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ザ・カレッジ・オペラハウス公演 ヴェルディ「ファルスタッフ」

11月1日の午前11時頃、頬とか首にざっくり切られた傷(もちろんハロウィンの仮装)はそのままで、メイクだけばっちり決めたOL風女子が一人で地下鉄に乗ってたのが謎。





ザ・カレッジ・オペラハウスの「ファルスタッフ」公演に行ってきました。

 2015年11月1日@ザ・カレッジ・オペラハウス
 ヴェルディ「ファルスタッフ」
  ファルスタッフ: 田中勉
  フォード: 晴雅彦
  アリーチェ: 松田昌恵
  ナンネッタ: 石橋栄実
  フェントン: 清水徹太郎
  クイックリー: 荒川祐子
  メグ: 並河寿美
  カイウス: 清原邦仁
  バルドルフォ: 小林峻
  ピストラ: 松森治
  指揮: 下野竜也
  合唱: ザ・カレッジ・オペラハウス合唱団
  管弦楽: ザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団
  演出: 岩田達宗


ザ・カレッジ・オペラハウスは昨年ブリテンの「カーリュー・リヴァー」を観て、関西でもこんな上質なオペラが観れるのかと感心したのですが、上演記録を見ると、1989年の杮落し以降、モーツァルトやヴェルディに混じって、ブゾーニの「トゥーランドット」やヘンツェの「若い恋人たちへのエレジー」など、意欲的な作品がずらりと並んでいます。特にブリテンは「カーリュー・リヴァー」以外にも「アルバート・ヘリング」「ねじの回転」「真夏の世の夢」「ピーター・グライムズ」が過去取り上げられており、昨年の名演はこういった蓄積があってこそ、と思います。昨年まで長らく無関心であったことを本当に悔やんでいます。
今回の「ファルスタッフ」は1989年の杮落しで演奏された演目ですが、大阪音大100周年という記念すべき年に合わせて再度取り上げられたもののようです。ピットを使うと650席ほどの比較的小さい劇場で、しかも客席には音大の学生や関係者が多いとはいえ、全席完売というのは立派。
それにしてもなぜ杮落しが「ファルスタッフ」だったのか、経緯を訊いてみたいものですが、あらためてこのオペラを聴くと、本当にヴェルディが最後に行きついた最高傑作、いや、人類がこの400年だか500年だかの間に書いた最も優れた音楽の一つかもしれないとまで思いました。

前置きはさておき、今回の「ファルスタッフ」、本当に楽しい舞台で、観終わって幸せな気持ちになりました。実を言えば、歌手もオーケストラも演出も、ヴェルディが到達した高みには今一つ及ばず、というところもありますが、舞台に漲る熱気と緊張がなんとも快く、多少の粗は全く気になりなせんでした。
指揮の下野竜也のことはこれまでこのブログで、松村禎三の「沈黙」、ライマンの「メデア」「リア王」の指揮について書いてきて、ヴェルディというのが少し意外でしたが素晴らしい演奏であったと思います。いつもながら、小細工を弄せず大掴みに音楽の本質を抉り出すタイプの指揮で、若いころの直情的なヴェルディならいざ知らず、もはやイタリアオペラの概念をはるかに超えてしまった晩年のスコアは彼の指揮のスタイルにうってつけの素材であったというべきでしょう。残念だったのは、ところどころオケが鳴りすぎるところがあったり、フーガで締めくくられる幕切れがちょっととっ散らかった感じになったり、私は長らくジュリーニがロサンゼルス・フィルと組んだスタイリッシュなCDを聴いてきて殊更そう思ったのかも知れませんが、それでも音楽の本質はすこしも損なわれていないと思いました。
歌手ではタイトルロールの田中勉が素晴らしい。歌の巧さだけではどうしようもない役柄ですが、尊大で図々しい中にも人を魅了してやまない愛嬌が感じられます。この人を聴くのは昨年の「鬼娘恋首引」に続いて二回目だと思うが、声も良く演技も出来る得難い人だろうと思います。
純粋に声の美しさで最も酔わせてくれたのはフェントン役の清水徹太郎。第3幕のカヴァティーナはまるでネモリーノのアリアみたいに聴くたびに涙腺が緩んでしまうけれど、あっというまに終わってしまってもったいない位。癖のない美声のテノールで、もう少し陰影のある役ならどう思ったか分からないが、このあんまり物を考えてなさそうなフェントン役はぴったりのはまり役。なんだかあまり褒め言葉になってないみたいだが本当に素晴らしかった。
ナンネッタの石橋栄実はついこの間ロッシーニの「ランスへの旅」でコルテーゼ夫人を歌ってました。気鋭のリリコ・スピントだろうと思いますが、ナンネッタにはちょっと声がきつくてリリコよりスピントが勝ちすぎている感じも。もうちょっとネジの緩そうな歌い方のほうがよさそうですが、これはこれで立派な歌唱。
アリーチェとウィンザーの奥さん連中は無難な感じかな。私にとって理想のアリーチェといえばジュリーニ盤のリッチャレッリ、ということで、比較するつもりはないがちょっと評価が辛めになってしまうのかも。でも至難なアンサンブルを皆さん実に楽しそうに歌っていたことは特筆に値すると思う。
フォード役の晴雅彦は、以前びわ湖の「死の都」のフリッツ役で辛めの評を書きましたが、今回は立派な歌唱。第2幕の長いモノローグも大変良かったと思います。だけどこの役にはもっと上の表現があるような気がします。楽しい喜劇の中にちらっと覗く深淵のようなもの。ものすごく無いものねだりだというのはよく分かっているつもりですが・・・。
その他脇役の清原邦仁(カイウス)、小林峻(バルドルフォ)、松森治(ピストラ)、十派ひとからげに脇役というのが失礼に思われるほど気合が入っていて存在感がありました。存在感といえば黙役の山川大樹(ガーター亭の主)と森本絢子(小姓ロビン)の存在感も大したもの。合唱も含め、スタッフやキャストの熱い一体感がこちらに伝わるのはこういった公演の最大の愉しみかも知れません。

岩田達宗の読み替えの要素の一切ない演出は安心感が取り柄といった類ですが、ちょっとした仕草や小芝居の部分で笑わせる要素が散りばめられていて好感を持ちました。また、まるで「北斗の拳」に出てきそうなモヒカンのバルドルフォにスキンヘッド&隻眼のピストラ、「おそ松くん」のイヤミ氏そのまんまのカイウスなど、漫画的表現もやりすぎ感がなくていい感じ。いささか学芸会めいたガーター亭の大道具、それが回り舞台になっていてスタッフが人力で押すと今度はやや金のかかってそうなウィンザーの広場のセット、でもそのあとのフォード亭も森の場面もこのセットを使い回し。今回はこれで充分です。手作り感満載の舞台で大いに結構。それよりも、演出家がプログラムに書いている小文になんどもファルスタッフのことを「ゴミ」と書いていて、そうかなぁと若干疑問。むしろごみ溜めのようなガーター亭の上にもウィンザーの中流階級の街並み同様に十字架が見えることのほうがミソだと思われます。誰も傷つかず最後はみんなで仲良くフーガを歌って終わる喜劇に、これ以上の何のメッセージが必要だろうかと思います。

最後にすこし余談めいたことを。
プログラムの冊子のなかで芝池昌美氏が、「《ファルスタッフ》ではしばしばパロディが用いられていること、しかもその多くがヴェルディ自身の過去の作品からのものである(後略)」と書かれており、その一例として第2幕のフォードのモノローグを、「オテロ」第2幕の”Ora e per sempre addio”のパロディであると書いておられます。こんなことを書かれると「ほんまかいな?」とつい他の例を探したくなるのですが、今はそのヒマも気力もないので、代わりにちょっと思いついたことを書いておきます。
このフォードのモノローグ、「オテロ」のパロディ云々はちょっと置いておくとして、先ほども少し書いた通り、喜劇の中に突如現れる特異と言ってもよい悲劇的な音楽。その中にすごく特徴的で耳に残るホルンの音型が出てきます(譜例1)。

譜例1
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このホルン2声(実際には4本で吹いているのだが)の旋律、すこし前にフォードが「(妻を寝取られた男の頭に生えるという)2本の角が自分にもはえてきた」云々と歌うのを受けて、2声のCorno(ホルン=角)の旋律を持ってきたのだろうと思いますが、この部分を聴きながらふと「ドン・カルロ」第4幕のフィリッポのアリアによく似た音型が出てくる(こちらもホルン4本)のを思い出しました(譜例2)。

譜例2
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音型がすこし違うので自己引用とは呼べないかも知れませんが、耳で聴いた感じがとてもよく似ているのは確かかなと思います。いややはり音の上下をすこし入れ替えたら一緒のような気もする。少なくとも愛するエリザベッタをカルロに奪われたフィリッポの悲しみを、ヴェルディがふと思い出したとしても何の不思議もないでしょう。「ファルスタッフ」のスコアはいつか仔細に調べてみたい気がしますね。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2015-11-03 01:29 | 演奏会レビュー | Comments(0)

ヴェルディ 「ドン・カルロ」 二期会公演

アンサイクロペディアで「ポン・デ・ライオン」引いたらこんなん載っとった。
「淡路島 ポン・デ・ライオンなく声に 幾夜ねざめぬ 須磨の関守」
(ってか何でそんな単語を検索したのか、という声)




二期会の「ドン・カルロ」を観てきました。


   2014年2月23日 東京文化会館大ホール
   フィリッポ2世: ジョン・ハオ
   ドン・カルロ: 山本耕平
   ロドリーゴ: 上江隼人
   大審問官: 加藤宏隆
   エリザベッタ: 横山恵子
   エボリ公女: 清水華澄
   テバルド: 青木エマ
   修道士: 倉元晋児
   レルマ伯爵: 木下紀章
   天よりの声: 全詠玉

