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新国立劇場公演 ドヴォルザーク 「ルサルカ」

会社の親睦会なんかでビンゴゲームやると必ず神様のいたずらみたいな事が起こる(例えば不倫の噂のあるおじさんにお二人様箱根一泊券が当たったりの類)。去年のビンゴでは職場で一番体格のふくよかな女性にヘルシオ(スチームで余分な油をおとす電子レンジみたいなやつね)があたった。口の悪い連中がすかさず「お前が入れ~」とか言い出す。なんというか、神の悪意を感じるなぁ。




新国立劇場に「ルサルカ」を観に行ってきました。

 2011年12月3日(土)
 指揮:ヤロスラフ・キズリンク
 演出:ポール・カラン
 ルサルカ:オルガ・グリャコヴァ
 王子:ペーター・ベルガー
 外国の公女:ブリギッテ・ピンター
 イェジババ:ビルギット・レンメルト
 水の精:ミッシャ・シェロミアンスキー
 森番:井ノ上了吏
 皿洗い:加納悦子
 第一の森の精:安藤赴美子
 第二の森の精:池田香織
 第三の森の精:清水華澄
 狩人:照屋睦
 東京フィルハーモニー交響楽団

一言で言うと、とても素敵な舞台でした。以前ヴァーツラフ・ノイマン指揮の「ルサルカ」について投稿した際にも書きましたが、この歳になるまで殆どドヴォルザークに興味を持ったことが無かったので、よもやドヴォルザークを聴いて感動するなんて思いもしませんでしたが、舞台で観ると本当に良い音楽ですね。
まずはポール・カランの演出から。音楽の本質に合わせて全幕を少女が読んでいるお伽話の枠組みに入れた着想が秀逸です。けっこう長い序曲の間、舞台は月の明るい夜の少女の寝室。両親にもう寝なさいと促されますが、寝付けない少女が姿見の前に立つとそこには別の少女の姿が。序曲が終わるとセットが沈んで水底の場面に転換。寄宿舎のような広間に沢山のベッドが並んでいて、まるで修学旅行の枕投げの様相で水の精の娘達が大騒ぎしているという設定。音楽だけ聴いていた時は「子供っぽい」とか「泥臭い」とか散々ケチを付けた音楽も、こうやって舞台で見せられると実に面白い。魔法使いイェジババは、まず大きな月の中に姿が浮かび上がり、地に降りてきた月から現れます。人間になって王子と結ばれたいというルサルカの決意が固いと見てとったイェジババが、呪文を唱えながら秘薬を調合する場面、ドールハウスのような小さな家から、つぎつぎと動物やバレリーナや鉛の兵隊などが飛び出し、バレエを踊ります。ちょうどチャイコフスキーのくるみ割り人形のような演出。大道具は、少女の寝室以外は木々が描かれた書き割りのみ。それが照明ひとつで水底の世界と森と王宮の広間に次々と姿を変えていき、しかもどの場面もチープでなく本当に美しいものでした。このプロダクションはノルウェー国立オペラ・バレエのものを持ちこんだとの事ですが、予算縮減で新国立劇場も大変な時代に、演出家の工夫次第で簡素な大道具でもこういった素晴らしい舞台が可能なのだという意味で大変示唆に富む舞台なのではないでしょうか。第2幕のポロネーズの場面では、祝賀の客達がルサルカを無視し、あるいはあからさまに避ける様子が様式化されて描かれ、観ていて図らずも胸が痛みました。外国の公女(ノイマンのCDには「侯爵夫人」となっていたけど・・・?)のルサルカに対する苛めも酷いけれど、王子を離すまいとするルサルカの自己主張もなかなかのもの。美しいけれど宮廷のcourtesyというか、振舞い方を知らないルサルカが周囲との間に引き起こす軋轢がよく表現されています。優柔不断な王子が公女に捨てられると、王子の周りに不気味な水底の怪物達がやってきて、王子を虜にしていまいます。お伽話の本質的な怖さ、残酷さを感じます。終幕、ルサルカに許しを求めようと王子が森の水辺にやってきますが、ルサルカが王子にキスをすれば王子は死んでしまう、というのが原作の設定。