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新国立劇場公演 プッチーニ 「トスカ」

パワハラはヤだけどネコハラだったらされてみたい(仕事中なのにキーボードの上に座られる、とか)。





「ライマン」のメデアを観てから家に戻って、興奮冷めやらぬままに感想をブログに書いたら、もう右脳も左脳も完全燃焼してさすがにぐったり。翌日の「トスカ」のチケットを取っていたことを少し後悔してました。仕事のことを考えるとこの日しかなかったのですが、一瞬行くの止めようか、と思ったほど。でも行ってよかった。とても良い舞台でした(でも今日の投稿はちょっと短め)。

  2012年11月11日

  プッチーニ 「トスカ」
   トスカ: ノルマ・ファンティーニ
   カヴァラドッシ: サイモン・オニール
   スカルピア: センヒョン・コー
   アンジェロッティ: 谷友博
   スポレッタ: 松浦健
   堂守: 志村文彦
   指揮:沼尻竜典
   演出: アントネッロ・マダウ=ディアツ
   管弦楽; 東京フィルハーモニー交響楽団

「トスカ」という作品、改めて傑作であると思いました。普段そんなにしょっちゅう聴きたいと思わない曲で、以前にも先輩の方に「プッチーニは何が好き?」と聞かれて散々迷った末に「ジャンニ・スキッキかトゥーランドット」と答えたことがありましたが、まぁ「トスカ」という回答は思い浮かびませんでした。しかし、こうして舞台で観ると実に完成度の高い作品です。各幕に極めつきのアリアがそれぞれ配され、そのいずれも見事な泣かせっぷり。いいじゃないですか、たまにはプッチーニで泣くのも(笑)。
主役3人のうち、本日のMVPはカヴァラドッシを歌ったサイモン・オニール。文字通りスピントな声で、音域が上がれば上がるほど輝かしさを増していく強靭な声。しかも脳天気なテノールではなくて知性を感じさせる歌い方です。低音域にやや精彩を欠くか、とも思いましたが瑕というほどのことでもない。何となく世界的にテノール不作の印象があったが、まだまだ素晴らしい歌手は沢山いるのですね。
トスカのノルマ・ファンティーニもなかなか良い歌手です。音域の高い強音になると若干音程が怪しくなるところがありますが、基本的には透明感のある美しい声。第2幕の「歌に生き恋に生き」には思う存分泣かせて頂きました。このプッチーニの泣かせるメチエ(またか、と言われそうですが)、今は書く気力がないですが、近いうちにもう一度、以前「外套」のジョルジェッタとルイージの二重唱で試みたような分析をしてみたいと思っています。トスカの3つの有名なアリアは、それぞれ物語の進展に応じて実に面白い構造を秘めているとだけ申し上げておきましょう。
スカルピアのセンヒョン・コーも悪くはないですが、なんというか、もっと突き抜けた悪の輝かしさみたいなものが欲しいと思いました。同じ悪役でも「オテロ」のイヤーゴのような陰影はそもそも持ち合わせていないストレートな悪役ですから、そのぶん声そのものの威力が要求され、ある意味イヤーゴよりも歌手にとっては難しい役かもしれない、と聴きながら思いました。手が届きそうで届かないようなもどかしさを感じます。
脇役は、アンジェロッティの谷友博は可もなく不可もなし。堂守の志村文彦とスポレッタの松浦健は大健闘。とくに後者は卑屈で小ずるい小心者、という役どころを見事に歌い演じていたと思います。
指揮は何といって変わったことはしていないのが大変結構(3階だか4階だかの席から派手なブーイングが出たのにはびっくりしましたが)。もう一歩踏み込んでタメを作って、なおかつ臭くならない、というのが理想的なのでしょうが・・・。オーケストラも、あとほんの少し音圧のようなものがあれば、と、これは私のないものねだり。
2000年の製作の舞台の再演ですが、正攻法でそれなりに金の掛った装置なのでしょう。新国立劇場の奥行きを活かしてそこそこの豪華さもあり安心感はあるが、思わずため息が出る、というほどではない。まぁこのお値段でゼッフィレッリの舞台みたいなゴージャスなものを望むのは間違っている、というのは十分判っております。
by nekomatalistener | 2012-11-11 23:44 | 演奏会レビュー | Comments(5)

プッチーニ 「西部の娘」 マゼール/ミラノ・スカラ座管弦楽団(その5)

拾いGIF。これ本物?
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これまで専ら音楽の素晴らしさについてのみ書いてきました。音源の演奏ですが、これはスカラ座の1991年のライブ録音で、私はCDを買うまで知らなかったけれど舞台を記録したDVDもあるとのこと。観客の興奮は凄まじく、2つあるジョンソンのアリアの終わりは絶妙のタイミングで熱狂的な拍手が入る。決して有名とは言えないこのオペラの、このアリアというにはいささか短すぎる絶唱にこの拍手、スカラ座の観客達のレベルの高さを伺うことができます。
そのジョンソンを歌っているドミンゴ、これはもう文句の附けようがない模範的歌唱。どちらかと言えばジョンソンという役柄はプッチーニのテノール役としては感情移入しにくい人物ではあるが、ここまで完璧に歌われるともうお話の出鱈目さなど問題になりません。但し問題がない訳ではない。第2幕の愛の二重唱がついにユニゾンになるところで9小節程カットされていて、そこでジョンソンの三点ハ(ハイC)が出てくる。ドミンゴはハイCを歌う自信が無かったのだろうか?もっとも音楽的にはこのカットによって失うものは殆どないという感じがします。
ランスを歌うホアン・ポンスも素晴らしい。前にも書いた通り、このランスという人物は愛を知らぬ不幸な半生を送り、実に陰影に富んだ人物。保安官のくせに、やることなすこと無茶苦茶なのだが、何と言うか、悪人役なのにどうしても憎むことが出来ない。ポンスはこういった性格的な役柄には打ってつけの歌手だと思います。
ミニーを歌うザンピエリもなかなか良い。大体このミニーという役、純粋無垢な聖母的側面と、鉄火肌の女としての側面の二つが無理やり一つの人物像に押し込められている感じがしなくもない。従ってこの矛盾する人物像を十全に歌うには大変な歌唱力、演技力が必要となる訳ですが、ザンピエリはリリコ・スピントからドラマティコまで振幅の大きな歌唱で大変説得力があります。
そして何よりマゼールの天才的な指揮。イタリア・オペラとマゼールというのがどうしても頭の中で結び付かない御仁もおられると思いますが、この人のアゴーギグはプッチーニの音楽に向いていると思います。私もついついヘンタイ呼ばわりしてしまうけれど、知的な造りとイタリア物ならではの臭みや過剰感が絶妙なバランスを保っていて、独特なアラルガンドには冷静さを保つことが出来ません。ライブなのでマイクがやや遠い感じがして、比較的新しい録音の割には物足りなく感じる所もありますが、全体の中ではごく小さな瑕だろうと思います。私は「西部の娘」については色んな録音を聴いた訳ではありませんが、これは理想的な演奏と言っても良いのではないでしょうか。
それにしてもこの作品、ブログを書く為に随分繰り返して聴き込みましたが、何度聴いても飽きるということがない。私は、オペラは音楽が全てであってお話などどうでもよい、という立場は採りませんので、このあまりに御都合主義なストーリーの所為で「傑作」と呼ぶのには躊躇してしまうのですが、本当に一級品の音楽だと思いました。

