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ブリテン 「真夏の夜の夢」 佐渡裕プロデュースオペラ公演

普段音楽の受容における性差というものをあまり感じることはないのだが、この亀和田武氏の指摘には頷かざるを得ない(ビートルズ初来日に関するコラムより)。
「新しい音楽、感情、表現にすぐ反応したのは少女だ。武道館の観客は、八割が十代半ばの女の子だ。男のファンが増えるのは、直後の『リボルバー』や『ホワイト・アルバム』など、曲や詞も進化し、ビートルズ思想が頭で理解可能になってからだ。」(週刊文春平成28年7月14日号)





佐渡裕の「真夏の夜の夢」初日。平日のマチネだが芸文のKOBELCOホールはほぼ満席。舞台としての完成度も高く、興行的にも音楽的にもまずは大成功といってよさそう。

 ブリテン「真夏の夜の夢」
 2016年7月22日@兵庫県立芸術文化センター
  オーべロン: 彌勒忠史
  タイターニア(ティターニア): 森谷真理
  パック: 塩谷南
  シーシアス: 森雅史
  ヒポリタ: 清水華澄
  ハーミア: クレア・プレスランド
  ヘレナ: イーファ・ミスケリー
  ライサンダー: ピーター・カーク
  ディミートリアス: チャールズ・ライス
  ボトム: アラン・ユーイング
  クインス: ジョシュア・ブルーム
  フルート: アンドリュー・ディッキンソン
  スナッグ: マシュー・スティフ
  スナウト: フィリップ・シェフィールド
  スターヴリング: アレクサンダー・ロビン・ベイカー
  合唱: ひょうごプロデュースオペラ児童合唱団
  管弦楽: 兵庫芸術文化センター管弦楽団
  指揮: 佐渡裕
  演出: アントニー・マクドナルド
  振付/ムーヴメント・ディレクター: ルーシー・バージ


