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新国立劇場公演 ワーグナー 「ローエングリン」

前回クンタ・キンテのことを書いて、ふと(関係ないけど)ハクナマタタってどういう意味?と思って調べたらスワヒリ語で「くよくよするな、なんとかなるさ」だって。へ~。




新国立劇場で「ローエングリン」を観てきました。

  2012年6月13日
  ハインリッヒ国王: ギュンター・グロイスベック(Bs)
  ローエングリン: クラウス・フロリアン・フォークト(T)
  エルザ: リカルダ・メルベート(Sp)
  テルラムント伯フリードリッヒ: ゲルト・グロホフスキー(Br)
  オルトルート: スサネ・レースマーク(Ms)
  伝令: 萩原潤(Br)
  指揮: ペーター・シュナイダー
  演出: マティアス・フォン・シュテークマン
  美術・光メディア彫塑・衣裳: ロザリエ
  合唱指揮: 三澤洋史
  合唱: 新国立劇場合唱団
  管弦楽: 東京フィルハーモニー交響楽団

今シーズンの掉尾を飾る本公演、尋常じゃないクォリティながら私にはどうにも燃えない(萌えない)舞台でした。
今回の公演で恐らく最も世評の高いのはローエングリンを演じたフォークトであろうと思います。まず驚くのはその超が附くほど合理的な発声法。些かも力まずに声が客席までびんびん届く。ソットヴォーチェで歌っていても同様。その声の届き具合というのは他の出演者とはもう段違いなのである。第3幕のグラール語りの部分など、ビロードの手触りみたいな、息を呑むようなピアニッシモが出てくる。見事である。この一年程の間に、新国立劇場でまさに旬の歌手を聴いてきた。例えば昨年6月の「蝶々夫人」におけるオルガ・グリャコヴァ、今年4月の「ドン・ジョヴァンニ」におけるマリウシュ・クヴィエチェン。フォークトも多分今が旬の真っ最中、この時期に彼のローエングリンを聴けたというのは大変な幸運であろうと思う。
しかし・・・しかし、なのである。
私は彼の声質がどうしても好きになれない。この声がヘルデン・テノール?ちょっと待てよ、と言いたくなる。フォークトの声というのはちょっと特殊というか、カウンターテナーの逆みたいに女性が男声を歌うような感じの声。これはメゾソプラノ歌手がケルビーノやオクタヴィアンみたいなズボン役を歌うというのとは全く違って、女性が特殊な発声でテノールを歌っているみたいに聞こえるということ。ユニセックスな声というのか、アンドロジナスな声というのか、妖しいというのとも違う。もちろん少年みたいというのとも少し違う。なんだかそもそも性というものが存在しないような声。こういった声を愛して已まない人達が大勢いるのは判るのだが、私は(喩えは悪いが)美青年なのに脱いだら体毛が全く生えていなくて気持ち悪い、みたいな感じを受ける。ある意味、童貞の騎士ローエングリンにはうってつけなのかも知れない。パルジファルなんかも向いているのだろうと思う。でも私は嫌いだな。これはもう趣味の問題だから仕方が無いが、少なくともこの声でトリスタンやジークフリートは勘弁してほしい、と思う。美青年でも別によろしいかとは思いますが、脱いだらがっつり胸毛生えてるのが本来のヘルデン・テノールだと思うので・・・(笑)。古くて恐縮だが、往年のヴィントガッセンみたいな感じ。いやいや、好き嫌いを別にすれば凄い歌手だとは思う。カーテンコールの熱狂的な拍手も当然だと思う。昨日新国立にいた人の大多数はフォークトの声に興奮していたはずだ。ああ、でも。こんな時に自分のマイノリティぶりを痛感させられずともよいのに、と少し恨みがましい気分になりました。

今回舞台で観て、改めてこのオペラ、登場人物でまともな論理的思考が出来てるのはフリードリッヒだけだと思いました。だってそれ以外は訳判らん童貞騎士と、それに付和雷同する王と兵士、そして言いつけを守れないバカ女と、こちらも我慢しきれず呪いの満願成就を逃した間抜けな魔女だけですもんね。そのフリードリッヒを歌うグロホフスキー、第1幕では声量が足りずに小役人が王に讒言しているみたいに聞こえるが、第2幕のオルトルートとの対話、婚礼の行進を遮っての王への訴えの場面、エルザにローエングリンの体の一部を切り取るよう頼む場面(ここはワーグナーの音楽による心理表現もつくづく素晴らしいと思うが、それを音として表現するグロホフスキーの力量もなかなかのもの)と、ぐんぐん良くなっていきました。オルトルート役のレースマークは高音があまり伸びず、少ししんどそうと思いましたが、それでも第2幕は聞き応えのある歌唱。国王のグロイスベックも特に不満はなし。伝令の萩原潤は、今年1月の「ボエーム」のショナールは少し不満が残ったが、今回は声がよく届いてよかったと思います。
エルザ役のメルベートは、特に第1幕、ビブラートが大きすぎてあまり好きになれない声だと思いましたが、第2幕第3幕は(こちらの耳が慣れたせいもあるかと思うが)なかなか良い歌手だと思うようになりました。
三澤洋史率いる合唱団の素晴らしさはいつもどおりだが、「オランダ人」の時とくらべると場面によって若干出来不出来のむらがあったように思う。男声8部とかパートが細分化されるとすこし輝きが褪せる感じ。

フォン・シュテークマンの演出、というよりロザリエの美術といったほうが良いのかも知れませんが、前回のオランダ人の時よりさらに抽象化が進んだ感じ。背景のスクリーンの他には殆ど大道具がなくて、第1幕は1.5m角くらいのポリスチレンの板みたいなやつ(納豆パックのフタみたいな形ww)を積み重ねた上に王が乗って歌う。これが見た目がなんとも不安定(笑点のざぶとんみたく)なんだがそれも狙いの内だろう。またローエングリンとフリードリッヒの決闘もこの板の上で行なわれる。白鳥の場面は天井から羽に包まれたローエングリンが降りてくる仕掛け。失笑とまではいかないにしろ、正直なところ、第1幕だけ観るとげんなりしていたのだが、第2幕、殆ど何もない舞台にあかるく側面が光る足場板がすっと横に伸びてエルザがその上で歌う。この抽象化されたバルコニーの美しいこと。また、第2幕後半、婚礼の行進の場の美しさは特筆もの。最後、真っ赤なバージンロードを、婚礼衣装(これも高度に抽象化されたデザインで素晴らしい)を着けて歩みかけたエルザが気を失って倒れるのが何とも痛々しい。第3幕前半、舞台には初夜を表すかのように真っ白な巨大な花に、血のような花弁状(もしくはレバ刺し状)のものが一枚張り付いていてどきっとする。後半はこれまた何もない舞台に兵士たちが下からせりあがってくる。ローエングリンを迎えにくるはずの白鳥は現れず、少年ゴットフリートはセリに乗って舞台に現れる。最後なんともやりきれないというか、ちょっと理解に苦しむのは、一同の喜びの内に現れるはずのゴットフリートをエルザが邪険に突き放し、王を始め群集も誰も少年に見向きもせずに舞台から去ってしまう結末。哀れなゴットフリート少年は一人舞台で三角座りして幕。あまりにも救いがない結末で暗澹たる気分になってしまう。
主役たちや兵士たちの動きはどちらかといえば様式化されたもので、これはこれで納得のいくものでした。全体にシュテークマンの演出は何もしなさ過ぎという評価があるようだが、演出家が過剰にメッセージを発するよりは観客に謎を与えて考えてもらうといったやり方は私は悪くないと思う。だいたいワーグナーの長大なオペラで歌手の一挙手一投足まで過剰な演出を求めるのは歌手に酷なだけでなく、己(観客)の精神的怠惰以外の何物でもないと思う。でも、なんでも絵解きしてくれないと不満な人達は多いみたいですね。困った人達。

