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Olivier Messiaen Complete Editionを聴く(その13)

辛子明太子とプチトマトを一緒に食うと、口の中がめっちゃ生臭くなることを発見。最凶の食い合わせかも。一度お試しあれ。





前々回「異国の鳥たち」を取り上げたので、今回はそれより少し前の「クロウタドリ」を中心に聴いていきます。

 CD27
 ①美しき水の祭典(1937)
 ②ピアノとオンド・マルトノのための4つの未刊の小品(?)
 ③モーツァルトの様式による歌(1986)
 ④クロウタドリ(1951)
 ⑤5つのルシャン(1948)
 ⑥抑留者の歌(1945)

 ①ジャンヌ・ロリオ六重奏団
 ②イヴォンヌ・ロリオ(pf)、ジャンヌ・ロリオ(オンド・マルトノ)
 ③ギィ・ドゥプリュ(cl)・イヴォンヌ・ロリオ(pf)
 ④クリスチャン・ラルデ(fl)、イヴォンヌ・ロリオ(pf)
 ⑤ジャン=ポール・クルデール指揮ル・マドリガル・アンサンブル
 ⑥サー・アンドルー・デイヴィス指揮BBC交響楽団、BBC合唱団

 ①1980年②~④1999年1月3・4日⑤1966年⑥1995年3月22日録音


「クロウタドリ」(「クロツグミ」と表記する文献もある)は1952年、パリ・コンセルヴァトワールのフルートの試験のために書かれたとのこと。技巧的なフルートに比べて、ピアノパートが(メシアンの楽曲にしては)随分平易に書かれているのも納得がいきます。作品の素材の大半が鳥の歌から成る作品としては最初期のものと言えそうです。
全体は大まかに言って5つの部分から成り立っています。
①ピアノの短い序奏の後、フルートのソロによる鳥の歌
②音列技法風のピアノとフルートの応答
③ピアノのトリルに始まるフルートソロの鳥の歌の再現
④音列によるピアノとフルートのカノン
⑤Vifに転じてからの目くるめくような鳥の歌とコーダ
音列技法風と書きましたが、例えば②は、まずピアノのFis-des-c-g-as-des-h-e-b-g-fisの音列をフルートが模倣します。ピアノの左手の伴奏にd,es,aが現れるものの、fは出てきません。同様に次のフレーズはピアノのf-g-as-ges-des-h-f-c-g-fisをフルートが模倣、左手の和声でb.eは出てきますがd,es,aがありません。Fisは何度も出てくるので、微妙に調性感があるような無いような、宙吊りにされたような不安を感じます。要は、彼自身の「音価と強度のモード」がきっかけとなって同時代に猖獗を極めたトータルセリエリスムとは似て非なる音楽であるということ。短い曲でピアノパートもシンプル、スコアも容易に入手できるので、もっと詳細に分析すれば面白かろうと思いますが、ここでは、鳥の歌が単なる作品の彩りとかエピソードのレベルを超えて、作品の中心原理となったこと、戦後の前衛音楽の旗頭から一転して孤高の道を歩むことになるメシアンの、いわば中期の始まり、メルクマールとなる重要な作品であるということだけ押さえておきたいと思います。
ラルデとロリオの演奏はもっと精密な演奏もあり得るだろうと思いながらも、その雰囲気というか、まさにメシアンの音と思わせる独特な味わいがあって、規範とするに足る演奏だと思いました。

1948年の「5つのルシャン」は大変重要な作品だと思いますが、作品の詳細に触れた文献は(日本語であれ英語であれ)ネットではなかなか見つかりません。「ハラウィ」、「トゥーランガリラ」と並んで「トリスタン三部作」と言われていることはよく知られていますし、16世紀フランドル楽派のクロード・ル・ジュヌClaude Le Jeuneの音楽にインスパイアされたらしいことも今回初めて知りましたが、歌詞の難解さ(シュルレアリスム風の詩と奇妙なオノマトペや造語の混合)も相俟って、この音楽へのアプローチとしてはあまり役立つ情報とは言えません。12人の歌手のための無伴奏合唱というスタイルや、ハーモニーの美しさもさることながら、専らリズムと特異なオノマトペ(t-k-t-k-t-k・・・のような)の面白さが追求されていることなど、メシアンの作品の中でも異色ですが、ある種の愉悦感(歌詞に相応しい言葉かどうか別として)は、シュトックハウゼンが1965年に書いた「ミクロフォニーⅡ」(12人の合唱、ハモンドオルガン、4リング・モジュレーターのための)を想起させるものがありました。どちらも男女それぞれ6人ずつの合唱ということで、シュトックハウゼンはメシアンへのオマージュとしてこれを書いたのではないかと思った次第。
演奏については、録音年代がいくぶん古いせいもあって、透明感とか精密さとは若干違うところが寧ろ作品の求めるものに合致している感じです。Youtubeでいろんな演奏を聴くと、リズム感の希薄な緩い演奏も散見されますが、このCDの演奏は早めのテンポでリズムもエッジが効いている感じが良いと思います。地声もあらわに吼えたり唸ったり、夜中にヘッドフォンで聴いているとちょっとアレな感じが堪りません。

「抑留者たちの歌」は1945年パリ解放を祝うため、ラジオ・フランスの音楽監督であったアンリ・バローの委嘱で書かれた大オーケストラと合唱のための作品。初演後スコアが紛失したと思われていたところ、1991年になって放送局のライブラリーから再発見されたらしい。こういった珍無類の作品が聴けるのもコンプリート盤ならでは、ですが、どことなくソヴィエトのプロパガンダ音楽のような様相ながらも、メシアン流の和声とグロッケンシュピールやチャイニーズシンバルのギラギラした音色、それと異様なほどの高揚感があって、落ち穂拾いのつもりが思わぬ収穫でした。演奏も文句なし。

「美しき水の祭典」は1937年パリ万博の、噴水と花火のエキジビションのために委嘱されたとのこと。だからという訳でもないのでしょうが、メシアンにしてはどこかポップな味わいもあって、6台のオンド・マルトノという特殊な編成、第4曲と第6曲が後の「世の終わりのための四重奏曲」に転用されていること共々、人目を惹きやすいのか、意外によく知られている部類なのかも知れません。個人的には、印象派として見てもアヴァンギャルドとして見ても中途半端でちょっと苦手です。第4曲と第6曲は確かに美しいのですが、オンド・マルトノの人工的な音色で聞くと、なんだか斎場のお通夜や告別式で、開式を待つ間に流れているBGMみたいな感じ。

オンド・マルトノとピアノのための「未刊のページ(4つの小品)」はメシアンの死後に出版された作品で作曲年は不明。ドビュッシー風の和声は初期作らしいものですが、鳥の歌が後の作品に比べると非常に素朴な書法ながらもピアノに現れることから、年代の特定はなかなか難しいのかも知れません。BGMとして聞くならともかく、何度も繰り返し聴こうとすると少しもて余してしまいました。

クラリネットとピアノのための「モーツァルトの様式による歌」は作曲者晩年の1986年に、パリ・コンセルヴァトワールの学生のコンペ用に書かれたそうだが、メシアンを思わせる要素は皆無、微妙な違和感はあるものの、ほぼモーツァルト様式に忠実な小品。私にはどうも、作品目録を埋めていく以上の面白さは感じられませんでした。
(この項続く)

by nekomatalistener | 2017-06-24 00:41 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

