タグ:ワーグナー ( 16 ) タグの人気記事

ワーグナー 「ワルキューレ」 愛知祝祭管弦楽団公演

ポケモンGOのイシツブテを見ると、なんかチキチキマシン猛レースのタメゴローとトンチキを思い出す。40代以下の人は誰も知らんと思うけど。





わざわざ名古屋までこの演奏会形式による「ニーベルングの指輪」シリーズを聴きに行こうと思ったのは、昨年の「ラインの黄金」の評判がまぁまぁ良かったのと、清水華澄がジークリンデを歌うと知ったから。で、その結果はというと、本当に行ってよかった。恥ずかしながらあちこちで大泣きしてしまいました(笑)。

 2017年6月11日@愛知県芸術劇場コンサートホール
 ワーグナー「ワルキューレ」全三幕
  ジークムント: 片寄純也
  ジークリンデ: 清水華澄
  フンディング: 長谷川顯
  ヴォータン: 青山貴
  ブリュンヒルデ: 基村昌代
  フリッカ: 相可佐代子
  ゲルヒルデ: 大須賀園枝
  ヘルムヴィーゲ: 西畑佳澄
  オルトリンデ: 上井雅子
  ヴァルトラウテ: 船越亜弥
  ジークルーネ: 森季子
  ロスヴァイセ: 山際きみ佳
  シュヴェルトライテ: 三輪陽子
  グリムゲルデ: 加藤愛
  三澤洋史指揮 愛知祝祭管弦楽団
  演出構成: 佐藤美晴

歌手達の中では清水華澄はもちろん良かったのですが、何より素晴らしかったのはブリュンヒルデを歌った基村昌代。第二幕で、ちょっとお転婆風の軽めの声で現れた時は正直「あちゃー」と思ったのですが、これはもちろん計算の内。ブリュンヒルデはジークムントに対して死の告知をするが、彼のジークリンデへの愛の深さを知っていきなり真実の愛に目覚める。それからの表現の激しさと深さはただならぬものがありました。ジークムントが死んで絶望するジークリンデに、お腹の中に子供が宿っていることを告げる場面や、終幕のヴォータンとの別れの場面、もう言葉が追いつかなくて素晴らしいとしか言いようがない。この二つの場面、私は涙なくして観られませんでした。
ジークリンデの清水華澄、この人の身上は何と言っても忘我といってもよいほど役柄に没入していく姿勢と、テンペラメントの激しさ。ジークリンデはうってつけの役だろうと思いきや、第一幕はちょっと手が届きそうで届かないもどかしさを感じる。この人にとって、ワーグナーはヴェルディのエボリ公女のようにはいかないのか、と少し物足りない。でも第二幕、ジークムントに不幸な半生を語って錯乱する場面からは俄然熱を帯びてきて、ブリュンヒルデに触発されたのかどうか、第三幕の対話はもう凄まじいまでの激しさ。やはり類まれな歌手だと思いました。
ジークムントの片寄純也は私はだいぶ前にパリアッチのカニオを聴いて以来かも知れません。偉丈夫で声量もあり、ジークムントのような直情的な役柄にはよく合っていると思います。ただ、声楽用語でなんと言ったらよいのか分からないのだが、ところどころ、舞台の俳優に例えるとセリフが棒読みみたいなこなれていない歌い回しが気になります。十分水準以上とは思いながらも、先の女声二人にはわずかに及ばず、といったところ。
ヴォータンの青山貴は、これまで聴いてきた中では一番良かったのではないでしょうか。第二幕で登場したときは、声がこちらに届く前に散ってしまう感じも受けましたが、すぐに持ち直して深々とした声を堪能させてくれました。ブリュンヒルデとの告別の場も文句なし。
フリッカの相可佐代子は役柄に即したヒステリックな表現はとても良いが、ちょっとオケに声が負けた感じ(オケはちょっと鳴らしすぎ、というより制御しきれていない所あり)。フンディングの長谷川顯もスイッチが入る前に出番が終わってしまう感じが少し気の毒。8人のワルキューレの乙女達も、思ったより声が届かない。このあたりはまぁこんなもんかな、といったところ。

愛知祝祭管弦楽団は、この4年がかりの「指輪」シリーズのための寄せ集めで、基本的にアマチュアの人たちとのこと。その気になればいくらでもケチをつけれそうではあるが、私はそういったことは書かないでおこうと思う。立派な演奏だったと思います。三澤洋史は新国立劇場の合唱団の指揮者としてしか知りませんでしたが、こういった楽団を相手に長大な音楽を破綻なくねじ伏せただけでも大変なことだろうと思います。ただ、指揮は拍子をきっちりと刻むことに最大のポイントを置いているように思われ、その分音楽のうねるような自発性が多少犠牲になっていたようにも思います。おそらくもっとプロフェッショナルなオーケストラ相手なら違うやり方があったのかも知れません。そこは目を瞑るしかないのだけれど、これが名古屋の一回きりの公演ではなくて、東京のように二度三度の公演ならもっと良い成果が出せたに違いありません。いずれにしろ、私は早くも来年の「ジークフリート」公演を楽しみにしています。

ワーグナーの音楽そのものについて少しだけ。
私は先にも触れたブリュンヒルデがジークリンデに懐妊を告げる場面と、罰を与えられたブリュンヒルデがヴォータンに自分をつまらぬ男から護ってほしいと懇願する場面が白眉だと思っています。そのどちらも、ジークフリートの動機が金管で高らかに現れますが、それは単に回想とかほのめかしといったレベルではなくて、どこか無意識のレベルに直接働きかけてくるような強烈な効果があることに気が付きました。それは、長大な作品を経済的・効率的に紡ぎだすためのメチエとか、聴衆が理解しやすいように、あるいは退屈しないようにするための方法といった、いわばレトリックとしてのレベルではなくて、ジークフリートの不在(語られないもの=欠如)を埋めるためにジークフリートの動機(象徴=ランガージュ)が生まれるといったレベルに達していると言えるかも知れません(ライトモチーフの全てがそうではないにせよ、このジークフリートの動機の出現で図らずもそのレベルに触れてしまった、というのが実際のところかも知れませんが)。だからこそ、ワーグナーの「ラインの黄金」から「パルジファル」に至る諸作が、あれほどまでに哲学や精神分析学をはじめ広く人文科学全般に影響を与え得たのではないかと思いました。演奏会の備忘のついでに書くには話が広がりすぎるし、もっと言葉を尽くそうにも印象批評みたいな書き方しかできないのだけれど、これだけは書かずにはいられませんでした。
(この項終り)

by nekomatalistener | 2017-06-14 22:58 | 演奏会レビュー | Comments(4)

ワーグナー 「ラインの黄金」 びわ湖ホールプロデュースオペラ公演

マクドのポテトの端っことか切れ端がカリカリに揚がってるのがたまに混じってるのって、けっこう幸せ。





仕事の忙しさにかまけてたらあっという間に3週間以上も経過。いろんな方の感想も出尽くした頃に間の抜けたブログ更新ですが、自分の為の備忘として、あれやこれやの記憶が薄まらないうちにメモを書いておこう。

 2017年3月5日@びわ湖ホール
 ワーグナー 「ラインの黄金」
  ヴォータン: 青山貴
  ドンナー: 黒田博
  フロー: 福井敬
  ローゲ: 清水徹太郎
  ファゾルト: 片桐直樹
  ファフナー: ジョン・ハオ
  アルベリヒ: 志村文彦
  ミーメ: 高橋淳
  フリッカ: 谷口睦美
  フライア: 森谷真理
  エルダ: 池田香織
  ヴォークリンデ: 小川里美
  ヴェルグンデ: 森季子
  フロスヒルデ: 中島郁子
  管弦楽: 京都市交響楽団
  指揮: 沼尻竜典
  演出: ミヒャエル・ハンペ