ペーター・シュナイダーの指揮はやや重たいリズムで、それが狙いだとは分かっていてもテンポの速いところは聴いていて心弾まないこと甚だしい。もともとゆっくりとしたところ、例えば第2幕の聖堂に向かうエルザの行進などは合唱の素晴らしさもあって感動的だったが、お目当ての第3幕前奏曲や、私の大好きな第3幕第3場の導入のファンファーレには不完全燃焼のもどかしさを憶えた。オケはこれだけの長丁場、大健闘といってよいのだと思う。

音楽とはまったく関係ない次元の話だが、最近の年寄りの、演奏中に飴やらガムやらの包装をカシャカシャ音立てて剥く風習はなんとかならんのか。それも、よりによって音楽が静かになるとおもむろにバッグをごそごそ、飴の包装をカサコソさせるのはどうして?大体60代から70代、婆さんが多いが昨日はジジイもいた。フォークトのすばらしいソットヴォーチェの最中のそれには殺意すら感じた。彼らは耳が遠いから聞こえないと思っているのかもしれないが、あれは離れていても50以下の人間の耳には聞こえるのである。こちらは2階B席とはいえ14,700円も払って、何が悲しくて年寄りの皮剥き音を聞かなくてはならないのか。劇場入り口で配っている大量のチラシの束を床に落とすバカ(何人か絶対にいる)への対策ともども、劇場側の善処を求めたいところだ。
by nekomatalistener | 2012-06-14 23:34 | 演奏会レビュー | Comments(3)

ワーグナー 「ローエングリン」 ケンペ指揮ウィーン・フィル(その2)

魔法の言葉。缶コーヒーの「ルーツ」飲むと、心の中でクンタ・キンテとそっと呟く。



前回の続きです。
前回は専ら物語りのことばかり書いて、音楽そのものには殆ど触れることができませんでした。まだどこかウェーバー風の尻尾を引きずっていた「オランダ人」と比べると長足の進歩というか、すっかりどこを取ってもワーグナーの音楽になっているのが凄いと思う。その分、各幕の長さも半端やないですが・・・。もう少し正確に言えば第1幕と第2幕の幕切れ近くのコンチェルタート様式は若干伝統的なオペラ書法という気もするが、これとてとんでもなく長く、複雑に引き伸ばされているので誰かの亜流という感じはしない(ただしこの長さについてはマイアーベーアの影響などが多少あるのかも知れないが・・・)。

このケンペという指揮者、日本だけの現象かも知れませんが、レパートリーという点でベームと被ってしまい損をしている感なきにしもあらず。しかしながら実に立派な演奏。ウィーン・フィルの音圧に乗っかっただけの演奏ではなくて、ヴォーカル・スコアを見ながら聴くとそのリズムの自在さ(あるいは音価の伸縮といったほうが良いか)に思わず唸ってしまう。第3幕第3場の白熱の前奏などはブラスが落ちる寸前でスリリングだが、かっちりしたのがドイツ風と思っている向きには目から鱗だろうと思う。この自在さと熱狂の両方があってこそのドイツロマン派なのだろう。ワーグナー然り、ブルックナー然り。これはマーラーに必要な精密さとはちょっと趣が異なるのだろう。音楽としてはブルックナーとマーラーはそれぞれ密接にワーグナーと結びついているが、演奏家の観点に立てば、ワーグナー・ブルックナー・R.シュトラウスを得意とする人達と、マーラー・シェーンベルクを得意とする人達のあいだにはかなりはっきりとした区分がありますね。そんなこともこの演奏を聴いていると良く判ります。一昔前の演奏スタイルには違いないが、そこから得られる感動は途方も無く大きい。

歌手たちはいずれも大変優れていますが、オルトルートを歌うクリスタ・ルートヴィッヒとフリードリッヒを歌うディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウが特に素晴らしい。F=ディースカウが亡くなる前に買ったCDですが、聴き始めて間もなく彼の死のニュースを聞き、この上ない追悼の機会となりました。私はF=ディースカウの残した膨大な録音のごく一部しか知らないし、その中でも全てを肯定するつもりもない。例えば「トリスタンとイゾルデ」のクルヴェナールなどは、役柄と歌唱のスタイルが合わない例であると思う。しかしこのフリードリッヒは唯一無二というか、他の演奏を知らないのにこんなことを言うのも何だけれど、強烈な「負け犬の美学」を感じるのです。前回の投稿で、主役のローエングリンよりもむしろ人間的な魅力はフリードリッヒに注がれている、と書きましたが、聖性を帯びた童貞の騎士なんていう訳の判らん存在よりも、特段の落ち度もないのに悪役に仕立てられたフリードリッヒのほうにどうしても感情移入してしまうのは、もしかしたら初めて聴いたこのF=ディースカウの歌唱の所為かも知れません。この歌唱には雄々しさも女々しさも全て入っていて、切れば血の吹き出る人間の歌という感じがする。
例えば第1幕冒頭近く、エルザ告発の場を見てみよう(対訳はすべて「オペラ対訳プロジェクト」からの転載http://www31.atwiki.jp/oper/)

  Lustwandelnd führte Elsa den Knaben einst
  zum Wald, doch ohne ihn kehrte sie zurück;
  mit falscher Sorge frug sie nach dem Bruder,  
  da sie, von ungefähr von ihm verirrt,
  bald seine Spur - so sprach sie - nicht mehr fand.

