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Olivier Messiaen Complete Editionを聴く(その16)

いつか自分が死ぬ直前には、たとえばバッハのコラールなんかが頭の中で鳴っているだろうか。よりによって「有馬兵衛の向陽閣へ~♪」みたいなんだったらやだな。





落穂拾いみたいな雑多な曲を集めた1枚。

CD31
①主題と変奏(ヴァイオリンとピアノのための)(1932)
②キリストの昇天(1935)
③ミのための詩(1937)
④ステンドグラスと鳥たち(1988)
⑤ヴォカリーズ・エチュード(1935)

①ギドン・クレーメル(vn)、マルタ・アルヘリチ(pf)
②チョン・ミュンフン指揮バスチーユ歌劇場管弦楽団
③ノエル・バーカー(Sp)、ロバート・シャーロウ・ジョンソン(pf)
④イヴォンヌ・ロリオ(pf)、カール・アントン・リッケンバッハー指揮ベルリン放送交響楽団
⑤ナタリー・マンフリーノ(Sp)、マリ・ヴェルムーラン(pf)

①1985年4月②1990年10月③1971年5月4-7日④?⑤2008年7月4日録音

「キリストの昇天」(1932/33)はオルガンのためのバージョンを先日紹介しましたが、このオーケストラ版が先に書かれており、後から第3曲を差し替えてオルガン用に編曲したとのこと。オーケストラ版は、良くも悪くも先人達からメシアンが得たものが露わに示されているけれども、オーケストラ・ピースとしての完成度の高さはもっと喧伝されて然るべきだろう。その穏やかな曲調と相俟って、もっとコンサート等で取り上げられないものかと思います。「先人達から得たもの」と書きましたが、特に第1曲における「パルジファル」の影響、第3曲のオリエンタリズムにおけるサンサーンス、そしてもちろんドビュッシーの影響は歴然としています。メシアンとサンサーンスの比較に異を唱える方も多かろうと思いますが、日本におけるサンサーンスの評価というのは不当に低いのではないかと思う(文士崩れの評論家の酷評はともかく、プロの音楽家の評価は概ね高いと聞く)。メシアン自身、後にサンサーンスを批判しているようだが、前衛音楽家として守旧派の代表たるサンサーンスを批判するのは当然として、少なくともこの時期のメシアンのオーケストラ書法にはサンサーンスの刻印が刻まれているような気がします。
チョン・ミュンフンの演奏はその精緻さで際立っていると思います。初期作がこれほどのレベルでレコーディングされるというのは本当に素晴らしいことだと思う。

以前このメシアンのシリーズその6で、甲斐貴也氏の論評を紹介したが、それによると「主題と変奏」(1932)と「ミのための詩」(1937)はどちらも最初の妻クレール・デルボスとの結婚が直接の契機となってかかれたものらしい。そう思って聴くからかも知れませんが、確かにこの2曲、かたやヴァイオリンとピアノのデュオ、かたや連作歌曲集と形態は違えど双子の兄弟のように似ています。それは作曲技法としては移調の限られた旋法による明確な調性作品、聴いた印象としては穏やかで幸せに満ちた曲調が支配的。いまだ習作の域を出ない初期作とは言え、不思議な魅力を持つ佳作だと思います。
「主題と変奏」はクレーメルとアルヘリチのデュオで、こんな落穂拾いみたいなディスクにはもったいないくらい素晴らしい演奏。「ミのための詩」はもっと透明な、天上的な声で聴いてみたいという気もするけれど、曲を知るには何の問題もないと思います。

ブーレーズとアンサンブル・アンテルコンタンポランの委嘱で書かれた「ステンドグラスと鳥たち」は一曲の大半が鳥の歌から成り立っている音楽としては最後のものだろうと思います。ブーレーズの委嘱だから、という訳ではないのでしょうが、晩年の作としては辛口の部類。スコアがどうなっているのか分かりませんが、途中で「クロノクロミー」のEpodeの箇所を思わせるようなカオスが出現するのが非常に印象的。10分に満たない小品ながらも重要な作品であると思います。シュレーカーなどちょっとマニアックな作品を取り上げることで知る人ぞ知る指揮者、カール・アントン・リッケンバッハーの指揮も見事。

1935年の「ヴォカリーズ・エチュード」は未だ習作の域を出ていない小品。そもそもこのアルバム、”Complete Edition”と言いながら結構遺漏が多いのだが、この手の初期作品はもう十分、といったところ。きれいな曲だし、もし好きな方がおられたら申し訳ないのだが・・・。
(この項終り)

by nekomatalistener | 2017-10-26 00:18 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

Olivier Messiaen Complete Editionを聴く(その15)

久々の映画鑑賞でポール・バーホーベンの「エルElle」を観る。イザベラ・ユペール扮するヒロインがレイプ犯を追い詰めるサイコサスペンスかと思ったら、中ほどで犯人があっさり分かってからの全く先が読めない展開が凄い。フェミニストが発狂しそうな描写が山ほどあるけど、多分何を言われても歯牙にもかけなさそうなのが潔い感じ。登場人物でマトモな人間が一人もいないのも笑っちゃうが、特に敬虔なクリスチャンへの悪意がハンパじゃない。おそろしく病んだ物語なのに後味が悪くないのも不思議といや不思議。でも、映画が終わって館内が明るくなった時の、観客のなんともいえない残尿感みたいなもやもやが最も面白かったかも。





メシアンがオルガンのために書いた二つの大作を聴いていきます。かたや戦後の前衛の旗手であった頃の作品、もう一つは晩年の作品です。


 CD12/13
 オルガンの書(1950)
 聖体秘蹟の書(1984)

 オリヴィエ・ラトリー(org)
 2000年7月パリ・ノートルダムで録音


私はどうもメシアンのオルガン作品が苦手だということは再三書いてきました。1950年に作曲された7曲からなる「オルガンの書」についてもなかなか手強い印象ですが、これまで聴いてきたオルガン曲のなかでは最も面白い作品でした。手元にスコアがないので解説の受売りですが、構成原理としてはヒンドゥーのリズムとセリエリズムと鳥の歌の混合、それがカトリックの教義(楽譜にはコリント人への第一の手紙13:12や、ローマ人への手紙11:36が記されているらしい)と結び付けられているといったところ。確かに、この前後の作品と比べても、というよりメシアンの全ての作品の中でも最も前衛的な作風で、1948~49年あたりの「カンテヨージャーヤー」や「4つのリズムのエチュード」に通じるものがあります。ただ、ピアノと違ってオルガン作品の場合、めくるめくようなヴィルトゥオジテはあまりなく、また人がオルガン作品に期待するような分厚くマッシブな響きはとても少なくて、(激烈な無窮動の第6曲を別とすると)上記の構成原理がむき出しになっているかのような、あるいは点と線だけで書かれたような薄い響きが殊更実験的な印象を強めています。終曲は静謐な印象ながらも複雑なリズムカノンの技法が用いられていて、「音価と強度のモード」でやったことをオルガンで展開しようとしたのかも知れません。数回耳で聴いた程度ではなかなか腹に入らない作品ですが、これは今後何度も聴いてみたいと思います。

