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モーツァルト 「フィガロの結婚」 佐渡裕芸術監督プロデュースオペラ2017

私の身のまわりにはテレビ観ない人が多いんだけど、さすがに福くんのフルネームを福士蒼汰だと思ってた人には「ないわ~」と思いました。





久しぶりのモーツァルトのオペラ鑑賞。


 2017年7月17日@兵庫県立芸術文化センター
 モーツァルト「フィガロの結婚」
  アルマヴィーヴァ伯爵: 高田智宏
  アルマヴィーヴァ伯爵夫人: 並河寿美
  スザンナ: 中村恵理
  フィガロ: 町英和
  ケルビーノ: ベサニー・ヒックマン
  マルチェリーナ: 清水華澄
  バルトロ: 志村文彦
  バジリオ/ドン・クルツィオ: 渡辺大
  アントニオ: 晴雅彦
  バルバリーナ: 三宅理恵
  指揮: 佐渡裕
  管弦楽: 兵庫芸術文化センター管弦楽団
  合唱: ひょうごプロデュースオペラ合唱団
  演出: デヴィッド・ニース


「フィガロ」と言えば、私が高校三年生のとき初めて観たオペラがこれ。しかも自慢じゃないがカール・ベーム指揮ウィーン国立歌劇場の引越し公演で、グンドゥラ・ヤノヴィッツの伯爵夫人、ルチア・ポップのスザンナにアグネス・バルツァのケルビーノという豪華キャスト。最初にこんなもの観てしまったのは幸せなのか不幸なのか、いまだによく分からないのですが、第三幕の手紙の二重唱の、この世のものとも思われない美しさに陶然としたのは昨日のことのように鮮烈に覚えています。
こんなジジイの昔話みたいなことを最初に書いたのも、あれから三十数年経過して、日本の歌手もオケも本当に上手くなったなぁと感慨を覚えたから。今回の公演は外人勢によるものとほぼ日本人歌手によるものとのダブルキャストで、私は仕事の都合で日本人勢によるこの日の公演しか聴けなかったのだけれど、大変高いレベルの演奏であったと思います。佐渡裕の指揮は早めのテンポで颯爽としていて実に気持ちが良い。その表現は時に鋭角的で、典雅なウィーン風を良しとするオールドファンの受けは悪いかも知れない。また颯爽としているといっても、イタリア風の風通しのよい演奏というのとも全く違う(こちらの路線の最高峰はジュリーニがシュヴァルツコップやコッソットらを率いたディスクだろう)。要は数多ある名演の真似事でない独自の表現に達していた、ということでしょう。ただ、正直なところ、ちょっと疲れる演奏であったのも事実。それが、この演奏の欠点なのか、それとも単に私自身の加齢による受止め方の問題なのかは今のところ判然としません。エネルギーに溢れた佐渡の音楽を受け止めるには、聴き手にもそれなりの若さと体力がいるのかも知れません。

歌手はいずれも所を得たもので、これはちょっと・・・というのがない代わりに突出して優れた歌手もいない、という感じ。その中ではケルビーノを歌ったベサニー・ヒックマンがとても印象的。巧い下手ではなくて、文字通り少年みたいな声としなやかな肢体が役柄によく合っていると思いました。やはりケルビーノには、「ばらの騎士」のオクタヴィアンほどコケットやエロを感じさせないのが良いみたい。
伯爵夫人の並河寿美の柔らかく温かみのある声と、スザンナの中村恵理の、スーブレットとしてはややきつめの強靭な声、それぞれ聴いていて楽しいものでしたが、この二人による手紙の二重唱はとても美しく、あっという間に終わってしまうのが恨めしいほど。またこの二人とケルビーノの、第二幕の弾けるようなレチタティーヴォ・セッコもなかなかの聴きどころと感じました。
脇役のマルチェリーナに清水華澄というのも贅沢ですが、予想通りアクの強い歌でありながら、ブッファの枠にきっちり収まっているのがさすがです。この歌手の存在感というのはなかなか凄くて、バルトロとかバジリオがちょっと霞んでしまうのもやむを得ないと思います。
フィガロの町英和は声もテクニックもガタイもあって実に結構。欲をいえばキリがないが、悪目立ちするよりは良い。伯爵の高田智宏然り。ただ伯爵に関して言えば、第三幕のモノローグはもっと上の表現があるような気もします。チョイ役のアントニオもいいんだけど、常識的すぎる演出のせいで今一つはじけなかった感じも。
演出については、所作も衣装も道具もオーソドックスで何の不満もないのだけれど、アントニオみたいな曲者を活かすにはもう一捻り必要な気もします。音楽の邪魔をしないのはよいが、音楽との相乗効果をもたらすこともない、というのは辛口すぎるだろうか。衣装や道具のシックな色合いとか素晴らしいのですが。