  エルザは、少年を森への散歩に連れ出しましたが、
  一人きりで帰って来ると、
  さも心配そうに弟の行方を尋ねました。
  弟は道に迷って、
  足跡を見失ってしまったというのです。

と歌う所の表情の異常な細かさ、とくにso sprach sie の箇所、憎しみに顔が歪むような歌い方はどうだろうか。彼はこの前後の長い語りで、エルザの罪を告発する際には音程の歪みも厭わず感情を露わにし(こういう箇所ではごく僅かにピッチが上がり気味になる)、自らの権力継承の正当性を述べる際は朗々と、精確な音程で歌いあげる。
そうかと思えば、ブラバントの貴族達に軽率な行為をたしなめられて歌う次の箇所、

  Viel lieber tot als feig!
  Welch Zaubern dich auch hergeführt,
  Fremdling, der mir so kühn erscheint,
  dein stolzes Drohn mich nimmer rührt,
  da ich zu lügen nie vermeint.
  Den Kampf mit dir drum nehm' ich auf
  und hoffe Sieg nach Rechtes Lauf!

  臆病者と呼ばれるぐらいなら死んだ方がましだ!
  厚かましくも私の前に現れたよそ者よ!
  いかなる魔術がお前を連れてきたにせよ、
  生意気な脅し言葉など、いささかも気にならぬわ。
  私は嘘をついてなどいないのだから。
  私はお前との戦いに臨み、
  正義の裁きにより勝利を収めるつもりだ!

一人の人間としての虚栄も含めた誇りと隠しようのない不安、畏れに身震いしそうになる。前後で歌われるローエングリンの歌よりももっと、はるかにかっこよく聴いていて痺れる思いがする。ここはワーグナーの書法も天才的な冴えを見せている。
第2幕、オルトルートの讒言のせいで名誉を失ったと泣きごとを垂れる場面、

  Durch dich musst' ich verlieren
  mein' Ehr, all meinen Ruhm;
  nie soll mich Lob mehr zieren,
  Schmach ist mein Heldentum

  お前のせいで、私は名誉を失った・・・
  私の名声の全てを失ったのだ。
  もはや賞賛の声が私を包むことはなく、
  勇士としての名声は、恥辱にまみれてしまった。

特にこの歌詞の繰り返しの部分、まさに泣きごとを垂れる、という感じ、人間の弱さ、いやらしさを抉りだす歌の力に震撼させられる。あるいはオルトルートを非難して歌う次の箇所、

  Du! Hat nicht durch sein Gericht
  Gott mich dafür geschlagen?

  お前だ!だからこそ、私は打ち負かされ、
  神の裁きが下されたではないか?

もそうだ。
まだまだ続けたい。

  Wer ist er, der ans Land geschwommen,
  gezogen von einem wilden Schwan?
  Wem solche Zaubertiere frommen,
  dess' Reinheit achte ich für Wahn!
  Nun soll der Klag' er Rede stehn';
  vermag er's, so geschah mir recht -
  wo nicht, so sollet ihr ersehn,
  um seine Reine steh' es schlecht!

  野生の白鳥に曳かれた舟に乗り、
  この地に流れ着いた男は一体全体誰なのです?
  魔法じみた獣たちを従えている男が
  清らかですと??妄想としか思えません!
  この男の義務は、私の訴えに答えることです・・・
  そうできたなら、これまでの事も正義です。
  ですが、できないとなれば誰の目にも明らかでしょう!
  この男の清らかさとは、よこしまなものだということが!

第2幕、エルザとローエングリンの婚礼の行進をさえぎって王に訴える場面、まるでこの不条理極まりない物語の中で、フリードリッヒだけが唯一まともな人間のようではないか。ここで彼は条理を尽くして人々の狂気を告発するのだが、こういった場面において、F=ディースカウ以上に上手く歌える歌手がいようとは思えない。
そして何より戦慄すべき箇所、おそろしいまでの人間心理の解剖といった次の箇所、

  Lass mich das kleinste Glied ihm nur entreissen,
  des Fingers Spitze, und ich schwöre dir,
  was er dir hehlt, sollst frei du vor dir sehn,
  dir treu, soll nie er dir von hinnen gehn!

  あの男の体から、ほんの少しの部分でも切り取ってこい・・・
  指の先っぽでもよいのだ。
  そうすれば、あの男の隠し事がお前に明らかにされ、
  あの男はお前に忠実なまま、決して去って行くことはないはずだ!

ここまで人間は卑屈になるのか。絶望の淵でプライドも全てなげうって、敵であるエルザに頭を垂れて頼み事をする場面、痙攣で顔の筋肉がぴくぴくと動くのを目の当たりにするような、凄まじい歌唱。負け犬フリードリッヒ、かっこよすぎる。
正直なところ、最初にこんなフリードリッヒを刷り込まれてしまうのは不幸なのかも知れないと思う。真に芸術とは美しいものばかりで成り立っているのではないと痛感させられるのは良いとして、おそらくこの先、いかなるフリードリッヒを聴いても、まるで呪われたかのようにこの録音との比較をせざるを得なくなるだろう。
クリスタ・ルートヴィッヒも素晴らしい。ベームの「トリスタン」におけるブランゲーネと並んで理想的なワーグナーのメゾソプラノだろう。しかもかたや忠義の鏡のような侍女、かたや希代の悪女、その表現の幅の広さと強靭な声には驚嘆する。まったくこの二人の悪役夫婦のお陰で、ローエングリンとエルザがかすんでしまったほど。誤解の無いように言っておくと、ローエングリンのジェス・トーマスもエルザのエリーザベト・グリュンマーも立派な歌手です。まったく脇の二人が凄すぎるのであって、決して主役たちが弱いというのではないと思います。

脱線するが、この第3幕第3場の前奏って正にジョージ・ルーカスの映画みたいですね(有名な第3幕の前奏曲じゃないですよ、エルザが禁問の誓いを破った後の夜明けの場面のほうです)。夜が明けて次々と兵士が集まってくる、やりようによってはスペクタクルな場面ですが、これを聞きながらジョン・ウィリアムスがスターウォーズやインディー・ジョーンズの音楽を書いた時の念頭にこの場面があったのでは、と夢想してしまいました(もちろん根拠はありませんが・・・でもこの旋律をふた捻りぐらいすると「ジュラシック・パーク」のテーマになるw)。ジョン・ウィリアムスのクラシカルな部分と、ワーグナーの好戦的といってもよい音楽がはるか時空を超えて共鳴している感じです。私はと言えば、すっかり若き日の(いささか中途半端であった)ワグネリアンの血がまたぞろ騒ぎ出して困っています。何が困るって、この血沸き肉躍る戦いの音楽を聴いてさえ涙腺が壊れそうになるから。来週新国立に行くんだけどどうしたものか(笑)。
by nekomatalistener | 2012-06-07 20:51 | CD・DVD試聴記 | Comments(3)

ワーグナー 「ローエングリン」 ケンペ指揮ウィーン・フィル(その1)