   指揮: ガブリエーレ・フェッロ
   演出: デイヴィッド・マクヴィカー
   合唱: 二期会合唱団
   管弦楽: 東京都交響楽団


今回の感想を手短に言えば、「歌手すごい、指揮とオケ残念」というところか。私は、とにかく清水華澄のエボリ公女を聴きたくて今回の公演を聴いたようなものなので、その点はとても満足。しかし、総合的にみて色々と問題のある公演だったと思います。
総じて歌手の出来については出色の舞台であったと思います。清水華澄についてはこれまでも何度か取り上げてきましたが、一番最初に聞いたドヴォルザーク「ルサルカ」の第三の森の精は端役なので別とすると、オテロのエミーリア、カヴァレリア・ルスティカーナのサントゥッツァ、メデアのゴラ、どの歌唱を思い出してもその役柄に全身全霊で没入していくタイプの歌手と思われ、しかもその「入り込み方」が凄まじいと思います。それらと比べても今回のエボリ公女、その気性の激しさ、一人の女としての可愛らしさから怖さ、惨めさすべて凝縮したような役柄はまさに彼女にうってつけのものだろうと思います。聞いた話によればそもそもエボリ公女を歌いたくてプロの歌手になった由、その意味でも今回の公演は彼女自身にとっても我々聴衆にとっても忘れ難いものになったと思います。それにしても、エボリ公女というのは数あるヴェルディのメゾソプラノの役の中でも特に難しい役ではないだろうか。彼女の思い入れの深さと、ずば抜けた歌唱力を以てしても完璧とは言えなかったように思います。その原因の大半はもちろん端正ではあるが燃えないフェッロの指揮にあるのだが、彼女自身の問題としても僅かに制御しきれていないような部分があったように思います。例えば第3幕のエボリ、カルロ、ロドリーゴによる三重唱「震えるがいい、偽りの息子」、冒頭のエボリのソロは聴いていて鳥肌のたつ思いだが、後半3人がユニゾンで同じ旋律を歌うところで思いがけなく声が埋もれてしまう。燃え上がる情念と、バランスを考えながら歌唱を制御していく知性の両立、本来矛盾するその双方を両立させる困難、両者のわずかな空隙を垣間見たような感じだろうか。指揮も含めて思いのほか良かったのは第2幕、カルロの手紙を読むエリザベッタのパルランドの裏で、パリの社交界への憧れをロドリーゴ相手に歌う場面。エレガンスの極みというべき場面であろうと思います。ここは本当に素晴らしかった。最初の聞かせどころ「ヴェールの歌」と最大の見せ場である第4幕「おお忌まわしい贈り物」、これも指揮とオケがもうすこし良ければ、と思うが、それを差し引いてももっと上を狙えるはず、という思いを禁じ得ませんでした。今回の歌手陣ではずば抜けていただけに満足しきれない部分もあるが、何年後かにもう一度エボリを歌ってほしいと切望しています。
ドン・カルロを歌った山本耕平も賞賛に値すると思います。輝かしく華のある声で声量もあり、しかも役柄に必要なロバストな声質の持ち主。あまり感情移入できる役柄ではないが、大いに楽しませてくれました。
フィリッポ2世役のジョン・ハオも優れています。よく響く声で王の威厳と孤独を表現し得ていたと思います。
ロドリーゴ役の上江隼人は声量こそ上記の歌手たちに一歩及ばずながら、ノーブルな歌い方が素晴らしい。その知的な歌い振りによって、ソロだけでなくアンサンブルにおけるバランスが適確であったと思います。
エリザベッタの横山恵子は、本来歌うはずであった安藤赴美子が急きょインフルエンザでダウンしたとのことで前日に続いての連荘。テクニックも声量も安定したドラマティコだが、この役にはもう少しリリコとしての側面がほしいと無い物ねだりかもしれませんが思ってしまいました。
可憐な青木エマのテバルト等、脇役も充実していましたが、加藤宏隆の大審問官は本来主役級のバスが歌うべき役柄だと思うのでやや軽かったのではと思います。CDで聴いたニコライ・ギャウロフなんかと比べるのが間違っているとは思うけれど、王と大審問官のバス同志の対決というのは、400年のオペラ史の中でも特異な音楽であり、しかもヴェルディの書いた音楽の中でも最も優れたページの一つだと思うので、どうしても無い物ねだりしたくなります。
合唱は人数の割にはぱっとしません。第3幕のスペクタクルな場面などもうすこしマッシブであってほしいところ。これも新国立の合唱団と比べてしまうと少し物足りなく思います。

さて、先ほどもすこし触れた指揮のガブリエーレ・フェッロだが、悠揚迫らざる、とか端正な、とかポジティブに評価する向きも多かろうと思いますが、私にはなんとも隔靴掻痒で燃えない音楽。心なしか歌手も歌いにくそうに思われる瞬間がいくつもありました。個々の歌手について上に記した小さな不満なども、指揮が良ければ本来は気にならない類のものです。すくなくともドン・カルロやエボリ公女の音楽はもっと直情的にやったほうが良いと思いますが、先程もすこし触れたとおり、王妃の庭園の場などある種のギャラントな音楽はものすごく魅力的。オーケストラ(都響)は、東フィルとかと比べるとどうしても響きが薄くて響かない。個々のプレーヤーの技量は優れていると思われるだけにこれまた残念。東京文化会館は本来もっと響く箱のはずなのだがやけにデッドに聞こえました。
演出だが、鬼才デイヴィッド・マクヴィカーということで期待していましたが、いつぞやの新国立でのトリスタン同様ちょっと不発だったようです。DVDで観た「サロメ」や「リゴレット」など、少々露悪的ながらも美しく説得力のある舞台を創造する人だが、随所にでてくるコンチェルタートでドラマが停止してしまうところ、登場人物が突っ立ったままになってしまうのはマクヴィカーにしてコレか、と不満が残ります。様式的な美しさを狙ったのかも知れませんが、群衆の動かし方についてはもっと巧い人のはずです。おそらく時代物より世話物に向いた人なのだと思います。美術(ロバート・ジョーンズ)はわずかな変化で全場面を押し通す経済的なつくりですがそれなりに美しく見栄えがします。特筆すべきは衣装(ブリギッテ・ライフェンシュトゥール)の美しさだろうか。豪奢で洗練されていて素晴らしいと思いました。
 
どうでもいいことですが、第1幕から第3幕休憩なしで通すというのはかなりしんどいですね。本来なら1・2幕で休憩、3幕と4幕の合間でもう一度休憩というのが望ましいのでしょうが、第3幕のエボリ公女とエリザベッタの二重唱と王妃のバレエをカットすると3幕が中途半端な長さになってしまい、こういった幕間にせざるを得ないということでしょう。オーソドックスなグランド・オペラとして書かれながら、改訂に次ぐ改訂で、いわば決定稿のないオペラになってしまったがゆえの困難だと思います。どの稿にしても未完成感が残る出来の悪いオペラですが、その出来の悪さ自体が中期のヴェルディならではの魅力であると思います。完成度の高い名作よりも、不出来ではあるが天才の迸るような作品を何より好んだアバドがこだわったオペラというのも大いにうなづけます。日本ではおそらく今回の5幕イタリア語版による上演が定番となっていくのだと思いますが、本来のグランドオペラの体裁による、王妃のバレエを含む5幕フランス語版を見てみたいものだと思いました。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2014-02-25 23:16 | 演奏会レビュー | Comments(0)

新国立劇場公演 ヴェルディ 「リゴレット」

ホラー映画を途中まで観て、舞台となった森で如何なる惨劇が起こったのか、カンニング竹山といっしょに調べに行く夢を見た(けっこう怖かったです)。




のっけから私事で恐縮ですが、この10月1日付けで関西に転勤となりました。仕事のことはともかく、これからオペラを観る機会が激減すると思うとちょっとブルーな気分です。そんなわけで赴任前の送別会もそこそこに新国立劇場の新シーズンの幕開けを飾る「リゴレット」の初日に行って参りました。

   2013年10月3日
   リゴレット: マルコ・ヴラトーニャ
   ジルダ: エレナ・ゴルシュノヴァ
   マントヴァ公: ウーキュン・キム
   スパラフチーレ: 妻屋秀和
   マッダレーナ: 山下牧子
   モンテローネ伯爵: 谷友博
   ジョヴァンナ: 与田朝子
   指揮: ピエトロ・リッツォ
   演出: アンドレアス・クリーゲンブルク
   合唱指揮: 三澤洋史
   合唱: 新国立劇場合唱団
   管弦楽: 東京フィルハーモニー交響楽団

