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ラヴェル 「子供と魔法」 マゼール指揮フランス国立放送管弦楽団(その2)

ファブリーズのCMのお父さんがピエール瀧から松岡修造に替ってそうとう経つが、いまだに違和感あり。





前回の続きです。
羊飼い達が消え去ると、今度は子供が引き裂いた童話の本からお姫様が現れ、子供のせいで童話の結末が分からなくなったと嘆く。子供は姫を救う王子になろうとするが剣もなく為すすべがない。お姫様は消えてしまう。お姫様の歌う部分はオーケストラが沈黙し、たった一本のフルートのみの伴奏。2本の線が絡み合う美しさは、ラヴェルの高度な作曲技法の賜物。今まで恐怖に慄いていた子供はようやく姫への淡い恋心を歌う。子供が歌い出すと音楽は木管やハープの急速なアルペジオやグリッサンドで彩られ、夢幻のような恍惚とした響きが立ちこめる。お姫様が消えてからの子供の歌は、まるでフォーレのように切なく美しい。
子供はびりびりに敗れた童話の結末のページを探すが、破いた教科書からせむしで鉤鼻の小人の老人が現れる。小人の服には数字が書いてある。教科書から飛び出した沢山の数字たちと、4たす4は18とか、7掛ける9は33とか、無茶苦茶な歌を歌いながら踊り、その輪舞に巻き込まれた子供は目を回してしまう。ここもポピュラー音楽みたいな軽い音楽で始まりますが、最後は狂騒のカタストロフの内に終わる。
子供が何とか起き上がると、黒い雄猫が毛糸玉をおもちゃにして遊んでいる。雄猫は子供の頭を毛糸のように弄ぶが、白い雌猫が庭に現れると雄猫は求愛する。いつの間にか場面は月に照らされた庭になっている。猫の二重唱Duo miauléの歌詞は「みゃ~お」「おわ~お」といった鳴き声のみ。やがて発情した猫たちは喧しく騒ぎまくったあげく突然姿を消す。雄猫は最初チェロの悩ましいポルタメントに合わせてあくびしたり伸びをしたり。それが最後には金管のグリッサンドで大騒ぎになる。猫好きな私はもうニャハ~と脱力してしまいます。
音楽が一瞬静まると高弦のトレモロとおもちゃの笛を伴う神秘的な弦の音楽に合わせて、虫や蛙、蟇蛙、ふくろう、風、夜うぐいす達がざわめき始める。ベルクの「ヴォッツェック」の、蛙の鳴く沼地の場面の、遥かに遠いこだまを聴くような気がする(因みにラヴェルはアルバン・ベルクをかなり高く評価していたふしがある)。子供に傷を付けられ、樹液を血のように流した樹木が恐ろしい呻き声をあげて子供を非難する。
とんぼが妻を探して子供の回りを飛び回る。雌のとんぼをピンで壁に突き刺してしまった子供はとんぼに問いかけられても答えられない。こうもりも片言で子供に妻の行方を尋ねるが、雌こうもりを殺した子供は罪に慄くのみ。とんぼの歌はサティの「ジュ・トゥ・ヴー」のような瀟洒なワルツ。これに夜うぐいすのコロラトゥーラが絡む。こうもりの歌はごく短いが、はじけるような才気煥発な音楽。続く蛙たちのワルツも軽妙洒脱。
リスが現れて、かごに気を付けるよう蛙に話しかけるが、蛙がかごというものを理解できないのでリスは「馬鹿、僕みたいになるよ」と言う。吃の蛙はかごcageが上手く言えず、Que-que-que-que-dis-tu?Je ne connais pas la ca-ca-ca-cage.と歌うが、イヴリーの著書によればこれは「うんちの籠」と聞こえるそうな。子供はリスに向かって、「君の素早い動き、小さな手足やきれいな眼をみたくてかごに閉じ込めたんだ」と弁解するが、リスは自由な大空や風、自由な兄弟の素晴らしさを子供に語る。他のリス達が大勢集まって来る。仲のよいリス達や、じゃれ合う猫を目にして、自分が一人ぼっちであることに気付いた子供は思わず「ママ…」と呟く。リスの歌は大きなアーチを描いて盛り上がり、猫の二重唱の旋律が一瞬現れて途絶える。
動物達が「悪い子供、誰からも愛されない子供」と歌う。「子供に罰を与えよう。僕には爪が、僕には牙がある」と凶暴な合唱が続く。動物たちは子供を小突きまわし、押したり引っ張ったり、やがて子供そっちのけで大乱闘になる。さっきのリスが怪我をして叫び声をあげる。動物達は凍りついて何も出来ないが、子供は自分のリボンを包帯にしてリスの怪我の手当てをしてやり、気を失ってしまう。
初めて子供の優しさを知った動物達は、自分達も傷ついた子供を介抱しようとするがどうすることも出来ない。そこでみんなで子供のママを呼ぶことにする。最初はおずおずと、やがて「ママ、ママ」の大合唱。動物達は「この子は良い子です。とても賢い子です」と歌う。子供が腕を伸ばして「ママ」と呟いたところで幕。音楽は「マ・メール・ロワ」の終曲「妖精の園」のような感動的な大団円。通俗的と言えば通俗的だが、お約束の大きな盛り上がりの果てにふっと消えるように終わるのが何とも不思議な余韻を残す。これは子供が聴いてももちろん大喜びでしょうが、本当は大人の為の、それも知的でソフィスティケーションを知る大人の為の音楽だろうと思います。

このオペラ、舞台に寄せる期待の最も大きな要素は何と言っても演出。恐らく、心の底から感嘆するか、子供騙しの演出に失笑するか、そのどちらかでしょう。演出家が如何に自由な想像力を持っているかに公演の成否の全てが掛っている。何とも恐ろしい作品です。

マゼールの演奏について一言。これはもう完璧な演奏ではないでしょうか。かなり大きな編成のオーケストラを自在に操り、一瞬の内にさっと空気が変わってしまうような瞬間があちこちに出てきます。弦・管・その他の楽器の混合のバランスが実に素晴らしいと思う。これは偏にマゼールの耳の良さに起因するものでしょう。歌手の素晴らしさについてはこれ以上望むことは何一つない。

併録のストラヴィンスキーの交響詩「夜うぐいすの歌」は、自作自演の(交響詩の元になった)オペラ全曲盤やブーレーズ版と比べると、面白いことに、ギトギトした極彩色の表現が抑えられていて、譬えて言えばフランス語の鼻母音のような中間色のニュアンスに富む音響。こと音色という点においては寧ろエキセントリックな感じがします。が、これはこれで実に魅力的なストラヴィンスキー。ラヴェルの音楽との相性の良さも、作曲者の資質を考えると当然ではあるが、この馴染みの良さはマゼールならではという気もする。
(この項終わり)
by nekomatalistener | 2012-05-17 00:00 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

ラヴェル 「子供と魔法」 マゼール指揮フランス国立放送管弦楽団(その1)

清水ミチコの「イェル・ケ・クク」最高。この人やっぱり天才。分からない人はyoutubeで探してね。




以前新国立劇場でラヴェルの「スペインの時」を観てとても気に入り、二期会でまたもや「スペインの時」と同じくラヴェルの「子供と魔法」の二本立て公演があるというので行くことにしました。「子供と魔法」も今迄聴いた事がなかったので、例によって予習としてマゼールのCDを聴いてみました。


  子供: フランソワーズ・オジェア
  ママ・支那のティーカップ・とんぼ: ジャニーヌ・コラール
  安楽椅子・白猫・リス・羊飼い: ジェーン・ベルビエ
  火・お姫様・うぐいす: シルヴェーヌ・ジルマ
  こうもり・ふくろう・羊飼いの娘: コレット・エルツォグ
  肘掛椅子・樹: ハインツ・レーフュス
  振り子時計・黒猫: カミーユ・モラーヌ
  ティーポット・数字のこびと・蛙: ミシェル・セネシャル
  ロリン・マゼール指揮フランス国立放送管弦楽団&合唱団(1961年録音)

