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ヤナーチェク 「利口な女狐の物語」 ノイマン/チェコ・フィルハーモニー管弦楽団(その3)

サザエさんに出てくるタイコーバさんってどこの国から出稼ぎにきた人なの?って某ブログを見て吹いたが、実は私もこの歳(49歳)になるまで「妙子おばさん」だと思ってました。正しくは「タイ子おばさん」なんですね~。よく考えたら一人だけ海と関係ないってのもヘンな話だわなぁ。知らんかった。





第2幕、次の場面は夏の夜。なんという自由な、何物にも囚われない音楽でしょうか。癖のある拍節とペンタトニックなヴォカリーズによる森の動物達の合唱。突拍子もない連想ですが、物心付いた頃、テレビの前で「ジャングル大帝」が始まるのをわくわくして待っていたことをふと思い出しました。大人の為の童心の音楽という感じがします。
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ビストロウシュカの様子を一匹の雄狐(ズラトフシュビーテク)が伺っています。女狐の気を惹こうと雄狐の語る「あなたは理想的な現代女性だ。煙草はお吸いになるのですか」とか、「僕はあなたのことを小説やオペラに書くからね」といったセリフが笑わせてくれます。雄狐は彼女のご機嫌を取るため兎を採りに駆けていくと、ビストロウシュカは「あたしってそんなにきれいかしら」とつぶやき、兎を捕まえて戻ってきたズラトフシュビーテクとの二重唱が始まります。
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ほとんど語りだけで出来ているようなこの作品の中で、この場面はいわゆる「愛の二重唱」というべきもの。ここぞとばかり狐たちは大きなアーチを描く旋律を歌いあげ、オーケストラは官能的な音楽を奏でます。官能的というと何とかの一つ覚えみたいに「トリスタンとイゾルデ」を引合いに出すのは気が引けますが、本当にトリスタンや、いやむしろ、この場面に相応しいのは「ヴァルキューレ」のジークムントとジークリンデの二重唱の方かも知れませんが、それらに匹敵する狂おしいばかりの濃密な音楽です。色彩的な変二長調を中心とするフラット系の調性が支配している所為で、ふとプッチーニの一節が頭をよぎったりもしますが、もちろん他のどんな音楽にも似ていないのは再三申し上げてきた通りです。次の譜例は二重唱のクライマックス、ロ長調に転調してしばらくすると同じ旋律が変ハ長調の記譜になります。ロ長調も変ハ長調も一緒じゃないのか、と言うなかれ。可能な限りヤナーチェクの耳にはそう聞こえていたであろう調性で、我々も耳を研ぎ澄ませて聴かねばなりません。
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巣穴にもぐり込んだニ匹を覗き見したお堅いふくろうが、「私達のあのビストロウシュカが、あんなにお行儀の悪いことを!」と嘆きますが、リス達やハリネズミは大喜びで哄笑します。なんともおおらかな性の賛歌。
きつつきの司祭が二匹の結婚式を執り行い、森の動物たちのアポテーズが始まります。この部分もちょっと他に例を見ない独特の音楽です。凶暴なリズムでいやが上にも聴き手の興奮を誘うところは、ストラヴィンスキーの「結婚」を連想させなくもありませんが、実は私はストラヴィンスキーの春の祭典や結婚をバーバリズムの音楽とは考えておりません。あれはプーレーズが喝破した通り、「制御された混乱」なのであって、実態は極めて知的な音楽だと思っています。それと比べると、この森の動物達のほうがよほどバーバリックな音楽だと思います。(ストラヴィンスキーについてはいずれ項を改めて書きまくりたいと思っています)。

第3幕は変二短調(嬰ハ短調ではなく)の前奏曲で始まります。変ニ短調の平行調は変ヘ長調となり、理論的にはあり得ない調性なのですが、ヤナーチェクはEの音がほしい時はわざわざFのフラットで記譜しています。行商人ハラシュタが現れ民謡調の歌を歌いますが、ここはシャープだらけの嬰ハ短調の記譜になっており、どんなにヤナーチェクが調性に対する感覚を重視しているかがここでも見て取れます。
続いて森番が登場し、ハラシュタを密猟者ではないかと疑います。ハラシュタは言い逃れをしますが、森番が死んだ野兎を餌に狐の罠を仕掛けると、先回りして狐を捉え恋人に贈るマフにしようと思い立ちます。
狐の夫婦と沢山の子狐たちが登場、子狐の合唱はバルトークが採集したルーマニアやハンガリーの農村の民謡を思わせます。ころころとじゃれている犬や猫の子を見ていると、どこからこんなエネルギーが湧いて出てくるのか、と思う時がありますが、この合唱は正にそんな感じの活気に溢れたものです。
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狐の夫婦は、また来年の5月になったら子供を作ろうと、幸せに溢れた二重唱を歌います。ホ長調でハラシュタが機嫌よく現れますが、罠に気付いたビストロウシュカはハラシュタを翻弄し、その隙に雄狐と子狐達は野兎をまんまと食べてしまいます。きりきり舞いのハラシュタ(3/4拍子と1/2拍子!が激しく交替します)が、よろめいて鼻の頭に怪我をすると、音楽は変イ短調に転じて、いよいよ悲劇が始まる、ただならぬ様相を呈し始めます。三連譜と四連譜のぶつかり合い、5小節単位のフレージング、森の中に突如深淵が現れたかのような恐るべき音楽。逆上したハラシュタが発砲し、ビストロウシュカは死んでしまいます。ここは敢えてミクロな分析は止めておきますが、発砲と狐の死のくだり、天才の筆致としか言いようがありません。万感の思いを込めたゲネラルパウゼの後に続く、わずか18小節のポストリュード。これ見よがしの悲しみは一切無いのに胸に迫ってくる素晴らしい挽歌であると思います。

変二長調の前奏に続いて、例の居酒屋の場面。まだ時刻は早く、愛想のない女将と校長、そして森番のみの寂しい光景です。前の場面からどれだけの時が経過したのかはっきりしませんが、森番は飼い犬のラパークが歳を取って動けないことを校長に話し、同時に自らの老いを感じています。悲劇の後の、しみじみとするような場面です。