Olivier Messiaen Complete Editionを聴く(その12)

私がまだ小学生の頃だと思うのだが、コロッケ屋さんを舞台にしたテレビドラマで、じゃがいもを皮ごと刻みながら「こうすると挽き肉みたいにみえるでしょ」とかなんとか、新入りの女性に教える場面があった。その時は「へーそうなんや」と思って観てたが、これ今なら食材偽装で炎上しそうだな。





今回は70年代の冒頭に書かれた大作「ニワムシクイ」を中心に聴いていきます。

 CD1
 ①8つの前奏曲(1928-1929)
 ②ニワムシクイ(1970)

 ロジェ・ムラロ(pf)
 ①2001.2.15②2001.2.22録音

50年代後半に書かれた「鳥のカタログ」の番外編、あるいは新「鳥のカタログ」の一篇として書かれ、結局単体で残った「ニワムシクイ」ですが、その規模の大きさ(このディスクの演奏は32分ほど)と絢爛たるピアノ技巧によって、メシアンの作品の中でも大変重要な作品であると思います。果てしなく鳴き続けるニワムシクイの歌を聴いていると、「鳥のカタログ」にこの鳥の名を冠した曲がないのが不思議に思えてきます。あるいはメシアンは、かつてこの鳥を取り上げるには自分自身の作曲のメチエ、あるいは妻イヴォンヌ・ロリオのピアノ技巧について何かしら満足できず、ようやく満を持して作品を世に問うたのが偶々この時期になったのかも知れません(あくまでも想像ですが)。いずれにしても素晴らしい作品で、もう少し時が経てばメシアンのピアノ曲の最高峰と言われるようになるのでは、と思います。
実はこの作品について書かれた素晴らしいブログがあり、私が附け加えることもあまりないかなと思います。


本当に作品への愛が溢れていますね。ですが、これを紹介するだけではやはり物足りないので、ここであまり触れられていないニワムシクイ以外の鳥たちの声を自分の勉強も兼ねて挙げておきましょう。「鳥のカタログ」同様、タイトル以外の鳥たちも沢山現われるので、その名称を知っておくことは無駄ではないはず。
まず現われるのはヨーロッパウズラ(仏Caille;羅Coturnix coturnix)とサヨナキドリ(Rossignol;Luscinia megarhynchos)。

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この2種類の鳥の歌が何度か繰り返された後に、主人公のニワムシクイ(Fauvette des jardins;Sylvia borin)が啼き始めます。

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お次はミソサザイ(Troglodyte;Troglodytes troglodytes)。

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ニワムシクイの歌がひとしきり続いた後、ヨーロッパアオゲラ(Pic vert;Picus viridis)とヒバリ(Alouette des champs:Alauda arvensis)、次いでズアオトリ(Pinson;Fringilla coelebs)。

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ニワムシクイの歌や自然描写がしばらく続いた後、様々な鳥たちが姿を現します。まずはオオヨシキリ(Rousserolle Turdoïde;Acrocephalus arundinace)。

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次にニシコウライウグイス(Loriot;Oriolus oriolus)。フランス語のLoriotは、綴りが少し違うが奥さんのロリオLoriodと発音が一緒なので、メシアンにとっては特別な鳥のようです。

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ハシボソガラス(Corneille noir;Corvus corone)、セアカモズ(Pie-grièche écorcheur;Lanius collurio)、トビ(Milan noir;Milvus migrans)が次々と一瞬だけ姿を見せます。

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ツバメ(Hirondelle de cheminée;Hirundo rustica)は鳴き声ではなくて飛翔する姿が描かれています。

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長大なニワムシクイの歌のあと、長い長い沈黙。クロウタドリ(Merle noire;Turdus merula)が現われます。
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ヒバリの歌がやがて目覚ましいピアノの難技巧のカデンツァに発展し、次第にテンポを落としていくといよいよ夜が近づいてきます。
そこで現われるのがキアオジ(Bruant jaune;Emeriza citrinella)。

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ゴシキヒワ(Chardonneret;Carduelis carduelis).

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ズグロムシクイ(Fauvette à tête noire;Sylvia atricapilla)。

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最後にモリフクロウ(Chouette Hulotte;Strix aluco)。

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鳴かないツバメも入れると実に18種類の鳥たちが現われるのでした。それにしてもメシアンの楽譜は本当に綺麗。楽譜の見た目の美しさと音楽の本質は、関係ないようでいて実は深い所で繋がっているような気がします。



メシアンがまだパリ国立高等音楽院の学生であった頃の「8つの前奏曲」は、最近のピアノ弾きには随分人気のある作品であるように見受けられます。確かに第1曲「鳩」や終曲「風のなかの反映」などはドビュッシーの「映像」や「前奏曲集」の延長線上にあるとても判りやすい音楽。もちろん、ドビュッシーを何とか乗り越えようとする試行錯誤の跡はいたるところにあって、単なる初期作にとどまらない面白さがあります。ですが、やはり後のメシアンの音楽と比べると習作の域を出ない、というのが冷静な評価だろうと思います。それにしても、この作品を聴くたびに、ドビュッシーの「12のエチュード」(1915)やスクリャービンの「3つのエチュードOp.65」(1912)が如何にとんでもない音楽であったかを逆に痛感します(特に後者は9度や7度のエチュードという斬新なもので、メシアンが知っていた可能性は高いと想像しています)。それと比べればメシアンの初期作は概してとても穏健な音楽というべきでしょう。


ムラロの演奏については、以前「鳥のカタログ」でウゴルスキーを引合いにしながら、精密だがモノクロームな感じだと書きましたが、今回も概ね同様の感想を持ちました。「ニワムシクイ」はライブ録音ですが、その精度はかなり驚異的。「8つの前奏曲」のほうは、綻びというほどではないものの、意外にもたついている箇所があって、まぁ基本的に指は回るはずの人ですから、向き不向き、あるいは作品の好き嫌いのレベルで少し差がついたのか、といった印象。この前奏曲については、昔のミシェル・べロフの録音が色彩的でとてもよかった記憶があります。
(この項続く)

by nekomatalistener | 2017-05-10 23:37 | CD・DVD試聴記 | Comments(4)

Olivier Messiaen Complete Editionを聴く(その11)

ネットニュースで、フィリピン沖に生息するエントツガイという不思議な貝の生態を知ったが、画像検索するとコテカみたいだった。殻の中身が、これがまた・・・(お察し下さい)。





これまで60年代の作品を一通り聴いてきたので、あとは時代を少しずつ遡ったり進んだり、気ままに聴いていこうと思います。という訳で、今回は「鳥のカタログ」の少し前に書かれた「異国の鳥たち」を含むディスクを聴きます。


 CD28
 ①おお聖なる饗宴よ(1937)
 ②世の終りのための四重奏曲(1940)
 ③ピアノと弦楽四重奏のための小品(1991)
 ④異国の鳥たち(1956)

 ①ケンブリッジ大学セント・ジョンズ・カレッジcho.
 ②ルーベン・ヨルダノフ(vn)、アルベール・テタール(vc)、クロード・デズルモン(cl)、ダニエル・バレンボイム(pf)
 ③イヴォンヌ・ロリオ(pf)、ロズモンドSQ
 ④ジャン=イヴ・ティボーデ(pf)、リッカルド・シャイー指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団
 ①1969.11②1978.4③1999.1.3~4④1995.9.9録音


