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モーツァルト 「フィガロの結婚」 佐渡裕芸術監督プロデュースオペラ2017

私の身のまわりにはテレビ観ない人が多いんだけど、さすがに福くんのフルネームを福士蒼汰だと思ってた人には「ないわ~」と思いました。





久しぶりのモーツァルトのオペラ鑑賞。


 2017年7月17日@兵庫県立芸術文化センター
 モーツァルト「フィガロの結婚」
  アルマヴィーヴァ伯爵: 高田智宏
  アルマヴィーヴァ伯爵夫人: 並河寿美
  スザンナ: 中村恵理
  フィガロ: 町英和
  ケルビーノ: ベサニー・ヒックマン
  マルチェリーナ: 清水華澄
  バルトロ: 志村文彦
  バジリオ/ドン・クルツィオ: 渡辺大
  アントニオ: 晴雅彦
  バルバリーナ: 三宅理恵
  指揮: 佐渡裕
  管弦楽: 兵庫芸術文化センター管弦楽団
  合唱: ひょうごプロデュースオペラ合唱団
  演出: デヴィッド・ニース


「フィガロ」と言えば、私が高校三年生のとき初めて観たオペラがこれ。しかも自慢じゃないがカール・ベーム指揮ウィーン国立歌劇場の引越し公演で、グンドゥラ・ヤノヴィッツの伯爵夫人、ルチア・ポップのスザンナにアグネス・バルツァのケルビーノという豪華キャスト。最初にこんなもの観てしまったのは幸せなのか不幸なのか、いまだによく分からないのですが、第三幕の手紙の二重唱の、この世のものとも思われない美しさに陶然としたのは昨日のことのように鮮烈に覚えています。
こんなジジイの昔話みたいなことを最初に書いたのも、あれから三十数年経過して、日本の歌手もオケも本当に上手くなったなぁと感慨を覚えたから。今回の公演は外人勢によるものとほぼ日本人歌手によるものとのダブルキャストで、私は仕事の都合で日本人勢によるこの日の公演しか聴けなかったのだけれど、大変高いレベルの演奏であったと思います。佐渡裕の指揮は早めのテンポで颯爽としていて実に気持ちが良い。その表現は時に鋭角的で、典雅なウィーン風を良しとするオールドファンの受けは悪いかも知れない。また颯爽としているといっても、イタリア風の風通しのよい演奏というのとも全く違う(こちらの路線の最高峰はジュリーニがシュヴァルツコップやコッソットらを率いたディスクだろう)。要は数多ある名演の真似事でない独自の表現に達していた、ということでしょう。ただ、正直なところ、ちょっと疲れる演奏であったのも事実。それが、この演奏の欠点なのか、それとも単に私自身の加齢による受止め方の問題なのかは今のところ判然としません。エネルギーに溢れた佐渡の音楽を受け止めるには、聴き手にもそれなりの若さと体力がいるのかも知れません。

歌手はいずれも所を得たもので、これはちょっと・・・というのがない代わりに突出して優れた歌手もいない、という感じ。その中ではケルビーノを歌ったベサニー・ヒックマンがとても印象的。巧い下手ではなくて、文字通り少年みたいな声としなやかな肢体が役柄によく合っていると思いました。やはりケルビーノには、「ばらの騎士」のオクタヴィアンほどコケットやエロを感じさせないのが良いみたい。
伯爵夫人の並河寿美の柔らかく温かみのある声と、スザンナの中村恵理の、スーブレットとしてはややきつめの強靭な声、それぞれ聴いていて楽しいものでしたが、この二人による手紙の二重唱はとても美しく、あっという間に終わってしまうのが恨めしいほど。またこの二人とケルビーノの、第二幕の弾けるようなレチタティーヴォ・セッコもなかなかの聴きどころと感じました。
脇役のマルチェリーナに清水華澄というのも贅沢ですが、予想通りアクの強い歌でありながら、ブッファの枠にきっちり収まっているのがさすがです。この歌手の存在感というのはなかなか凄くて、バルトロとかバジリオがちょっと霞んでしまうのもやむを得ないと思います。
フィガロの町英和は声もテクニックもガタイもあって実に結構。欲をいえばキリがないが、悪目立ちするよりは良い。伯爵の高田智宏然り。ただ伯爵に関して言えば、第三幕のモノローグはもっと上の表現があるような気もします。チョイ役のアントニオもいいんだけど、常識的すぎる演出のせいで今一つはじけなかった感じも。
演出については、所作も衣装も道具もオーソドックスで何の不満もないのだけれど、アントニオみたいな曲者を活かすにはもう一捻り必要な気もします。音楽の邪魔をしないのはよいが、音楽との相乗効果をもたらすこともない、というのは辛口すぎるだろうか。衣装や道具のシックな色合いとか素晴らしいのですが。