深いブラス合奏の間奏曲の後、全曲の白眉というべき森番のモノローグが始まります。森番は明るい森の中で、妻との若かった日々を思い出しながらうとうとします。森の美しさを讃えながら感動的なモデラートA přece su rádを歌います。
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森番の夢の中で、これまで登場した全ての動物達が現れます。その中に女狐を見つけた彼は、今度は大切にしてやるから、と捕まえようとしますが、夢から目覚めるとそれは一匹の蛙でした。かつての狐との出会いを思いだし、森番は蛙に語りかけますが、蛙は「あれは僕じゃなくておじいさんだよ」と話します(森番が蛙のセリフを理解したのかどうかは不明ですが)。繋がっていく生命に感動した彼は銃を地面に落します。森番らしく、何と言って深遠なことを言う訳ではないのに、自然を越えた超越的な存在すら感じさせる深いモノローグです。森番の歌の最後はイ長調に転じて、あたかも自然への賛歌のように滔々と流れていきます。もうここで終わっても十分に感動的だと思うのですが、ここからブラスの咆哮に続いて奇跡のような変二長調のフィナーレが置かれています。例のシンフォニエッタに似た、荒削りでおおらかな音楽。気の利いた言い回しが浮かびませんが、ヤナーチェク以外の誰にも書けない素晴らしい音楽です。ここでも、小さな生き物たちとの親密な情景からいきなりカメラがズームアウトして広大な森や草原の映像に切り替わるような、一種の視覚的な喜び、軽い目眩すら覚えるような快楽を感じます。一体、ヤナーチェクは本気でこのオペラを舞台にかけるつもりがあったのでしょうか?もしかすると彼の頭の中にはアニメ映画のようなものがあったのではないか、と思われます。この作品が作曲されたのは1922年から翌23年に掛けてですから、既に映画は人々の娯楽としての地位を確立し始めた頃です。ただ、アニメーションが登場するのはあと20年ほど後のことですが、あながち無理な想像とは言えないと考えています。ちょっと真剣にスタジオ・ジブリさんにお願いしてみようかな、と(笑)。全曲通しても1時間35分、尺としても手頃ですし。あるいは、どうしても舞台で、ということであれば、あの「ライオン・キング」を演出した天才ジュリー・テイモアに演出してもらいたいですね。きっと今まで誰も見たことのない、大人も子供もわくわくするような舞台を作ってくれそうな気がします。

音源のCDで森番を歌っているリハルト・ノヴァークが素晴らしいと思いました。ちょっと癖というのか、時々皮肉な、あるいは意地悪そうな歌い方になる時もありますが、粗野でいて実は限りない優しさを持ち、同時に孤独な魂を抱えた森番のキャラクターを見事に演じています。女狐、雄狐、校長、ハラシュタ、いずれも優れた歌手達ですし、小さな動物や虫達を歌う子役も含めて誰ひとりとして穴のないキャスティングでした。「ルサルカ」で「はじけない指揮ぶり」と悪口を書いたノイマンも(比較の対象がないのでちょっとアレですが)、この演奏に関しては何の不満もありません。基本的には中庸を旨とする人なのでしょうが、ヤナーチェクを世に紹介したいという熱意と使命感が底に感じられる名演だと思いました。
私は基本的にはあまり自分の趣味を人に押し付けようと思わないほうですが、この作品に関しては本当に音楽を愛する全ての人に聴いてほしいと、声を大にして言いたいと思います。絶対に損はしませんよ。
(この項終わり)
by nekomatalistener | 2011-10-20 22:50 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

ヤナーチェク 「利口な女狐の物語」 ノイマン/チェコ・フィルハーモニー管弦楽団(その2)

「あらびき団」打ち切り。一番残念がっているのは沼津みなと新鮮館のおにいさんだと思う。




このオペラ、まだまだ一般には知られていないと思うので、ごく簡単にあらすじも紹介しながら、音楽のディティールを見てみます。
スコアを一部引用していますが、EUや日本ではパブリックドメインですので問題ないでしょう。逆に英訳リブレットは入手できませんでしたので、CDの対訳が怪しいところはあまり検証できていません。

第1幕の前奏曲は調号なしの変イ短調のメランコリックなAndanteで始まります。
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感傷とは全く無縁な音楽であるにも関わらず、何かこう、ひしひしと孤独さが募るような音楽です。第1幕では、登場する動物も人間も、皆孤独を抱えた存在であるとでも言うのでしょうか。
全曲が調号なしで書かれていますが、転調が激しく全音音階が頻出するこの作品では調号なしで臨時記号で逃げたほうが記譜しやすいという事情があるのでしょうね。変イ短調は通常の記譜であればフラット7つ、実に譜読みしにくい調性です。めったにお目にかからない調性ですが、アルベニスの「イベリア」第1曲「エボカシオン」が変イ短調で書かれていますね。通常なら幾分譜読みしやすい嬰ト短調での記譜が一般的ですが、臨時記号で逃げるのならむしろ変イ短調を想定してフラット中心の記譜のほうが書きやすく読みやすいと思います。ですがここで重要なのは、曲想が嬰ト短調ではなく変イ短調として聴かれるべきものに思われることです。実はこの作品、これに続く殆どの場面がフラット系(変ホ、変イ、変ニ、変トの各調)で書かれており、独特の音楽の色彩感の源となっています。逆にシャープ系で印象に残る箇所としては、第1幕の鶏殺戮の大騒動(ホ長調)、第2幕で森番が銃を撃つが狐が逃げていく場面(イ長調)、終幕の森番の自然への賛歌(イ長調)を挙げることができます。楽譜を見る習慣のない方には実に退屈な議論でしょうし、楽譜が読める方の中にも、嬰ト短調と変イ短調の違いなど(少なくとも平均律に慣れてしまった現代人には)無意味であると仰る方がいるだろうと思います。しかし譜例に見る「ためいき」の下降音形には、どうしても変イ短調でしかありえないと感じるのは私だけではないと思います。これぐらいにしておきますが、私はここで、ヤナーチェクが調性の扱い方について実に鋭敏な感覚を持っていたに違いないことをどうしても述べておきたかったのです。

前奏に続いて蠅やとんぼのパントマイム。森番が登場、森の中で独り銃に語りかけながら居眠りをします。こおろぎ、きりぎりす、蚊、蛙が登場。森番の血を吸って千鳥足の蚊はワルツを踊ります。蛙に興味津々の子狐が登場、驚いた蛙が飛び跳ねると、森番の顔に落ちます。森番が飛び起きるとそこには親とはぐれた子狐。森番は子供達への土産に狐を捕まえます。
続く間奏曲はまたしても変イ短調。これも孤独感、いやむしろ悲劇性を湛えた特異な音楽、本当に類まれな音楽だと思います。題材が特殊ということもあって、この作品をオペラとして舞台にかけ、群衆の一人として観たり聴いたり、ということがどうもそぐわない感じがします。この旋律の最期の4つの音(B-Des-As-Es)がそのまま狐の哀れっぽい泣き声になります。
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森番が狐(ビストロウシュカ)を持ちかえると、妻は蚤がいるんじゃないかと嫌がります。おかしいのはその後、つい先ほどの場面で「ママ、ママ」と泣いていた子狐が、いきなり口の達者な女狐になっています。まぁ原作が漫画ですからね(笑)。
飼い犬のラパークと恋をめぐる会話。そこに森番の子供たちが現れ、棒で狐を突っついていじめると、狐の逆襲に遭います。妻は怒り狂い、森番は狐をひもで縛ってしまいます。
この後、夜から夜明けにかけての時間の経過を変ロ短調から変ロ長調を経て変ト長調に移りゆく間奏曲が表しますが、この部分の美しさは譬え様もありません。ここまで夜明けの微妙な色彩の変化を描いた音楽というのは、おそらくラヴェルの「ダフニスとクロエ」ぐらいしかないんじゃないかと思う程です。
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鶏たちがやってきて、卵を産まないビストロウシュカをからかいます。彼女は雌鶏たちに、雄鶏の支配から逃れて立ち上がれとアジテーションを行いますが、盲目的な雌鶏には雄鶏なしの生活が考え付きません。怒ったビストロウシュカは次々と鶏たちを噛み殺します。喚き散らす森番の妻、森番に棒でぶちのめされそうになったビストロウシュカはひもを噛み切って逃げていきます。スケルツォのようなこの場面、ホ長調が主であることは先に書いたとおりですが、最後は変ホ長調の大混乱で幕を閉じます。