「ラインの黄金」をまともに通して聴くのって久しぶりのような気がします。高校生の頃に「トリスタンとイゾルデ」の毒にあてられてしまい、大学に入った記念に、「ニーベルングの指輪」全曲のベームのバイロイト盤(当時LPレコードで16枚組だったと思う)を買って、浴びるように聴いたのも今は遠い昔。その頃も、「ワルキューレ」以降の3作に比べて、「ラインの黄金」は音楽的に今一つのような気がして、それほど真面目に聴いた記憶がありません。
しかし、今回の公演を聴いて、やはり抜群に面白い音楽であると改めて認識しました。以前このブログで「マイスタージンガー」のいくつかの動機を細かく分析したことがありましたが、この「ラインの黄金」についても一度はそういった作業をしてみたいという気になっています。そんな誘惑に駆られるのも、偏に沼尻の指揮のおかげといえそうです。
沼尻さんの指揮といえば、このブログでは過去プッチーニやコルンゴルト、そして「オランダ人」などを取り上げてきて、いずれもサクサクと進む音楽に何かしら不満めいたものを書いてきました。その指揮の真価に気付いたのは昨年のドニゼッティの時でしたが、今回の「ラインの黄金」の指揮は素晴らしいものであったと思います。冒頭の変ホ長調のコードが延々と続く序曲といえば、混沌から次第になにか形のあるものが浮かび上がってくる、といった演奏が多いと思いますが、沼尻の音楽は常に明晰で混沌の対極にある音楽といった感じ。こまかく動く弦の内声を克明に聴かせて、これほどの大曲の演奏としてはあり得ないほどの精緻な印象を受けました。こういったアプローチは敢えて言えばブーレーズのそれに近いと思いますが、沼尻のほうがより劇場的なセンスがあるというのか、醒めているようでいて、燃焼度が高いというのか、要は長時間飽きずに聴かせるオペラ職人としての技を備えているということでしょう。この人が昔からこうなのか、ここ最近進化を遂げてこうなったのか、数えるほどしか聞いていない私には俄かに判断がつかないけれど、今回の公演に限って言えば、情におぼれない音楽はそのままでありながら、四つの場をつなぐ間奏が文字通り白熱の演奏で、全体として大変メリハリのある強靭な音楽となっていたというのが真相かと思います(それにこたえる京響も素晴らしいものでした)。これから毎年一作ずつ行われる指輪の公演、とても期待できるものになりそうです。

オーケストラはこんなに素晴らしかったのに、全体としての印象がそれほどでもないのは、演出によるところが大きいと思います。ミヒャエル・ハンペのプロジェクションマッピングを駆使した演出については、以前に「さまよえるオランダ人」で絶賛したところですが、今回の場合、ト書き通りになんでもできてしまうが故のPMの限界というものをまざまざと感じたような気がします。確かに冒頭のライン河の水底の場面は大変美しく、水中を舞うラインの乙女の映像と、舞台上で歌う歌手が自然に入れ替わるのも見事というほかなかったのですが、ワルハラ城を望む天上界やアルベリヒとミーメの住む地下世界の描写は、あまりにも表現がト書き通りに過ぎて、どうにも興醒めのする思いでした。少なくとも聴き手の想像力の一切を封じ込めてしまうのは、やはり舞台芸術としてどこか違うのではないかとの疑念をぬぐうことができません。PMの威力を否定するつもりは毛頭ありませんが、この技術の凄さに、観客の想像の余地を残す工夫のようなものが加われば、というのは無い物ねだりでしょうか?

歌手勢は大変充実しており、特に私の観た二日目の公演、ほぼオール日本人キャストでよくぞここまで隙のない布陣を組めたものだと感心した次第。ここまで粒がそろっていると、個別の歌手について云々するのも、技術的にどうこういうよりは個人の好き嫌いの話になってしまいますが、それでも特に印象深い歌い手を記すと、まずはローゲの清水徹太郎。「ジークフリート」のミーメ同様、大変重要な役回りだと思いますが、十分に重責を果たしたといえるのではないでしょうか。そのドイツ語のデクラメーションについて云々する力は私にはないが、とにかく膨大な台詞を伝えるだけで流麗な旋律がまったくないと思われがちなローゲの歌が、音楽としても自律的で魅力あるものとして聞こえたことは強調しておきたい。アルベリヒの志村文彦も、性格的なバリトンとしての表現力が凄いと思いました。楽譜に書かれた音との乖離がどこまで許容できるかという問題はあるのかも知れませんが、オペラが一方で演劇でもあることを改めて感じました。
出番は少ないが、去年「トリスタンとイゾルデ」を聴いた福井敬(フロー)と池田香織(エルダ)のコンビがまたもや素晴らしい歌を聞かせてくれました。「ジークフリート」でのエルダはもう少し出番が長いから、是非とも彼女のエルダを再来年に聴いてみたいものです。
ヴォータンは神としての威厳を強調するか、それとも人間臭さというのか、神であるのに碌でもないことばかりやらかす輩という側面を出すかで表現が大きく変わるのだろう。かつてのホッターなんかを聴いてきたオールドファンの受けはいざ知らず、私はこの後者寄りのヴォータンは悪くないと思いました。
その他すべて割愛するが、どの歌手も誰一人これはちょっと・・という人がいなかったのは大変なことだと思います。できればダブルキャストの両方を聴いておきたかったと思いました(一日目を聴いた方の感想をみていると両日行く値打ちは十分あったようだ)。
「東京・春・音楽祭」では来月いよいよ「神々のたそがれ」公演。関西住まいの身には羨ましい限りだが、関西でも上質なリング上演が始まったことを心から喜びたいと思います。
(この項終り)

by nekomatalistener | 2017-03-28 00:27 | 演奏会レビュー | Comments(2)

ワーグナー 「トリスタンとイゾルデ」 二期会公演

イーブイが進化したらヤックルになるんだよ。





東京で二期会の「トリスタンとイゾルデ」を観て早一週間以上経ちました。いつもなら大体鑑賞後2、3日の内には備忘記事をアップするのですが、今回は少し身辺が忙しかったのと、演奏についても演出についても何となくまとまった言葉にならなくて困っておりました。あまり先延ばしにしてもますます書くのが億劫になるので何かしら言葉にしてみます。

 2016年9月17日@東京文化会館大ホール
 ワーグナー 「トリスタンとイゾルデ」
  トリスタン: 福井敬
  マルケ王: 小鉄和広
  イゾルデ: 池田香織
  クルヴェナール: 友清崇
  メロート: 村上公太
  ブランゲーネ: 山下牧子
  牧童: 秋山徹
  舵取り: 小林由樹
  若い水夫の声: 菅野敦

  合唱: 二期会合唱団
  管弦楽: 読売日本交響楽団
  指揮: ヘスス・ロペス=コボス
  演出: ヴィリー・デッカー


「トリスタンとイゾルデ」というオペラに対しては、初めてカール・ベームのバイロイト・ライブのLPを聴いた高校生の頃から、「本当にこれを神ならぬ生身の人間が書いたのだろうか?」という思いを持ち続けています。特に第2幕の長大な二重唱。こんな音楽がこの世に存在すること自体、私には奇跡のように思えてなりません。爾来ワーグナー熱は治まったりぶり返したりの繰り返しですが、トリスタンだけはなんだかんだ言いながら折に触れて聴きなおしてきました。まったくとんでもない音楽だと聴くたびに思います。
関西住まいではなかなか実演に触れるチャンスがなくて、これまで舞台を観たのは2008年7月のパリ国立オペラの来日公演と2011年1月の新国立劇場公演のみ。前者は全裸の男女の映像が流れ続ける演出のおかげで気が散ったのか、何ともとりとめのない印象しかありません。後者はデイヴィッド・マクヴィカーの演出はやや不発気味なるも大野和士の指揮が素晴らしく大変感動しました。そんな訳で、これまで演奏と演出共に十全の舞台を観たという手ごたえはなく、二期会ブランドにはそれなりの信頼を置いているものの、どこまで心に響くものになるだろうかと半ば期待し、半ば恐れながら聴いたという次第。

今回のもやもやの理由の大半はやはり演出だろうか?読替えというほどドラスティックでもないがトラディショナルという感じでもない。背景は第1幕が様式化された波の絵、第2幕は森の樹々、第3幕は墨をぶちまけたような抽象的なデザイン。それが衝立のような2枚の壁に描かれて、その隙間から人物が出入りする。斜めに傾いだ舞台には全幕通して一艘の小舟が置かれ、歌手はその中で、あるいはその周りで時に櫂を手にして歌う(それも公園の池のボートを漕ぐような安っぽいプラスチックのオールにしか見えない)。衣装も最初は時代・国籍ともよく分からないものが、第3幕はごく現代的な衣装。クルヴェナールはまるで新橋の飲み屋にいる、ちょっと規律の緩い会社のサラリーマンみたい。それでも第2幕の途中まではそれなりに伝統的な所作が続くのだが、マルケ王らに踏み込まれたトリスタンが短剣で己の両目を切り裂き、イゾルデもそれに倣うというショッキングな結末。第3幕でトリスタンは布きれを目に巻いて歌うが、同じく布を目に巻いたイゾルデは途中でそれを取り払い、何事もなかったかのように歌い続ける。
備忘としてつらつら書いているのだが、私にはなんとも要領を得ないというか、途中からあれこれと考えることを放棄してしまったので甚だ感興の湧かないまま過ごしてしまった感じがします。ディティールに込められた意味がそれなりにあるのかも知れませんが、もはや興味をなくしてしまいました。こういうのって、わざわざ外国から演出家を招聘する必要があるのだろうか?