佐渡の指揮についてもう少しだけ。私は以前にハイドンのオペラを取り上げた時、モーツァルトと比べて何の遜色もないが、フィガロの幕切れの許しの音楽とドン・ジョヴァンニの地獄落ちの音楽だけはハイドンには無いものだ、といったことを書いたように思います。フィガロの許しの場を聴きながら、改めてモーツァルトの天才を認識したところですが、今回の演奏ではそれが真の感動にまでは至らなかったという他ありません。別に涙腺が緩むような感動だけが音楽の全てではないし、さっきも書いたとおり佐渡の音楽のエネルギーを真正面から受け止めるには、聴き手の年齢や体調が問われるところもあって、許しの音楽が私に思ったほどの感動をもたらさなかったことを以て今回の演奏を貶めるつもりは全くありません。ただ、今回の演奏を聴きながら、なんとなく私は、昔聴いた演奏のノスタルジーだかなんだかで今目の前にある演奏を貶す年寄の気持ちが幾分分かったような気がしたことを告白しておきたい。この備忘だって、冒頭に挙げた若かりし頃に聴いたベームの演奏だの、ジュリーニ盤の素晴らしさをいちいち挙げて比較すればどんなに書き易かろうと思わないでもない。だがそれでは耳が、感性が劣化する一方だろうというのも分かっている。音楽と加齢というのはなかなか難しい問題だと身に染みたという蛇足でした(笑)。
(この項終り)

by nekomatalistener | 2017-07-20 00:26 | 演奏会レビュー | Comments(0)

田村響ピアノリサイタルを聴く

大学のサークルの同窓会でのこと。数年前に流れていた「パイプユニッシュ」という排水管の詰まり洗浄剤のテレビCMで、髪の毛やら水垢のつまった汚らしいイメージ映像にラヴェルの「蛾」を被せていたことが許せんかったという話をしたら、二回りも歳の違う後輩君が激しく同意してくれた。そりゃそうでしょ、今思い出しても腹立つ。





田村響のリサイタルを聴きに、高田のほうまで行ってきました。近鉄の大和高田駅からだと徒歩10分ほど。良いホールで良い演奏なのに、大阪からあまりアクセスが良くないのでお客が少ないのが残念。

  2014年7月19日@大和高田さざんかホール・小ホール
  モーツァルト
    ピアノ・ソナタ第10番ハ長調K.330
    ピアノ・ソナタ第11番イ長調K.331
  (休憩)
  ショパン
    ピアノ・ソナタ第2番変ロ短調《葬送》Op.35
    スケルツォ第2番変ロ短調Op.31
  (アンコール)
  メンデルスゾーン 無言歌集より「甘い思い出」Op.19-1
  ショパン 子犬のワルツOp.64-1
  ショパン 華麗なる大円舞曲Op.18