このプロダクションを成功に導いた一番の立役者は振付・ムーヴメントディレクターのルーシー・バージではなかろうか。ボトム以下の6人の職人たちは歌手としても優れていたが、その演技に惚れ惚れしました。オペラなのだから歌手は歌ってナンボ、少々演技が下手でもそこは目を瞑って・・・という舞台があまりにも当たり前になっているが、振付次第でこんなに舞台が、いや音楽が活き活きと面白くなるのか、と目を見張る思いです。プログラムの紹介によれば、このルーシー・バージという人、「1970年より1985年までバレエ・ランバート(ランベール)でプリンシパル・ダンサーを務め、アンソニー・チューダー、フレデリック・アシュトン、リンゼイ・ケンプなど世界的な振付家の作品を創演」ということだが、さすがにシェイクスピアと「モンティ・パイソン」を生んだ国の人だと思わざるを得ない。職人たちが舞台に出てくると、もういちいち可笑しくて笑ってしまう。特に優男タイプのフルートとガチデブ体型のスナッグは、声と役柄とビジュアルが完璧に一致していて文句なし。ボトムはロバ頭になってから、動きがもうロバとしか言いようがなくて抱腹絶倒の可笑しさ。お月様の役のスターヴリングなんか、風船持って突っ立ってるだけで笑ってしまいそう。
このガテン系6人組のおかげで若干他の登場人物たちが食われてしまった感なきにしもあらずだが、前回の投稿でも書いた通り、私はブリテンが一番嬉々として書いた音楽がこの職人の場だったに違いないと思っているので、この舞台をもしブリテンが目にしたらさぞ大喜びだったと思います。実際、ベルクばりの表現主義からイタリアオペラのパロディーまで、音楽的にはなかなか高度な技法が駆使されていると思えるのだが、それが芝居と一体となって、これまで見たこともないハイレベルの舞台となっていました。
二組の若者たちの自然な演技と優れたアンサンブルも見事でした。4人の歌手は良くも悪くも突出した出来の人はおりませんでしたが、あくまでもアンサンブル主体のオペラなので何の不満もありません。それにしても、ここでも振付の一つ一つが本当によく練られたものであったと思います。これまで観てきたオペラの演出の多くが、いかに振付というものを軽視してきたのかと感じられます。
外国人勢に比べると、日本人キャストによる妖精とシーシアス・ヒポリタのコンビはなぜか演技が生硬で違和感を感じること頻り。パックもオーバーアクションで頂けない。外国人勢に比べてリハーサルの時間が足りなかったのか、それとも何らかの意図があるのか。だが、タイターニア役の森谷真理は、オーベロンと歌うと演技以前という感じがするのに、なぜかボトムと絡む場面は猫のような身のこなしで別人と見紛うほど蠱惑的な演技をしていました。ちなみにこのロバ頭のボトムとの場面、タイターニアがボトムの上着を脱がすと、ボトムはサスペンダーを下してベッドイン。上品だけれどお子様向けとは一線を画す演出で大変結構。
演技の話ばかり書いているけれど、この森谷真理という方、最初のオーベロンとの二重唱はなんとなくコロラトゥーラも決まらずぼんやりした印象なのに、ボトムとの場面は歌としても大変すぐれていました。弥勒忠史のオーベロンは可もなく不可もなし。やはりダブルキャストの藤木大地で聴くべきだったか、というのが正直なところ。ヒポリタの清水華澄は出番が少なくて、彼女の持ち味が生かせていたとは言い難い。シーシアスの森雅史は領主役にはやや非力な印象。妖精の合唱と豆の花・蜘蛛の巣・辛子の種・蛾の妖精はすべて子役(ただし少年合唱だけでなく女の子もいる)。これまで技術的な問題もあってか大人の女声がうたうことも多かったようだが、どうせなら少年だけで揃えてほしかったところ。
今回の公演は妖精たちが日本語で歌うというものだが、結果としてはやはりブリテンの音楽と日本語の「そぐわなさ」を痛感するに留まった感じ。ただこれもあまり徹底してなくて、ボトムと絡む場面ではタイターニアも御付の子役の妖精たちも英語で歌う。森谷真理の歌唱がボトムとの場面になると途端に活き活きとするのも、これと関係があるのかも知れません。日本人キャストによる魔笛の上演などでも、この言葉の問題はやっかいなものだが、やはり日本語と原語のまぜこぜというのは私には余計なことと感じられました。

演出に関してもう少し。
舞台道具だが、最後の劇中劇以外は森のセットで押し通すのかと思いきや、苔生した森の場、倒木のあるさらに奥の森、タイターニアのベッドのある森の一角、職人たちの集まるクインスの作業場、最後のシーシアス邸が、つぎつぎに回り舞台で転換するという趣向。もっとも背景は書割で済ませていたりするのだが、見た目にも楽しくあまりチープな感じはしません。オーベロンやパックの衣装は日本の袴をアレンジしたらしいが、遠目にはスカートみたいでやや違和感あり。職人や貴族の衣装は19世紀風でまぁ常識的な範囲。
日本語字幕は特段文学的な香りのするものではないが、分かりやすく処理されていたように思います。職人たちの劇中劇の前口上、句読点を無視してトンチンカンな意味になるのをまずまず巧く訳していました。また、妖精が日本語で歌うところも字幕がついていたので、日本語を歌詞として聞き取るストレスがなく助かりました。

佐渡裕の指揮については、私はなんとなくもっと大味なものを想像していましたが、基本は精緻に、しかしタイターニアとボトムの場では思いがけないほどねっとりとした表現で、この有名とは言い難いオペラを紹介するのに過不足の無いバランスのとれたものであったと思います。タイターニアの目覚めの音楽の解放感、劇中劇のベルガマスク舞曲から真夜中の鐘の音楽に至る昂揚感も素晴らしい。佐渡裕はこのオペラの、1984年の関西初演の際に副指揮者を担当していたらしく、ブリテンの音楽とは縁もあれば適性もあるということなのでしょう。オーケストラも大きな破綻なく、おそらくは今後何日かある公演でさらに磨かれていくことだと思います。私は先に書いた通り、職人たちの場面で吹き出しそうになりながら本当に楽しくみていましたが、芝居が終わりに近づくに連れて、なぜか涙がでそうになりました。多少のデコボコはあったものの、ブリテンのオペラの凄さというものを改めて認識することができた良い公演でした。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2016-07-25 23:35 | 演奏会レビュー | Comments(0)

