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ロームシアター京都プロデュース・オペラ 「フィデリオ」公演

紅白には何の興味もなく、家人が観るのでBGM化してたが、レベッカが出たときだけセンサーがちょっと反応。曲そのものより、流行ってた頃の記憶があれこれ呼びさまされて、しかも30年も経つと微妙に記憶が美化されてる感じ。ありそうで意外にない体験。





かつての京都会館が改装してロームシアターという名でオープン。その杮落とし公演に行ってきました。

 2016年1月11日
 ベートーヴェン「フィデリオ」
  レオノーレ(フィデリオ): 木下美穂子
  フロレスタン: 小原啓楼
  ドン・ピツァロ: 小森輝彦
  ドン・フェルナンド: 黒田博
  マルツェリーネ: 石橋栄実
  ロッコ: 久保和範
  ヤキーノ: 糸賀修平
  管弦楽: 京都市交響楽団
  合唱: 京響コーラス、京都市少年合唱団
  指揮: 下野竜也
  演出: 三浦基

京都の人って何となく保守的そうに見えて実は新しもん好きというイメージがあって、今回のおよそオペラ的ではない演出についても(少なくとも私の周りの客席や幕間のロビーで聞こえてくるオバサマ方のおしゃべりを聴く限り)、さも当たり前のこととして受容されているように見受けられました(腹の中で考えていることが全く違うということもありがちだが(笑))。これは実に驚くべきことであって、よくまぁホールの杮落しでこんな企画が通ったものだと思います。
演出の三浦基氏については私はまったく予備知識がなく、帰ってからyoutubeで動画検索して、あの奇妙な語り手のイントネーションがこの人の舞台では珍しくもないことだと分かりましたが、会場の大半の聴衆は与り知らぬこと。冒頭の、序曲の演奏を阻害するだけに思えたベケットの引用も然り。私には演出家の独りよがりというか、この不出来な台本を演劇としてなんとか救済しようとするあまり、音楽へのリスペクトが疎かになったように思われてならないのですが、これもまた京都らしい興行、懐の深さを感じさせるとかなんとか、大人の対応でスルーすべきものかも知れない。だから次のパラグラフは本来チラシの裏にでもメモしておくべき類のことだと思ってくださればと思います。
私はベートーヴェンのこの、演劇としてもオペラとしても甚だ不評である「フィデリオ」について、実はやりよう如何によってはこの上なくアクチュアルなものになると思っているし、そうでなければ読替え云々は措くとしても、そもそも舞台でやる意味がないとまで考えています(事実、ベートーヴェンの音楽を聴くのならば、この異形のオペラの場合、演奏会形式がもっとも相応しいと思います)。本当にこのオペラに本気で取り組むのならば、例えば劉暁波氏とフロレスタンを重ねあわせて某国から猛烈な抗議がくるぐらいの物議を醸してみたらどうか。別にあからさまな政治的主張をせよ、ということではない。そうではなくて、楽聖ベートーヴェンだの音楽は国境を超えるだの太平楽かつ脳天気なことを考えている聴衆に、そのベートーヴェンの上演すらままならないこの世界の過酷さを気づかせるという選択肢はなかったのだろうかということ。今回の演出で、どうしても擁護論を書けないと思ったのは、詰まる所無害である、という理由なのかもしれないと感じています。それならそれで構わないが、どうか音楽を邪魔しないで、と小さな声でつぶやくのみ。
一応備忘でざっと演出の模様を記録しておくと、オーケストラは舞台の上、その奥に二つのスロープと歩廊からなる簡素な装置。何もないピットの中では赤いフード付きの囚人服を着た囚人たちが歩いたり寝そべったり、その様子を俯瞰カメラでとらえた映像が舞台奥のスクリーンに映し出される。歌手たちは奥のスロープや歩廊の上で、あるいはオケの中に設えられた細い通路で、ほぼ直立で正面を向き、殆ど芝居らしい芝居をせずに歌う。囚人の合唱はセット奥に隠れていた男声合唱が受け持ち、赤い服の囚人らは歌わない。最後の合唱はピットから笑顔で手をふりながら飛び出してきた大人と子供の合唱団員らが歌う。ざっとこんなところかな。

演奏についても何となく満たされないものが残りました。下野の指揮だが全体に早めの筋肉質な音楽。だが第1幕あまりにもサクサクと音楽が進んでいくので聴衆が取り残されてしまう感じ。特に囚人の合唱など、歌手達の非力さをカバーするかのような早いテンポ(まさかそんなことはないと思うけれど)。だが、第2幕でフロレスタンが登場すると(相変わらずテンポは速めだが)俄然音楽が活き活きと呼吸を始めるかのよう。フロレスタンとレオノーラの二重唱、慣習通り挿入されたレオノーラ序曲第3番とフィナーレ、第1幕とは見違えるような音楽が続きます。ただぜいたくを言えば、このフィナーレ、本当はもっと恰幅のよい音楽という気がします。下野はこれまで聴いたコンテンポラリー作品だと、小技を排して真正面から音楽に向かい合う素晴らしい指揮ぶりなのに、ベートーヴェンだと少し力み過ぎた感じがします。
歌手ではフロレスタンの小原啓楼が圧倒的に優れていました。第2幕が演奏として断然前半より優れていたことのおおきな理由はこの人の声そのものだろう。私が一番最近この人を聴いたのは、ライマン「リア王」のエドマンド役の時だと思うが、それからさらに表現力が増しているように思いました。フィデリオの木下美穂子、最初やや不安定なところもあったがよく堪えて、第二幕は素晴らしい歌唱を聞かせてくれたと思います。マルツェリーナの石橋栄実はこのブログで何度も取り上げてきたが、この役は彼女のスピントとしての非凡な資質によくあっていると思います。
ロッコとフェルナンドは強靭な声というにはやや弱い感じもしたが、役柄の大きさによくあった歌唱。ヤキーノはオペラの中では性格的にも弱いし損な役柄だが、糸賀修平の声質は屈託のなさよりは性格の粗雑さを思わせるものがあって、私の抱くヤキーノのイメージとは少し違う。だからどうしたと聞かれると困るが、すくなくともヤキーノという役に少しでも存在感を与える歌唱ではなかったと思います。
今回一番聴いていてつらかったのはドン・ピツァロを歌った小森輝彦。私がライマンの「リア王」で驚嘆したのはつい数年前だというのに、まぎれもなく「老い」が刻印された声が痛々しくて仕方なかった。しばらくどのような役柄を引き受けるか難しい時期が続くのだろう。
合唱は、新国立劇場の合唱のレベルを聴きつけているともうレベルが全然違ってがっかりします。フィナーレで少年合唱を入れたのは演出家と指揮者どちらのアイデアだろうか?それ自体は良いとも悪いともいいかねるが、ベートーヴェンの音楽の凄さでなんとか「終わりよければ・・・」で収まった感じ。今回の公演の為に、久々にバーンスタインの録音(グンドラ・ヤノヴィッツのレオノーラにルネ・コロのフロレスタン)を聴いたりしていたのだが、聴けば聴くほど素晴らしい音楽だと思うようになりました。演奏会形式で良いから(いや、先にも書いた通り、演奏会形式のほうがむしろ好ましいくらい)、もう少し実演を聴く機会があれば、と思います。個人的には年末の第九の20回に1回くらいは「ミサ・ソレムニス」か「フィデリオ」をやってくれないかな、と思っています。

追記
このリニューアルされたホールについて、音響がデッドであるという評を見かけました。私は1階の20列目あたりで聴きましたが、確かに残響はやや短めなものの、明晰な響きを求める向きにはなかなか良いホールのように感じました。次はピットの中のオケを聴いてみたいものです。
(この項終り)

