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ミヨー 「哀れな水夫」 パリ・オペラ座ソリスト・アンサンブル

youtubeでバロック・オペラをあれこれ観ていて、あれ井上順が・・・と思ったらアンドレアス・ショルだった。




ダリウス・ミヨーの珍しいオペラを聴いています。

 哀れな水夫 Le Pauvre Matelot Op.92
   水夫:クリスティアン・パピ(T)
   その妻:カテリーヌ・デュボスク(Sp)
   その義父:ジャック・ボナ(Bs)
   その友達:ジャン=フランソワ・ガルデイユ(Br)
   ジョナサン・ダーリントン指揮パリ・オペラ座ソリスト・アンサンブル

 弦楽三重奏曲 Op.274
   アルベール・ルーセル・トリオ

   1987年録音
   CD:ARION ARN63659

以前このブログでストラヴィンスキーの「エディプス王」を取り上げた際、こんなことを書きました。
「ストラヴィンスキーの頭の中にある、本来の音(理想像)が見事に現実のものとなっていると思うのですが、その理想像とは1920年代のパリで、コクトーやクローデル達と、いわゆる6人組の連中のコラボが目指していた新しい芸術、すなわちサティの「ソクラテス」や「パラード」の世界から出発し、オネゲルの「アンティゴーヌ」やミヨーの「クリストフ・コロンブ」といった舞台作品に結実した芸術的潮流と関連があると見るべきでしょう。」(2012.6.26.投稿)
あるいは「ペルセフォーヌ」について書いた下記の一文。
「(略)少なくとも1926~27年の「エディプス王」から1933~34年の「ペルセフォーヌ」の間に書かれた諸作品(ミューズを率いるアポロ、詩篇交響曲、ヴァイオリン協奏曲etc)については、6人組の影響という視点から聴き直してみる必要を感じています。」(2012.7.28.投稿)
それにしても1920年代のミヨーとストラヴィンスキーの関係は、1850年代のリストとワーグナーの関係にも似ていて、どちらがどちらにより大きな影響を与えたのか判然としない程、互いに多大な影響を与えあっていたに違いありません。こうした訳で、いつかミヨーの作品を集中的に聴いてみたいと考えていました。
ミヨーという作曲家は、ある種モーツァルト的というか、身体の奥底から自然に溢れ出る音楽をひたすら長い生涯に亘って書き留めた作曲家というイメージがあります。Wikipediaによれば作品番号附き作品はなんと443。いくら長生きしたとは云え、かなりの多作家です。そのうち、私が聴いたのはいくらもないけれど(駄作もたくさん書いてるという話だけど)、どれを聴いても基本的に楽天的で、良くも悪くも金太郎飴のようにミヨー以外の何物でもない。しかし間違いなく云えることは、彼は天性の音楽家だったということに尽きると思います。そういった意味では、モーツァルトに喩えるよりも、手に触れるものすべてが黄金になったミダス王にも似て、書くもの書くもの、すべてが真正な音楽になってしまった(故に良くも悪くもあまり苦労して音楽を書く必要がなかった)と云えるのではないでしょうか。彫心鏤骨とか苦心惨澹とかいった言葉ほどミヨーの音楽に無縁なものはありませんが、あまり立て続けに聴くと少し飽きてしまうところも無きにしも非ず。それでも私は彼の音楽を愛して已みません。
その中でも大小とりまぜて15曲ほどあるオペラを聴いてみたいと思っていましたが、これがなかなか入手困難なものが多い。ようやく1927年に初演された、3幕通しても30分ほどのショートオペラ「哀れな水夫」を聴くことが出来ました。添付のリーフレットには対訳がありませんが、この手のマイナーレーベルでは、フランス語のリブレットが載っているだけでも良心的。しかも有難いことには、このコクトーのリブレットの翻訳は文庫本になっていて簡単に手に入りました(ジャン・コクトー『大胯びらき』澁澤龍彦訳、河出文庫所収)。
登場人物わずか4人。
水夫の妻が切り盛りする酒場で、妻と水夫の友人が話している。水夫は船旅の途中で行方不明になり15年ほど経つが、妻は夫の死が信じられない。友人はなにかと妻に言い寄り、妻の父も友人との再婚を望んでいるが、妻の貞淑は堅い。舞台が空になると、水夫が現われる。やっとのことで流れ着いた南の国を逃れ、帰還した水夫は、まっすぐ妻のもとには帰らず、友人宅を訪れる。長年の苦労と、現地の土人に彫られた刺青の所為で、友人はにわかに水夫だとは判らない。ふと悪戯心もあって、水夫は妻に正体を隠したまま、水夫の知人の振りをして一夜の宿を借りることに・・・
あっと驚く結末はここには書かないことにしますが、機知に富むコクトーの台詞はさぞかし1920年代のパリの芸術家たちの創造意欲を刺激したことは想像に難くありません。
ミヨーの音楽は、第1幕はジンタ風のワルツで始まります。どこか下卑た響きと洗練の極致とが融合した、こういった洒落た音楽はフランス人にしか書けないものでしょう。正体を隠した水夫と妻との会話からなる第2幕は、物憂げなサンバ・カンソンのリズムで、ミヨーのブラジル体験が活かされています。第3幕の陰鬱な音楽も素晴らしいが、ことさら悲劇的なものは注意深く避けれられていて、実にあっけなく、さりげなく終わるのも素敵です。
演奏は有名どころは一人もいませんが、どの歌手もフランス語が美しく、何度も繰り返し聴くに値します。特に友人役ジャン=フランソワ・ガルデイユは優れた歌唱だと思いますが、その甘いバリトンを聴いていると、コクトーのエロティックなドローイングに出てくる、鯔背で巨大な男根を持つ水夫のイメージは、このオペラでは水夫よりもこの友人役により近い感じがします。
併録の1947年に書かれた弦楽三重奏曲は5楽章からなる17分ほどの小品。これがまた、どこがどうというほどのものではないが実に洒落た作品。若い頃に多調様式やブラジルの音楽のイディオムを取り入れた後は、前衛的な時代の潮流とは一線を画していたミヨーらしく平易で風通しのよい音楽です。そのとりとめのない転調は、晩年のフォーレを愛する人にも受け入れやすいものではないか、と思いました。
演奏しているアルベール・ルーセル・トリオはお世辞にも上手いとは云いかねる演奏ながら、そのノンシャランな雰囲気はよく伝えています。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2013-04-28 23:11 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)