最近予算縮減の所為なのかどうか、若干プログラムが保守化しているような気がしないでもない新国立劇場ですが、このリゴレットは新制作とのこと。だが、なんというか、前半は人を酔わせない舞台。第1幕と第2幕はホテルだと言うんだが、予備知識なく観てるとなんだかよく判らない。グラサンを掛けた怪しげな男たちと、コールガールのようなこれまた怪しげな女たちが登場し、私は最初、娼館かなにかが舞台なのか、と思いました。ジルダは回り舞台の客室から出てくるので、これは自分が純真無垢な少女だと思い込んでいる頭のおかしい娼婦の幻覚なのか、とも思いましたがそういう訳ではなさそう。第2幕では下着姿の女たちが亡霊のように彷徨い、男たちはそのなかの何人かを弄ぶ。スパラフチーレは通りすがりの客としてバーのカウンターに腰掛け、リゴレットに語りかける。いや、確かに登場人物のどれをとっても酷い連中なのだが、この舞台を観てそういった連中同士の関係性のようなものがいくらかでも明確になったか、といえばノーと言わざるを得ない。第3幕はそのホテルの屋上で、ホームレスのような人々がたむろする殺伐とした光景。これも本来の河畔というイメージが邪魔をして、最初の内ホテルの屋上とは気が付きませんでした。もっとも、トラディショナルな演出でもここは殺風景な場面ですので、これはこれで前半よりは違和感がない。すぐそばに地獄が口をあけて待っているような場所(まさにアンリ・バルビュスの『地獄』そのもの)で、世にも美しい四重唱が歌われるというのもヴェルディ自身が想定していたところでしょう。それにしても、第1幕と第2幕が全く同じセットというからには、享楽の館が一瞬にして悲劇の舞台となる、その移ろいが感じられて然るべきところ、「え、ずっとこのままなの?」という戸惑いしか感じられませんでした。私はいわゆる「読み替え」は、決して好きではないけれども頭から否定はしないつもりですが、これは「読み替え」になっていないのでは、単に時代をいじっただけじゃないか、という思いが最後まで消えませんでした。ちなみに以前、同じ演出家による「ヴォツェック」の舞台を観たことがあるが、こちらはいかにも表現主義的な陰惨極まりないもので、好きにはなれないけれどもそれなりに筋の通ったものでした。それと比較しても、今回のリゴレットは些か読み替えとしては安直な部類かも知れません。
せっかくの新制作の舞台なのにあまり楽しめなかったのですが、歌手はその演出の不満をぶっとばすくらい素晴らしい出来でした。マントヴァ公のウーキュン・キム、どこまでもよく伸びる声、なめらかすぎてプラスチックのようなつるつるした感触がこの役には不思議とよく合っていると思いました。その輝かしさは、最初これはイタリア・オペラの輝かしさとはどこか異質なのでは、とも思いましたが、次第にそんなことはどうでもいいと思わせるような優れた歌唱であったと思います。ただこの歌手、マントヴァ公以外でどんな役が向いているかといわれると、ちょっと考えてしまいます。ヴェルディに限ってもなかなか思い浮かびません。案外、ベルクの「ルル」のアルヴァ役なんてどうでしょうかね?父の愛人で母を殺したルルに跪いて熱烈なアリオーゾを歌うという、ありえない役柄ですが、この人が歌ったらとても合うような気がしました。
ジルダのエレナ・ゴルシュノヴァも素晴らしい歌唱。最初のリゴレットとの二重唱は、いわゆる「お人形さん」タイプかなと思いましたが、これは計算の上なのでしょう。続くマントヴァ公との二重唱では、うってかわって切れば血の出るような歌を歌い、幕を追うごとに聴き手の心に迫ってくるようでした。終盤の瀕死のアリアは、もう不憫で不憫で、あたしゃもう涙でボロボロでした。タイトルロールのマルコ・ヴラトーニャは、この二人と比べると少し弱いと感じましたが、細やかな表情がそれなりに聴かせるので大きな不満はありません。ただ、第3幕の四重唱はちょっと埋もれすぎていたように思います。スパラフチーレの妻屋秀和はさすが。マッダレーナの山下牧子は、蓮っ葉な女の可愛さに溢れていて秀逸。
実は演出にケチをつけながらも、第2幕のリゴレットの「ララ、ララ・・・」あたりから私は恥ずかしながらほとんどハンカチを手放せないほど感動していました。ろくでもない人間ばかり登場するオペラで、これほどまでに人の心を揺り動かすとは、とヴェルディの天才ぶりに改めて感じ入った次第。たとえば第1幕、ジルダとマントヴァ公の二重唱。前半のカヴァティーナで愛を語り、続くカバレッタで抑えきれないほどに逸る心を歌う。音楽の形式と内容がこれほどまでに一体となっているとは、と衝撃すら感じました。第3幕の名高い四重唱も然り。ヴェルディが如何に天才であっても、こうしたアンサンブルで物語が停止してしまう瞬間はあるのだが(例えば「オテロ」のコンチェルタートなど)、この人間心理と一体となった四重唱については間然するところがありません。ヴェルディの傑作といえば、ついつい「オテロ」や「ファルスタッフ」を挙げて、この「リゴレット」なんかは後回しにしてしまいがちなのですが、やはり舞台を観るととんでもない傑作だと思い直しました。
新国立劇場合唱団の素晴らしさはいつも通り。ただ、このオペラの(ろくでもない連中の)合唱は感情移入が一切できない分、記憶にはとどまりにくい感じ。イタリアもののオーケストラには大体厳しめの評が多い私ですが、今回は歌手が優れていたのでそれを邪魔しなければそれでもう十分といった感じがしました。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2013-10-16 01:15 | 演奏会レビュー | Comments(4)

ヴェルディ 「シチリア島の夕べの祈り」 ムーティ/レナータ・スコット他(その2)

このパリ管の副コンマス(パリ在住)の方のツイッターわろたわ~。
千々岩英一‏@EiichiChijiiwa
国営放送のニュースで世界遺産登録の富士山(モン・フュジ)が。「日本人は敬称を付けて富士さんと呼びます。」初めて聞いたわ。




前回の続きです。

【第3幕】
第9曲:前奏曲とシェーナ Preludio e Scena
モンフォルテの独白によって、彼とアッリーゴが離れ離れになった経緯が語られる。
短い前奏と簡潔なシェーナ。
第10曲:レチタティーヴォとアリア Recitativo ed Aria
ベテューヌ卿からアッリーゴを拉致してきたとの報告を受けたモンフォルテは、彼の心が開かれ、親子として打ち融け合うことを夢想する。
明確なカバレッタを持たないアリア。剛直なだけでなく味わい深い旋律(特に嬰へ長調に転調してからの部分)など、この時期のヴェルディらしさが良く出ています。
第11曲:レチタティーヴォと二重唱 Recitativo e Duetto
捉えられたアッリーゴはモンフォルテから母の遺した手紙を見せられ、ついに親子であることを知る。しかし様々な想いによってアッリーゴはモンフォルテを父と呼ぶことが出来ず逃げるように部屋を出て行く。
またしても父と息子の二重唱。ここでもステロタイプな伴奏から脱却しようとする意気込みが顕著です。朗々とアリアを歌いあげる父に対してパルランドで動揺を顕わにするアッリーゴの対比。二重唱の後半は白熱のカバレッタ。前段でパルランドでうたっていたアッリーゴは後半に至って主旋律を歌い、亡母への思いのたけを歌います。
第12曲:バレエ「四季」 Le Quattro Stagioni BalloⅠ~Ⅳ
モンフォルテの邸宅で舞踏会が開かれ、フランスとシチリアの紳士淑女の前でバレエが上演される。
第13曲:第3幕のフィナーレ Finale Terzo
華やかな仮面舞踏会に紛れて、仮面を着けたプローチダとエレーナ公女が忍び込み、モンフォルテの命を狙っている。アッリーゴはモンフォルテにその場を立ち去るよう頼むがモンフォルテは相手にしない。モンフォルテを見つけたエレーナは匕首(あいくち)を手に襲いかかるが、アッリーゴが自ら盾となってモンフォルテを庇う。プローチダ、エレーナ、シチリア人達は捕らえられアッリーゴを裏切者と非難する。
設定は「仮面舞踏会」そのものだが音楽はどこか「椿姫」の娼館での宴の場を思わせる。ヴェルディお手の物の華やかな音楽に合わせて緊迫した状況が歌われます。後半はエレーナ、アッリーゴ、ダニエーリ、モンフォルテ、プローチダ、ベテューヌの六重唱と合唱による壮大なコンチェルタートですが、後の立体的なアンサンブルの域には達していません。もっと後のヴェルディならシチリア人とフランス人、そのどちらにも与しえないアッリーゴに各々別の旋律を歌わせ、それが対位法的に絡み合い、重なりながら壮大な合唱になっていくべき箇所。だが、過渡期的とはいえ実に感動的な音楽。

【第4幕】
第14曲:前奏曲、レチタティーヴォとアリア Preludio, Recitativo ed Aria
エレーナ達が繋がれた牢獄。アッリーゴは弁明のためにそこを訪れ、エレーナの許しを得たいと独白する。
ここでもステロタイプなアリアから脱却しようという意思が顕著。シェーナの充実にくらべ、カヴァティーナはやや常套的、しかし続くシェーナは本来のカバレッタと溶融してしまってます。
第15曲:大二重唱 Gran Duetto
エレーナ公女が登場、最初アッリーゴを忌々しく思うが、モンフォルテが彼の父と聞いて心が動く。もはや家名も財産も捨て、エレーナとともに死ぬことを望むアッリーゴを彼女は許し、愛の二重唱を歌う。
幾分因習的な二重唱と見せかけておいて、型どおりのカヴァティーナの後に長大なエレーナのロマンツァが埋め込まれています。この部分はドニゼッティやベッリーニのベルカント様式を忠実に守っており、ヴェルディはわざわざ2種類のカデンツァを書いています。このあと、型通りのカバレッタの二重唱が続きます。
第16曲:シェーナと第4幕のフィナーレ Scena e Finale Quarto
そこに現われたプローチダはアッリーゴを許そうとしない。モンフォルテがベテューヌ卿やフランス人士官達と共に現われ、罪人を死刑に処すよう命令するが、アッリーゴがエレーナ達と死を共にするつもりでいるのを見ると、自分を父と呼ぶなら恩赦を与えようと持ち掛ける。苦悩の末にアッリーゴが「父上・・・」と呼びかけると、モンフォルテは刑の執行を止めさせ、エレーナとアッリーゴの結婚と、シチリア人とフランス人の和解を命ずる。
拡大されたシェーナで息詰まるドラマが展開されます。カヴァティーナに相当するプローチダ、モンフォルテ、アッリーゴ、エレーナによる素晴らしい四重唱。ここではプッチーニばりの「字余り」の5/4拍子が2回でてくる。音楽の推進力を信じて、こういう記譜をやってのけるところが天才の天才たる所以。続いて、舞台裏で聖歌「深き淵より」を歌う合唱にのせて、プローチダ、モンフォルテ、アッリーゴ、エレーナが歌う自由なシェーナ。カバレッタに相当する後半は四重唱に合唱も加わって壮大なフィナーレとなるが、音楽的にはやや因習的。かりそめの歓びが爆発する中でのエレーナとアッリーゴの複雑な心境、プローチダの暗い情念を盛り付ける器をヴェルディはまだ見出していないようです。

【第5幕】
第17曲:合唱 Coro
二人の祝宴を祝う人々の合唱。
第18曲:シチリアーナ Siciliana
婚礼の衣裳をまとったエレーナがシチリアーナのリズムで歓びを歌う。
このナンバーは、重苦しい作品の中での聴衆へのサービスのようなものだろう。
第19曲:シェーナとメロディア Scena e Melodia
アッリーゴが現われ、やさしくエレーナに語りかけるが、すぐに数人の紳士が彼を探しているのに気付き、モンフォルテのところに行くと言って立ち去る。
ト書きにはアッリーゴは物思いに沈んでいるとされているが、音楽はいたってのんきなもの。おわりにハイCの上のDまで上がるとんでもないカデンツァが書かれていてテノール殺しと言われているらしい(このCDのルケッティはファルセットで歌って派手に音程を外してますw)。これは音楽的にもあまり良い趣味とは思えない。
第20曲:グラン・シェーナと三重唱によるフィナーレ Gran Scena e Terzetto Finale
プローチダがエレーナに近付き、反乱軍がすぐ近くまで来ていること、婚礼の鐘を合図にフランス兵を殺戮することになろうと告げる。エレーナは戻ってきたアッリーゴに結婚は出来ないと告げるが、モンフォルテは二人の手を無理に重ね合わせて夫婦の宣言をする。すかさずプローチダが祝福の鐘を鳴らすよう合図をする。鐘と同時にシチリアの暴徒達が手に手に武器を持って現われ、復讐を叫ぶところで断ち切るように唐突に幕(それにしても、この作品を引っ提げてパリで初演するとはヴェルディもいい度胸です)。
プローチダ、エレーナ、アッリーゴの三重唱を中心とするフィナーレ。プローチダの陰謀を知るエレーナと知らないアッリーゴ。カヴァティーナに該当する部分、ロ短調で始まる三重唱がアッリーゴの歌うところでロ長調になるのが印象的。カバレッタはヘ短調のアレグロで緊迫した状況が語られる。白熱の音楽ですが、初期のそれとは明らかに異なる陰影のある音楽だと思います。最後は婚礼の鐘を合図に蜂起した群衆の禍々しい合唱が起こり、たたみかけるように終わってしまいます。