まずは「異国の鳥たち」から。1956年、ピエール・ブーレーズの委嘱によって書かれた作品で、タイトルの通りインド、中国、マレーシア、南北アメリカ大陸の鳥たちの鳴き声が素材となっています。これは私には文句なしの傑作だと思われます。弦楽器を含まないオーケストラとピアノ、パーカッションのギラギラとした響きは、さながら南国の原色の鳥たちの姿を彷彿とさせますが、その音色としてのまとまりと、ピアノとオーケストラの交替の妙、様々な鳥たちが啼き交わすカオスと切迫したリズム、その全てが堅牢な知的構造物として統御されているのは、後にも先にもない、この時期だけのメシアンの特色と言ってもよさそうです。このすぐ後に書かれ始めた「鳥のカタログ」では、音楽の時間の流れは自然を模したかのようにもっとゆっくりと流れ、一つ一つの作品の演奏時間は時に途方もなく引き伸ばされ、自然の中を散策したり、散文を読んだりする体験に近いものとなりますが、「異国の鳥たち」では韻文で書かれた上質な詩を読む体験に近いという感じもします。ブーレーズがドメーヌ・ミュジカルを率いていた頃から繰り返し演奏しているのも、単に自分が委嘱したからというのではなく、この作品が彼の美意識にぴったりと合致するからに違いないと思います。そのブーレーズの演奏も良いけれど、このディスクのシャイーの演奏も愉悦に満ちた素晴らしいもので、辛口と思われがちなこの作品がこんなに楽しく聴けるというもの珍しかろうと思います。

「世の終りのための四重奏曲」は恐らくメシアンの中でも最も有名な作品だと思いますので、戦時下の一種の極限状況で書かれたといった情報については改めて書くまでもないでしょう。私は大昔にピーター・ゼルキンが結成したアンサンブル、タッシの演奏で初めてこの作品を知った世代なので、なんとなく(メシアンには何の関係もないのだが)70年代初頭のヒッピー文化を連想させるというか、LSDでラリってるようなイメージがついてまわるという時期があったのですが、改めて聴くとやはり凄い音楽だと思いました。初期のメシアンを代表する傑作でしょう。薄いガラス片を踏みしだくような独特の和声(例えば2曲目中ほどの下記譜例など)には陶酔感というか、一種の幻覚効果があって、そういう意味では「ラリっている」というのもあながち間違いではないのだけれど・・・。バレンボイムらによる演奏は気魄のこもった演奏で聴きごたえがあります。解説書には作曲者自身がレコーディングに立ち会い、お墨付きauthorizationを与えたと書かれています。

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1937年に書かれた初期の無伴奏合唱(オルガン伴奏は任意)のためのモテット「おお聖なる饗宴よ」は、ドビュッシーの影響もさることながら既にメシアン独特の和声が現われる大変美しい小品。ネットでスコアが拾えたので少しだけ下に掲げますが、この言葉の抑揚に則した自由なリズムを見ると、メシアンの重要な語法の一つである附加リズムの起源を見る思いがします。セント・ジョンズ・カレッジ合唱団の演奏はクオリティが高く、こうした初期の落ち穂拾いのような録音でも手を抜かないのがグラモフォンらしい感じがしました。

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メシアン最晩年の「ピアノと弦楽四重奏のための小品」は、メシアンには珍しいクラシックな編成ですが、実はウィーンの楽譜出版社ウニフェルザール社の経営者であるアルフレート・シュレーの90歳の誕生日のために委嘱されたもので、もともとの注文は弦楽四重奏のための小品であったところ、メシアンがピアノを加えて作曲したというものでした。思わせぶりなG-A-Gis-Dのモットーは動機労作風の展開はなく、ピアノと弦が緊密に絡み合うこともなく並置、交替するのみ。しかも途中からピアノによるニワムシクイの声となります(相の手のように挿まれる弦のパッセージがこのモットーの4音から始まるのが御愛敬)。お世辞にも面白いとは言えないこの作品、メシアンはあまり感興の湧かないまま作曲したのではないだろうか。
(この項続く)

by nekomatalistener | 2017-05-03 23:58 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

Olivier Messiaen Complete Editionを聴く(その10)

近鉄の車内放送で、車掌さんが何度も「ドアが閉まります、ドアが閉まります」と言ったあとに、ちょっと怒った声で”The doors will be closed!”と叫んではりました。外国の方がふざけてたんでしょうね。でも南海やったら「閉まるゆうとるやろがこのボケ」とか言いそう。





60年代の掉尾を飾る大作「我らの救い主イエス・キリストの変容」。

 CD14/15
 我らの救い主イエス・キリストの変容
 ロジェ・ムラーロ(Pf)、トマ・プレヴォー(fl)ロベール・フォンテーヌ(cl)
 エリック・ルヴィオノワ(vc)、フランシス・プティ(マリンバ)、
 ルノー・ムッツォリーニ(シロリンバ)、エマニュエル・キュルト(ヴィブラフォン)
 フランス国立放送合唱団
 チョン・ミュンフン指揮フランス国立放送フィルハーモニー管弦楽団
 2001年9月録音


1965年から1969年にかけて作曲され、1969年6月にリスボンで初演されています。テキストはマタイによる福音書の他、トマス・アクィナスの『神学大全』から取られているとのこと。しかし、このような外部情報が作品の理解に幾らかでも助けになるかと言えば勿論否である。正直なところ、私はこの大作を持て余していて、何度も聴けばそれなりに良さが分かるかと思いながらも、聴き通すこと自体がかなり重荷に感じています。作風は60年代の傑作群(「クロノクロミー」「七つの俳諧」「天の都市の色彩」)の流れを汲む辛口の楽章もあれば、幾分年代が遡ったような甘口のものもあって、その混合こそが70年から晩年に至るメシアンのスタイルの始まりだというのはよく分かりますが、私には苦手な音楽という他ありません。いまつらつらと考えていることは、やはり神学に対する教養なくしてメシアンの理解はあり得ないのではないだろうか、ということ。メシアンの少なくとも幾つかの作品は、音楽愛好家の誰でもがアプローチ可能な、普遍的で開かれたものではなくて、カトリックの教義を非常に深いレベルで共有する者にのみ、その狭き門が辛うじて開かれているのではないか、などと考えています。そのアプローチの至難さを思うと、半ば諦めの境地ではありますが、せめてトマス・アクイナスの著作の幾つかでも読んでみようかという無謀な気持ちも湧いてきます。メシアンの作品の中でもおそらく大変重要に違いないこの「変容」が、全く腹に入らないというのは実に悔しいものであります。
全体の理解とは程遠いのを承知で、備忘として全14楽章のちょっとした感想を記しておきます。各楽章の表題の邦訳は定まったものはないと思うので、ネットで拾ったものを仮に掲げておきますが、これが正しいのかどうか私には判断つきません。