良かった点はまずイゾルデの池田香織が素晴らしかったこと。私は以前にも書いた通り、びわ湖オペラの「死の都」のブリギッタを聴いて素晴らしい歌手だと思っていましたが、メゾソプラノでやってきた歌手がどこまでイゾルデを歌えるのか、正直よく分かりませんでした。ですが豊かな中低音域だけでなく、高音域もまったく絶叫することなく音楽的に歌えることにまず驚き、しかも第1幕より第2幕、第2幕より第3幕とどんどん調子が良くなることに心底びっくりしました。正に向かうところ敵なし、といった風でした。
トリスタンの福井敬については、第3幕の前に体調不良の為もしかしたら途中でカバー歌手が歌うかもしれないとのアナウンスがあったものの、瀕死のトリスタンが歌う第3幕には寧ろプラスに働く面もあったようで、結果的になんら支障なく歌い切りました。これも以前このブログで「ダナエの愛」のミダス王が素晴らしかったという話を書きましたが、直情的なヘルデン役に関して日本では右に出るものがないと思います。ディティールがすこし雑に感じるところもありましたが、体調が悪いという印象はまったくありませんでした。
ブランゲーネの山下牧子も素晴らしく、第2幕では主君のためとはいえ取り返しのつかぬことをしでかしたブランゲーネの悲しみが切々と伝わりました。これは脇役としては驚くべきことだと思います。クルヴェナールの友清崇は、第1幕のやや浮ついた歌唱には少々疑問符がついたものの、第3幕はとても良かったと思います。生硬な演技にはちょっと参りましたが。マルケ王の小鉄和広は苦悩する王にしては表現が軽く、第2幕の長いモノローグを私は少し持て余しましたが、第3幕はようやく深々した声が聴けて悪くありませんでした。他の脇役はまずまず。
ヘスス・ロペス=コボスの指揮は深い息遣いを感じさせてよかったと思いますが、ベーム盤で育った世代としてはもっとうねるような官能的な響きがあるんじゃないか、と心のどこかで無いものねだりしてしまう。読響は大健闘だと思いますが、私は東京文化会館の1階席で聴き、これはやはり2階席のほうが良かったかな、とすこし後悔していました。それにしても日本のメジャーオケはことワーグナーに関してはまずハズレなく聴けるというのも、良い時代ではあります。つらつら書いた通り、全体としてはなんとも微妙な舞台でしたが、日が経つにつれてやはり観ておいてよかったと思っています。
(この項終り)

by nekomatalistener | 2016-09-27 00:33 | 演奏会レビュー | Comments(0)

ワーグナー「さまよえるオランダ人」 びわ湖ホールプロデュースオペラ公演

プリッツCMのロシアン、小栗旬に化けてたくせに子猫すぎると家人から不評。





びわ湖ホールで久々のワーグナー。歌手や指揮に若干の不満があって感動とまでは行きませんでしたが、それでも全体としてはなかなかの好演でした。

 2016年3月5日@びわ湖ホール
 ワーグナー さまよえるオランダ人
 
  オランダ人: 青山貴    
  ダーラント: 妻屋秀和   
  ゼンタ: 橋爪ゆか  
  エリック: 福井敬  
  マリー: 小山由美   
  舵手: 清水徹太郎
  合唱: 二期会合唱団・新国立劇場合唱団・藤原歌劇団合唱部
  指揮: 沼尻竜典
  管弦楽: 京都市交響楽団
  演出: ミヒャエル・ハンペ

ダブルキャストで二日公演。もったいない感じがするが、空席の多さをみると興行的にはかなり苦しいのでしょうね。プロモーション次第でもう少しなんとかなるような気もしますが。
私は昨年の二期会の「ダナエの愛」でミダス王を歌った福井敬をもう一度聴きたいと思い、彼がエリックを歌う5日の方を選びました。しかし今回の公演で何よりも驚いたのはミヒャエル・ハンペの演出。
プロジェクション・マッピングを駆使した演出なのだが、この分野での技術の進歩には目を見張るものがありました。一昔前であれば、どうしても舞台のセットと映像の間に段差があったと思うのだが、今やバーチャルとリアルの継ぎ目が殆ど感じられないのですね。帆船の艫に見立てた大道具は超が附くほどリアルに作りこまれており、背景には嵐の海と不気味に流れる黒雲。そこに音もなく物凄い実在感で迫りくるオランダ船。その威圧感というのはちょっと信じがたいほど。だが何より驚愕したのは、第1幕が終わって映像が溶暗したかと思うと、今度はダーラントの家の作業場のような映像になり、艫かと思われたセットに暖色系の照明が当たると一瞬の内に女達が糸を紡ぐ屋内の場面に変わる。その映像の質感や奥行き感というのも凄いけれど、単に人を驚かすだけでなくてまるで17世紀ネーデルラントの写実的な絵画のような美しさと格調が感じられます。このあたりがハンペという人の凄いところで、舞台の隅々までヨーロッパ知識人としての教養が感じられます。CGを使えばどんなに無茶なト書きであっても、何でも出来てしまうので、却って演出とは何かという根源的な問いを禁じ得ないのだが、今回の演出には素直に「さすがはハンペ」と感心しました。
演出に関して附言すると、第1幕の終わりから終幕まで舞台の中央で眠りこけている若い船乗り、もう途中でネタバレしているのだが要はこの船乗りの夢でしたというオチについて賛否両論あるようだ。私は以前にも書いた通り、筋金入りのミソジニストたるワーグナーがとってつけたような「愛の救済」なるものを信じていないので、ノルウェー船の船乗りたちだけが朝焼けの舞台に残るこの「夢オチ」は悪くないと思いました。それに、この芝居の中でリアルな世界は船の上だけというコンセプトは、やけにマッチョなワーグナーの音楽とも違和感がない。
さらに附言すると、今回全幕切れ目なしで一気に演奏したのも、このプロジェクション・マッピングの威力を最大限活用できるからだろう。聴く側からすれば2時間半休憩なしは辛いところだが、場面転換の見事さはやはり見どころではあります。

先に書いた通り、今回のお目当てはエリックを歌った福井敬だったわけですが、声量もずば抜けているし思い切りの良さもあるのだが全体として少し雑な感じがしました。しがない猟師の役だが、単純なようでいて実は小心だったり小狡かったり、もっと陰影のある役なので勢いだけでは御しがたいのでしょうか。これと比べたらミダス王の方がはるかに直情的な役どころではありました。
今回最も優れた歌を聞かせてくれたのはダーラントを歌った妻屋秀和。バス役ならどんな役でも高いクオリティで歌えてしまうので器用貧乏みたいに思える時もあるが、これは声質からいっても天賦の体軀からみても当たり役だと思います。オランダ人の青山貴も悪くはないのだがところどころ音程が甘い感じ。前に新国立で聴いたときの歌手もこんな感じだったので歌いにくい役なのかも知れません。ゼンタの橋爪ゆかは、最初もう少し声量が欲しくてもどかしい感じでしたが後半はいい感じ。吼えずに丁寧に聴かせるところは良いが、もっとグラマラスな声をこの役には期待してしまいます。マリーと舵手についてはしっかりした歌手が脇を固めているなぁという印象。
合唱は新国立劇場・二期会・藤原歌劇団の合同出張ということで大変結構。幽霊船の船乗りの合唱はPAでなく本物(笑)が出てきて歌う。当たり前のことだと思うが最近ではこれが贅沢なんだそうである。この船乗り達は蛸だか烏賊だかの怪物のような恰好なのだが、「パイレーツ・オブ・カリビアン」みたいだなんて言ったらハンペ先生に怒られそう。
沼尻竜典指揮する京響は大変レベルの高い演奏でした。あまり情に流されない彼の指揮は、このマッチョな楽劇には打ってつけ。だが、細かいことをあげつらうようだが第1幕のオランダ人とダーラントの実に下世話な二重唱がト長調で終始すると見せかけていきなりヘ調の属七になり、舵手がSüdwind!Südwind!と叫ぶ場面、ほとんど世界観の断絶といってもよさそうなこの場面で何事もなかったかのように音楽がサクサク進むのはどうなのか。偶々好きな場面なのでこんなことを書くのだけれど、こんな細部の処理が一事が万事で真の感動に至らない要因だとすれば、やはりもったいない話だと思います。もっと感動を!体の震える程の感動を!と思ってしまいます。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2016-03-08 23:09 | 演奏会レビュー | Comments(0)