寅年生まれなんである。でも、会議とかで本人的には甘咬みのつもりで喋ったことが、「吼えた」とか「咬みついた」とか言われるとちょっと心外。




例によって、近々新国立劇場で「ローエングリン」を観るのに先立って予習しておこうと思う。つい最近までこのオペラについて、第3幕への前奏曲や結婚行進曲といった有名ナンバー以外は殆ど知らなかったという事情については、以前「さまよえるオランダ人」について書いた際に述べた通りである。取り上げる音源は下記の通り。

  ローエングリン: ジェス・トーマス
  エルザ: エリーザベト・グリュンマー
  オルトルート: クリスタ・ルートヴィッヒ
  テルラムント伯フリードリッヒ: ディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウ
  ハインリッヒ王: ゴットロープ・フリック
  伝令: オットー・ヴィーナー
  ウィーン国立歌劇場合唱団
  ルドルフ・ケンぺ指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
  1962.11.23-30、1962.12.1-5、1963.4.1-3録音
  CD:EMI CLASSICS 50999 4 56465 2 2

音楽としての素晴らしさについては後述するとして、一聴して思うのはその物語の不思議さ(不条理さ、と言っても良い)。このブログで何度か書いてきたと思うが、私はオペラなんだからお話なんてどうでもいい、という立場は取らない。どんなに荒唐無稽であったり御都合主義的であったりしても、どうしてそういった物語でなければならなかったのか、ということに思いを馳せざるを得ない。特にこの「ローエングリン」においては、物語全体が様々な位相でのシンボリズムに満ち満ちているために、その理解というか、解釈は容易ではない。どこがどう不条理なのか、その幾つかを列挙してみよう。
①まるで人々を不幸にするためにやってきたように見えるローエングリンとは何者なのか、一体なんのためにやってきたのか?
②ローエングリンの素性に対する問いの禁止、これが意味するものはなにか?
③エルザはなぜかくも愚かに描かれているのか?ローエングリンはなぜあたかも人の心を持たないように描かれているのか?
④ゴットフリートだけがこのオペラでは幸福を得たような描かれ方をしているが、彼はそもそもなぜ白鳥の姿に変えられていたのか?

以下の記述はこれらの問いに対する答えを述べようというのではない。せいぜい思考に補助線を引いてみようとする試みに過ぎない。

①ローエングリンは何者なのか、一体なんのためにやってきたのか?
ローエングリンはパルツィファルの息子にして聖杯の騎士であり、エルザを救うため、あるいはゴットフリートを救うためにやってきた、というのでは殆ど説明にもならない。このオペラに登場する人物のうち、一言も発しないゴットフリート以外のすべての人物が不幸になる。いったい彼はどういった存在なのか。この根源的な問いに対してふと思い出されたのは、ピエル・パオロ・パゾリーニが1968年に発表した映画「テオレマ」のこと。パゾリーニの代表作の一つであり、私らの年代の映画好きには大変有名な作品だが、若い世代の方がどの程度ご覧になっているのかは判りません。
まぁこんな映画です。
「工業都市に変貌しつつあるミラノ郊外の大邸宅。工場経営者の夫、その妻、息子と娘、そして家政婦が住んでいる。ある日、頭のおかしい郵便配達夫が「明日着く」とだけ記された電報を届ける。その翌日、一人の青年がやってきて、庭でくつろいでいる。家政婦は青年に、とりわけその股間の膨らみに目が釘付けになるが、台所に戻り発作的にガスホースを咥え自殺しようとする。飛び込んできた青年が彼女を助け、そのままセックスする。家族の誰一人として青年を知らないが、名を尋ねることもなく彼と食卓を囲む。その日以来青年は、息子、娘、妻、そして夫とも次々と性的な接触をもつ。しばらくして再び郵便配達夫が届けてきた電報を見て、青年は突然旅立つ。その後、家族と家政婦はそれぞれどうしようもない欠落感を抱えたまま少しずつ崩壊していく。まず娘の体が硬直してしまい、そのまま病院に送り込まれてしまう。息子は前衛美術にはまり込み、アトリエで青一色に塗られたカンバスに放尿する。妻は街にでて次々と男漁りを行なう。夫は突然工場を手放し、駅の雑踏のなかで衣服を脱いで全裸になる。家政婦は郊外の農家で奇蹟を起こした後、泉になるために土に埋められる。最後は禿山を裸でさまよう夫の叫びでFine。
テレンス・スタンプ演じるこの青年はいったい誰なのか?それは神である、という見解が一般的なようだ。しかし、誰一人幸福にしない神って一体なんなんだ、と思う。なんのために、といえばブルジョア社会を毀すため、という説もある。家政婦はブルジョア階級ではないから彼女だけが奇蹟を起こし、昇天するのだ、と。しかし彼女の流す涙が泉になり、埋められていく姿はどうも救済とは程遠い、と思う。1968年という年代からどうしても反ブルジョワ思想を読み取ろうとするのは無理も無いのだが、解釈としては少し苦しい。結局、青年がどこから何のためにやって来て、去っていったのか誰もわからないといったほうがよい。
静謐な映像だけれどパゾリーニの映画によくある特質であまり詩的な感じはしない。その点、たとえばフェリーニが映画のどの一部分をとっても一編の詩になってしまうのとは好対照。俗悪ぎりぎりの映像で聖性を語る不思議な語り口が、まあパゾリーニのパゾリーニたる所以か。
この「テオレマ」が「ローエングリン」の影響を受けているとする根拠はなにもない。しかし芸術は時として似たようなテーマを追うものである、という例証ではある。ローエングリンや、テオレマの青年が誰なのか、何のためにきたのか、それは誰にもわからない。確かなことはただひとつ。人は常に名も知らぬ超越的な存在を待ち受けているということ、そしてそれは過去も現在も芸術上の大きなテーマであるだけでなく、日常に常に潜む切実な欲望でもある、ということ。その超越的・超自然的な存在に対する問いは禁じられており、それを「神」と呼ぶのは時に浅はかであったり瀆神的な行為だとみなされること。

②ローエングリンの素性に対する問いはなぜ禁止されねばならないのか?
この禁問のテーマの考察に対する補助線として、バルトークのオペラ「青髭公の城」を引き合いにだしてみたい。バルトークのこのオペラにローエングリンの影響が見られる、ということではない。むしろ「青髭」に顕著なのはドビュッシーの「ペレアスとメリザンド」の影響。青髭の冒頭のテーマはペレアスの冒頭を上下ひっくり返したもの、闇から始まり中ほどの真昼の場面を経てまた闇にいたる構成もペレアスに倣ったもの、オマージュと言ってもよい。しかし、物語としてはローエングリンの禁問と同様のテーマが見られる。すなわち、青髭の妻ユディットは、青髭が禁じたにも関わらず、城の7つの扉の向こうにあるものをつぎつぎと尋ね、暴いていき、そのあげくに彼女の前のおろかな妻たちの仲間入りをしていく、というもの。
ここにはある種の「男性原理対女性原理」の対立が現れていると思う。青髭は7つの扉の向こうに様々な秘密を隠し持っている。それは血のついた武具に象徴されるサディズムであったり、広大な領地の真昼の光景に象徴される全能感であったりする訳だが、最後の扉の向こうには青髭のかつての妻たちが、豪奢な衣装をまとったまま標本のように、何かのコレクションのように幽閉されている。男なら誰しも気付くとおり、ここには性的対象に対する態度というものが端的に表れており、記号化してディレクトリーごとに収集する青髭と、対象の記号化が出来ずに、相手(青髭)に対して彼の性的対象を自分の表象で上書きさせようとするユディットとの相克が見られる。この補助線がもたらすものは、禁問が何か性的なものにかかわるのではないかという仮説だが、ここでも問いに対する答えは宙づりにしておこう。