第1セプテネール
第1曲 福音叙述
打楽器のみの開始に続いておもむろにユニゾンの合唱が歌い出す。 この楽章に限らず、オーケストラも合唱も巨大な編成の割に極めてストイックというか、不経済な書法が目立つ。
第2曲 御自身の栄光の体のかたどりに
歓びに溢れる冒頭の主題が印象的。合唱は前半またもやユニゾン、後ろ三分の一ほどがハーモニックな書法。拡大された調性によるやや辛口の音楽に甘い和音が時折現われる。
第3曲 イエス・キリスト、あなたは神の栄光の輝き
「クロノクロミー」の延長線上にある素晴らしい音楽。管弦楽、合唱とも室内楽的な密やかさから巨大編成ならではのマッシヴな響きまでとてもレンジが広い。
第4曲 福音叙述
第1曲とほぼ同様の音楽が繰り返される
第5曲 あなたの幕屋は何と慕わしいことか
抒情的な合唱に続いて、ピアノ、チェロ、シロリンバなどのソロを含む室内楽的な響きが美しい。
第6曲 それは永遠の光の輝き
女声のユニゾンとオーケストラの鳥の声による短い間奏曲風の楽章。木管とシロリンバ、ピアノが啼き交わす鳥の歌はなかなかカオティークで面白い。
第7曲 聖なる山の聖歌
40年代の諸作品に出てくる、不協和に軋みながら協和音に解決するメシアン独特の音形が現われる。静かで美しい合唱。

第2セプテネール
第8曲 福音叙述
第1曲、第4曲の再現だが、クセナキスを思わせる弦のグリッサンドが出てくる。かつての弟子が「メタスタシス」を書いてから10年以上も経って、なぜ引用めいた音形を書いたのだろうか?
第9曲 完全なる出生の完全なる承認
導入は最後の審判の如く打ち鳴らされるシンバルや喇叭の咆哮、男声ユニゾンが続くが、これが何度も繰り返され、第1曲の福音叙述、ソロ楽器による技巧的なフレーズ、男声ソロの単音によるテキストの朗唱、トニカで始まる調性感のある合唱などがモザイク状に組み合わされる。長大な楽章の中に、福音叙述や朗唱が嵌め込まれているのは、この楽章自体が入れ子状になった小規模なミサ曲であるようにも聞こえる。
第10曲 子らの完全なる世継ぎ
チェロの抒情的なソロ、薄いオーケストラを伴って歌われるユニゾンの合唱、言葉は矛盾しているが「巨大な室内楽」を聴いているよう。
第11曲 福音叙述
第1曲、第4曲、第8曲より幾分長く、開始は他の3曲と異なって上昇音形から始まる。
第12曲 このところは何と恐ろしい
ピアノのカデンツァに続いて40年代風の合唱が2回現われる。合唱はユニゾンから終盤のカオティークな叫びまで多様。
第13曲 完全なる三位一体の現出
点描的な書法の大変前衛的なオーケストラと、時にグレゴリオ風男声ユニゾンを伴う合唱、それに臆面もない協和音の奇妙な混合。
第14曲 栄光の光の聖歌
苦悶と陶酔の狭間を、軋みながら移ろい、協和音に至る合唱。好きか、と聞かれると困るけれども、ある意味メシアンの面目躍如たる音楽だろう。
(この項続く)

by nekomatalistener | 2017-04-23 00:33 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

Olivier Messiaen Complete Editionを聴く(その9)

分け入つても分け入つても社畜





60年代の作品を聴いていきます。今回は1965/69年に書かれた大規模なオルガン作品。

  CD10
  聖なる三位一体の神秘への瞑想(1965/69)
  
  オリヴィエ・ラトリー(org)
  2000年7月パリ・ノートルダムで録音

1965年の即興演奏を元に作曲され、メシアン自身の演奏で1972年3月29日、ワシントンDCの無原罪の御宿りの聖母教会で初演されています。
どうも私はメシアンのオルガン作品と相性が悪いのではないかと考えています。ピアノや管弦楽のための作品にくらべると、より実験的、即興的な要素が強いように思われますが(それはとりもなおさず、メシアンにとってオルガンが最も身近な楽器であったという証左でもあるのでしょう)、聴く側からすれば些かしんどいという感じがします。今回取り上げたような長大な作品だと、最後まで何度も聴き通すのはかなり忍耐のいる仕事でした。いや、実験的であること、長大であることが悪いのではないでしょう。私はもっと前衛的で長大な作品、例えばシュトックハウゼンであれフェルドマンであれ、これほどまで苦行めいた聴き方はしてこなかったはず。ならば相性が悪いとしか言いようがありません。それと、他のジャンルの作品とくらべてカトリシズムへの耽溺の度合いが著しく強い感じがして、それもつい敬遠してしまう原因かもしれません。まぁそれを言うなら「20の眼差し」だって同じようなものかも知れませんが、あちらは絢爛たるピアノ技巧が楽しみの大きなポイントになっているので大部分の聴き手はカトリシズムの教義を忘れて聴くことができる。だがそれが果たして正しいメシアンの享受のあり方かという疑問を持たざるを得ません。少なくともオルガン作品の場合、楽器の制約によってピアノほどの目覚ましい技巧は使えないので、その分カトリシズムという要素が全面に出てきて、私のような不心得な聴き手を苦しめるのかもしれません。

全部で9つの楽章から出来ていますが、解説によれば3つの性格を持つ3曲のセットから出来ているとのこと。すなわちⅠ:三位一体のそれぞれ(父と子と聖霊)に捧げられたもの(第1・6・7曲)、Ⅱ:神の様々な属性を表す音楽(第2・5・8曲)、Ⅲ:トマス・アキナスと出エジプト記に書かれた神の記述(第3・4・9曲)。曲順にこのカテゴリーを記すとⅠ→Ⅱ→Ⅲ→Ⅲ→Ⅱ→Ⅰ→Ⅰ→Ⅱ→Ⅲとなっていて、タイトルの三位一体と音楽の3曲×3セットの構造が照応しています。一方、この作品の中でメシアンは"langage communicable"という技法を第1・3・7曲で用いて音と言葉(文字)を照応させようとしているらしい。これが何を意味しているのかはスコアを取り寄せて分析しないと何とも言えませんが、これもまた晦渋な印象の原因なのかもしれません(ふと思い立って楽譜販売のサイトをみたら税込で22,356円もするので絶対取り寄せないと思うけど・・・)。
解説はともかく、耳で聴いた印象をもう少し分析すると、概ね3つのタイプの音楽にカテゴライズできるような気がします。まず9曲中6曲がオッフェルトリウムとでも呼べそうなソロと応唱が交替していくタイプの音楽で、その内第1・5・9曲が調性のないソロに先導され(カテゴリーA)、第2・6・8曲がグレゴリオ聖歌風のソロに先導されます(カテゴリーB)。全体に不協和音と無調的なパッセージに満ちた音楽の中で、カテゴリーBの3曲は比較的取っつきやすくて、聴いて楽しくまた美しい響きが随所に出てきます。第2曲のソロはあの「天の都市の色彩」で聴かれた東洋風の旋律で、私はてっきりガムランにインスパイアされたものと思っていましたがグレゴリオ聖歌をモディファイしたものと言われたらそんな気もしてくるのが面白い。第3・4・7曲はオッフェルトリウムの構造を持たないもので、トッカータ風であったり鳥の歌であったり、といった曲想(カテゴリーC)。これを曲順に並べるとA-B-C-C-A-B-C-B-Aとなって、シンメトリックという訳ではないがやはり3曲×3セットという構造が見て取れます。もっとも、こうやって分析しても苦手な作品が聴き易くなるわけでもなく、やはり難物だと思わざるを得ません。

演奏についてはこのシリーズの(その5)に書いた以上の印象はありませんので繰り返しません。何度聴いても腹に入らない音楽ですが、しばらく冷却期間を置くことにしましょう。
(この項続く)

by nekomatalistener | 2017-01-08 18:41 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