ブリテン 「真夏の夜の夢」を聴く

私は例えば上司に向かって「本気で怒らせないよう、でも反対意見をきちんと伝えるべく手加減しながら反論する」みたいなことを「甘噛み」と言ってたのだが、ある人から「それは乳首に対して使う言葉!」と訂正された。そうなの?





7月に佐渡裕が指揮するブリテンの「真夏の夜の夢」を観にいくにあたり、少々予習をしております。
ブリテンの1ダース以上もあるオペラについては、以前「ピーター・グライムズ」「ビリー・バッド」「カーリュー・リヴァー」をこのブログで取り上げてきました。他にも音源は買い込んであるのですがなかなか腰を据えて聴くところまでいかず、今回ようやく重い腰を上げて聴き込んだ次第。
①は購入してそのままになっていた音源。それにはリブレットも対訳も附いておらず、省略や入れ替えはあるものの殆どシェークスピアの原文をそのまま用いた歌詞を理解するのは私にはかなりハードルが高い。という訳で日本語対訳が欲しくて図書館で②の音源を借りてきた。両者の聴き比べは後程。

 ブリテン「真夏の夜の夢」Op.64
 音源①
 オーベロン: アルフレッド・デラー
 タイターニア: エリザベス・ハーウッド
 パック: スティーヴン・テリー
 シーシアス: ジョン・シャーリー=カーク
 ヒポリタ: ヘレン・ワッツ
 ライサンダー: ピーター・ピアーズ
 ディミートリアス: トーマス・ヘムズリー
 ハーミア: ジョセフィン・ヴィージー
 ヘレナ: ヘザー・ハーパー
 ボトム: オーウェン・ブラニガン
 クインス: ノーマン・ラムズデン
 フルート: ケネス・マクドナルド
 スナッグ: デヴィッド・ケリー
 スナウト: ロバート・ティアー
 スターヴリング: キース・ラゲット
 ダウンサイド・スクールおよびエマニュエル・スクール合唱団
 ベンジャミン・ブリテン指揮ロンドン交響楽団
 1966年9月23,25-28日・10月3・5日録音
 CD:DECCA478 544 8

 音源②
 オーベロン: ブライアン・アサワ
 タイターニア: シルヴィア・マクネアー
 パック: カール・ファーガスン
 シーシアス: ブライアン・バナタイン・スコット
 ヒポリタ: ヒラリー・サマーズ
 ライサンダー: ジョン・マーク・エインズリー
 ディミートリアス: ポール・ウィーラン
 ハーミア: ラビー・フィロジーン
 ヘレナ: ジャニス・ワトソン
 ボトム: ロバート・ロイド
 クインス: グウィン・ハウエル
 フルート: イアン・ボストリッジ
 スナッグ: スティーヴン・リチャードソン
 スナウト: マーク・タッカー
 スターヴリング: ニール・デイヴィス
 ニュー・ロンドン児童合唱団
 コリン・デイヴィス指揮ロンドン交響楽団
 1995年12月録音
 CD:Philips PHCP5384