  (併録)ストラヴィンスキー 交響詩「うぐいすの歌」
  ロリン・マゼール指揮ベルリン放送交響楽団(1958年録音)
  CD:DEUTCHE GRAMMOPHON449 769-2

年を追うごとに寡作となり、遅筆でもあったラヴェルらしく1920年に作曲が始められ1925年までほぼ5年が費やされています。この同時期に作曲された作品としては「ラ・ヴァルス」「ヴァイオリン・ソナタ」「ツィガーヌ」など。それ以降死ぬまでに書かれた作品は「ボレロ」、2つのピアノ協奏曲、「マダガスカル島民の歌」等。通常なら円熟期の作品ということになりますが、以前にどこかで書いた通りラヴェルという人はそもそも人間的な円熟とかいったものとは無縁なような気がして、若書きと比べてどうこう、といった議論は殆ど意味を成さないような気がします。敢えてこの時期ならではという特色を言えば、ジャズあるいはアメリカのポピュラー音楽の顕著な影響ということになるでしょう。以前「スペインの時」を取り上げた時に紹介したベンジャミン・イヴリーの『モーリス・ラヴェル ある生涯』(石原俊訳、アルファベータ社)によればこの時期「ラヴェルはパリのナイトクラブで、黒人ミュージシャンや黒人ダンサーを見物して多くの夜を過ごし、「屋根の上の牛」亭(Le Bœuf sur le Toit)なるクラブでは、コクトーが恋人のアル・ブラウンなる麻薬中毒のアメリカ黒人ボクサーといるのを目撃していたのかもしれない」とのこと。いきなり脱線しますが、私はダリウス・ミヨーの「屋根の上の牛」という作品が大好き。イヴリーの著書のこのくだりを読んで、点と点が繋がった感じがします。それはともかく、このオペラ、どこをとっても精妙極まりない音楽、完璧なクォリティ。しかもお子様向けのお話なのに妙にエロティックな仕掛けが仕込まれていて油断も隙もないのがいかにもラヴェルらしい。これも敢えて、もう一つのオペラ「スペインの時」との違いについて述べると、「スペイン・・・」のほうは5人の登場人物それぞれにライトモチーフ風の特徴ある旋律があてがわれていて、物語の進行に伴ってそれらが舞台上の人物の絡みに追随したり、あるいは舞台にいない人物を想起させたり、といったことが起こるのに対して、こちらは次から次へと新しいモチーフが現れては消えていくのが違うと言えば違う。もっとも、(ストラヴィンスキーと同様)凡そドイツ風の動機労作的手法には何の興味も持たなかったラヴェルらしく(ベートーヴェンのことを「あの大音痴」と呼んだらしい)、「スペイン・・・」のライトモチーフは単に聴衆の理解を助け、楽想を節約するだけのものであって、音楽的構造という意味では両者の間に大した違いは無いような気もします。すなわち、ストラヴィンスキーを論評しながら私が再三「シニフィアンの連鎖」と書いてきたのと同じことが、ラヴェルの音楽の本質的な構造にも見られるのではないか、ということです。

以下、例によって若干粗筋も追いながら音楽的要素について書いてみたい。ちなみにスコアは著作権の問題があってダウンロード出来ませんでした。
短い前奏は支那風のペンタトニックな音楽。男の子が「宿題いやだ、お外に行きたい、ケーキを全部食べて猫のしっぽを引っ張ってリスの尻尾をちょん切りたい」などと歌っているとママが食事を持って部屋にやってきて宿題を急かす。子供が舌を突き出すと、ママはヒステリーを起こし、「坊やのお紅茶はお砂糖なし、パンはバター無しよ」と喚いて出て行く。ト書きにはママは舞台の上では巨大な足とスカートだけが見えるように、と書かれており、スカートには鎖で裁縫用の鋏がぶら下がっている。漫画「トムとジェリー」に出てくる奥さんと一緒の手法ですね。イヴリーの著書にはクロード・レヴィ=ストロースがこの作品に表れている去勢コンプレックスについて言及したくだりを引いて、このママの鋏や、後で出てくる振り子を引きぬかれた振り子時計の場面の解釈が書かれています。私にはその是非を判断する力はちょっとありませんが、昔随分苦労してジャック・ラカンやメラニー・クラインの著書を読んだことのある身としては、こういった議論を荒唐無稽だとか牽強附会といった言葉で片付ける気には到底なれません。ママが出て行くと子供は癇癪を起してポットやカップを粉々にし、かごからリスを引っ張り出してペン先で突き、猫の尻尾を引っ張り、壁紙を破り、本を破り、狼藉の限りを尽くす。ラヴェルの音楽も、もうやりたい放題。管楽器が咆哮し、ピアノが駆け降り駆け上がる。早くもラヴェルの才能が全開です。
音楽が静まると、肘掛椅子とルイ15世風の安楽椅子(ベルジェール)が歌いだし、子供が壊した様々な家具たちが「もう子供はまっぴら」と歌う。子供は壁に張り付いて茫然と見ている。音楽はちょっと気どったフランス宮廷舞曲風、そう、「クープランの墓」のフォルラーヌみたいな、貴婦人の衣擦れの音が聞こえてくるような世界。ここでラヴェルはリュート風ピアノpiano luthéalという楽器を指定していますが、無い場合は弦とダンパーの間に紙を挿んで代用するように指定しています。世間に普及しなかった為、一体どんな楽器なのか想像も付きませんが、CDから聞こえてくるのは風邪をひいて鼻声になったみたいなピアノの音。どこからこんな発想が出てくるのか不思議ですが、ここから一気に「魔法の世界」が始まります。
子供に振り子を引っこ抜かれた時計が狂ったように歌いだし、「チャイムが止まらない、時間も判らない、子供が振り子をちょん切ったのでぽんぽん痛い」と歌う。この場面の音楽は数年後に書かれたピアノ協奏曲の終楽章のような、ラヴェルの耳によって濾過されたジャズのイディオムが用いられています。
お次はウェッジウッドの黒いティーポットと支那風のティーカップの二重唱。ティーポットは黒人ボクサー気どりで「黒くて逞しい」セックスアピールを誇示しながら、英語でキャバレー風の歌を歌う。ティーカップは殆ど翻訳不可能な訳の判らない歌を返す。歌詞の中にはHarakiriとかSessue Hayakawaなんて言葉も出てきますが、これはもちろん「腹切り」とハリウッドで初めてスターとなった日本人、早川雪洲のこと。この後の歌詞についてイヴリーの著書には「Kek-ta fouhtuh d'mon Kaoua?は、「Qu'est-ce que tu as foutu de mon・・・」とも読め、これは英訳すれば「What the fuck have you done with my・・・」(私のお○○○とナニしたい?)ほどの意である」云々と書かれていてホンマかいな、と思いますが・・・。二期会公演の字幕でどう訳すのか見ものです(笑)。この辺りの音楽はラヴェルがそれこそ魔法を掛けて洗練の極みまで高めた、ナイトクラブの黒人の歌うポピュラーソング。
ただただ恐怖に慄く子供の前に、今度は暖炉の中から火が登場し、「良い子は暖めてあげるが、悪い子には火傷させるよ」と子供を脅かす。火の歌を歌うのはコロラトゥーラ・ソプラノ、夜の女王もツェルビネッタものけぞるような超絶技巧で書かれています。火(男性名詞)はやがて燃えがら(女性名詞)とダンスを踊りながら静かに消えて行くと、部屋はすっかり暗くなる。
子供が破った壁紙に描かれていた羊飼いの男と娘が、引き裂かれた悲しみを歌う。妖しくも美しいオリエンタル情緒たっぷりの韃靼風の歌。「ボレロ」と同じく、通俗すれすれでありながら高度な音楽語法が駆使されており、ラヴェルの真骨頂という感じがする。
続きは次回に。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2012-05-11 00:40 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