演奏について少しだけ触れておきます。
エレーナ公女を歌うレナータ・スコットですが、1978年の録音時は44歳、微妙な年齢ですがこのディスクで聴く限り明らかに盛りを過ぎている感じがします。しかしそれでも立派な歌唱。第1幕第2曲のアジリタもビシッと決まっていて素晴らしい。第4幕、アッリーゴとの二重唱に埋め込まれたロマンツァは本当に優れた歌唱で、聴衆の感に堪えないといったブラーヴァの叫びも熱狂的。スコットへの聴衆の愛、温かさを感じます。もちろん5幕のシチリアーナも文句なしに素晴らしい。
アッリーゴを歌うヴェリアーノ・ルケッティとモンフォルテのレナート・ブルゾンは傑出しています。第1幕フィナーレの父と息子の二重唱も良いが、ブルゾンの第3幕冒頭のアリアは聴衆のブラヴォーの叫びと拍手が1分以上鳴りやまないほど。続くルケッティとの二重唱の後、すさまじいブラヴィの叫びが起こり、拍手が1分40秒も続く。だが第4幕冒頭のアッリーゴのアリアは、ルケッティの最後のh(ハイCの一音下)の音が上がりきらず、聴衆もちょっと冷たいあしらいをしている。このディスク、ライヴ故聴衆の反応がよく判ってとても面白い。
プローチダを歌うルッジェーロ・ライモンディは恐らく好き嫌いの分かれる歌い方。軽めで知性の勝った歌い方はロッシーニなどに意外なほどの適性を示すことがあるが、ヴェルディ歌手としては僅かに違和感がある、というのが私にとって正直なところ。このオペラのプローチダという役柄自体、どこか得体の知れないものだが、ライモンディが歌うと尚更老獪に聞こえて、「本当にこういう役なのか?」と不思議に思ってしまいます。
脇役達はまぁこんなもの、という感じですが、どちらかと言えばフランス側が充実していてシチリア側がやや貧相。第1幕のニネッタやダニエーリを含む四重唱は音程が悪くて何を歌っているのか判らない(笑)。
合唱は荒削りの魅力はあるけれど、はっきり言ってかなり下手。第2幕フィナーレのタランテッラの後のシチリア人の合唱など、もごもごと音程も悪くて、やはり「何を歌っているのか判らない」(笑)。スカラ座は別格として、イタリアの地方都市のオペラの合唱のレベルってこんなものなんだろうか?日本の新国立劇場の合唱を聴きなれている身には信じがたいくらい下手です。

ムーティの指揮は素晴らしい。音楽祭のための寄せ集めらしいオーケストラは正直あまり上手くはないのに、輝かしさに溢れています。こういう録音を聴くと、本当に日本のオケは精密さという点では優秀だがイタリアオペラに不可欠な輝かしさという点で(多少の例外はあっても)まだまだ学ぶべきところが多いと思います。
ムーティの凄いところは、ステロタイプな伴奏、ズンチャッチャ・・・みたいな伴奏から真実に満ちた音楽を引き出すこと。これこそがムーティのベルカントものから比較的初期のヴェルディの演奏をかけがえのないものにしている理由でしょう。例えば一例として、第1幕フィナーレのプレスティッシモのカバレッタ。大胆なソステヌートやアラルガンドを駆使して聴衆の鼻面を引きまわすような音楽を奏でています。これはアバドのヴェルディでは絶対に期待できないムーティの強みでしょう。ちなみに、アバドも優れたヴェルディ指揮者だと思いますが、その嗜好はムーティとは随分違います。アバドが好んで演奏していたヴェルディといえば何と言っても「シモン・ボッカネグラ」、それに「マクベス」「ドン・カルロス」「仮面舞踏会」・・・まさに苦渋に満ちた中期作品ばかりではありますが、「シチリア島」はアバドには少々初期のカラーが強すぎたのでしょうか。アバドは若い頃はベルカントものも振っていたようですが名を上げてからはあまり振っていないようですね。対するにムーティのヴェルディで真っ先に思い浮かべるのは白熱の初期作「エルナーニ」に「ナブッコ」。そしてこの「シチリア島」ということになるのでしょうか。アバドとは対照的に、ムーティはベルカントものも大好き。日本でやったベルリーニの「カプレーティとモンテッキ」は神技的な名演でしたし、CDで聴いた「清教徒」も素晴らしかった。確かスポンティーニやケルビーニなども好評だったはず。そういえばアバドはヴェリズモものは一切やらないのに対して、ムーティはあまりこだわりがない。ムーティのほうがより雑食性かつ肉食系ですね。私はどっちも好きだけど。
こんなこと書いていると今秋のスカラ座公演行きたくなりますね。私はあまりにも高価なチケットにびびって、早々に諦めました・・・。あとは新国立の「リゴレット」に期待。
(この項終わり)
by nekomatalistener | 2013-06-25 19:36 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

ヴェルディ 「シチリア島の夕べの祈り」 ムーティ/レナータ・スコット他(その1)

村上春樹読んでるヤツをオシャンティーってのも判るけど、僕らが若い頃も「片手に浅田彰、片手にテニスラケット」なんて輩がいたから昔も今も変わらんなー。





ヴェルディ生誕200年にちなんで、私もいろいろと書いてみたいとは思うものの、今更「オテロ」や「ファルスタッフ」の素晴らしさについて述べたところでどうにもなるまい、と思う。どうせなら、あまり知名度のない作品ということで、「椿姫」の次に書かれながら、どういう訳か序曲と「シチリアーナ」以外は非常に演奏される機会の少ない「シチリア島の夕べの祈り」を取り上げてみたいと思います。そもそもこのタイトルにしても、「シチリアの晩鐘」だったり「シチリアの晩禱」だったり、いずれにしてもポピュラーでないだけに訳語もばらばら。私が若い頃はレヴァイン盤くらいしかなかったんじゃないかな。ムーティは後のスカラ座盤もあるが、今手元にあるフィレンツェ盤を紹介しましょう。


  エレーナ: レナータ・スコット(Sp)
  アッリーゴ: ヴェリアーノ・ルケッティ(T)
  モンフォルテ: レナート・ブルゾン(Br)
  ジョヴァンニ・ダ・プローチダ: ルッジェーロ・ライモンディ(Bs)
  ニネッタ: ネッラ・ヴェッリ(A)
  ダニエーリ: ジャンパオロ・コッラーディ(T)
  ベテューヌ卿: グラツィアーノ・ポリドーリ(Bs)
  ヴォードモン伯爵: カルロ・デル・ボスコ(Bs)
  テバルド: ジャンフランコ・マンガノッティ(T)
  ロベルト: ジョルジョ・ジョルジェッティ(Bs)
  マンフレード: カルロ・ノヴェッリ(T)
  リッカルド・ムーティ指揮フィレンツェ五月音楽祭合唱団、管弦楽団
  1978年5月13日ライヴ録音
  CD:Gala GL100.611

ヴェルディのオペラを便宜的に初期・中期・後期と分けるにあたって、一般的には「スティッフェリオ」までを初期、「リゴレット」から「ドン・カルロス」を中期、「アイーダ」以降の3作を後期と分けるのが一般的なのでしょう。しかし、私は前にもどこかで書いたと思うが、「リゴレット」「イル・トロヴァトーレ」「椿姫」は初期のスタイルの完成形であり、「シチリア島」から「ドン・カルロス」の苦渋に満ちた足取りこそが中期と呼ぶに相応しいように思います。それは、何とかして初期のステロタイプな音楽から脱却したいというヴェルディの模索と試行錯誤であり、具体的にはカヴァティーナ・カバレッタ形式を軸とする番号附きオペラという枠組みの放棄、オーケストレーションの著しい深化、リブレットの錯綜とシェーナ(レチタティーヴォ)の長大化といった側面で語ることができます。その歩みはベートーヴェンの後期より少し手前の作品群のようでもあり、シェークスピアの「ヘンリー四世」の後に書かれた一群の苦い味わいの「問題劇」のようでもあるが、その「模索と試行錯誤」の時代の第一歩というべき「シチリア島の夕べの祈り」こそ、猫またぎなリスナーが取り上げるに相応しいのではないか、と思った次第。

ちなみに、ヴェルディのオペラの数は最近は26作と数えるのが一般的なようです。以前は「イェルサレム」と「アロルド」を夫々の改定前の呼称「第一次十字軍のロンバルディア人」や「スティッフェリオ」と別にカウントして28作と言っていたような気がします。それはともかく、最近の数え方ではこの「シチリア島」は第19作ということになるのだろう。このオペラが不当にも(と言いたくなるほど)演奏の機会が少ない理由はなんだろうか。
まずは物語が実にくだらないこと。父と息子の愛憎というテーマがなんとも嘘臭く、つい数時間前まで憎しみの対象でしかなかった父を庇うために愛する女性エレーナとシチリアの人々を裏切る息子アッリーゴに対して、「バカじゃないの?」としか思えません。基本的に、いくらお話としてはどうしようもなく荒唐無稽でくだらなく思われようと、それをなんとか分析してその根底にあるものを抉りだしたい、と思わずにはいられない私であるが、この「シチリア島」についてはお手上げです。というか、あれこれほじくり返しても自らの父性嫌悪を見るだけなので興味が持てない、というのが正直なところでしょうか。まあ人はどう思うか知らないが、いずれにしてもこのオペラが人気がない理由の一つではあるだろう。
それと関連するが、登場人物は決して多くはないのに物語が錯綜した印象を与えるということ。これはスクリーブの台本の拙さによるところが大きいと思われますが、音楽の側から言えば、この台本の冗長さは結果としてシェーナの長大化と充実をもたらした部分もあって、必ずしもこの作品の弱点とばかりは言えません。しかし、それまでの簡潔なシェーナとアリアを基本としていた初期作と比べると、興行的には間違いなくマイナス要素ではあります。
それからなんといっても第3幕のバレエが長くて退屈。ざっと30分くらい掛りますが、これはパリでの初演を目指していたヴェルディの迎合としか思えません。かといって、これをカットしてしまうと、全5幕の構成がバランス悪くなるのも事実。つまり、序曲を除くと第1幕と第2幕でほぼ1時間、第3幕がバレエ込みで同じく1時間強、第4幕と第5幕で1時間強と、2回の長い幕間を入れるのに丁度良い長さになっていて、バレエ抜きの第3幕はその内容の重さから前後にくっつける訳にもいかず中途半端というわけです。
欠点ばかり書いたけれど、音楽的には初期から中期への産みの苦しみが随所に見られ、それが独特の魅力となっています。繰り返しになるが、なんといってもそのシェーナ(レチタティーヴォ)の多様さと充実がそれまでの作品とは一線を画しています。シチリア人とフランス兵の対立を音楽であらわそうと多様な試みがなされていますが、「仮面舞踏会」や「ドン・カルロス」で完成され、「アイーダ」で頂点に至る壮大で立体的な合唱のスタイルはまだ確立されていません。どちらかといえば因習的なカヴァティーナ・カバレッタ形式の楽曲も多いが、それからの脱却の試みは随所にみられ、(物語の進行上仕方ないとはいえ)男声の二重唱によるフィナーレや、二重唱に埋め込まれたベルカント様式のロマンツァなど新しい試みに満ちています。ヴェルディ自身はパリの聴衆の好みに合わせて不本意ながら書いた部分もあろうし、拙い台本に苦労して書いた部分もあるのでしょうが、結果としてはそれまでにない音楽を生みだすことになったようです。まさに、瑕も多いが天才的な音楽、という猫またぎなリスナーがもっとも愛するタイプの音楽。