実は彼のリサイタルを聴こうと思ったのは理由があって、2ヶ月ほど前にある演奏会の打ち上げで知りあいになった方、今はもうリタイアされていますが以前某芸大で楽器を教えていらした方から是非機会があれば聴くように、と言われていたから。その方いわく、昔PTNAのコンクールで、まだ小学生の田村響の演奏を聴いて感銘を受けた、何年生だったのか、体が小さくてペダルに足が届かず、補助ペダルを置いて弾いていた頃だが、「この子は自分の出す音を全部聴いとる!」と心底驚いた、それ以来彼の演奏を注視している、とのことでした。少しでも自分で楽器を触ったことのある人なら誰も知る通り、自分の音を「聴く」というのは本当に難しい。これは単に演奏中に客観的に自分の音を聴くということだけでなく、例えば録音して後で聴いたとしても、自分の音の粗というものが正しく認識できるとは限らないと思います。実際、プロと称していても、自分の音がまったく聴けていない人がいるのも事実。見方をかえると、プロアマ問わず自分で弾きながら自分の音を正しく聴ければ、もうその曲が手の内に入ったも同然、そうでないなら多分その曲は自分のレベルに合っていない、ということだろうと思います。
まぁ、そんな話を聞いてたまたま近くであったリサイタルを聴いた、という訳ですが、確かに音がものすごくきれい。プログラム前半のモーツァルトはピアニッシモからメゾピアノにかけてのグラデーションが実に豊かで音色も多彩。たまに出てくるフォルテは、打鍵の瞬間に余計な力がすっと抜けているので決して荒々しい音にならない。その脱力法は少し変わっていて、例えば連打音やスタッカートの下降音形などでは、右手の肘をやや外側に張って、一音ごとに前腕全体を小刻みに上下させる。また、まるでグランドピアノのダブルアクションのように上肢全体から肩にかけての筋肉が打鍵の瞬間にカクンと僅かに動いて、力を逃がしているようにも見える。その結果、素晴らしく粒のそろった連打やスケール、一切の濁りや力みのない和音が得られるわけだが、一音一音のコントロールとしては有益だとしてもロマン派から近現代のヴィルトゥオジテを扱うのに合理的かどうかはよく判らない。少なくとも今の時点で言えることは、今回のプログラムでも判る通り、自分の美点を活かせる曲を周到に選んでいて、爆演系のピアニストがよく組むようなプログラミングにはおよそ興味がなさそうなことだろうか(過去リストやラフマニノフも弾いているとはいえ)。ペダルについてはダンパーペダル、ソフトペダルとも多用。ダンパーはかなり神経質に細かく踏み替え、また踏み込みの深さも様々。深く短く、また浅く長く、更にはソフトペダルを軽く、あるいは深く踏んで多彩な音色を作っている。これは現代の演奏家たるものピリオド奏法を無視すべきでない、という方や、モーツァルトといえばギーゼキングといったノイエ・ザッハリヒカイト志向のオールドファンには正直受けは悪いだろう。まぁ良くも悪くもピアニストによるピアニストの為の音楽、という感じがするものの、私は大層気に入りました。
誤解のないように附け加えておくと、そのフレージングは自然で持って回ったところがなく、しかも何気ない左手から副旋律がこれみよがしでなく、すっと現われて消えて行く等、よく考えられた演奏であり、美音に淫するあまりフォームが崩れたような演奏ではまったくない。ちょっとした左手の崩し方も節度がある。これは彼がウィーンで学んだこと、それとこれらのソナタは恐らく子供の頃からかれこれ20年も弾いてきたに違いなく、隅々まで完全に自分のものになっていることが大きいと思う。とはいえ、K.331の第2楽章トリオで、左手の低音の進行のちょっとした綻びから連鎖的にコントロールが乱れたことなど、やはり音のコントロールと音楽のコントロールというのは微妙に違うのだろうと思わなくもないが、これは小さな瑕というべきだろう。
後半のショパンも基本的にはモーツァルトとなんら変わる所のない音作り。違うのはショパンのほうが当然のことながらダイナミックレンジが広く、ペダルもより深く踏みこんでいることぐらいなもの。どんなにフォルテ、フォルティッシモの強打でも決して音が割れないのには本当に感心しました。ぺダリングについては、意外に濁る箇所もあるのだが、よく聴いていると、これは左手が激しく動くなかで低音のオルゲルプンクトを延ばすために敢えて響きを切らないのだろうと想い到りました。こういうところでソステヌートペダルを使わないのは音を痩せさせないためなのでしょう。このショパンを聴く限りロマン派に必要なヴォルトゥオジテも十分、ソナタの第1および第2楽章は上記のとおり、彼の特色のよく出ている演奏でしたが、ピアニッシモにこだわるあまり少し音が抜けるのが耳についたのは残念。基本的には穏健な曲作りの為、この2番ソナタに何かデモーニッシュなものを求める向きにはやや物足りないと思われるかも知れません。第3楽章の中間部は小さい瑕はあったが彼のピアニッシモを存分に味わえる好演、フィナーレは敢えて細かい音の動きを出さずに音を溶け合わせるぺダリング、その中から予期せぬ音の連なりが断片のように聞こえてくる非常に個性的な演奏。このフィナーレはもう一度聴いてみたいと思わせます。スケルツォはオーソドックスな解釈でまことに結構。
アンコールのメンデルスゾーン、数ある無言歌のなかでも名曲だと思います。まるでシューマンのようなロマンティックな和声進行。もっと弾かれ、聴かれてもよい作品だと思いますが、これをアンコールに持ってくること自体、自分の音に最も相応しいものはなにかを真剣に考えている証左でしょう。続いて弾かれた二つのワルツ同様、おそらく小学生のころからずっと弾き続けてきたレパートリーだと思います。そういったプログラム・ビルディングは彼の誠実さを示して余りあるものの、新たなレパートリーの開拓という点でどうしても消極的に見えることもあるだろうと思います。今秋の大阪交響楽団の定期ではショスタコーヴィチの2番コンチェルトを弾くそうですから、もしかしたら今回見えなかった新たな側面が見えるのかも知れません。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2014-07-20 13:08 | 演奏会レビュー | Comments(0)

新国立劇場公演 モーツァルト 「コジ・ファン・トゥッテ」

視力検査キット(ランドルト環視力表付き)、amazonで940円。こういう絶対要らないものって、なんか欲しくなるよね。で、カスタマーレビューが笑える。いわく、
「値段の割には付属品もしっかりしててお勧めです!
ただ視力表が1枚だけだと、頻繁に検査をすると覚えてしまうので
少し割高でも同じ製品の3枚セット¥ 1,440- の方をお勧めします。」
憶えるほど検査すな。





新国立劇場で「コジ・ファン・トゥッテ」を観てきました。ミキエレットの、現代のキャンプ場に舞台を移した演出で観るのは一昨年に続いて二回目です。前回に比べて目が慣れているせいか、あまり舞台に煩わされずにモーツァルトの音楽を聴きましたが、やはりこの演出、私にはしっくりこない。いろいろ考えさせてくれるという点では貴重ではあるのだが・・・。