プッチーニ 「西部の娘」 マゼール/ミラノ・スカラ座管弦楽団(その5)

拾いGIF。これ本物?
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これまで専ら音楽の素晴らしさについてのみ書いてきました。音源の演奏ですが、これはスカラ座の1991年のライブ録音で、私はCDを買うまで知らなかったけれど舞台を記録したDVDもあるとのこと。観客の興奮は凄まじく、2つあるジョンソンのアリアの終わりは絶妙のタイミングで熱狂的な拍手が入る。決して有名とは言えないこのオペラの、このアリアというにはいささか短すぎる絶唱にこの拍手、スカラ座の観客達のレベルの高さを伺うことができます。
そのジョンソンを歌っているドミンゴ、これはもう文句の附けようがない模範的歌唱。どちらかと言えばジョンソンという役柄はプッチーニのテノール役としては感情移入しにくい人物ではあるが、ここまで完璧に歌われるともうお話の出鱈目さなど問題になりません。但し問題がない訳ではない。第2幕の愛の二重唱がついにユニゾンになるところで9小節程カットされていて、そこでジョンソンの三点ハ(ハイC)が出てくる。ドミンゴはハイCを歌う自信が無かったのだろうか?もっとも音楽的にはこのカットによって失うものは殆どないという感じがします。
ランスを歌うホアン・ポンスも素晴らしい。前にも書いた通り、このランスという人物は愛を知らぬ不幸な半生を送り、実に陰影に富んだ人物。保安官のくせに、やることなすこと無茶苦茶なのだが、何と言うか、悪人役なのにどうしても憎むことが出来ない。ポンスはこういった性格的な役柄には打ってつけの歌手だと思います。
ミニーを歌うザンピエリもなかなか良い。大体このミニーという役、純粋無垢な聖母的側面と、鉄火肌の女としての側面の二つが無理やり一つの人物像に押し込められている感じがしなくもない。従ってこの矛盾する人物像を十全に歌うには大変な歌唱力、演技力が必要となる訳ですが、ザンピエリはリリコ・スピントからドラマティコまで振幅の大きな歌唱で大変説得力があります。
そして何よりマゼールの天才的な指揮。イタリア・オペラとマゼールというのがどうしても頭の中で結び付かない御仁もおられると思いますが、この人のアゴーギグはプッチーニの音楽に向いていると思います。私もついついヘンタイ呼ばわりしてしまうけれど、知的な造りとイタリア物ならではの臭みや過剰感が絶妙なバランスを保っていて、独特なアラルガンドには冷静さを保つことが出来ません。ライブなのでマイクがやや遠い感じがして、比較的新しい録音の割には物足りなく感じる所もありますが、全体の中ではごく小さな瑕だろうと思います。私は「西部の娘」については色んな録音を聴いた訳ではありませんが、これは理想的な演奏と言っても良いのではないでしょうか。
それにしてもこの作品、ブログを書く為に随分繰り返して聴き込みましたが、何度聴いても飽きるということがない。私は、オペラは音楽が全てであってお話などどうでもよい、という立場は採りませんので、このあまりに御都合主義なストーリーの所為で「傑作」と呼ぶのには躊躇してしまうのですが、本当に一級品の音楽だと思いました。

以下は蛇足ですが、以前紹介した玉崎紀子氏の論文にはオペラの元ネタのベラスコの戯曲や、その後作られたミュージカル映画との比較など大変興味深い内容が書かれています。前にこの音楽を「ミュージカル風」と書いたけれど、1910年のアメリカ初演当時の彼の地の音楽はどんなものだったのか、大層興味をそそられます。特にミュージカルの世界はいつかどっぷりと浸かってみたいと思いながら果たせないままです。
ブロードウェイ・ミュージカルの誕生と発展を歴史的に俯瞰するというのは意外と困難なようです。そんなに昔の事でもなかろうに、クラシックとポピュラー音楽のクロスオーバーする領域で、そのどちらにも通暁している著者による体系的な記述は、少なくともネット世界の情報を渉猟しただけではまず見当たらない。
wikiのミュージカル史に少し付け加えるなら、まずこの基になった1つ目の要素はミンストレル・ショー、ヴォードヴィル、レヴュー、バーレスクといった様々な名称によって呼ばれる笑劇。何となく音楽劇というよりは「横山ホットブラザース」みたいなお笑いのイメージを持ってしまいますが、かのスティーヴン・フォスター(1826-64)などもミンストレルの為に沢山の歌を書いたらしい。
2つ目の要素は世紀の替わり目頃にアメリカに移住したヨーロッパの、それもなぜか辺境の音楽家達の影響。例えばヴィクター・ハーバート(1859-1924)。ダブリン出身、1892年よりアメリカで活動、オペレッタから初期のミュージカルの創設へ貢献したと言います。ルドルフ・フリムル(1879-1972)。プラハ出身、あの「蒲田行進曲」はオペレッタ「放浪の王者」の中の「放浪者の歌」の翻案。1906年にアメリカに移住、初期のミュージカルの創設に与った。あるいは、シグマンド・ロンバーグ(1887-1951)。ハンガリー出身、1909年渡米、1920年代にオペレッタ、初期のミュージカルを作曲。この人達が創生期のミュージカルの骨格を形作ったと言えそうです。
3つ目の源流は何と言ってもジャズの要素。ご存知ジョージ・ガーシュウィン(1898-1937)。ユダヤ系ロシア移民の子、その作品リストには驚くことに1916年から1936年にかけて、50作ものミュージカルと称する作品が並んでいます。歌入りの芝居、くらいのイメージなのかなと思いますが、何せ聴いた事がないので何とも言いようがありませんが、ひょっとするとこれは宝の山かも知れないという予感がします・・・・。他には「キス・ミー・ケイト」のコール・ポーター(1891-1964)や「二人でお茶を」のヴィンセント・ユーマンス(1898-1946)らによってジャズやブルースの要素がもたらされたとのこと。
4つ目の要素はヨーロッパで、またアメリカでも大流行したオペレッタ。オペレッタといえば何といってもレハール。ナチスと上手く折り合いをつけられたレハールはヨーロッパに留まったが、その作品はアメリカでも知られていました。だが、ミュージカルの関係で行けば影響が大きそうなのは「チャルダーシュの女王」のエメリヒ・カールマン(1882-1953、1942アメリカに帰化)、ユダヤ系ハンガリー人。アメリカ時代の作品はよほどの好事家にしか知られていないであろう。
5つ目は1930年代後半にナチスやムッソリーニ政権を逃れてアメリカに亡命したユダヤ人作曲家達の筋金入りのクラシカルな音楽。エーリッヒ・ヴォルフガング・コルンゴルト(1897-1957)、モラヴィア生まれのユダヤ人、1938年亡命。マリオ・カステルヌオーヴォ=テデスコ(1895-1968)、ユダヤ系イタリア人、1939年亡命。この2人はミュージカルこそ書かなかったが映画音楽で大きな影響をもたらしたのではないか。あるいはクルト・ワイル(1900-1950)、デッサウ生まれのユダヤ人。1935年アメリカ亡命後に多くのミュージカルを書いたと言いますが、これらの人々の影響は大きいだろう。「西部の娘」は彼らの亡命より30年近くも前にヨーロッパからもたらされた最新のクラシカルな音楽、ということだったのでしょうが、上の記述から考えると初演の1910年当時はオペレッタとは明らかに異なるミュージカルというジャンルはまだ確立されていなかったと言えそうです。それを思うと、この「まるでミュージカルみたいな」オペラが当時如何に斬新なものであったか想像に難くありません。また、このオペラの影響というものが後のミュージカルに何らかの形でもたらされたことも、その後何度も舞台にかけられ、映画化もされていたということから明らかであると思います。
最後にロンドン発のコミカルな舞台音楽の影響があるようですが、これは調べてもよく判りませんでした。お詳しい方のご教示をお願いします。
これらの先人達の築いた土台がまずあって、その後オスカー・ハマースタイン2世(1895-1960)というユダヤ系アメリカ人の作詞家によってミュージカルは映画と手を携えながら完成の域に達します。「ショー・ボート」1927、「オクラホマ」1943、「南太平洋」1949、「王様と私」1951、「サウンド・オブ・ミュージック」1958etc、これらの作品の内一つも聞いたことがないという人は多分いないのではないか。音楽を書いたのはリチャード・ロジャース(1902-1979)というユダヤ系アメリカ人(オクラホマ、南太平洋、王様と私、サウンド・オブ・ミュージック)やジェローム・カーン(1885-1945)というドイツ系ユダヤ人。彼の「ショー・ボート」1927を以って最初のアメリカのミュージカルの確立とする意見があるようです。
以上は私の見解ではなくて、これから少しずつ観たり聞いたりするにあたっての、聞きかじりによる備忘のようなものです。音源の入手がけっこう大変そうですが・・・。またいつか当ブログで紹介する機会があるかも知れません。
(この項終わり)
by nekomatalistener | 2012-04-19 00:00 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