*登場人物の日本語表記はあまり定まっておらず、タイターニアのかわりにタイテーニアあるいはティターニア、シーシアスのかわりにシーシュースなどと表記されることも。

最初にどうでもいい話だが、タイトルについて最近は「夏の夜の夢」とする場合が多いようだ。そもそもMidsummerは夏至のことであって「真夏」というのが誤訳だとする説によるものだろう。私のごく個人的な意見だが、ながらく「真夏の・・・」で定着してきたこと、またそのほうが日本語としてもリズムが良いこと、夏至だろうが真夏だろうが、どのみちイギリスの気候風土や聖ヨハネ祭にまつわる様々な含意を普通の日本人が思い浮かべることはタイトルだけでは不可能なこと、等々で「真夏の・・・・」で良いのではないかと思っています。要はちょっと昔の映画、例えば「慕情」でも「望郷」でもなんでもいいが、原題とまったく違うからといって誰も咎めることがないのと似たようなものだろう。

シェークスピアの原作は5幕構成で、もちろんそのままでは一夜のオペラのリブレットとしては長すぎます。ブリテンは原作冒頭のシーシアスの宮殿の場をそっくりカットし、ハーミアの父イージーアスや臣下フィロストレートの登場場面もカットして最後の劇中劇の場以外はすべて森の中に絞り込んでいます。登場人物の饒舌で多分に装飾的な台詞もかなり刈り込まれていますが、(精査した訳ではないので感覚的ではあるけれど)ボトム以下の職人たちの会話は比較的カットが少ないように思います。
シーシアスとヒポリタの場面が短縮された為に、原作では
a1.貴族の中でも最も権力の大きい者
a2.貴族の若者
b.職人
c.妖精
という4グループに登場人物が分けられていたのに対し、オペラのほうでは
A.貴族
B.職人
C.妖精
という3グループにいわば圧縮されていて、ブリテンの音楽もほぼこの区分に従って3つのタイプにカテゴライズできるように思われます。

Aの貴族のカテゴリーについては、最後の劇中劇を別にすると、極めてシリアスで劇的な音楽。4人の恋人達の音楽だけ聴いているとこれまで私が聴いた陰惨なオペラの音楽とそんなに変わらないような気がします。ハーミアとヘレナが罵り合う場面で幾分喜劇的な要素が感じられるものの、基本は人間のリアルな愛憎をヴェリズモ・オペラさながらに描いたと言えなくもない。
戦後の前衛的な音楽の動向にはほとんど興味を示していないブリテンだが、完全に保守的とか伝統的というのとも少し違う。パリ時代のストラヴィンスキーやヒンデミットとブリテン、この3人の音楽語法というのはそれぞれ全然違うのだが、調性の体系を拡大して独自な語法としていくところは共通している。ただ誤解を恐れずにいえば、ストラヴィンスキーは常に未来を見つめながら自分の耳だけを頼りに極めて感覚的に書いているような気がするのに対し、ヒンデミットは過去に向き合いがら理論的に調性の拡大を図っている。ブリテンは当時のイギリスの保守的な音楽界や映画音楽などをたくさん書いた経験を踏まて、彼なりにコンテンポラリーな音楽を書いたのだろうが、背景には終生敬愛していたアルバン・ベルクのロマンティックな音楽への憧憬があることは確かだと思います。

次にBの職人たちの音楽だが、これが全体の中では一番面白く生気に溢れていて、ブリテンはさぞ嬉々としてこの音楽を書いたのだろうと想像できます。基本的にはブッフォな音楽だが、中でも注目すべきだと思われるのは、ロバの頭を被せられたボトムが仲間においてけぼりを食らって歌う"The woosell cock, so black of hue"。タイターニアの短い歌を挟んで2節あるのだが、まさにベルクの「ヴォツェック」を思わせるような面白さがある。そもそも妖精界と人間界というのは(妖精が人間の目には見えないこともあって)基本的に交わらないのだが、この歌をきっかけに二つの世界が交わるようになる。そこで、ヴォツェックのような正気と狂気を行ったり来たりする音楽に似通った音楽を書いたのだろうと想像します。
また第3幕の職人たちによる劇中劇の場は、まさかのイタリア・オペラのパロディーになっています。ピラマスに扮したボトムの歌う"Grim-look'd night!"はヴェルディのバリトンのアリアさながら。ここはブッフォではなく、シモン・ボッカネグラにでもなったつもりで大真面目に歌ってほしいところです。シスビーに扮したフルートの歌はドニゼッティの「ルチア」を初めとする狂乱のアリアのスタイルで書かれていますが、最初調子っぱずれに歌い始めて笑わせながら、最後はたいそう技巧的なアジリタを披露します。このアジリタが歌えなければ話にならないので、フルート役の歌手にはレジェロなハイテノールが必要でしょう。