以下は蛇足ですが、以前紹介した玉崎紀子氏の論文にはオペラの元ネタのベラスコの戯曲や、その後作られたミュージカル映画との比較など大変興味深い内容が書かれています。前にこの音楽を「ミュージカル風」と書いたけれど、1910年のアメリカ初演当時の彼の地の音楽はどんなものだったのか、大層興味をそそられます。特にミュージカルの世界はいつかどっぷりと浸かってみたいと思いながら果たせないままです。
ブロードウェイ・ミュージカルの誕生と発展を歴史的に俯瞰するというのは意外と困難なようです。そんなに昔の事でもなかろうに、クラシックとポピュラー音楽のクロスオーバーする領域で、そのどちらにも通暁している著者による体系的な記述は、少なくともネット世界の情報を渉猟しただけではまず見当たらない。
wikiのミュージカル史に少し付け加えるなら、まずこの基になった1つ目の要素はミンストレル・ショー、ヴォードヴィル、レヴュー、バーレスクといった様々な名称によって呼ばれる笑劇。何となく音楽劇というよりは「横山ホットブラザース」みたいなお笑いのイメージを持ってしまいますが、かのスティーヴン・フォスター(1826-64)などもミンストレルの為に沢山の歌を書いたらしい。
2つ目の要素は世紀の替わり目頃にアメリカに移住したヨーロッパの、それもなぜか辺境の音楽家達の影響。例えばヴィクター・ハーバート(1859-1924)。ダブリン出身、1892年よりアメリカで活動、オペレッタから初期のミュージカルの創設へ貢献したと言います。ルドルフ・フリムル(1879-1972)。プラハ出身、あの「蒲田行進曲」はオペレッタ「放浪の王者」の中の「放浪者の歌」の翻案。1906年にアメリカに移住、初期のミュージカルの創設に与った。あるいは、シグマンド・ロンバーグ(1887-1951)。ハンガリー出身、1909年渡米、1920年代にオペレッタ、初期のミュージカルを作曲。この人達が創生期のミュージカルの骨格を形作ったと言えそうです。
3つ目の源流は何と言ってもジャズの要素。ご存知ジョージ・ガーシュウィン(1898-1937)。ユダヤ系ロシア移民の子、その作品リストには驚くことに1916年から1936年にかけて、50作ものミュージカルと称する作品が並んでいます。歌入りの芝居、くらいのイメージなのかなと思いますが、何せ聴いた事がないので何とも言いようがありませんが、ひょっとするとこれは宝の山かも知れないという予感がします・・・・。他には「キス・ミー・ケイト」のコール・ポーター(1891-1964)や「二人でお茶を」のヴィンセント・ユーマンス(1898-1946)らによってジャズやブルースの要素がもたらされたとのこと。
4つ目の要素はヨーロッパで、またアメリカでも大流行したオペレッタ。オペレッタといえば何といってもレハール。ナチスと上手く折り合いをつけられたレハールはヨーロッパに留まったが、その作品はアメリカでも知られていました。だが、ミュージカルの関係で行けば影響が大きそうなのは「チャルダーシュの女王」のエメリヒ・カールマン(1882-1953、1942アメリカに帰化)、ユダヤ系ハンガリー人。アメリカ時代の作品はよほどの好事家にしか知られていないであろう。
5つ目は1930年代後半にナチスやムッソリーニ政権を逃れてアメリカに亡命したユダヤ人作曲家達の筋金入りのクラシカルな音楽。エーリッヒ・ヴォルフガング・コルンゴルト(1897-1957)、モラヴィア生まれのユダヤ人、1938年亡命。マリオ・カステルヌオーヴォ=テデスコ(1895-1968)、ユダヤ系イタリア人、1939年亡命。この2人はミュージカルこそ書かなかったが映画音楽で大きな影響をもたらしたのではないか。あるいはクルト・ワイル(1900-1950)、デッサウ生まれのユダヤ人。1935年アメリカ亡命後に多くのミュージカルを書いたと言いますが、これらの人々の影響は大きいだろう。「西部の娘」は彼らの亡命より30年近くも前にヨーロッパからもたらされた最新のクラシカルな音楽、ということだったのでしょうが、上の記述から考えると初演の1910年当時はオペレッタとは明らかに異なるミュージカルというジャンルはまだ確立されていなかったと言えそうです。それを思うと、この「まるでミュージカルみたいな」オペラが当時如何に斬新なものであったか想像に難くありません。また、このオペラの影響というものが後のミュージカルに何らかの形でもたらされたことも、その後何度も舞台にかけられ、映画化もされていたということから明らかであると思います。
最後にロンドン発のコミカルな舞台音楽の影響があるようですが、これは調べてもよく判りませんでした。お詳しい方のご教示をお願いします。
これらの先人達の築いた土台がまずあって、その後オスカー・ハマースタイン2世(1895-1960)というユダヤ系アメリカ人の作詞家によってミュージカルは映画と手を携えながら完成の域に達します。「ショー・ボート」1927、「オクラホマ」1943、「南太平洋」1949、「王様と私」1951、「サウンド・オブ・ミュージック」1958etc、これらの作品の内一つも聞いたことがないという人は多分いないのではないか。音楽を書いたのはリチャード・ロジャース(1902-1979)というユダヤ系アメリカ人(オクラホマ、南太平洋、王様と私、サウンド・オブ・ミュージック)やジェローム・カーン(1885-1945)というドイツ系ユダヤ人。彼の「ショー・ボート」1927を以って最初のアメリカのミュージカルの確立とする意見があるようです。
以上は私の見解ではなくて、これから少しずつ観たり聞いたりするにあたっての、聞きかじりによる備忘のようなものです。音源の入手がけっこう大変そうですが・・・。またいつか当ブログで紹介する機会があるかも知れません。
(この項終わり)
by nekomatalistener | 2012-04-19 00:00 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

プッチーニ 「西部の娘」 マゼール/ミラノ・スカラ座管弦楽団(その3)

また拾いネタだけどこれ好きww。
【原材料】
アンパンマン「小麦が高くて、力が出ない……。」



第1幕の後半になってようやくジョンソンが登場しますが、ジョンソンが気に入らないランスはこの優男がウィスキーをソーダで割って飲むのも癪にさわり、敵愾心をもってジョンソンをあれこれと穿鑿します。ミニーはランスをたしなめて、よそ者のジョンソンを迎え入れますが、ここでミニーとジョンソンが以前にも顔を会わせたことがあり、淡い恋心を抱いていたことが判ります。音楽もまるで印象派のような和声進行で、二人の歌を盛り上げていきます。ランスは更にジョンソンに絡み、男達も同調しようとするものの、ミニーのとりなしで大人しくなってしまいます。ミニーとジョンソンは男達に囃し立てられてワルツを踊ります。この男達の合唱を伴うワルツは単純極まりないものですがとても美しいもの。
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そこにアシュビー達が盗賊の一味カストロを捕まえて引っ立ててきます。カストロは自分達の首領ラミレス(ジョンソン)が無事なのを見てとると、ランスやアシュビーらの捜索を邪魔するためラミレスを裏切った振りをして、彼らに嘘のアジトを教えようと皆と酒場を出ていきます。ミニーはジョンソンを引き止め、先程のワルツの旋律に乗せておずおずとした会話が始まります。ここから第1幕の終わりまで、プッチーニが腕によりをかけて書いた長大な愛の二重唱が続きます。
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先程は単純極まりなかったワルツの旋律が、ここでは極上のオーケストレーションを伴って蕩ける様な甘い音楽となっています。ジョンソンの愛の歌はプッチーニお得意の変ト長調で2点変ロまで上り詰めますが、そこに盗賊一味の合図の口笛が聞えてきます。ニックが「強盗が近くをうろついている」と注意を促しに来るが、ジョンソンを信頼しているミニーは樽の中に鉱夫たちの金が入っており、自分は不幸な男達の為に命を掛けて金を守ると話します。実はその金こそジョンソン、つまりラメレスの目当てであった訳ですが、ミニーが心の底から鉱夫達の荷馬車のように惨めな人生に同情していることに彼は心を打たれます。ここは本当に感動的な歌ですが、二重唱の一部となっていてミニーの独立したアリアでないことは再三触れたとおり。
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別れを告げて出ていこうとするジョンソン。ミニーは自分の住む小屋にジョンソンを誘いながら、自分をつまらない女だと言って感極まって泣きます。ジョンソンは山小屋を訪れることを約束して出ていきます。ミニー夢うつつのまま幕。