プッチーニ 「西部の娘」 マゼール/ミラノ・スカラ座管弦楽団(その3)

また拾いネタだけどこれ好きww。
【原材料】
アンパンマン「小麦が高くて、力が出ない……。」



第1幕の後半になってようやくジョンソンが登場しますが、ジョンソンが気に入らないランスはこの優男がウィスキーをソーダで割って飲むのも癪にさわり、敵愾心をもってジョンソンをあれこれと穿鑿します。ミニーはランスをたしなめて、よそ者のジョンソンを迎え入れますが、ここでミニーとジョンソンが以前にも顔を会わせたことがあり、淡い恋心を抱いていたことが判ります。音楽もまるで印象派のような和声進行で、二人の歌を盛り上げていきます。ランスは更にジョンソンに絡み、男達も同調しようとするものの、ミニーのとりなしで大人しくなってしまいます。ミニーとジョンソンは男達に囃し立てられてワルツを踊ります。この男達の合唱を伴うワルツは単純極まりないものですがとても美しいもの。
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そこにアシュビー達が盗賊の一味カストロを捕まえて引っ立ててきます。カストロは自分達の首領ラミレス(ジョンソン)が無事なのを見てとると、ランスやアシュビーらの捜索を邪魔するためラミレスを裏切った振りをして、彼らに嘘のアジトを教えようと皆と酒場を出ていきます。ミニーはジョンソンを引き止め、先程のワルツの旋律に乗せておずおずとした会話が始まります。ここから第1幕の終わりまで、プッチーニが腕によりをかけて書いた長大な愛の二重唱が続きます。
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先程は単純極まりなかったワルツの旋律が、ここでは極上のオーケストレーションを伴って蕩ける様な甘い音楽となっています。ジョンソンの愛の歌はプッチーニお得意の変ト長調で2点変ロまで上り詰めますが、そこに盗賊一味の合図の口笛が聞えてきます。ニックが「強盗が近くをうろついている」と注意を促しに来るが、ジョンソンを信頼しているミニーは樽の中に鉱夫たちの金が入っており、自分は不幸な男達の為に命を掛けて金を守ると話します。実はその金こそジョンソン、つまりラメレスの目当てであった訳ですが、ミニーが心の底から鉱夫達の荷馬車のように惨めな人生に同情していることに彼は心を打たれます。ここは本当に感動的な歌ですが、二重唱の一部となっていてミニーの独立したアリアでないことは再三触れたとおり。
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別れを告げて出ていこうとするジョンソン。ミニーは自分の住む小屋にジョンソンを誘いながら、自分をつまらない女だと言って感極まって泣きます。ジョンソンは山小屋を訪れることを約束して出ていきます。ミニー夢うつつのまま幕。

ここで注意せねばならないことは、ジョンソンはミニーの純真さに心打たれてはいるけれども、結局盗賊仲間に金の在処を教えに出て行ったことです。ジョンソンはこの後ミニーの山小屋に現れますが、あくまでも彼の目当てはミニーの肉体であり、未だ行きずりの恋以上のものを求めている訳ではないということです。

第2幕はミニーの住む山小屋。女中のインディアン娘ウォークルの子守唄から始まります。この歌は「蝶々夫人」のスズキが歌う「イザナギイザナミ」を連想させます。プッチーニの頭の中にあるオリエンタリスムは所詮この程度のものか、と思わざるを得ません。二人は未婚のまま子供をもうけていますが、ミニーの薦めで結婚することになっています。もっとも、二人とも大して嬉しそうでもないところが面白いところ。
ミニーはウォークルに二人分の食事を言いつけ、晴れの衣裳を着てうきうきしています。ここでミニーの歌う歌は例によってアリアとは云えない短いものですが、ミニーの心が昂るにつれて聴く者の心まで切なくさせる素晴らしい旋律です。
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ジョンソンが来てぎこちない会話が始まります。ミニーは山の生活の喜びを歌いますが、愛に対する二人の考えは微妙に異なります。甘い旋律が現れ、この後大きな盛り上がりを見せますが、この旋律は流しのジェイクの歌や、ワルツの旋律同様、アメリカ民謡風の素朴なペンタトニックでありながら、プッチーニの手に掛ると二人の官能の限りを尽くす名旋律に変貌していきます。プッチーニの手腕の素晴らしさには驚嘆する他ありません。
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最初はキスを迫るジョンソンをいなすミニーですが、ウォークルを帰らせてから音楽もいよいよ只ならぬ気配を漂わせ、ミニーはついにジョンソンにキスを許します。ここからの二重唱はプッチーニの作品の中でも最も素晴らしいものの一つだと思います。というか、これほど激しい愛の二重唱は他に見あたらないほど。5/2拍子の大きくうねるオーケストラに始まり、4/2拍子と3/2拍子が激しく交替して、聴く者はもう翻弄されるのみ。
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最初の部分は前奏曲に現れたうねるような旋律、そしてついに先程の甘い旋律で二人のユニゾンとなります。
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音楽の狂おしい昂りが少し収まると、今度は第1幕のワルツの旋律がオーケストラに現れます。ミニーは気になっていたこと、ジョンソンとニーナとの関係について尋ねますが、ジョンソンは知らないと答えます。もともとミニーの体目当てと思われたジョンソンですが、ミニーのあまりの純粋さにキスをしただけで帰ろうとします。その時ランス達の声がするので、ミニーはジョンソンを隠します。ランスらはジョンソンが実はラミレスだったこと、ニーナはジョンソンの情婦であったことを話し、ミニーは動揺を隠して彼らを帰らせます。ただ、バーテンダーのニックだけは、ジョンソンの葉巻が落ちているのを見つけ、二人の関係を察しますが、知らぬふりをして一緒に帰っていきます。ミニーの激昂。続きは別稿にて。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2012-04-15 21:42 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

プッチーニ 「西部の娘」 マゼール/ミラノ・スカラ座管弦楽団(その2)

ネットの拾いネタばかりですみません・・・

「今からこのトランプを消して、観客の誰かの胸ポケットに入れてみせましょう。」
「えぇー、さすがにそれは無理じゃないですか?」
「いいえ、ものの見事にやってのけますよ。」
「小野妹子に?」




前回の予告通り、幕を追いながら聴きどころを紹介しようと思いますが、このオペラに関しては中京大学文化科学研究所の玉崎紀子氏の論文「西部の娘―原作戯曲、オペラそしてミュージカル―」という示唆に富む論文がCiNiiのオープンアクセスで読むことができます。
http://ci.nii.ac.jp/naid/110004648944
私のような素人がこれに附け加えることなど実は殆どないのですが、以下の拙文は出来るだけこの論文の内容と被らないように配慮しながら、私のオリジナルな考察を少し書いてみたいと思っています。