1984年の「聖体秘蹟の書」はメシアンの最後のオルガン作品であり、全18曲からなる大曲。その大半はパリのサント・トリニテ教会でのメシアン自身の即興演奏を基にしているといいます。私の苦手意識を横に置いておくと、これはまさにメシアンの生涯に亘るオルガン作曲技法の集大成と呼ぶに相応しいもので、そこには鈍い色彩の油絵のような分厚い和音から、晩年の特色である薄い和声、点と線で書かれたようなテクスチュアまで、さまざまなグラデーションが見られる。また禍々しい不協和な響きからメシアン初期の、あの快楽とも苦痛ともつかない美しくも歪んだ和声、また第16曲のように殆どイージーリスニングと見紛うばかりの甘い和声まで、調性と無調の間のグラデーション、さらにグレゴリオ聖歌風のモノディとホモフォニーの教義問答、徹頭徹尾鳥の歌で構成された楽曲(第15曲)、激烈なトッカータに甘いカンティレーナと、本当に様々な技法が次々と立ち現れるのは壮観という他ありません。しかし、その野放図に伸び広がるゴシック建築みたいな悪趣味ぶりというのは、やはり私にはなかなか素直に受け入れがたい側面もあるのでした。おまけに、18曲それぞれに例によって宗教的な表題がついており、最後まで徹底した宗教オタクであったメシアンは、その点でも私には遠い音楽家であったと言わざるを得ません。もう少し聴き込めば印象も変わるだろうか、と思いながら、なかなか聴き通すのが困難な作品でした。
(この項終り)

by nekomatalistener | 2017-10-08 14:33 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

佐渡裕のトゥーランガリラ交響曲

「バーニラ、バニラ、バーニラ求人、バーニラバニラで高収入~♪」って大音量で流してるフーゾク系アドトラック、ふとしたはずみに頭の中でエンドレスで鳴り出すのでやめてほしい。





随分日が経過したので備忘のみ簡単に。


 兵庫芸術文化センター管弦楽団 第99回定期演奏会
 2017年9月17日@兵庫県立芸術文化センター
  メシアン トゥーランガリラ交響曲
  (アンコール)
  ピアノとオンド・マルトノのための未刊の4つの小品より 第1曲

  指揮: 佐渡裕
  ピアノ: ロジェ・ムラロ
  オンド・マルトノ: 原田節
  管弦楽: 兵庫芸術文化センター管弦楽団


昨年の京響に引き続いて今年もトゥーランガリラを聴くことができました。
佐渡裕の指揮というのは、意外に先入観を覆すような読めないところがあって、どういった演奏になるのか楽しみでしたが、今回の演奏は一言でいえばエンタメ志向の強いとても分かりやすい演奏。それがこの人の強みであり、また弱みでもあるといったところ。
昨年聴いた高関健氏の指揮を思い出すと、その違いは歴然としています。高関の演奏は(どこがどうと具体的に言葉にするのは難しいが)分析志向といっていいものでしたが、佐渡のほうは早い楽章は異様なほど早く、遅い楽章もあまり粘らない。退屈しがちな聴き手にはちょうど頃合いなのかも知れません。「星の血の喜び」など、猛烈なテンポで金管が派手に雄叫びをあげるのが刺激的で、これをかっこよく感じる聴き手も多いのでしょうが、私は本当はこの作品、オーケストラの技量自慢のダシではなくて、もっとスコラ哲学がめんどくさいという意味合いで「めんどくさい」作品だと思うので、なんだかメシアンの「レスピーギ化」といった感じがしました。「愛の眠りの園」はとてもきれいで、素晴らしい弱音が聴けたのだが、やはり緩徐楽章全体の印象はあっさりしてる、というもの。昨年のブリテンの舞台、ボトムとタイターニアの濡れ場でねっとりとエロい音楽をやった人にしてはちょっとなぁ、という感じ。
現実問題として、関西(京都はちょっと違うが)でトゥーランガリラをやろうと思えば、こういうエンタメ路線しかないのかも知れません。実際、今回の演奏でも(でさえ)途中で辛抱堪らず席を外す客がかなりいたので、仕方ないのかなとも思います。でもそれではこぼれ落ちていく要素がこの曲にはたくさんあって、それをこそ実演で聴きたいという客もいるはず。例えばオンド・マルトノと木管の絡み合いはCDで聴くだけでは絶対に分からない面白さがあると思うのですが、それを味わう環境ではなかったということ。関西(しつこいようだが京都を除く)で20世紀作品をやる意義は大きいはずだが、結果は残念という他ない。
良し悪し、好き嫌いは別として、ちょっと面白かったのは、ガムラン隊(ピアノ、オンド・マルトノ、チェレスタ、ジュ・ドゥ・タンブル、ビブラフォン)と、金管とそれ以外の楽器が、マッスとしても溶け合わずにバラバラに聞こえたこと。猛烈なテンポでも、3群の各々の縦の線はよく合っていて、技量の高さが分かるのだが、3群がそれ以上溶け合わないのは不思議。たぶん、メシアンのスコア自体にそう聞こえがちな要素があって、あまりテンポを煽るとそれが露わになるということでしょうか。主役ともいうべきムラロのピアノは見事だが、本当はもっと表現したいことがあるだろうに、と気の毒に思える瞬間もありました。アンコールの初期の小品のほうが寧ろ表現者としてはカタルシスがあったのでは、と思ったほど、これは意外な聴きものでした。
(この項終り)

by nekomatalistener | 2017-10-01 23:10 | 演奏会レビュー | Comments(0)

Olivier Messiaen Complete Editionを聴く(その14)

東京五輪音頭のお披露目のニュース、どうでもいいんだけど井手茂太が浴衣着て踊ってると「ここ芝プー?」って思ってしまう。なんかね。なんでだろ。





いよいよ超大作「アッシジの聖フランチェスコ」に辿り着きました。


CD16~19
アッシジの聖フランチェスコ
 天使: ドーン・アップショウ
 聖フランチェスコ: ジョゼ・ヴァン・ダム
 レプラ患者: クリス・メリット
 兄弟レオーネ: ウルバン・マルムベルク
 兄弟マッセオ: ジョン・アレール
 兄弟エリア: ギー・ルナール
 兄弟ベルナルド: トム・クラウゼ
 兄弟ジルヴェストロ: アコス・バンラキー
 兄弟ルフィーノ: ダーク・ダーズ
 アーノルド・シェーンベルク合唱団
 ケント・ナガノ指揮ハレ管弦楽団
 1998年8月ザルツブルク音楽祭のライヴ録音