1/21更に追記
一週間経過したがやはり納得できない。
演出について、SNSでベケットの「引用」と書いた人は何人もいるが「パクリ」と書いた人はいない。でもなんだかもやもやする。いいのかあれで?それとは別に、あの語り手の文節を無視した途切れ途切れの台詞も、ベケットの”Sans”っぽいし。オペラの読替えそのものは決して否定しないが、どう読み替えたのか私には全く分からなかったし、第一あんなに表層的で舌足らずなやり方だと単なる食い合わせみたいになってしまうと思う。
by nekomatalistener | 2016-01-13 00:45 | 演奏会レビュー | Comments(0)

イーヴ・ナット Yves Nat Ses Enregistrements 1930-1956(その15)

犬 の オ メ ェ レ ス ン





長々と書いてきたイーヴ・ナットの連載も今回が最後。ベートーヴェンの後期ソナタ4曲を聴きます。

  CD8
  ベートーヴェン
  ピアノ・ソナタ第28番イ長調Op.101 [1954.6.14.録音]
  ピアノ・ソナタ第30番ホ長調Op.109 [1954.2.17.録音]
  ピアノ・ソナタ第31番変イ長調Op.110 [1954.2.17.録音]
  ピアノ・ソナタ第32番ハ短調Op.111 [1954.2.17.録音]

ベートーヴェンの32のピアノソナタといえば『音楽の新約聖書』とまで呼ばれる重要な作品群であることは言を俟たない訳ですが、もし28番以降の作品が無かったとしたら、そこまでの値打ちがあっただろうか、と思います。それほどまでに、いわゆる後期ソナタというのは以前の作品と隔絶した唯一無二のものだろうと思います。
そんなソナタに対して、一体何を書いたらよいのか、このところずっと思い悩んできました(別に悩む必要もないのだけれど)。素人のお遊びブログですが、これでも一応、何かしら自分自身のオリジナルな見解を書きたいと思い、wikipediaに載っていることは書くまい、単なる印象批評みたいな文章も極力書くまい、という姿勢でこれまでやってきました。しかし、これら後期の作品群に対しては、恐らくこれまで夥しい論評、分析、賛辞が書かれてきたはずであり、今更何を書く必要があろうかと思います。
そうはいっても何か書かずにいられないのは業みたいなものでして、既に言い尽くされていることは百も承知で少しだけ、気になっていることを書き留めておきたい。
このシリーズの初回にOp.106の「ハンマークラヴィア・ソナタ」を取り上げた際に、いわゆる「後期様式」の特色を「①フーガの活用②装飾音としての機能を著しく逸脱した長大なトリル③ソナタ形式の再現部等における単純な繰り返しの回避④緩徐楽章における果てしない沈滞⑤形式上の、あるいは規模的な肥大」であると書きました。このCDに収められた4曲は⑤の規模的肥大は当てはまりませんが、その他の4点についてはあまり異論はなかろうと思います。しかし、②の「装飾音としての機能を著しく逸脱した長大なトリル」については若干の補足が必要かもしれません。
ベートーヴェンの後期ソナタや、同じく後期の「11のバガテルOp.119」、「ディアベリ変奏曲Op.120」に出てくる特徴あるトリルについて、トリルがこれほど重要な役割をするのはスクリャービンの後期ソナタとブーレーズの第2ソナタくらいなものだと書かれていたのは諸井誠だったか(記憶が定かではありませんが)、確かに晩年のベートーヴェンのピアノ曲に現れるトリルは一種独特なものがあります。だが、単に長大なトリルというのであれば、初期の第3番(譜例1)や中期の第21番(譜例2)にも出てきます。

(譜例1)
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(譜例2)
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そもそもトリルとはなにか。当たり前のようだが、一つは修飾の為。もう一つは現代のピアノに比べて音の減耗が激しい古い鍵盤楽器で、ある音を持続保持させる為。バロックから古典にかけてのトリルの用法はほぼこのいずれかと言ってよいと思います。たとえば上の譜例で挙げた用法は装飾的な意味合いもあるけれども、専ら音の持続保持の役割が大きいような気がします。
しかし、例えばOp109に現れる長大なトリル(譜例3)やOp111の三重トリル(譜例4)はそのいずれとも意味合いが異なるような気がします。

(譜例3)
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(譜例4)
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それは敢えて言えば天上の音楽としての表現、あらゆるものを浄化し、昇華させる魔法の言語としての機能を担っているのだろうと思います。これらを聴くときの、あの意識が遠のいていくような感覚は、確かにスクリャービンの用法に近いものかも知れません。
「ハンマークラヴィア」のフーガに頻出するトリルはまた少し意味合いが異なっており、一見バロック音楽の装飾的用法に近くも見えますが、こちらは弾き手に対して技術的な負荷を要求し、それを克服する者にのみ近づくことを許すようなもの、眠れるブリュンヒルデを守る炎のようなものの性格を担っています。例えば次のような箇所。
(譜例5)
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現代のピアノの書法としては難技巧というほどのものではありませんが、初演当時の聴衆はさぞ驚いたことだと思います。これはただでさえ峻嶮な峰々のあちこちに散在するクレヴァスや切り立った崖のようなもので、これを乗り越えて初めて遥かな高みに至るといったものなのでしょう。
ベートーヴェンのピアノ・ソナタの特色で、あまり語られないような気がするのがヴィルトゥオジテの追求ということ。そのヴィルトゥオジテというのはロマン派のそれとは随分異なるけれど、ベートーヴェンの場合、ピアノという楽器そのものの改良に併せて、新しい楽器のアクションの追求がそのまま新しいピアノ技法の開発に繋がっていったということなのでしょう。ここに挙げたトリルの用法も、そういったレベルでのヴィルトゥオジテの一種と見ることが出来るような気がします。そして、後期ソナタが通常の意味で「難曲揃い」であることの理由もそんなところにあるのでしょう。

ナットの演奏に関して、これまでの私の記述を読んだ人は「テクニックに相当の難があるようだが、難曲で知られる後期ソナタをちゃんと弾けているのだろうか」と危惧の念を持たれるかも知れませんが心配ご無用。このCDのセットの中でも最も技術的な破綻がないものだと思います。いや、それどころか数あるベートーヴェンのソナタの演奏の中でも最も優れたものの一つだと思います。私はけっして多くの録音を聴いてきたわけではありませんが、少なくとも後期ソナタに関してはソロモンとポリーニに匹敵するものだろうと思います。ポリーニの後期ソナタの録音は今もって不朽の名盤であると信じて疑いませんが、彼はある時期ナットの演奏を勉強したに違いありません(根拠はないですが)。それぞれ個性的な演奏家をゲルマン系とかラテン系などと大雑把に分けるつもりはありませんが、ナットの演奏というのはバックハウスやケンプなどとは全く異なる性格のもので、ポリーニやソロモンと並べるとやはり明らかに非ゲルマン系と呼びたくなるような共通するものが見つかります。それは明晰さであったり構築性といった言葉で表されるものですが、逆にゲルマン系(そんなカテゴリーが実在するとして)のピアニストに共通するものは(恐らく世評とは反対に)ファンタジーとか、それと裏腹の曖昧さのようなものかも知れません。どちらが上とか下という話ではありませんが、少なくとも私にはこのナットのベートーヴェン演奏は思いもかけないほどの大きな収穫であったことは確かです。
(この項終わり)
by nekomatalistener | 2013-11-24 16:55 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

イーヴ・ナット Yves Nat Ses Enregistrements 1930-1956(その13)

技術屋の部下のレポートで、「性能稼働率」を「性能感動率」とミスタイプしているのをなぜか「性感能動率」と空目。しかも「あはは、せいかんのうどうりつやて、マッサージかいな」などと(会議中なのに)口走ってしまう。





今回もベートーヴェン。残りわずかです。

   CD5
   ベートーヴェン
   ピアノ・ソナタ第16番ト長調Op.31-1 [1955.11.17.録音]
   ピアノ・ソナタ第17番二短調Op.31-2「テンペスト」 [1954.9.21以前の録音]
   ピアノ・ソナタ第18番変ホ長調Op.31-3 [1955年10月以前の録音]
   ピアノ・ソナタ第19番ト短調Op.49-1 [1954.9.21以前の録音]