しかし王子は死なずにルサルカが去ると夢から醒めたように、また王宮に戻っていきます。一人残されたルサルカが最後のアリアを歌い終わると、舞台には最初の少女の寝室がせりあがり、少女が童話を読み終わる、という設定(あのドールハウスもサイズダウンして鎮座してました)。以前にも書いた通り、このオペラの音楽にはエロスの要素が決定的に欠けている、というのが私の見立てですが、この演出はその音楽的な欠点、とまでは言わないけれど、その音楽的側面を逆手にとって、しかもお伽話の残酷さに許しと救済の要素を盛り込んで、実に説得力のある舞台に仕立てていました。
タイトルロールのオルガ・クリャコヴァについては、以前「蝶々夫人」の素晴らしい舞台を観て、こちらの期待が大きすぎたせいか、やや精彩を欠いているように思いました。声量はずば抜けているのですが、チェコ語のデクラメーションに対する不慣れなのか、どうも声量の豊かさがニュアンス豊かな表現に繋がらない。あの「月に寄せる歌」も、なんとなく神経が集中せず、気が逸れている内に終わってしまい、残念な思いをしました。別の日に観た友人は「肉感的すぎてこの役にはミスマッチ」と言ってましたがその通りなんだろうと思います。プッチーニであればその肉感的な声質がぴったりなんでしょうが、このお伽話に必要な非日常性、無垢な処女性のようなものは感じられませんでした。それでも水準以上の歌唱だとは思いますし、カーテンコールでも盛大な拍手を受けていましたが、これが別の歌手ならもっと違った感動があったようにも思います。
王子役のペーター・ベルガーは適役です。テノール・リリコの役柄ですが、少しドラマティコの要素も持ち合わせていてほしい、という聴き手の無い物ねだりを満足させてくれるには打ってつけの声質です。第1幕の登場の場面、第2幕の公女との二重唱など大変聴きごたえがありましたが、惜しむらくは第3幕、ちょっとスタミナ切れなのか低音が苦しそうでした。解説によればピンカートンや「椿姫」のアルフレード、「エフゲニー・オネーギン」のレンスキーあたりが持ち役とのこと、なるほどね~。舞台映えするイケメンなので、マスネなんか歌ってくれたらまた聴いてみたいと思いました。
外国の公女を歌ったブリギッテ・ピンターは優れた歌手だと思いました。最近はエレクトラやブリュンヒルデを歌っているとのこと。この人の名前はしっかり憶えておきましょう。
イェジババ役のビルギット・レンメルト、水の精のミッシャ・シェロミアンスキーも過不足ない歌唱、後者はもう少し声量とプロフォンドな表現が欲しかったですが。
脇を固める日本人勢も各々立派でした。特に狩人と3人の森の精。森番と皿洗いは随分長い歌が当てがわれていますが、ちょっとブッファ的な歌い方に傾き過ぎていたような気がします。もう少し楽譜に忠実に歌った方がこのオペラには合っていると思います(個人的な意見ですが)。これら脇役の場面は、原曲では繰り返しが多くて些かダレるところですが、この日の演奏では繰り返しに若干のカットが施されていて、妥当な処置だろうと思いました。
ヤロスラフ・キズリンク指揮の東フィル、全体に粘らずサクサクと進んでいきますが、おかげであまりワーグナーやチャイコフスキーのエピゴーネン的な側面は目立たず気になりません。ドヴォルザークの音楽の本質をよく理解させてくれる演奏であったと思います。もっと重厚な、それこそ「ジークフリート」の二番煎じみたいな表現もあると思いますが、今回の演奏はドヴォルザークの身の丈に合ったものではないでしょうか。今までドヴォルザークの音楽にシンパシーを殆ど感じてこなかった私ですが、今回の舞台は色々と物足りないところもあるとは言え、とても感銘を受けて、雨の上がった初台を後にしたのでした。
by nekomatalistener | 2011-12-04 22:30 | 演奏会レビュー | Comments(0)