第2幕、穴熊の住む巣穴が欲しくなったビストロウシュカは、森の獣達を味方につけて穴熊に言いがかりをつけ、最後は巣穴に放尿して穴熊を追い出してしまいます。まるで一昔前の地上げ屋のようなあくどさです。もうお気づきでしょうが、この物語では確かに動物は擬人化されていますが、人間の道徳律とはまるで無縁の存在です。とてもじゃないがメルヘンとは言えません。また、動物達は種を超えて自由に会話をしていますが、人間との意思の疎通は全くありません。
この場では全音音階がブリッジの役割をして、調性は変二長調からロ長調に至るまで自在に変化します。変イ長調に転じて、居酒屋の喧騒を表す場面転換のバーバリスティックな間奏曲。

次の居酒屋の場は、酔っ払ってぐだぐだの人間の男達ばかり登場します。狐の一件でくさっている森番は牧師や校長に執拗に絡みます。牧師はラテン語の警句を呟き、校長はある女のことが忘れられず湿っぽい酒を飲んでいます。まったくぱっとしない連中ですが、彼らに向けるヤナーチェクの眼差しは暖かく、音楽としては不思議に味わい深いものがあります。しかしこの音楽を語るにはもう少し繰り返し聴き、私自身ももっと年をとらねばならないという気がします。べろべろになった校長は道を踏み外してひまわり畑に落ち、ひまわり相手に口説き始める始末。牧師は昔手痛い目に遭った恋を思いだしモノローグを歌います。銃をもって現れた森番がビストロウシュカを見つけ発砲しますが、弾が逸れ、狐は逃げていきます。この後、突然音楽はイ長調になりますが、映画でいうならカメラがズームアウトして突然視界が開け、大草原が目の前に現れたかのような効果があります。ヤナーチェクの独特の調性感覚を感じるとともに、まるで映画かアニメーションを観ているような気分にもなります。実際、舞台で動物の着ぐるみを見せられるよりはアニメにしてみたい感じがします。ジブリさん、どうですか?(笑)。
CDはここまでが一枚目に収められています。第2幕の後半は次回に。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2011-10-12 19:46 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

ヤナーチェク 「利口な女狐の物語」 ノイマン/チェコ・フィルハーモニー管弦楽団(その1)

前回の投稿で何度かミスタイプして「エフゲニー・オネーギン」が「おねー議員」になった。
そんなのいたらちょっとやだな~。「あたし前原たんのほうがよかったのに~もうっ復興法案賛成してあげないっ」・・・とか言いそうで。




ここ数日、ヤナーチェクの「利口な女狐の物語」を聴きながら、その超弩級の天才に心底驚いています。「シンフォニエッタ」なら中学生の頃からですから、かれこれ30数年前から知ってるといやぁ知ってる(別に「1Q84」を読んで初めて聴いた訳ではない・・・)。グラゴル・ミサも聴いたことがある、でもなかなかそれ以外に食指が動かなくてこの歳になりました。いやぁもっと早く知っておれば良かったのに、とも思うし、このオペラの幕切れを聴いていると、いやこの歳で初めて聴く意味もあるのだ、とも思います。そう、これはR.シュトラウスの「薔薇の騎士」と同じく、恐らく若いときに聴いてももちろん良いけれども歳をとってから聴くのはまた格別、という種類のオペラでもあるのですね。
それにしてもこの音楽、どの部分をとっても借り物という感じがなく、体臭と言ってもいいような強烈な個性に満ち満ちています。寡聞にして、ヤナーチェクの作風の先行者やエピゴーネンが誰だったのか、いや、そもそもいたのかどうか知りませんが、少なくとも私には今まで聞いたことのない類の音楽でした。強いて言えば一部に初期のバルトーク風のところがあったり、ドビュッシーの遠いこだまが聞こえたり、あるいはストラヴィンスキーのある種の作品、例えば「プリバウトキ」とか「マヴラ」に少し似た感じの部分がなくもないですが、かといってストラヴィンスキーを彼の後継者もしくはエピゴーネンと呼ぶのは無理があると思います。本当に何者にも似ていないし何者も真似できない、感傷は微塵もないのに豊穣極まりない音楽。それを理論的に分析すれば、全音音階や教会旋法、あるいはペンタトニックの多用、などということになるのでしょうが、それだけでは何も説明したことにならないような気がします。音のパレットとしてはその通りであるが、そのパレットからなぜあの音ではなくこの音を選び出したのか、という点に関しては説明がつかないのです。それほど独特の音の選択です。それよりもむしろ、オーケストラに関して偏執的なまでに細部までびっしり書き込まれた部分と、眼前遥かに開けた大草原を駿馬に乗って疾走するような荒削りで胸のすく様な部分の交代の妙であるとか、殆ど全編まるで話すように書かれている(伝統的なレチタティーヴォとはかなり様相が異なる)にも拘わらず、ここぞというところで一瞬だけ感情が迸るように歌われる部分(雄狐を待つ間にビストロウシュカが歌うところとか)の対比、自由に伸縮する変リズムの連続と、たまに現れる執拗なりズムオスティナートの交代とか・・・そんなところにもこの独自性の秘密があるような気がします。ただ誤解のないように言えば、これらの手法は、先日プッチーニの「外套」で書いたようなレベルでの職人的メチエではなく、もっと直感的・生理的なもの、あるいは音楽的修練・訓練とは無縁なもの、アカデミズムの対極にあるもの、という点、あえて言えばムソルグスキーに近いものがあると言えそうです。この手法の本質をさらに圧縮して一言で言うなら、「自由」ということになるのではないかと思っています。

冒頭から思わず熱くなってしまいました。まずは音源のデータを記しておきます。

  猟場番・・・・・・リハルト・ノヴァーク(Bs)
  猟場番の妻、ふくろう・・・・・ヘレナ・ブルトロヴァー(A)
  校長、蚊・・・・・ミロスラフ・フリドレヴィチ(T)
  牧師、あなぐま・・・・・カレル・プルーシャ(Bs)
  行商人ハラシタ・・・・・ヤロスラフ・ソウチェク(Bs)
  女狐ビストロウシュカ・・・マグダレーナ・ハヨーショヴァー(S)
  雄狐ズラトフシュビーテク・・・ガブリエラ・ベニャチコヴァー(S)
  ヴァーツラフ・ノイマン/チェコ・フィルハーモニー管弦楽団
  (1979年12月7~22日、80年6月25~27日録音)
  CD:SUPRAPHON COCQ84519-20