最後にCの妖精の音楽だが、弦のグリッサンドやチェレスタの響きで幻想的な雰囲気を醸し出すところは、まあ常套的といってよいのかも知れません。ここで私が注目したのはまず第1幕のオベロンの歌"I know a bank where the wild thyme blows”。ここはバロックオペラの様式で書かれていて(私はよく言われるパーセルよりはモンテヴェルディのモノディーに近いような気がしました)、とても魅力的。タイターニアのパートはどこも素晴らしいですが、ロバ頭のボトムと添い寝するところは全曲の中で最も官能的な(ブリテンにしては、という意味だが)音楽で書かれています。

ボトムとタイターニアの場の官能性に言及しましたが、よく考えてみると貴族の若者たちの場というのは、基本的に純潔とか貞操といったものに価値をおく世界なのでそもそも性的な要素というのは希薄にならざるを得ません。例えばヘレナがディミートリアスに対して、私をスパニエル犬のように打ってという台詞には誰しもマゾヒズム的な意味を嗅ぎとろうとするはずだが、ブリテンは賢明にもこの台詞にパストラル風の新古典主義的な音楽を附けて、過度な官能性を排除している。職人たちはというと、こちらは男ばかりの世界なので少なくとも表向きは官能の描写というのとは無縁(実際にはフルートの"Nay, faith,let me not play a woman;I have a beard coming.”という台詞でもって彼らの職人階級のホモソーシャルとホモフォービアの桎梏の問題がそれとなく示唆されているようにも思うのだが・・・)。対するに妖精の世界というのは人間界のモラルや性的タブーには全く縛られていない(この劇の発端はそもそも、インドの王様のところから盗んできた男の子をお小姓にした女王タイターニアと、その男の子を自分のものにしたくて仕方のない王オーベロンとの諍いであった)。モラルやタブーがあってこその官能、という訳で、人間のボトムと妖精のタイターニアが交わる場面(まさに禁断の愛だ)がもっとも性的なイメージを帯びるのは当然と言えば当然。もちろん原作でもオペラでも、タイターニアとボトムの間でどこまでの行為があったのかは何も書かれてはいないけれど、この芝居のなかで性的な交渉があったとすればこの二人の間にしかありえないのは事実。
次に、ではなぜこの場面でボトムはロバ頭の間抜けな姿に変身したのか、という問いに対しては、ヤン・コットが『シェイクスピアは我らの同時代人』所収の「ティターニアとろばの頭」という章の中に端的にこう書いています。
「ボトムはやがてろばの姿に変えられる。だがこの悪夢に満ちた夏の夜においては、ろばは通常の場合のように愚鈍さを象徴するのではない。古代からルネサンスまで、ろばという動物は、とたえばアプレイウスの『黄金のろば』の挿話が示すように、最も強い性的能力をもっていると信じられていたのであり、あらゆる四足獣の中で、いちばん長くいちばん堅い男根をもっていると考えられていたのだった。」
(ヤン・コット『シェイクスピアはわれらの同時代人』蜂谷昭雄・貴志哲雄訳、白水社)
ヤン・コットの分析というのはその精神分析的なアプローチなど、間違いとは言えないまでも、既に現代においては批判的に読まれるべきところも多いと思われます。しかしいまこうして改めて読み直すと、ブリテンのような、性的マイノリティ故にオペラの題材一つとってもそこに内在するエロスの要素に敏感かつ意識的にならざるをえなかった作曲家の作品を理解するには、恰好の補助線となりうると思いました。