ドヴォルザーク 「ルサルカ」 ノイマン/チェコ・フィルハーモニー管弦楽団(その4)

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さて第2幕ですが、ここが一番このオペラの中で様式の混乱を呈しているところだと思います。殆ど全編チャイコフスキー風の音楽で書かれており、時折登場する水の精だけがかろうじて第一幕のワーグナー風の世界をひきずっています。
好意的に解釈すれば、この二幕はもののけの世界ではなく人間(王子・侯爵夫人・森番・皿洗い)の世界を描いているから様式も違うのだ、と言えなくもありませんが、ルサルカまでが一幕とは同じ人物と思えないほど異なった楽想を与えられています。やはり、様式というものに対するドヴォルザークの無自覚性、無頓着さというべきでしょう。

Allegro giusto へ長調の軽快な音楽に乗って森番と皿洗いの歌が歌われます。なんとも素朴過ぎて却って居心地の悪い感じです。変ロ短調Larghettoの森番のアリオーゾ U nás v lesích straší はどことなくチャイコフスキーのメランコリーが感じられます。甘い甘い変イ長調の前奏に乗って王子登場。この甘さは砂糖の塊みたいなウィーンのお菓子の甘さみたいです(私は決して嫌いじゃないけど)。喩えて言えばレハールのオペレッタの甘さ。続く変イ長調Andante の王子のアリア Již týden dlíš mi po boku は流麗な、これもチャイコフスキー流のもので甘く美しい旋律ですが、あまり言葉に寄り添って書かれている感じはしません。旋律が上滑りしていくような物足りなさを覚えます。
テンポを落として侯爵夫人との対話。イ短調Vivace の王子のアリオーゾ Ach, výčitka to vĕru včasná も心にすり寄ってくるような甘い旋律。聴いていると脳がとろけて、ちょっと痴呆状態になりそう(こういうのも嫌いじゃない)。
Moderato maestoso で突然ポロネーズの一節が鳴り渡り、侯爵夫人のレチタティーヴォの後、今まで現れた様々なライトモチーフが回想されます。変ホ長調のファンファーレに続いて舞踏会のポロネーズが始まります(この辺りの展開、殆どチャイコフスキーの「エフゲニー・オネーギン」のパクリ)。オーケストラのアンコールピースにも使えそうな派手な曲ですが、ムソルグスキーの「ボリス・ゴドゥノフ」にしてもチャイコフスキーの「エフゲニー・オネーギン」にしても、なぜ舞踏会というとポロネーズなのか?田舎貴族にはポロネーズ、という決まり事でもあるんでしょうか?
水の精が現れ第一幕の音楽を回想した後、アリア Celý svĕt nedá ti, nedá (ホ短調Moderato)を歌います。短い間奏は感傷的でドヴォルザーク好きならメロメロになりそうですが、アリアそのものはあまりチェコ語の抑揚とは関係なく書かれています。ロ長調の舞踏会のゲストの合唱も同様。やがてルサルカが現れ水の精との対話が始まりますが、第一幕と違ってワーグナーの影は薄められています。ト短調Allegro appassionato のルサルカのアリア Ó marno, marno, marno to je はカバレッタ風のもの。チャイコフスキーがイタリアオペラのパロディを書いたらこんな風になるのでは、と思わせます。
再び侯爵夫人と王子が現れ、ルサルカの姿が見えないのをいいことに今度はあからさまに愛を語り始めます。フォルテッシモのイ長調の和音で絶頂に上り詰めますが、突然現れたルサルカに王子は死ぬほど驚き(と、ト書きに書かれている)、Fisの減7の和音が鳴り響きます。このあたりの凡庸さ、ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」の、愛の二重唱の頂点でマルケ王に踏み込まれた時のあの身の毛もよだつカタストロフを知る者には、まるでぬるま湯のように聞こえます。ワーグナーから一体何を学んだのかと、こっちが驚いてしまいます。エピゴーネンの悲しさ。この後、水の精の嘆き、王子の懇願、冷酷な侯爵夫人の一声とともに畳みかけるように幕が降ります。

私はなんとアンビヴァレントな記述を長々としているのでしょうか。嫌なら聴かなきゃいいのに、という声も聞こえてきそうです。結局私はこのチープな、しかし絡め取られそうな甘さに今全身で抗っているのでしょうか。好き、でも嫌い。愛の反対語は憎しみではなく無関心、というのはマザー・テレサの言葉だそうですが、その意味では、私はドヴォルザークの凡庸さを憎んでも無関心ではいられないのでしょうね。