東京・春・音楽祭 ワーグナー「ニュルンベルクのマイスタージンガー」

今までで一番泣けた本っていやぁ、やっぱり荒木経惟の『チロ愛死』かな(汗)。





「東京・春・音楽祭」の「ニュルンベルクのマイスタージンガー」(演奏会形式)に行って参りました。

  2012年4月7日
  楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」
  ハンス・ザックス: アラン・ヘルド
  ポーグナー: ギュンター・グロイスベック
  べックメッサー: アドリアン・エレート
  コートナー: 甲斐栄次郎
  ヴァルター: クラウス・フロリアン・フォークト
  ダーヴィット: ヨルグ・シュナイダー
  エーヴァ: アンナ・ガブラー
  マグダレーネ: ステラ・グリゴリアン
  指揮: セバスティアン・ヴァイグレ
  管弦楽: NHK交響楽団
  合唱: 東京オペラシンガーズ
  合唱指揮: トーマス・ラング、宮松重紀
  於東京文化会館

これだけの長大な作品を演奏会形式でやるのって、どうなんだろうと、チケット買う時に少し迷ったものですが、歌手が粒ぞろいでしたので、大変感動しました。良かったところは枚挙にいとまがありませんが、中でも第3幕、ヴァルターの夢解きの歌、続くザックスの靴屋の歌からエーヴァの感謝の歌のところなど、そして第2場の、民衆がザックスを讃えて歌う場面等々、恥ずかしながらすっかり涙腺が壊れてしまいました。
今回何より興味があったのは、あのクラウス・フロリアン・フォークトがヴァルターをどう歌うか、ということ。昨年の「ローエングリン」の時、彼の声について私はどうにも好きになれず、「この声がヘルデン・テノール?ちょっと待てよ、と言いたくなる」と書きました(2012年6月14日投稿)。しかし今回のヴァルターに関しては、本当に素晴らしい声だと思いました。実のところ、昨年の「ローエングリン」の時よりも、心なしか声が太くなったようにも思う。それがフォークトの年齢の所為なのか、それとも演奏会形式で舞台よりも声が生々しく聞こえる所為なのか、はたまた得体の知れぬ聖杯の騎士と、同じ騎士でも喜劇に登場する生身の人間たる役柄の違いをフォークトなりに歌い分けた結果なのか、私には判りかねるのだが、たとえ「ローエングリン」の時の、あのビロードのようなピアニッシモが今回聴けなかったとは云え、他に類を見ない美しい声であるのは確かだ。もっとも、彼のヴァルターが完璧無比であった訳ではなくて、「夢解きの歌」などさらさらと流れ過ぎて、もう少したっぷりと歌ってほしいと思わなくもない。思うに、フォークトの声というのは、あまりにも低音から高音まで、どこをとっても輝かしく、ある意味むらが無さ過ぎる結果、ことさらメリハリのない表現に聞こえてしまうのかも知れない。このことは、今後彼の声が更に太くなって行った時、大きな問題となりうる所だろうが、今日のところは瑕というレベルではない。他にも小さな事故がニ、三あったけれど、それらをあげつらうつもりは毛頭ありません。それにしても彼の声を「ヘルデン」と呼ぶのはどうしても納得が行きません。今のところ、舞台では賢明にもリリックな役柄を中心に歌っているようだが、このままもう少し声が太くなればいずれジークムントなども歌うようになると思います。その時まで「ヘルデン」という称号はお預けにしたほうが良いと思うのだが・・・。
フォークトもさることながら、べックメッサーを歌ったアドリアン・エレートには本当に驚かされました。一昨年の新国立劇場の「コジ・ファン・トゥッテ」のグリエルモ、同じく「こうもり」でアイゼンシュタインを歌っていた人ですが、聴く度によくなっているように思います。この滑稽な役回りがこれほど音楽的に歌われることも珍しかろうと思うが、ワーグナー自身はべックメッサーをオペラ・ブッファのように歌うことに強く反対していたというから、これは本当に役柄の本質に迫る素晴らしい歌唱と言ってよいと思います。
ザックスを歌ったアラン・ヘルドは、声もちょっと強面の見た目も役柄に良く合っていますが、音程がややぶれたり、オーケストラと縦の線が合わなかったり、と事故が多かったように思います。もっとも、全体の出来からすれば小さな瑕にしか過ぎないと思います。
エーヴァを歌ったアンナ・ガブラーも一昨年の「こうもり」でロザリンデを歌っていましたが、その時は今一つという感想でした。ですが今回はとても良かったと思います。もっとも、エーヴァ役はどうしても出番が少なくて割を食った感じがします。
ポーグナーと夜警の二役を歌ったギュンター・グロイスベックは素晴らしい美声のバス。プロフォンドでしかも色気のある声。夜警の歌の2回目はどういう訳か精彩を欠いていましたが。
その他脇役ながら、おっちょこちょいの徒弟ダーヴィット役のヨルグ・シュナイダー、パン屋の親方コートナーを歌った甲斐栄次郎も、役柄に寄り添った素晴らしい歌唱。マグダレーネのステラ・グリゴリアンや、その他大勢のマイスター達も過不足なし。
合唱の東京オペラシンガーズについても賛辞を贈りたい。今回の公演、本当にソロ、アンサンブル、合唱といずれも穴がなく、まさに声の饗宴という風に私は聴きました。
指揮のセバスティアン・ヴァイグレについては、そつがないと言うか、あまり特筆すべきところは無かったように思います。N響については、最初の二幕はどうも弱音になると精密だけれど音が痩せてしまうのが難点。第2幕の「ニワトコのモノローグ」の序奏、花の香りが夜のしじまにむせかえるような、密度の濃い弱音を期待していたのだが、弦のトレモロがなんだかきたない音で興醒め。しかし第3幕に至ってようやく完全燃焼といった感じがしました。なんせ長丁場ですから、これは意識的に前半は抑えていたということでしょうか。終わりよければ全てよし、で全体としては大いに満足した訳ですが。
字幕で気になったのは、「ニワトコのモノローグ」で「リラの香り」と訳していたこと。ここでいうニワトコはセイヨウニワトコのことであって、日本のニワトコは似て非なる、というかあまり匂いがよろしくない、ということで敢えて「リラ」と訳したのか?と思って調べてみると、こんな記事が・・・1928年オーストリアで流行った「白いニワトコの花がふたたび咲く頃」という歌が、パリでは「白いリラの花の咲く頃」と歌詞を置き換えて流行し、それが1930年に日本にもたらされてあの宝塚の「スミレの花咲く頃」になったそうな。翻訳はそのあたりの事情も踏まえて訳しているということでしょうか。
演奏会形式ということで、舞台で観るより物足りないかなと思っておりましたが、歌手達が歌いながらちょっとした所作をする、それは目配せ一つ、という場合もあるのだが、それだけで十分にお話の面白さが伝わりました。意外なほど見やすく、退屈する暇もない優れた演奏会であったと思います。以上、興奮醒めやらぬままに備忘を書き記した次第。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2013-04-08 01:14 | 演奏会レビュー | Comments(6)

ワーグナー 「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 カラヤン指揮(その4)

ことしのエイプリル・フール企画ではマンツーマン英会話レアジョブの「ペット向け英語習得レッスン提供開始」
というのが面白かった。

 『対象
  犬 猫 
   ※年齢、犬猫種は問いません
  (中略)
  概要
   講師はフィリピン大学で生物学を専攻している学生および卒業生です。
   また、レッスンは現在、初級コースのみのご提供となり、
   簡単な英単語「one」(ワン)「near」(ニャー) などを学習していただきます。』