京都市交響楽団第607回定期演奏会 メシアン「トゥーランガリラ交響曲」

ユーキャンの流行語大賞って年々酷くなっとる。なんかぱよちん系のジジイがはしゃいでるみたいで痛々しいというか。で、それをまたよりによって鳥頭ちゅん太郎が擁護するってもう地獄絵図。あ、でも三省堂の「今年の新語」はわりとマトモですよ。





10月から職場が変わり、猛烈に忙しい日々を過ごしておりまして、なかなか音楽を聴く時間がとれません。そんな中でも、「トゥーランガリラ」を生で聴く機会となれば聞き逃す訳にはいきません。積もり積もった疲労と寝不足で80分の長丁場は少々心配でしたが、目の覚めるような演奏にあっという間に時間が過ぎ去った感じがしました。

 2016年11月26日@京都コンサートホール
 メシアン トゥーランガリラ交響曲

 京都市交響楽団
 指揮:高関健
 ピアノ:児玉桃
 オンド・マルトノ:原田節

メシアンが好きな人もそうでない人も、彼の代表作が「トゥーランガリラ交響曲」であることに異論を唱える人は少なかろうと思います。私はどこかで書いたとおり、60年代の「クロノクロミー」「七つの俳諧」「天国の色彩」あたりが本当の傑作群だと思っているのですが、それでも「トゥーランガリラ」を実際の演奏で聴くと、その途轍もないエネルギーに圧倒される思いでした。音楽そのものについて書きたいことはたくさんあるのですが、それはメシアンのコンプリートアルバムの試聴記に譲ることにして、演奏の備忘のみ簡単に記しておきます。
演奏の始まる前に、指揮者の高関健氏によるプレトークがあり、まずは舞台前方に並べられた独奏楽器群(ピアノ、オンド・マルトノ、チェレスタ、ジュ・ドゥ・タンブル、ビブラフォン)の説明(オンド・マルトノ以外を「ガムラン隊」というのだそうだ)。それから「移調の限られた旋法」「不可逆リズム」といった音楽原理の説明がありました。後者は素人にも分かるように、というのはなかなか難しくて、若干舌足らずな感じもしましたが、高関氏自身が若いころはメシアンをあまり好きではなかったのに、近年になって楽譜をアナリーゼするとすべての音がこういった原理に基づいて書かれていることに驚き、それ以来メシアンが大好きになったと仰ったのは印象的でした。
そんな高関氏のプレトークを聴いたから、というのではなくて本当に精緻である意味醒めた演奏でした。「トゥーランガリラ」と聞いてまず思い浮かべるカオティックな猥雑さとかエロティシズムといった要素は希薄で、あまり好きな言葉ではないが「分析的」というか、音楽の構造が透けて見えるような不思議な演奏でした。ブーレーズは「トゥーランガリラ」を嫌っていたと聞いたことがありますが、こういう演奏なら御大も喜んで聴いたのでは、と想像します。これまであまり強い印象を持たなかった指揮者ですが、本当に面白い演奏をする人だと思いました。それでもあちこちに出てくる三和音による強烈な終始の臆面の無さはどうしようもなく、盛り上がることは確かだが少々げんなりするのも事実。まぁ大戦後すぐに現れた異形の音楽であることは確かでしょう。
児玉桃のピアノは大熱演。80分ほとんど出ずっぱりで弾くのはピアニストにとってこの上なく過酷だろうと思いますが、「嬰児イエズスの20のまなざし」を全曲通して弾くことに比べれば、彼女くらいのプロのピアニストにとってはまだしも楽なのかもしれません。彼女の強靭な打鍵を以てしてもオーケストラのトゥッティが被るとほとんどピアノが聞こえなくなりますが、これは偏にメシアンの書き方が悪いのであってピアニストのせいではないと思います。
オンド・マルトノを生で聴くのも初体験でしたが、実際に聴くと思いのほかあちこちで音が鳴っているという印象(録音で聴いても全部は聞き取れない)。緩徐楽章でクラリネットと被せて鳴らすところの精妙な音色など、こればかりは実際の演奏を聴かないと絶対にわからないと痛感しました。
京響も熱演だったと思います。指揮者の目指す音楽をとにもかくにもリアライズして長時間弾き切ったというだけでも大変なことだと思います。ですが、終演後に指揮者がオーケストラのセクションごとに立たせてねぎらいの拍手を送っている時、パーカッションのセクションになった途端にしつこくブーイングしている人が一人いてちょっと興ざめしました。これほどの難曲、大曲でパーカッションの大小の事故というのは避けられません。少なくとも私にはまったく気になるほどではなかったのですが、あまりに執拗なブーイングを聞くと、この人どれだけ分かってんのかね、と嫌みのひとつも言いたくなるというもの。私だって準備不足の、あるいは技術の追いつかないプロの演奏には激しく拒否反応を起こしたりすることはあるけれど、それとこれとは違う。ちょっと余談になるけれど、私は以前友人と2台ピアノのための「アーメンの幻影」の終曲「成就のアーメン」のプリモをあるアマチュアの演奏団体のセミクローズドな演奏会で弾いたことがあるのですが、その時最も困難を極めたのはデュラン社のスコアで最初の7ページほどのリズムカノンの箇所でした。プリモの右手、左手、セコンドの旋律がずれにずれていく複雑なリズムカノンは、youtubeでプロの演奏を観ても無事故で弾いているものは皆無といってよいほど。大切なのは小さい事故があってもすぐに合わせるべきところで合わせて復帰することだと思いました。そういった意味でこの日の京響のパーカッションはまさにプロの演奏だと思ったのですが、何がそれほど気に食わなかったのか、この手のブーイングの主は、逆に自分の知識をひけらかすだけの御仁に思えてしまうのがつらいところ。ブーイングを否定するつもりはありませんが、周りに「よくぞやってくれた」と思わせるのは至難の業なのでしょう。
(この項終り)

by nekomatalistener | 2016-12-07 01:03 | 演奏会レビュー | Comments(0)

Olivier Messiaen Complete Editionを聴く(その8)

真冬のさっむい日の早朝、駅のホームで半袖シャツで震えてるおっさんを見たことがあるのだが、あれは何かの罰ゲームだったのだろうか?未だに謎。





60年代の作品を網羅的に聴いていきます。

CD2
①鳥の小スケッチ(1985)
 1.ヨーロッパコマドリ
 2.クロウタドリ
 3.ヨーロッパコマドリ
 4.ウタツグミ※
 5.ヨーロッパコマドリ
 6.ヒバリ
②4つのリズムのエチュード(1949-1950)
 1.火の島Ⅰ
 2.音価と強度のモード
 3.リズム的ネウマ
 4.火の島Ⅱ
③カンテヨージャーヤー(1949)
④ロンドー(1943)
⑤ファンタジー・ブルレスク(1932)
⑥前奏曲(1964)
⑦ポール・デュカの墓のための小品(1935)

ピアノ: ロジェ・ムラロ
①②2001年2月15日③~⑦2001年2月22日

※表題のla grive musicienne(ウタツグミ)の学名はturdus philomelosが一般的なようだが、楽譜にはturdus ericetorumという古い学名が書かれている。