ワーグナー風の第1幕、チャイコフスキー風第2幕に比べると、第3幕はドヴォルザークの地が比較的素直に出ていると言えそうです。泥臭いけれどもある種の魅力に溢れています。今まで世間でなぜこれほどドヴォルザークが好まれるのかよく分かりませんでしたが、今は少し分かるような気がしています。
第3幕は調性のはっきりしないAllegroの前奏曲から始まります。ルサルカが登場し、レチタティーヴォが続いた後、へ長調Larghettoのたゆたうような美しいアリア Mladosti své pozbavena を歌います。「たゆたう」ように聞こえるのも当然、F-durからf-moll・As-dur・as-moll・Ces-dur・h-moll・cis-moll・Des-dur・cis-moll・as-mollと転調に転調を重ねてようやくF-durに戻ります。
続いてホ短調Allegro moderatoイェジババとルサルカの対話。民謡調あり葬送行進曲ありと、様々に曲想を変えながら二人の緊迫した対話が続きます。ルサルカのアリオーゾも美しく、誰のまねでもない素晴らしい音楽が聴かれます。
ハ長調Moderatoに転じて水底の精たちの合唱。単純極まりない始まり方をしながらハ短調になってからは泥臭さと紙一重の凄愴な美しさを湛えています。Allegro moltoで森番と皿洗い、イェジババの民謡調の対話。洗練とは程遠い楽想に正直かなわんなぁと思ってしまう。
ホ長調Larghettoでしばらく森の精たちの民謡調の歌が続きます。「千と千尋の神隠し」みたいな懐かしい感じの部分もあって悪くはないけれど、結構長くて行進曲を経てハ長調の狂騒に至ってはさすがにげんなり。
水の精の嘆きの後、Allegro con fuocoで王子が登場。ヘ短調の王子のアリア Ode dne ke dni touhou štván は一言で言うなら「ダサカッコイイ」という感じ。だんだんと泥臭さが美点に感じてきます。
変ホ長調のハープのカデンツァをきっかけにルサルカ登場、王子との最後の二重唱が始まります。ルサルカのアリオーゾも死を決心した王子の歌も本当に美しく感動的なのですが、なんというかエロス的要素が全く感じられないのですね。よくもまぁこんなに次から次へと美しい旋律が湧いて出てくるものだと感心しますが、このエロスの欠如が真の感動を妨げているような感じがします。
王子の歌の最期にDesの和音とGの和音が交互に二回ずつ鳴らされます。あの「新世界より」でお馴染みの和声進行。思わず遠くを見てしまうような、懐かしさに溢れた和声。
王子の死、水の精の嘆き。ルサルカが王子の魂を祝福し、変二長調で静かに幕が降ります。

私はこのオペラが本当に好きなんだろうか、と自問しつつもう何回聴いたことでしょう。完結した芸術作品としては瑕だらけであっても、どこかに真実が潜んでいるような作品を私は愛して已まないはずではなかったか?でも何かが「好き」と言うのを阻んでいます。ドヴォルザークを例えばムソルグスキーと比べてみると、前者は生まれるのが遅すぎた秀才、後者は生まれるのが早すぎた天才、と(むごいようですが)はっきりと違いが分かります。作曲のスキルという意味ではドヴォルザークの方が多分数倍優っていますが、後者の天才はどんなに稚拙なスコアからも隠れようがありません。ですが、気まぐれなミューズは、そんなドヴォルザークのスコアにも降り立ち、幾つかの頁に小さい花を咲かせ、「月に寄せる歌」には思いの外大きな花を咲かせました。もうこれは理論や分析では解明できないことだと思わざるを得ません。
本当は全3幕の音楽のアウトラインをなぞりながら、もう少し言葉と音楽の問題について掘り下げてみるつもりでしたが、ちょっと力尽きてしまいました。この項はとりあえず終わりとし、12月のオルガ・グリャコヴァの公演を楽しみにしたいと思います。
by nekomatalistener | 2011-10-01 16:25 | CD・DVD試聴記 | Comments(2)

ドヴォルザーク 「ルサルカ」 ノイマン/チェコ・フィルハーモニー管弦楽団(その3)