第1幕は短い前奏曲から始まりますが、全音音階によって調性がぼかされた部分、烈しい情念のうねりのような部分(これは後でミニーとジョンソンの愛の二重唱の旋律となる)、古き良きアメリカを偲ばせるジャズ風の部分(ケークウォークのリズム、これはジョンソンのライトモチーフとして後の部分に何度も現れる)の3つの要素から成り立っています。ヴォーカルスコアでわずか2ページの簡潔さながら、この作品の要約として申し分ない出来栄えです。
次にいかにも西部開拓時代に相応しい6/8拍子ののんびりとしたリズムにのって、仕事を終えた鉱夫達(いわゆるフォーティナイナーズ)が酒場「ポルカ」に三々五々集まってきます。バーテンダーのニックは商売上手で、男達の幾人かに「女主人のミニーが、あんたに気があるみたいだぜ」と囁くと、男達は舞い上がって煙草やら酒やらを皆に振舞って散財します。
流しの歌手ジェイク・ウォーラスが望郷の歌を歌うと男達はしんみりと聴きほれ、その一人ジム・ラーケンスが故郷を想って泣きだします。一文無しのジムが故郷に帰れるようになけなしの金を与える男達の美しい場面にこちらも涙腺が緩んでしまいます。
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その後、賭けポーカーでいかさま騒ぎがあり、男達が大騒ぎをしていると保安官のジャック・ランスが現れ事態を収拾します。運送会社のウェルズ・ファーゴの代理人アシュビーは、ランスにメキシコから来た盗賊団の情報を入れます。ミニーに惚れているランスは、ソノーラという鉱夫達の兄貴格の男とミニーを巡って発砲沙汰の喧嘩となるが、そこにミニー登場、荒くれ共もミニーの前では少年のように大人しくなってしまいます。ミニーのモチーフは振幅の大きな旋律でこの後何度も現れます。
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ミニーは読み書きすら怪しい男達に聖書を読み聞かせます(鉱夫のハリーはダビデとサムソンがごっちゃになっていて皆の嘲笑の的になります)。男達にとってミニーは教師であり憧れの対象であり、いやむしろ聖母なのかも知れません。ここで彼女が読むのはダビデの詩篇51の第7節「汝ヒソブをもて我をきよめたまへ さらばわれ浄まらん 我を洗ひたまへ さらばわれ雪よりも白からん」。ミニーは男達に「愛による許し」を教えます。ミニーの歌はアリアとも呼べぬささやかなものですが、控え目なオーケストラに乗せて語りかけるミニーの優しさに、こちらも心が融けていくようです。
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郵便配達夫が現れ、アシュビーの下に盗賊団の首領ラメレスが酒場ポルカに現れるだろうという手紙が届く(この場面のペンタトニックは「トゥーランドット」のピン・パン・ポンの三重唱を連想させます)。ランスとアシュビーは、ラメレスの情婦ニーナの裏切りによる密告だろうと推測します。ランスはミニーに言い寄るがミニーに手厳しく撥ねつけられます。ランスは愛を知らぬこれまでの自分の人生を歌いますが、この部分は前回も書いたとおりこのオペラ唯一のアリアと言ってもよい、切なくも美しいもので、正にプッチーニの本領発揮という感じがします。このアリアのせいで私はミニーやジョンソンよりむしろランスの方に感情移入してしまうほど。
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少し長く譜面を引用したのは、4/8拍子のゆったりとした流れに2/8拍子の1小節が入っていることに注目してもらいたいから。プッチーニの数ある名アリアにしばしば見られるこの「字余り」あるいは「字足らず」のような小節、感情の昂りが頂点に達して、伝統的な拍節法をぶち破ってしまうのが「字余り」、歌が上り詰めていくその更に向こうに、真の感情の爆発が控えている際、そこに到達するのももどかしく階段を一段おきに駆けのぼるように切迫して現れるのが「字足らず」の変拍子の小節。ランスのアリアには「字余り」の2/8拍子が2回現れます。以前「外套」を取り上げた時にはこの独特の変拍子について舌足らずにしか書けませんでしたが、これはプッチーニが聴く者の心を鷲掴みにして引き摺り回すメチエの秘密の一つではないかと密かに考えています。あまり言及されませんが、この独特のアーティキュレーションは本当にプッチーニの魅力の源泉であろうと思います。ランスの求愛に対して、ミニーは自分の父母が如何に愛しあっていたかを歌い、本当に好きな人でなければ結婚出来ないと歌います。
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練習番号71から一気に3点ハまで盛り上がるミニーの歌は、前回「最短距離で人を泣かせるアリア」を書こうとして少し失敗している、と書いた部分に該当するような気がします。
ジョンソン(実は盗賊団の首領ラメレス)の登場からは次回に。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2012-04-14 17:36 | CD・DVD試聴記 | Comments(2)

プッチーニ 「西部の娘」 マゼール/ミラノ・スカラ座管弦楽団(その1)

お気に入り画像シリーズ第二弾。ワロタ。
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まずは音源の紹介から。

 プッチーニ 「西部の娘」
  ミニー: マーラ・ザンピエーリ
  ディック・ジョンソン: プラシド・ドミンゴ
  ジャック・ランス: フアン・ポンス
  ニック: セルジオ・ベルトッキ
  アシュビー: ルイジ・ローニ
  ソノーラ: アントニオ:サルヴァドーリ
  トリン: エルネスト・ガヴァッツィ
  シッド: ジョヴァンニ・サヴォイアルド
  ベッロ: オラツィオ:モーリ
  ハリー: フランチェスコ・メメオ
  ジョー: アルド・ボッティオン
  ハッピー: エルネスト・パナリエッロ
  ラーケンス: ピエトロ・スパニョーリ
  ビリー・ジャックラビット: アルド・ブラマンテ
  ウォークル: ネッラ・ヴェッリ
  ジェイク・ウォーラス: マルコ・チンガリ
  ホセ・カストロ: クラウディオ・ジオンビ
  郵便配達夫: ウンベルト・スカラヴィーノ
  ミラノ・スカラ座合唱団、管弦楽団
  ロリン・マゼール指揮
  1991年1月17&31日、2月3&7日録音
  CD:SONY MUSIC88697446622

私はプッチーニのオペラが大好物。もちろん「トスカ」や「トゥーランドット」は大傑作だと思いますが、このブログでは出来ることなら普段あまり陽の当たらない作品をこそ取り上げたいと思っています(以前に「外套」を取り上げたのもそういった気持ちがあったから)。という訳で「西部の娘」。「トスカ」から10年後、「蝶々夫人」から6年後の1910年の初演ですから、この後は「つばめ」「三部作」「トゥーランドット」が残されたのみ。本来ならば最も油の乗り切った頃の作品としてもっと人気があってしかるべきところ、これがまったく人気がない。確かに一度や二度聴いただけではなかなか魅力が判らない。聴き始めた頃は「ひょっとして、というか、やっぱり失敗作?」と思ってしまうほど。そうは云いながら、ところどころしゃぶりつきたくなるような美しい箇所があり、音楽的にも極めて充実した書法が随所に見られます。完成度という点では若干の瑕があるけれども才能があちこちから噴出している。それこそ猫またぎなリスナーが愛して已まないタイプの作品。喩えが適切かどうか心許ないが、シューマンのピアノ曲、それも「ダヴィッド同盟舞曲集」のような、瑕も多いが天才的としか言い様のない作品についつい惹かれてしまう私の嗜好にぴったりと合う作品であると思います。

一般的な人気がない理由を考えてみることは無益ではないと思います。いくつか挙げていきますと、
①主人公の2人(ミニーとジョンソン)に独立して歌えるような手頃な長さのアリアがない
②グランドオペラには珍しくハッピーエンドに終わる(しかもかなり御都合主義的)
③全音音階の採用など玄人受けを狙った技法が大衆的な嗜好に合わない
④かと思えばミュージカル風の解り易い部分がしばしば大衆迎合的と受け取られる
⑤映画、特に西部劇の流行によって逆にオペラの題材としては奇異なままに留まってしまった
⑥「蝶々夫人」が日本人にとって「恥ずかしい」のと同様に、アメリカ人からみるとちょっと居心地が悪そう
⑦劇中でのインディアンの描写が孕むセンシティブな問題