前回まで、「ルサルカ」を聴きながら、二つの限界を感じると書きました。すなわち、一つは物語にエロティックな要素がなく、ただの他愛ないお伽話に思えてしまうこと(物語だけでなく音楽としても同様であることにも言及しました)、もう一つは言葉と音楽の結びつきが今ひとつ強固でなく、借り物の旋律にチェコ語の歌詞がむりやり嵌め込まれた感があることですが、この「女狐」には「ルサルカ」に欠けていたこの二つの要素がふんだんに盛り込まれています。
物語という点では、虫や鳥や森の獣がたくさん出てくるこのオペラの方がはるかに子供向けか、といえば実は少々微妙です。原作は新聞の連載漫画だと言いますが、終幕の森番のモノローグと蛙の歌は哲学的とも言えそうな代物。ほろ苦い後悔や諦念、そして自然への畏怖の念に溢れており、ある程度聴き手も年齢を重ねないと判らない味わいがあるのは冒頭で「薔薇の騎士」に喩えたとおりです。また、ここには妙にあけすけな性にまつわる挿話もあり、物語に奥行きをもたらしています。

性と言えば(ちょっと脱線しますが)、例えば第一幕で、まだ恋を知らないと嘆く犬のラパークに向かって、知ったかぶりのビストロウシュカ(女狐)は椋鳥の騒がしい交尾の様子をまくしたてます。添付の歌詞の邦訳は低レベルで日本語になってない感じがしますが、、椋鳥の話を聞いて変な気を起した犬のラパークがビストロウシュカにけしからぬことをしようとする場面のト書きで、「ラパークはしっぽでビストロウシカをつかまえる」とあるのは如何なものか。ボルネオかどっかの猿じゃあるまいし、単に対訳として日本語が熟していないという以前の問題です。「オペラ対訳プロジェクト」という日本語サイトには「ビストロウシュカの尻尾を手でにぎる」とあって、これも変。犬が手で握る?(笑)ボーカルスコアのドイツ語のト書きは"Dackel nähert sich der Füchsin in verliebter Absicht, sie stößt ihn um.”(愛を感じて近づくが撥ねつけられる)とありますが、簡略過ぎる感じ。英訳のリブレットが入手できず元々どう書かれているのかは謎のままです。

もう一つの言葉と音楽の関係についてはどうでしょうか。試しに第一幕の冒頭近く、こおろぎときりぎりすの会話の部分を見てみましょう。
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こおろぎもきりぎりすも、「子供の声」と指定されています。自由奔放さと精密さの同居するこの譜割を子供が精確に歌うことは多分期待できないでしょうから、これは「語り」のための一種の目安と考えてよいと思います。いや、大人が歌って教えてあげれば子供でも簡単に歌えるかも知れませんが、実はこの作品のほとんどのページがこれに類した書法で書かれており、歌手たちは大人も子供も譜割の精密さよりは語りの自由さに重きを置いて、例えばチェコ語(モラヴィア方言)の長母音は心持ち長く歌う、といった事が暗黙の了解として前提されていると見るべきでしょう。こういった暗黙の了解事項はロッシーニ以前のイタリアオペラのレチタティーヴォ・セッコにも見られることですが、ここでより大切なことはごくわずかな部分を除いてほとんど全曲がこの朗唱風の書法で書かれていることと、音楽のリズムや拍子などアーティキュレーションが言葉の抑揚に完全に従属していること、音楽の一切が語りの流れを邪魔することなく、しかも驚くべき雄弁さで書かれているということだと思います。
さらに、もっと大切だと思われることは、このリブレットはすべて散文で書かれているという点です。対比として「ルサルカ」ばかり持ち出すのも気の毒ですが、あの「ルサルカ」のリブレットはアリアのみならずレチタティーヴォに至るまで全て完全な韻文で書かれていました。格変化が激しく語順の制約が少ないチェコ語ならではかも知れませんが、韻文であるということは、言葉がより音楽に従属しやすい、ということです。音楽がまずありき、と思われてならないのもそこに原因があると思います。逆に、「女狐」は全くの散文ですから、当然伝統的な拍節法をもつ旋律であれば云わば字余りや字足らずが頻出し、大変困った結果になるはずです。どれだけ語りが中心であっても音楽である以上、旋律の自律的なまとまりが必要であり、台詞と音楽が衝突する事態は避けられません。この困難を、ヤナーチェクは二つのレベルで解決しています。一つは、この譜例からも判るとおり、5連譜や7連譜といった自由度の高い譜割、そしてもう一つは、伝統的なフレージングからの逸脱とその結果としての変拍子の多用です。実際には歌唱部分の多くは2/4や3/8といった短い拍子で書かれていることが多く、一見したところ拍子の頻繁な変化は少ないのですが、例えば4小節で一単位となるフレーズがa-a-b-aと続いて16小節で一節の旋律が生まれるという、ヨーロッパの伝統的な音楽語法というものがここでは完全に無効となっているのです。それは伝統の破壊に他なりませんが、しかもそれは、ウィーン楽派やバルトーク、ストラヴィンスキーら20世紀音楽の使徒らが等しく通った伝統的語法への反逆という道筋を全く通らずに、アカデミズムとは無縁な辺境の作曲家が日常会話のような台詞を携えて自然に行き着いた結果のように見えます。なおかつその破壊力はバルトークの弦楽四重奏曲第3番や、ストラヴィンスキーの春の祭典に決して引けを取っていないと言っても過言ではありません。

本稿の冒頭近くで、ヤナーチェクの語法の本質は「自由」というものだと書きました。ミクロな分析でそれが立証できたかどうか心許ありませんが、自由は時に反逆と同様の結果をもたらす、とまとめることが出来そうです。でも、これでは「女狐」の魅力を語ったことには全然なりませんね。次回はもう少し、全く聴いたことのない人にも聴いてみたいと思ってもらえるような分析を続けてみたいと思います。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2011-10-09 19:30 | CD・DVD試聴記 | Comments(2)

ドヴォルザーク 「ルサルカ」 ノイマン/チェコ・フィルハーモニー管弦楽団(その4)

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さて第2幕ですが、ここが一番このオペラの中で様式の混乱を呈しているところだと思います。殆ど全編チャイコフスキー風の音楽で書かれており、時折登場する水の精だけがかろうじて第一幕のワーグナー風の世界をひきずっています。
好意的に解釈すれば、この二幕はもののけの世界ではなく人間(王子・侯爵夫人・森番・皿洗い)の世界を描いているから様式も違うのだ、と言えなくもありませんが、ルサルカまでが一幕とは同じ人物と思えないほど異なった楽想を与えられています。やはり、様式というものに対するドヴォルザークの無自覚性、無頓着さというべきでしょう。