まずは「前奏曲」(1964)から。
比較的有名な初期の「8つの前奏曲」とはまったく別物。ですが、調性感のはっきりとしたアルカイックな旋律は、ラヴェルを思わせるものがあって大変魅力的。この古雅な旋律をメシアン独特の煌めくガラス片のような不協和音が彩る。この作品についてはメシアンの死後に遺稿の中から発見されたということ以外、ネットで調べても情報が乏しく、前衛真っ盛りの60年代にどうしてこのような調性作品が書かれたのかよく判りませんでした。まぁメシアンのような作曲家にとっては調性の有無などというのは大した問題ではなかったのかも知れません。こういった佳品に出会えるのはComplete Editionならではでしょう。

「鳥の小スケッチ」(1985)はイヴォンヌ・ロリオの希望に応じて書かれたもの。6曲のセットだが各曲はわずか2分ほどの小品。素材はタイトルの鳥の歌と「背景」をなすゆったりとした和音のみ、楽譜には鳥名以外は速度記号しか書かれておらず、大作「鳥のカタログ」や「ニワムシクイ」が標題以外にも様々な鳥の声や事物の音で満たされ、また言葉で楽譜に書き込まれているのとは大違いのシンプルさ。そのピアニスティックな書法は洗練の極みですが、特に第2曲など終止の和声がともすると協和音に解決する傾向など、晩年のメシアンのスタイルがよく現われていると思います。それを円熟と見るか、それともある種の退嬰と見るか、意見が分かれそう。だが終曲の息つく暇もなく啼き続けるヒバリの歌を聴いていると、老いたりとは云え、さすがは「ニワムシクイ」を書きあげた人だと心打たれずにはおれない。

「4つのリズムのエチュード」(1949~50)と「カンテヨージャーヤー」(1949)はメシアンのピアノ独奏曲の中ではもっとも実験的、しかも音楽史的な意味で最も重要であり、なおかつ耳で聴いてこの上なく面白いものではないでしょうか。私の個人的な好みでいえばエチュードの第1曲「火の島Ⅰ」はメシアンの数あるピアノ曲の中でも最も好きな作品。第2曲「音価と強度のモード」は後のトータル・セリエリズムの嚆矢となったことであまりにも有名ですが、その音響は難解どころか大変美しいもの。私は高校生の頃にミシェル・ベロフのLPで聴いて驚いたものです。そして「カンテヨージャーヤー」。タイトルは13世紀のインドの音楽学者Sarangadeva(1210-1247)の理論書Sangita Ratnakara に体系化されたヒンドゥーのリズムのことらしいのですが、理屈はともかく実に面白い音楽。「音価と強度のモード」で全面的に展開された音高・音価・強弱・アタックのセリーが部分的に使われているのも注目されます。

残りの3曲、「ファンタジー・ブルレスク」(1932)、「ポール・デュカの墓のための小品」(1935)、「ロンドー」(1943)は作曲年代は10年以上の開きがあるけれど、いずれも習作といって差し支えなさそう。逆に、まだまだドビュッシーの尻尾を引きずった「ロンドー」とほぼ同時期に「アーメンの幻影」や「嬰児イエズスにそそぐ20の眼差し」が書かれていることのほうが驚きなのかも知れません。最も作曲年代の古い「ファンタジー・ブルレスク」は導入に続いて現われる主題の三連符と四連符のぶつかり合いや、裏拍に附けられたアクセントがジャジーな雰囲気を醸し出して面白い。ポール・デュカの死に際して書かれた小品は厳粛な下降音形をメシアン独特の和音が彩る。それは苦痛に引き裂かれるようでもあり、苦悶と見紛うばかりの快楽の表象とも聞える。これは異色のtombeau(故人を追悼する器楽曲)と言えるのではないでしょうか。

ロジェ・ムラロの演奏はいずれも見事。特に「鳥の小スケッチ」と「4つのリズムのエチュード」はライブ録音で聴衆の拍手も入っているのですが、ごく小さな傷がいくつかあるものの技巧的に突き詰めた演奏だと思います。中でも「火の島Ⅰ・Ⅱ」の気迫が凄い。思うにライブならではの音楽の推進力を慮って敢えて傷の修正はしなかったのでしょう。先に少し触れたミシェル・ベロフの若き日の録音と比べると若干モノクロームな感じもしますが、現時点で望みうる最上の演奏であると思います。それにしてもベロフ盤の色彩感あふれる録音は、録音技術の賜物なのか実際の演奏自体のせいなのか、未だによく分かりませんが本当に素晴らしいものであったと懐かしく思い出します。
(この項続く)

by nekomatalistener | 2016-10-24 22:54 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

Olivier Messiaen Complete Editionを聴く(その7)

手塚治虫の「ユフラテの樹」という漫画に、超能力を得た少女がペトルーシュカを初見で弾くという場面が出てくる。この漫画の初出は1975年、ポリーニのペトルーシュカのLPは71録音で、翌年の暮には日本でも発売されたそうだが、手塚治虫はこのLP聴いていたのかなぁ?にしてもペトルーシュカを初見で、という発想すげーな。





60年代の作品「天の都市の色彩」を中心に。

 CD30
 ①神の顕現の3つの小典礼(1944)
 ②天の都市の色彩(1963)
 ③聖体秘蹟への讃歌(1932)
 ④ヴァイオリンとピアノのための幻想曲(1933)

 ①ロジェ・ムラロ Roger Muraro(pf)
  ヴァレリー・アルトマン=クラヴリー Valérie Hartmann-Claverie(オンド・マルトノ)
  エレーヌ・コルレット Hélène Collerette(vn)
  フランス国立放送女声合唱団
 ②カトリーヌ・クルノー Catherine Cournot(pf)
 ①~③チョン・ミュンフン指揮フランス国立放送フィルハーモニー管弦楽団
 ④ダニエル・ホープ Daniel Hope(vn)
  マリー・ヴェルムラン Marie Vermeulin(pf)

 ①2008.4②③2008.7④2008.7.4録音


以下は現時点での私の仮説にすぎないが、このメシアンという人はラヴェルやストラヴィンスキーのように生涯のどの時期をとっても高いクオリティで駄作がないタイプではなくて、駄作佳作混在する初期(30年代)、実験と作風の確立の中期(40~50年代)、傑作の森というべき充実期(60年代)、若干過去の作風に回帰しつつ手癖のようなものでそれなりに大作を書き続けた後期(70年代以降)とおおまかに見取り図を描くことができそうだ(これからいろいろと聴き込む内に考えが変わるかもしれないが)。
まず「天の都市の色彩」(「天国の色彩」とも)ですが、少し前の「クロノクロミー」「七つの俳諧」とともに60年代の、というよりメシアンの全創作の中での頂点を形作っているように思います。これはもう「音と色彩の三部作」と言っても良いのではないでしょうか。ガムランの影響、というよりそれを咀嚼しきった表現が素晴らしく、ところどころあからさまな東洋風の旋律も出てくるが抽象度は高い。因みに初演は1964年10月17日、ドナウエッシンゲン音楽祭でイヴォンヌ・ロリオのピアノ、ピエール・ブーレーズ指揮アンサンブル・ドメーヌ・ミュジカルによって演奏されています。スコアには黙示録から下記の引用が書き込まれているそうだ。