作品31としてまとめられた3つのソナタに共通するのは、その遊戯性とでも言いたくなるような軽みと、イタリア・オペラの影響と思しい諸要素ではないかと密かに考えています。もしかするとこの3つのソナタは、ベートーヴェンなりにイタリアの音楽、それもクレメンティのソナタではなく、古典派イタリア・オペラとの対峙と受容の結果ではなかったか。もっとも同時代のオペラ、例えばケルビーニとかスポンティーニ、あるいは少し先輩格のサリエリのそれを私は殆ど知りませんので、あくまでも仮説ではありますが。ベートーヴェンの作風としては若干異質なこの作品群、しかし後期の偉大な作品に至る巨人の歩みの中で、決して無駄な回り道ではなかったと思います。
以下、その遊戯性とイタリア・オペラの受容という要素を少し詳しく見てみよう。

第16番の第1楽章はベートーヴェンの遊戯性が前面に現われた作品です。ト長調ですが第2主題は通常の二長調ではなくロ短調のブリッジを経てロ長調となっています。これは後の21番ハ長調の第2主題がホ長調となるのと同じ関係。展開部は動機労作というよりはピアニスティックな遊びの要素が大きい。再現部の第2主題はホ長調で始まりト長調に終止します。第2楽章はアリアのような旋律美が支配しています。流麗かつ装飾的で、ピアノによるコロラトゥーラみたい。ニ度現われるカデンツァはソプラノ歌手の歌う派手なブラヴーラを模しているのでしょう。第3楽章は穏やかなロンドですが、アダージョとアレグレットが何度か交替してプレストになだれ込むコーダはこれまた愉悦に満ちた遊びの世界。

第17番の有名なラルゴとアレグロの交替する冒頭、聴きようによっては劇的なレチタティーヴォの弦楽によるアコンパニャート(伴奏)のようにも聞こえます。「テンペスト」というタイトルにまつわる逸話は後世の創作と言われているけれど、確かにオペラの中の嵐の場を彷彿とさせます。何より展開部の終りに現われる次の箇所(譜例1)はレチタティーヴォそのもの。オペラを知らずしてテンペストを弾くのは、もしかしたら大変笑止なことかも知れない。
(譜例1)
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第2楽章は深い思索を思わせる素晴らしい楽章。だが、何気ない旋律線の装飾が紛れもなく前後の2作と共通の世界を有することを物語る。因みにこの楽章、ブラームスの第3ピアノ・ソナタのインテルメッツォ(譜例2)の発想の源となっていよう。
(譜例2)
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そういえば同じくブラームスの第2ソナタの冒頭は「テンペスト」の第1楽章みたいだ(譜例3)。第1ソナタがベートーヴェンの29番へのオマージュであることは一目瞭然だけれど他にもいろいろありそうだということ。
(譜例3)
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第3楽章は特に広く知られていると思いますが、これも私には音のメカニックな動きへの興味が先立つ遊戯的な楽章に思えます。従って殊更悲劇的に弾くのは相応しくないような気がします。

第18番も実に遊戯的な晴れやかな音楽。第1楽章の第2主題に附けられた派手な修飾はまるでブラヴーラ・アリアのようです。第2楽章はスケルツォと題されていますが2/4拍子の破格の音楽。これも湧きたつような楽しさに溢れています。スケルツォにしては珍しくソナタ形式で書かれています。第3楽章は穏やかなメヌエット。型通りの音楽だが主部とトリオの対比はやや薄い(調性は主部もトリオも同じ変ホ長調)。フィナーレは狂騒的なタランテラ。シューベルトの19番ソナタに与えた影響は顕著。シューベルトといえば初期の交響曲にもこんなのがあった(第3番D.200のフィナーレ)。弦楽四重奏曲第15番D.887のフィナーレも然り。

第19番、出版時期の関係で19番の番号がついているが実は第20番と同じく初期のソナチネ。子供の為の教材のように思われて軽くあしらわれるけれど、第1楽章のロココ風の悲しみとギャラントな味わいは格別。ソナタ形式によるアンダンテとアレグロのロンドの二つの楽章で見事に完結しています。ベートーヴェンの2楽章ソナタは最後の第32番に至るまでまったく過不足を感じさせないのがさすが。

今回はナットの演奏について各曲ごとの論評は書きませんが、いずれのソナタも模範的な演奏だと思いました。50年代のナットはテクニックの衰えを力技で押し切るきらいが少しありますが、これらの軽みをおびた曲目では良い具合に力が抜けているように思います。「テンペスト」はともかく、ベートーヴェンのソナタの中でも不当に陽の目をみないこれらの作品の面白さを堪能しました。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2013-09-14 01:07 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

イーヴ・ナット Yves Nat Ses Enregistrements 1930-1956(その11)

下肢の故障で手術した同僚が久々に出社。松葉杖でヒョコタンヒョコタン歩いているのを見ていると、後ろからそーっと近づいて膝カックンしたくなる。もう衝動を抑えるのに必死。




ナットのシリーズ、どんどんいきますよ。今回はベートーヴェン4曲。

   CD4
   ピアノ・ソナタ第12番変イ長調Op.26 [1955.9.20.以前の録音]
   ピアノ・ソナタ第13番変ホ長調Op.27-1 [1955.9.20以前の録音]
   ピアノ・ソナタ第14番嬰ハ短調Op.27-2「月光」 [1955.6.24.録音]
   ピアノ・ソナタ第15番ニ長調Op.28「田園」 [1955.9.20.以前の録音]


ベートーヴェンのいわゆる中期と呼ばれる時期を何時からと見るかはいろんな説があると思いますが、12番ソナタを聴いていると明らかにそれまでのソナタ群とは作風が変化していることに気付きます。次のOp.27の2曲と併せて、初期から中期への橋渡し的な存在と見るのが妥当だろうと思います。このソナタの最大の特色は変奏曲→スケルツォ→葬送行進曲→無窮動風ロンド、というようにソナタ形式に拠る楽章がないことですが、そのこと自体はモーツァルトの有名なトルコ行進曲附きのソナタもそうでしたから、ベートーヴェンの発案という訳には行きません。しかし、各々の楽章のコントラストの強さや、全編に漲る自由闊達さにはモーツァルトやハイドンのような先人達の作品とは全く異なる音楽を感じます。この作風の変化の内実を具体的に、クレメンティのような同時代人との相互影響の分析を踏まえて研究してみたいという誘惑に駆られます(クレメンティのソナタは100曲ほどあるようなので真面目にやろうとすると大変ですが)。
ところで第3楽章の葬送行進曲は変イ短調という大変珍しい調性で書かれていますが、ベートーヴェン以前にこの調性で作品を書いた人はいるのだろうか?有名なところではアルベニスの「イベリア」の第1曲「エボカシオン」とか、リストの「ラ・カンパネラ」の初稿(S140の方。現行の改定版は嬰ト短調)が思いつくところですがいずれもベートーヴェン以降の作品。ご存じの方がおられましたらご教示ください。
ナットの演奏は大変優れていますが、第3楽章の行進曲の再現部をffで開始しているのは疑問(ラフマニノフ盤のショパンの葬送行進曲じゃあるまいし)。同じ楽章の中間部も叩き過ぎて音が汚く割れているのが、ナットらしいとも言えるけれど評価は分かれるでしょう。

第13番ソナタは、次の第14番と共に「幻想曲風ソナタ」と題されています。「幻想曲」の定義にも拠りますが、ロマン派的な「幻想曲」をイメージすると第14番にこそ相応しい表題となりますが、「ソナタ形式に拠らない自由な形式による作品」と捉えると先の12番と同じく、このソナタ形式楽章を持たない13番の方がより表題に合致した曲、と言えます。地味な作品ながら、第2楽章Allegro molto e vivaceはそれまでの古典的なスケルツォと一線を画す近代的感覚に満ちた音楽となっており、ベートーヴェン自身の初期から中期への橋渡しと同時に、古典派からロマン派への移行をも示しているように思われます。
ナットは最初の3つの楽章は優れていますが、技巧的にやや難度の高い終楽章は粗さが目立ちます。それでもこの時代のピアニストにしては様式感が非常に的確なところが素晴らしいと思いました。ただこの録音、attaccaの指示があるにも関わらず、第2楽章と第3楽章の間で背後のヒスノイズも含めて完全に音が途切れてしまいます。4つの楽章が全てattaccaで連続して奏されることが作曲者の新機軸なはずですからこれはいただけません。原盤のLPがどうなっているのか判りませんが、この録音の編集者は楽譜も読めないのか、とちょっと文句を言いたくなります。