③エルザはなぜかくも愚かに描かれているのか?ローエングリンはなぜあたかも人の心を持たないように描かれているのか?
エルザにしてもオルトルートにしても、女性が救い難いほど愚かに描かれているのは、以前「オランダ人」を取り上げた際にも書いたとおり、ワーグナーの持つ強烈なミソジニーの所為だろう。このオペラでは男性の登場人物がすべて軍隊を率いる者であったり兵士であったり、とことさらホモソーシャルな世界を描いているためにミソジニーも強烈な表現になりがちなのだろう。一方でホモソーシャルを律する役割のホモフォ―ビアはどう描かれているかと言えば、聖杯の騎士が童貞でなければならぬというところに、セックスのにおいを拭おうとする無意識のメカニズムが働いていると言える。同じく聖杯の騎士であるパルツィファルに息子がいるというのも、お話としてはそもそも破綻しているのだが、それでも敢えて聖杯伝説を持ちださなければならないこと自体がホモフォ―ビアの機構によるものである。究極のホモソーシャル(聖杯の騎士)と究極のホモフォ―ビア(童貞集団)という取り合わせ。ローエングリンが、禁問の誓いを破ったエルザを群衆の面前で非難する箇所など、どうにもローエングリンに対する感情移入を阻害されてしまうのだが、この心理を平たく言うなら、「これだから童貞は困る」というもの。戯曲家としてのワーグナーの腕は確かなのだが、このローエングリンの造形はなんとものっぺりとしていて、人間的な魅力はむしろフリードリッヒの方に注ぎ込まれた形だ。
さて、エルザとオルトルートについてもう少し考察するなら、彼女たちから連想されるのは創世記のエヴァと蛇のお話。オルトルートにそそのかされて禁問を破るエルザは、蛇の誘惑によって知恵の実をたべたエヴァそっくり。アダムとエヴァは知恵の実をたべて羞恥心を知り、額に汗してパンを食べ、苦しんで子を産むようになった。知恵の実こそ性と生にかかわる快楽と苦痛の起源である。ならば、ローエングリンによって禁じられた問いの本質は、蛇が暴いた起源と同様のものではなかったか、という見方も出来そう。聖書のアダムの役割は、ローエングリンではなく、オルトルートの夫フリードリッヒに転換されているようだ。

④ゴットフリートだけがこのオペラでは幸福を得たような描かれ方をしているが、彼はそもそもなぜ白鳥の姿に変えられていたのか?
この問いに対する答えは、「これが貴種流離譚の定石だから」というものだろうか。ゴットフリートはローエングリンの台詞のなかでFührer(総統)と述べられていて、誰しもあのヒットラーを思い浮かべることだと思うが、いずれにしても彼こそこのオペラの中の最大の貴種であり、そもそもこのオペラというのは如何なる苦難を経てFührerがドイツを統一したか、という物語なのである。
実はこの問いを立ててから白鳥のことが気になって、上村くにこ著「白鳥のシンボリズム」(御茶の水書房)を読んでいるのだが、これが大変な名著である。ギリシャ時代から近代ヨーロッパに掛けての膨大な文献を縦横にあさり、その浩瀚さたるやミシェル・フーコーの著作を思わせるほど。また一編の伝承がつぎつぎとモディファイされ、主体と客体が、男性と女性が、能動と受動がときに反対方向に変換されながら新たな伝承をうむ軌跡を追うところ、ほとんどクロード・レヴィ=ストロースの「神話理論」を読むのにも似た興奮を惹き起す。これはもう最強の補助線というべきだが著者はここで「白鳥の騎士伝説」の5つのルーツを挙げている。すなわち、
1)白鳥=子どものモチーフ
2)金の鎖のモチーフ
3)白鳥の曳く舟のモチーフ
4)角笛のモチーフ
5)タブーのモチーフ
これらはローエングリンの物語にすべて備わっているわけだが、これを12世紀以降の様々な文献によって、白鳥の子供にまつわるケルト系やゲルマン系の伝承にキリスト教の要素が入り込み、やがて十字軍文学、その中でも特に聖杯伝説と合体していくようすがあざやかに記されている。これらをここで詳述するのは些か気が引けるが、最後のタブーのモチーフは、禁問のテーマとも密接に関わる重要なポイントなのですこし紹介したい。ここではケルト系のメリジェーヌの物語が取り上げられているが、土曜日だけ下半身が蛇に変身するという呪いを掛けられた妖精の娘メリジェーヌは、結婚相手の王レイモンドに蛇の姿を見られなければ幸福な生活が約束されていた。しかし、王は約束を破って妻の蛇の姿を覗いてしまい、彼女は羽根の生えた蛇となって去っていく、というもの。聖書と同じく、またしても蛇が出てくるのも印象的だが、「ルクトゥはこの伝説と従来の白鳥の騎士伝説が合体して、新しい白鳥の騎士伝説に生まれかわったという注目すべき推定を提示している、主人公の性が女性から男性へと性転換し、そして変身の動物が蛇から白鳥に変わると同時に、タブーのモチーフが白鳥の騎士伝説の方に移されたのではないだろうか(中略)その中で白鳥は元来のエロス的なものや猛々しい好戦性をふりおとして、天上界からの使いというキリスト教的メッセージを伝えるロマンチックな英雄に変身したのである。」(本書159~160頁)
最終章で、近現代の芸術に話がかわり、まさにワーグナーのリブレットそのものが素材として取り上げられ、エルザとオルトルートの分析「女性を無垢と邪悪の正反対の特質に分裂させるこの発想は、『白鳥の湖』ではもっと推し進められる」(本書310頁)でさっとあのバレエに話がうつるのも見事。そういえばそもそもあの白鳥の湖の有名な旋律は、ローエングリンの禁問のモチーフをほんの少し変形させたものであった。まったくこんな調子で次々と脱線しているときりが無いのである。

音楽のことがそっちのけになってしまいました。ケンペのCDについて考えたことは次回に。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2012-06-02 21:46 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