ここで注意せねばならないことは、ジョンソンはミニーの純真さに心打たれてはいるけれども、結局盗賊仲間に金の在処を教えに出て行ったことです。ジョンソンはこの後ミニーの山小屋に現れますが、あくまでも彼の目当てはミニーの肉体であり、未だ行きずりの恋以上のものを求めている訳ではないということです。

第2幕はミニーの住む山小屋。女中のインディアン娘ウォークルの子守唄から始まります。この歌は「蝶々夫人」のスズキが歌う「イザナギイザナミ」を連想させます。プッチーニの頭の中にあるオリエンタリスムは所詮この程度のものか、と思わざるを得ません。二人は未婚のまま子供をもうけていますが、ミニーの薦めで結婚することになっています。もっとも、二人とも大して嬉しそうでもないところが面白いところ。
ミニーはウォークルに二人分の食事を言いつけ、晴れの衣裳を着てうきうきしています。ここでミニーの歌う歌は例によってアリアとは云えない短いものですが、ミニーの心が昂るにつれて聴く者の心まで切なくさせる素晴らしい旋律です。
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ジョンソンが来てぎこちない会話が始まります。ミニーは山の生活の喜びを歌いますが、愛に対する二人の考えは微妙に異なります。甘い旋律が現れ、この後大きな盛り上がりを見せますが、この旋律は流しのジェイクの歌や、ワルツの旋律同様、アメリカ民謡風の素朴なペンタトニックでありながら、プッチーニの手に掛ると二人の官能の限りを尽くす名旋律に変貌していきます。プッチーニの手腕の素晴らしさには驚嘆する他ありません。
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最初はキスを迫るジョンソンをいなすミニーですが、ウォークルを帰らせてから音楽もいよいよ只ならぬ気配を漂わせ、ミニーはついにジョンソンにキスを許します。ここからの二重唱はプッチーニの作品の中でも最も素晴らしいものの一つだと思います。というか、これほど激しい愛の二重唱は他に見あたらないほど。5/2拍子の大きくうねるオーケストラに始まり、4/2拍子と3/2拍子が激しく交替して、聴く者はもう翻弄されるのみ。
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最初の部分は前奏曲に現れたうねるような旋律、そしてついに先程の甘い旋律で二人のユニゾンとなります。
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音楽の狂おしい昂りが少し収まると、今度は第1幕のワルツの旋律がオーケストラに現れます。ミニーは気になっていたこと、ジョンソンとニーナとの関係について尋ねますが、ジョンソンは知らないと答えます。もともとミニーの体目当てと思われたジョンソンですが、ミニーのあまりの純粋さにキスをしただけで帰ろうとします。その時ランス達の声がするので、ミニーはジョンソンを隠します。ランスらはジョンソンが実はラミレスだったこと、ニーナはジョンソンの情婦であったことを話し、ミニーは動揺を隠して彼らを帰らせます。ただ、バーテンダーのニックだけは、ジョンソンの葉巻が落ちているのを見つけ、二人の関係を察しますが、知らぬふりをして一緒に帰っていきます。ミニーの激昂。続きは別稿にて。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2012-04-15 21:42 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

プッチーニ 「西部の娘」 マゼール/ミラノ・スカラ座管弦楽団(その2)

ネットの拾いネタばかりですみません・・・

「今からこのトランプを消して、観客の誰かの胸ポケットに入れてみせましょう。」
「えぇー、さすがにそれは無理じゃないですか?」
「いいえ、ものの見事にやってのけますよ。」
「小野妹子に?」




前回の予告通り、幕を追いながら聴きどころを紹介しようと思いますが、このオペラに関しては中京大学文化科学研究所の玉崎紀子氏の論文「西部の娘―原作戯曲、オペラそしてミュージカル―」という示唆に富む論文がCiNiiのオープンアクセスで読むことができます。
http://ci.nii.ac.jp/naid/110004648944
私のような素人がこれに附け加えることなど実は殆どないのですが、以下の拙文は出来るだけこの論文の内容と被らないように配慮しながら、私のオリジナルな考察を少し書いてみたいと思っています。

第1幕は短い前奏曲から始まりますが、全音音階によって調性がぼかされた部分、烈しい情念のうねりのような部分(これは後でミニーとジョンソンの愛の二重唱の旋律となる)、古き良きアメリカを偲ばせるジャズ風の部分(ケークウォークのリズム、これはジョンソンのライトモチーフとして後の部分に何度も現れる)の3つの要素から成り立っています。ヴォーカルスコアでわずか2ページの簡潔さながら、この作品の要約として申し分ない出来栄えです。
次にいかにも西部開拓時代に相応しい6/8拍子ののんびりとしたリズムにのって、仕事を終えた鉱夫達(いわゆるフォーティナイナーズ)が酒場「ポルカ」に三々五々集まってきます。バーテンダーのニックは商売上手で、男達の幾人かに「女主人のミニーが、あんたに気があるみたいだぜ」と囁くと、男達は舞い上がって煙草やら酒やらを皆に振舞って散財します。
流しの歌手ジェイク・ウォーラスが望郷の歌を歌うと男達はしんみりと聴きほれ、その一人ジム・ラーケンスが故郷を想って泣きだします。一文無しのジムが故郷に帰れるようになけなしの金を与える男達の美しい場面にこちらも涙腺が緩んでしまいます。
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その後、賭けポーカーでいかさま騒ぎがあり、男達が大騒ぎをしていると保安官のジャック・ランスが現れ事態を収拾します。運送会社のウェルズ・ファーゴの代理人アシュビーは、ランスにメキシコから来た盗賊団の情報を入れます。ミニーに惚れているランスは、ソノーラという鉱夫達の兄貴格の男とミニーを巡って発砲沙汰の喧嘩となるが、そこにミニー登場、荒くれ共もミニーの前では少年のように大人しくなってしまいます。ミニーのモチーフは振幅の大きな旋律でこの後何度も現れます。
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ミニーは読み書きすら怪しい男達に聖書を読み聞かせます(鉱夫のハリーはダビデとサムソンがごっちゃになっていて皆の嘲笑の的になります)。男達にとってミニーは教師であり憧れの対象であり、いやむしろ聖母なのかも知れません。ここで彼女が読むのはダビデの詩篇51の第7節「汝ヒソブをもて我をきよめたまへ さらばわれ浄まらん 我を洗ひたまへ さらばわれ雪よりも白からん」。ミニーは男達に「愛による許し」を教えます。ミニーの歌はアリアとも呼べぬささやかなものですが、控え目なオーケストラに乗せて語りかけるミニーの優しさに、こちらも心が融けていくようです。
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郵便配達夫が現れ、アシュビーの下に盗賊団の首領ラメレスが酒場ポルカに現れるだろうという手紙が届く(この場面のペンタトニックは「トゥーランドット」のピン・パン・ポンの三重唱を連想させます)。ランスとアシュビーは、ラメレスの情婦ニーナの裏切りによる密告だろうと推測します。ランスはミニーに言い寄るがミニーに手厳しく撥ねつけられます。ランスは愛を知らぬこれまでの自分の人生を歌いますが、この部分は前回も書いたとおりこのオペラ唯一のアリアと言ってもよい、切なくも美しいもので、正にプッチーニの本領発揮という感じがします。このアリアのせいで私はミニーやジョンソンよりむしろランスの方に感情移入してしまうほど。
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少し長く譜面を引用したのは、4/8拍子のゆったりとした流れに2/8拍子の1小節が入っていることに注目してもらいたいから。プッチーニの数ある名アリアにしばしば見られるこの「字余り」あるいは「字足らず」のような小節、感情の昂りが頂点に達して、伝統的な拍節法をぶち破ってしまうのが「字余り」、歌が上り詰めていくその更に向こうに、真の感情の爆発が控えている際、そこに到達するのももどかしく階段を一段おきに駆けのぼるように切迫して現れるのが「字足らず」の変拍子の小節。ランスのアリアには「字余り」の2/8拍子が2回現れます。以前「外套」を取り上げた時にはこの独特の変拍子について舌足らずにしか書けませんでしたが、これはプッチーニが聴く者の心を鷲掴みにして引き摺り回すメチエの秘密の一つではないかと密かに考えています。あまり言及されませんが、この独特のアーティキュレーションは本当にプッチーニの魅力の源泉であろうと思います。ランスの求愛に対して、ミニーは自分の父母が如何に愛しあっていたかを歌い、本当に好きな人でなければ結婚出来ないと歌います。
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練習番号71から一気に3点ハまで盛り上がるミニーの歌は、前回「最短距離で人を泣かせるアリア」を書こうとして少し失敗している、と書いた部分に該当するような気がします。
ジョンソン(実は盗賊団の首領ラメレス)の登場からは次回に。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2012-04-14 17:36 | CD・DVD試聴記 | Comments(2)