お話がくだらない、とは云え、なかなか上演の機会のないオペラですので、すこし幕を追って物語とその音楽的な特色について詳細を書いてみたいと思います。
【前奏曲】
これは有名なので私があれこれ書く必要もないでしょう。一般に「序曲」と呼ばれるがスコアにはPreludio(前奏曲)と記されています。流麗な旋律とシンフォニックな構えの大きさが同居する素晴らしい音楽。

【第1幕】
第1曲:導入と合唱 Introduzione-Coro
シチリア人の群衆とフランス兵達で賑わうパレルモの広場。1282年、シチリアはフランス軍の占領下にあった。独立を目指すシチリア人達の不穏な動きを知らず、フランス兵達がシチリア女に好色な視線を送りながら楽しげに歌う。
対立するフランス兵とシチリア人の合唱だが、こういった対立を壮大な合唱の中で対位法を用いて立体的に表現するのはもう少し後、「仮面舞踏会」のあたりからであり、ここでは未だ因習的な合唱に留まっているという他ありません。
第2曲:シェーナと合唱附きカヴァティーナ Scena e Cavatina con Cori
エレーナ公女登場。フランス軍の総督モンフォルテに兄を殺された彼女は虐げられたシチリア人たちの統一のシンボル、心の拠り所となっている。フランス兵達にからかわれ、歌をうたうよう強要された彼女は抗う侍女をたしなめて歌う。しかし、シチリア人の反乱を誘うようなその歌に、その場は一触即発の不穏な空気に満ちて行く。
この壮大なシェーナと合唱附きカヴァティーナは中期特有の油ののりきった仕事という気がします。カバレッタの至難なアジリタは初期の流れをくむもの。
第3曲:シェーナと四重唱 Scena e Quartetto
そこに総督モンフォルテが登場、その尊大な威圧感を前に、シチリアの人々は圧倒される。
エレーナ公女、侍女ニネッタ、シチリアの若者ダニエーリ、モンフォルテの四重唱だが、物語としては無くもがな、アカペラで始まる四重唱は、ヴェルディにしては意余って力足りずというところ。
第4曲:シェーナと二重唱、第1幕のフィナーレ Scena e Duetto-Finale Primo
謀反の咎で獄に繋がれていたシチリアの若者アッリーゴが登場し、エレーナとの再会を喜ぶ。実はアッリーゴはモンフォルテがかつてシチリア女に産ませた実の息子であり、それゆえ刑を免れたのだがアッリーゴはその事実をまだ知らない。モンフォルテはフランス軍に降るようアッリーゴを説得するも、彼はモンフォルテへの憎しみもあらわに肯んじない。モンフォルテは血気に逸るアッリーゴを愛情に満ちた父のまなざしで見守る。
新機軸が一杯。第1幕フィナーレがテノールとバリトンの二重唱というのも大変面白いが、そのカヴァティーナにおいて、旋律が伴奏にでて歌はずっとパルランドで歌う。この種のレチタティーヴォ様式の完成は「シモン・ボッカネグラ」改訂版以降に持ち越されるにしても、そのアイデアはここに出つくしているように思います。旋律を歌わないカヴァティーナはもしかすると父であることを隠して心にもない威嚇を息子に与えるモンフォルテの立場を表すものか。台本が整理されていなくてレチタティーヴォがやたら長いのを逆手にとって、ヴェルディは次第にレチタティーヴォの真の威力というものに開眼していったのだろうと思います。後半のカバレッタではステロタイプではあるが白熱した音楽が興奮をもたらします。「シモン」や「マクベス」の改訂版でも初期稿を敢えて残すことで同じような効果が如何なく発揮されていたのを思い出します。

【第2幕】
第5曲:前奏曲、アリアと合唱 Preludio,Aria e Coro
シチリア人達の精神的指導者ともいうべきプローチダが亡命先からシチリアに戻り、祖国への愛を歌う。ついで仲間にアッリーゴを探しに行かせ、シチリア人の蜂起を呼び掛けるカバレッタを歌う。
中期のヴェルディらしい深みのあるカヴァティーナ。オーケストレーションの深化が素晴らしい。カバレッタは合唱附き、半音階的な音形と初期の面影を残す紋切り型の伴奏が交替します。
第6曲:シェーナと二重唱 Scena e Duetto
アッリーゴとエレーナ公女が登場、アッリーゴはプローチダの蜂起の呼びかけに応じる。エレーナはアッリーゴに兄の仇を討ってくれたなら貴方のものになりましょうと歌う。エレーナとアッリーゴの二重唱。
シェーナが充実の書法。レチタティーヴォとアリオーゾの融合したスタイルです。アレグロ・アジタートに転じて、エレーナとアッリーゴとの迫力ある二重唱に流れ込むが、長くは続かず、流麗な初期のスタイル(アレグロ・ジュスト)となる。二重唱後半は溜息のモチーフによるラメント、終盤のレチタティーヴォ風の二重唱はすでに「シモン・ボッカネグラ」の世界を先取りしてします。大義と恋に引き裂かれる二人、これは内容的に愛の二重唱とは言いかねるところもあるが、これこそが中期のヴェルディの描く愛なのだろう。
第7曲:レチタティーヴォ Recitativo
フィナーレへのブリッジとなる短いレチタティーヴォ。アッリーゴはフランス兵に強引に連れ去られる。動揺するエレーナにプローチダは反乱の準備が整いつつあることを囁く。
第8曲:第2幕のフィナーレ Finale Secondo
シチリアの若者達の結婚の宴、激しいタランテッラのリズム。現われたフランス兵達はシチリアの女達を凌辱し連れ去る。遠くから聞こえるフランス兵達の楽しい水上の宴の音楽にのせて、エレーナ、プローチダ、シチリア人たちは復讐を誓う。
強引な場面展開がますますお話のダメさを強調するかのようですが、それはともかく音楽は「仮面舞踏会」風のところもあって聴きごたえがあります。陰謀を企むシチリア人の合唱に続いてフランス人が楽しげに歌う舟歌、やがてそれらが重なり合う展開は、後の立体的な合唱にあと一歩というところながら、未だ確固たるスタイルを見いだせずにいる感じがします。この「過渡期感」がなんとも魅力的ではあります。
第3幕以降は次回に。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2013-06-23 14:04 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

【ネタバレ注意】新国立劇場公演 ヴェルディ 「ナブッコ」

拾いネタですが・・・
Q:ネロとパトラッシュを迎えに来た天使たちがもめています。その原因を教えてくだされ。
A:パトラッシュがめっちゃ臭い。





ヴェルディ・イヤーに相応しく今シーズン二つ目のヴェルディ作品。結果はとても面白く興奮する舞台でした。

  2013年5月25日
  ナブッコ: ルチオ・ガッロ
  アビガイッレ: マリアンネ・コルネッティ
  ザッカーリア: コンスタンティン・ゴルニー
  イズマエーレ: 樋口達哉
  フェネーナ: 谷口睦美
  アンナ : 安藤赴美子
  アブダッロ: 内山信吾
  ベルの祭司長: 妻屋秀和
  指揮: パオロ・カリニャーニ
  演出: グラハム・ヴィック
  合唱: 新国立劇場合唱団
  合唱指揮: 三澤洋史
  管弦楽: 東京フィルハーモニー交響楽団

今日は公演3日目だが、すでにブログ等で演出に関して賛否両論、基本的に演出については保守的な私であるから、今回の現代風読み換えについては拒否反応が出るのでは、と懸念していたが、実際に目にしたのは極めて美しく刺激的な舞台でした。
開演30分前に劇場の扉が開くと、舞台はエホバの神殿ならぬショッピングセンターの、高級ブティックやカフェの並ぶ一際オシャレな一角。ブランド品を身につけた男女、あるいは携帯を耳にしている待ち合わせと思しきスーツの男性、沢山の人々が一階とニ階を行ったり来たりしている。ちょっと残念なのは、舞台右手のエスカレーターが動いてなくて、(あー予算がないのね)と思わせてしまうところ。普通に階段で良かったのに。一階左手のiPadなどをディスプレーしているショップは齧られたアップルならぬヒョウタン洋梨のロゴが輝いていて御愛敬。序曲が始まると、それまで普通に話したり歩いたりしていた彼らが、ブランドの小物やバッグなどを床において、それを拝んだり手にして身悶えしたり。これを物欲にまみれた現代社会への批判云々と絵解きしてしまうと身も蓋もないのだが、直前までの日常の光景との落差というか、強烈な異化効果に唖然としてしまう。
ユダヤ教祭司のザッカーリアは薄汚れたよれよれのシャツとジーンズのラフな格好で、LA FINE È VICINA(世界の終末は近い)と書かれたプラカードを背負って群衆を扇動する。そこに登場するアビガイッレとバビロニア兵達はテロリスト集団のいでたち。テロリスト達は豚や犬の仮面を付け、思い思いのラフな格好をしている。バビロニアの王ナブッコは彼らテロ集団のリーダーという訳だが、ナブッコが命じるとテロリスト達がブティックを滅茶苦茶に破壊し、壁やガラスに赤いスプレーを吹き付ける・・・と、まぁ終始こんな感じで芝居が進む。
今回何より私が気に入ったのは、破壊された後の舞台も、凄愴たる美しさを保っていて、美術スタッフ達の緻密な計算が偲ばれるところ。興味のある方は新国立劇場のHPに舞台写真がアップされているので是非ご覧頂きたい。
正直なところ、私はこの演出のあれこれの意味というか、何を象徴しているのか云々といったことには興味がない。むしろ「深読み」をしないで、ただただ眼前に繰り広げられる、今まで見たこともない光景を目を見開いて見ているだけでよいのではないかと思います。反対に、これは何、あれは何と絵解きしてしまうと少し鼻白む思いをするのではないか。従って、演出家があれこれと言葉で講釈を垂れて、それをチラシにして劇場のホワイエに置いてあるのは如何なものか、という気がしました。余計なことを言わずに、ひたすら視覚の悦びに身を任せていればよいのに、と思います。