佐渡の指揮についてもう少しだけ。私は以前にハイドンのオペラを取り上げた時、モーツァルトと比べて何の遜色もないが、フィガロの幕切れの許しの音楽とドン・ジョヴァンニの地獄落ちの音楽だけはハイドンには無いものだ、といったことを書いたように思います。フィガロの許しの場を聴きながら、改めてモーツァルトの天才を認識したところですが、今回の演奏ではそれが真の感動にまでは至らなかったという他ありません。別に涙腺が緩むような感動だけが音楽の全てではないし、さっきも書いたとおり佐渡の音楽のエネルギーを真正面から受け止めるには、聴き手の年齢や体調が問われるところもあって、許しの音楽が私に思ったほどの感動をもたらさなかったことを以て今回の演奏を貶めるつもりは全くありません。ただ、今回の演奏を聴きながら、なんとなく私は、昔聴いた演奏のノスタルジーだかなんだかで今目の前にある演奏を貶す年寄の気持ちが幾分分かったような気がしたことを告白しておきたい。この備忘だって、冒頭に挙げた若かりし頃に聴いたベームの演奏だの、ジュリーニ盤の素晴らしさをいちいち挙げて比較すればどんなに書き易かろうと思わないでもない。だがそれでは耳が、感性が劣化する一方だろうというのも分かっている。音楽と加齢というのはなかなか難しい問題だと身に染みたという蛇足でした(笑)。
(この項終り)

by nekomatalistener | 2017-07-20 00:26 | 演奏会レビュー | Comments(0)

ブリテン 「真夏の夜の夢」 佐渡裕プロデュースオペラ公演

普段音楽の受容における性差というものをあまり感じることはないのだが、この亀和田武氏の指摘には頷かざるを得ない(ビートルズ初来日に関するコラムより)。
「新しい音楽、感情、表現にすぐ反応したのは少女だ。武道館の観客は、八割が十代半ばの女の子だ。男のファンが増えるのは、直後の『リボルバー』や『ホワイト・アルバム』など、曲や詞も進化し、ビートルズ思想が頭で理解可能になってからだ。」(週刊文春平成28年7月14日号)





佐渡裕の「真夏の夜の夢」初日。平日のマチネだが芸文のKOBELCOホールはほぼ満席。舞台としての完成度も高く、興行的にも音楽的にもまずは大成功といってよさそう。

 ブリテン「真夏の夜の夢」
 2016年7月22日@兵庫県立芸術文化センター
  オーべロン: 彌勒忠史
  タイターニア(ティターニア): 森谷真理
  パック: 塩谷南
  シーシアス: 森雅史
  ヒポリタ: 清水華澄
  ハーミア: クレア・プレスランド
  ヘレナ: イーファ・ミスケリー
  ライサンダー: ピーター・カーク
  ディミートリアス: チャールズ・ライス
  ボトム: アラン・ユーイング
  クインス: ジョシュア・ブルーム
  フルート: アンドリュー・ディッキンソン
  スナッグ: マシュー・スティフ
  スナウト: フィリップ・シェフィールド
  スターヴリング: アレクサンダー・ロビン・ベイカー
  合唱: ひょうごプロデュースオペラ児童合唱団
  管弦楽: 兵庫芸術文化センター管弦楽団
  指揮: 佐渡裕
  演出: アントニー・マクドナルド
  振付/ムーヴメント・ディレクター: ルーシー・バージ


