが)にも目を配ってますよ、といったジェスチャーでリゲティのエチュードであったり、シャリーノであったりを採り上げることがありますよね。アマチュアのピアニストにヴァインなんかが最近人気あるみたいなのも、同様の文脈で理解する必要がある。それが決して悪いとは言わないがそれって現代モノと言っていいのか?と思うことがあります。ある意味「現代風」という衣装をまとったサロン音楽なんじゃないか(それが言い過ぎなら、ソフトコアな現代曲という言い方もある、同じようなものか)。その点、シュトックハウゼンのXI までの諸作品は紛れも無くハードコアなのに響きも美しく、超絶技巧が聴く者を魅了して已まない。もちろん、人気投票したらリゲティの10分の1も得票できないことはよく分かっている。

大井氏の演奏に戻りましょう。XI の演奏に際して、例の大判の断片がばらばらに記された楽譜と、事前に弾く順番を記したと思しい小さめの楽譜の両方を楽譜台に置いて弾いていました。事前に準備することによって失われるものと、事前の準備なして弾くことのリスクないしは困難について云々する資格は私にはありませんが、本当のことを言えばXI に関しては事前に準備した上で暗譜して弾くのが一番良い解決法という気がします。
そしていよいよX。殆ど全編を覆う凶暴なグリッサンドとクラスターとパルス。そして時々果てしない沈黙。人間の耳はどんな音にもいずれ慣れる、という意味で言うなら、私は初めてこれを聴いたとき、これは音の暴力だと感じて最後まで聞くのが辛かったのですが、すぐに慣れて、とうとうその響きを美しいと感じてしまうようになりました。こんな体験は他にはクセナキスの「ジョンシェ」(1977年)を聴いたときぐらいでしょうか。まぁ、斯く言う私だって高校生のころはシェーンベルクのOp11-3ですら音の暴力と感じていて、何度も聴くうちに堪らなく美しく感じられるようになった訳ですが・・・それはともかく、大井氏が上着を脱いだ時は、ああなんて締りのないカラダ、と別なところに注意力が行ってしまって萎えそうになりましたが、プロテクターを嵌めて弾き始めたらもうかっこよくてしびれました。いや、そんなことより大井氏の音質がこの音楽に本当によく合致しているのだと思いました。
順番は前後しますが、XVIII、なんというか、安っぽいミュージカル、あるいは暗黒舞踏かなんかの舞台音楽みたい、というのが正直な感想。とにかく私にはシュトックハウゼンの後半生の創作について云々できる知識が全く無いので、こんな印象だけでネガティヴなことは言いたくないのだが、ずっと居心地が悪くて難儀しました。これはアンコールの(その割には15分も掛かるけれど)「自然の持続時間」の終曲も同様。いずれにしても、生涯に亘る作品をいろいろ聴きたいと思うのですが、シュトックハウゼンのCDってなぜか馬鹿高いですね。いくらなんでもコスパ悪すぎだろうと思って買えません。それでもいつかは「光」を聴くことがあるかも知れませんから、ネタ元の「光」を聴かないうちはとりあえずXVIII の判断も保留しておきたいと思います。

このブログが大井氏の目にとまるかどうか判らないけれど、次回は会場のイビキや寝息が気にならないように是非ジョン・ケージ特集をお願いしたいものです。「易の音楽」は我々聴衆にとっても絶対に素通りしてはいけない音楽だと思いますので。白寿ホールのピアノはプリペアさせてくれなさそうだけど「易の音楽」ならその点も大丈夫だし(笑)。
by nekomatalistener | 2012-01-31 22:31 | 演奏会レビュー | Comments(2)