プッチーニ 「西部の娘」 マゼール/ミラノ・スカラ座管弦楽団(その1)

お気に入り画像シリーズ第二弾。ワロタ。
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まずは音源の紹介から。

 プッチーニ 「西部の娘」
  ミニー: マーラ・ザンピエーリ
  ディック・ジョンソン: プラシド・ドミンゴ
  ジャック・ランス: フアン・ポンス
  ニック: セルジオ・ベルトッキ
  アシュビー: ルイジ・ローニ
  ソノーラ: アントニオ:サルヴァドーリ
  トリン: エルネスト・ガヴァッツィ
  シッド: ジョヴァンニ・サヴォイアルド
  ベッロ: オラツィオ:モーリ
  ハリー: フランチェスコ・メメオ
  ジョー: アルド・ボッティオン
  ハッピー: エルネスト・パナリエッロ
  ラーケンス: ピエトロ・スパニョーリ
  ビリー・ジャックラビット: アルド・ブラマンテ
  ウォークル: ネッラ・ヴェッリ
  ジェイク・ウォーラス: マルコ・チンガリ
  ホセ・カストロ: クラウディオ・ジオンビ
  郵便配達夫: ウンベルト・スカラヴィーノ
  ミラノ・スカラ座合唱団、管弦楽団
  ロリン・マゼール指揮
  1991年1月17&31日、2月3&7日録音
  CD:SONY MUSIC88697446622

私はプッチーニのオペラが大好物。もちろん「トスカ」や「トゥーランドット」は大傑作だと思いますが、このブログでは出来ることなら普段あまり陽の当たらない作品をこそ取り上げたいと思っています(以前に「外套」を取り上げたのもそういった気持ちがあったから)。という訳で「西部の娘」。「トスカ」から10年後、「蝶々夫人」から6年後の1910年の初演ですから、この後は「つばめ」「三部作」「トゥーランドット」が残されたのみ。本来ならば最も油の乗り切った頃の作品としてもっと人気があってしかるべきところ、これがまったく人気がない。確かに一度や二度聴いただけではなかなか魅力が判らない。聴き始めた頃は「ひょっとして、というか、やっぱり失敗作?」と思ってしまうほど。そうは云いながら、ところどころしゃぶりつきたくなるような美しい箇所があり、音楽的にも極めて充実した書法が随所に見られます。完成度という点では若干の瑕があるけれども才能があちこちから噴出している。それこそ猫またぎなリスナーが愛して已まないタイプの作品。喩えが適切かどうか心許ないが、シューマンのピアノ曲、それも「ダヴィッド同盟舞曲集」のような、瑕も多いが天才的としか言い様のない作品についつい惹かれてしまう私の嗜好にぴったりと合う作品であると思います。

一般的な人気がない理由を考えてみることは無益ではないと思います。いくつか挙げていきますと、
①主人公の2人(ミニーとジョンソン)に独立して歌えるような手頃な長さのアリアがない
②グランドオペラには珍しくハッピーエンドに終わる(しかもかなり御都合主義的)
③全音音階の採用など玄人受けを狙った技法が大衆的な嗜好に合わない
④かと思えばミュージカル風の解り易い部分がしばしば大衆迎合的と受け取られる
⑤映画、特に西部劇の流行によって逆にオペラの題材としては奇異なままに留まってしまった
⑥「蝶々夫人」が日本人にとって「恥ずかしい」のと同様に、アメリカ人からみるとちょっと居心地が悪そう
⑦劇中でのインディアンの描写が孕むセンシティブな問題

他にもまだまだあると思いますが、これらの理由についてもう少し詳細に見ていきます。

①主人公の2人(ミニーとジョンソン)に独立して歌えるような手頃な長さのアリアがない
 これは特にミニーについて言える事ですが、ほとんどソロの見せ場らしいものがない。あちこちに美しい旋律が現れるが、それは専らジョンソンとの二重唱や鉱夫らとのアンサンブルの中に短く出てくるだけで、 リサイタルで独立させて歌えるようなアリアではありません。ジョンソンのほうは辛うじてアリアと呼べる歌が与えられていますが、それとて些か短すぎてリサイタルで歌うにはちょっと辛いところ。敵役のランスには実に美しい、長さも充分で均整のとれたアリアがあるのですが、これはバリトンの役。主役のプリマドンナにアリアがないのはやはりポピュラリティの獲得という点では致命的です(もし「蝶々夫人」に「ある晴れた日に」が無かったとしたら!)。その代わりに、二重唱やアンサンブルには本当に美しい箇所があり、プッチーニがかなり意識的に(実験的に、といっても良いと思うが)、大向こうを唸らせる手法を排してアンサンブル・オペラを書こうとしていたようにも思われます。あるいは、プッチーニは自分の持てるメチエの限りを尽くして、「最短距離で人を泣かせるアリア」を書こうとして、さすがに不発に終わっているように感じられる部分もなきにしもあらず。この辺りは稿を改めてじっくりと分析してみたいと思います。要は、この一見短所にも見える特質はこのオペラの魅力の一つでもあるということ。

②グランドオペラには珍しくハッピーエンドに終わる(しかもかなり御都合主義的)
 これは「お涙頂戴」式のお話のほうが受ける、といった表面的な理由だけでなく、ならず者は罰を与えられるべし、という道徳的な話でもない。盗賊の首領であるジョンソンは逆説的な英雄としての存在である訳だが、英雄はすべからく死すべきであって、生きのびて小市民的な、家庭的な幸福を追求してはならないというのが英雄譚の大原則。こんな事を思うのは、若い頃に三島由紀夫とか(例えば『午後の曳航』)を読みすぎた悪影響かも知れませんが(笑)、判りやすく云えば映画「俺たちに明日はない」でボニーとクライドが結婚して幸せな家庭生活を得たとしたら随分興醒め、この映画の魅力は半減以下じゃないかな、というのと同じ事です。ハッピーエンドのグランド・オペラという発想は確かに新奇ではあったでしょうが、これは残念ながら不発だったと言わざるを得ない。御都合主義という点に関して言えば、プッチーニのオペラの物語ではいつもの事じゃないか、という声もあるかも知れない。それにしても、ジョンソンの一味のカストロや情婦のニーナの事が後半一言も触れられないのはちょっとリブレットが酷過ぎると思います。

③全音音階の採用など玄人受けを狙った技法が大衆的な嗜好に合わない
 これはプッチーニが如何に当時の最先端の音楽的な手法に敏感であったかを良く物語っています。ドビュッシーがほとんど全音音階だけで「帆」を書いたのが1910年ですから、「西部の娘」を作曲中のプッチーニは未だ聴いていない可能性が高い。むしろそれに少し先立つ「水の反映」や「ペレアスとメリザンド」などからこの技法を習得したという見方が妥当だと思います。①と同様、プッチーニとしてはかなり実験的な試みであったことは間違いないが、誰にでもわかりやすい音楽的魅力とは成り得ないのも事実。他にもインディアンのウォークルとビリーの歌などでも随分と革新的な和声進行が見られますが、やや音楽全体の中で座りが悪いというか、単発的な効果の域を出ていないような気がします。