Allegro giusto へ長調の軽快な音楽に乗って森番と皿洗いの歌が歌われます。なんとも素朴過ぎて却って居心地の悪い感じです。変ロ短調Larghettoの森番のアリオーゾ U nás v lesích straší はどことなくチャイコフスキーのメランコリーが感じられます。甘い甘い変イ長調の前奏に乗って王子登場。この甘さは砂糖の塊みたいなウィーンのお菓子の甘さみたいです(私は決して嫌いじゃないけど)。喩えて言えばレハールのオペレッタの甘さ。続く変イ長調Andante の王子のアリア Již týden dlíš mi po boku は流麗な、これもチャイコフスキー流のもので甘く美しい旋律ですが、あまり言葉に寄り添って書かれている感じはしません。旋律が上滑りしていくような物足りなさを覚えます。
テンポを落として侯爵夫人との対話。イ短調Vivace の王子のアリオーゾ Ach, výčitka to vĕru včasná も心にすり寄ってくるような甘い旋律。聴いていると脳がとろけて、ちょっと痴呆状態になりそう(こういうのも嫌いじゃない)。
Moderato maestoso で突然ポロネーズの一節が鳴り渡り、侯爵夫人のレチタティーヴォの後、今まで現れた様々なライトモチーフが回想されます。変ホ長調のファンファーレに続いて舞踏会のポロネーズが始まります(この辺りの展開、殆どチャイコフスキーの「エフゲニー・オネーギン」のパクリ)。オーケストラのアンコールピースにも使えそうな派手な曲ですが、ムソルグスキーの「ボリス・ゴドゥノフ」にしてもチャイコフスキーの「エフゲニー・オネーギン」にしても、なぜ舞踏会というとポロネーズなのか?田舎貴族にはポロネーズ、という決まり事でもあるんでしょうか?
水の精が現れ第一幕の音楽を回想した後、アリア Celý svĕt nedá ti, nedá (ホ短調Moderato)を歌います。短い間奏は感傷的でドヴォルザーク好きならメロメロになりそうですが、アリアそのものはあまりチェコ語の抑揚とは関係なく書かれています。ロ長調の舞踏会のゲストの合唱も同様。やがてルサルカが現れ水の精との対話が始まりますが、第一幕と違ってワーグナーの影は薄められています。ト短調Allegro appassionato のルサルカのアリア Ó marno, marno, marno to je はカバレッタ風のもの。チャイコフスキーがイタリアオペラのパロディを書いたらこんな風になるのでは、と思わせます。
再び侯爵夫人と王子が現れ、ルサルカの姿が見えないのをいいことに今度はあからさまに愛を語り始めます。フォルテッシモのイ長調の和音で絶頂に上り詰めますが、突然現れたルサルカに王子は死ぬほど驚き(と、ト書きに書かれている)、Fisの減7の和音が鳴り響きます。このあたりの凡庸さ、ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」の、愛の二重唱の頂点でマルケ王に踏み込まれた時のあの身の毛もよだつカタストロフを知る者には、まるでぬるま湯のように聞こえます。ワーグナーから一体何を学んだのかと、こっちが驚いてしまいます。エピゴーネンの悲しさ。この後、水の精の嘆き、王子の懇願、冷酷な侯爵夫人の一声とともに畳みかけるように幕が降ります。

私はなんとアンビヴァレントな記述を長々としているのでしょうか。嫌なら聴かなきゃいいのに、という声も聞こえてきそうです。結局私はこのチープな、しかし絡め取られそうな甘さに今全身で抗っているのでしょうか。好き、でも嫌い。愛の反対語は憎しみではなく無関心、というのはマザー・テレサの言葉だそうですが、その意味では、私はドヴォルザークの凡庸さを憎んでも無関心ではいられないのでしょうね。

ワーグナー風の第1幕、チャイコフスキー風第2幕に比べると、第3幕はドヴォルザークの地が比較的素直に出ていると言えそうです。泥臭いけれどもある種の魅力に溢れています。今まで世間でなぜこれほどドヴォルザークが好まれるのかよく分かりませんでしたが、今は少し分かるような気がしています。
第3幕は調性のはっきりしないAllegroの前奏曲から始まります。ルサルカが登場し、レチタティーヴォが続いた後、へ長調Larghettoのたゆたうような美しいアリア Mladosti své pozbavena を歌います。「たゆたう」ように聞こえるのも当然、F-durからf-moll・As-dur・as-moll・Ces-dur・h-moll・cis-moll・Des-dur・cis-moll・as-mollと転調に転調を重ねてようやくF-durに戻ります。
続いてホ短調Allegro moderatoイェジババとルサルカの対話。民謡調あり葬送行進曲ありと、様々に曲想を変えながら二人の緊迫した対話が続きます。ルサルカのアリオーゾも美しく、誰のまねでもない素晴らしい音楽が聴かれます。
ハ長調Moderatoに転じて水底の精たちの合唱。単純極まりない始まり方をしながらハ短調になってからは泥臭さと紙一重の凄愴な美しさを湛えています。Allegro moltoで森番と皿洗い、イェジババの民謡調の対話。洗練とは程遠い楽想に正直かなわんなぁと思ってしまう。
ホ長調Larghettoでしばらく森の精たちの民謡調の歌が続きます。「千と千尋の神隠し」みたいな懐かしい感じの部分もあって悪くはないけれど、結構長くて行進曲を経てハ長調の狂騒に至ってはさすがにげんなり。
水の精の嘆きの後、Allegro con fuocoで王子が登場。ヘ短調の王子のアリア Ode dne ke dni touhou štván は一言で言うなら「ダサカッコイイ」という感じ。だんだんと泥臭さが美点に感じてきます。
変ホ長調のハープのカデンツァをきっかけにルサルカ登場、王子との最後の二重唱が始まります。ルサルカのアリオーゾも死を決心した王子の歌も本当に美しく感動的なのですが、なんというかエロス的要素が全く感じられないのですね。よくもまぁこんなに次から次へと美しい旋律が湧いて出てくるものだと感心しますが、このエロスの欠如が真の感動を妨げているような感じがします。
王子の歌の最期にDesの和音とGの和音が交互に二回ずつ鳴らされます。あの「新世界より」でお馴染みの和声進行。思わず遠くを見てしまうような、懐かしさに溢れた和声。
王子の死、水の精の嘆き。ルサルカが王子の魂を祝福し、変二長調で静かに幕が降ります。

私はこのオペラが本当に好きなんだろうか、と自問しつつもう何回聴いたことでしょう。完結した芸術作品としては瑕だらけであっても、どこかに真実が潜んでいるような作品を私は愛して已まないはずではなかったか?でも何かが「好き」と言うのを阻んでいます。ドヴォルザークを例えばムソルグスキーと比べてみると、前者は生まれるのが遅すぎた秀才、後者は生まれるのが早すぎた天才、と(むごいようですが)はっきりと違いが分かります。作曲のスキルという意味ではドヴォルザークの方が多分数倍優っていますが、後者の天才はどんなに稚拙なスコアからも隠れようがありません。ですが、気まぐれなミューズは、そんなドヴォルザークのスコアにも降り立ち、幾つかの頁に小さい花を咲かせ、「月に寄せる歌」には思いの外大きな花を咲かせました。もうこれは理論や分析では解明できないことだと思わざるを得ません。
本当は全3幕の音楽のアウトラインをなぞりながら、もう少し言葉と音楽の問題について掘り下げてみるつもりでしたが、ちょっと力尽きてしまいました。この項はとりあえず終わりとし、12月のオルガ・グリャコヴァの公演を楽しみにしたいと思います。
by nekomatalistener | 2011-10-01 16:25 | CD・DVD試聴記 | Comments(2)