「大魔神怒る」を「だいまじんおこる」と読むとなぜか脱力する。




今回と次回、全3幕の音楽を一通りなぞりながら、もう少し「ルサルカ」を構成する音楽的要素について考えてみます。
第1幕。序曲Andante sostenuto(ハ短調)は和声の半音階的な移ろいが美しい名曲だと思います。ここには彼がこれまで学んできたドイツ流の手堅いオーケストレーションと、独特と言ってよい抒情が結合されています。変ホ長調に転調すると、ホルンとイングリッシュホルンによる狩人の歌が現れます。ワーグナー風の森の情景描写、鳥の声、円熟した書法ですが、ボヘミアの森から何時の間にかドイツの森に来たような気がするのがご愛敬。
イ短調Allegro moltoの導入の後、イ長調に転じて森の精と木霊の合唱が始まります。イ短調の間奏はドヴォルザーク独特の泥臭いもので、太鼓にシンバル、トライアングルも入って派手に繰り広げられますが、交響曲の一節なら恥ずかしくていたたまれないような音楽も、オペラであれば辟易はするがなんとか我慢できるというもの。合唱と間奏が繰り返され、嬰ハ長調に転じた後、もう一度合唱と間奏。全体に後期ロマン派というにはあまりに素朴でおとぎ話的というよりは子供っぽい感じがします。
次いでへ長調に転調し、水の精登場。ここからしばらく森の精との対話が続きます。変ホ長調のハープのカデンツァと共にルサルカが登場し、転調の多いワーグナー風の水の精とのやりとりの後、へ長調Moderato ma un poco più mosso のルサルカの美しいアリオーゾ Sem často příchází a v objetí mé stoupá。ここにはワーグナーの影はなく、これが真正なドヴォルザークの持ち味ではないかと思わせられます。さらに水の精とのやり取りの後、変ト長調の例の月に寄せる歌、水の精の嘆き、ルサルカの魔法使いイェジババへの呼びかけと続いていきます。
イェジババ登場の後のルサルカとの対話はまたもやワーグナー風の調性の不安定なものですが、嬰へ短調AndanteのルサルカのアリオーゾStaletá moudrost tvá všechno ví は音楽と言葉が一体となって、オリジナリティに裏打ちされた感動的な頁で素晴らしい。それに続くルサルカのレチタティーヴォ風のRusalky za noci hrozbou svou strašíš も素晴らしい。このような朗唱風の部分だけで全曲が構成されていたとしたら、このオペラ、20世紀の偉大な作品達の先駆的存在、例えばドビュッシーの「ペレアスとメリザンド」のような存在になり得ていたのではないかとさえ思わせられます。それがあっという間に終わってしまうのがなんとも惜しいのですが。
イェジババとの対話の後、二短調の間奏となりますが、序曲冒頭の旋律が若干モディファイされると、マーラーの6番交響曲の一節が突如鳴りだしたような錯覚を覚えます。いや、これ錯覚ではなくマーラが引用したのではないのか?ドヴォルザークが1904年5月に死んだ正にその年の夏に、この「悲劇的」というタイトルの付いた交響曲が書かれています。偶然というには符徴が合いすぎますね。
この間奏の後、イェジババの呪文の歌Čury mury fuk(Allegro vivo ロ短調)が歌われます。前半は子供っぽくてあまり面白いとも思いませんが、後半のレントラーは狩のホルンが遠くで鳴り響き、まるでマーラーの「子供の不思議な角笛」を思わせます。ルサルカを書いていた1900年当時、ドヴォルザークは1886年作曲の「角笛」を知っていたのでしょうか?マーラーがルサルカの存在を知っていたのははっきりしているようですが。引用したりされたり、が本当であれば実に興味深い話です。
水の精の嘆きが繰り返された後、Andante変ホ長調の狩人の歌、Meno mossoの王子の口上。二長調Andante con moto の王子のアリアVidino divná, přesladká から独自の抒情の世界に入っていきます。水の精の娘たちの叫び、水の精の嘆き、そして最後変イ長調Andante sostenutoで王子のアリアVím, že jsi kouzlo, které mine、もはや誰のエピゴーネンでもない、ドヴォルザークの真実の音楽が高らかに歌われ、幕を閉じます。

結論めいた事を書くと、全曲の中でもこの第1幕がもっとも音楽として充実しているように思いますが、いままで詳細に見てきたとおり、ここにはワーグナーの顕著な影響、メルヘンオペラとしても些か素朴すぎる音楽、仮説レベルではありますがマーラーの角笛の遠いこだま、かつてのトレードマークであった泥臭い旋律、そして私が円熟期のドヴォルザークの本当にオーセンティックな音楽と考えているもの、これらの様々な要素が今一つ溶け合わずに並置されているような感じがします。私はルサルカを聞き始めた当初、この様式の不統一感はこの作品の弱点であって、一言でいえば「惜しい作品」だと思いましたが、何度も聴いているうちにこれはこれでひとつの魅力ではないか、と思うようになってきています。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2011-09-29 23:39 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

ドヴォルザーク 「ルサルカ」 ノイマン/チェコ・フィルハーモニー管弦楽団(その2)

会社の友人と電車の中で生体肝移植について議論する。
友「肝移植ってさあ、血液型違っても出来んの?」
私「うーん・・・血抜きとかしたら出来んじゃないの?」
友「そっか、肝臓だしな~」
けっこう真面目に議論していたのだが隣の客が笑いだした。



このルサルカというオペラ、1900年の作曲ですから、ドヴォルザークの一般によく知られている作品(交響曲やチェロ協奏曲、弦楽四重奏曲「アメリカ」等々)は既に数年前に完成されており、晩年の円熟期を迎えていたと言えそうです。一方で1900年という年を考えた場合、1904年にヤナーチェクがモラヴィア方言で書いた「イェヌーファ」が初演され、1911年にはバルトークがハンガリー語で「青髭公の城」を書いたことを知識として知っている現代人から見れば、ルサルカには二つの限界を感じざるを得ません。
一つは題材の問題。
お話の骨格は淡水版人魚姫。他愛もない童話ですが、料理次第でいくらでも大人向けに出来そうなものなのに、水の精だの魔法使いだのの歌が延々と続く割に、王子様との場面はあっさりしていてエロティックな要素はほぼ皆無。別に「青髭公の城」の晦渋だが強烈なエロス、みたいなものは求めませんが、「トリスタンとイゾルデ」後に、子供向けという訳でもないのにこの無毒ぶりは何なんでしょう。
もうひとつは、言葉と音楽の関係について、やはり自覚的であったと言うにはいささか中途半端であることです。前回に書いたとおり、チェコ語の抑揚を慈しむように書かれた頁があることは確かだと思うのですが、本来言語の音韻構造が異なれば、音楽の拍節の構造も全く異なってしかるべきでしょう。ですが、ルサルカにおいては、第1幕で支配的なワーグナー風の楽想、第2幕におけるチャイコフスキー風の楽想が、チェコ語の抑揚を生かしきる邪魔立てをしているように思われます。別にドヴォルザークの責任という訳ではありませんが、20世紀に活躍した天才達の先駆者とはちょっと呼べそうにないのは、少し残念な感じがします。