④かと思えばミュージカル風の解り易い部分がしばしば大衆迎合的と受け取られる
 私は不勉強でブロードウェイのミュージカルのことについてはとんと知らないのですが、少なくともその音楽的本質においてプッチーニのこの作品と極めて近い要素があることは確かであると思います。実際のところは、ミュージカルの音楽的な確立については1930年代終わり頃の、ヨーロッパからのユダヤ人音楽家の大量亡命という要素抜きでは語れないはずなので、年代的にはすこし合わないのですが、この「まるでミュージカルみたいに聞こえる」ということ自体、ただでさえ通俗的と看做されがちなプッチーニの音楽をさらに貶め易いものにしていると言えるでしょう。誤解の無いように言っておくと、私自身はミュージカルに対しても多大な関心を持っておりますし、プッチーニの音楽が本質的に含む通俗性、甘ったるさも全部込みで好きですので、このような誹謗中傷は全く問題にはなりませんが・・・。ちなみに③の玄人向けの部分と④の大衆的な部分は特に融合を図るということはなくて、しばしば乱暴なまでに隣り合っているという印象を持ちます。

⑤映画、特に西部劇の流行によって逆にオペラの題材としては奇異なままに留まってしまった
 これはまぁ仮説みたいなものですが、要は戦後の聴衆としては「映画向きのお話をわざわざオペラで見せられてもなぁ・・・」という感想に繋がるのではないかと思っているのです。事実、映画でならこのゴールドラッシュに湧くカリフォルニアの埃っぽい空気や、汗臭いフォーティナイナー達の臭いまでもリアルに表現できるでしょうが、オペラの舞台ではどだい無理がありますし、リアルに表現したところで、「なんとも華のない舞台」と思われるのが関の山。このオペラとミュージカルと映画との関係については稿を改めてもう少し述べるつもり。

⑥「蝶々夫人」が日本人にとって「恥ずかしい」のと同様に、アメリカ人からみるとちょっと居心地が悪そう
 これはアメリカ人じゃないので想像でしかないですが、第1幕の鉱夫たちがなにかというとHello,hello!と呼び交わすとか、イタリア語の台詞のなかに取ってつけたようにAllright!とかいった英単語が出てくるところなど、随分気恥ずかしいと感じられるのでは?我々が「蝶々夫人」をみていて、前後の台詞がイタリア語なのに登場人物が「チョチョさ~ん」とか「おーカミ(神)」などと言うとかなり恥ずかしいですもんね。他にもウィスキーをストレートで飲まねぇのはけしからん、とか皆が言い出すのも、ミニーがアシュビーに葉巻を勧める場面でことさら商品名(Regarias,Auroras,Eurekas)をいう場面(むりやり日本語に訳すなら「・・・いこい、わかば、それともしんせい?」みたいな)、なんてのも恥ずかしそう。インディアンの娘ウォークルの子守唄も、蝶々夫人でスズキが歌う「イザナギ、イザナミ、サルンダシコ(猿田彦www)」と同じくネイティブが観たら噴飯モノっぽい。鉱夫らは困っている仲間にみんなで金をカンパしたと思ったら、ポーカーでイカサマをした仲間を「吊るしちまえ!」と叫びだしたり、第1幕ではジョンソンに対して友好的だったのに第3幕では「殺せ殺せ」の大合唱だったり、荒くれどもの描写にしてもちょっと馬鹿に描きすぎ。そのくせミニーの仕草のいちいちに狂喜したりしゅんとしたり。小学生か。

⑦劇中でのインディアンの描写が孕むセンシティブな問題
 これは映画の西部劇も一緒のことでしょうが、『ちびくろサンボ』も発禁になっちゃう世の中では何かと舞台に掛け難い箇所があるのは確かでしょうね。もっともオリジナルの台本ではインディアンのビリーが客の飲み残しの酒を盗み飲んだりする場面があるのをオペラではカットしていたり、どこまでプッチーニの意思なのかよく判りませんが、昔の作品としてはネイティブが随分マシに描かれているほうだと思う。とはいえ、事実上の夫婦であるビリーとウォークルの会話が"Ugh!" "Ugh!"ってちょっとまずいだろ、と思う。

以上のことから言えるのは、やはり一般的には失敗作のレッテルを貼られても致し方ない部分があること、同時にプッチーニとしても随分と実験的な要素の多いオペラであること、またそのことは作品の興行的な成功とは折り合いが悪いけれど、音楽そのものの魅力としてはむしろ捨てがたい魅力に繋がっているところもある、という事だろうと思います。次回、劇の進行に沿って、もうすこし詳しく語ってみたいと思います。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2012-04-13 01:07 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

新国立劇場公演 プッチーニ 「ラ・ボエーム」

電車の隣の席で小学3、4年くらいの女の子が子供向けの科学本を読んでいる。隣の父親に「ねえ、東京を出発してずーっと真っすぐ北に行ったらどこに行くと思う?」と訊くと、パパさん「・・・そんなのどこに行くか判らない」と返事。女の子「地球は丸いからまた東京に戻るって書いてるよ」パパ「書いた人が間違ってんだよ」・・・・(えーっ、それで終わり?お前DQNかよ・・・)それから2分後くらいにパパさんぼそっと「・・・地球は自転してんだから、北に行ってるつもりでも違うとこに行くんだよ」(おーっ確かに・・・DQNなんて思って済まん)さらに2分後くらいにパパ「ハッブル望遠鏡って知ってる?」女の子「知らない」パパ「それってさぁ・・・」以下、娘にハッブル望遠鏡の仕組みを解説。(えーっあんた何モン?すごいよ。娘さん、今はハッブル望遠鏡の仕組みは判らないだろうけど、いいお父さんで良かったねw)。




新国立劇場にプッチーニの「ラ・ボエーム」を観に行ってきました。

  2012年1月22日
  指揮:コンスタンティン・トリンクス
  演出:粟國淳
  ミミ:ヴェロニカ・カンジェミ
  ロドルフォ:ジミン・パク
  マルチェッロ:アリス・アルギリス
  ムゼッタ:アレクサンドラ・ルブチャンスキー
  ショナール:萩原潤
  コッリーネ:妻屋秀和
  ベノア:鹿野由之 
  アルチンドロ:晴雅彦
  東京交響楽団

通俗名曲の代名詞のような「ラ・ボエーム」ですが、やはりこの作品の魅力には抗えません。今回の舞台は優れた演出と、歌手やオーケストラの好演によって、素晴らしい出来栄えであったと思います。行く前から密かに恐れていたことですが、私はもう第1幕の「私の名はミミ」から涙腺がおかしくなってしまい、第2幕のムゼッタのワルツ、第3幕のマルチェッロに対するロドルフォの告白、終幕のミミの死まで、目が腫れてしまうのではないかというぐらい涙が止まりませんでした。まったくお恥ずかしい限りですが、これも一種の加齢現象と諦める他はありませんw。
プッチーニの音楽には、よくもここまで人の心の琴線を弄び鷲掴みにして引きずりまわすものよ、と驚かざるを得ません。涙腺を攻撃されたならこちらとしては徹底的にそのメチエを分析して報復してやると、普通ならば思うところですが、「ラ・ボエーム」に関しては(以前C.デイヴィスのCD紹介でも書いたとおり)もう無条件降伏するしかないと思っています。これも以前「外套」の紹介で書きましたが、プッチーニは私にとっては天才というよりは第一級の職人と言いたいところなのですが、優れた舞台を目の当たりにすると、やはり天才は天才であると頭を垂れるのみです。