第14番、言わずと知れた月光。「熱情」や「悲愴」については若干食傷気味と書いた私ですが、14番については何度聴いても良い曲だと思います。まぁこういうのを名曲と称するのでしょう。先の13番と並んで「幻想曲風ソナタ」と題されていますが、緩徐楽章で始まるのはベートーヴェンの発明ではないし、終楽章は堂々たるソナタ形式。これに敢えて幻想曲風と名づけたのはやはり第1楽章のロマンティックな楽想に起因するのでしょうから、まさにロマン派の源流を見る思いがします。
ナットの演奏は平凡と言えば平凡、終楽章のテクニックの粗さも最初は耳に障りますが、聴きこむほどに骨格のはっきりした良い演奏だということに気付きます。早めの第1楽章の右手に旋律が出てくるときのちょっとしたルバートも知的で良い。彼のシューマンに対して「構築的」という表現をしましたが、それがどこから来るものなのかも何となく理解できます。

第15番ソナタの通称「田園」は後世の人の附けたものですが、私はあまり使いたいとは思いません。ソナタ形式のアレグロ→三部形式のアンダンテ→スケルツォ→ロンドという構成は先立つ3つのソナタと比べると自由さという点で一歩後退しているかに見えますが、なんといっても目を惹くのは近代的メランコリーの感じられるアンダンテ。何を以てロマン派の嚆矢とするかは諸説あるでしょうが、私には先の「幻想曲風ソナタ」と並んでこのアンダンテこそそれではないかと密かに思っています。通称通りどこか緩い感じのするソナタですが、この楽章のおかげで意外と重要な作品になり得ていると思います。
ナットは持ち前の剛直さはやや抑えていますが、基本的にいつもながらのスタイル。この緩いソナタには実に好ましい効果をもたらしています。技巧的にはやや平易といったところですので粗も目立たず、良い演奏だと思います。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2013-08-12 00:00 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

イーヴ・ナット Yves Nat Ses Enregistrements 1930-1956(その9)

ある日のyoutubeサーフィン。まず、あるツイッターで知ったモングンオール・オンダールのホーメイを聴いたら、投稿者が巻上公一なのを知ってヒカシューのあれこれを聴き、思えば70年代の終りから80年代の初め頃ってヘンな時代だよなぁと戸川純をひとしきり、ついでにゲルニカの動力の姫。ヒカシューといえば、ということでクラフトワークの動画を探したら一杯ある。ひさびさにロボットとか聴いてスゲー!私の中高生の頃って凄いのね。



イーヴ・ナットのシリーズ、今回はベートーヴェン。

  CD3
  ベートーヴェン
    ピアノ・ソナタ第8番ハ短調Op.13「悲愴」 [1951年録音]
    ピアノ・ソナタ第9番ホ長調Op.14-1 [1953年6月録音]
    ピアノ・ソナタ第10番ト長調Op.14-2 [1953年6月録音]
    ピアノ・ソナタ第11番変ロ長調Op.22 [1955.9.20以前の録音]

まずは「悲愴」から。
一昔前は、ベートーヴェンのピアノ・ソナタといえば「悲愴」「月光」「熱情」のセットがその代名詞のように言われていたものです(いや、現代でもそうなのでしょう)。「ワルトシュタイン」「テンペスト」「告別」のセットを挙げる人もいるかも知れないが、世間一般における知名度ではまず比較にならないだろう。ただ、20世紀の終りの頃には既に一夜のリサイタルをこれら表題附きのソナタで埋めるようなピアニストは流行遅れと見做されるようになり、多少とも音楽を判っているつもりの人なら、ベートーヴェンの真価はこれらのソナタではなく、28番から32番のいわゆる後期ソナタにこそ存していることを疑わないという事態が出来しました。1970年代半ばにポリーニが、初期や中期ではなくいきなり後期ソナタの録音を世に問うたのは、その時代の変化の象徴的な出来事であったと思います。爾来、腕自慢のピアニスト達は、リサイタルで弾くなら後期あるいはそれに作風の近い26番や27番であり、それ以外のソナタを避けるか、あるいはプログラムの最初のほうに、小手調べのように初期や中期の表題のない比較的目立たない作品を置くか、といった風に変化してきたように思われます。もはや現代において、悲愴や月光を殊更リサイタルで弾くのは相当の勇気が要ることは間違いないところでしょう。
私はこういった潮流の変化について、例えば「悲愴」「月光」「熱情」の組合せがレコード会社の販売戦略(ちょうどLP1枚に収まって都合がよい云々)として無理やり3大名曲としてでっちあげられたものであって、作品自体の価値の多寡とは何の関係もないといったシニカルな見方に与するつもりはないが、それでも、そのおかげでこの3曲に対してかなり食傷気味になったのは事実。正直なところ、そんじょそこらのピアニストがこれらの作品をプログラムに組んでいたらそれだけで聴く意欲が幾分失せるだろうし、あるいはもし知り合いが「ベートーヴェンだったら悲愴が一番好き」などと言おうものなら、(馬鹿にするつもりはないにしても)勘弁してくれ、と思うだろう。こういった告白はある種の人達の反感を買うのは判っているが、私のこのソナタに対するスタンスというものを明らかにしておくのは無意味ではないと思います。
実際のところ、この作品の意義については、直前のOp10のソナタでハイドンの世界から完全に自立した世界を確立したのに続いて、はやくもロマン派と見紛うばかりの表出力が得られたと言う側面と、ムツィオ・クレメンティの顕著な影響という両方を冷静に分析する必要があるだろう。その仕事は私の手には余るけれど、要するに私は手放しで傑作というつもりもなければ、所詮は初期ソナタの一つと切り捨てるつもりもない、ということ。
もうひとつ、極私的な話をしておくと、私は中学一年生の時、いわゆるピアノのお稽古の発表会でこのソナタの第1楽章を弾いたのだが、それからしばらくしてピアノに対する熱が少しばかり醒めてしまい、レッスンも止めてしまった。というか、その頃の無邪気な私は、プロとして食っていけるようなピアニストは、12歳かそこらの歳にはすでにショパンのエチュードに取り組んでいるものだということを知ってある種の衝撃を受け、明けても暮れてもベートーヴェンのソナタを弾かされていた自分に嫌気がさしたのだろう。少なくともその頃レッスンでやった初期から中期に掛けてのソナタに感じるなにがしかのアンビヴァレントな感覚は、この体験抜きには私には説明がつかない。今、こうして50歳を超えてようやく、単なる音楽愛好家としていろいろと音楽を聴いたり、それについて考えたりするバックボーンとして、この頃のベートーヴェン体験がどれほど自分の血や骨となって役だっているかをひしひしと感じ、当時就いていた先生に対しても感謝の念を感じているのだが、ベートーヴェンにまつわるこの苦いような甘いような記憶は、多分死ぬまで私につきまとうのでしょう。
肝心のナットの演奏だが、そんな背景のある作品故どうしても粗が目立ち、可もなく不可もない演奏として聞えてしまいます。これはナットが悪いのではなくて、私の受け止め方の問題。多分誰が弾いても満足することはないでしょう。それでも第2楽章の主題の控えめな歌わせ方には好ましいものを感じるし、第1楽章の奇を衒わない序奏にしても悪くはない。第3楽章のコーダあたりの強弱の付け方はやや作為的、音像が揺れたりわざとらしく奥に引っ込んだりするEMIの悪名高い録音(エンジニアの癖というか)もその印象に一役買っていそうだ。