他にもまだまだあると思いますが、これらの理由についてもう少し詳細に見ていきます。

①主人公の2人(ミニーとジョンソン)に独立して歌えるような手頃な長さのアリアがない
 これは特にミニーについて言える事ですが、ほとんどソロの見せ場らしいものがない。あちこちに美しい旋律が現れるが、それは専らジョンソンとの二重唱や鉱夫らとのアンサンブルの中に短く出てくるだけで、 リサイタルで独立させて歌えるようなアリアではありません。ジョンソンのほうは辛うじてアリアと呼べる歌が与えられていますが、それとて些か短すぎてリサイタルで歌うにはちょっと辛いところ。敵役のランスには実に美しい、長さも充分で均整のとれたアリアがあるのですが、これはバリトンの役。主役のプリマドンナにアリアがないのはやはりポピュラリティの獲得という点では致命的です(もし「蝶々夫人」に「ある晴れた日に」が無かったとしたら!)。その代わりに、二重唱やアンサンブルには本当に美しい箇所があり、プッチーニがかなり意識的に(実験的に、といっても良いと思うが)、大向こうを唸らせる手法を排してアンサンブル・オペラを書こうとしていたようにも思われます。あるいは、プッチーニは自分の持てるメチエの限りを尽くして、「最短距離で人を泣かせるアリア」を書こうとして、さすがに不発に終わっているように感じられる部分もなきにしもあらず。この辺りは稿を改めてじっくりと分析してみたいと思います。要は、この一見短所にも見える特質はこのオペラの魅力の一つでもあるということ。

②グランドオペラには珍しくハッピーエンドに終わる(しかもかなり御都合主義的)
 これは「お涙頂戴」式のお話のほうが受ける、といった表面的な理由だけでなく、ならず者は罰を与えられるべし、という道徳的な話でもない。盗賊の首領であるジョンソンは逆説的な英雄としての存在である訳だが、英雄はすべからく死すべきであって、生きのびて小市民的な、家庭的な幸福を追求してはならないというのが英雄譚の大原則。こんな事を思うのは、若い頃に三島由紀夫とか(例えば『午後の曳航』)を読みすぎた悪影響かも知れませんが(笑)、判りやすく云えば映画「俺たちに明日はない」でボニーとクライドが結婚して幸せな家庭生活を得たとしたら随分興醒め、この映画の魅力は半減以下じゃないかな、というのと同じ事です。ハッピーエンドのグランド・オペラという発想は確かに新奇ではあったでしょうが、これは残念ながら不発だったと言わざるを得ない。御都合主義という点に関して言えば、プッチーニのオペラの物語ではいつもの事じゃないか、という声もあるかも知れない。それにしても、ジョンソンの一味のカストロや情婦のニーナの事が後半一言も触れられないのはちょっとリブレットが酷過ぎると思います。

③全音音階の採用など玄人受けを狙った技法が大衆的な嗜好に合わない
 これはプッチーニが如何に当時の最先端の音楽的な手法に敏感であったかを良く物語っています。ドビュッシーがほとんど全音音階だけで「帆」を書いたのが1910年ですから、「西部の娘」を作曲中のプッチーニは未だ聴いていない可能性が高い。むしろそれに少し先立つ「水の反映」や「ペレアスとメリザンド」などからこの技法を習得したという見方が妥当だと思います。①と同様、プッチーニとしてはかなり実験的な試みであったことは間違いないが、誰にでもわかりやすい音楽的魅力とは成り得ないのも事実。他にもインディアンのウォークルとビリーの歌などでも随分と革新的な和声進行が見られますが、やや音楽全体の中で座りが悪いというか、単発的な効果の域を出ていないような気がします。

④かと思えばミュージカル風の解り易い部分がしばしば大衆迎合的と受け取られる
 私は不勉強でブロードウェイのミュージカルのことについてはとんと知らないのですが、少なくともその音楽的本質においてプッチーニのこの作品と極めて近い要素があることは確かであると思います。実際のところは、ミュージカルの音楽的な確立については1930年代終わり頃の、ヨーロッパからのユダヤ人音楽家の大量亡命という要素抜きでは語れないはずなので、年代的にはすこし合わないのですが、この「まるでミュージカルみたいに聞こえる」ということ自体、ただでさえ通俗的と看做されがちなプッチーニの音楽をさらに貶め易いものにしていると言えるでしょう。誤解の無いように言っておくと、私自身はミュージカルに対しても多大な関心を持っておりますし、プッチーニの音楽が本質的に含む通俗性、甘ったるさも全部込みで好きですので、このような誹謗中傷は全く問題にはなりませんが・・・。ちなみに③の玄人向けの部分と④の大衆的な部分は特に融合を図るということはなくて、しばしば乱暴なまでに隣り合っているという印象を持ちます。

⑤映画、特に西部劇の流行によって逆にオペラの題材としては奇異なままに留まってしまった
 これはまぁ仮説みたいなものですが、要は戦後の聴衆としては「映画向きのお話をわざわざオペラで見せられてもなぁ・・・」という感想に繋がるのではないかと思っているのです。事実、映画でならこのゴールドラッシュに湧くカリフォルニアの埃っぽい空気や、汗臭いフォーティナイナー達の臭いまでもリアルに表現できるでしょうが、オペラの舞台ではどだい無理がありますし、リアルに表現したところで、「なんとも華のない舞台」と思われるのが関の山。このオペラとミュージカルと映画との関係については稿を改めてもう少し述べるつもり。

⑥「蝶々夫人」が日本人にとって「恥ずかしい」のと同様に、アメリカ人からみるとちょっと居心地が悪そう
 これはアメリカ人じゃないので想像でしかないですが、第1幕の鉱夫たちがなにかというとHello,hello!と呼び交わすとか、イタリア語の台詞のなかに取ってつけたようにAllright!とかいった英単語が出てくるところなど、随分気恥ずかしいと感じられるのでは?我々が「蝶々夫人」をみていて、前後の台詞がイタリア語なのに登場人物が「チョチョさ~ん」とか「おーカミ(神)」などと言うとかなり恥ずかしいですもんね。他にもウィスキーをストレートで飲まねぇのはけしからん、とか皆が言い出すのも、ミニーがアシュビーに葉巻を勧める場面でことさら商品名(Regarias,Auroras,Eurekas)をいう場面(むりやり日本語に訳すなら「・・・いこい、わかば、それともしんせい?」みたいな)、なんてのも恥ずかしそう。インディアンの娘ウォークルの子守唄も、蝶々夫人でスズキが歌う「イザナギ、イザナミ、サルンダシコ(猿田彦www)」と同じくネイティブが観たら噴飯モノっぽい。鉱夫らは困っている仲間にみんなで金をカンパしたと思ったら、ポーカーでイカサマをした仲間を「吊るしちまえ!」と叫びだしたり、第1幕ではジョンソンに対して友好的だったのに第3幕では「殺せ殺せ」の大合唱だったり、荒くれどもの描写にしてもちょっと馬鹿に描きすぎ。そのくせミニーの仕草のいちいちに狂喜したりしゅんとしたり。小学生か。

⑦劇中でのインディアンの描写が孕むセンシティブな問題
 これは映画の西部劇も一緒のことでしょうが、『ちびくろサンボ』も発禁になっちゃう世の中では何かと舞台に掛け難い箇所があるのは確かでしょうね。もっともオリジナルの台本ではインディアンのビリーが客の飲み残しの酒を盗み飲んだりする場面があるのをオペラではカットしていたり、どこまでプッチーニの意思なのかよく判りませんが、昔の作品としてはネイティブが随分マシに描かれているほうだと思う。とはいえ、事実上の夫婦であるビリーとウォークルの会話が"Ugh!" "Ugh!"ってちょっとまずいだろ、と思う。

以上のことから言えるのは、やはり一般的には失敗作のレッテルを貼られても致し方ない部分があること、同時にプッチーニとしても随分と実験的な要素の多いオペラであること、またそのことは作品の興行的な成功とは折り合いが悪いけれど、音楽そのものの魅力としてはむしろ捨てがたい魅力に繋がっているところもある、という事だろうと思います。次回、劇の進行に沿って、もうすこし詳しく語ってみたいと思います。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2012-04-13 01:07 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

ラヴェル 「スペインの時」 マゼール指揮フランス国立放送管弦楽団(その2)

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"もこみち"&"鼻の脂"で検索、5,810件(え~うそでしょ?!)