ミミを歌ったヴェロニカ・カンジェミは初めて聴く歌手ですが、温かみのある声質とコントロールの行き届いたテクニックが素晴らしいと思いました。容姿も立ち姿も美しくて、彼女のミミを聴けて本当に良かったと思います。ロドルフォを歌ったジミン・パクは、第1幕は喉が暖まっていない感じで、ひたむきではあるが若干素人っぽさが伺えましたが、第3幕以降は別人のように素晴らしい歌を聴かせてくれました。特に第3幕のマルチェッロとの会話は、この有名なアリアに満ち溢れたオペラの中では地味な箇所ながら最高の聞かせどころだと思うのですが、実に感動的な歌唱でした。マルチェッロ役のアリス・アルギリスも良かった。だいたいどんな作品でも主人公の親友というのはおいしい役どころですが、マルチェッロは歌う箇所も多くて別格でしょうね。ムゼッタを歌ったアレクサンドラ・ルブチャンスキーにも満足。コロラトゥーラが歌える歌手のようですので、一度本格的な役で聴いてみたいと思いました。コッリーネを歌った妻屋秀和は立派な体躯と素晴らしい声で、いつも脇役でもったいないと思う方ですが、今回はちゃんと聴かせどころ(「古い外套よ」)もあって大満足。ショナールの萩原潤はこれらの脇役達の中ではちょっと見劣りしてしまいました。随分前に、鈴木雅明率いるバッハ・コレギウム・ジャパンの「マタイ受難曲」の大阪公演で、ピラトをまさに「渾身の力を込めて」と言わんばかりに歌っていたのを聴いてから、機会ある度に密かに応援している歌手なので、これからも精進を重ねてほしいと思います。
トリンクス指揮の東京交響楽団もまずは満足すべき出来栄えだったと思います。何ヶ所か、もう少し音量を抑えたほうが良いのでは、と思ったところもありましたが、鳴らないよりは良いのでこれでいいのでしょう。奇を衒ったところが一切なく、安心して身を任せることが出来る演奏でした。
粟國淳の演出は正攻法で音楽の邪魔をしないもの。第2幕のカルチェ・ラタンの場は、書き割を動かすたびに次々と街並みが姿を変え、まるで舞台の上の虚構から真実が生まれる現場に立ち会っているような感慨を覚えます。音楽の本質が自由というものにある以上、どのような読み換えによる演出であっても基本的には許されると思っているのですが、やはり定番オペラではこのような正攻法の演出で観るに如くはないと思いました。

さて、新国立劇場の2012/2013年シーズンのラインナップが発表されましたね。イタリアものが6作、ドイツものが2作、イギリスと日本が1作ずつ。邦人作品を別にすれば近現代ものとしてはブリテンの「ピーター・グライムズ」のみ。R.シュトラウスは無し。かつて「ヴォツェック」や「ムツェンスク郡のマクベス夫人」の素晴らしい舞台を観た者としては、このラインナップは余りにも保守的過ぎるのでは、と一抹の寂しさを覚えます。一つは故若杉弘氏と尾高忠明氏の資質の差、もう一つは昨今の事業仕訳の影響で、一部の好事家向けの「高踏的な」作品が排除される傾向があるのでは、ということ。更には当節の原発騒ぎの影響で、昨年末のアグネス・バルツァのドタキャンのような事態が想定される以上、急なカバーに備えて一般的な作品に傾きがちになるのではないか、ということも考えられます。例えば今シーズンの「ルサルカ」のようなオペラでは急なカバーが必要となった際、大変困ることでしょう。しかし、これでは新国立劇場ではヤナーチェクもベルクも当面観ることが出来ないことになってしまいます。3.11以降の東京の実情を考えれば致し方のない事とは云え、もうちょっと何とかならんものか、という思いを禁じ得ませんでした。
by nekomatalistener | 2012-01-25 23:16 | 演奏会レビュー | Comments(2)

プッチーニ 「ラ・ボエーム」 コリン・デイヴィス指揮

大阪人なので「ラ・ボエーム」第二幕終わりの合唱(ファ・ミミ・レ・ド・レ・ミ・ファー)を聴くと「亀田のあられ」と聞こえてしまう。そして(うまく繋がらないにも関わらず)心の中でそっと、「おせんべい」と付け加えてしまう。



ストラヴィンスキーばかり取り上げていると、どんどん読者が減っていくので(これ、ホント)、ちょっと口直しにプッチーニを軽く取り上げてみます。フルコースの途中に出てくるグラニテみたいな感じで読んでくださいね。
「永遠の青春」な~んて気恥ずかしい言葉、普段絶対死んでも口にすることは無いと思いますが、ことプッチーニの「ラ・ボエーム」を形容する言葉としては使いたくなりますよね。以前当ブログで、三部作の「外套」の、ルイージとジョルジェッタの二重唱の分析を通じてプッチーニのメチエなるものを論じました。この三部作のいずれも、あるいは「トゥーランドット」なども、このような分析に耐えるだけの実質を備えていると思いますが(それがある種の人々にとっては「あざとさ」と受け取られることも確かでしょう)、こと「ボエーム」に関する限り、こういった分析は無力であろうと思わざるを得ません。ここでは「あざとさ」は皆無、どの小節も天から降りてきたとしか思えない。何度も気恥ずかしい言葉を書きますが、「青春」が誰にも一度しかないのと同様、プッチーニにもこれほどの青春そのものといった音楽は「ラ・ボエーム」でしか書けなかったとすら思えます。
お若い方には判らないかもしれませんが、私の年代(50前後)だと、クラシック音楽の魅力に目覚めた一番多感な頃に吉田秀和氏の著作を読み、結構感化されたりした時期もあるのですが、その中で氏はプッチーニの通俗性を吉川英治の大衆小説だかなんだかになぞらえ、徹底的にこきおろしておられました。人を疑うことを知らない素直な青少年であった私は(今もそうだけど)、当時そんなものかな、と思い、もう少し時間が経ってから何という罪深い言説であることか、と憤慨したものです。でも結局、あまり心配する必要はなかったようですね。「ラ・ボエーム」でブログ検索するとまぁ出てくるわ出てくるわ。皆さん本当にお好きなんですね。実際今もオペラの出し物としてはドル箱でしょうし、これも古い話になりましたが1988年のミラノ・スカラ座来日公演でも、まぁクライバーが振るというせいもあったんだろうけど、「ラ・ボエーム」のチケットは予約の電話がやっとのことで繋がったと思ったら既に売り切れでした(因みにその時は「ナブッコ」(ヴェルディ)、「カプレーティとモンテッキ」(ベッリーニ)、「トゥーランドット」(プッチーニ)は聴きに行きましたよ・・・って自慢してるみたいですが、自慢ですw)。
皆さん大好きな「ラ・ボエーム」に私如きが何かを付け加えたり、えらそうな講釈を垂れる必要は全く無いと思います。ですが、CDやDVDで、それもファーストチョイスは評価の高い名盤を買ったけれど、セカンドチョイスは何がいいかな、などと迷っておられる方にお薦めの音源、となれば私もあれこれ書きたくなるというものです(まぁファーストチョイスはフレーニでもネトレプコでも、お好きなのを選んでくださいね)。

  ミミ:カティア・リッチャレッリ
  ロドルフォ:ホセ・カレラス
  マルチェッロ:イングヴァール・ヴィクセル
  ショナール:ホーカン・ハーゲゴール
  コルリーネ:ロバート・ロイド
  ムゼッタ:アシュレー・パットナム
  サー・コリン・デイヴィス指揮コヴェント・ガーデン王立歌劇場管弦楽団・合唱団
  1979年2月録音
  DECCA478 2494