個人的には「フィリピン大学」云々と、画像のヘッドフォンの付け方が雑なところに妙な脱力感を覚えるww。
a0240098_22505465.png




今日は「東京・春・音楽祭」の「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の第1日目だが、私は7日の公演を聞く予定。その前に、先日3回に亘ってザックスの「迷いのモノローグ」と「ニワトコのモノローグ」を題材にしてちょっと詳細な分析を試み、それで予習記事は終わりにしようと思っていたのだが、更にどうしてもこれだけは書いておきたい、と思うことがあり、今回の4回目となった次第。
第3幕、ザックスがヴァルターにマイスターの歌の様々な規則を教える場面、ヴァルターが歌う「夢解きの歌」は変則的なバール形式(A-A'-B)に則っているが、そのBの部分(譜例20)。歌詞で言うと、Sei euch vertraut, welch hehres Wunder mir geschehn以下、「愛の動機」の変形によるこの部分は何度聴いても素晴らしいのだが、ここで問題にしたいのは、同じ歌が少し後の場面、一旦部屋に戻ったヴァルターが今度はエーヴァの前に現われ、「夢解きの歌」第3節を歌う、同じBの部分(譜例21)。歌詞はHuldreichstes Bild, dem ich zu nahen mich erkühnt!以下。
(譜例20)
a0240098_2259965.png

(譜例21)
a0240098_23532891.png

a0240098_23534980.png

ここ(譜例21の7小節目)にbの音(シのフラット)が書かれているだけで音楽の色合いが随分かわる。このbの音を聴くと私は胸が締め付けられるような気持ちになる。たった一つの音の有る無しでこんなに音楽の聞こえ方が、否、音楽の意味が異なってくるのだ。例えて言えば、譜例20のほうは、まさにドイツ・ロマン派の音楽。シューベルトやウェーバー、シューマンを経て此処に至る初々しいロマンの香りが凝縮された音楽だが、譜例21のほうは、「後期ロマン派」と呼ぶにふさわしい陰りのある、官能をくすぐる音楽。それはワーグナーの後、マーラーを経てシェーンベルクに真っすぐに続いていく流れであり、その源流は恐らくフランツ・リスト(の1850年代以降の音楽)にあるのだろうというのが私の見立てだが、それはともかく、それぐらいこの「夢解きの歌」の第1・2節と第3節との間には大きな差異があるのだ。
ドラマの進展という意味で、「夢解きの歌」第1節、第2節のロマンティックな音楽と第3節で現われるbの音がどういう意味を持つのか。ザックスの導くままに「夢解きの歌」を歌う第1節、第2節のヴァルターは、まだ自身の中にある芸術の萌芽を完全には開花させていない。第2幕の大混乱を経て、少しは思慮深くなったかも知れないが、基本的には血気にはやる若者のままだ。しかし、ヴァルターが一旦退場し、ザックスとべックメッサーのやりとり、次いでザックスとエーヴァのやり取りが続く間に、明らかにヴァルターは成長している。何かと言えばすぐに剣に手を掛け、駆落ちしてでもエーヴァをものにしようとしていた若者ヴァルターは、わずかの間に、ザックスに敬意を払い、正々堂々と歌合戦に勝ってエーヴァを妻に迎えようとする、真の愛を知る男になった感じが、このbの一音に込められている。一方のエーヴァがザックスに導かれるかたちで、ただの金持ちの我儘娘から愛を知る大人の女へと変貌することは、このシリーズその2の回で譜例10の引用とそれに続く記述で触れた。本当にワーグナーの音楽が素晴らしいと思うのは、テクストだけでなく音楽そのものでこういった心の軌跡(心の成長と言ってもいいが、これはまさにビルドゥングスロマンの本質である)を描くことが出来たからだと思う。ヴァルターの「夢解きの歌」第3節のbを、ワーグナーがそれと意識して書いたかどうかは誰にも判らない。だが、意識的であれ無意識的であれ、その一音の意味するところは注意深い聴き手に間違いなく伝わるはずだ。
それにしても、こんな枝葉の、瑣末なこと、たった一つの音符にこだわって長大なオペラを聴く、ということが果たして「正しい」アプローチなのか、自分でも若干疑問なしとしないところだが、多少の自負を込めて言えば、これが猫またぎ流の聴き方なのだ。
(この項終わり)
by nekomatalistener | 2013-04-04 23:54 | CD・DVD試聴記 | Comments(2)

ワーグナー 「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 カラヤン指揮(その3)

これワロタわ~。
YAHOO!知恵袋より
Q:曲名を教えてください! すごく迫力のあるテンポのはやい曲です!

 「ダン!ダン!|ダン!ダン! |ダッダダーッダダー|ッダダーッダダー|
 アーアア|アアアア|アアアアアア|アアアアーア|アン
 ディレレレディレレレディレレレ|ディレレレディレレレディレレレディレレレ|
 ダン!ドン!ダン!ドン!|ダン!ドン!ダン!ドン!|
 ダッダダーッダダー|ッダダーッダダー|
 アーアア|アアアア|アアアアアア|アアアアーア|アン
 ディレレレディレレレディレレレ|ディレレレディレレレディレレレディレレレ・・・」
 
 よろしくお願いします。
 m(__)m

A:ベルディのレクイエムから「怒りの日」だと思います。





ちょっと脱線から。「マイスタージンガー」第3幕でヴァルターが歌う夢解きの歌の出だし(譜例13)、どこかで聴いた憶えが・・・と思ったらブラームスのヴァイオリン・ソナタの第2番じゃないか(譜例14)。もしかしたら誰でも知ってるネタなのかも知れませんが、これは素直にワーグナーに対するオマージュと見るべきだと思います。でも、そうだとすると、ワーグナーが大嫌いでブラームスを擁護していたハンスリックの立場はどうなるのだろう?
(譜例13)
a0240098_2035922.png

(譜例14)
a0240098_20354616.png


前回の予告通り、今回は第2幕でザックスが歌う「ニワトコのモノローグ」を取り上げます。それにしても私が無粋な人間というのもあるが、この場面で何が判らないかといえば、それは宵闇に漂う「ニワトコのかおり」。正確にいえば「セイヨウニワトコ」なのでしょうが、調べるとどうも「マスカットのような香り」がするそうだ。また、ユダが首をくくった木であるとか、魔法・魔術に関する様々な伝承があるとのこと。こういったヨーロッパの共同体の共有知を持たないというのは、ちょっと日本人としては辛いところ。
まず譜例15、序奏の冒頭6小節だが、最初の2小節、第1幕のヴァルターの歌に現われ、wikipediaによれば「春の促しの動機」などと呼ばれている動機、それに続く32分音符の下降音形で暗示される靴屋の動機、それに続くホルンの2音ずつ4度下がって3度上がり、次に5度下がる非常に特徴的な音形の動機の、3つの要素が現われています。実際、それに続く長いモノローグは、その題材の殆どが(ザックスが回想する)ヴァルターの歌と、後ほど展開される「靴造りの歌」から成り立っており、経済的と言うか、ごく少ない素材から無尽蔵とも思えるような音楽を紡いでいくワーグナーの才能ここに極まれり、といった感じがします。
(譜例15)
a0240098_20385595.png

「トリスタン」以降のワーグナーの楽劇が、その長大さにも関わらず非常に輪郭が掴みやすく思われる秘密は、この動機(ライトモチーフ)による作曲技法にあるのは間違いありませんが、どんなに長大であっても結局ごくわずかの素材の「使い回し」で成り立っているようなものなのに、聴いていて少しも退屈しないというのは、これはもうワーグナーの天賦の才としか言いようがありません。
「春の促しの動機」は全曲の至るところに現われる、この楽劇のもっとも重要な動機ですが、これは早くも前奏曲に現われる「衝動の動機」(譜例16)から直接導かれたものであることは言うまでもありません。
(譜例16)
a0240098_2041483.png

ざっと、ここまでは耳で聴いて引用元がすぐ判るものですが、3つ目のホルンの動機は少し判りにくいように思います。どうも呼び名すら持たないようなこの特徴的な音形、引用元は第1幕のヴァルターの「資格試験の歌」の次の部分でした(譜例17の5小節以降)。この部分のヴァルターの歌の歌詞は春の森の情景を歌うものであり、ニワトコのモノローグにおける、初夏の宵闇のリンデやにわとこの木立に照応しているので、これを「森の動機」と呼んでも差し支えないでしょう(森をホルンで表現するのはドイツ音楽のお約束)。ちなみにこの「資格試験の歌」などと呼ばれるヴァルターの歌は、私が思うに「ヴァルキューレ」第1幕でジークムントの歌う”Winterstürme wichen dem Wonnemond,”(ジークムントの愛の歌)にも匹敵する素晴らしい旋律だと思います。
(譜例17)
a0240098_2043383.png