私の手元に一冊の奇妙な書物がある。
ピエール・ジャネ著『症例マドレーヌ 苦悶から恍惚へ』(松本雅彦訳・みすず書房)。1926年の『苦悶から恍惚へ 信念と感情に関する覚書』という膨大浩瀚な著作の冒頭部分だけの訳出であり、これだけでフロイトとほぼ同時代の精神科医であったジャネの業績を云々することは不可能というしかない。
北フランスの裕福な工場主の家庭に生まれたマドレーヌは、10代の終わりに清貧の生活に憧れて家を出奔、24年の間行方不明となり、42歳の時にパリのサルペトリエール病院に入院し、入退院を繰り返しながら64歳に死ぬまで実に22年もの間ジャネの患者として膨大な私信を交わした。彼女の症例の代表的なものは、宗教妄想とそれに伴う苦悶発作や恍惚発作、つま先立ちの歩行(下肢の拘縮)、それと繰り返し手と足にあらわれるキリストの聖痕(スティグマ)である。後に出奔の理由に関して彼女はこう記している。「そのころ、この聖者(アッシジの聖フランチェスコ)の徳と聖からはほど遠いながらも、私は自分を聖フランチェスコのようだと思っていたし、子どものころから聖フランチェスコの情熱に強い影響を受けていました。」(22~23ページ)
しかしここで言及したいのは、フランチェスコのことではなくて、彼女の症例の一つとして記されている聖痕のことである。
「いま一つ興味ある身体症状が私の研究を刺激した。入院した病棟でマドレーヌに小さな傷跡が目撃されたことである。彼女は、この傷跡は右足の甲に自然にでき、ずーっと続いてきたようだ、と言っている。その小さな掠り傷はほとんど表皮にとどまる浅いもので、ちょうど足の甲の中央にあり、卵形をして、縦10ミリ幅7ミリほどのものであった。彼女は、幸福感に包まれた深い眠りに引きつづいて足に激しい痛みを覚え、その後足の甲に小さな水泡ができてきたこと、そしてその水泡が数時間後につぶれ小さな潰瘍のようなものになった、と言っている(中略)しかししばらくすると、この水泡はさまざまな影響下であちこちに再び現れ、しかも正確に足の甲、掌、左胸と以前と同じ場所に出現してくるのである。これら小さな傷の現れるのが足、掌、左胸であることを考えれば、またそれらの現れるのはマドレーヌが十字架の姿勢をとりながら恍惚の眠りにある宗教儀式のときであることを付け加えれば、躊躇なくこの皮膚の傷がキリストの五つの傷痕に関係があると思いいたるであろう。それは、恍惚状態にあって神秘的な考えを抱く人たちによく認められた聖痕(スティグマ)という現象を表している。」(44~45ページ)
「私はこの研究を注意深く進めることができた。というのも、マドレーヌのサルペトリエール滞在中に、聖痕は頻繁に出現したからである。1896年に二回、1897年に五回、1898年に五回、1899年には一〇回を数えている。このテーマの研究結果はあらためて述べるが、いずれ聖痕現象に類似したものを区別吟味してゆく難しさに気づくことになる。」(46ページ)
「月経に関して特筆すべき所見はほとんどない。おおむね順調で、ただ二十歳の遁走のとき二ヶ月から四ヶ月ほど中断している程度である。ただ、聖痕の出現と月経の出現とに関連があることはすでに指摘しておいた。聖痕はほとんど月経に先立つ数日前に現れている点である。」(269ページ)
残念ながらこの邦訳ではこれ以上の記述はなく、この「聖痕」がマドレーヌの自傷なのかどうかは分からない。未邦訳の部分に更なる分析があるようだが、それについて触れられた日本語の文献も見当たらない。一つだけ言えることは、日本語で聖痕について調べようとすると、ほとんどが宗教かオカルトか、というありさまであって、多少とも科学的な裏付けのある文献というのはほとんどないと思われること。上記の著作にしても、精神医学の黎明期に書かれたものであって、オカルトとどこが違うのか、という意見もあるだろう。だが、宗教にもオカルトにも逃げずに、ジャネ自身が見た事実を淡々と記述していく姿勢には何か好ましいものを感じたということだけは確かだ。

最初に長々と「聖痕」についてのジャネの引用をしたのは、カトリックの信仰を持たない私にとって、このオペラを理解しようとする上で最も障碍となるのが、第三幕第7景の、フランチェスコの聖痕拝受の場面であるから。
このほとんど舞台作品としてのスペクタクルな愉しみを欠くオペラの中で、それでも見せ場であると思われるのは、第3景のレプラ患者への接吻と治癒、第6景の小鳥への説教、そしてこの聖痕拝受の場面だろう(いずれも演出家泣かせだとは思うが)。だが、最初の二つが、フランチェスコの慈愛に満ちた精神によって無宗教者にもそれなりの納得が得られるのに対し、聖痕については理解の外にあるとしか言いようがない。私はこのブログでメシアンについて書きながら、何度もカトリックの教義を知らずしてメシアンの理解はあり得ないのではないか、と記してきた。この長大なオペラでも、やはりこの第7景の音楽は他の場面の音楽(それなりに美しく、繰り返し聴けば腹に入ってくるという感触が得られる)に比べて晦渋の度合いが高いように思う。それは敬虔なカトリック教徒であるとともにインテリでもあったであろうメシアンその人の、聖痕拝受を教義として受容するにあたっての苦悩の反映であるような気がする(それは単に私のメシアンへの無理解を証するだけのことかも知れないが)。

もう一つ、この第三幕第7景で理解の妨げとなるのが、次の箇所。聖フランチェスコが神に「この卑しむべき魂、このつまらぬ肉体をあなたに捧げてもよいのか」と問うたのに対して合唱(神)が応える場面。

Choeur
C’est Moi, c’est Moi, c’est Moi, je suis l’Alpha et l’Oméga.
Je suis cet après qui était avant. Je suis cet avant qui sera après.
Par Moi tout a été fait. C’est Moi, c’est Moi qui ai pensé le temps et l’espace.
C’est Moi,c’est Moi qui ai pensé toutes les étoiles.
C’est Moi qui ai pensé le visible et l’invisible, les anges et les hommes,
toutes les créatures vivantes. Je suis la Vérité d’où part tout ce qui est vrai,
la première Parole, le Verbe du Père,celui qui donne l’Esprit, est mort et
ressuscité, Grand-Prêtre éternellement:
l’Homme-Dieu! Qui vient de l’envers du temps, va du futur au passé, et
s’avance pour juger, juger le monde. . .

合唱
私、私こそ、この私こそが、アルファにしてオメガである。
私はかつては始めにいた者であるが、今ここに後から来た者としてある。
私はやがては後から来た者となるが、今ここに始めにいた者としてある。
この私によって全てのことは成された。
私、この私こそが、時空を構想した。
私、この私こそが、すべての星々を構想した。
この私こそが、目に見えるものと目に見えないもの、天使と人間、
あらゆる命ある被造物を構想した。
私は真理である、全ての真なるもの―
 最初のことば、
 父の「み言葉」[注:イエスのこと]、すなわち精霊を降らせ死後の復活を果たした者、
 永遠なる偉大な司祭であり、人の姿をとった神!
 時間の向こう側からやって来て、未来から過去に歩み、
 世界を裁く日のために、前に進む者...
それら全ての真なるものは真理である私がその源である。

(訳は本邦初訳の『インカ帝国の滅亡』(マルモンテル作、岩波文庫)の訳者である湟野ゆり子さんにお願いしました。この場をお借りして感謝申し上げます。)
「私はアルファでありオメガである」はヨハネの黙示録に何度か出てくるが、その後はメシアンのオリジナルの台詞のようだ。だがこれは、聖句によくあるレトリックではなくて、メシアンが生涯の終わりに辿り着いた神の定義のように私には思える。このオペラ全体の頂点は、終幕のフルオーケストラと合唱の数十秒も続く協和音の爆発もさることながら、この晦渋な第7景の合唱こそ真の頂点という感じを受ける。明晰であるのに何かしら理解を拒むようなこの重要な台詞をどう理解したらよいのか。大文字のMoi、父のみ言葉、真理・・・これはまるでラカンのセミネールを読んでいるみたいだと思いながら、案外と無宗教者がカトリックの教義に(帰依という正門から入るのではなく)近づくには、ラカンのシェーマの理解が不可欠ではないかと思った。それは今の私には手が届かないものであるが、音楽だけを聴いていたのでは、また歌詞の上辺だけを読んだだけではどこまでも浅はかな理解しか得られないのであるなら、いつかは手を出さないわけにはいかないだろうと思う。いや、メシアンの音楽を楽しむのに、そこまで思い詰める必要はないだろう、と言われるかも知れないが、それは違う。少なくともメシアンはこのオペラで聴いて楽しいだけの音楽を書こうとは一瞬たりとも思っていなかったはずだ。この神の言葉を単に詩的なレトリックとして捉えていたのでは決して辿り着けないものがあるように思う。