新国立劇場公演 ワーグナー 「さまよえるオランダ人」

取り押さえられたネコ(一応先日の大分合同新聞ネタの続き)。
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「さまよえるオランダ人」の舞台を観て来ました。

  2012年3月17日
     ダーラント: ディオゲネス・ランデス
     ゼンタ: ジェニファー・ウィルソン
     エリック: トミスラフ・ムツェック
     マリー: 竹本 節子
     舵手: 望月 哲也
     オランダ人: エフゲニー・ニキティン
     指揮: トマーシュ・ネトピル
     演出: マティアス・フォン・シュテークマン
     合唱指揮: 三澤 洋史
     合唱: 新国立劇場合唱団
     管弦楽: 東京交響楽団

これを書く前にちらっと幾つかのブログを覘いてみましたが、特にシュテークマンの演出が評判が悪いですね。私はそんなに酷い演出ではないと思いました。ほどほどに保守的・・・というと否定的なニュアンスになりますが、妙ちきりんな読替えよりはマシ。最後にゼンタがオランダ船に乗り込んで、オランダ人が陸に取り残される、というのは、えっ?と思いますが、先日の拙論に書いたように端からオランダ人の救済なんてものを信用していない人間からすればどっちが陸に残ろうが大したことではない・・・と、ちょっと暴論すぎますね。もう少し正確に言うと、最後の演出は意外なくらい違和感がなかった、と言っておきましょう。というのも、結局は「救済」なるものはゼンタの独りよがりであってオランダ人は実は救済されない(メタレベルでは救済を望んでいない)という結論は変わらないから、ということであると思います。
演出の主眼である、スペクタクルをどう見せるか、という点については、第一幕のオランダ船出現の場面の不気味さは、簡素なセットだけれど効果的でした。しかしながら最大の問題は第三幕のオランダ船の亡霊の合唱。これがPAで興醒めなことこの上ない。PAを全否定するつもりはありません。第一幕はオランダ船の出番が少ない分あまり気になりませんでしたし、他のオペラなら、例えば「サロメ」で地下牢からヨカナーンが歌うところなど今どきPA無しではちょっと考えられないでしょう。しかし、オランダ人の第三幕の合唱をPAで処理するというのは演出家の発想の貧困以外の何ものでもないんじゃないか?ここは多少無理してでも生歌を聞かせるべきだったと思います。生きている船乗りの合唱のほうがあまりに素晴らしかっただけに残念でした。
登場人物の動かし方についても、私はゼンタやオランダ人のこの世の者とも思われない動きと、ダーラントやエリック、舵手などの日常的とも言える動きの対比がそれなりに筋が通っていると思いました。船乗りや娘たち群衆の動きはまぁこんなもんでしょう。こんなことをいちいち書くのも、こういった一人ひとりの動かし方についても随分と手厳しい批評があるから。ワーグナー以外だとそうでもないんですがね。いまやワーグナーの楽劇は、演出も何でもあり、批評もなんでもあり、ましてや素人は言ったもん勝ち、ということか。要するに、何か一言云いたい手合いにはぴったりの素材というわけです。私自身は、基本的にあまり音楽を邪魔しない演出だったので安心したといったところでした。
歌手については、ゼンタのジェニファー・ウィルソンが素晴らしい。ワーグナーのソプラノはこうでなくちゃ。稀に見る理想的なワーグナー歌いでしょうね。ブログで、動きが緩慢、とか、若い娘に見えない、とか皆さん散々書いておられますが、もうすこし大人になろうよ(笑)。歌舞伎だって黒子が現実にいるはずないとか、女形は実は男だ、なんてことふつう考えないだろ。ワーグナーの音楽を愛するということは、それを歌うに相応しい歌手の体格の問題も受け入れるということ。ウィルソンの体格について云々する人達というのは、私にはワーグナーに対する愛と理解とリスペクトが足りないという風に見えます。この歌手、そろそろこのあたりが声量的にレッドゾーンかな、と思っていたらそこから先さらに声量が増していき、しかもその増え方が凄まじく、一瞬も揺れたり割れたりしない。なんとか彼女の声が衰える前に、彼女の歌うブリュンヒルデを聴いてみたいものです。たぶん鳥肌がたつんじゃないかな。
歌手で次に良かったのは、脇役ですが舵手を歌う望月哲也。昨年の「サロメ」のナラボートの時も感心した歌手ですが、上手い下手という以上に、役柄のキャラクターを正確に表現し、聴き手に伝える能力において、ずばぬけた力量を持った歌手だと思います。この舵手の役というのは、それこそホモソーシャル代表の脳ミソ筋肉みたいな野郎なんだが、その愛すべき馬鹿さ加減まで表現し得ていました。
前評判の高かったオランダ人のエフゲニー・ニキティンは少し期待外れかな。声量はあるし、声質は深く、しかも舞台栄えのする偉丈夫なんですが、ところどころ音程が微妙に振れる。それもあがったりぶら下がったり、一貫しないので、どうも聴き手からすれば乗り切れない感じがする。もしかしたら他の日に比べて体調面で万全ではなかったのかも。むしろエリックのトミスラフ・ムツェックのほうが安心して聴けた感じがします。役柄としてもやや軽目のせいもあるけれど、若さもひたむきさもあって良かったですね。ダーラントのディオゲネス・ランデスですが、エリック同様そこそこ歌えていれば「我ら凡人」の代表としての役柄は充分に全うしているとも言える。しかし、それだけでは済まない重厚極まりない歌をワーグナーはダーラントに与えたわけで、それに相応しい声か、と言えば物足りないといわざるを得ない。辛い評価かも知れませんがダーラントが充実していれば、男声だけの第一幕はもっと(ワグネリアンでない人達にも)面白くなるだろうと思います。もっとも私が聴いたのと別の公演では不調で途中降板したと言いますから、やはり体調が万全でなかったのかも知れません。
今回の公演で何といっても印象に残るのは三澤洋史率いる船乗りの男声合唱の凄まじさ。新国立の合唱の素晴らしさは過去に何度か触れましたが、今回の合唱は世界のオペラハウスでもそんなに聴けないレベルじゃないのかな。それだけに、繰り返しになるけれどPAの使用が残念。
トマーシュ・ネトピル指揮する東京交響楽団、前奏曲ではすこし音が薄い、というかもっと音圧がほしいと感じましたが、劇が始まると全く気にならなくなりました。どうも私は、歌手に対する期待値よりオケに対する期待値のほうが若干低いせいもあるかも知れませんが、これぐらいやってくれたら言うことないと思う。むしろこれだけのレベルの演奏聴いて不満をいう人って一体なんなの?と思ってしまう。ただ、確かに音の薄さというのはどうしようもなくて、ところどころウェーバーみたいに聞こえるというのは否めない。それ自体はマイナスでもなんでもなくて、事実この若書きのオペラはウェーバーどころかイタリアオペラみたいなページまであるのである。それが第一幕のダーラントの出帆の場面、明るい男声の二重唱が高揚の果てに沸点を迎え、ト調長の属音の和音で終始すると見せかけてから突然のヘ長調の属七への遥かなる飛躍、これこそワーグナーをワーグナーたらしめるもの、この飛躍こそワーグナーの天才を証するものです。ワーグナーが単なるロマンティック・オペラの作曲家に留まらず、現代にまでまっすぐ繋がる音楽の始祖となった訳は、なにも「トリスタン和音」の発明だけではないのです。その、ウェーバーの後継者たる位置と後期ロマン派の入り口の両方を耳に感じさせてくれたのは今回のオーケストラの大きな功績だと思う。
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ちなみに前奏曲はいわゆる「救済のテーマ」のないバージョンですが、第三幕は「救済」ありのバージョンであまり一貫性がない。音楽的には「救済あり」のほうが満腹感があるね(笑)。休憩は第一幕の後に1回のみ。幕間なしバージョンはちょっときついだろうから、これは妥当。
(この項終わり)
by nekomatalistener | 2012-03-20 00:17 | 演奏会レビュー | Comments(0)