「ニワトコのモノローグ」におけるこの動機は、本当に美しい、ドイツの初夏の夜を彷彿とさせる音楽なのに、この場面以降、(私の見落としが無ければ)このままの形での展開はされていないようです。しかし、この4度下がって3度上がり、次に5度下がる音形は、前奏曲の次の箇所(譜例18の第3小節目)、あるいは「愛の動機」などと呼ばれる動機(譜例19の第3小節目以降)などとも密接な関係があるに違いありません。
(譜例18)
a0240098_2049362.png

(譜例19)
a0240098_20494892.png

更に言うなら、この「4度下がる」というのは「マイスタージンガー」全体を支えている基本原理となっていて、前奏曲の冒頭から様々な動機、コラールやら乱闘の音楽やらべックメッサーのセレナーデまで、ほとんどありとあらゆる素材に共通して見出されるものとなっています。こじつけ、考え過ぎという勿れ。この原理こそベートーヴェン以降のドイツ音楽(少し乱暴な括り方ですが)に顕著な動機労作thematische Arbeitの根幹をなすものであり、ワーグナーのライトモチーフやその構造も、それを拡大敷衍したものに他ならない、と思います。そして、ワーグナーがこの「4度下がる」という動機の萌芽から長大な全曲を生みだしたのは、おそらく意識的なものであっただろうという気がします。

全曲の中からわずかにザックスの歌う二つのモノローグ、そこに現われた幾つかの動機を取り上げただけで予習終了、という訳ではありませんが、まぁこれぐらいにしておきます。微細な動機やその萌芽がどこにどのように仕込まれているか、ヴォーカルスコアにして400頁にもなる全曲を隈なく探索するのは骨は折れるが実に楽しい作業でした。あとは4月の音楽祭での公演を待つばかり。
前々回に予告したアドルノの『ヴァーグナー試論』の読書レポートについては、稿をかえて取り上げます。
(この項終わり)
by nekomatalistener | 2013-03-20 21:37 | CD・DVD試聴記 | Comments(2)

ワーグナー 「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 カラヤン指揮(その2)

「マイスタージンガー」第2幕、一旦侍女と姿を消したエーヴァが戻ってきたときのヴァルターの台詞、”Doch ja, sie kommt dort?”が、「どっひゃ~」としか聞こえない。もっとも「どっひゃ~あの娘やっぱり来たで~」という意味なのであながち間違いではない(違)。




さて、前回、第3幕の前奏曲と、続くザックスの「迷いのモノローグ」の主要な動機となっている旋律が、第2幕の「靴造りの歌」に由来しているのを見ましたが、第3幕のモノローグ以降の場面で同じ動機がどのように使われているかを検証してみます。
昨夜の乱闘騒ぎを辛くも逃れてザックス邸で一夜を明かしたヴァルターが工房に現われると、何としても彼に歌合戦で優勝してもらいたいザックスは、マイスターの歌の規則を彼に教えます。ザックスに導かれるままにヴァルターが「夢解きの歌」の第1節を歌い終わると、例の動機が現われます(譜例6)。ザックスは中年とはいえまだまだ男ざかり、前の日エーヴァから結婚相手として「男やもめのザックス親方では駄目なの?」などと囁かれたザックスはついその気になるものの、エーヴァがヴァルターに真の愛情を抱いていることを見届け、自分の恋を諦めます。台詞には何もそのようなことは書かれていないが、音楽がそのことを雄弁に語っています。
(譜例6)
a0240098_23443798.png

ヴァルターの素晴らしい歌に心底感動したザックスは第2節目を促し、ヴァルターが歌い終わるとまたしても例の動機が姿を見せます(譜例7)。しかしここでは動機は短縮され、ほのめかす程度に扱われている。
(譜例7)
a0240098_23465454.png

第3節を歌うことを断ったヴァルターに対し、ザックスは決然と「では、言葉はしかるべき場所で行為とともに示しなさい!」と言いますが、動機は殆ど原型をとどめずに決然たる調子にモディファイされています(譜例8)。
(譜例8)
a0240098_23473174.png

その後、ザックスとべックメッサーのやりとりの後、ザックスの工房にエーヴァが現われ、靴の修理にかこつけてヴァルターのことを気にしていると、ヴァルターが歌の第3節を歌いながら登場します。気付かぬふりをして靴を直すザックス。ここで例の動機が一瞬現われたのち(譜例9)、ただちに「靴造りの歌」に変化し、苦い諦念が笑いの世界に溶けていきます。実は私、ここからのザックスの歌は涙なしには聴くことができません。見事な音楽ですが、しかしどちらかといえば芸術的所産というよりは精緻な職人芸の世界という気もします。ただし、それはワーグナーの作曲法を貶めるのではなく、これほどの膨大なスコアが動機というさまざまな縦糸と横糸を撚り合わせたように造られているのは驚異的といってもよい事象ではあります。
(譜例9)
a0240098_23522091.png

感極まったエーヴァがザックスの計らいに感謝して”O Sachs! Mein freund! Du teurer Mann!”(ああ、ザックスさん、大事なお方!)と叫ぶところにも例の動機が潜んでいて、この「迷い」はエーヴァ自身のものでもあったことが判ります(譜例10)。
(譜例10)
a0240098_2352577.png

そこからエーヴァの長いソロが始まりますが、次第に強まる半音階的色彩はエーヴァの精神的成長を物語るかのよう。”Doch nun hat's mich gewählt zu nie gekannter Qual”(しかし、いまの私は思いもよらぬ苦しみを味わわされている身です)に至って、殆ど「トリスタンとイゾルデ」と見紛うばかりに音楽が上り詰めると、ザックスが「ハンス・ザックスは賢明だったから、マルケ王のような仕合せは望まなかったのだよ」と、「トリスタン」の引用にのせて歌います。
なんという音楽!これが喜劇か、と少しばかり空恐ろしくなるほど。その後、場面はいよいよ歌合戦の場へ。群衆に向かってザックスが開式を告げる場面、「あなた方の気持は軽いでしょうが、私の心は重くなります、私のような哀れな者に、あまりの栄誉が与えられますと。」という箇所でまたしても例の動機(譜例11)。
(譜例11)
a0240098_23542525.png

そしていよいよ大詰め、見事勝利とエーヴァとの結婚を勝ち取ったヴァルターを指して、ザックスが群衆に「どうです、私の選んだ証人に間違いはなかったでしょう!」というところにも動機がちょっと現われます(譜例12)。未練がましいといやぁ未練がましい、しかし人間の心理を丁寧に音で追いかければこういうことになるのでしょう。
(譜例12)
a0240098_23551515.png

以上見てきたようなことは、もちろん知らなくたって一向に観賞の妨げにはなりませんが、知っているのと知らないのとではやはり作品の受け取り方が違ってくるように思います。「迷いの動機」ひとつとってもこの調子ですから、正味4時間半の音楽を動機レベルで分析していけばとんでもないことになるのですが、それにしても「マイスタージンガー」に続く「ニーベルングの指輪」に至っては、4夜に亘って繰り広げられる長大な全曲がこのような「動機」の網目として作曲されていて、本当に筆のすさびで書き流したような小節が一つもないとさえ思われます。「トリスタン」にしても「指輪」にしても、うねるような音響の渦に巻き込まれ、忘我の境地を漂うのも一つの「聴き方」ではあると思いますが、一度は知的な分析という過程を経るのも悪いことではないと思います。
「マイスタージンガー」にどれほどの動機が使われているかは、ちょっとネットなどで解説を当たれば判ることですので、次回はあまり言及されていない(と思われる)動機を取り上げながら、有名な「ニワトコのモノローグ」について書いてみたいと思います。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2013-03-18 00:26 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

ワーグナー 「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 カラヤン指揮(その1)

「ニュルンベルクのマイスタージンガー」に何度も出てくる”Fanget an!”(始めよ!)という旋律、ファーンゲターーンというのを参鶏湯(サームゲターーン)と空耳。ほら、もう、そうとしか聞こえなくなったでしょ(悪魔の笑み)。



4月の「東京・春・音楽祭」の目玉はなんといっても「ニュルンベルクのマイスタージンガー」公演。ワーグナー生誕200年に相応しいその公演で特に目を惹くのはヴァルター役をフロリアン・フォークトが歌うこと。昨年の6月に新国立劇場で彼の歌うローエングリンを聴いて、その類稀な才能に驚嘆しながらも、どうしてもその声質が好きになれなかったことは以前このブログにも書きました。にもかかわらず「マイスタージンガー」のチケットを買ったのは、いま間違いなく旬の真っ最中のフォークトをもう一度聴いておきたかったのと、どうして(世間であれほどもてはやされていたのに)私が好きになれなかったのかを分析してみたいと思ったから。