メシアンがこの大作で用いている音楽語法についてくどくど述べるつもりはないが、それに関連することとして、メシアンは第5景で、天使の奏でるヴィオールを聴いて失神したフランチェスコにこのような台詞を歌わせている。
Si l’Ange avait joué de la viole un peu plus longtemps,
par intolérable douceur mon âme aurait quitté mon corps. . .
(もう少し長く天使がヴィオールを奏でていたら、その耐え難い甘美さゆえに私の魂はこの肉体を離れていただろう)
メシアンが理想として思い描いていた音楽はこのような音楽ではなかったか。このブログで、私の仮説として、メシアンの絶頂期は50年代の終わりから60年代あたりであって、70年以降は随分と隙間の多い、手癖で書いているような音楽が多くなること、また40年代以前の作品によくある甘美な和声が70年代以降に再度現れ、ある種の退嬰を感じさせることを書いてきた。天使の音楽を書くには遅すぎた。メシアン老いたりと思わざるを得ないのだが、生の演奏でこの場面を聴けばどのように感じるだろうか。私は今秋の11月23日にびわ湖ホールでの公演を聴きに行く予定なのだが、ここしばらく(かれこれ30年近く前に小澤征爾の録音を聴いて以来だが)このオペラを聴きながら、ちょっと予習のつもりがあちこちに仕掛けれられた躓きの石に躓いて、少しも先に進めないのである。

演奏については何の不満もない。先に書いた小澤征爾の演奏のことは殆ど記憶になく、当時もよく分からないまま持て余してCDも手放してしまい、比較することは困難だが、レプラ患者が奇跡によって治癒する場面など実に美しく、終幕の壮麗さも見事。同時に、この上なく空虚さも感じ、以前に「クロノクロミー」について書いたときのような、興奮を抑えきれないほどの感動は感じることができない。これはもう演奏の所為ではなくメシアンの晩年の作品の限界といっていいのだろう。
(この項続く)

by nekomatalistener | 2017-08-26 22:06 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

Olivier Messiaen Complete Editionを聴く(その13)

辛子明太子とプチトマトを一緒に食うと、口の中がめっちゃ生臭くなることを発見。最凶の食い合わせかも。一度お試しあれ。





前々回「異国の鳥たち」を取り上げたので、今回はそれより少し前の「クロウタドリ」を中心に聴いていきます。

 CD27
 ①美しき水の祭典(1937)
 ②ピアノとオンド・マルトノのための4つの未刊の小品(?)
 ③モーツァルトの様式による歌(1986)
 ④クロウタドリ(1951)
 ⑤5つのルシャン(1948)
 ⑥抑留者の歌(1945)

 ①ジャンヌ・ロリオ六重奏団
 ②イヴォンヌ・ロリオ(pf)、ジャンヌ・ロリオ(オンド・マルトノ)
 ③ギィ・ドゥプリュ(cl)・イヴォンヌ・ロリオ(pf)
 ④クリスチャン・ラルデ(fl)、イヴォンヌ・ロリオ(pf)
 ⑤ジャン=ポール・クルデール指揮ル・マドリガル・アンサンブル
 ⑥サー・アンドルー・デイヴィス指揮BBC交響楽団、BBC合唱団

 ①1980年②~④1999年1月3・4日⑤1966年⑥1995年3月22日録音


「クロウタドリ」(「クロツグミ」と表記する文献もある)は1952年、パリ・コンセルヴァトワールのフルートの試験のために書かれたとのこと。技巧的なフルートに比べて、ピアノパートが(メシアンの楽曲にしては)随分平易に書かれているのも納得がいきます。作品の素材の大半が鳥の歌から成る作品としては最初期のものと言えそうです。
全体は大まかに言って5つの部分から成り立っています。
①ピアノの短い序奏の後、フルートのソロによる鳥の歌
②音列技法風のピアノとフルートの応答
③ピアノのトリルに始まるフルートソロの鳥の歌の再現
④音列によるピアノとフルートのカノン
⑤Vifに転じてからの目くるめくような鳥の歌とコーダ
音列技法風と書きましたが、例えば②は、まずピアノのFis-des-c-g-as-des-h-e-b-g-fisの音列をフルートが模倣します。ピアノの左手の伴奏にd,es,aが現れるものの、fは出てきません。同様に次のフレーズはピアノのf-g-as-ges-des-h-f-c-g-fisをフルートが模倣、左手の和声でb.eは出てきますがd,es,aがありません。Fisは何度も出てくるので、微妙に調性感があるような無いような、宙吊りにされたような不安を感じます。要は、彼自身の「音価と強度のモード」がきっかけとなって同時代に猖獗を極めたトータルセリエリスムとは似て非なる音楽であるということ。短い曲でピアノパートもシンプル、スコアも容易に入手できるので、もっと詳細に分析すれば面白かろうと思いますが、ここでは、鳥の歌が単なる作品の彩りとかエピソードのレベルを超えて、作品の中心原理となったこと、戦後の前衛音楽の旗頭から一転して孤高の道を歩むことになるメシアンの、いわば中期の始まり、メルクマールとなる重要な作品であるということだけ押さえておきたいと思います。
ラルデとロリオの演奏はもっと精密な演奏もあり得るだろうと思いながらも、その雰囲気というか、まさにメシアンの音と思わせる独特な味わいがあって、規範とするに足る演奏だと思いました。

1948年の「5つのルシャン」は大変重要な作品だと思いますが、作品の詳細に触れた文献は(日本語であれ英語であれ)ネットではなかなか見つかりません。「ハラウィ」、「トゥーランガリラ」と並んで「トリスタン三部作」と言われていることはよく知られていますし、16世紀フランドル楽派のクロード・ル・ジュヌClaude Le Jeuneの音楽にインスパイアされたらしいことも今回初めて知りましたが、歌詞の難解さ(シュルレアリスム風の詩と奇妙なオノマトペや造語の混合)も相俟って、この音楽へのアプローチとしてはあまり役立つ情報とは言えません。12人の歌手のための無伴奏合唱というスタイルや、ハーモニーの美しさもさることながら、専らリズムと特異なオノマトペ(t-k-t-k-t-k・・・のような)の面白さが追求されていることなど、メシアンの作品の中でも異色ですが、ある種の愉悦感(歌詞に相応しい言葉かどうか別として)は、シュトックハウゼンが1965年に書いた「ミクロフォニーⅡ」(12人の合唱、ハモンドオルガン、4リング・モジュレーターのための)を想起させるものがありました。どちらも男女それぞれ6人ずつの合唱ということで、シュトックハウゼンはメシアンへのオマージュとしてこれを書いたのではないかと思った次第。
演奏については、録音年代がいくぶん古いせいもあって、透明感とか精密さとは若干違うところが寧ろ作品の求めるものに合致している感じです。Youtubeでいろんな演奏を聴くと、リズム感の希薄な緩い演奏も散見されますが、このCDの演奏は早めのテンポでリズムもエッジが効いている感じが良いと思います。地声もあらわに吼えたり唸ったり、夜中にヘッドフォンで聴いているとちょっとアレな感じが堪りません。