ドヴォルザーク 「ルサルカ」 ノイマン/チェコ・フィルハーモニー管弦楽団(その3)

「大魔神怒る」を「だいまじんおこる」と読むとなぜか脱力する。




今回と次回、全3幕の音楽を一通りなぞりながら、もう少し「ルサルカ」を構成する音楽的要素について考えてみます。
第1幕。序曲Andante sostenuto(ハ短調)は和声の半音階的な移ろいが美しい名曲だと思います。ここには彼がこれまで学んできたドイツ流の手堅いオーケストレーションと、独特と言ってよい抒情が結合されています。変ホ長調に転調すると、ホルンとイングリッシュホルンによる狩人の歌が現れます。ワーグナー風の森の情景描写、鳥の声、円熟した書法ですが、ボヘミアの森から何時の間にかドイツの森に来たような気がするのがご愛敬。
イ短調Allegro moltoの導入の後、イ長調に転じて森の精と木霊の合唱が始まります。イ短調の間奏はドヴォルザーク独特の泥臭いもので、太鼓にシンバル、トライアングルも入って派手に繰り広げられますが、交響曲の一節なら恥ずかしくていたたまれないような音楽も、オペラであれば辟易はするがなんとか我慢できるというもの。合唱と間奏が繰り返され、嬰ハ長調に転じた後、もう一度合唱と間奏。全体に後期ロマン派というにはあまりに素朴でおとぎ話的というよりは子供っぽい感じがします。
次いでへ長調に転調し、水の精登場。ここからしばらく森の精との対話が続きます。変ホ長調のハープのカデンツァと共にルサルカが登場し、転調の多いワーグナー風の水の精とのやりとりの後、へ長調Moderato ma un poco più mosso のルサルカの美しいアリオーゾ Sem často příchází a v objetí mé stoupá。ここにはワーグナーの影はなく、これが真正なドヴォルザークの持ち味ではないかと思わせられます。さらに水の精とのやり取りの後、変ト長調の例の月に寄せる歌、水の精の嘆き、ルサルカの魔法使いイェジババへの呼びかけと続いていきます。
イェジババ登場の後のルサルカとの対話はまたもやワーグナー風の調性の不安定なものですが、嬰へ短調AndanteのルサルカのアリオーゾStaletá moudrost tvá všechno ví は音楽と言葉が一体となって、オリジナリティに裏打ちされた感動的な頁で素晴らしい。それに続くルサルカのレチタティーヴォ風のRusalky za noci hrozbou svou strašíš も素晴らしい。このような朗唱風の部分だけで全曲が構成されていたとしたら、このオペラ、20世紀の偉大な作品達の先駆的存在、例えばドビュッシーの「ペレアスとメリザンド」のような存在になり得ていたのではないかとさえ思わせられます。それがあっという間に終わってしまうのがなんとも惜しいのですが。
イェジババとの対話の後、二短調の間奏となりますが、序曲冒頭の旋律が若干モディファイされると、マーラーの6番交響曲の一節が突如鳴りだしたような錯覚を覚えます。いや、これ錯覚ではなくマーラが引用したのではないのか?ドヴォルザークが1904年5月に死んだ正にその年の夏に、この「悲劇的」というタイトルの付いた交響曲が書かれています。偶然というには符徴が合いすぎますね。
この間奏の後、イェジババの呪文の歌Čury mury fuk(Allegro vivo ロ短調)が歌われます。前半は子供っぽくてあまり面白いとも思いませんが、後半のレントラーは狩のホルンが遠くで鳴り響き、まるでマーラーの「子供の不思議な角笛」を思わせます。ルサルカを書いていた1900年当時、ドヴォルザークは1886年作曲の「角笛」を知っていたのでしょうか?マーラーがルサルカの存在を知っていたのははっきりしているようですが。引用したりされたり、が本当であれば実に興味深い話です。
水の精の嘆きが繰り返された後、Andante変ホ長調の狩人の歌、Meno mossoの王子の口上。二長調Andante con moto の王子のアリアVidino divná, přesladká から独自の抒情の世界に入っていきます。水の精の娘たちの叫び、水の精の嘆き、そして最後変イ長調Andante sostenutoで王子のアリアVím, že jsi kouzlo, které mine、もはや誰のエピゴーネンでもない、ドヴォルザークの真実の音楽が高らかに歌われ、幕を閉じます。

結論めいた事を書くと、全曲の中でもこの第1幕がもっとも音楽として充実しているように思いますが、いままで詳細に見てきたとおり、ここにはワーグナーの顕著な影響、メルヘンオペラとしても些か素朴すぎる音楽、仮説レベルではありますがマーラーの角笛の遠いこだま、かつてのトレードマークであった泥臭い旋律、そして私が円熟期のドヴォルザークの本当にオーセンティックな音楽と考えているもの、これらの様々な要素が今一つ溶け合わずに並置されているような感じがします。私はルサルカを聞き始めた当初、この様式の不統一感はこの作品の弱点であって、一言でいえば「惜しい作品」だと思いましたが、何度も聴いているうちにこれはこれでひとつの魅力ではないか、と思うようになってきています。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2011-09-29 23:39 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

ドヴォルザーク 「ルサルカ」 ノイマン/チェコ・フィルハーモニー管弦楽団(その2)

会社の友人と電車の中で生体肝移植について議論する。
友「肝移植ってさあ、血液型違っても出来んの?」
私「うーん・・・血抜きとかしたら出来んじゃないの?」
友「そっか、肝臓だしな~」
けっこう真面目に議論していたのだが隣の客が笑いだした。



このルサルカというオペラ、1900年の作曲ですから、ドヴォルザークの一般によく知られている作品(交響曲やチェロ協奏曲、弦楽四重奏曲「アメリカ」等々)は既に数年前に完成されており、晩年の円熟期を迎えていたと言えそうです。一方で1900年という年を考えた場合、1904年にヤナーチェクがモラヴィア方言で書いた「イェヌーファ」が初演され、1911年にはバルトークがハンガリー語で「青髭公の城」を書いたことを知識として知っている現代人から見れば、ルサルカには二つの限界を感じざるを得ません。
一つは題材の問題。
お話の骨格は淡水版人魚姫。他愛もない童話ですが、料理次第でいくらでも大人向けに出来そうなものなのに、水の精だの魔法使いだのの歌が延々と続く割に、王子様との場面はあっさりしていてエロティックな要素はほぼ皆無。別に「青髭公の城」の晦渋だが強烈なエロス、みたいなものは求めませんが、「トリスタンとイゾルデ」後に、子供向けという訳でもないのにこの無毒ぶりは何なんでしょう。
もうひとつは、言葉と音楽の関係について、やはり自覚的であったと言うにはいささか中途半端であることです。前回に書いたとおり、チェコ語の抑揚を慈しむように書かれた頁があることは確かだと思うのですが、本来言語の音韻構造が異なれば、音楽の拍節の構造も全く異なってしかるべきでしょう。ですが、ルサルカにおいては、第1幕で支配的なワーグナー風の楽想、第2幕におけるチャイコフスキー風の楽想が、チェコ語の抑揚を生かしきる邪魔立てをしているように思われます。別にドヴォルザークの責任という訳ではありませんが、20世紀に活躍した天才達の先駆者とはちょっと呼べそうにないのは、少し残念な感じがします。