このプロダクションを成功に導いた一番の立役者は振付・ムーヴメントディレクターのルーシー・バージではなかろうか。ボトム以下の6人の職人たちは歌手としても優れていたが、その演技に惚れ惚れしました。オペラなのだから歌手は歌ってナンボ、少々演技が下手でもそこは目を瞑って・・・という舞台があまりにも当たり前になっているが、振付次第でこんなに舞台が、いや音楽が活き活きと面白くなるのか、と目を見張る思いです。プログラムの紹介によれば、このルーシー・バージという人、「1970年より1985年までバレエ・ランバート(ランベール)でプリンシパル・ダンサーを務め、アンソニー・チューダー、フレデリック・アシュトン、リンゼイ・ケンプなど世界的な振付家の作品を創演」ということだが、さすがにシェイクスピアと「モンティ・パイソン」を生んだ国の人だと思わざるを得ない。職人たちが舞台に出てくると、もういちいち可笑しくて笑ってしまう。特に優男タイプのフルートとガチデブ体型のスナッグは、声と役柄とビジュアルが完璧に一致していて文句なし。ボトムはロバ頭になってから、動きがもうロバとしか言いようがなくて抱腹絶倒の可笑しさ。お月様の役のスターヴリングなんか、風船持って突っ立ってるだけで笑ってしまいそう。
このガテン系6人組のおかげで若干他の登場人物たちが食われてしまった感なきにしもあらずだが、前回の投稿でも書いた通り、私はブリテンが一番嬉々として書いた音楽がこの職人の場だったに違いないと思っているので、この舞台をもしブリテンが目にしたらさぞ大喜びだったと思います。実際、ベルクばりの表現主義からイタリアオペラのパロディーまで、音楽的にはなかなか高度な技法が駆使されていると思えるのだが、それが芝居と一体となって、これまで見たこともないハイレベルの舞台となっていました。
二組の若者たちの自然な演技と優れたアンサンブルも見事でした。4人の歌手は良くも悪くも突出した出来の人はおりませんでしたが、あくまでもアンサンブル主体のオペラなので何の不満もありません。それにしても、ここでも振付の一つ一つが本当によく練られたものであったと思います。これまで観てきたオペラの演出の多くが、いかに振付というものを軽視してきたのかと感じられます。
外国人勢に比べると、日本人キャストによる妖精とシーシアス・ヒポリタのコンビはなぜか演技が生硬で違和感を感じること頻り。パックもオーバーアクションで頂けない。外国人勢に比べてリハーサルの時間が足りなかったのか、それとも何らかの意図があるのか。だが、タイターニア役の森谷真理は、オーベロンと歌うと演技以前という感じがするのに、なぜかボトムと絡む場面は猫のような身のこなしで別人と見紛うほど蠱惑的な演技をしていました。ちなみにこのロバ頭のボトムとの場面、タイターニアがボトムの上着を脱がすと、ボトムはサスペンダーを下してベッドイン。上品だけれどお子様向けとは一線を画す演出で大変結構。
演技の話ばかり書いているけれど、この森谷真理という方、最初のオーベロンとの二重唱はなんとなくコロラトゥーラも決まらずぼんやりした印象なのに、ボトムとの場面は歌としても大変すぐれていました。弥勒忠史のオーベロンは可もなく不可もなし。やはりダブルキャストの藤木大地で聴くべきだったか、というのが正直なところ。ヒポリタの清水華澄は出番が少なくて、彼女の持ち味が生かせていたとは言い難い。シーシアスの森雅史は領主役にはやや非力な印象。妖精の合唱と豆の花・蜘蛛の巣・辛子の種・蛾の妖精はすべて子役(ただし少年合唱だけでなく女の子もいる)。これまで技術的な問題もあってか大人の女声がうたうことも多かったようだが、どうせなら少年だけで揃えてほしかったところ。
今回の公演は妖精たちが日本語で歌うというものだが、結果としてはやはりブリテンの音楽と日本語の「そぐわなさ」を痛感するに留まった感じ。ただこれもあまり徹底してなくて、ボトムと絡む場面ではタイターニアも御付の子役の妖精たちも英語で歌う。森谷真理の歌唱がボトムとの場面になると途端に活き活きとするのも、これと関係があるのかも知れません。日本人キャストによる魔笛の上演などでも、この言葉の問題はやっかいなものだが、やはり日本語と原語のまぜこぜというのは私には余計なことと感じられました。

演出に関してもう少し。
舞台道具だが、最後の劇中劇以外は森のセットで押し通すのかと思いきや、苔生した森の場、倒木のあるさらに奥の森、タイターニアのベッドのある森の一角、職人たちの集まるクインスの作業場、最後のシーシアス邸が、つぎつぎに回り舞台で転換するという趣向。もっとも背景は書割で済ませていたりするのだが、見た目にも楽しくあまりチープな感じはしません。オーベロンやパックの衣装は日本の袴をアレンジしたらしいが、遠目にはスカートみたいでやや違和感あり。職人や貴族の衣装は19世紀風でまぁ常識的な範囲。
日本語字幕は特段文学的な香りのするものではないが、分かりやすく処理されていたように思います。職人たちの劇中劇の前口上、句読点を無視してトンチンカンな意味になるのをまずまず巧く訳していました。また、妖精が日本語で歌うところも字幕がついていたので、日本語を歌詞として聞き取るストレスがなく助かりました。

佐渡裕の指揮については、私はなんとなくもっと大味なものを想像していましたが、基本は精緻に、しかしタイターニアとボトムの場では思いがけないほどねっとりとした表現で、この有名とは言い難いオペラを紹介するのに過不足の無いバランスのとれたものであったと思います。タイターニアの目覚めの音楽の解放感、劇中劇のベルガマスク舞曲から真夜中の鐘の音楽に至る昂揚感も素晴らしい。佐渡裕はこのオペラの、1984年の関西初演の際に副指揮者を担当していたらしく、ブリテンの音楽とは縁もあれば適性もあるということなのでしょう。オーケストラも大きな破綻なく、おそらくは今後何日かある公演でさらに磨かれていくことだと思います。私は先に書いた通り、職人たちの場面で吹き出しそうになりながら本当に楽しくみていましたが、芝居が終わりに近づくに連れて、なぜか涙がでそうになりました。多少のデコボコはあったものの、ブリテンのオペラの凄さというものを改めて認識することができた良い公演でした。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2016-07-25 23:35 | 演奏会レビュー | Comments(0)