とりあえずフォークトのことは措いといて、ワーグナーの音楽をじっくり予習してみたいと思います。正味4時間半に及ぶ超大作を短期間で隅々まで把握するのはとても無理な話ですから、CDを聴きながら、ことさら耳に残る小さな部分、音楽用語でいうところの「動機(モチーフ)」レベルで、私の心を掴んで放さない些細な部分にこだわって、感じたことを数回に分けて書いてみたいと思います。
同時に、いままでこのブログでワーグナーを取り上げた際に、その物語に見られる謎のようなものについて、色んな思考の補助線を引きながらとりとめもないことを書き連ねてきた訳ですが、今回はそういった素人談義は止めて、最近買ったテオドール・W・アドルノの『ヴァーグナー試論』(高橋順一訳、作品社)を少しずつ読み進めながら、特に「マイスタージンガー」の理解に資するところについて書きとめてみたいと思っています。
今聴いている音源は下記の通り。

   ワーグナー 楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」全曲
   ハンス・ザックス: テオ・アダム(Bs-Br)
   ファイト・ポーグナー: カール・リッダーブッシュ(Bs)
   クンツ・フォーゲルゲザンク: エーベルハルト・ビュヒナー(T)
   ジクストゥス・べックメッサー: ジェレイント・エヴァンス(Br)
   フリッツ・コートナー: ゾルタン・ケレメン(Bs)
   ヴァルター・フォン・シュトルツィング: ルネ・コロ(T)
   ダーヴィット: ペーター・シュライヤー(T)
   エーヴァ: ヘレン・ドナート(Sp)
   マグダレーネ: ルート・ヘッセ(Ms)
   夜警: クルト・モル(Bs)
   ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ドレスデン国立管弦楽団(シュターツカペレ・ドレスデン)
   ドレスデン国立歌劇場合唱団・ライプツィヒ放送合唱団(合唱指揮ホイスト・ノイマン)
   1970年11月24~30日&12月1~」4日ドレスデン聖ルカ教会にて録音
   CD:EMI CLASSICS TOCE11390-93

カラヤンといえば、「アンチ・カラヤン」という言葉があるくらい、嫌いな人は嫌いな訳ですが、この録音に限って言えば本当に歴史的録音といってもよい超弩級の名演という気がします。何より凄いのはシュターツカペレ・ドレスデンの質実剛健という表現がぴったりなその音色。もしカラヤンがベルリン・フィルでこの作品を録音していたならこれほどの成功は納められなかったのでは、と思います。当時共産圏であった東ドイツで、ある意味コマーシャリズムの呪縛から逃れて独自の進化をしたシュターツカペレの魅力は、既に語りつくされているのかもしれませんが、私も賛辞を捧げずにはいられない。その温かみのある、木肌のような手触りの音はもしかしたら現代では既に幾分失われていて、この「マイスタージンガー」の録音に辛うじて往年の素晴らしさを聴くことができるだけなのかも知れません(普段オーケストラをあまり聴かないのでえらそうなことは言えませんが)。カラヤンは敢えてこのオーケストラの音色を磨き上げるのではなく、またスタイリッシュな指揮というよりもドイツの伝統に則した指揮に徹することによって、真にオーセンティックなワーグナーの演奏を作り上げています。
歌手達はもう言うことなし。人間的な魅力に溢れるテオ・アダムのザックスと、天馬空を行くようなルネ・コロのヴァルター、お転婆だった金持ちの娘が物語の進展に合わせて真の愛情に目覚めた女性に変貌していくヘレン・ドナートのエーヴァ、厭らしい敵役でありながらもどこか憎めないエヴァンスのべックメッサー、いずれも素晴らしい。モーツァルトやバッハを端正に歌う歌手、というイメージの強いシュライヤーが、おっちょこちょいの靴屋の徒弟ダーヴィットを楽しそうに、しかも主役を決して食ってしまわないように歌っているのも好ましい。このオペラにはフルネームを与えられた多くの職人達が現われますが、いずれも所を得た歌手ばかりで、けっして上手すぎないのが役柄に見あっていて素晴らしいと思います。合唱も然り。あまり沢山聴いている訳ではないけれど、これはカラヤンの残した夥しい録音の中でも、「ばらの騎士」の旧盤などと並ぶ傑作ではないでしょうか。

カラヤンとシュターツカペレの恐るべき表現の深さという意味で、次の箇所を挙げておきたい。第3幕の前奏曲の、3/2拍子が一小節はさまった直後のフォルテッシモの部分(譜例1)、ワーグナーの膨大なスコアの中でも出色の部分だと思うが、これをカラヤンとシュターツカペレは聴き手の魂を揺さぶるかのように鳴らす。私の貧しい言葉では表現のしようも無いが、もし私が指揮者だとしたら、オーケストラからこんなフォルテッシモを引き出すことが出来たなら死んでもいい、とすら思うだろう。
(譜例1)
a0240098_0392523.png

このホ短調の主和音にCisを重ねた和音で始まる特徴のある音形は、世間では「迷いの動機」などと呼ばれていて、第3幕のザックスの「迷い(迷妄)のモノローグ」に出てくるのだが、実は第2幕にも意義深い登場の仕方をしていることに気付いたのでちょっと拾い上げてみたい。
まず、譜例1の当該箇所の低音だが、Cis-Dis-E-Fis-G-A-Hと上昇する音形。次に第2幕ザックスの「靴造りの歌」の第1節、”Als Eva aus dem Paradies”(エーヴァが楽園から神様に追い出されたとき)の低音(譜例2)を見てみると、E-Fis-G-A-B-C-Dとなっていて、ホ短調(前奏曲)とト短調(靴造りの歌)の違いはあれど同じ音形。これで「迷いのモノローグ」は実はザックスが創世記のエーヴァ(イヴ)にことよせて密かに想いを寄せるエーヴァへの恋心を歌っているということが判る。
(譜例2)
a0240098_11348.png

「靴造りの歌」第2節の同じくだりの歌詞は”O Eva!Eva!Schlimmes Weib”(おお エーヴァ ひどい女よ!)というもの。そして第3節”O Eva!Hör mein' Klageruf.”(おお エーヴァ !わしの嘆きを聞いとくれ!)(譜例3)でついに譜例1の上声部の旋律が現われる(伴奏部の一番上の段)。
(譜例3)
a0240098_2394386.png

これが第3幕の前奏曲冒頭、そしてザックスの「迷いのモノローグ」に変奏されていくのだが、この第2幕の「靴造りの歌」における素材の「仕込み」は周到を極めていて、かなり聴き込まないと判らないように仕組まれている。ザックスの歌を聴いてエーヴァは思わず、”Mich schmerzt das Lied, ich weiß nicht wie!”(なぜだか、あの歌を聞くと心が痛むの!)と歌うが、この台詞に附けられた音楽の内声にも同じ旋律が書き込まれている(譜例4)。
(譜例4)
a0240098_23112483.png

第3幕の前奏曲は、少し後に出てくる「迷いのモノローグ」の素材から作られている、とする解説が多いようだが、ちょっと仔細に調べれば実は第2幕の「靴造りの歌」、もはや若い女の恋愛の対象からは外れてしまった中年男のやるせない歌からの引用であるということがこれで判りました(譜例5は前奏曲の冒頭)。
(譜例5)
a0240098_2321261.png

では、同じ旋律が第3幕、前奏曲と「迷いのモノローグ」以外の部分でどのように使われているか、これがまた分析すればするほど面白いのだがちょっと長くなるので続きは次回に。
(譜例はIMSLPからダウンロードしたマインツのB. Schott's Söhne社の1868年初版のヴォーカルスコアで、ピアノ伴奏の編曲はなんとかの歴史的ピアニスト、カール・タウジヒによるもの。引用した対訳は音楽之友社のオペラ対訳ライブラリーのものを使わせて頂きました)
(この項続く)
by nekomatalistener | 2013-03-14 00:01 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