9番ソナタは、再びハイドン的な世界に戻って、いささか饒舌な音楽が書き連ねられている印象があります。そこにはソナチネ的平明さがあって、技巧的にも比較的平易な部類だと思います。
ナットの演奏はけだし名演である。どこといって突出したものはないが自発性溢れる音楽に身を任せられる感じがします。

10番は、優美な1楽章、古典的な変奏曲にスケルツォと題された終楽章(実質的にはロンド)が続く構成のソナタ。9番と同じくソナチネ風、技巧的には9番より少し難しいがそれでも平易な部類でしょう。やはりハイドン的な機知に溢れていて、第1楽章にはハイドンの好んだ疑似再現部が展開部の中に現われる。
ナットの演奏は最初の二つの楽章はとても良いが、スケルツォの駆け上がる音形が些かテンポが前のめり過ぎて、ヘミオラの特徴のあるリズムが活かせていないのが残念。

11番は7番以来の堂々たる4楽章ソナタ。典型的なcon brioの第1楽章に、内実のしっかり詰った長い第2楽章、第3楽章はスケルツォではなくメヌエットが置かれているが、トリオは疾風怒濤のト短調、フィナーレはこれも実にベートーヴェンらしいグラツィオーゾなロンド。しかもこのロンドの短調のクープレは対位法を駆使した展開部となっています。この11番は地味な存在ながら初期ソナタの完成形といえます。ナットの演奏は各々の楽章の特徴をよくとらえた優れた演奏だと思います。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2013-08-01 20:16 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

イーヴ・ナット Yves Nat Ses Enregistrements 1930-1956(その7)

ブルセラ症ってちゃんとした獣医学用語らしいんだけど、どうしてもあっち関係の病気かと思うよね。





シリーズ7回目はベートーヴェンの初期ソナタ4曲を聴きます。

 CD2
 ベートーヴェン
  ピアノ・ソナタ第4番変ホ長調Op.7 [1955.9.20.以前の録音]
  ピアノ・ソナタ第5番ハ短調Op.10-1 [1955.2.9.録音]
  ピアノ・ソナタ第6番へ長調Op.10-2 [1955.2.9.録音]
  ピアノ・ソナタ第7番ニ長調Op.10-3 [1955.2.23.録音]

4番ソナタについて、私はこれまでベートーヴェンのGrazioso路線の代表作と思っていました。それはもちろん間違っていたとは言いませんが、改めて楽譜を良く見ると第1楽章はMolto allegro e con brioと書かれていて、これを殊更「優美に」弾くのはベートーヴェンが想定していた演奏とは少し違うかも知れない、と思いました。この思い込みには2つ原因があって、一つ目は音楽そのものから導かれる印象。この第1楽章は6/8拍子でしかも流れるようなフレーズに富んでいることや、メヌエットとスケルツォの中間的な様式の流麗な第3楽章、そしてGraziosoそのもののフィナーレから受ける全体的な印象が作品そのもののイメージを強固に規定してしまいます。それと、ごく一部の人間だけかも知れませんが、ミケランジェリがドイツ・グラモフォンに録音した数少ない正規盤の印象が強烈すぎるというのが二つ目。ミケランジェリはかつては私にとって神にも等しいピアニストでしたが、この4番ソナタの録音に関してはコード・ガーベンがその著書の中で、ケンプの演奏と比べて散々ミケランジェリの解釈の恣意性をあげつらった末に、ヨアヒム・カイザーが1971年のレコード評で「細かな美しい部分で、音楽は奇妙に甘ったるく、なんの身振りもなく、展開していく緊張感に欠ける」云々とこきおろしていたと記している(『ミケランジェリ ある天才との綱渡り』コード・ガーベン著・蔵原順子訳、アルファベータ社)。そこまでぼろくそに言わなくとも、と思うが、彼のお陰で必要以上にGraziosoなイメージが刷り込まれてしまったのは事実だろう(それは軽やかさとか流麗さとは違って、意外なほど垢抜けない重さを伴っているのだが)。
いずれにせよ、これまで聴いてきたナットの剛毅な演奏、アタックのきつい演奏によって、この4番ソナタの新たなイメージが生れるかと思っていたらさにあらず、案外と柔らかく流麗な演奏です。これはやはり、音楽そのものの要求に素直に従えばこういった演奏になる、ということでしょうか。Molto allegro云々というのとは少し違うと言わざるを得ない。大体、この頃のベートーヴェンのcon brioは中期のそれとは少しニュアンスが違うのかもしれない。
それにしても、先に書かれたOp.2の3つのソナタに見られた緊密な展開部は、この4番ソナタの第1楽章の展開部では技法上の後退といってもよいくらい、主題を短調に置き換えるだけの極めてシンプルな手法で書かれているのが印象的。これは提示部と再現部が意外に多彩な素材で出来ているため、敢えて展開部をシンプルにしたというのが正解なのでしょうが、音楽がおおらかに、何と言って策を弄することなく構えの大きな音楽に聞こえるという効果をもたらしています。何一つ技巧的なフレーズのない第2楽章も素晴らしい。少しピアノが弾ける人ならまず間違いなく初見で弾けてしまうはずだが、これを音楽的に弾くのは大変だと思う。ここ数年、PTNAとかアマコンといった、アマチュアのピアノ演奏を聴く機会が多少あるのだが、古典やロマン派を弾くコンテスタントの中には耳を蔽いたくなるほど音楽としての感興が感じられない人達がいます。彼らに最も必要な修練は、こういった緩徐楽章を丁寧に弾いて、どうすれば音楽として間が持つようになるのか考えながら弾き続けることかも知れないなぁ、と思う。ベートーヴェンの初期作品の緩徐楽章を聴きながらそんなことを考えていると、大久保賢氏のブログでちょっと関連することを書いておられました(ピアノのレッスンにおける緩徐楽章軽視について)。そちらも併せてどうぞ。
http://blogs.yahoo.co.jp/katzeblanca/23810598.html

初期ソナタを番号順にずっと聴いていくと、このOp.10におけるベートーヴェンの音楽の長足の進歩に驚きます。詳細な分析を行う力は私にはありませんが、ハイドンやクレメンティの影響から出発したベートーヴェンがついに自己の音楽的スタイルを確立したかに見えます。
5番ソナタはそのハ短調という調性と厳しく力強い曲想によって、後の8番ソナタや交響曲第5番をいやでも連想させます。シンプルな3楽章構成、緊密な動機労作的書法によって一分の隙もない音楽が展開されています。第3楽章の展開部の終わりは交響曲第5番にそっくりなところが出てきますが、偶然の一致で済ますことはできないと思います。
6番も3楽章構成。上機嫌なベートーヴェン。プレストのフィナーレは天才的な筆致だと思います。ハイドンから学んだものと、バッハのインヴェンション風の対位法が素晴らしい手際で結びつけられている。
7番に至ってベートーヴェンのスタイルが完全に確立されたと見てよいでしょう。ここには独特の強さと熱気、それと若干の強引さがあって紛うかたなきベートーヴェンらしさを感じます。二短調の第2楽章はその深刻さ故に、はるか後の29番ソナタの嬰ヘ短調のアダージョを思い起こさせる。第3楽章の晴朗なメヌエットも素晴らしいが、フィナーレのロンドに頻出する問いかけの動機も実にベートーヴェンらしい。
Op.10の3曲、ナットの演奏は大変優れていて、これら初期ソナタとの相性のよさを感じます。もちろんベートーヴェンの音楽の大きさというものは、ある一つの演奏スタイルしか受け付けないといったものではありませんが、それでもナットの剛毅な演奏は音楽との一体性を強く感じさせます。しかし少なくとも日本では、バックハウスやケンプ、もしかしたらグルダほどにもベートーヴェン演奏の規範としては認知されておらず、どこまで行っても一部の好事家のための録音と思われていないだろうか。これまでにも書いてきた通り、確かに中期の有名曲には些か雑な演奏があったり、指回りに若干難があったりするのは事実だが、それはドイツの巨匠達だって同様(いや、メカニックという意味ではもっと酷いかもしれない)。そこにはかつての日本人独特の「本場主義」「独墺至上主義」の悪しき影響があるのは事実として、ではナットと独墺系ピアニストの演奏上の差異はどのようなものか、いずれケンプやバックハウスも含めていろんな演奏を聴いて考えてみたいと思っています。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2012-10-24 21:17 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