演出について長々と書きましたが、歌手とオーケストラの充実ぶりは新国立劇場のこれまでの演目の中でもずば抜けたものの一つではなかったかと思います。まずアビガイッレを歌ったマリアンネ・コルネッティ。ついこの間「アイーダ」で素晴らしいアムネリスを聴かせてくれたばかりだが、今回も凄まじいものでした。私は1988年のスカラ座来日公演の時の「ナブッコ」で、ゲーナ・ディミトローヴァの大迫力のアビガイッレを聴いているのだが、その時に勝るとも劣らない出来だったように思います。しかもコルネッティは、ただ声量に任せて吼えまくるのではなく、初期ヴェルディ作品の様式をしっかり押さえた、極めて音楽的な歌唱でした。第2部のカバレッタで少し息があがったようでしたが些細な瑕でしょう。至難なアジリタをものともしないドラマティコ、というヴェルディの苛酷な要求に見事に応える様子は、まるでクランクだらけの狭い道をダンプカーでぶっ飛ばすくらい歌手にとっては困難、聴き手にとっては快感です。
ナブッコ役のルチオ・ガッロも素晴らしい。いつの間にか当代最高のヴェルディ・バリトンとして、かつてのピエロ・カプッチッリばりの地位を築いていたわけですね。尤も、ナブッコはシモン・ボッカネグラやイヤーゴ、マクベスなどと比べると、やや奥行きや陰影に乏しい役柄という感じもして、これだけで歌手の力量を云々するのは気が引けるのだが、それにしてもこれだけの立派なナブッコを聴かせてもらえば大満足。
ザッカーリア役のコンスタンティン・ゴルニーも、先の二人に比べると少し見劣りするがこれはこれで立派なもの。意外に出番の多い役ですが安心して聴けました。
今回特筆すべきは日本勢の脇役が非常に充実していて、主役に引けを取らなかったこと。イズマエーレの樋口達哉は、出だしから火を吐くような熱い歌で、これぞヴェルディと快哉を送りたいと思いました。出番が少なくて歌手には実に気の毒な役だが、音楽的には大変重要な役どころで、シノーポリの録音では確かドミンゴに歌わせていて、なんともったいない、と思ったことがあります。フェネーナの谷口睦美も健闘。フェネーナは第4部フィナーレに短いが魅力的な聴かせどころがあり、歌手にとってもやりがいのある役だろう。私のお気に入りの妻屋秀和はバビロニア側の祭司長役で、ほんの少ししか出番がない。この人、凄い歌手なのにルックスで損しているのかなと(失礼)思ってましたが、今回はドレッドヘヤーにズタボロのジーンズ、B系っぽいブルゾンで若づくりしてみたら意外と(重ねて失礼)イケてました(笑)。これなら思い切ってザッカーリア役を歌わせてあげても良かったのに、と思いました。
このオペラの真の主役というべき合唱については今回も文句の附けようがありません。第3部の「行け、わが想いよ、黄金の翼に乗って」では盛大な拍手が起こりましたが、私は第4部のナブッコの「シェーナとアリア」のカバレッタの合唱が好き。この白熱のストレッタを聴くと体温が2℃くらい上昇する感じ。もう新国立劇場合唱団は世界でも最高峰の合唱団ではないかな。
最後に管弦楽について。初期ヴェルディの魅力はなんといってもその直線的な、怒りも悲しみもストレートにぶつかって来る力強い旋律、骨太のカヴァティーナと血沸き肉躍るストレッタなのだが、パオロ・カリニャーニの指揮は、このヴェルディの魅力をこの上なく引き出していたと思います。東京フィルハーモニー交響楽団も、恐らく指揮者に乗せられて、お行儀の良さなどかなぐり捨てた素晴らしい演奏でした。この時期のヴェルディのスコアは微温的な演奏では悲しくなるほど薄っぺらいスカスカの音がするものだが(それは多分にヴェルディのオーケストレーションが中期以降の作品に比べて稚拙であるということなのだろうが)、本当に良い演奏というのはこの稚拙ささえまばゆいばかりの輝きに変えてしまうものです。それこそ先に述べた1988年のナブッコを指揮したムーティがそうであったし、録音で聴いた「エルナーニ」もそうでしたが、これほどの演奏というのはとても稀なものだと思います。今日のカリニャーニと東フィルはそれらの名演に迫る、いや、歌手と合唱のレベルを総合的に考えればそれを凌ぐほどの出来栄えだったように思います。
日本のオーケストラは、この「スカスカのスコアを輝かしく演奏する」というのが極めて苦手であると感じてきましたが、実は指揮者次第で「やれば出来る子」だったのですね。ただ、これだけの演奏を成し遂げてしまえば、後々イタリアもののハードルがものすごく上がってしまって大変でしょうね。
(この項終わり)
by nekomatalistener | 2013-05-25 22:35 | 演奏会レビュー | Comments(9)

新国立劇場公演 ヴェルディ 「アイーダ」

以前、「メッシ知らんの?」と息子から上から目線で言われた私の気持ちが良く分かったと、関西在住の知人Aからメールが・・・。
知人A「何時まで雨降んねやろ・・・」
知人B「午後には雨やむってまさきさん言うてたで」
知人A「まさきさんってどこの職場の人ですか」
知人B「まさきさんしらんのん?関西に住んでてまさきさんしらんのん?写真が趣味でこのまえどっかきとったで。」
「メッシしらんのん?」と言われた●●さんの気持ちが分かりました。ネットで調べたらABCの気象予報士の正木明さんとのこと。顔は知ってますが名前までは知らんがな。・・・




話題の「アイーダ」を観てきました。明日から出張で暫く忙しいので、記憶の薄れない内に感想をメモしておきたい。

  2013年3月27日
   アイーダ: ラトニア・ムーア
   ラダメス: カルロ・ヴェントレ
   アムネリス: マリアンネ・コルネッティ
   アモナズロ: 堀内康雄  
   ランフィス: 妻屋秀和
   エジプト国王; 平野和
   指揮: ミヒャエル・ギュットラー
   演出・美術・衣裳: フランコ・ゼッフィレッリ
   合唱指揮: 三澤洋史 
   合唱: 新国立劇場合唱団
   管弦楽: 東京交響楽団

この公演、呼び物は何と言ってもゼッフィレッリの記念碑的演出の再演であること。第2幕凱旋の場の、豪華絢爛たる舞台を観れば今回の観劇の目的の7割方は達せられたといった感じがする。私は自慢じゃないが(自慢だけど)、1988年のミラノ・スカラ座の来日公演で、ゼッフィレッリ演出の「トゥーランドット」を観ており(NHKホールだった。思えばあの頃はまだ日本にはオペラ専用の劇場なんてものは無かったのだ)、これほど贅沢な舞台を観るのは実に四半世紀ぶり。1988年といえば世はバブル真っ只中だった訳だが、その頃のちょっと浮ついた世の中の空気とか、社会人になって4年目の私個人のほろ苦い記憶の数々まで呼び起されるようなバブリーな舞台でした。
その凱旋の場は、単に豪勢というだけでなく色彩と質感が見事。思わず、あのルーヴル美術館で一際偉容を誇るジャック=ルイ・ダヴィッドの大作、「皇帝ナポレオン1世と皇后ジョゼフィーヌの戴冠式」を思いだしました。こればかりは実物を観ないことには始まらない。
歌手の中ではアムネリスを歌ったマリアンネ・コルネッティが素晴らしかった。全体に主役二人が大味な中で彼女の表現力は際立っていたように思う。第4幕第1場の長いソロには涙を禁じえませんでした。
アイーダ役のラトニア・ムーアはちょっと評価が難しい。ソロを歌うと音程が悪く表現ものっぺりしていて大味。ところがアンサンブルになると、太い筆に墨をたっぷり含ませて一気に書かれた文字のように、実に存在感のある声に感じられる。第2幕の壮大なコンチェルターテや第3幕のアモナズロとの二重唱など素晴らしいのだが、一人で歌うところは概ね残念な出来。
ラダメス役のカルロ・ヴェントレは、第1幕あたりはちょっと粗っぽい歌い方で少し厳しいかな、と感じたが、後半は素晴らしい歌唱。今時これだけロバストでプロフォンドな表現の出来るテノールは貴重。
脇役の日本人男声3名も大変結構。アモナズロの堀内康雄、第3幕のアイーダとの対話は手に汗握る迫真の歌唱。エジプト王の平野和については本ブログで昨年の「ドン・ジョヴァンニ」のレポレッロを絶賛しましたが、まぁエジプト王の役ではこの人の美点はあまり活かし様がない。しかし舞台映えのする見目麗しい王でした。神官ランフィスの妻屋秀和はいつもながらの安定感。これだけ脇ががっちりしていると音楽の隅々まで実に楽しく聴ける。
ギュットラーの指揮は、経歴を見ると必ずしもイタリアオペラが得意という訳でもなさそうだが、トラディショナルなソステヌートなども様になっていて、様式感を大切にしようとする姿勢にとても好感が持てました(ちょっと走るところもあるが)。だがその様式感というものは本能的に湧き出てくるものというより、学習の成果として現われたものという気がする。とはいえ、こういう演奏は(イタリアものが鬼門になりがちな)日本のオケにとっても貴重な経験になると思う。イタリア・オペラとなると途端に薄っぺらい音になることが多い日本のオーケストラだが、今回の東京交響楽団の演奏は十分輝かしさもあって秀逸でした。
ま、いろいろ細かいところをあげつらうことも出来るが、総括すると終幕のアムネリスが良かったので結果オーライ。なんだかんだ言いながら、やはりヴェルディは素晴らしい。
by nekomatalistener | 2013-03-28 01:59 | 演奏会レビュー | Comments(5)