もう少し「月に寄せる歌」にこだわってみます。まず例によって歌詞と対訳(www.opera-guide.ch/の英訳からの拙訳)を掲げておきます。

 Měsíčku na nebi hlubokém,
 světlo tvé daleko vidí,
 po světě bloudíš širokém,
 díváš se v příbytky lidí.
 Měsíčku, postůj chvíli,
 řekni mi, kde je můj milý!
 Řekni mu, stříbrný mĕsíčku,
 mé že jej objímá rámĕ,
 aby si alespoň chviličku
 vzpomenul ve snĕní na mĕ.
 Zasvĕt' mu do daleka,
 řekni mu kdo tu naň čeká!
 O mnĕ-li, duše lidská sní,
 at'se tou vzpomínkou vzbudí;
 Měsíčku, nezhasni, nezhasni!

 おお、空の奥深く、高く昇った月よ、
 お前の光は遠くの国々を照らし、
 家々を覗き込みながら、
 この広い世界を巡っている。
 おお、月よ、じっとしていておくれ、
 あのお方はどこか教えておくれ。
 銀色の月よ、お伝えしておくれ、
 私はあなたを抱きしめましょう、
 たとえ束の間でもよいから、
 夢で私を思い出してくださるように、と。
 あのお方の遠いお城を照らし、
 私はここにいるとお伝えしておくれ。
 もし夢で私をご覧になっているなら、
 目覚めた後も憶えていてくださるように。
 おお、月よ、消えないで、消えないで!

音韻構造だのなんだの御託を並べましたが、私はチェコ語についての知識が全くありません。なのに何を大それた事を、と仰る方がおられるかも知れません。ですが、ドイツ語との違いなら比べてみればすぐに判ります。幸い、ルサルカの出版譜の声のパートにはチェコ語とドイツ語の両方が歌詞として書きこまれています。言語によって旋律を変えざるを得ない場合は、音符の旗が上向きに付いているのがチェコ語、下向きに付いているのがドイツ語に割り当てられています(ドイツ語用の音符は恐らく他人の手によるものでしょうが)。
IMSLPからダウンロードした楽譜はコピーガードされていますので、言語別に分けて再構成した楽譜を表示します(この楽譜はMuseScoreという無料ソフトで作成したものを圧縮してpngファイルにしたものですが、慣れないので数時間も掛ってしまいました・・・笑)。
まずはチェコ語バージョン。
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お次はドイツ語バージョン。
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「月に寄せる歌」の出だしの部分ですが、わずかな差でも両者で随分と印象が異なります。最初の小節、チェコ語のほうは八分音符3個に対しドイツ語は附点付き。チェコ語のほうは長母音の-sí-に、そっとアクセント記号が付けられています。第7小節、チェコ語はvi-が短母音で-díが長母音ですので、前詰めの音形ですが、ドイツ語では第2音節は2拍目の八分音符に乗せられています。15小節目も同じく、チェコ語ではli-が短母音、-díが長母音ですので前詰の逆附点ですが、ドイツ語では八分音符2個。概してこのアリアではチェコ語の抑揚が比較的素直に音楽に反映されています。「月に寄せる歌」の創作の秘密、ミューズが降り立った原因を言葉の問題だけに帰するつもりはありませんが、非常に重要な要素ではあるでしょう。
当たり前のことですが、言語によって音楽が(正確にいうと拍節が)変化します。ドイツ語バージョンを仔細に見ていくと、チェコ語バージョンにないアウフタクトが頻出する箇所すらあります(音節の数の問題ではなく、ドイツ語の音韻構造がアウフタクトを招き寄せているのです。DerとかEinで始まる歌詞を強・弱の拍節を持つ旋律に乗せようとすれば必然的にアウフタクトが必要になりますね)。チェコ語の特性に起因する逆附点の音形や、語尾に短母音2個が繋がる場合の寸詰まりのような終始を持つフレーズは、このオペラのあちこちに出てくる非常に特徴的な音形ですが、ドイツ語バージョンではこの特徴は相当数消えてしまいます。裏を返せば、チェコ語の台詞にドイツ仕込みの、あるいはチャイコフスキー風の旋律を当てはめるとしたら、少し無理が生じるのではないか、とも思われます。
この「月に寄せる歌」では、完璧ではないにしても、チェコ語の抑揚に寄りそった旋律が書かれています。逆に他の箇所では随分無頓着に見えるところ(旋律が先にあってチェコ語が無理やり嵌め込まれている印象)もあります。もし、音楽のアーティキュレーションの全てを完全にチェコ語の音韻構造に従わせるとしたら、この音楽の姿は随分違ったものになったと思いますし、さらに言えば、言葉があろうがなかろうが、音楽的発想が根源から異なったものになった可能性すらあります。
時代が少し下ってバルトーク(私はあまり知らないが多分ヤナーチェクも)が行なったことはそういうことだったのだと思います。前回、このオペラがちまちまして聞こえ、ファンタジーとしての広がりに欠ける理由を、ドヴォルザークのドイツ正統派音楽とドイツ語による楽劇へのコンプレックスに求めましたが、ドヴォルザークという人は恐らくベートーヴェンやブラームス、ワーグナーをある時期猛烈に勉強したに違いありません。ドイツ音楽ではありませんがチャイコフスキーに対してもそうでしょう。逆にその修練がチェコ語のリブレットを前にした時、歌詞の求めるアーティキュレーションと音楽的発想の矛盾を招き、結果として音楽が窮屈なものになったのではないか、というのが今のところの仮説です。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2011-09-26 02:00 | CD・DVD試聴記 | Comments(6)