演奏について少しだけ。
まず①の演奏だが、単に作曲者が指揮しているから、とか初演の時の主要メンバーによるとかいう以上に、これほど作品の世界観まで感じさせる演奏というのは稀だろうと思います。かつてのDECCAがその技術・ノウハウのすべてを注ぎ込んだであろう録音は本当に素晴らしく、夜の森のひんやりとした空気におもわず鳥肌が立つほどだ。歌手については個別にあれこれ言うのも愚かに思われるほど粒が揃っています。デラーのカウンターテナーなど、演奏スタイルとしてはもちろん古いのだけれど、一度聴いてしまうとこれ以外にありえないだろうと思ってしまいます。
②のコリン・デイヴィスは、例によって真摯で明晰、しかも情熱にも事欠かない良い指揮だと思いますが、①と比べると残念ながら何かが足りないと言わざるを得ません。予想通り、デイヴィスのある意味とてもリアリスティックな指揮というのは、Aの貴族たちの音楽にはとてもよく合っていて成功していると思いますが、Bの職人、Cの妖精の音楽は真面目なだけでは歯が立たないといった感じがします。ブライアン・アサワのカウンターテナーやシルヴィア・マクネアーのコロラトゥーラなど、②の歌手のほうが技術的な面ではむしろ①を上回っていると思いますが、それだけでは満足できない、というのも実に贅沢な話ではあります。もっとも、②がことさらレベルが低いというのではなくて、もっと高い次元での微妙な差異について述べたつもりなので、これから音源を求めようと思われる方には正直どちらでも良いのではと思っています。

ついでながら、Youtubeで簡単に観れる動画としては、エクサンプロヴァンスで大野和士が振った舞台の録画がとても面白いと思いました。ロバ頭のボトムとタイターニアの場は微妙にエロくて作品の本質をきちんと押さえていると思います。さて7月の兵庫県立芸術文化センターでの公演、どんな舞台が観れるのか。お子様向け人畜無害な舞台でなければ良いのだけれど・・・。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2016-07-05 01:19 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

ザ・カレッジ・オペラハウス公演 「カーリュー・リヴァー」&「鬼娘恋首引」

もしも三島由紀夫がブリテンの「ビリー・バッド」を観たら狂喜したのは間違いないと思うけれど、「カーリュー・リヴァー」だったらどう思っただろう。「近代能楽集」を書いた人の感想を聞きたかったものだ。




ザ・カレッジ・オペラハウスによる鈴木英明とブリテンの一幕物オペラの二本立て公演を観てきました。想像していたよりも遥かに素晴らしい舞台で、こんな公演が観れるのなら関西も捨てたもんじゃないと思いました。


 2014年10月11日 ザ・カレッジ・オペラハウス第51回オペラ公演
 鈴木英明 「鬼娘恋首引」
   番茶姫: 川口りな
   伊呂波匂之助: 中川正崇
   素天童子: 田中勉
   地謡: 木澤佐江子・福島紀子・柏原保典・木村孝夫

 ブリテン 「カーリュー・リヴァー」
   狂女: 西垣俊朗
   渡し守: 桝貴志
   旅人: 西村圭市
   少年の霊: 榎並晴生
   修道院長: 西尾岳史
   少年の声: 老田裕子
   巡礼の合唱: ザ・カレッジ・オペラハウス合唱団

  管弦楽: ザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団
  指揮: 山下一史
  演出: 井原広樹


まずは後半の「カーリュー・リヴァー」から。舞台に接して、ブリテンという人の天才に心底驚きました。以前に「ピーター・グライムズ」を観たときの衝撃からして想像はしていたものの、より狷介な、難解と言ってもよいこの音楽がどうしてこれほどまでに人の心を激しく揺さぶるのか不思議なくらいです。もちろん、この公演までに私は何度となくブリテン自身の監修によるCDを聴いているわけで、予習なしにいきなり聴いたらどう思ったか良く判らないところがあります。たぶん初めて聴いてすぐさま腹に入る音楽ではないのでしょう。しかし真摯にその音楽に向き合おうとする者には間違いなく大きな感動をもたらしてくれる音楽であると思いました。もう今回のレポートは、ブリテンが紛れもなく舞台音楽の天才であること、機会があれはどうか敬遠なさらず皆に聴いてほしいということ、それだけ書けば十分。以下は備忘としての附け足しみたいなものです。