新国立劇場公演 ワーグナー「タンホイザー」

冬休みに帰省して高2の息子とテレビを観ていた時のこと。「スカルプD」という洗顔フォームのCMで、顔中泡だらけのおっさんが水で洗い流して素顔を現すと、息子が「あっ、すげー!」と言った。「誰?」と訊くと「知らんの?メッシ。」と人を小バカにしたような上から目線の息子。そんなんフツーの大人は知らんがな。・・・・と思って、この話を年明け会社ですると、皆が「え、知らはらへんのですか?フツーは知ってますよ、メッシ。」「いやー、サッカーとかよう知らんけどメッシは知ってますわ、ふふふ。」などと口々に宣う。なんなんや、メッシて。こぎたないおっさんやん。




ワーグナー・イヤーの年明けに相応しく、新国立劇場で「タンホイザー」を観ました。

   2012年1月26日
   タンホイザー: スティー・アナセン
   領主ヘルマン: クリスティン・ジグムンドソン
   ヴォルフラム: ヨッヘン・クプファー
   ヴァルター: 望月哲也
   ビーテロルフ: 小森輝彦
   エリーザベト: ミーガン・ミラー
   ヴェーヌス: エレナ・ツィトコーワ
   牧童: 國光ともこ
   指揮: コンスタンティン・トリンクス
   演出: ハンス=ペーター・レーマン
   合唱: 新国立劇場合唱団(三澤洋史指揮)
   バレエ: 新国立劇場バレエ団
   管弦楽: 東京交響楽団

26日は今回の公演の2回目。まだ他人様のブログなどの公演評は読んでおりませんが、多分主役のスティー・アナセンがぼろくそに書かれるのだろうな、と予想がつきます。カーテンコールでも派手なブーイングが出てましたし。でも、皆がこきおろすと庇いたくなるへそ曲がりな私。確かに風邪で体調も悪かったのでしょう。舞台上なのにげほげほと咳してました。還暦すぎてワーグナーはきついということもあるかも知れません(Stig Fogh Andersenでネット検索したら1950年生れ。それにしてもデンマーク人の発音難しい)。声量という点では、重唱になると声が負けてしまって聞こえなくなる。そもそもヘルデン・テノールという声質ではない。ではつまらなかったのか、と問われたら断然ノーである。実に面白いタンホイザーだったと言いたい。
だいたいこのタンホイザーという役柄、ヘルデン・テノールが歌うと優柔不断で何を考えているのか判らない役になりがちだと思うのだが、アナセンが歌うとなぜかものすごく人間として共感できるような気がします。第2幕の歌合戦の場、ヴェーヌスベルクでの背徳の悦びを口にしたせいで騎士たちに責めたてられる場面で、同じような構図をどこかで見たような気がして思わずアッと思ったのだが、これはまさに「ローエングリン」のフリードリッヒと他の人物たちと相似形ではないか。あのオペラでは唯一フリードリッヒだけが人間らしい感情を持ち、論理的思考が出来ているのに対し、ローエングリンもエルザも王も、皆どこかしら異様な宗教的狂気にとり憑かれているように私には思われたのでしたが、「タンホイザー」では彼だけが愛と肉欲を切り離せられない世俗の存在であって、ヘルマンもエリーザベトも他の騎士たちも、宗教を持たない私にはなんと遠い存在だろうと思いました(ヴェーヌスは、あれはそもそも神々の一員ですから除外)。アナセンのかわりにヘルデンらしいヘルデンがもし歌っていれば、こんな事には決して気が付かなかったでしょう。それにしても彼の声をどう評したらよいのだろう、なんというか「癖になる」声ですね。ついでに彼のHP
http://www.stigandersen.com/
を見たら、ワーグナーのテノール役がキャリアの大半を占めているなかに「サロメ」のヘロデをレパートリーにしていることを発見。この人、(風邪ひいてなくて体調万全の時はどうか知らないが)英雄的な役よりヘロデのようなスケベというか変態というか、ちょっと性格的な役のほうが向いているかも知れません。でも、誤解のないように繰り返すが、私には実に面白いタンホイザーでした。こんなのが最初に刷り込まれると、声のでかいだけのテノールで聴いたらバカに聞えるかも知れません。
もう少しアナセンについて。この人、なかなか芝居も巧くて、突っ立ってるだけの歌手とはひと味もふた味も違う。歌合戦が始まると、ヴォルフラム達は威風堂々と広間に現われるのに、彼は上着のボタン留めながら落ち着きなく出てきます。歌の順番を決めるときも、他の騎士たちが歌っている間もとにかく「態度悪い(笑)」。この場面も何か既視感があるなぁと思ってましたがアレですな。ほら、高校とかで、童貞集団が猥談している時に、一人筆おろし済ませたヤツが「アホやのう」と横で聞いているのだが、余りにもくだらない議論に辛抱たまらず「お前ら知らんやろけどな・・・」と武勇伝を語りだす、アレです。オペラ・ファンの皆様の顰蹙覚悟ですが、そう考えるとこの場面のタンホイザーの奇矯な行動が理解しやすくなる。バカなことを、とお思いの方もおられるでしょうが、このような「世俗の」タンホイザーだからこそ、第1幕のヴェーヌス(性愛の神)とタンホイザー(世俗の人間)の対比がドラマとして非常に明確になっていたと思います。

他の歌手ではヴェーヌスを歌ったツィトコーワが非常に良かったと思います。でかい声を出そうと思えばいくらでも出そうな人だが、第1幕のアナセンとの二重唱は声量のバランスもよく、それでいて物足りないところもなく、これは彼女の知性のなせる技のようにも思います。もっと妖艶な歌い方もあるかも知れませんが、それは無い物ねだりというもの。エリーザベトのミラーは、ヴィブラートの振幅が大きく好き嫌いが分かれそうな声でしたが、耳が慣れるとそれなりに聴けます。ところどころ音程の微妙なところがあって、第3幕のアリアは感動するところまでいきませんでしたが。方伯(領主)ヘルマンのジグムンドソンはいかにもワーグナー歌いといったバスで安心して聞けます。ヴォルフラムのクプファーも良いが、エリーザベトと同じく、あの「夕星の歌」でも感動まではどうしても行かないのが不思議。どこがどう、と悪いところはないのだが。ちなみに長身でバリトンにしてはスリムなクプファーと、背が低くずんぐりしたアナセンが並ぶと、アナセンが御者とか下男みたいに見えるのが気の毒でした(写真だけ見たら「リゴレット」かと思いそうww)。
新国立劇場合唱団の素晴らしさは毎度のことですが、歌合戦の場など貴婦人たちがいろいろと控えめな芝居をしているのが好ましく感じました(「あら、奥様、いやだわ・・・」「まぁあなたったら、お好きなんじゃなくって?ホホホ」みたいな感じ)。
レーマンの演出はごく伝統的、というか常識的なものでした。第3幕、去ろうとするエリーザベトにヴォルフラムが「お伴をしてはいけませんか」と尋ね、彼女が拒否する場面では、エリーザベトが暫らくヴォルフラムを見つめた後、顔をベールで隠してしまうという演出で、胸を突かれました。装置は美しく適度に抽象的で、照明ひとつでヴェーヌスの神殿の氷のような柱にも、ヴァルトブルク城の広間の豪奢な円柱にもなり、裏返せば十字架が現われて教会を示す、といった仕組み。ただ、ヴェーヌスとタンホイザーの寝室はちょっと安っぽくてラブホテルみたい。これは見なかったことにしよう。
第1幕冒頭のニンフやサテュロス達のバレエは官能のカの字もないお子様仕様につき論評不可。別に卑猥な所作をする必要はないが、もうちょっとエロティックな表現がないと、ここにバレエを置く意味がないではないか。
今回の公演はドレスデン版でもパリ版でもなく、折衷的なウィーン版とのこと。私が予習していたハイティンクのCD(ドレスデン版)と比べるとヴェーヌスベルクの場と第2幕の終結がかなり違う。上演を重ねる度に、より官能的な音楽を書こうとして苦心した結果でしょうが、「トリスタンとイゾルデ」の奇蹟的なほどのエロティックな音楽と比べると何とも中途半端な感じがしました。トリンクスの指揮もオーケストラも悪くはないどころか、(私は2階左側の席で聴いていたが)ずっしりとした音圧のある立派な演奏でした(第1幕後半舞台裏から聞こえる狩猟のバンダはスカスカでしたが)。でもやはり感動とは程遠く、音楽が腹に入らないままするすると流れて行く感じ。これはワーグナーの音楽そのものにも原因があると思いますが、私が本当に優れた演奏を知らないだけかも知れません。
by nekomatalistener | 2013-01-27 10:39 | 演奏会レビュー | Comments(4)