ドヴォルザーク 「ルサルカ」 ノイマン/チェコ・フィルハーモニー管弦楽団(その1)

かなり昔。カミサンが一人目の出産で里帰りしていた時、会社の一年上の人が家に遊びに来た。飲みながら先輩「最近英会話のレッスン行ってんだ」 私「すごいやないですか」 先輩「けっこう喋れるようになるもんだよ」。で、彼そのままいい気分で爆睡。しばらくそのままほっといたら、寝言で「・・・むにゃ・・・むにゃ・・・カッフィー・・・」。えっ、カッフィーって。coffee?それ、会話やのうて単語ですやん。




ドヴォルザークが苦手です。幼少のみぎり、小学校の下校時にスピーカーから鳴る音楽が「新世界から」の第2楽章。これはまあ素敵な音楽だと思うけれど、前後は苦手。終楽章はなんとなく恥ずかしくて聴いていられない(というか、最後まで通して聴いたことがない)。
チェロのコンチェルトもよく知りませんが、やっぱりちょっと恥ずかしそう。ト短調のピアノ協奏曲はリヒテルが弾いてるから、と学生の時に友人宅で聴きましたが、だめでした。おまけにスコアを見たら、ピアノパートはどっかのピアニストが相当手を入れて何とかコンチェルトらしくなってますが、オリジナルのパートはソナチネか、みたいな感じで恥ずかしさも倍増。なんで無理してピアノ協奏曲書いたのか。
数年前、取引先の社長に大阪シンフォニカーの演奏会に誘われ、シンフォニーホールで8番だかなんだかの交響曲を聴きました。社長には予め「ちょっと最近忙しくて寝てしまうかも」と言い訳しておきましたが、始まって5分くらい経過したところで気絶。終楽章まで、まるで一服盛られたのか、というくらい昏睡してました。このとき、つくづく思いましたね。「ああ私は何の因果かドヴォルザークとは縁がないのだ、あの敬愛するアバド様もジュリーニ様も録音しているというのに、私にはその良さを理解する能力がないのだ。もう身銭を切ってドヴォルザークのCD買ったり演奏会に行くことは一生あるまい」と。

そんなこんなで幾星霜。今年の6月に新国立劇場でプッチーニの蝶々夫人を観たのですが、タイトルロールを歌ったオルガ・グリャコヴァというソプラノが素晴らしい出来栄えで、再度日本に来ることがあれば絶対聴きに行こう、と思いました。で、うれしいことに今年の年末に再びステージに立ってくれるのですが、曲目がルサルカ。うーんそう来るか(韻踏んでる)。でもこれも何かの縁、チケット買ってやろうじゃないか(でもB席というのがちょっと微妙なチョイス)、CDも買って予習してやろうじゃないか、と思った次第。で、このブログにこうして取り上げたということはもちろん作品を好きになったからなんですが、その好きさ加減が微妙というか。本当に好きなのは、第1幕でルサルカの歌う「月に寄せる歌」のところであって、他の部分はなんと言いましょうか、良いところもたくさんあるけれど、手堅く書かれているがダサい部分とか、ワーグナーやチャイコフスキーの劣化コピーみたいなところもあったりとか、このあたりは追々詳しく書いてみるつもりです。