歌手の中では渡し守を歌った桝貴志が抜きんでていたと思います。私は以前、松村禎三の「沈黙」で彼がキチジローを歌ったのを聴いていますが、その時はロドリゴやフェレイラ役の歌手が素晴らしかったせいか、それほど印象に残っていません。しかし今回の渡し守の歌唱は朗々とした美声もさることながら、最初どちらかといえば下卑た人間であったのが、狂女に対する真の同情から一段高い人間に生まれ変わっていく、その微妙な変化が素晴らしいと思いました。
次いで狂女を歌った西垣俊朗も優れた歌唱であったと思います。最初登場したときはエキセントリックに思われた歌唱が、次第に人間の普遍的な悲しみを描きだし、遂には聴く者の肺腑を抉るような表現に至る様はまさに息をのむ思いでした。
旅人役の西村圭市、以前彼がラヴェルの「スペインの時」のラミーロを歌った時、私は「声良し芝居良しで華も実もある逸材」と書きましたが、今回はちょっと物足りなさを感じました。主役二人の歌唱に比べると、まだまだ突き詰めた表現が可能であったのではないかと思いました。修道院長の西尾岳史も少し声が散るせいか、今一つ役に入り込めないように思われました。しかし、全体としてはあとの二人とも、大きく足を引っ張るというほどではなく、感動を損ねることはありませんでした。
少年の亡霊については、子役(榎並晴生・黙役)の姿に合わせて舞台裏で女声(老田裕子)が歌うという趣向。あまり女性を感じさせない素直な歌いぶりで全く違和感はありませんでしたが、本当のところは多少下手でもいいからボーイソプラノで歌われるべきでしょう。せっかく子役に少年合唱団のメンバーを使っているのにもったいない、と思いました。
演出については、まずシンプルな道具立てが素晴らしい。舞台の上に鳥居のように三角形の破風を頂く二本の柱、これが手前と奥に二組。これが前半の「鬼娘恋首引」では能舞台の4本の柱と屋根を抽象化したものとなり、「カーリュー・リヴァー」では同じ道具が教会の象徴となります。舞台に3畳ほど一段小高くなった部分があって、これが渡し舟にもなれば少年を埋葬した塚にもなります。川面や星降る夜を表す背景の映像も抑制が効いていて大変美しいものでした。
渡し守に続いて旅人が歌い始めるところで、巡礼者の群れがまるでゾンビのようにもぞもぞと動いているのがすこし気になりましたが、これは芝居の前半、狂女以外の全ての人物が粗野で卑しい存在であったのが、彼女に深く同情することでキリスト者として再生することを強調しているのかも知れません。実にこの奇蹟によって救われたのは狂女のみならず全ての登場人物であったというべきでしょう。

前半の「鬼娘恋首引」は狂言の「首引」に基く喜劇。この楽しい歌芝居についてあれこれ評論めいた言説を振りまわすのは野暮というものでしょうから、こちらも備忘として二言三言。
主役3人、鬼の子分を演ずる地謡いずれも不安のない歌唱でしたが、なかでも鬼の頭領である素天童子(田中勉)の親馬鹿振りが大いに笑わせてくれました。音楽はいわゆるわらべ歌風のものでそつなく書かれているという感じ。管弦楽は1管編成のシンプルなものですが、多彩な打楽器やピアノが入っているので非常に華やかに聞こえます。1980年に初演されてからかれこれ10回以上も再演されているというのもむべなるかなといったところ。ただ、私は偶々先日、本物の狂言を観る機会があり(「棒縛」と「寝音曲」の二曲)、ほんとうに腹の底から笑わせてもらったので、この楽しいけれど大笑いとはいかないオペラ仕立てというものの限界を感じたのも事実。まあ元ネタとオペラは別物と言ってしまえばそれまでですが、わざわざ狂言をオペラに仕立て直す必要があったのかなというのが素直な感想です。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2014-10-14 00:21 | 演奏会レビュー | Comments(0)