イギリス人のコリン・デイヴィスの指揮にリッチャレッリのミミ。いかにもセカンドチョイス向けでしょう?(笑)。でも素晴らしい演奏です。来年1月の新国立劇場の「ラ・ボエーム」公演に先立って予習しようと思われている方に、そっと小声でお薦めしたくなる(なぜか大きな声は似合わないような気がする)。でもロドルフォをホセ・カレラスが歌っているので、案外ファーストチョイスがこれだった、という方も多いのかも知れませんが・・・。
リッチャレッリという歌手、あまり大成しなかったソプラノという感が無きにしも非ずですが、私は大好きでした。ジュリーニが指揮した「ファルスタッフ」(ヴェルディ)のフォード夫人役、マゼールの「オテロ」(ヴェルディ)のデズデモナは本当に素晴らしい。ロッシーニも歌ってますが(アバドの「ランスへの旅」の旧盤とか)、アジリタがあまり歌えない人なのでベルカントものは世間で言われるほどには合っていないと思います。ヴェルディにしても、スピントは駄目となると役柄が極めて狭い歌手ということになります。プッチーニも、カラヤンが(可哀そうに、リュー役を歌わせてあげればよいものを)トゥーランドット姫を歌わせたりするもんだから、結局評判も下げてしまった感じがします。その代わり、先ほど挙げたフォード夫人、デズデモナ、そしてこのミミは、本当に声と役柄が寸分の狂いもなく合致した稀有な例ではないでしょうか。どこまでも透明な声、震え慄くようなピアニッシモ、清純で儚いヒロイン役には最高の声質です。しかも透明なのにどこかほの暗く、どちらかと言えば体温を余り感じさせない声です。フォード夫人はもちろん喜劇の、にぎやかでお喋りな奥さん連中の一人なので、「清純」とか「儚い」というのとは違うのだけれど、彼女が歌うと本当に清楚で上品。ジュリーニの指揮にも言える事ですが、それでいてしっかりと「喜劇」になっているという神業的演奏です。ついつい脱線してしまいますが、話をミミに戻しましょう。第一幕の余りにも有名な「私の名はミミ」、まだ悲劇は始まっていないというのにどうしてこんなに泣けるのか。もう涙でボロボロになってしまいます。ねえ旦那、そこ、泣くとこちゃいまっせ!リッチャレッリの声そのものが、なんというか悲劇の到来の予感に満ちているのですね。第三幕から終盤にかけての哀切極まる表現も素晴らしい。人によっては彼女の、声を下からずり上げる癖やソット・ヴォーチェを使いすぎる癖が鼻につくと仰るかも知れません(一方で私もその気持ちはよくわかる)。しかし、その声には透明な泉の底を覗き込むような恐るべき魔力が確かに備わっていて、何気ないパルランドの部分に不意打ちを食らわされたように涙腺が決壊しそうになることもしばしば。でも、最初に「あまり大成しなかった」と書きましたが、本当に凄いプッチーニ・ヒロインの歌い手(例えばフレーニ)とリッチャレッリを隔てるものは何かと考えると、結局彼女の歌と言うのは生来の声質(それ自身は何度も言うように本当に素晴らしい)に頼り過ぎていたのかなと思われます。フレーニは持って生まれた声質の上に、役柄の心理をどこまでも抉り出そうとする大変な努力があり、それを可能にする分析力が備わっていたのでしょう。いや、しかしもしリッチャレッリの声にもう少しスピントな力が備わっていれば、彼女だってフレーニのように様々な役柄を歌うことでそうした分析力を身に付けたかも知れません。つくづく惜しい歌手だと思いますが、私には数少なくともこのような素晴らしい録音を残してくれただけでもう十分だとも思えるのです。

ロドルフォを歌うカレラスについては文句なしの名演だと思います。彼の資質と年齢的な巡り合わせが奇跡的なまでに合致した結果ですね。録音時カレラス32歳、後にも先にもこれほどの凄絶な歌唱はありえなかっただろうと思います。私は決してカレラスの良き聴き手ではなかったけれど、このディスクの演奏に関して言えば、もう言うことがありません。完璧といってよいと思います。有名な「冷たい手を」、直情的な詩人の姿が目に浮かぶようです。第三幕で、最初は「あんな女なんか」と強がっていたのが、ついに苦しい胸の内を明かす、その心理的な推移の表現、終幕の臓腑を抉るような「ミミ!」の絶唱。数多の名盤の中にあって、これほど声質と役柄(おそらく容姿も含め)がぴったりと一致するのも珍しいほどでしょう。
ロドルフォの友人達、蓮っ葉だが情に厚いムゼッタらを歌う歌手達は誰一人として有名どころはおりませんし、欠点をあげつらおうと思えばいくらでも挙げられるのかも知れませんが、誰ひとりでしゃばらず、哀れな恋人達を見守る役柄としてこれ以上の布陣があろうとも思われません。そして何より特筆すべきはデイヴィスの指揮。中庸をもって良しと為すタイプと思われがちですが、ここぞという時の凄まじい燃焼度はベルリオーズの「トロイの人々」の記念碑的な録音を知る人にはよく判って頂けるものと思います。そしてこの「ボエーム」、情熱もありあまるほどですが、第一幕のろうそくが風で消えるまでの二人のぎごちない対話、第三幕マルチェッロとミミの対話、そして第四幕のムゼッタがミミを連れてきてから彼女の死に至る決して長くもない場面、こういった部分をクライマックスへの繋ぎとしてではなく真の聴きどころとして聴かせる腕に、本当に魂のある指揮者だと思わせられます。デイヴィスに対しても私は良き聴き手ではなく、つまみ食い程度しか知りませんが、ふと彼のシベリウスの交響曲第7番の演奏を思い出しました。あの、風が吹き交わすような、堅固な構造を持たない単楽章の不思議な交響曲、私はデイヴィスの指揮で聴いてから、それまで泥臭くそれこそ通俗的と退けてきたシベリウスの面白さをようやく知ったのですが、その演奏にもどこか通じるようなプッチーニです。イタリアの影も日なたもくっきりとした演奏とは違いますが、心優しい人たちが織りなすこの物語を、単なる悲劇ではなく、「永遠の青春」の肖像画として提示するこの演奏を私は愛して已みません。以前アップしたカラヤンのトロヴァトーレの旧盤同様、万人にお薦めはしないけれど、気が向いたら是非聴いていただきたいと思います。
それにしても年明けの新国立の「ボエーム」、中年男が号泣するという恥ずかしい姿を晒してしまうのでは、と今から凄く心配(笑)。
(この項終わり)
by nekomatalistener | 2011-12-09 22:05 | CD・DVD試聴記 | Comments(2)

プッチーニ 「外套」 バルトレッティ/フレーニ

夢の中で「1ドルゆうたら360円に決まってるやろこのアホ!」と部下に怒る。



あの地震がなければ、3月に新国立劇場の研修生公演でプッチーニの三部作から「外套」と「ジャンニ・スキッキ」の二本立てを見に行く予定でした。浦安に住んでいるのでそれどころではなく、残念でした。
私の大好きな三部作ですが、「ジャンニ・スキッキ」についてはそれこそ何万というオマージュが今まで捧げられてきたはずですので、私が付け加えることもないと思います。「修道女アンジェリカ」も素敵な作品ですが、ちょっとあの終わり方はないだろうと思うのでパス。という訳で「外套」を取り上げてみました。音源は、

 ミケーレ・・・・・・・フアン・ポンス
 ジョルジェッタ・・・・ミレッラ・フレーニ
 ルイージ・・・・・・・ジュゼッペ・ジャコミーニ
 ブルーノ・バルトレッティ指揮フィレンツェ五月音楽祭o,cho(1991年7~8月録音)  
 CD:DECCA478 0341

この「外套」、大変な傑作だと思いますが、あまり評価されていない気がします。しかし、この中のわずか4分ほどのジョルジェッタとルイージの二重唱には、聴衆の心を鷲掴みにして引きずりまわすプッチーニのメチエが凝縮されているように思います。それは天才の一筆書きとは違う、一流のオペラ職人の仕事であると思いますが、この言い方はプッチーニの才能を貶めて言うのではなく最高級の賛辞だと受け取って頂きたいと思います。
「外套」について書くとなると、その「男と女の事件簿」みたいな情痴の物語や、タグボートや桟橋から聞こえてくる警笛などの描写的なオーケストラ書法、ストラヴィンスキーのペトルーシュカの顕著な影響など、面白い話題はたくさんありますが全て割愛して、プッチーニのメチエに焦点を絞ってみたいと思います。まず、今回取り上げる箇所の台詞(CD添付の英訳からの拙訳)から。

 GIORGETTA
È ben altro il mio sogno!
Son nata nel sobborgo e solo l'aria
di Parigi m'esalta e mi nutrisce!
Oh! se Michele, un giorno, abbandonasse
questa logora vita vagabonda!
Non si vive là dentro, fra il letto ed il fornello!
Tu avessi visto la mia stanza, un tempo!