もう少し「月に寄せる歌」にこだわってみます。まず例によって歌詞と対訳(www.opera-guide.ch/の英訳からの拙訳)を掲げておきます。

 Měsíčku na nebi hlubokém,
 světlo tvé daleko vidí,
 po světě bloudíš širokém,
 díváš se v příbytky lidí.
 Měsíčku, postůj chvíli,
 řekni mi, kde je můj milý!
 Řekni mu, stříbrný mĕsíčku,
 mé že jej objímá rámĕ,
 aby si alespoň chviličku
 vzpomenul ve snĕní na mĕ.
 Zasvĕt' mu do daleka,
 řekni mu kdo tu naň čeká!
 O mnĕ-li, duše lidská sní,
 at'se tou vzpomínkou vzbudí;
 Měsíčku, nezhasni, nezhasni!

 おお、空の奥深く、高く昇った月よ、
 お前の光は遠くの国々を照らし、
 家々を覗き込みながら、
 この広い世界を巡っている。
 おお、月よ、じっとしていておくれ、
 あのお方はどこか教えておくれ。
 銀色の月よ、お伝えしておくれ、
 私はあなたを抱きしめましょう、
 たとえ束の間でもよいから、
 夢で私を思い出してくださるように、と。
 あのお方の遠いお城を照らし、
 私はここにいるとお伝えしておくれ。
 もし夢で私をご覧になっているなら、
 目覚めた後も憶えていてくださるように。
 おお、月よ、消えないで、消えないで!

音韻構造だのなんだの御託を並べましたが、私はチェコ語についての知識が全くありません。なのに何を大それた事を、と仰る方がおられるかも知れません。ですが、ドイツ語との違いなら比べてみればすぐに判ります。幸い、ルサルカの出版譜の声のパートにはチェコ語とドイツ語の両方が歌詞として書きこまれています。言語によって旋律を変えざるを得ない場合は、音符の旗が上向きに付いているのがチェコ語、下向きに付いているのがドイツ語に割り当てられています(ドイツ語用の音符は恐らく他人の手によるものでしょうが)。
IMSLPからダウンロードした楽譜はコピーガードされていますので、言語別に分けて再構成した楽譜を表示します(この楽譜はMuseScoreという無料ソフトで作成したものを圧縮してpngファイルにしたものですが、慣れないので数時間も掛ってしまいました・・・笑)。
まずはチェコ語バージョン。
a0240098_25659.png

お次はドイツ語バージョン。
a0240098_2565440.png

「月に寄せる歌」の出だしの部分ですが、わずかな差でも両者で随分と印象が異なります。最初の小節、チェコ語のほうは八分音符3個に対しドイツ語は附点付き。チェコ語のほうは長母音の-sí-に、そっとアクセント記号が付けられています。第7小節、チェコ語はvi-が短母音で-díが長母音ですので、前詰めの音形ですが、ドイツ語では第2音節は2拍目の八分音符に乗せられています。15小節目も同じく、チェコ語ではli-が短母音、-díが長母音ですので前詰の逆附点ですが、ドイツ語では八分音符2個。概してこのアリアではチェコ語の抑揚が比較的素直に音楽に反映されています。「月に寄せる歌」の創作の秘密、ミューズが降り立った原因を言葉の問題だけに帰するつもりはありませんが、非常に重要な要素ではあるでしょう。
当たり前のことですが、言語によって音楽が(正確にいうと拍節が)変化します。ドイツ語バージョンを仔細に見ていくと、チェコ語バージョンにないアウフタクトが頻出する箇所すらあります(音節の数の問題ではなく、ドイツ語の音韻構造がアウフタクトを招き寄せているのです。DerとかEinで始まる歌詞を強・弱の拍節を持つ旋律に乗せようとすれば必然的にアウフタクトが必要になりますね)。チェコ語の特性に起因する逆附点の音形や、語尾に短母音2個が繋がる場合の寸詰まりのような終始を持つフレーズは、このオペラのあちこちに出てくる非常に特徴的な音形ですが、ドイツ語バージョンではこの特徴は相当数消えてしまいます。裏を返せば、チェコ語の台詞にドイツ仕込みの、あるいはチャイコフスキー風の旋律を当てはめるとしたら、少し無理が生じるのではないか、とも思われます。
この「月に寄せる歌」では、完璧ではないにしても、チェコ語の抑揚に寄りそった旋律が書かれています。逆に他の箇所では随分無頓着に見えるところ(旋律が先にあってチェコ語が無理やり嵌め込まれている印象)もあります。もし、音楽のアーティキュレーションの全てを完全にチェコ語の音韻構造に従わせるとしたら、この音楽の姿は随分違ったものになったと思いますし、さらに言えば、言葉があろうがなかろうが、音楽的発想が根源から異なったものになった可能性すらあります。
時代が少し下ってバルトーク(私はあまり知らないが多分ヤナーチェクも)が行なったことはそういうことだったのだと思います。前回、このオペラがちまちまして聞こえ、ファンタジーとしての広がりに欠ける理由を、ドヴォルザークのドイツ正統派音楽とドイツ語による楽劇へのコンプレックスに求めましたが、ドヴォルザークという人は恐らくベートーヴェンやブラームス、ワーグナーをある時期猛烈に勉強したに違いありません。ドイツ音楽ではありませんがチャイコフスキーに対してもそうでしょう。逆にその修練がチェコ語のリブレットを前にした時、歌詞の求めるアーティキュレーションと音楽的発想の矛盾を招き、結果として音楽が窮屈なものになったのではないか、というのが今のところの仮説です。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2011-09-26 02:00 | CD・DVD試聴記 | Comments(6)

ドヴォルザーク 「ルサルカ」 ノイマン/チェコ・フィルハーモニー管弦楽団(その1)

かなり昔。カミサンが一人目の出産で里帰りしていた時、会社の一年上の人が家に遊びに来た。飲みながら先輩「最近英会話のレッスン行ってんだ」 私「すごいやないですか」 先輩「けっこう喋れるようになるもんだよ」。で、彼そのままいい気分で爆睡。しばらくそのままほっといたら、寝言で「・・・むにゃ・・・むにゃ・・・カッフィー・・・」。えっ、カッフィーって。coffee?それ、会話やのうて単語ですやん。