「抑留者たちの歌」は1944年8月のパリ解放を祝うため、翌45年ラジオ・フランスの音楽監督であったアンリ・バローの委嘱で書かれた大オーケストラと合唱のための作品。初演後スコアが紛失したと思われていたところ、1991年になって放送局のライブラリーから再発見されたらしい。こういった珍無類の作品が聴けるのもコンプリート盤ならでは、ですが、どことなくソヴィエトのプロパガンダ音楽のような様相ながらも、メシアン流の和声とグロッケンシュピールやチャイニーズシンバルのギラギラした音色、それと異様なほどの高揚感があって、落ち穂拾いのつもりが思わぬ収穫でした。演奏も文句なし。

「美しき水の祭典」は1937年パリ万博の、噴水と花火のエキジビションのために委嘱されたとのこと。だからという訳でもないのでしょうが、メシアンにしてはどこかポップな味わいもあって、6台のオンド・マルトノという特殊な編成、第4曲と第6曲が後の「世の終わりのための四重奏曲」に転用されていること共々、人目を惹きやすいのか、意外によく知られている部類なのかも知れません。個人的には、印象派として見てもアヴァンギャルドとして見ても中途半端でちょっと苦手です。第4曲と第6曲は確かに美しいのですが、オンド・マルトノの人工的な音色で聞くと、なんだか斎場のお通夜や告別式で、開式を待つ間に流れているBGMみたいな感じ。

オンド・マルトノとピアノのための「未刊のページ(4つの小品)」はメシアンの死後に出版された作品で作曲年は不明。ドビュッシー風の和声は初期作らしいものですが、鳥の歌が後の作品に比べると非常に素朴な書法ながらもピアノに現れることから、年代の特定はなかなか難しいのかも知れません。BGMとして聞くならともかく、何度も繰り返し聴こうとすると少しもて余してしまいました。

クラリネットとピアノのための「モーツァルトの様式による歌」は作曲者晩年の1986年に、パリ・コンセルヴァトワールの学生のコンペ用に書かれたそうだが、メシアンを思わせる要素は皆無、微妙な違和感はあるものの、ほぼモーツァルト様式に忠実な小品。私にはどうも、作品目録を埋めていく以上の面白さは感じられませんでした。
(この項続く)

by nekomatalistener | 2017-06-24 00:41 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

Olivier Messiaen Complete Editionを聴く(その12)

私がまだ小学生の頃だと思うのだが、コロッケ屋さんを舞台にしたテレビドラマで、じゃがいもを皮ごと刻みながら「こうすると挽き肉みたいにみえるでしょ」とかなんとか、新入りの女性に教える場面があった。その時は「へーそうなんや」と思って観てたが、これ今なら食材偽装で炎上しそうだな。





今回は70年代の冒頭に書かれた大作「ニワムシクイ」を中心に聴いていきます。

 CD1
 ①8つの前奏曲(1928-1929)
 ②ニワムシクイ(1970)

 ロジェ・ムラロ(pf)
 ①2001.2.15②2001.2.22録音

50年代後半に書かれた「鳥のカタログ」の番外編、あるいは新「鳥のカタログ」の一篇として書かれ、結局単体で残った「ニワムシクイ」ですが、その規模の大きさ(このディスクの演奏は32分ほど)と絢爛たるピアノ技巧によって、メシアンの作品の中でも大変重要な作品であると思います。果てしなく鳴き続けるニワムシクイの歌を聴いていると、「鳥のカタログ」にこの鳥の名を冠した曲がないのが不思議に思えてきます。あるいはメシアンは、かつてこの鳥を取り上げるには自分自身の作曲のメチエ、あるいは妻イヴォンヌ・ロリオのピアノ技巧について何かしら満足できず、ようやく満を持して作品を世に問うたのが偶々この時期になったのかも知れません(あくまでも想像ですが)。いずれにしても素晴らしい作品で、もう少し時が経てばメシアンのピアノ曲の最高峰と言われるようになるのでは、と思います。
実はこの作品について書かれた素晴らしいブログがあり、私が附け加えることもあまりないかなと思います。


本当に作品への愛が溢れていますね。ですが、これを紹介するだけではやはり物足りないので、ここであまり触れられていないニワムシクイ以外の鳥たちの声を自分の勉強も兼ねて挙げておきましょう。「鳥のカタログ」同様、タイトル以外の鳥たちも沢山現われるので、その名称を知っておくことは無駄ではないはず。
まず現われるのはヨーロッパウズラ(仏Caille;羅Coturnix coturnix)とサヨナキドリ(Rossignol;Luscinia megarhynchos)。

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この2種類の鳥の歌が何度か繰り返された後に、主人公のニワムシクイ(Fauvette des jardins;Sylvia borin)が啼き始めます。

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お次はミソサザイ(Troglodyte;Troglodytes troglodytes)。

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ニワムシクイの歌がひとしきり続いた後、ヨーロッパアオゲラ(Pic vert;Picus viridis)とヒバリ(Alouette des champs:Alauda arvensis)、次いでズアオトリ(Pinson;Fringilla coelebs)。

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ニワムシクイの歌や自然描写がしばらく続いた後、様々な鳥たちが姿を現します。まずはオオヨシキリ(Rousserolle Turdoïde;Acrocephalus arundinace)。

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次にニシコウライウグイス(Loriot;Oriolus oriolus)。フランス語のLoriotは、綴りが少し違うが奥さんのロリオLoriodと発音が一緒なので、メシアンにとっては特別な鳥のようです。

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ハシボソガラス(Corneille noir;Corvus corone)、セアカモズ(Pie-grièche écorcheur;Lanius collurio)、トビ(Milan noir;Milvus migrans)が次々と一瞬だけ姿を見せます。

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ツバメ(Hirondelle de cheminée;Hirundo rustica)は鳴き声ではなくて飛翔する姿が描かれています。

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長大なニワムシクイの歌のあと、長い長い沈黙。クロウタドリ(Merle noire;Turdus merula)が現われます。
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ヒバリの歌がやがて目覚ましいピアノの難技巧のカデンツァに発展し、次第にテンポを落としていくといよいよ夜が近づいてきます。
そこで現われるのがキアオジ(Bruant jaune;Emeriza citrinella)。

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ゴシキヒワ(Chardonneret;Carduelis carduelis).

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ズグロムシクイ(Fauvette à tête noire;Sylvia atricapilla)。

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最後にモリフクロウ(Chouette Hulotte;Strix aluco)。

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鳴かないツバメも入れると実に18種類の鳥たちが現われるのでした。それにしてもメシアンの楽譜は本当に綺麗。楽譜の見た目の美しさと音楽の本質は、関係ないようでいて実は深い所で繋がっているような気がします。



メシアンがまだパリ国立高等音楽院の学生であった頃の「8つの前奏曲」は、最近のピアノ弾きには随分人気のある作品であるように見受けられます。確かに第1曲「鳩」や終曲「風のなかの反映」などはドビュッシーの「映像」や「前奏曲集」の延長線上にあるとても判りやすい音楽。もちろん、ドビュッシーを何とか乗り越えようとする試行錯誤の跡はいたるところにあって、単なる初期作にとどまらない面白さがあります。ですが、やはり後のメシアンの音楽と比べると習作の域を出ない、というのが冷静な評価だろうと思います。それにしても、この作品を聴くたびに、ドビュッシーの「12のエチュード」(1915)やスクリャービンの「3つのエチュードOp.65」(1912)が如何にとんでもない音楽であったかを逆に痛感します(特に後者は9度や7度のエチュードという斬新なもので、メシアンが知っていた可能性は高いと想像しています)。それと比べればメシアンの初期作は概してとても穏健な音楽というべきでしょう。