  2013年6月15日
  フィオルディリージ: ミア・パーション
  ドラベッラ: ジェニファー・ホロウェイ
  デスピーナ: 天羽明惠
  フェルランド: パオロ・ファナーレ
  グリエルモ: ドミニク・ケーニンガー
  ドン・アルフォンソ: マウリツィオ・ムラーロ
  指揮: イヴ・アベル 
  演出: ダミアーノ・ミキエレット
  合唱: 新国立劇場合唱団(冨平恭平指揮)
  管弦楽: 東京フィルハーモニー交響楽団

「コジ」でいつも問題になること、しばしば観る者、聴く者が躓く原因となるもの、このオペラを好きになるか嫌いになるか、必ずや人に踏絵を踏ませるもの、それはこの物語の荒唐無稽さ、あるいは不道徳性、人によってはそのあからさまな女性蔑視だろうか。だが、19世紀のワーグナーじゃあるまいし、現代人がこのお話について不道徳を云々するのはあまりにもナイーヴに過ぎると言わざるを得ない。その一方で、ダ・ポンテがこの台本を書いた1789年、もちろんそれはフランス革命の年、アンシャン・レジームの崩壊の年であるのだが、だからといってこのお話を政治的に読み解く、というのも無理があるように思われます。では我々はこの物語をどう受け止めればよいのか。
コジには6人の男女が登場します。二組の恋人達と、彼らを教え導く立場の哲学者、そして小間使い。男女3人づつ、幾何学的にソロから二重唱、三重唱、四重唱、五重唱、六重唱が散りばめられており、あるいは愛しあい、あるいは憎しみ合うテキストが周到に組み立てられている。試しに全31曲の歌い手を整理してみよう。
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多種多様なアンサンブルの連続する二つのフィナーレを一曲と数えるとやや雑駁になってしまうのだが、そこは目をつぶって、この対称と非対称の交錯する表を見ていると、いくつも興味深い事柄が判ります。もっとも面白いのは、偽の恋人達の二重唱(第23曲、第29曲)はあっても、本来の恋人達、つまりフェルランドとドラベッラ、グリエルモとフィオルディリージの二重唱がないこと。フィナーレの中においても、本来の恋人達は決して二重唱を歌わず、専ら男同士の二重唱と姉妹の二重唱が交替するのみ。また、男同士の三重唱はあっても、女の三重唱はない、つまり小間使いは決して姉妹達と一緒に歌わない、ということ(アンシャン・レジームの崩壊と関連付けるのが無理というのがこのことからも判ります)。フェルランドとグリエルモの二重唱(第7曲、第21曲)、姉妹の二重唱(第4曲、第20曲)は仲良く2曲ずつあるのに、ドン・アルフォンソとデスピーナの二重唱はない、というのも同様。ではデスピーナは疎外された存在かと言えばそうではなく、ドン・アルフォンソと共に恋人達を翻弄する立場にいる。
ダ・ポンテの台本を荒唐無稽と見る見方は、登場人物の感情が僅かな時間でマイナス(無関心あるいは憎しみ)からプラス(愛)へと振れるところが人間の感情としてあり得ないという点にあるが、これを馬鹿馬鹿しいと考えるのではなく、ある種の思考ゲームのために敢えて人間性を捨象したと考えたらどうなるだろうか。本来の恋人達の二重唱がないことが、これは通常の物語とは違うのだと表明してはいないだろうか。