ドヴォルザークが苦手です。幼少のみぎり、小学校の下校時にスピーカーから鳴る音楽が「新世界から」の第2楽章。これはまあ素敵な音楽だと思うけれど、前後は苦手。終楽章はなんとなく恥ずかしくて聴いていられない(というか、最後まで通して聴いたことがない)。
チェロのコンチェルトもよく知りませんが、やっぱりちょっと恥ずかしそう。ト短調のピアノ協奏曲はリヒテルが弾いてるから、と学生の時に友人宅で聴きましたが、だめでした。おまけにスコアを見たら、ピアノパートはどっかのピアニストが相当手を入れて何とかコンチェルトらしくなってますが、オリジナルのパートはソナチネか、みたいな感じで恥ずかしさも倍増。なんで無理してピアノ協奏曲書いたのか。
数年前、取引先の社長に大阪シンフォニカーの演奏会に誘われ、シンフォニーホールで8番だかなんだかの交響曲を聴きました。社長には予め「ちょっと最近忙しくて寝てしまうかも」と言い訳しておきましたが、始まって5分くらい経過したところで気絶。終楽章まで、まるで一服盛られたのか、というくらい昏睡してました。このとき、つくづく思いましたね。「ああ私は何の因果かドヴォルザークとは縁がないのだ、あの敬愛するアバド様もジュリーニ様も録音しているというのに、私にはその良さを理解する能力がないのだ。もう身銭を切ってドヴォルザークのCD買ったり演奏会に行くことは一生あるまい」と。

そんなこんなで幾星霜。今年の6月に新国立劇場でプッチーニの蝶々夫人を観たのですが、タイトルロールを歌ったオルガ・グリャコヴァというソプラノが素晴らしい出来栄えで、再度日本に来ることがあれば絶対聴きに行こう、と思いました。で、うれしいことに今年の年末に再びステージに立ってくれるのですが、曲目がルサルカ。うーんそう来るか(韻踏んでる)。でもこれも何かの縁、チケット買ってやろうじゃないか(でもB席というのがちょっと微妙なチョイス)、CDも買って予習してやろうじゃないか、と思った次第。で、このブログにこうして取り上げたということはもちろん作品を好きになったからなんですが、その好きさ加減が微妙というか。本当に好きなのは、第1幕でルサルカの歌う「月に寄せる歌」のところであって、他の部分はなんと言いましょうか、良いところもたくさんあるけれど、手堅く書かれているがダサい部分とか、ワーグナーやチャイコフスキーの劣化コピーみたいなところもあったりとか、このあたりは追々詳しく書いてみるつもりです。

ところで・・・ 一点豪華主義の系譜というのがありまして(嘘です今思いつきました)、ファッションならしまむらの上下にゴールドのロレックスとか、部屋なら畳敷き6畳間に鹿の首の剥製とか。オペラだったら、例えばドリーブのラクメ(「鐘の歌」だけ有名)、マスカーニのカヴァレリア・ルスティカーナ(間奏曲だけ有名)、ヘンデルのセルセ(オンブラ・マイ・フ)、そして最強の一点豪華主義プッチーニのジャンニ・スキッキ(私のお父さん)・・・いやいや一点じゃなくて全部いいよ、という反論はこの際措いとくとして、このルサルカ、まさにこの系譜ですね。もう「月に寄せる歌」が素晴らしすぎる。でもって、それ以外のところの音楽は上に書いた通りなのですが、全体的に何かちまちましてファンタジーが広がらない。このちまちま振りは何ゆえ?結論を急ぐつもりはありませんが、一つはブラームスやハンスリックが体現していたドイツ正統派音楽、それとワーグナーのドイツ語による楽劇へのコンプレックス、のような気がします(せんぞブラームスやハンスリックの世話になっておいて、彼らが嫌っていたワーグナーのエピゴーネン丸出しとは如何なものか)。せっかくのダイヤの原石のような優れた着想が、保守的な音楽構造に無理やり押し込まれて音楽的飛翔を妨げられているような気がします。換言すれば、古い音楽アカデミズムに角を矯められている。これがブラームスならアカデミックなカデンツ=拍節構造を突き破るだけの筆力があったでしょうし、ヤナーチェクならそもそもカデンツ構造など端から気にしない自由さと、モラヴィア方言の抑揚や民謡から得た独自の拍節法のみを信じる意思の力があったのでしょうが、ドヴォルザークにはそこまでの筆力も度胸もなかったと言わざるを得ません。
でも、それだけボロクソに言っても、この「月に寄せる歌」だけは、ミューズが舞い降りてドヴォルザークの肉体を借りて書いたとしか言いようがない。聞く度に猫にマタタビ状態。彼の全ての作品が世の中から忘れ去られたとしてもそれ程惜しくはないが、これだけは人類の未来に残しておきたい(誰目線?w)。それは単にメロディーが美しいというだけでなく、母国語(チェコ語)への愛が、本当にオリジナルな拍節構造を図らずも生み出し得たのだと思います。「図らずも」と書いたのは、言葉と音楽の関係が無頓着に見える箇所も散見されるからですが、言葉の音韻構造が人間の精神(及びその産物)の構造を決定付けるというような発想は、もちろんソシュール言語学など知るよしもない19世紀人のドヴォルザークには望むべくもないものだろうと思います。ですが、意識的であれ無意識であれ、言葉の抑揚を慈しむように音楽を書こうとした時、気まぐれなミューズが正にその時に彼のスコアに降り立ったのだと思われてなりません。

今回のシリーズも、演奏論より作品論が主になると思いますが、一応今聴いている音源のデータを記しておきます。

  ルサルカ・・・ガブリエラ・ベニャチコヴァー(S)
  王子・・・・・・・ヴィエスワフ・オフマン(T)
  侯爵夫人・・・ドラホミーラ・ドロブコヴァー(Ms)
  水の精・・・・・リハルト・ノヴァーク(Bs)
  魔法使い・・・ヴィエラ・ソウクポヴァー(A)
  ヴァーツラフ・ノイマン/チェコ・フィルハーモニーso(1982年8月25日~9月9日、83年8月23・24日録音)
  CD:SUPRAPHON COCQ84513~5)

タイトルロールのベニャチコヴァーの素直な歌いぶりは好ましくて好きですが、youtubeにルチア・ポップが「月に寄せる歌」を歌ってるところがアップされていて(それも舞台とコンサートの2種類)、これがまた素晴らしい。もう涙腺決壊。ちなみにノイマンの指揮はどことなくはじけない指揮ぶりで、世評はいざ知らず私にはちまちま感を増幅させているように思われました。
いや、あんた、そんなこと言うなら「月に寄せる歌」だけyoutubeで聴いてたらいいやんか、と言われたら・・・いやぁそれを言っちゃあ・・・ですよ。やっぱりオペラは全曲聴いてなんぼ、ですから。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2011-09-23 22:56 | CD・DVD試聴記 | Comments(6)