ムラロの演奏については、以前「鳥のカタログ」でウゴルスキーを引合いにしながら、精密だがモノクロームな感じだと書きましたが、今回も概ね同様の感想を持ちました。「ニワムシクイ」はライブ録音ですが、その精度はかなり驚異的。「8つの前奏曲」のほうは、綻びというほどではないものの、意外にもたついている箇所があって、まぁ基本的に指は回るはずの人ですから、向き不向き、あるいは作品の好き嫌いのレベルで少し差がついたのか、といった印象。この前奏曲については、昔のミシェル・べロフの録音が色彩的でとてもよかった記憶があります。
(この項続く)

by nekomatalistener | 2017-05-10 23:37 | CD・DVD試聴記 | Comments(4)

Olivier Messiaen Complete Editionを聴く(その11)

ネットニュースで、フィリピン沖に生息するエントツガイという不思議な貝の生態を知ったが、画像検索するとコテカみたいだった。殻の中身が、これがまた・・・(お察し下さい)。





これまで60年代の作品を一通り聴いてきたので、あとは時代を少しずつ遡ったり進んだり、気ままに聴いていこうと思います。という訳で、今回は「鳥のカタログ」の少し前に書かれた「異国の鳥たち」を含むディスクを聴きます。


 CD28
 ①おお聖なる饗宴よ(1937)
 ②世の終りのための四重奏曲(1940)
 ③ピアノと弦楽四重奏のための小品(1991)
 ④異国の鳥たち(1956)

 ①ケンブリッジ大学セント・ジョンズ・カレッジcho.
 ②ルーベン・ヨルダノフ(vn)、アルベール・テタール(vc)、クロード・デズルモン(cl)、ダニエル・バレンボイム(pf)
 ③イヴォンヌ・ロリオ(pf)、ロズモンドSQ
 ④ジャン=イヴ・ティボーデ(pf)、リッカルド・シャイー指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団
 ①1969.11②1978.4③1999.1.3~4④1995.9.9録音


まずは「異国の鳥たち」から。1956年、ピエール・ブーレーズの委嘱によって書かれた作品で、タイトルの通りインド、中国、マレーシア、南北アメリカ大陸の鳥たちの鳴き声が素材となっています。これは私には文句なしの傑作だと思われます。弦楽器を含まないオーケストラとピアノ、パーカッションのギラギラとした響きは、さながら南国の原色の鳥たちの姿を彷彿とさせますが、その音色としてのまとまりと、ピアノとオーケストラの交替の妙、様々な鳥たちが啼き交わすカオスと切迫したリズム、その全てが堅牢な知的構造物として統御されているのは、後にも先にもない、この時期だけのメシアンの特色と言ってもよさそうです。このすぐ後に書かれ始めた「鳥のカタログ」では、音楽の時間の流れは自然を模したかのようにもっとゆっくりと流れ、一つ一つの作品の演奏時間は時に途方もなく引き伸ばされ、自然の中を散策したり、散文を読んだりする体験に近いものとなりますが、「異国の鳥たち」では韻文で書かれた上質な詩を読む体験に近いという感じもします。ブーレーズがドメーヌ・ミュジカルを率いていた頃から繰り返し演奏しているのも、単に自分が委嘱したからというのではなく、この作品が彼の美意識にぴったりと合致するからに違いないと思います。そのブーレーズの演奏も良いけれど、このディスクのシャイーの演奏も愉悦に満ちた素晴らしいもので、辛口と思われがちなこの作品がこんなに楽しく聴けるというもの珍しかろうと思います。

「世の終りのための四重奏曲」は恐らくメシアンの中でも最も有名な作品だと思いますので、戦時下の一種の極限状況で書かれたといった情報については改めて書くまでもないでしょう。私は大昔にピーター・ゼルキンが結成したアンサンブル、タッシの演奏で初めてこの作品を知った世代なので、なんとなく(メシアンには何の関係もないのだが)70年代初頭のヒッピー文化を連想させるというか、LSDでラリってるようなイメージがついてまわるという時期があったのですが、改めて聴くとやはり凄い音楽だと思いました。初期のメシアンを代表する傑作でしょう。薄いガラス片を踏みしだくような独特の和声(例えば2曲目中ほどの下記譜例など)には陶酔感というか、一種の幻覚効果があって、そういう意味では「ラリっている」というのもあながち間違いではないのだけれど・・・。バレンボイムらによる演奏は気魄のこもった演奏で聴きごたえがあります。解説書には作曲者自身がレコーディングに立ち会い、お墨付きauthorizationを与えたと書かれています。

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1937年に書かれた初期の無伴奏合唱(オルガン伴奏は任意)のためのモテット「おお聖なる饗宴よ」は、ドビュッシーの影響もさることながら既にメシアン独特の和声が現われる大変美しい小品。ネットでスコアが拾えたので少しだけ下に掲げますが、この言葉の抑揚に則した自由なリズムを見ると、メシアンの重要な語法の一つである附加リズムの起源を見る思いがします。セント・ジョンズ・カレッジ合唱団の演奏はクオリティが高く、こうした初期の落ち穂拾いのような録音でも手を抜かないのがグラモフォンらしい感じがしました。

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メシアン最晩年の「ピアノと弦楽四重奏のための小品」は、メシアンには珍しいクラシックな編成ですが、実はウィーンの楽譜出版社ウニフェルザール社の経営者であるアルフレート・シュレーの90歳の誕生日のために委嘱されたもので、もともとの注文は弦楽四重奏のための小品であったところ、メシアンがピアノを加えて作曲したというものでした。思わせぶりなG-A-Gis-Dのモットーは動機労作風の展開はなく、ピアノと弦が緊密に絡み合うこともなく並置、交替するのみ。しかも途中からピアノによるニワムシクイの声となります(相の手のように挿まれる弦のパッセージがこのモットーの4音から始まるのが御愛敬)。お世辞にも面白いとは言えないこの作品、メシアンはあまり感興の湧かないまま作曲したのではないだろうか。
(この項続く)

by nekomatalistener | 2017-05-03 23:58 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

Olivier Messiaen Complete Editionを聴く(その10)

近鉄の車内放送で、車掌さんが何度も「ドアが閉まります、ドアが閉まります」と言ったあとに、ちょっと怒った声で”The doors will be closed!”と叫んではりました。外国の方がふざけてたんでしょうね。でも南海やったら「閉まるゆうとるやろがこのボケ」とか言いそう。





60年代の掉尾を飾る大作「我らの救い主イエス・キリストの変容」。

 CD14/15
 我らの救い主イエス・キリストの変容
 ロジェ・ムラーロ(Pf)、トマ・プレヴォー(fl)ロベール・フォンテーヌ(cl)
 エリック・ルヴィオノワ(vc)、フランシス・プティ(マリンバ)、
 ルノー・ムッツォリーニ(シロリンバ)、エマニュエル・キュルト(ヴィブラフォン)
 フランス国立放送合唱団
 チョン・ミュンフン指揮フランス国立放送フィルハーモニー管弦楽団
 2001年9月録音