ワーグナー 「さまよえるオランダ人」 ドホナーニ指揮ウィーン・フィル

大分にしては凶悪事件だ。

先日の未明、「大分市内のドラッグストアに何者かが侵入している」と大分南署に警備会社から110番通報があった。 当直の署員たちが現場に急行。警備会社の案内で真っ暗な店内に入った。警戒しながら慎重に調べていると、署員の一人が「痛っ!」。 侵入者から攻撃されたのかと身構えると、足元には大きな野良猫。
他に異常はなく“侵入者”はネコらしいことが分かった。右足首をネコに引っ掛かれた署員は「事件でなくて良かった」とほっとしながら、 「このネコを建造物侵入と公務執行妨害の現行犯で逮捕してやりたいよ」。
大分合同新聞[2012年03月08日 14:22]
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予習シリーズ、3月の新国立劇場の演目はワーグナーの「さまよえるオランダ人」。

  ワーグナー「さまよえるオランダ人」
    オランダ人: ロバート・ヘイル
    ゼンタ: ヒルデガルト・ベーレンス
    エリック: ヨーゼフ・プロチュカ
    ダーラント: クルト・リドル
    舵手: ウヴェ・ハイルマン
    マリー: イリス・ヴァーミリオン
    ウィーン国立歌劇場合唱団
    クリストフ・フォン・ドホナーニ指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
    1991.3~11月録音
    DECCA00289 478 2503

こんな有名作なのに予習か、と言われそうですが、この歳になるまでまともに聴いたことがないのだから仕方ありません。ワーグナーに関しては、私が高2か高3の頃から大学に入って1年かそこらの間、時期にして2年足らずほどでしたが、まるでハシカに罹ったようにそれこそ浴びるように聴いていた時期がありました。一番最初にハマッたのは「トリスタンとイゾルデ」、きっかけはNHK-FMで抜粋を聴いたことだったと思います。それから「ニーベルングの指輪」、その中でも特に「ヴァルキューレ」、最後に「パルジファル」。大学の途中くらいから憑き物が落ちたみたいに聴かなくなってしまいました。舞台で観たのは4度、何時の公演かもはっきり憶えていませんが、若杉弘が振った「ヴァルキューレ」、2008年のパリ・オペラ座の来日公演での「トリスタンとイゾルデ」、新国立の「ジークフリート」(2010年)と「トリスタン」(2011年。こいつは凄かった)、それぐらいだと思います。つまり、かつてワーグナー好きであった一時期はあるにせよ、よく知っているのは僅かな作品であって、オランダ人、ローエングリン、タンホイザー、そしてマイスタージンガーについてはちょっと齧ったくらいしか聴いてなかったのです。

そんな程度のワーグナー理解ではあるが、その経験のなかでなんとなく感じてきたのが、ワーグナーのミソジニーの問題。例えば「トリスタンとイゾルデ」。何度聴いても異様に感じるのは、マルケ王やクルヴェナールがトリスタンに示す過度の愛情、それは臣下を慈しむとか、主君に忠義を捧げるといったレベルを超えて、本来ならばホモフォビアによって辛うじて維持されてきたはずのホモソーシャルな騎士の世界に危機をもたらすように思われます。事実、この世界にイゾルデという異分子が投じられることによって、この麗しきホモソーシャリティは壊滅します。「パルジファル」ではそれがもっと露骨に描かれ、「指輪」では神と人間の世界の分裂を絡めて、幾分晦渋の度合いを強めながらも通奏低音のようにホモソーシャルな男性社会を破壊する女性(ブリュンヒルデ)という描かれ方をしています。こういった記述は判りにくいでしょうか。私はこれらの分析のツールとして、上野千鶴子によって判りやすくまとめられたイヴ・セジウィックの理論を用いようとしていますが、それは「ホモソーシャリティはミソジニーによって成り立ち、ホモフォビアによって維持される」というものです(上野千鶴子『女ぎらい―ニッポンのミソジニー』紀伊國屋書店)。実際のワーグナーの猟色家としての姿も、彼が典型的なミソジニストであると考えれば辻褄があうというもの。もっともそういった見方をするならば中世の騎士物語など殆どこの構図になるのではないか、という疑いもあるでしょう。それはその通りであって、だからこそミソジニーはこれほどまでに世間に蔓延しているのだ、と言えるのですが、それにしてもワーグナーのミソジニーの度合いは群を抜いていると言ってよいでしょう。

さて、オランダ人について。世間では、この作品の主題は「女性の愛による救済」であるなどと言われていますが馬鹿も休み休み言えと言いたい。本当に皆さん、このオペラを観て、聴いて、「オランダ人はゼンタの愛によって救済されて良かったね」とか、「やっぱり最後に勝つのは愛だよね」などと本気で思うのだろうか。もしそうなら本当に自分の頭の中が湧いてないか心配したほうが良いと思う。有名なハリー・クプファーの演出はこのお話全体がゼンタの神経症的妄想であるとしたようですが、それもまたおかしな話。そりゃ主人公は、というより、ワーグナーが自己を投影していたのは明らかにゼンタではなくてオランダ人だろう、って話です。この悪魔に取り憑かれたオランダ人、彼こそワーグナーが自己を投影するどころか、無意識のレベルでは同一化を図ろうとしていた存在であることは間違いありません。ではオランダ人の苦悩とは何だったのか?ここでニーチェの思想を持ち出しても良いのだが、この時期ワーグナーが深く影響されていたのはニーチェではなくてショーペンハウエルだろう、といった反論に対抗できるほどには私自身よく判ってませんので、ここでは仮にそれを創造のデーモンとしておきましょう。このデーモン故に、ワーグナーは極端な自己愛を持つと同時に、自己を呪わずにはおられなかったはずです。しかし、だからといって強烈なミソジニストであるワーグナーは、たとえ最後の審判の日まで冥い海を彷徨うことになろうとも女性の愛によって救済されたいとは思わなかったに違いありません。実際、ワーグナーはこのデーモンと共に人生を歩み、巨大な楽劇を創造し、バイロイトという理想の劇場まで作ったのですが、よくぞ途中でつまらぬゼンタに引っかからずに海に逃げ出せたものです(何の気なしにこう書いて、普段はあまり意識しない己のミソジニーの強さに驚いています)。この辺りの議論、精神分析の技法も知らぬ素人ですので上手く説明できずにもどかしい思いをするのですが、間違ってはならないのはこれはすべてワーグナーの無意識のレベルで起こっていることであり、台本にこう書いてある、といった反証は無意味であること、しかも厄介なことに、これを立証するには象徴界の産物としての台本を読む以外には手立てがないということです。しかしそこは素人の気安さで、厳密な議論は省いて論を進めていきます。