 LA FRUGOLA
  Dove abitavi?

 GIORGETTA
Non lo sai?

 LUIGI
Belleville!

 GIORGETTA
Luigi lo conosce!

 LUIGI
Anch'io ci son nato!

 GIORGETTA
Come me, l'ha nel sangue!

 LUIGI
Non ci si può staccare!

 GIORGETTA
Bisogna aver provato!
Belleville è il nostro suolo e il nostro mondo!
Noi non possiamo vivere sull'acqua!
Bisogna calpestare il marciapiedi!....
Là c'è una casa, là ci sono amici,
festosi incontri, piene confidenze....

 LUIGI
Ci si conosce tutti! S'è tutti una famiglia!

 GIORGETTA
Al mattino, il lavoro che ci aspetta.
Alla sera i ritorni in comitiva....
Botteghe che s'accendono
di luci e di lusinghe....
vetture che s'incrociano,
domeniche chiassose,
piccole gite in due
al Bosco di Boulogne!
Balli all' aperto
e intimità amorose!?....
È difficile dire cosa sia
quest'ansia, questa strana nostalgia....

 LUIGI e GIORGETTA
Ma chi lascia il sobborgo vuol tornare,
e chi ritorna non si può staccare.
C'è là in fondo Parigi che ci grida
con mille voci il fascino immortale!....


 (ジョルジェッタ)
  あたしの夢はあんたとは違うの。
  この近くで生まれたのよ。
  だからパリの空気を吸うと元気になって生き返るの。
  ああ、いつかミケーレがこんなうんざりする
  船の生活を止めてくれたらいいんだけど。
  これは生活なんてもんじゃないわ、ベッドとストーブがあるだけ。
  一度あんたに部屋を見せたいくらいよ!

 (ラ・フルゴラ)
  どこに住んでたの?

 (ジョルジェッタ)
  知らなかったっけ?

 (ルイージ)
  ベルヴィルだよ!

 (ジョルジェッタ)
  ルイージが知ってるなんて!

 (ルイージ)
  俺もそこで生まれたんだ。

 (ジョルジェッタ)
  あたしと同じ、同じ育ちなんだわ!

 (ルイージ)
  もうここを離れちゃだめだ!

 (ジョルジェッタ)
  あんたなら分かるわよね!
  ベルヴィルはあたし達のふるさと、世界そのもの。
  水の上でなんか暮らせないわ。
  歩くんだったらやっぱり道の上よね。
  そこには家もあるし、友達もいるし、
  皆で楽しくおしゃべりしたり遊んだり。

 (ルイージ)
  みんな顔見知りで、家族みたいなもんだしな。

 (ジョルジェッタ)
  朝はお仕事が待ってるけど、
  夜はみんなで一緒に帰るの。
  お店は明々としてて、
  いっぱい物を売ってるの。
  タクシーが道を横切って、
  日曜日は騒々しくて、
  二人で出掛けるの、
  ブーローニュの森へ!
  外でダンスして、
  それからいちゃいちゃするの。
  この気持ち、なんて言ったらいいんだろ?
  恋しくて、なんだか懐かしくて。

 (二人)
  街を捨てたけど帰りたい、
  帰ればもう離れられない。
  パリが俺達(あたし達)を呼んでいる、
  たくさんの声が永遠の魅力を語っている!

ところで今回これを書くにあたって、IMSLPというHPで簡単にボーカルスコアがダウンロード出来ることを知りました。著作権の関係でコピーガードされているので添付出来ませんが、興味のある方は参照なさって下さい。http://imslp.org/wiki/
この二重唱、ジョルジェッタとルイージは不倫の間柄ですが、同僚達が周りにいるのでそんなことはおくびにも出せません。しかし、ルイージが同郷だと知ったジョルジェッタは次第に心が高ぶってきます。ついに二人は故郷への懐かしさにかこつけて愛の二重唱を歌いますが、ジョルジェッタが心の高ぶりを懸命に抑えようとすればするほど、聴く側の心も息苦しいまでに高揚し、ついには激情に翻弄されてしまいます。
練習番号48、アンダンテ・モデラートでジョルジェッタが È ben altro il mio sogno! を歌い出します。艀での生活をぼやきながらその実ルイージに恋焦がれる彼女の心は2/4拍子から3/4・2/4・3/8・3/4・2/4と激しく変わる拍子に託されています。第二節で危うく爆発しそうになる心をなんとか抑えて questa logora vita vagabonda! と歌う部分はun poco sostenendo でパルランド(話すように歌う)で歌われます。法定速度60kmの道を一瞬80kmまで暴走しかけた車が、なんとか元の速度に戻ったような感じです。
その後ルイージとのやり取りがあって、再度ジョルジェッタが Belleville è il nostro suolo e il nostro mondo! で一瞬の心の高揚を見せますが、またもや Noi non possiamo vivere sull'acqua! でsostenutoのパルランドに戻ります。ただし、一度目は二点ヘ音の連続で歌われた部分が、二度目は一瞬二点トまで上がります。さっきは80kmでブレーキを踏んだのに今度は90kmまで行ってしまったというところです。
Al mattino, il lavoro che ci aspetta 以下、4/8のメノ・モッソで暫らく60km運転が続きます。ア・テンポで突如変ロ長調から変イ長調に転調し、ゆっくり減速しながら、続くモデラータメンテで一旦徐行スピードまで落としていきます。が、彼女の心のたぎりは尚も続いていて(スコアにはcon grande intensità と記載されています)、ついに彼女の歌は三点ハまで上り詰めていきます。
練習番号53、もう誰もジョルジェッタの情欲の暴走を静めることはできません。アンダンテ・コン・モトで二人が Ma chi lascia il sobborgo vuol tornare をユニゾンで歌い始めます(スコアにはcon entusiasmo 熱狂して、の記載)。con mille voci il fascino immortale!....でついに二人は二点変ロまで上り詰めます。車のメータは・・・160kmで振り切れていました(笑)。
このユニゾンで、スコアを見ずともすぐに気がつくのは、ルイージがジョルジェッタよりも2拍遅れて歌い出すことです(途中で音を詰めて歌うのですぐに追いつくのですが)。同じ旋律が二回歌われますが二回ともそうです。これは何を意味しているのでしょうか?この不倫、ジョルジェッタが主導権を握っているのですね。この年下の沖仲士のルイージは腰が引けているのです。多分、やさ男ではあるが、小心で小ずるい男なんでしょう。結末の惨劇の前にもし二人が駆落ちしていたとしても、ルイージがすぐにジョルジェッタを捨てて逃げてしまうのは目に見えています。驚くことに、これらはすべてスコアに音で記されているのです。何度も音楽を聞けば自ずと理解できるように書かれています。冒頭に「最高のオペラ職人の仕事」と書いた所以です。
聴く者は、プッチーニの運転する車に乗せられて、一度ならず二度まで暴走しかけた後、徐行とみせかけて数十秒後にはメーター振り切れ、翻弄された挙句そそくさと二重唱は終わってしまいます。もう好きにして状態。
今回スコアを入手できたので詳細に分析してみました。その結果プッチーニのメチエの秘密の一旦が明らかになったように思います。なぜ人は、あんな三文小説みたいなボエームや蝶々夫人を観て、つい涙を流してしまうのか。そこには人間の心理を思うがままに操縦する職人の技があるのです。
by nekomatalistener | 2011-09-19 10:18 | CD・DVD試聴記 | Comments(6)