1965年から1969年にかけて作曲され、1969年6月にリスボンで初演されています。テキストはマタイによる福音書の他、トマス・アクィナスの『神学大全』から取られているとのこと。しかし、このような外部情報が作品の理解に幾らかでも助けになるかと言えば勿論否である。正直なところ、私はこの大作を持て余していて、何度も聴けばそれなりに良さが分かるかと思いながらも、聴き通すこと自体がかなり重荷に感じています。作風は60年代の傑作群(「クロノクロミー」「七つの俳諧」「天の都市の色彩」)の流れを汲む辛口の楽章もあれば、幾分年代が遡ったような甘口のものもあって、その混合こそが70年から晩年に至るメシアンのスタイルの始まりだというのはよく分かりますが、私には苦手な音楽という他ありません。いまつらつらと考えていることは、やはり神学に対する教養なくしてメシアンの理解はあり得ないのではないだろうか、ということ。メシアンの少なくとも幾つかの作品は、音楽愛好家の誰でもがアプローチ可能な、普遍的で開かれたものではなくて、カトリックの教義を非常に深いレベルで共有する者にのみ、その狭き門が辛うじて開かれているのではないか、などと考えています。そのアプローチの至難さを思うと、半ば諦めの境地ではありますが、せめてトマス・アクイナスの著作の幾つかでも読んでみようかという無謀な気持ちも湧いてきます。メシアンの作品の中でもおそらく大変重要に違いないこの「変容」が、全く腹に入らないというのは実に悔しいものであります。
全体の理解とは程遠いのを承知で、備忘として全14楽章のちょっとした感想を記しておきます。各楽章の表題の邦訳は定まったものはないと思うので、ネットで拾ったものを仮に掲げておきますが、これが正しいのかどうか私には判断つきません。

第1セプテネール
第1曲 福音叙述
打楽器のみの開始に続いておもむろにユニゾンの合唱が歌い出す。 この楽章に限らず、オーケストラも合唱も巨大な編成の割に極めてストイックというか、不経済な書法が目立つ。
第2曲 御自身の栄光の体のかたどりに
歓びに溢れる冒頭の主題が印象的。合唱は前半またもやユニゾン、後ろ三分の一ほどがハーモニックな書法。拡大された調性によるやや辛口の音楽に甘い和音が時折現われる。
第3曲 イエス・キリスト、あなたは神の栄光の輝き
「クロノクロミー」の延長線上にある素晴らしい音楽。管弦楽、合唱とも室内楽的な密やかさから巨大編成ならではのマッシヴな響きまでとてもレンジが広い。
第4曲 福音叙述
第1曲とほぼ同様の音楽が繰り返される
第5曲 あなたの幕屋は何と慕わしいことか
抒情的な合唱に続いて、ピアノ、チェロ、シロリンバなどのソロを含む室内楽的な響きが美しい。
第6曲 それは永遠の光の輝き
女声のユニゾンとオーケストラの鳥の声による短い間奏曲風の楽章。木管とシロリンバ、ピアノが啼き交わす鳥の歌はなかなかカオティークで面白い。
第7曲 聖なる山の聖歌
40年代の諸作品に出てくる、不協和に軋みながら協和音に解決するメシアン独特の音形が現われる。静かで美しい合唱。

第2セプテネール
第8曲 福音叙述
第1曲、第4曲の再現だが、クセナキスを思わせる弦のグリッサンドが出てくる。かつての弟子が「メタスタシス」を書いてから10年以上も経って、なぜ引用めいた音形を書いたのだろうか?
第9曲 完全なる出生の完全なる承認
導入は最後の審判の如く打ち鳴らされるシンバルや喇叭の咆哮、男声ユニゾンが続くが、これが何度も繰り返され、第1曲の福音叙述、ソロ楽器による技巧的なフレーズ、男声ソロの単音によるテキストの朗唱、トニカで始まる調性感のある合唱などがモザイク状に組み合わされる。長大な楽章の中に、福音叙述や朗唱が嵌め込まれているのは、この楽章自体が入れ子状になった小規模なミサ曲であるようにも聞こえる。
第10曲 子らの完全なる世継ぎ
チェロの抒情的なソロ、薄いオーケストラを伴って歌われるユニゾンの合唱、言葉は矛盾しているが「巨大な室内楽」を聴いているよう。
第11曲 福音叙述
第1曲、第4曲、第8曲より幾分長く、開始は他の3曲と異なって上昇音形から始まる。
第12曲 このところは何と恐ろしい
ピアノのカデンツァに続いて40年代風の合唱が2回現われる。合唱はユニゾンから終盤のカオティークな叫びまで多様。
第13曲 完全なる三位一体の現出
点描的な書法の大変前衛的なオーケストラと、時にグレゴリオ風男声ユニゾンを伴う合唱、それに臆面もない協和音の奇妙な混合。
第14曲 栄光の光の聖歌
苦悶と陶酔の狭間を、軋みながら移ろい、協和音に至る合唱。好きか、と聞かれると困るけれども、ある意味メシアンの面目躍如たる音楽だろう。
(この項続く)

by nekomatalistener | 2017-04-23 00:33 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

Olivier Messiaen Complete Editionを聴く(その9)

分け入つても分け入つても社畜





60年代の作品を聴いていきます。今回は1965/69年に書かれた大規模なオルガン作品。

  CD10
  聖なる三位一体の神秘への瞑想(1965/69)
  
  オリヴィエ・ラトリー(org)
  2000年7月パリ・ノートルダムで録音

1965年の即興演奏を元に作曲され、メシアン自身の演奏で1972年3月29日、ワシントンDCの無原罪の御宿りの聖母教会で初演されています。
どうも私はメシアンのオルガン作品と相性が悪いのではないかと考えています。ピアノや管弦楽のための作品にくらべると、より実験的、即興的な要素が強いように思われますが(それはとりもなおさず、メシアンにとってオルガンが最も身近な楽器であったという証左でもあるのでしょう)、聴く側からすれば些かしんどいという感じがします。今回取り上げたような長大な作品だと、最後まで何度も聴き通すのはかなり忍耐のいる仕事でした。いや、実験的であること、長大であることが悪いのではないでしょう。私はもっと前衛的で長大な作品、例えばシュトックハウゼンであれフェルドマンであれ、これほどまで苦行めいた聴き方はしてこなかったはず。ならば相性が悪いとしか言いようがありません。それと、他のジャンルの作品とくらべてカトリシズムへの耽溺の度合いが著しく強い感じがして、それもつい敬遠してしまう原因かもしれません。まぁそれを言うなら「20の眼差し」だって同じようなものかも知れませんが、あちらは絢爛たるピアノ技巧が楽しみの大きなポイントになっているので大部分の聴き手はカトリシズムの教義を忘れて聴くことができる。だがそれが果たして正しいメシアンの享受のあり方かという疑問を持たざるを得ません。少なくともオルガン作品の場合、楽器の制約によってピアノほどの目覚ましい技巧は使えないので、その分カトリシズムという要素が全面に出てきて、私のような不心得な聴き手を苦しめるのかもしれません。