先程、半ば冗談めいてオランダ人が危うくゼンタの罠を逃れて海に逃げたかのように書きましたが、テキストのメタレベルで起こっていることはまさしくそういうことだったのではないか。第1幕、主体たるオランダ人が客体たるダーラントを説得して娘ゼンタを得るように描かれているが、主体と客体を逆転すれば、誇り高いオランダ人は俗物たるダーラントの姦計によってゼンタの罠に搦め取られようとしている、とはいえないか。オランダ人にとっての(ゼンタとの)陸の生活とは、創造のデーモンとは無縁の小市民的幸福の追求そのもの、その一方で第1幕の影の主役とも言うべき男声合唱は、軍隊と並んで典型的なホモソーシャルである船乗り達の世界の素晴らしさを謳歌しますが、これこそ栄光に満ちた創造のデーモンの世界です。第2幕のゼンタ、これは今の若い人の言葉で言えば「イタい女」ということでしょうが、実際にある種の精神病理学的な異常さを帯びています。「ゼンタ症候群」なんて病名が在ってもちっとも不思議ではない(実際にあったりして)。表向きの話は、自己犠牲を夢見るゼンタをなんとか現実の恋愛に引き戻そうとマリーやエリックが努力するが、彼女は言うことを聴かず、実際にオランダ人と対面すると直ちに我を忘れるほどの恋に落ちて救済の欲望に取り憑かれてしまう。メタレベルではオランダ人はゼンタに対して身の危険を感じ、彼女から逃げようと思っているはずだが、それはこの第2幕後半、オランダ人とゼンタの妙に噛み合わない二重唱に現れています。それまで二人の目には父ダーラントの姿はろくに入っていなかったというのに、オランダ人はゼンタに向かって、お前の父の選択に対して怒ってはいないのかと問い、ゼンタは父の命令に従うと答えます。ゼンタという人物がいかに分裂した存在であるかは、第2幕前半であれほど俗物(マリー・エリック・娘たち)を軽蔑していながら、後半では俗物中の俗物というべき父ダーラントの言いなりに(結果的に)なってしまうということ。そして、ゼンタは典型的な「父の娘」、すなわちエレクトラ・コンプレックスの持ち主であり、彼女の同一化の欲望はあくまでもダーラントに向かっている。ラカン風に言えば、彼女の欲望とは同一化の対象であるダーラントの欲望なのだから、そもそもオランダ人に対する救済者としての適格性自体に疑問符がつくのです。但し、ここで見落としてはならないと思うことは、ダーラントは確かに俗物ではあるが、彼の富に対する執着はおそらくワーグナー自身の姿が幾分投影されていること、音楽的にも決して(ミーメのような)コミカルな歌はあてがわれていないということです。そういった意味でダーラントの役割も分裂しているが、そこにアンビヴァレンツがあるとしてそれはより愛に近いほうに傾いていると言えるでしょう。そして第3幕。表向きの話は、エリックとゼンタという若くて将来のある2人を見てオランダ人は自らの救済を断念し、海に乗り出すが、ゼンタは海に身を投げ、救済が成就されるというもの(されないという版もある)。これも象徴界における隠喩や倒置といった手法で読み解けば、ゼンタの魔手を辛くも逃れたオランダ人は、友たる船乗りたちとともに冥い海原、すなわち前人未到の創造の旅に出て行くというわけだ。このテキストのメタレベルにおけるハッピーエンド、カタルシスに人は無意識に酔い痴れているとはいえないでしょうか。
ワグナーの楽劇については、ネットというメディアではなく同人誌のような媒体には恐らく多くの考察があると思いますので、以上述べたようなことはもしかしたら語りつくされているのかも知れませんが、ネット上の薄っぺらい紹介サイトやブログの類で胸焼けするほど「愛による救済」というマントラを読まされたので、敢えて以上のようなことを書かずにはいられませんでした。このブログで何度か(しかし控えめに)世評とかいったものに対する私の本能的といってもよいくらいの嫌悪感について言及してきましたが、「救済」云々の言説も同じです。もう気持ち悪くなる。

取り上げたCDは、単に予習のために音源を探していて、一番安かったからという理由で選びました(2枚組で1,775円)。これはセカンドチョイスというか、もしかしたらサードチョイスくらいにしときなはれ、という代物かも知れませんが、オーケストラと合唱は兎に角凄いの一言。ウィーン・フィルの何がどう凄いのか、これ聴けば如実に判ります。他と何が違うって音圧が違う。物理的に音が大きいとかじゃなくて、腹に響く感じ。なんだろうね、これは。オケと合唱だけなら数多の名盤の中でも一押しだと思う。最も問題なのは、ベーレンスのゼンタ。花の命は短いのがソプラノの宿命とはいえ、ベーレンスの花は本当に短かったと云わざるを得ない。録音が遅すぎたのか、もう声が揺れるわ、かすれるわ。ベーレンスの熱狂的なファンはどう受け止めるのか判らないけれど、私は聴いていて痛ましくて仕方が無かった。これはデッカのキャスティングのミスなのか、それともゼンタという役柄を深く考察した結果、こんな「イタい声」を採用したのか(まさかね)。オランダ人のロバート・ヘイルと、ダーラントのクルト・リドルは素晴らしい歌唱です。もう数年録音が早ければ凄い名盤になったろうに、と思いました。
最後にワーグナーの音楽そのもの。ハシカが治ってから30年が経ち、今更この歳になってどこまでシンパシーを感じることができるかな、などと甘いことを考えていたら、その音楽の魔力にあやうく搦めとられそうになりました。あやうく、というのはこのブログの為にストラヴィンスキーなんかも並行して聴いているので、それだけ毒の効き目が弱かった、ということ(笑)。しかしそれにしても恐るべき強靭な音楽です。
(この項終わり)
by nekomatalistener | 2012-03-09 00:41 | CD・DVD試聴記 | Comments(9)