前回の続きです。
第8場
ラミーロが降りてくると、コンセプシオンは今度はゴンサルヴェの入った時計を寝室に上げるよう命じる。私を放っておくのですか、と非難するイニーゴを尻目に、この時計は振り子が繊細だから、などと言い訳しながらコンセプシオンはラミーロの後を追う。
ラヴェルに限らず当時のインテリならフロイトの名前くらいは知っていたでしょうが、男が身を隠す時計が女性の象徴ならば、コンセプシオンが振り子を気にしている時計は男性器の象徴、と二面性を持たせているのが面白い。ラミーロがゴンサルヴェごと時計を振り回すところは目が眩むようなアルペジオで書かれています。
第9場
イニーゴ独り。コンセプシオンにおどけた自分の姿を見せようと、時計の中に隠れてカッコウの真似をする。
洒脱でみだらなワルツ。イニーゴは役柄としては三枚目ですが、音楽は決して下卑たものにならないのが素晴らしい。
第10場
ラミーロが降りてくるのでイニーゴは時計に隠れる。ラミーロの独白。例の無骨な旋律は3/4拍子にモディファイされ、蕩けるような男の色気を発散する。この部分、「優雅で感傷的な円舞曲」にも似て、全曲中でも最も美しい箇所なのだが、それが騾馬曳きに与えられている。ラヴェルの舌舐めずりの音が聞こえてきそう。途中時計が鳴りだし、幻想的な雰囲気が立ちこめる。ラミーロは複雑な時計の機構を女に譬え、堪らない気分になるが、自分に与えられた才能は時計を運ぶことしかないのだから、断じて時計(女体)に触れたりするまい、と歌う。
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第11場
コンセプシオンがいらいらしながら階下に降りてくる。どうもゴンサルヴェとの情事は上手く行かなかった模様。ラミーロは再びゴンサルヴェの入った時計を戻しにいく。
第12場
イニーゴが時計から顔を出してカッコウの鳴きまね。店先に戻ってきたコンセプシオンはあきれるが、イニーゴが若い男は経験も足らず、詩などにうつつをぬかして現実を見ないというので、コンセプシオンは悲しく認めざるを得ない。その後一瞬出てくるハバネラのリズムはゴンサルヴェのそれとは違って、老練な愛撫のようなエロさ。
第13場
ラミーロがゴンザルヴェの入った時計を降ろすと、次はイニーゴの入った時計を担いでいく。コンセプシオンは惚れぼれとラミロを眺める。ラミーロの動機は2/4拍子の快活なもの。
第14場
コンセプシオンは相変わらず詩作に耽っているゴンサルヴェにとうとう愛想をつかす。ロマンティックなハバネラ。コンセプシオン、今度はイニーゴのいる寝室に向かう。
第15場
ゴンサルヴェ一人。時計の中に入ったまま詩作に耽っている。このあたりの音楽はラヴェルのオリジナリティと通俗性の入り混じった独特なもので、ある種のカンテ・ヒターノの味わいがあります。いわばステロタイプなスペイン風音楽はだいたいこのゴンザルヴェが担っているという訳ですね。
第16場
ラミーロが降りてきて、時計のさまざまな音の中で歌う。コンセプシオンの言いなりに時計を運ぶマゾヒスティックな悦び。自分が騾馬曳きでなく時計屋の主人であればと夢想する。時を告げる自動人形の恍惚とした音楽。そこにコンセプシオンが降りてくる。
第17場
実は時計の中に入ったイニーゴは腹がつかえて出られなくなり、情事どころではない。コンセプシオン、ゴンザルヴェとイニーゴの不甲斐なさを嘆き、ヒステリーを起こす。烈しいセギディーリャのリズムがコンセプシオンの欲求不満を表す。
第18場
ラミーロは今度はイニーゴの入った時計を階下に降ろす。さあ次はどの時計を?とラミーロが訊くと、彼の腕っ節に惚れたコンセプシオンは時計は要らないから部屋にいらっしゃいと告げる(この時点で二人の男の入った二つの時計は両方とも1階の店先にあることになる)。コンセプシオンの歌はしなをつくるようなポルタメントに彩られた何ともエロい音楽。
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寝室に誘われたラミーロは、呆けたような顔でほいほいと彼女に着いていく。このあたりのユーモアが素晴らしい。少しも下品でなく、愛すべき騾馬曳きのキャラクターをたった5小節の音楽で描き尽くす。
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第19場
階下に取り残されたイニーゴは家にいた方がよっぽど良かったと嘆くが、音楽は滑稽よりは大人の諦念に相応しい。一方ゴンサルヴェはこの恋を諦めようと歌うがトルケマダが戻ってくるので今度はイニーゴの入っている時計に押し入る。ファンダンゴのリズム。
第20場
トルケマダは時計の中のイニーゴと、時計に夢中になっている振りをしているゴンサルヴェを見つけて、そんなに気に入ったのならお安くしておきましょう、とまんまと時計を売りつける。後ろめたい二人は逆らえない。イニーゴが時計から出してほしいと懇願するので、トルケマダとゴンサルヴェで引っ張りだそうとするがびくともしない。
第21場
2階からお楽しみの後の火照った顔を扇で煽ぎながらコンセプシオンとラミーロが降りてくる。ラミーロ簡単にイニーゴを引っ張り出す。厚かましくもコンセプシオンは、明日から毎朝この騾馬曳きが時刻を告げにあたしの寝室の窓辺にきてくれるのとトルケマダに告げる。最後はみんなでボッカチオの教訓、「役に立つ恋人は一人だけ、時には騾馬曳きにも恋のチャンスが訪れる」をみんなで楽しく歌って幕。

なんちゅうお話!(笑)。しかしながら、再三書いたように、お話のあけすけさにも拘わらず音楽は本当に素晴らしいのですよ。スコアの引用はボーカル・スコアを用いましたが、オーケストラのスコアの精密さは目を瞠るばかりです。前回書き忘れましたが、序曲のところでさまざまな時計の振子の音が鳴っていますが、これ別に効果音としてマゼールが勝手に書き足したのではなくて、ラヴェルのスコアに四分音符=40,100,232でそれぞればらばらに鳴らすように指定されているのです(音楽そのもののテンポは四分音符=72)。
ようやく演奏について書く番ですが、マゼールという指揮者、どうもヘンタイ指揮者というイメージがありますが、こういった知性とセンスを問われる作品では本当に巧い指揮者であると思います。凡百の指揮者が感情移入したくなる個所では知らん顔しておいて、思いもよらぬ盲点でいやらしいくすぐりを仕掛けてくるこの指揮、ラヴェル好きを名乗るのなら一度は聴いてみてほしいと思う。世に溢れているラヴェル演奏に、いかにつまらないものが多いかよく判ります。歌手達も心憎いばかりのはまり役。特に若き日のホセ・ファン・ダムのドン・イニーゴは、ラヴェルが宛がった音楽に相応しく、決して下品ではない大人の男の音楽になっていて素晴らしい。

フィルアップの「スペイン奇想曲」について一言だけ。曲から言えば無くもがなの組合せ。だいたいグラモフォンの節操のない音源切り売りにしか過ぎないとも言えますが、なんとなく一気に聴いて違和感がないのがマゼール・マジック。本当に目の眩むような真昼の音楽。
(この項終わり)
by nekomatalistener | 2012-02-25 23:27 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