イーヴ・ナット Yves Nat Ses Enregistrements 1930-1956 (その5)

会社の慰安会で、スギちゃんが来るって聞いてたのに急遽2700になって残念。




今回取り上げたのはベートーヴェンの中期を代表する「熱情」と「ワルトシュタイン」を含む6曲のソナタ集。

  CD6
  ベートーヴェン
  ピアノ・ソナタ第20番ト長調Op.49-2 [1954.9.21以前の録音]
  ピアノ・ソナタ第21番ハ長調Op.53「ワルトシュタイン」 [1954.5.4.録音]
  ピアノ・ソナタ第22番ヘ長調Op.54 [1954.11.18.録音]
  ピアノ・ソナタ第23番ヘ短調Op.57「熱情」 [1954.9.22.録音]
  ピアノ・ソナタ第24番嬰ヘ長調Op.78 [1954.2.23.録音]
  ピアノ・ソナタ第25番ト長調Op.79 [1954.5.5.録音]

20番ソナタは実際には初期に書かれた易しいソナタ。私が子供の頃は、ソナチネ・アルバムを終了する頃には誰でもレッスンで弾かされたものですが最近はどうなんでしょう?しかし短くて技術的に平易ではあるが、音楽としては実に魅力的。簡潔でしかも堂々としたソナタ形式の第1楽章と、貴婦人の典雅さよりは騎士の凛々しさを感じさせるメヌエットの第2楽章からなり、たった二つの楽章で何の過不足も感じさせないのがミソ。
ナットはこういった軽い作品でも直球勝負。全体的に拍頭の和音のアタックが強くて、第2楽章の第2クープレなどガツンガツンと鳴らすのは好き嫌いが分かれるかも知れませんが、音楽の柄が一回り大きく聞こえるのは事実。そうかと思えば第1楽章ではアーティキュレーションがけっこう自由自在で、スタッカートとノン・スタッカートとレガートの弾き分けが実に融通無碍なのが面白い(ちなみに初版の楽譜にはこれらの表示は殆ど書かれていない)。今時のピアニストは程度の差はあれどこういう弾き方はあんまりしないのじゃないかな。最近はこれと19番を習作とみなして全集に取り上げないピアニストもいるというが、私は若書きでも立派な作品だと思っているので、この演奏は大変気に入りました。

21番「ワルトシュタイン」はあまりにも有名すぎて、最近ではこういった機会がなければ聴くこともあまりないのが実情ですが、改めて聴くとやはり大した作品です。Allegro con brioといえば中期のベートーヴェンのトレードマークといってもいいと思いますが、この第1楽章ほどcon brioという表示に相応しいものもないでしょう。大人になって、やれベートーヴェンは後期に限るだの、弦楽四重奏曲が一番だの、生意気を言うようになった訳ですが、やはり中期の熱いベートーヴェンの魅力は格別です。思えば私も中学生に上がった頃は、レッスンで初期のソナタを練習していたものの、待ちきれなくてワルトシュタインや熱情など中期ソナタをこっそり練習したものです。この子供の頃のベートーヴェンへの愛着、これは誰でも通過するものなのかどうか、私の場合は実はこの頃の刷り込みというのが思いの他大きくて、この歳になっても実はベートーヴェンが、それも初期や中期のベートーヴェンが大好き(汗)。ラヴェルはベートーヴェンの事を「大音痴」と呼んで嫌ったそうだが、私がラヴェルやストラヴィンスキーを片一方で好むのはベートーヴェンへの愛の反動なのかも知れない。
そんなワルトシュタインであるから当然思い入れも大きくて並みの演奏では満足できない。ナットの演奏は「熱情」もそうだがこうした有名曲では細部の粗さが気になります。スケールやアルペジオの粒が揃わないのは、そういった細部の彫琢の精密さを追求するタイプの演奏家でないのは重々承知していてもやはり気になります。音楽を大掴みに、というのと、このソナタにおける粗さは少し違うものでしょう。リサイタルで弾き過ぎた(弾かされ過ぎた)とでも言うのか。それに全体にテンポが速すぎて私の趣味ではない。このソナタの一番難しいところはテンポの設定かも知れません。早ければ落ち着きがなく粗雑になり、遅ければ如何にも素人臭い演奏になりがち。ナットの早いテンポは剛直な表現を追求した結果かも知れないとは思いながら、どうしても落ち着きなく聞えてしまう。ナットの演奏に欠けているものは感覚的なソノリティの美しさでしょうが、その点でナットの対極にいるクラウディオ・アラウが驚くほどスローテンポでこのソナタを弾いていたのが印象的だ。ああ、アラウを聴きたくて仕方が無い(笑)。

22番ソナタは、ベートーヴェンの32のソナタの中でも最も風変わりな作品でしょうね。ソナタ形式に拠らず、附点附きの第1主題とオクターブの三連符の第2主題が交替するだけの第1楽章と、無窮動の第2楽章。私は殊更このソナタが好きって訳でもないし、傑作だとも思っていないけれど非常に気になる存在です。以前にも書きましたが、ヴェルディが晩年の傑作群を書く前に、「仮面舞踏会」や「シモン・ボッカネグラ」など、苦渋に満ちた筆致の作品を書いたり、シェイクスピアが「ヘンリー4世」の後、「トロイラスとクレシダ」や「尺には尺を」などの一連の奇妙な問題劇を書いたこと、それこそ年代とともに成長し、成熟していくタイプの天才が必ず通る道のような気がしますが、このソナタももしかしたらベートーヴェンの問題作品なのであって、こんな作品の存在自体がベートーヴェンという人の天才の証なのかも知れない、と思ったり、いややっぱりこれは単なる筆のすさび、ベートーヴェンの気紛れに過ぎないと思ってみたり。こうしてベートーヴェンをまとめて聴く際にはついつい何度も聴いてしまう。
そんな訳でこのソナタの演奏は軽くサラサラと弾くか、何か言いたそうに(だが上手く言えないとでもいうように)弾くか、二通りのやり方があると思いますが、ナットはもちろん後者のタイプ。かっちりと落ち着いた第1楽章と、早すぎない第2楽章。改めてこの無窮動がAllegroでなくAllegrettoと記されていることに気が附きました。模範的な演奏だと思います。

23番ソナタ「熱情」。ベートーヴェンの代名詞。子供の頃にバックハウスのレコードを文字通り擦り切れるほど聴き、自分でも(たどたどしくではあるが)弾き倒して以来、さすがに大人になってからはあまり真面目に聴いた記憶がありません。もちろん聴けばそれなりに優れた作品だとは思うし、随分前で記憶も定かではないが、園田高弘と諸井誠の往復書簡か何かで詳細なアナリーゼを読んで、これがベートーヴェンのメチエか、と驚いたこともある。でもなかなか普段、改めて聴こうという気になりません。食傷、ということなのでしょう。
ナットの演奏は、ワルトシュタインもそうですが、やっぱりちょっと粗い。冒頭のた、た、た、たーんの動機がリタルダンドしていきなり急速なアルペジオで駆け降りるところも、緩急の差が大きすぎて少しエキセントリックな感じがする。リサイタルなんかで弾かされ過ぎて、とにかく何かしなければ、という心境なのかも知れませんが、もう少し何というか、何もしない演奏でもいいような気がします。ベートーヴェン弾きとして有名な割に、実際のところ(少なくとも日本では)あまりメジャーにならないのは、こういった有名曲における磨き上げの不足だろうと思う。じっくり聴けばそれなりに良い演奏なんだが、聴き手の耳の垢をすっかり落として無心に聴く、というのは想像以上に難しいことだと痛感しました。