この物語の構造を改めて考察すると、悪意ある権力者と淫蕩な小間使いに翻弄される犠牲者達という図式化が出来るのだが、これと奇妙な一致を見せる物語がある。ダ・ポンテがこの台本を書いた1789年に少し先だつ1785年、バスチーユの牢獄でマルキ・ド・サドが書いた『ソドム百二十日、あるいは淫蕩の学校』(ちなみにコジの正式名称は「女はみんなこうしたもの、あるいは恋人達の学校」)。4人の絶大な権力を持つ悪徳の権化のような男達、淫蕩極まりない4人の語り女と4人の召使女に8人の馬蔵、そして彼らのありとあらゆる想像の実践のための犠牲となる4人の貞淑な妻達、8人の少女と8人の少年が繰り広げる地獄絵図は、まさに人間性を捨象した思考ゲームであり、未完に終わったものの、もし完成していたならば権力者と召使と犠牲者の幾何学的組合せによる、ありとあらゆる性倒錯のリストが出来上がったはずだ。ここでは善意や美徳を極端なまでに排斥し、責め苛む者と手伝う者と犠牲者の男女さまざまな組合せそのものが興味の対象となっています。
コジの物語は私にはサドの簡略な、縮小版のように感じられるのだが、もちろんダ・ポンテがサドを知っていたというつもりはありません。そうではなくて、ミシェル・フーコーが『言葉と物』の中で分析していたように、同じエピステーメー(その時代の思考の枠組み)の中で同時代的、同時多発的に同じ構造をもつ精神的所産が生まれる、ということ。その意味で、ダ・ポンテの台本とサドの著作に奇妙な類似点があっても不思議でも何でもない。ダ・ポンテとモーツァルトは、そういった意味で実は革新的なオペラを書いていたと言えるのではないか。恋人達の二重唱のない恋愛劇。美徳の欠片もない権力者と小間使いの協働、犠牲者達の人間的感情の捨象。
私にとって今回の公演の演出が駄目だと思うのは、現代のキャンプ場という舞台の情報力の多さが抽象的な思考ゲームという物語の本質にそぐわないことが一つ。その点、オリジナルのロココ風の庭園のほうがよほど適しているだろう(アラン・レネの映画「去年マリエンバードで」みたいな舞台だったら尚良し)。それと、人間的感情を敢えて捨象しているのだとすれば、ドン・アルフォンソ以外の全員が怒り(人間的感情)を露わにして幕が閉じるのは容認できないことになります。モーツァルトの音楽が本来「許し」の音楽だからと言って、この演出(許しのない、殺伐とした終わり方)を非難する向きもあろうかと思うが、私はもうすこしひねくれているので、ここはオリジナルどおり、人間的感情としてありえない和解(結果として「許し」になるのだが)がやはり正しい結論だと思う。さらに、小間使いまで憤然とその場を立ち去るというのは、このオペラにおける彼女の役割と根本的に相容れないと思います。いずれにしろ、若者がすこしふしだらになるからキャンプ場、というのも、とても幼稚な読み換えに思われます。また、良くできたセットではあるが、どうも私には視覚的な美しさもあまり感じられませんでした(同じような設定の変更でありながら先日の「ナブッコ」の演出が私の気に入ったのは、つまるところ人工美の極致のようなセットの美しさの所為もあったのでしょう)。

演出についてはこれぐらいにして、音楽そのものについて。全体に一昨年の出演者たちよりも音楽的な満足度は高かったように思います。
歌手についてだが、まず感心したのがデスピーナの天羽明惠。最初、ミニスカ眼鏡っ娘(萌)みたいな格好で出てきて、これは人によってはキュンキュンしちゃうだろう(笑)。いや、そんなことはどうでもいいが、歌がとても上手い。私は以前「アラベラ」のフィアカミッリ役で彼女を聴いたことがあるが、その時よりもハマり役だと思いました。ちょっと小悪魔してました。
男声3人も一昨年より良い。特にフェルランドのパオロ・ファナーレの真面目さとグリエルモのドミニク・ケーニンガーの不真面目さのバランスがとても良いと思います。マウリツィオ・ムラーロ(ドン・アルフォンソ)のエロ親父みたいな歌い方はモーツァルト的ではないかもしれないが私はとても気に入りました。
フィオルディリージのミア・パーションは冒頭に「体調不良の申し出があったが出演します」云々という、意味不明なアナウンスがあって心配したが、不安気は感じられませんでした。第2幕の至難なロンドも素晴らしかった。ただ、テクニックはしっかりしているがやや精彩に欠けるように思われた点、やはり体調万全ではなかったのだろうか。ドラベッラのジェニファー・ホロウェイも悪くは無いが、姉妹の声がとてもよく似ていて、あまりキャラが立っていなかったことがちょっと困ったと思いました。アンサンブルが多いだけに、お堅いお姉さんと、色んな意味で色んなところがユルい妹が声だけでそれと判らないとどちらが歌ってるのか判りにくく、面白さも半減していまう。
イヴ・アベル指揮の東京フィルはとても良かったと思うが、先日のナブッコのような演奏を聴いてしまうと、生気にみちてはいるが、どこか安全運転のきらいがなくもないと思いました。もっと上を狙えるオーケストラのはずです。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2013-06-16 18:56 | 演奏会レビュー | Comments(2)

新国立劇場公演 モーツァルト 「魔笛」

(前々回の続き)泣けた本、他にもあった。吉田修一の『悪人』(汗)。でもこれ、連載時の束芋の挿絵も載ってたらいいのにね。





新国立劇場で「魔笛」を観てきました。

   2013年4月21日
   ザラストロ: 松位浩
   タミーノ: 望月哲也
   弁者: 大沼徹
   僧侶: 大野光彦
   夜の女王: 安井陽子
   パミーナ: 砂川涼子
   パパゲーナ: 鵜木絵里
   パパゲーノ: 萩原潤
   モノスタトス: 加茂下稔
   侍女: 安藤赴美子・加納悦子・渡辺敦子
   童子: 前川依子・直野容子・松浦麗
   兵士: 羽山晃生・長谷川顯
   指揮: ラルフ・ヴァイケルト
   演出: ミヒャエル・ハンペ
   合唱: 新国立劇場合唱団(合唱指揮:冨平恭平)
   管弦楽: 東京フィルハーモニー交響楽団