ところで・・・ 一点豪華主義の系譜というのがありまして(嘘です今思いつきました)、ファッションならしまむらの上下にゴールドのロレックスとか、部屋なら畳敷き6畳間に鹿の首の剥製とか。オペラだったら、例えばドリーブのラクメ(「鐘の歌」だけ有名)、マスカーニのカヴァレリア・ルスティカーナ(間奏曲だけ有名)、ヘンデルのセルセ(オンブラ・マイ・フ)、そして最強の一点豪華主義プッチーニのジャンニ・スキッキ(私のお父さん)・・・いやいや一点じゃなくて全部いいよ、という反論はこの際措いとくとして、このルサルカ、まさにこの系譜ですね。もう「月に寄せる歌」が素晴らしすぎる。でもって、それ以外のところの音楽は上に書いた通りなのですが、全体的に何かちまちましてファンタジーが広がらない。このちまちま振りは何ゆえ?結論を急ぐつもりはありませんが、一つはブラームスやハンスリックが体現していたドイツ正統派音楽、それとワーグナーのドイツ語による楽劇へのコンプレックス、のような気がします(せんぞブラームスやハンスリックの世話になっておいて、彼らが嫌っていたワーグナーのエピゴーネン丸出しとは如何なものか)。せっかくのダイヤの原石のような優れた着想が、保守的な音楽構造に無理やり押し込まれて音楽的飛翔を妨げられているような気がします。換言すれば、古い音楽アカデミズムに角を矯められている。これがブラームスならアカデミックなカデンツ=拍節構造を突き破るだけの筆力があったでしょうし、ヤナーチェクならそもそもカデンツ構造など端から気にしない自由さと、モラヴィア方言の抑揚や民謡から得た独自の拍節法のみを信じる意思の力があったのでしょうが、ドヴォルザークにはそこまでの筆力も度胸もなかったと言わざるを得ません。
でも、それだけボロクソに言っても、この「月に寄せる歌」だけは、ミューズが舞い降りてドヴォルザークの肉体を借りて書いたとしか言いようがない。聞く度に猫にマタタビ状態。彼の全ての作品が世の中から忘れ去られたとしてもそれ程惜しくはないが、これだけは人類の未来に残しておきたい(誰目線?w)。それは単にメロディーが美しいというだけでなく、母国語(チェコ語)への愛が、本当にオリジナルな拍節構造を図らずも生み出し得たのだと思います。「図らずも」と書いたのは、言葉と音楽の関係が無頓着に見える箇所も散見されるからですが、言葉の音韻構造が人間の精神(及びその産物)の構造を決定付けるというような発想は、もちろんソシュール言語学など知るよしもない19世紀人のドヴォルザークには望むべくもないものだろうと思います。ですが、意識的であれ無意識であれ、言葉の抑揚を慈しむように音楽を書こうとした時、気まぐれなミューズが正にその時に彼のスコアに降り立ったのだと思われてなりません。

今回のシリーズも、演奏論より作品論が主になると思いますが、一応今聴いている音源のデータを記しておきます。

  ルサルカ・・・ガブリエラ・ベニャチコヴァー(S)
  王子・・・・・・・ヴィエスワフ・オフマン(T)
  侯爵夫人・・・ドラホミーラ・ドロブコヴァー(Ms)
  水の精・・・・・リハルト・ノヴァーク(Bs)
  魔法使い・・・ヴィエラ・ソウクポヴァー(A)
  ヴァーツラフ・ノイマン/チェコ・フィルハーモニーso(1982年8月25日~9月9日、83年8月23・24日録音)
  CD:SUPRAPHON COCQ84513~5)

タイトルロールのベニャチコヴァーの素直な歌いぶりは好ましくて好きですが、youtubeにルチア・ポップが「月に寄せる歌」を歌ってるところがアップされていて(それも舞台とコンサートの2種類)、これがまた素晴らしい。もう涙腺決壊。ちなみにノイマンの指揮はどことなくはじけない指揮ぶりで、世評はいざ知らず私にはちまちま感を増幅させているように思われました。
いや、あんた、そんなこと言うなら「月に寄せる歌」だけyoutubeで聴いてたらいいやんか、と言われたら・・・いやぁそれを言っちゃあ・・・ですよ。やっぱりオペラは全曲聴いてなんぼ、ですから。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2011-09-23 22:56 | CD・DVD試聴記 | Comments(6)