24番「テレーゼ」は、ベートーヴェンのgraziosoな側面を代表する作品。楽譜のどこにもgraziosoとは書かれていないけれど、その代わりにdolceとかleggiermenteと何度も書き込まれているのが印象的(この表示は後世の追記ではなくて自筆譜にちゃんと書かれている)。第2楽章の嬰ニ長調と嬰ニ短調(後半の繰り返しは嬰へ長調と嬰ヘ短調)の交替は後のシューベルトが多用した手法で、古典派からロマン派への歩みをこれほど如実に表しているものもない。地味な作品だけれど、中期から後期への移行を示す傑作だと思います。
ナットは、こういった作品の重要性をよく判らせてくれる演奏だと思います。なんの衒いもなく弾いているようで、ちょっとしたニュアンスがとても意義深く聞こえる。

25番は、これも子供の学習用のソナタ・アルバムに入っていて誰でも練習されられたものですが、音楽的に弾こうとするととても難しい作品です。ベートーヴェンとしては随分気楽に書いた感じがして、傑作とも大作とも言えませんが、第2楽章のゴンドリエーラは殆どメンデルスゾーンの無言歌の世界を思わせるユニークなもの。曲が曲だけにナットの演奏は特にこれといって際立つものはない。尚、第1楽章の展開部冒頭、楽譜にない低音をガツンと響かせるのでびっくりします。現代のピアニストはこういうことは絶対しないが、かつては珍しくもなかったのだろう。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2012-08-13 22:30 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

イーヴ・ナット Yves Nat Ses Enregistrements 1930-1956 (その3)

新ことわざ辞典

【猫に鰹節】
堅くて食べられないこと。「猫に小判」とも言う。
【猫の額】
(猫の額に触ると気持ちいいので、これが畳くらい大きかったらいいのに、と思う所から)狭いこと。




今回取り上げるのは1枚目のディスク、ベートーヴェンの中期の変奏曲と、初期のソナタ集の取り合わせ。

  CD1
  ベートーヴェン
  創作主題による32の変奏曲ハ短調WoO.80 [1955.2.録音]
  ピアノ・ソナタ第1番ヘ短調Op.2-1 [1955.9.20以前の録音]
  ピアノ・ソナタ第2番イ長調Op.2-2 [1955.9.20以前の録音]
  ピアノ・ソナタ第3番ハ長調Op.2-3 [1955.9.1録音]

1806年に書かれた「32の変奏曲」は、ピアノ・ソナタで言えば23番と24番の間に書かれたことになる訳ですが、確かに誰しも持つであろう中期のベートーヴェン像というものにこれほど合致した作品もなかろうと思います。すなわち、ハ短調の持つ悲劇性と雄々しさ、少しも華美に流れないのに雄弁極まりない演奏技法の数々、長くも短くもなく筋肉質に引き締まっていて、どこにも無駄のないプロポーション、こんなところがこの作品の特質であると思います。ベートーヴェンといえば後期のソナタや弦楽四重奏曲こそが最上のものである、という世の通説はその通りだと思うけれど、本当にそう思えるようになるにはある時期、徹底的に中期の諸作品を学ぶ必要があるように思います。ピアノを弾く人であればこの変奏曲など、是非とも弾いてみてほしいと思いますし、専ら聴くだけの人も交響曲や室内楽だけでなく、こういった作品を繰り返し聴くことでどれほど多くのもの、ベートーヴェンの本質に関する知見を得られることか、と思います。

ナットの演奏は、もうこれは規範と言ってもいいと思います。辛い見方をすれば古い時代のステロタイプなベートーヴェン像に余りにもとらわれ過ぎと言えなくもないでしょうが、一度は聴いておくべき演奏だと思います。先程敢えて「学ぶ」という表現をしましたが、たまには背筋を伸ばし、居住まいを正して謹聴するベートーヴェンも良いものです。超個性的な演奏からピリオド楽器による演奏までよりどりみどりの現代に、こういったヒストリカルな演奏を聴く意義は大きいと思っています。

ベートーヴェンその人自身、成長の人というか、昨日よりは今日、今日よりは明日の方がより成熟した作品を書く、というタイプなだけに、その初期作品というのは殊更未熟なもの、劣ったものと捉えられるきらいがあるように思いますが、随分久しぶりに、改めてOp.2の3つのソナタを聴くと、その完成度の高さに驚きを禁じ得ませんでした。悲劇的で雄渾なヘ短調、軽やかにして優美なイ長調、威風堂々たるハ長調、ベートーヴェンがその後一生を通じて追求することになる3つの要素が明瞭に現われていることにも驚きます。特にヘ短調のソナタは、ぱっと見、きわめてシンプルな書法ながら、実際に弾いたり聴いたりするとその無駄のなさと雄弁さというものはやはり途方もないものに思われてきます。しかも、そこから受ける感動というものは、エモーショナルなものというよりは意外なほど知的な喜びのほうに近いという気がします。続くイ長調は、Op.2の中でも特に完成度が高い作品ですが、そこに現われているヴィルトゥオジテへの飽くなきこだわりというものは、看過されがちであるがもっと注目されるべきものだと思います。そしてクレメンティとの親近性についても然り(クレメンティといえばソナチネ・アルバムの子供向け音楽というイメージが強いのは残念。ホロヴィッツのRCAの古い録音やミケランジェリのブートレグ盤、ラザール・ベルマンのカーネギー・ホール・ライヴなどに優れたソナタの演奏があるのは知ってる人は知っている)。第1楽章の展開部は型通りの展開の後、(イ長調からは遠いへ長調による)師匠のハイドン風の疑似再現部を経て本格的な展開部後半が始まる。若きベートーヴェンの意気込みとハイドンへの敬意が微笑ましい。面白いのは緩徐楽章である第2楽章にLargo appassionatoと記されていること。二長調の美しい旋律からappassionatoの表現を引き出すのは並大抵のことではない。それと終楽章のロンドは、ベートーヴェン作品におけるGraziosoが如何なるものであるかの、最良の実例の一つであると思います。ハ長調は、その後「ワルトシュタイン」を経て「ハンマークラヴィア」に至る明朗快活な
ベートーヴェンの原型ですが、コンチェルトを思わせるようなカデンツァ附きの長大な第1楽章や、(作曲当時としては)圧倒的ヴィルトゥオジテを誇る終楽章など、聴けば聴くほど初期だの中期だのといった切り分け方が無意味に思えてきます。第2楽章のホ短調に転調してからの沈鬱な表現も素晴らしい。そういえばこのソナタはミケランジェリのお気に入りでもあった。

Op.2のナットの演奏は、変奏曲について述べたことがそのまま当てはまる訳ですが、特にヘ短調の終楽章の凄まじいばかりの気魄は特筆すべきだろうと思います。現代の感覚からすれば若干牛刀を以て鶏を裂く感なきにしもあらずだが、それだけOp.2の中でのヘ短調の位置づけが截然と現われ得たように感じました。またイ長調の演奏は、およそ感覚的な喜びを追求する姿勢とは遠そうであるのに、実際に現われた演奏はこの上なくgiocosoでありgraziosoであるもの。こんなところに(前々回にも書いたが)音楽の様々な側面を削ぎ落として行くタイプであるよりは円満で十全な表現を目指すタイプだと思わせるところがあります。このイ長調は名演といっていいんじゃないかな。ハ長調は、何もミケランジェリを引合いに出さずとも、もっと精緻な演奏はいくらでもあると思うが、その音楽の端正なところ、恰幅のよさ、例のホ短調の部分の節度あるロマンティックな表現など、やはり一つの規範として学ぶべき点の多い演奏です。そして私自身、感覚的情緒的なベートーヴェン演奏よりも知に訴える演奏を好むせいもあって、実に好ましい演奏だと思いました。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2012-07-25 16:03 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