1.その御座(みくら)に坐したまふ者あり、その坐し給ふものの状は碧玉・赤瑪瑙のごとく、かつ御座の周圍(まはり)には緑玉のごとき虹ありき(Ⅳ.3)。
2.ここに七つのラッパをもてる七人の御使これを吹く備をなせり(Ⅷ.6)。
3.第五の御使ラッパを吹きしに、われ一つの星の天より地に隕(お)ちたるを見たり(Ⅸ.1)。
4.その都の光輝(かがやき)はいと貴き玉のごとく、透徹(すきとほ)る碧玉のごとし(XXI.11)。
5.都の石垣の基はさまざまの寶石にて飾れり。第一の基は碧玉、第二は瑠璃、第三は玉髄、第四は緑玉、第五は紅縞瑪瑙、第六は赤瑪瑙、第七は貴橄欖石、第八は緑柱石、第九は黄玉石、第十は緑玉髄、第十一は青玉、第十二は紫水晶なり(XXI.19-20)。

メシアンはいわゆる音と色彩の「共感覚」(ある音を聴くとある色が見える)を持っていたらしいが、私にはこの共感覚というものがよく判りません。時々音楽の印象を述べるのに「色彩的」という言葉を使うけれども、具体的に緑や赤の色が見えている訳ではありません。ですがこの黙示録の引用を見ていると何となくメシアンの感じていたものが判るような気がします。実際の色彩を想起すると若干悪趣味な感じもするが、これは純粋に言葉からその言わんとする美を感受すべきものでしょう。メシアンの響きそのものから受ける印象もまた、ぎらぎらと光る極彩色の綾織のように悪趣味スレスレではあるが、それが極度の洗練と同居していて大変クセになります。

フィルアップの3曲はいずれもあまり知られていない初期の作品で、正直それほど面白いとも思えません。
「神の現前の3つの小典礼」は「アーメンの幻影」と同じく、ドゥニーズ・テュアルによってプレイアッド演奏会の為に委嘱され、1945年4月21日にジネット・マルトノのオンド・マルトノ、イヴォンヌ・ロリオのピアノ、イヴォンヌ・グヴェルネ合唱団、ロジェ・デゾルミエール指揮のパリ音楽院管弦楽団により初演されています。
第1曲のピアノによる鳥の歌はたいへん魅力的、第2、第3曲の、ちょっと「喜びの精霊の眼差し」を想起させるようなリズムの乱舞も聴きどころ。しかし凡庸な旋律や臆面もなく表面的な効果をまき散らすオンドマルトノを聴いていると、駄作と言うつもりはないがちょっと苦手だと思ってしまう。
「聖体秘蹟への讃歌」は1932年に作曲されたものの、その後の戦禍によりスコアが失われ、1947年に記憶に基いて書きなおしたものといいます。出だしを聴いただけでトゥーランガリラを想起せざるを得ないところなど、これはむしろ1947年の作品と言いたくもなるけれど、それに続くドビュッシーのエピゴーネン丸出しの曲想や、仰々しいタイトルと内容とのギャップはやはり初期作という感じもします。
1933年に最初の妻クレール・デルボスのために書かれた「幻想曲」は、メシアンの死後、2007年にデュラン社より出版されたとのこと。メシアン独自の和声にも溢れ、初期の全貌を把握するうえで貴重な作品かもしれないが、佳作扱いするのはすこし躊躇われる感じも。

チョン・ミュンフン指揮するフランス国立放送フィルハーモニー管弦楽団の演奏はたいへん美しく精緻。「天の都市の色彩」など、ブーレーズほどの踏み込みはないようにも思うがこれはこれで立派な演奏だと思います。初期作がこのような高いレベルで聴けるというのはたいへん喜ばしいことだと思います。
(この項続く)

by nekomatalistener | 2016-10-02 15:32 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

Olivier Messiaen Complete Editionを聴く(その6)

某業界紙にあるメーカーの「リケジョ向けイベント」の記事が載っていたが、今時リケジョて、「ナウなヤング」くらい読んでて恥ずかしいな。しかもこれ、理系女子を対象にしたイベント「理工チャレンジ(リコチャレ)」の一環で、リコチャレっつーのは「内閣府や経団連などが共催、企業や大学の協力で展開」しとるそうな。リコチャレ(笑)。もう理系女子は怒ってもいいと思うの。





引き続き60年代の作品を中心に。

 CD26
 ①ミのための詩(管弦楽版)(1937)
 ②鳥たちの目覚め(1953)
 ③七つの俳諧(1962)

 ①フランソワーズ・ポレ(Sp)
 ②ピエール=ローラン・エマール(Pf)
 ③ジョエラ・ジョーンズ(Pf)
 ピエール・ブーレーズ指揮クリーヴランド管弦楽団
 ①1994年11月録音②③1996月2月録音


指揮者としてメジャーになってからのブーレーズの特色が、良くも悪くもあからさまに現れ出たような一枚。若いころのブーレーズであれば、初期作の「ミのための詩」など決して取り上げなかったような気もしますが、大成した指揮者として「トゥーランガリラ」だけではないメシアンの全体像をブーレーズなりに示そうとしたのでしょうか。いずれも極限まで音を磨き上げ、ひたすら美しい響きを追及したといった趣だが、ブーレーズが若いころにアンサンブル・ドメーヌ・ミュジカルと録音した「七つの俳諧」と聴き比べてみると、ほとんどムード音楽のように聞えてしまうところが好き嫌いの分かれるところだと思います。といっても決して微温的というのではなくて、その完成度の高さというのは本当に素晴らしいのだけれど、旧録音のあの、生まれたばかりの現代音楽の仮借なき演奏と比べると、もしかしたら物凄く大切なものが失われているのではないかという思いを禁じえない。批判的な感想を書いたが、メシアンのスコアからこれほどの美しさを引き出すのはブーレーズの天才的な耳の良さという他ないということは強調しておくべきでしょう。辛口と思われがちな「七つの俳諧」がこれほど甘く聞こえるというのはある意味驚異的。


個々の作品について少しだけ触れておきます。
「ミのための詩」はメシアンの最初の妻クレール・デルボスのために書いた1936年の歌曲集を翌37年にオーケストラ伴奏に編曲したもの。この最初の結婚は不幸な結果に終わったけれど、この歌曲集はメシアンには珍しく思われるほど愛と優しさにあふれたもの。こういった作品も魅力的だ。比較的知名度が低く、日本語で読める文献も少ないですが、大井浩明のブログに寄せた甲斐貴也氏の解説は曲の背景を知る上で大変参考になりました。

「鳥たちの目覚め」は鳥の歌だけを素材とした20分ほどの小オーケストラのための作品。最初長いピアノ・ソロのユニゾンで一羽の鳥が啼き始め、次第に鳥が増え始めて曲の中ほどでは様々な鳥たちが目覚めて一斉に啼きだす。メシアンの作品としては辛口の部類だと思いますが、そのめくるめく啼き声には圧倒される思いがします。
大変実験的な音楽と、絵画的描写的な構図との重ね合わせ。こういった形でなければ53年の段階ではメシアンといえども鳥の歌だけの作品というのは提示し得なかったのだろう。しかしこの実験は、わずか3年後には「異国の鳥たち」や「鳥のカタログ」という傑作に結実する。そのプロトタイプとしての「目覚め」をブーレーズは録音する価値があると考えたのだろう。曲の終りがた、ピアノの高音でチチチと鳥が啼くところでふとクセナキスの「エヴリアリ」を思い出したりするのも楽しい。