ラヴェル 「スペインの時」 マゼール指揮フランス国立放送管弦楽団(その1)

当ブログのサービスサイトで、検索キーワードが見れるようになった。予想通り「ラ・ボエーム」で検索してこちらに迷いこまれた方が多かったが、中には「亀田のあられ」とか「裸」とかで検索してお越しいただいた方もおられた。裸って・・・。



3月の新国立劇場のオペラ研修所公演は、ラヴェル「スペインの時」とツェムリンスキー「フィレンツェの悲劇」の二本立てという珍しいプログラム。私は初めて聴く作品はたいていピンと来ないので、出来る限り予習してから聴きたいというタイプなんです。

  ラヴェル「スペインの時」
    コンセプシオン(トルケマダの妻):ジェーン・ベルビエ
    トルケマダ(時計屋):ジャン・ジロドー
    ラミーロ(騾馬曳き):ガブリエル・バキエ
    ドン・イニーゴ(銀行家):ホセ・ファン・ダム
    ゴンサルヴェ(学生):ミシェル・セネシャル
    ロリン・マゼール指揮フランス国立放送管弦楽団(1965年録音)

  (併録)リムスキー・コルサコフ「スペイン奇想曲」
    ロリン・マゼール指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(1959年録音)
    CD:DEUTCHE GRAMMOPHON449 769-2

この作品、ラヴェルが好きとか言いながらこの歳になるまで全く聴いたことがありませんでしたが、物語としてはいわゆる艶笑譚、それもかなりあけすけなお話。日本人からみればフランス人も相当スケベという気がするけれど、そのフランス人から見たスペイン人のイメージはもっとスケベな民族ということなんでしょう。まるでこれでは、スペイン人はシエスタにセックスばかりしているみたい(これがタイトルの由来)ですが、これこそフランス人がスペインに思い描く憧憬と差別意識の交じり合ったものなのかも知れません。

ベンジャミン・イヴリーの著書以降、ラヴェルが同性愛者であったことは常識と化しているようですが、そういった目でこの作品を見てみるとラヴェルのセクシュアル・オリエンテーションがはっきりと刻印されているような気がしてくるから不思議なものです。いや、それどころか、ブリテンの「ビリー・バッド」のようにある意味カミングアウト・オペラではないかとすら思えます。お話は実にばかばかしくて、時計屋の奥さんのコンセプシオンが、亭主の留守の間の浮気相手に、若いツバメでもなければ金満家の紳士でもなく、屈強な騾馬曳きを選ぶというもの。いわばこれ、「美女と野獣」のパターンです。しかも武骨なリズムの騾馬曳きの歌はここぞという時には官能の限りを尽くすこともあり、ラヴェル、もとい、コンセプシオンが、最初は下層階級故に視界にも入っていなかった騾馬曳きを次第に性の対象として認知していくようすが克明に描かれています。

お話はともかく、音楽としてはラヴェルの作品の中でも最高の部類、精緻かつ洗練の極みをゆく音楽。それもそのはず、1907年から09年に掛けて作曲されたといいますから、「優雅で感傷的な円舞曲」はまだですが「鏡」「夜のガスパール」は既に書かれていることになります。因みに私は「鏡」の第1曲「蛾」や「夜のガスパール」の中の「絞首台」、「優雅で感傷的な円舞曲」「マラルメの3つの詩」あたりが、ラヴェルの「耳」が最も冴え渡っていた時期だと考えています。特に「蛾」については人間の耳がここまで進化するものかと、聴くたびに恐怖にも似た感覚を覚えます。「スペインの時」の音楽はそこまで先鋭的ではないですが、怪物的な耳の持ち主にしか書けないという点では明らかに「鏡」以降の作品という感じがします。しかも少し後に書かれた「優雅で感傷的な円舞曲」とよく似た洒脱さも併せ持っており、今まで知らなかったことが悔やまれるほど。なぜこれほど人気がないのか不思議です。

いかにも馴染みのないオペラですから、少し物語も追いながら登場人物ごとの音楽的特質を記述してみたいと思います。譜例はIMSLPからダウンロードしたボーカルスコアです。ちょっと長くなるかも知れませんがご容赦を。
導入Introduction
トレドの昼下がり、時計屋の店先。5/4拍子ホ短調の前奏。途中で変ニ長調になり、店の時計の時を告げる機械仕掛けの人形の音楽や雄鶏の声が一斉に鳴り出す。「マ・メール・ロア」の「パゴダの女王レドロネット」を思わせる天才的な音楽で、私はもうこの前奏だけでメロメロ(笑)。因みに前奏の旋律は時計屋トルケマダのモチーフですが、ワーグナー風のライトモチーフよりは柔軟な扱いがなされています。この後、登場人物それぞれのモチーフはいずれも専らオーケストラに現れ、歌唱部分はほとんどがレシ風に歌われます。
第1場
騾馬曳きのラミーロがやってきて、トルケマダに伯父の形見の時計の修理を依頼する。ラミーロのモチーフは7/8拍子のもそもそしたリズム。
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第2場
女房のコンセプシオンが店先に来て、亭主のトルケマダに早く街の時計の時刻合わせに行くよう促す。実は亭主の留守に若いツバメを引き込んで浮気をしようという算段。ラミーロは店に取り残される。
コンセプシオンが登場すると音楽が俄然色っぽくなります。彼女がトルケマダの非力を詰るところでは、腰をくねらすみたいな音形が出てくる。この奥さんの人物造形はミストレス好きなM男系の殿方には堪らんのじゃないかな、と(笑)。
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第3場
コンセプシオンはラミーロが店先にいると邪魔なので、巨大な時計を二階に運ぶよう命じる。力自慢のラミーロは嬉々として重い時計を運ぶ。
ここであらわれる長7度が特徴的な音形がコンセプシオンのモチーフ。
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ラミーロのモチーフはここでは9/4拍子(3+2+4拍子)となって、もっさりした動作が目に見えるよう。
第4場
浮気相手のゴンサルヴェ、アルボラーダを歌いながら登場。すぐにハバネラのリズム。ゴンサルヴェのモチーフはこのハバネラのリズムそのものと言ってよいと思います。時間のないコンセプシオンはすぐに情事をせがむけれどゴンサルヴェは今で言う草食系なのか、詩作に耽ってばかりで彼女をいらいらさせる。
始めのアルボラーダは「鏡」の中の「道化師の朝の歌」を連想させます。ピアノ弾きの人気は今一つの曲だと思うけれど、たいていのピアニストは中間部をどう弾いたらよいか判らないのだろう。ヒントはこのオペラにあったという訳。
第5場
ラミーロが戻ってくるが、コンセプシオンは別の時計を運ぶよう命じる。ゴンサルヴェは馬鹿みたいに時計を運んで昇り降りしているラミーロに軽蔑の眼を向ける。3人のモチーフがくるくると入れ替わり立ち替わり現れる。
第6場
コンセプシオンはゴンサルヴェを巨大な時計の中に隠し、ラミーロに時計ごと寝室に運んでもらおうと思いつく。ゴンサルヴェは時計の中に入りながら「愛は死を超える」と歌うとコンセプシオンは「大袈裟だわ」。とにかくこの奥さん、ドライで即物的。
第7場
そこに銀行家のドン・イニーゴがやってくる。彼もコンセプシオンを狙っている。尊大で慇懃な口説き。コンセプシオンは「時計には耳があるわ」というが、イニーゴは口説きを止めない。ラミーロが降りてくるので奥さん慌てて「引越し屋が来てるの」と言う。
特徴のある附点付きの音形がイニーゴのモチーフ。威厳のある旋律だが、口説きの場の音楽は滅法エロい。
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さてようやく登場人物が出揃いました。続きはまた後日。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2012-02-22 20:41 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)