新国立劇場公演 ヴェルディ 「オテロ」

千葉で単身赴任中だが、大阪では一家に一台たこ焼き器があると言うと未だに「ネタ」と思う人がたくさんいる。「またまた~(笑)」みたいな。





3月7日、新国立劇場に「オテロ」を観に行きました。

  オテロ: ヴァルテル・フラッカーロ
  デズデーモナ: マリア・ルイジア・ボルシ
  イアーゴ: ミカエル・ババジャニアン
  ロドヴィーコ: 松位 浩
  カッシオ: 小原 啓楼
  エミーリア: 清水 華澄 
  指揮: ジャン・レイサム=ケーニック
  演出: マリオ・マルトーネ
  合唱指揮: 三澤 洋史
  合唱: 新国立劇場合唱団
  管弦楽: 東京フィルハーモニー交響楽団

まだ私が高校生の頃、学校の図書館にあったクラシックの解説本(詳細は忘れてしまいましたが)のなかに、イタリア・オペラの金字塔はモンテヴェルディの「ポッペアーの戴冠」、ロッシーニの「セミラーミデ」、そしてヴェルディの「オテロ」の3作であると書いてあり、へぇそんなもんか、と思いました。その後30年以上が経過し、ようやく私もその意見に同意出来る程度には経験を積んできたと思います。それはそれとして、オテロを聞くたびに思うけれど、イタリアオペラ400年の歴史の中で、ヴェルディのオテロは悲劇の最高峰ではないか、と思う。ちなみに喜劇なら同じくヴェルディの「ファルスタッフ」。ヴェルディの28作のオペラの中でも双璧、おまけにどちらもシェイクスピアの翻案。その「オテロ」の舞台をこうして東京に居ながら舞台で観る喜び。

09年のプロダクションと同じ舞台ですが、久しぶりに観ると前回気がつかないところに気がついたり、前回と少し異なる演出があったり、で大変面白い。どうせなら新しい舞台を、と思いがちであるが、このオテロはこうして何度も舞台に掛けられ、そのたびに磨かれて良くなっていくのでしょうね。観客もプレミアと違ってレパートリー公演では自ずと目より耳のほうに重きを置いて観賞することになり、観方聴き方が変わってきます。裏を返せば、指揮者や歌手はもはや初めて観る舞台に眼を瞠っている観客を相手にするわけではないので、その分プレミアとは異質の緊張感があるはず。つまり「前回と比べられる」ことが不可避である、ということ。こうして演奏者も聴衆も共にレベルアップしていくというのが正しいレパートリー公演の在り方だろうと思う。このオテロは新国立劇場のレパートリー・オペラとなっていく資格が十分ある美しい舞台であると思います 。
今回改めて舞台を観て、そのディティールの素晴らしさに唸りました。とくに女声の合唱団員の一人一人の衣裳が微妙に違う色合い、どれもくすんだ中間色ながら皆が集まると本当にきれい。演出で前回と大きく違うのは第2幕のマンドリン・コーラスの辺り、確か前回は舞台に張った水が明るくきらきらと輝くなか、履を脱いだデズデモナが水に足を浸したりペチコートを太腿までたくしあげたり、といった演出があって、えらくお転婆なような気がしたり、そうかデズデモナはまだ少女と言っても良い歳だしなぁ、などと考えていました。今回はマンドリン・コーラスの辺りでは既に夕暮れの設定、デズデモナは終始貞淑な妻、といった落ち着いた所作。デズデモナの造形はどちらも在りだと思うが、この場面の明るさがあってこそ、この後の物語の闇の深さも引き立つのに、と少し物足りない思いもします。第3幕終結部は人によってはスタティックな人の動きが不満かもしれない。ここは因習的なコンチェルタート様式で音楽を書いたヴェルディが悪いのだが、もう少し動かし方はあるかも知れません。後は概ね言うことなし。安心のクオリティ。

歌手の中では何といってもデズデモナを歌ったマリア・ルイジア・ボルシが素晴らしい。昨年「コジ・ファン・トゥッテ」でフィオルディリージを歌ってた時とは別人と思ってしまうくらい大違い。強靭なのに柔らかい温もりの感じられる声質で、声量も十分あり、リリコよりは幾分ドラマティコに傾いた歌ですが悲しみが胸に迫るような歌い方。私は終幕の「柳の歌」からエミーリアへの別れ、「アヴェ・マリア」にかけての部分を聴きながら落涙を禁じ得ませんでした。ここはヴェルディの筆致自体も神がかっていて、柳の歌の後、嬰ヘ長調の和音が4回鳴らされて感極まったデズデモナが「ああ、エミーリア、エミーリア、さようなら」と歌う部分は胸を抉られそうになる。そのあとの「アヴェ・マリア」、これを聴いて心動かない人は一体音楽の何を聴いているのか、と思います。私はもうこのボルシの感動的なデズデモナを聞けただけで十分元を取った気分になりました。
脇役ですが侍女のエミーリア役の清水華澄が素晴らしかった。終幕でヤーゴの姦計を暴露し、オテロを非難する場面の凄まじさ、こういう歌手が一人いるだけで舞台の迫真性は飛躍的に伸びる気がします。カーテンコールの時も、脇役には珍しく彼女に対しては盛大な拍手が送られていました。
ヤーゴのミカエル・ババジャニアンは知的な歌い方で、ヤーゴの人物造型には瞠目すべきものがありました。狡猾なだけではなく第2幕のクレドなど人間的な底知れぬ魅力を感じてしまうほど。ですが残念なことにここぞという時の声量が今一つ。ゆえにその人間的魅力が輝かしい悪の魅力にまでは至らない。
カッシオの小原啓楼は前に「沈黙」のロドリゴを歌っていた人ですが、この役では可もなく不可もなく、というところ。もっともレパートリー公演で日本人が歌うレベルとしては十分すぎるほど。これで文句を言ってはバチがあたる。
タイトルロールのヴァルテル・フラッカーロは前半はまるで駄目。昨年のトロヴァトーレでマンリーコを歌った時は、音程がずるずると上がる癖があるが、明るくよく伸びる声でまずまず好意的な評を書いた。が、今回は第1幕登場のEsultate!でまずがっかりしてしまいました。まったく声が届かない。音程も甘い。ヴェルディの書いた音楽は歌手に対して苛酷過ぎるとは思うけれど、ここがまともに歌えないのならオテロやるのは百年早いわ、と思う。いや本来オテロってテナー・オブ・テナーズの歌う役どころでしょう?いくらレパートリー公演ったって、Esultate!で鳥肌立たない程度の歌だったら値打ち半減だと思う。その後のデズデモナとの二重唱も、第2幕ヤーゴとの二重唱もなんだかぱっとしない。休憩後の後半になってようやく声が出てきた感じで、そうなると今度はなかなか他に得難い良い歌手だという気になる。マンリーコでは明るく感じられた声質が、ここでは立派にオテロに相応しくロバストな太さを備えている。今や伝説と化したかつての名テノールが次々と第一線を去るなかで貴重な歌手には違いない。という訳で実に評価が難しいのだけれど、後半が良かったので総合点ではまあまあかな、と思います。
ジャン・レイサム=ケーニックの指揮はあまり手練手管を使わず、悲劇の終結に向けて一直線に進んでいく推進力のあるもの。本来そんなに短いオペラではないはずなのに心理的な時間はすごく短く感じます。今回のようなタイトルロールが非力な時はこれで良いのかも、と思います。そうでなければ第1幕の幕切れの二重唱など、もっと情緒纏綿とやってほしいと思うかもしれません。そこは計算なのか、この指揮者の資質なのか、一度聴いただけでは私はよく判らない。
私は09年にも観てるので今回は舞台が少々見えにくくてもいいや、と思い、安い4階席で聴きましたが、金管が鋭く耳を撃つのに対して弦と木管がやや弱く感じました。これは座席の問題なのかオケのバランスのせいなのかはよく判りませんでした。ですが全体としてはとても良くオーケストラが鳴っており、ブラスも臆せす豪快で、とてもいい演奏であったと思います。
by nekomatalistener | 2012-04-08 22:38 | 演奏会レビュー | Comments(0)

新国立劇場公演 ヴェルディ 「イル・トロヴァトーレ」

多分その名を知らない人はいない大会社の重役さんと、メールで「薬師丸ひろ子」ネタで笑い興じる。
ふと思い立って、yahoo検索で"薬師丸ひろ子顔負けの演技"という言葉でサーチしたら何と1件ヒット、しかも「ミイラの作り方」について書いたサイト。めまいがする。




8日に新国立劇場に「イル・トロヴァトーレ」を観に行って来ました。

  指揮 ピエトロ・リッツォ
  演出 ウルリッヒ・ペータース
  レオノーラ・・・タマール・イヴェーリ
  マンリーコ・・・ヴァルテル・フラッカーロ
  ルーナ伯爵・・・ヴィットリオ・ヴィテッリ
  アズチェーナ・・・アンドレア・ウルブリッヒ
  フェルランド・・・妻屋秀和
  合唱 新国立劇場合唱団(合唱指揮 三澤洋史)
  東京フィルハーモニー交響楽団