モーツァルトのオペラでは何が一番好きですか?私は断然「ドン・ジョヴァンニ」派だけれど、「フィガロの結婚」や「コジ・ファン・トゥッテ」を抑えて「魔笛」を一番に推す方も多いことでしょう。「魔笛」に限らず、モーツァルトの死の直前の作品には、ちょっと神憑ったような特別な雰囲気がありますね。それがフリーメーソンの所為かどうか私には判りません。昔LPの時代に、イシュトヴァン・ケルテスの指揮だったと思いますがモーツァルトがフリーメーソンの為に書いた音楽ばかりを集めたものを聴いて、いずれも大変すぐれた作品ながらも何となく居心地が悪いというか、よく判らない思いをしたことがありました。同様に「魔笛」も、この世のものとは思えないほどの素晴らしい音楽だとは思うけれど、「お墓にまで持っていきたいか?」と訊かれたらちょっと違うと言わざるを得ない。もう少し私自身が歳をとったらどう思うだろうか。
脱線するが、リリアーナ・カヴァーニが監督した「愛の嵐」という映画が私、大好きで、何度も映画館で観ましたが、ユダヤ人収容所で倒錯的な爛れた関係を持っていたユダヤ人少女(シャーロット・ランプリング)とナチスのSS(ダーク・ボガード)が、戦後、かたや高名な指揮者の美しい夫人、かたやホテルのポーターとして再会し、悲劇が始まるというものでした。この二人が劇場でお互い相手のことを意識しながら表面的には何食わぬ顔で観ているのが「魔笛」の、タミーノの笛に合せてライオンなどの動物(の着ぐるみ)が舞台で踊る場面。この場面の刷り込み効果は絶大なもので、モーツァルトには何の関係もないが、「魔笛」というとこの背徳的な悲劇を思いだしてしまう。もうひとつ、それと前後して初めて「魔笛」の全曲盤LP(ショルティの指揮したものだった)を買って聴いたとき、一番強烈な印象を受けたのが終盤の兵士の二重唱。なんて暗い音楽。弦の対位法に乗せてテノールとバスがユニゾンで歌うという趣向も、なんとも異常なものに思えたものですが、今でもモーツァルトの作品のなかで最も病的なものだというふうに思います。
そんなこんなで、どうも私には「魔笛」が楽しくて子供も大人も楽しめるメルヘン・オペラである、というふうには思えないのです。今回の公演にも、親御さんに連れられて小学生くらいのお嬢さんが聴いてらしたりしてましたが、ちょっと訊いてみたいな。「楽しいか?え、ほんとに楽しい?」(笑)。いや、ほんとに私、このオペラよく判らんのですよ。お話も荒唐無稽だし、実は夜の女王はマリア・テレジアでザラストロはヨーゼフ2世だの聞かされてもそれでお話が明確になるわけでもない。おまけにあちこちで女性蔑視も甚だしい台詞が頻出し、ムーア人のモノスタトスは黒くて悪い人、という扱いで現代人の感覚からすると実に困る。ちなみに今回の字幕は、そのあたりの「困った」台詞を改竄することなく、ありのままに訳していたのが良いと思います。お嬢さんを連れていた親御さんも、差別意識垂れ流しのシカネーダーの台本にはさぞかし困ったことでしょう(笑)。でも、「魔笛」ってこういうお話なんだから仕方ないよね。

まぁ、雑談はこれぐらいにして、今回の日本人キャストによる公演、びっくりするようなことは何も起こらないが、これといった穴もない、オペラハウスの日常公演としては十分なレベルだと思います。ただ、望月哲也のタミーノは歌い方もドイツ語も違和感がありました。この歌手もあちこちで聴いたなぁと、当ブログを検索したら「サロメ」のナラボート、「オランダ人」の舵手などで褒めてました。でも今回のタミーノは妙なところでヘルデンっぽくなってモーツァルトの様式にそぐわない。ドイツ語の子音がべちゃべちゃと響くのもいただけない。パミーナの砂川涼子は芯があってリリコよりスピントが勝った声質ですが、なかなか良かったと思います。安井陽子の夜の女王は素晴らしい歌唱でした。これだけの難曲ですからもちろん完璧とは云いませんが、舞台でこれだけ歌えたら大したもんだと思います。パパゲーノの萩原潤ですが、ちょっとキャラに合ってませんでしたね。前にもどっかに書いたと思うが、昔この人が「マタイ受難曲」のピラトを歌うのを聴いて、上手いとかどうとか言う前に、本当に真面目に渾身の力を込めて歌う姿にちょっと感動したことがありました。その印象が強くて、パパゲーノだからと、舞台の上でひょうきんな仕草をする度に、この人にはちょっと無理かも、と思いました(私だけの感覚かも知れませんが、観てるほうが痛い)。でも声は良かったですよ。それこそパパゲーノのキャラに全然あっていないパミーナとの高貴な二重唱は素晴らしいものでした。モノスタトスの加茂下稔、下品になる一歩手前でのデフォルメに知性を感じました。今回の登場人物の中でモノスタトスが一番頭がよさそうに思ったほど。ザラストロの松位浩、3人の侍女、その他の役回りの歌手も特に不満はありません。
東フィルの演奏も、良くも悪くも日常モード、平常運転という感じがしました。指揮者のラルフ・ヴァイケルトは以前「サロメ」を聴いてちょっと淡白すぎやしないか、と不満を書いた指揮者だが、今回はモーツァルトということで、大きな不満はありません。でも、今回の公演の趣旨から言えば、別に海外から指揮者を招聘しなくとも、日本の若手の指揮者に振らせるとか、他にやり様があったようにも思います。演出や美術然り。もともとシカネーダの台本には「日本の狩の衣裳で」などと書かれているのだから、純国産の舞台でも面白いと思うのだが。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2013-04-22 00:46 | 演奏会レビュー | Comments(0)