イーヴ・ナット Yves Nat Ses Enregistrements 1930-1956 (その1)

量子力学ことわざ集

【シュレディンガーの猫にまたたび】
箱の中に猫とまたたびを入れておくと猫がよっぱらう現象。
【シュレディンガーの猫に小判】
猫が小判をもらって喜ぶ確率は50%という法則。
【シュレディンガーの猫耳メイド】
口では「お帰りなさいませご主人さま」とか言いながら実はいけない子猫、というパラドックス。




昔は大好きだったのに今はピアノ音楽を好んで聴きたいとは思わない。だからこそ、今ピアノ音楽に真剣に向かい合ってみたいと思う。昔はテクニックに瑕のある演奏にはあまり興味がなかった(興味がない、というのは、嫌い、というよりも対象を貶める言葉だ)。しかし、ピアノへの熱が醒めた今だからこそ、かつては技巧の瑕が気になって真剣に聴こうとも思わなかった数々の大家たちと虚心坦懐に向き合えるような気がするのだ。
そんな訳で以前から興味はあったが手が出なかったイーヴ・ナットの、EMIに残した録音の集大成といったCD。いくつか聴いてみて立派な演奏だと思いました。CD15枚組で、内8枚がベートーヴェンのソナタ集、残りはシューマンをメインに、シューベルト、ショパン、ブラームス等々。とりあえず順不同に心の赴くままに15回シリーズを目指します(途中で飽きるかも知れないけれど・・・)。初回の今回は敢えて15枚中7枚目のディスクを紹介したい。

 CD7
 ベートーヴェン
 ピアノ・ソナタ第26番変ホ長調Op.81a「告別」 [1954.5.3録音]
 ピアノ・ソナタ第27番ホ短調Op.90 [1954.6.録音]
 ピアノ・ソナタ第29番変ロ長調Op.106「ハンマークラヴィア」 [1954.10.4,22,25&26録音]
 (EMI CLASSICS0946 347826 2 3)

ベートーヴェンの32のソナタでは、誰が何と言おうと私は第29番「ハンマークラヴィア」が最も好き。学生の頃に、とあるアマチュアの演奏会で第4楽章のフーガを取り上げ、随分苦労して何とか人様にお聞かせできるようになったという極私的思い入れがあること、そして何より、ベートーヴェンのピアノソナタの中では最も「後期様式」が色濃く現れた作品であるからです。何を以って「後期様式」というかは議論のあるところでしょうが、精神論的なものは措くとして、①フーガの活用②装飾音としての機能を著しく逸脱した長大なトリル③ソナタ形式の再現部等における単純な繰り返しの回避④緩徐楽章における果てしない沈滞⑤形式上の、あるいは規模的な肥大、他にも色々あるけれどまずはこういったものだと思います。それらが一般に後期の作品とされる28番以降のソナタの中でも特に顕著であるのが29番ソナタ。理屈はともかく、最後の壮大なフーガは本当に人類の遺産というに相応しい。これを練習していた時、友人達と手持ちのレコード(当時はまだLPの時代)を持ち寄って29番の聴き比べをしたことがあります。その時私の気に入ったのはポリーニとルドルフ・ゼルキン。がっかりしたのはバックハウス。全然弾けてなくて愕然とするほど。ついでに聴いたバックハウスの第32番の2楽章はまるで小便を我慢しながら弾いてるみたいな落ち着きの無い演奏。世評というものが如何にあてにならないものか痛感しました。その後30年ほども経って、最近ではソロモン・カットナーの演奏が最高ではないかと思うようになりました。最初の2つの楽章における強靭なテクニックも凄いですが、第3楽章の深い沈滞、終楽章の感動的なフーガに参りました。

のっけから脱線が過ぎました。ナットのことを書かねばなりません。誰の録音であれ、ベートーヴェンのソナタ集を聴くならまず29番を聴きます。それがダメならもう聴く値打ちないかな、と。結論から言うとナットの29番、とても感動しました。この人、左手の広い和音の掴みに難があり、他の音を引っ掛けたり、そうでない時でも音がしばしば濁ったりする。多分あまり手が大きくないのでしょう(ゆっくり手を広げれば10度はとどくみたいだが、ぱっと瞬間的に掴むのは8度すらちょっと怪しい感じ)。しかし1930年から56年の録音であることを考えると、同時代の様々な演奏家たちと比べてもテクニックがまずまずしっかりしているほうで、おそらく編集によるミスの修正も殆どされていないと思われるのに随分瑕が少ない方だと思います。何よりもミスタッチを恐れて勢いを殺がれているような箇所が一箇所もないのが素晴らしいと思う(楽想の勢いを重んじた結果のミスタッチはあまり気にならないものだ)。第1楽章の気迫と妥協の無さ、第2楽章の推進力、第3楽章の深く呼吸するようなアーティキュレーションが素晴らしいと思う。ですが最も素晴らしいのは終楽章のフーガ。高々3声のフーガだけれど、内声部の錯綜や跳躍を伴う音形によってフレージングを犠牲にすることなく、いや、それ以前に、一音符たりとも端折らず誤魔化さずにインテンポで弾くことはプロにとっても相当な困難だと思います。ナットのこの演奏は、誤魔化しが一切ないとは言わないが本当に少ない。そして素晴らしいインテンポ。完成度としてはソロモンの演奏を上回るものではないが、私は久しぶりにこのフーガを聴いて胸が熱くなりました。この感動は正真正銘の本物という気がして、これで残り14枚のCDを真面目に聴いてみようという気になりました。

カップリングの26番と27番も大変優れた演奏だと思います。26番はエクリチュールの自在さは後期を先取りしているようなところがあるが、ピアノの技巧という面では中期のスタイルの延長線上にある。これが意外に弾き辛いのですが、こういうところを誤魔化したり妥協したりせずに、実に剛直に押し切った感じがする。しかもただ剛直なだけでなく、両手がLebewohlと呼び交わす部分の纏綿とした情緒、あまり神経質なデュナミークの変化をつけない古いスタイルですが、何というか花がひらくようなかぐわしさに満ちていてまことに結構。音楽の「十全な全体像」というものが仮にあるとして、それから色々と削ぎ取って残った側面を拡大して聴かせるタイプの一群の演奏家がいる。反対に、一つ一つのアスペクトに深入りするのではなく、ましてやその一部を捨て去るのではなく、十全な全体像を示そうとするタイプの演奏家もいる。ナットの古い録音は表現の厳しさ、妥協の無さにもかかわらず、この「十全な」感じというのがよく現れているように思う。
27番は、意外に多い2楽章形式のソナタの一つ。厳しい第1楽章と歌謡的な第2楽章、この第2楽章に溢れる歌はどこかシューベルトの20番ソナタの終楽章を思わせるものがあって、これまた私の大のお気に入り。この2つの楽章だけで、もう何も附け加えるものがないと思わせるところが作曲技法上のミソ。ナットの第1楽章は発止と打ちこむ和音の激しさが聴いていて少し疲労を覚えるほどですが、第2楽章の自然なアーティキュレーションと併せて聴くと、やはり削ぎ落していくタイプではなく十全さを追い求めているタイプなのだと思う。なかなか上手く言語化できないのだが、このあたりは追々言葉を尽くして明らかにしてみたいと思います。

蛇足ですが、ハンマークラヴィアの第1楽章の再現部でナット盤は聴きなれない音がある。何だろうと思ってIMSLPで調べたら1910年頃に出版された古いペータース版(図1)の4小節目の右手上声部のAの音がそれ。さらに調べたら初版のアルタリア版がAなのでした。因みに図2は1920年頃のペータースの新版でAsの表記。ブライトコップ&ヘルテル版もリコルディ版もウニフェルザール版もAs。どうでもいいんだが、ナット盤はAで比較的珍しいのでは、と思ったので・・・。
(図1)
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(図2)
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(この項続く)
by nekomatalistener | 2012-07-13 05:37 | CD・DVD試聴記 | Comments(6)