もともとレオノーラを歌うことになっていたタケシャ・メシェ・キザールが体調不良で降板し、タマール・イヴェーリが代役。この人、以前新国立の「オテロ」でデズデモナを歌ってた人です。ソプラノ・リリコとしてはすごく良い歌手です。「オテロ」のデズデモナの舞台は本当に素晴らしくて、私は最後のアヴェ・マリアを歌うところで涙を禁じ得ませんでした。でもレオノーラはただのリリコではなく、リリコ・スピントの役柄。第1部のアリアのアジリタが全然歌えていないのはちょっと厳しいですね。その部分以外は、声もよく出ていて良いソプラノだと思いましたが、少しお疲れ気味なのか後半音程が下がり気味(ほんの僅かですが)。いずれにしても、レオノーラ(に限らず初期から中期にかけてのヴェルディ・ソプラノ)の役柄の難しさ、苛酷なアジリタの要求を満たしつつ、あくまでリリコでなければならない、という困難を痛感します。
マンリーコのヴァルテル・フラッカーロ、久々にイタリアオペラらしいテノールを聴きました(脳天気という側面も含めて)。ただ、音程が上振れしすぎ。声質はとてもいいので惜しいと思います。第2部のアズチェーナとの二重唱のカデンツァ、音程が狂うってなレベルじゃない。ほとんど事故レベル。もうこれは無かったことにしよう、と思いました(笑)。残念なのは、後半になって声はどんどん良くなっていき、音程はどんどん上がり気味、という法華の太鼓暴走バージョン。第3部のお約束のハイCは、合唱のストレッタを突き抜けてくるほどの力はなくてちょっと不発気味。貴重なイタリアオペラのテノールですから、これから精進して再来日してほしいですね。
アズチェーナのアンドレア・ウルブリッヒはとても良かったです。ヴェルディのメゾソプラノに絶対必要な邪悪さも十分。マンリーコに引っ張られて音程の悪いところもありましたが概ね立派な歌唱。
ルーナ伯爵のヴィットリオ・ヴィテッリは、声も見た目も良くて、過不足のない役作り。
主役4人については、以上のとおり、惜しいところもありますが、特段スター歌手を集めた訳でもなくてこのレベル、というのは実は物凄いことなのではないか、と思います。だって、メトやスカラでさえ、脇役のすみずみまで歌手を揃えて、というのは最近ではもうありえないのでしょう?オペラの外来公演は国家の威信を掛けてオールスターで、という時代はもう過去のもの、そんな時代に極東の島国でこのレベルの公演が日常的に行なわれているというのは大変なことなのだろうと思います。たまたまというのでなく、新国立は基本こうですから。欲を言えばキリが無いけど、とんでもなく酷い歌手は一人もいない、というのは凄いんだなきっと。
脇役とはいえ、フェルランド役の妻屋秀和、毎度思いますが日本人としては抜群の方じゃないでしょうか。その立派な体躯から出てくる声はまさに日本人離れしています。以前聴いた「ヴォツェック」の医者や「アラベラ」の父親の役など本当に素晴らしいものでした。今回も立派過ぎるくらいのフェルランドを聴きながら、この人ドイツものでもイタリアものでもこうして便利使いされてるけれど、一度新国立でこの人に誰か主役を歌わせてくれないか、と思いました。この人の声に合う主役ってすぐには思いつかないけれどきっと何かあるでしょう?ボーイトの「メフィストーフェレ」とかムソルグスキーの「ホヴァンシチナ」とか何でもいいけど。プロフィールを見ると物凄い数のオペラをやってますね、その大半は脇役なのでしょう。何をやっても上手いから却ってもったいないといつも思ってしまいます。ほんと新国立さん考えてあげてよ。

三澤洋史率いる合唱団はいつものことながら本当に上手い、プロらしい集団です。安心して聴けますし、今回の第3部の兵士の合唱など男声ばかりでも全然素人っぽさがないのはさすがです。
最後に東フィルを振ったピエトロ・リッツォですが、アゴーギクがところどころおかしい、というか、ソステヌートのつもりが単にがくっとテンポが落ちただけみたいに聞こえる箇所が数箇所ありました。この辺は経験の多寡は関係ないはず。厳しい言い方をすると、様式に対する理解度の問題だと思います。でも東フィルはオペラのオケとしては本当に上手いです。このあたりのクオリティの高さ、さすが日本ですね、という感じ。それが音楽的な感動に繋がるかというとえてして直結しないもんなんだが、今回は言うことないです。大したもんです。

さて今回最大の議論の的は演出、それも死の擬人化をどう考えるかということでしょう。私は、第4部で死神が魂の抜け殻のようなレオノーラを抱いてワルツを踊るところ、演出家はこれをやりたくて死神をでずっぱりにしたのだろうか、と考えましたが、それにしても死の舞踏というイメージそのものが陳腐、結局のところ死神は不要だったのでは、と思わせられました。それでも死神を舞台に上げるというのなら、もう少し通俗に堕さないビジュアルがあったような気がします。今回の劇画調の死神と例えばベルイマンの「第七の封印」の死神では、やはり格が違うような気がする。死の擬人化、死の舞踏、これはヨーロッパの14世紀に遡る美学上の大テーマなのですから、これを引用するというのは中世以降のヨーロッパの歴史を背負って、演出家が彼の全存在を賭して行なうというぐらいの覚悟が必要です。また、音楽上の死の舞踏の系譜というのもあって、リストとサン=サーンスが有名ですが、トロヴァトーレにそれへの連想を掻き立てる要素があるかと言えばNoですね。つまり演出家がお話を頭で考えてこねくり回した結果を見せられているのだと思うのです。音楽に死の舞踏のモチーフとリンクする点があって、そこに照準をあてて死神を登場させているのであれば納得もしますが、なんとなくのべつ幕なしに登場というんじゃ、ちょっと安直というか、チープな感じがしました。
死神が出てくること以外は概ねオーソドックスな舞台で、誰にも受け入れられ易いものではないでしょうか。私は変な読み替えとか勘弁してほしいほうなので見易かったと思います。
舞台は青を基調とした照明が美しく、改めて夜の場面の多いオペラだと認識しました。特に修道院の場の、ロマネスク風の交差ヴォールトを背景とした装置は息を呑む美しさです。ここにはさすがに死神も現れまいと思いきや堂々と出てきたのには、演出家の意図を疑ってしまう結果となりました。
これもつまらない指摘かも知れませんが、舞台転換がもたもたし過ぎ。舞台裏でゴトゴトやってる間、なくもがなの解説を字幕で見せるのも興醒め。
繰返しになりますが、なんだかんだ不満を書きながら、殊更特別でもなんでもない公演で、これだけのクオリティというのは本当に新国立劇場が歴史を積み重ね、お客の拍手やらブーイングやらに育てられてここまできたのかなぁという感慨がありました。文句をつけるのも実は楽しみのうち。実際、大いにヴェルディの歌を堪能した一日でした。
by nekomatalistener | 2011-10-10 21:37 | 演奏会レビュー | Comments(16)

ヴェルディ 「イル・トロヴァトーレ」 カラヤン(その5)

べたうち一括変換して遊ぶ。だいたい予想通りの結果。

  会長ロプロス空を飛べポセイドンは海を行けロデム返信地を駆けろ

ロデム、返信打つのは大変だろう。肉球でぽちっとエンター(想像中)・・・かわいい。
ロプロスは高そうな麻のジャケットにループタイしてる感じ。ポセイどん、おさんどん。

  砂の嵐に守られたバベルの党に住んでいる超能力正念場ビルに勢

最後に大きく崩れる。



これまで、先の見通しもなく思いつくまま書いてきたので獺祭図の如くとっ散らかしてしまいました。もう少し深く掘り下げてみたかったのですが、どうも収集がつきません。猫またぎの名が泣きますが、素人の戯言と思ってご容赦ください。この項もそろそろ強引に幕を引くべく、最後は演奏論を離れてヴェルディの作品を俯瞰してみようと思います。

ヴェルディは生涯に28作のオペラを書きました。そのヴェルディの歩みを仮に3期に分けてみますが、第1作「オベルト」(1839.11.17初演)から第19作「椿姫」(1853.3.6初演)までを初期、20作目の「シチリア島の夕べの祈り」(1855.6.13)から「シモン・ボッカネグラ」初稿、「仮面舞踏会」等を経て25作目「ドン・カルロ」(1867.3.11)までを中期(この中には初期の「マクベス」の1865年改訂版も含めてよいと思います)、そして第26作「アイーダ」(1871.12.24)、第27作「オテロ」(1887.2.5)、第28作「ファルスタッフ」(1893.2.9)を後期あるいは完成期(1881年の「シモン・ボッカネグラ」改訂版と1884年「ドン・カルロ」改訂版も含めて)とする見方が可能だろうと思います。
初期の19作の中でも最後の3作(リゴレット、イル・トロヴァトーレ、椿姫)で、ドニゼッティ・ベルリーニ流のベルカント・オペラが完成され、同時にその解体の始まりが伺えることは先日記した通りです。
中期の諸作を特徴づけるものは、それまでのステロタイプなオーケストラ書法の著しい深化、因習的なカヴァティーナ・カバレッタ形式の放棄、錯綜したリブレットと興行面での不成功等々のキーワードで語れそうですが、一言でいうなら「苦渋に満ちた模索あるいは試行錯誤」とでも言うものでしょうね。しかし、この苦渋の時期があったからこそ、アイーダ以降の真の天才の高みに辿り着いたとも言えそうです。(余談ですが、ヴェルディ演奏の大家アバドの録音した作品がこの中期の諸作に集中しているのは大変興味深いことだと思います。)
この巨人の歩みに匹敵するのはシェークスピアの37作の戯曲の歩みです。「ヘンリー4世」で作家としての一定の高みを実現した後しばらくの間、後の人々が「問題劇」と名付けた一連の苦い味わいをもつ不思議な作品を書きました(「トロイラスとクレシダ」「終わり良ければすべて良し」「尺には尺を」等)。その後におなじみの「オセロー」「リア王」「マクベス」が続くのですが、シェークスピアの本当に凄いところは、その後「冬物語」「テンペスト」などで許しに満ちた静謐な世界を描いて更なる高みに至ったところだと思います。
ヴェルディとシェークスピアの歩みを重ねてみると、初期のトロヴァトーレや椿姫はヘンリー4世に、中期の諸作は一連の問題劇、アイーダとオテロはオセロー以下の傑作群、そしてファルスタッフが冬物語やテンペストに、不思議な符徴を見せながら重なり合うのです。
若書きのレベルから着実に上昇して一定の高みに到った後に苦渋の期間、それを経て更なる高みに、という軌跡、これこそ天才の軌跡と呼べるのではないでしょうか。

脱線ついでにもう少しこの天才の軌跡について考えてみますが、ではバッハやモーツァルトはどうなのか?彼らの作品の中で、苦渋にみちた試行錯誤の時期はあるのか、という問いについてはどうでしょうか?バッハのカンタータをあれこれ聴いてみると、確かに初期のワイマール時代のカンタータのいくつかには実験的としか言いようのないものが見つかります。例えば様々なスタイルのレチタティーヴォを連ねたBWV18「天より雨くだり雪おちて」、ダカーポアリアの可能性の追求BWV182「天の王よ、汝を迎えまつらん」等々。しかし、それ以降はなんの苦渋も淀みもなく、受難曲やミサ曲を経て「音楽の捧げ物」や「フーガの技法」の奇跡のような高みに到ったように思われます。モーツァルトも、確かにウィーンに出てからのある時期を境に、一段高いレベルに到ったのは間違いありませんが、苦渋や淀みとは無縁なように思われます。天才の質が違うのか、それとも私がそういった作品の存在を知らないだけなのか。いやいや、あんたそんな単純なもんじゃない、彼らにもこんな不思議な作品、一見淀みにしか見えないけれど重要な作品があるよ、と仰る方がおられましたら是非ともご教示願いたいと思います。
(この項、とりあえず終わり)
by nekomatalistener | 2011-09-17 22:16 | CD・DVD試聴記 | Comments(2)