新国立劇場公演 モーツァルト 「ドン・ジョヴァンニ」

昔の話だが、岡山から関西に出てきた友人が少し混んでる電車に乗っていると、ランドセル背負った小学3,4年の子が「すんませんすんません」と手刀切りながら客の間をすり抜けていった。強烈に関西を感じたそうだww。




新国立劇場の「ドン・ジョヴァンニ」、またしても伝説的な名演の生まれる瞬間に立ち会ったような気がしました。

 2012年4月29日
  ドン・ジョヴァンニ: マリウシュ・クヴィエチェン
  騎士長: 妻屋 秀和
  レポレッロ: 平野 和
  ドンナ・アンナ: アガ・ミコライ
  ドン・オッターヴィオ: ダニール・シュトーダ
  ドンナ・エルヴィーラ: ニコル・キャベル
  マゼット: 久保 和範
  ツェルリーナ: 九嶋 香奈枝
  指揮: エンリケ・マッツォーラ
  演出: グリシャ・アサガロフ
  合唱: 新国立劇場合唱団(三澤洋史指揮)
  管弦楽: 東京フィルハーモニー交響楽団

今回の公演、何が凄いって、タイトルロールのマリウシュ・クヴィエチェン、レポレッロの平野和、ドンナ・アンナのアガ・ミコライ、騎士長の妻屋秀和の4人の歌いっぷりが凄過ぎる。「声の饗宴」といった評を与えたくなるのは、ヴェルディならともかくモーツァルトのオペラに相応しくないような気もしますが、それだけ彼らの声に力があったということ、そしてモーツァルトのオペラといっても、オペラである以上、歌手の声そのものが非力ではどうしようもないのだ、という当たり前の事に気付かせられました。

マリウシュ・クヴィエチェンは初めて聴きましたが、まさに旬の逸材、今現在の彼のドン・ジョヴァンニを聴けて本当に良かったと思います。重すぎず軽すぎず、女を口説く時はあくまでいやらしく甘く、レポレッロには横柄、ドンナ・エルヴィーラには冷たく、しかしどんなに下卑た言動をしようとも片時も貴族であることを忘れさせない気品のある声、これ以上のドン・ジョヴァンニってあるだろうか、と思ってしまう。ツェルリーナを口説く有名なLà ci darem la manoや、レポレッロの恰好で歌うセレナードは鳥肌が立つほどいやらしい素晴らしい。
今回、ある意味最も驚いたのはレポレッロを歌った平野和。レポレッロという人物像、つまり幾つか独立したアリアも与えられてはいるけれども所詮舞台の上では脇役、というイメージをぶち壊してしまうほどの存在感。よくよく考えればレポレッロという役柄は脇役どころか殆ど出ずっぱり、準主役と言ってもよいくらいなのだが、舞台でこれほどの優れた歌手によって歌われるものだろうか、と思う。声量はもちろん、舞台に真実を呼び込むのに必要な表現力もあり、ドン・ジョヴァンニと衣装を取り替える場面の演技力には思わず吹き出してしまうほどだし、何より主役に負けない体躯にも恵まれている(クヴィエチェンが外人勢の中では小柄だったのかも知れませんが)。新国立劇場の公演評でついつい「日本人も頑張っていた」とか「日本人の割には良かった」といった言い方を私もしてしまうし、誰しもしがちだと思うのですが、もう平野和に関してはそういった修飾語を付ける必要は全くない。
ドンナ・アンナのアガ・ミコライがこれまた(語彙が貧しくて申し訳ないですが)凄いとしか言いようがない。だいたい、このドンナ・アンナという役、モーツァルトのヒロインの中でも屈指の難しさじゃないかと思う。第1幕ではドラマティックな声が要求され、第2幕の長大なアリアでは揺れ動く心理の襞を歌うそのすぐ後のカバレッタで目の覚めるようなフィオリトゥーラを歌わねばならない。アガ・ミコライという歌手、声域によって微妙なむらがあり、声量はあるが少し発声に無理があるんじゃないか、と思われるような、豊麗さとは趣の異なる声質ですが、ドラマティックな表現もリリカルな表現もどちらも素晴らしい。フィオリトゥーラはぎりぎり合格、といったところ。でもこれが潰れた団子みたいになって歌えないソプラノ歌手はゴマンといると思う。モーツァルトに限っては、「あたくしコロラトゥーラじゃないので、そこのところは大目に見てよね」というのが通用しないのですね。彼女の素晴らしいのは、声質に頼ることが出来ない分、知性による制御に長けているところ。若干綱渡りのようなところも含めて、実にスリリングでした。
騎士長の妻屋秀和については、私いっつも誉めていると思うけれど、今回も素晴らしい歌を聴かせてくれました。カーテンコールの時に思いましたが、ほんとにガタイがでかい。やはり歌手はガタイが一番という気がする。
以上の4人が優れているので、開幕いきなりレポレッロの歌→ドン・ジョヴァンニとドンナ・アンナの格闘→騎士長の登場→殺害、と息つく暇もなくドラマに引き込まれてしまいます。これぞオペラの醍醐味。終幕の地獄堕ちの迫力も凄まじいばかり。ピリオド楽器のモーツァルトが一般的になって、このオペラも「ジョコーゾ」な部分に光を当てようとするのが当世風なのでしょうが、私はやっぱり地獄堕ちの場面は凄絶な表現、いわゆるデモーニッシュなものであってほしいと思います。