「七つの俳諧」はメシアンとイヴォンヌ・ロリオが1962年に日本を訪れた際の様々な印象を7つの短い音楽にまとめたもの。第4楽章の雅楽の響きを翻案したものの他はことさら日本的な素材はないが、これは60年代の傑作群のひとつといって良いと思います。
第1曲「導入」は微かな風に反応して動くモビルを見ているような極度に抽象的な、しかも美しい音楽。本人がどういうか分らないが、例えばハリソン・バートウィッスルとか近藤譲のある種の作品に(影響とは言わないが)微かな木霊を聞く思いがする。「クロノクロミー」とも共通する、純粋に音響としての美を追求した傑作。
第2曲「奈良公園と石灯籠」。「導入」の印象のままに続けて演奏されます。作曲者が石灯籠に着目したのは、無機質だが構成と秩序の美が感じられるという点で、よく判るような気がします。
第3曲「山中━カデンツァ」。鳥の歌が現れて先のニ曲の冷たい美との対称を図る。鶯の歌がトランペットで歌われるのがめっぽう面白い。
第4曲「雅楽」。メシアンが雅楽を一旦咀嚼して再構成した響きは、雅楽のもつウルトラモダンな側面をよく捉えている。表面的でない日本の印象の内面への取り込みを感じます。
第5曲「宮島と海の中の鳥居」。ことさら描写的な音楽という訳ではないが、なめらかな金管の旋律と鳥の声、そして絵画的なタイトルによって、どこかクリスチャン・ラッセンのイラストみたいにつるつるした感じが無きにしも非ず。一歩間違えば表面的かつ俗悪な印象すら与えるリスクを孕みながらも、辛うじて抽象的な美として存立しているところがメシアンのメシアンたる所以か。
第6曲「軽井沢の鳥たち」。「クロノクロミー」、そしてこの「俳諧」において、鳥の声は自然の描写といったレベルを遥かに超えて、音響的素材として抽象的な知的構造物のいわば建築資材としての役割を果たすようになったように思う。メシアンは同じ事を何十年もやっているようでいながら、鳥のカタログから更に高みに昇ったのではないか。
第7曲「コーダ」。「導入」とほぼ同じ素材を用いてシンメトリカルにこの楽曲を締めくくります。
(この項続く)

by nekomatalistener | 2016-09-11 19:05 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

Olivier Messiaen Complete Editionを聴く(その5)

最近の話だけどピアノのレッスンでブラームスの3番ソナタの第1楽章を弾いたら、最後の和音に対して先生に「ニャン、じゃなくてニャ~ン」と言われた。ニュアンスはビシバシ伝わるので、その時はなるほどと思ったが、あとで楽譜に赤鉛筆で「にゃーん」と書いてあるのを友人に見られてちょっと恥ずかしかった。





引き続き60年代の作品を中心に聴いていきます。

  CD11
  オルガンのための前奏曲(1930)
  献堂式のための唱句(1960)
  モノディ(1963)
  キリストの昇天(1933~34) 
  聖霊降臨祭のミサ(1949~50)

  オリヴィエ・ラトリー(org)
  2000年7月パリ・ノートルダムで録音


今回の一枚はオルガンのための作品集。
この5曲、最初期の「前奏曲」と「キリストの昇天」以外は、非常に晦渋な作風で、メシアンにとってのオルガンという楽器はピアノ以上に実験の場として機能していたのではないかという印象を持ちました。メシアンのピアノ作品がいずれも高度な技巧を駆使したものであるとしても、それはあくまでもイヴォンヌ・ロリオを想定して書いたからそうなったのであって、メシアン自身の腕前の程はどうだったのだろうか、という問いに対しては、2台ピアノのための「アーメンの幻影」の、初演でロリオが担当したプリモ(第1ピアノ)とメシアンが担当したセコンド(第2ピアノ)の、かなりはっきりとした技巧的水準の差を見ればある程度はっきりしていると思います。だが、オルガンの場合、どこまでもメシアン自身による演奏を想定して書かれており、そのために却ってピアノよりも自由な即興的要素や、容易に人を近づけない実験的精神に溢れた作品になりえたと考えることが出来そうです。

最初の「前奏曲」は1930年(ネットには28年という記載も)に作曲され1997年に遺稿の中から発見されたとのこと。初期作ながらも聴けばすぐメシアンと判る個性の強さ。ドビュシー直系の音楽だが、後半の巨大なゴシック建築のような和音群は宗教的法悦を感じさせるメシアン独自なもの。だが私はふとサティの「4つのオジーヴ」を思い出しました。フランスの音楽の底知れぬ魅力の源流をあれこれ想像する楽しみがここにもありました。

1960年の「献堂式のための唱句」については「聖堂奉献祭のための唱句」という訳も見かけます。先程、メシアンにとってオルガンという楽器はピアノ以上に実験の場であったと書きましたが、この作品もおよそ聞き手に媚びるということがない。だが静謐なモノディと鳥の歌に挟まれて何度か現れる色彩的な和声はまぎれもなくメシアンのものであって、峻嶮な音楽という感じはしません。もともとコンセルヴァトワールの学生の試験用として書かれたということと関係があるのかも知れません。

次に1963年の「モノディ」。メシアンには例えば「世の終わりのための四重奏」の中のクラリネットソロとか、以前このシリーズでも取り上げた「峡谷から星たちへ」のホルンソロのような不思議な楽曲があるが、このオルガンのための「モノディ」もその系列をなすものだろうか。実際に教会やコンサートホールで聴けばどう感じるか分らないが、CDで聴くだけではちょっと途方に暮れる感じがします。だがメシアンの全体像を知るには、こういった作品を知らずに済ますことはできないだろうと思います。

1933年に管弦楽のために書かれた「昇天」をオルガンに編曲する際、メシアンは第3楽章を別の楽曲に入れ替えています。宗教的な法悦、爆発的な歓喜、気の遠くなるほど長く引き伸ばされた甘い旋律、等々初期メシアンを代表する作品には違いありません。こういった楽曲にオルガンという楽器は実に相応しいと思いますが、私がひねくれているのか信仰心を持たないせいか、感動というよりも些か大仰に過ぎるところや通俗的な側面を感じます。

メシアンのオルガン作品の晦渋さや実験性という点で、とりわけ1950年の「精霊降臨祭のミサ」のそれは群を抜いているように思いました。全5楽章の内、最初の4つの楽章は、およそ音楽の快楽といったものと無縁な、ちょっとやそっと聴いただけでは山裾に近づくことすら困難な音楽が続きます(第4曲だけ少し甘い旋律が出てくるけれど)。最終楽章でようやく音楽的な爆発が聴かれますが、おそるべき不協和音のクラスターは、一瞬リゲティの「ヴォルーミナ」を思い出すほどの凄まじさで、メシアンが実際の降臨祭のミサでこれを弾いたのかどうか知りませんが、もしそうならミサに集まった信徒たちは呆気にとられたことと思います。
ちなみにタイトルの「精霊降臨祭」pentecôteはペンテコステあるいは五旬節とも言われ、一般の日本人にはなじみが薄いがカトリックでは復活祭の50日後(年により異なるが5月半ばから6月半ば)の重要な祝日であるらしい。

奏者のオリヴィエ・ラトリーは1962年生まれのオルガニストで、ノートルダム寺院の正オルガニストとのこと。これまであまり近現代のオルガン曲を聴いてこなかった私にはその演奏の巧拙を語ることはできませんが、大変な集中力と知性を感じました。
(この項続く)

by nekomatalistener | 2016-08-26 23:15 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)