全部で9つの楽章から出来ていますが、解説によれば3つの性格を持つ3曲のセットから出来ているとのこと。すなわちⅠ:三位一体のそれぞれ(父と子と聖霊)に捧げられたもの(第1・6・7曲)、Ⅱ:神の様々な属性を表す音楽(第2・5・8曲)、Ⅲ:トマス・アキナスと出エジプト記に書かれた神の記述(第3・4・9曲)。曲順にこのカテゴリーを記すとⅠ→Ⅱ→Ⅲ→Ⅲ→Ⅱ→Ⅰ→Ⅰ→Ⅱ→Ⅲとなっていて、タイトルの三位一体と音楽の3曲×3セットの構造が照応しています。一方、この作品の中でメシアンは"langage communicable"という技法を第1・3・7曲で用いて音と言葉(文字)を照応させようとしているらしい。これが何を意味しているのかはスコアを取り寄せて分析しないと何とも言えませんが、これもまた晦渋な印象の原因なのかもしれません(ふと思い立って楽譜販売のサイトをみたら税込で22,356円もするので絶対取り寄せないと思うけど・・・)。
解説はともかく、耳で聴いた印象をもう少し分析すると、概ね3つのタイプの音楽にカテゴライズできるような気がします。まず9曲中6曲がオッフェルトリウムとでも呼べそうなソロと応唱が交替していくタイプの音楽で、その内第1・5・9曲が調性のないソロに先導され(カテゴリーA)、第2・6・8曲がグレゴリオ聖歌風のソロに先導されます(カテゴリーB)。全体に不協和音と無調的なパッセージに満ちた音楽の中で、カテゴリーBの3曲は比較的取っつきやすくて、聴いて楽しくまた美しい響きが随所に出てきます。第2曲のソロはあの「天の都市の色彩」で聴かれた東洋風の旋律で、私はてっきりガムランにインスパイアされたものと思っていましたがグレゴリオ聖歌をモディファイしたものと言われたらそんな気もしてくるのが面白い。第3・4・7曲はオッフェルトリウムの構造を持たないもので、トッカータ風であったり鳥の歌であったり、といった曲想(カテゴリーC)。これを曲順に並べるとA-B-C-C-A-B-C-B-Aとなって、シンメトリックという訳ではないがやはり3曲×3セットという構造が見て取れます。もっとも、こうやって分析しても苦手な作品が聴き易くなるわけでもなく、やはり難物だと思わざるを得ません。

演奏についてはこのシリーズの(その5)に書いた以上の印象はありませんので繰り返しません。何度聴いても腹に入らない音楽ですが、しばらく冷却期間を置くことにしましょう。
(この項続く)

by nekomatalistener | 2017-01-08 18:41 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

京都市交響楽団第607回定期演奏会 メシアン「トゥーランガリラ交響曲」

ユーキャンの流行語大賞って年々酷くなっとる。なんかぱよちん系のジジイがはしゃいでるみたいで痛々しいというか。で、それをまたよりによって鳥頭ちゅん太郎が擁護するってもう地獄絵図。あ、でも三省堂の「今年の新語」はわりとマトモですよ。





10月から職場が変わり、猛烈に忙しい日々を過ごしておりまして、なかなか音楽を聴く時間がとれません。そんな中でも、「トゥーランガリラ」を生で聴く機会となれば聞き逃す訳にはいきません。積もり積もった疲労と寝不足で80分の長丁場は少々心配でしたが、目の覚めるような演奏にあっという間に時間が過ぎ去った感じがしました。

 2016年11月26日@京都コンサートホール
 メシアン トゥーランガリラ交響曲

 京都市交響楽団
 指揮:高関健
 ピアノ:児玉桃
 オンド・マルトノ:原田節

メシアンが好きな人もそうでない人も、彼の代表作が「トゥーランガリラ交響曲」であることに異論を唱える人は少なかろうと思います。私はどこかで書いたとおり、60年代の「クロノクロミー」「七つの俳諧」「天国の色彩」あたりが本当の傑作群だと思っているのですが、それでも「トゥーランガリラ」を実際の演奏で聴くと、その途轍もないエネルギーに圧倒される思いでした。音楽そのものについて書きたいことはたくさんあるのですが、それはメシアンのコンプリートアルバムの試聴記に譲ることにして、演奏の備忘のみ簡単に記しておきます。
演奏の始まる前に、指揮者の高関健氏によるプレトークがあり、まずは舞台前方に並べられた独奏楽器群(ピアノ、オンド・マルトノ、チェレスタ、ジュ・ドゥ・タンブル、ビブラフォン)の説明(オンド・マルトノ以外を「ガムラン隊」というのだそうだ)。それから「移調の限られた旋法」「不可逆リズム」といった音楽原理の説明がありました。後者は素人にも分かるように、というのはなかなか難しくて、若干舌足らずな感じもしましたが、高関氏自身が若いころはメシアンをあまり好きではなかったのに、近年になって楽譜をアナリーゼするとすべての音がこういった原理に基づいて書かれていることに驚き、それ以来メシアンが大好きになったと仰ったのは印象的でした。
そんな高関氏のプレトークを聴いたから、というのではなくて本当に精緻である意味醒めた演奏でした。「トゥーランガリラ」と聞いてまず思い浮かべるカオティックな猥雑さとかエロティシズムといった要素は希薄で、あまり好きな言葉ではないが「分析的」というか、音楽の構造が透けて見えるような不思議な演奏でした。ブーレーズは「トゥーランガリラ」を嫌っていたと聞いたことがありますが、こういう演奏なら御大も喜んで聴いたのでは、と想像します。これまであまり強い印象を持たなかった指揮者ですが、本当に面白い演奏をする人だと思いました。それでもあちこちに出てくる三和音による強烈な終始の臆面の無さはどうしようもなく、盛り上がることは確かだが少々げんなりするのも事実。まぁ大戦後すぐに現れた異形の音楽であることは確かでしょう。
児玉桃のピアノは大熱演。80分ほとんど出ずっぱりで弾くのはピアニストにとってこの上なく過酷だろうと思いますが、「嬰児イエズスの20のまなざし」を全曲通して弾くことに比べれば、彼女くらいのプロのピアニストにとってはまだしも楽なのかもしれません。彼女の強靭な打鍵を以てしてもオーケストラのトゥッティが被るとほとんどピアノが聞こえなくなりますが、これは偏にメシアンの書き方が悪いのであってピアニストのせいではないと思います。
オンド・マルトノを生で聴くのも初体験でしたが、実際に聴くと思いのほかあちこちで音が鳴っているという印象(録音で聴いても全部は聞き取れない)。緩徐楽章でクラリネットと被せて鳴らすところの精妙な音色など、こればかりは実際の演奏を聴かないと絶対にわからないと痛感しました。
京響も熱演だったと思います。指揮者の目指す音楽をとにもかくにもリアライズして長時間弾き切ったというだけでも大変なことだと思います。ですが、終演後に指揮者がオーケストラのセクションごとに立たせてねぎらいの拍手を送っている時、パーカッションのセクションになった途端にしつこくブーイングしている人が一人いてちょっと興ざめしました。これほどの難曲、大曲でパーカッションの大小の事故というのは避けられません。少なくとも私にはまったく気になるほどではなかったのですが、あまりに執拗なブーイングを聞くと、この人どれだけ分かってんのかね、と嫌みのひとつも言いたくなるというもの。私だって準備不足の、あるいは技術の追いつかないプロの演奏には激しく拒否反応を起こしたりすることはあるけれど、それとこれとは違う。ちょっと余談になるけれど、私は以前友人と2台ピアノのための「アーメンの幻影」の終曲「成就のアーメン」のプリモをあるアマチュアの演奏団体のセミクローズドな演奏会で弾いたことがあるのですが、その時最も困難を極めたのはデュラン社のスコアで最初の7ページほどのリズムカノンの箇所でした。プリモの右手、左手、セコンドの旋律がずれにずれていく複雑なリズムカノンは、youtubeでプロの演奏を観ても無事故で弾いているものは皆無といってよいほど。大切なのは小さい事故があってもすぐに合わせるべきところで合わせて復帰することだと思いました。そういった意味でこの日の京響のパーカッションはまさにプロの演奏だと思ったのですが、何がそれほど気に食わなかったのか、この手のブーイングの主は、逆に自分の知識をひけらかすだけの御仁に思えてしまうのがつらいところ。ブーイングを否定するつもりはありませんが、周りに「よくぞやってくれた」と思わせるのは至難の業なのでしょう。
(この項終り)

by nekomatalistener | 2016-12-07 01:03 | 演奏会レビュー | Comments(0)