それ以外の歌手についても少し書き留めておきます。
ドンナ・エルヴィーラのニコル・キャベルもなかなかの出来ではありましたが、先程の4人と比べると少し精彩を欠く感じ。この人も発声に少し無理があるのか、あまり声が伸びない感じがします。でも第8曲のアリアの最後のアジリタはびしっと決まっていました。第2幕の方のアリアは少し苦しい、が、この至難なアリアを楽そうに歌う歌手を私は未だ知らない。
ドン・オッターヴィオのダニール・シュトーダは声量不足と一本調子な歌唱で、第2幕のアリアで盛大なブーイングを浴びてました。ネット評でも散々な書かれようで、気の毒過ぎて逆にちょっと庇いたくなる。非難されるべきは、ドン・オッターヴィオをリリコ・レジェロの為に書いたモーツァルトその人であって、主役級の肺活量コンペの中に置かれると可哀そう。あの第2幕の至難なアリアは、ドラマがそこで完全に停滞してしまうということもあって、この部分のトラディショナルカットは容認すべきだろうと思う。それをちゃんと歌ったのにブーイング(笑)。そりゃかわいそうだって。
ツェルリーナの九嶋香奈枝、個人的な嗜好の問題かも知れませんが、声質が私の考えるスーブレットとは合わない感じがしました。スーブレットをどうも(死語っぽいですが)「おきゃん」な女みたいなイメージで捉えると少し違うと思います。軽はずみ、機智、陰謀家、といった側面だけでなく、とくにツェルリーナはお色気が大切ですからね(デスピーナならともかく)。モーツァルトのスーブレットは本当に歌うのが難しいと思います。特に私らの年代は往年のスーブレットの女王、ルチア・ポップを生で聴いたりしてる世代ですからね、うるさいですよ(笑)。
マゼットの久保和範、ちょっと今回のキャストの中では厳しかったですね。二期会であればスタンダード?これからの人だと思うので、頑張ってほしい。

私は今回の公演の評としては、こうやって素晴らしい歌手達(登場人物8人のうち4人大当たりなんだから凄いですよ)のあれやこれやを反芻するだけで十分という感じがしている。モーツァルトの音楽そのもの、「ドン・ジョヴァンニ」論を書いてみたい誘惑に駆られるけれど機会を改めたい。
演出や管弦楽について少しだけ備忘的に書いておくと、演出はこれといって引っかかるところのない、いや一か所、巨大な操り人形が出てくるところは首を捻ったが、まずは無難な演出。舞台は光沢のある黒い床が水面のように舞台を反映させるのが美しく、白と黒が基調のチェスの駒をかたどったセットも大変結構。指揮はところどころ走る癖があって、歌手がついていくのが大変そう。ドラマティックな部分は聴きごたえがあるが、もう少し落ち着きがほしいところも。やはり「ジョコーゾ」という言葉に捕われてしまうのでしょうか。東京フィルはいつになく品の無い金管だったような気がします。私思うのですが、モーツァルトは素晴らしい演奏を聴けば聴くほど、難しいなと思う。プロの楽団たるもの、もっとモーツァルトを勉強すべきだと思います。そしてアマチュア・オケには・・・モーツァルト禁止令を出したい(笑)。
by nekomatalistener | 2012-04-30 13:10 | 演奏会レビュー | Comments(0)