ブリテン 「カーリュー・リヴァー」 ピーター・ピアーズ他

私が中学の時の理科の先生、化学物質をへんなイントネーションで発音するので気持ち悪かった。たとえば「イソプロピルアルコール」を「あの子らにもゆうたって」のイントネーションで発音するとか。パラジクロロベンゼンを「あら、激辛タンメン」のイントネーションでってのもあった(ほら、チキチキバンバン、ではない)。





ザ・カレッジ・オペラハウスの「カーリュー・リヴァー」公演の予習中。音源は次のもの。
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  ブリテン 教会寓話劇「カーリュー・リヴァー」 

    狂女: ピーター・ピアーズ
    渡し守: ジョン・シャーリー=カーク
    僧院長: ハロルド・ブラックバーン
    旅人: ブライアン・ドレイク
    亡霊の声: ブルース・ウェッブ

    リチャード・アドニー(fl)、ニール・サンダース(hrn)
    セシル・アロノウィッツ(va)、スチュアート・ナッセン(cb)
    オシアン・エリス(hrp)、ジェームズ・ブレイズ(perc.)
    フィリップ・レッジャー(org)
    監修: ベンジャミン・ブリテン&ヴァイオラ・タナード
    1965年6月録音
    CD:LONDON421 858-2

このオペラ(というか、教会寓話劇)が能の「隅田川」を下敷きにしていることはよく知られていると思います。ブリテンは1956年にパートナーのピーター・ピアーズとの旅行中に東京を訪れ、「隅田川」を二度観て感銘を受けたらしい(その割には劇中でオルガンが模倣しているのは雅楽の笙の音色であって、能の囃子とは似ても似つかないのがご愛嬌)。劇の主たる部分はほぼ「隅田川」の物語を踏襲していて、その前後を僧院長の口上と修道士らの合唱が取り囲む構成となっています。
「隅田川」も「カーリュー・リヴァー」も、wikipedia等にあらすじが出ていますので詳述は避けますが、「カーリュー・リヴァー」の物語は「隅田川」の物語をほぼなぞりながら、いくつかの点で相違が見られます。トリヴィアルな事柄から言うと、例えば「隅田川」のかもめと都鳥の件は、gullとcurlew(ダイシャクシギ)に置き換えられていたり、能の亡き少年の墓標に植えられた柳が、オペラではyew tree(イチイ)になっていたり。しかしもっとも大きな変更点は、「隅田川」の少年の亡霊がかき消えた後は「草茫々」とした無常感が残されるのに対して、オペラの方では神の恩寵によって狂女は息子の亡霊にまみえて救済を得るというところでしょう。このあたり、両方のテクストを比べると大変面白いのですが、既にネットでこういった分析をいくつか見かけましたので一例を挙げておきます。
石川伊織「オペラ『Curlew River』における能『隅田川』の変容」(1999/03・『県立新潟女子短期大学研究紀要』第36集所収)
http://www.unii.ac.jp/~iori/aufsaetze/20_010CurlewRiver.html

ここでは先の論文と内容がかぶらないよう、能の特徴的なテクストがどのように「英訳」されているのかを何箇所か具体的に見ておきたいと思います(謡曲のテキストは網本尚子編『謡曲・狂言』角川ソフィア文庫から引用、英文の対訳は拙作)。一言で言うと、能のさまざまなレトリックを駆使した華やかなテクストを英文に置き換えるにあたって、脚本家は能の逐語訳にとどまらず、能には現れない別の比喩を用い、極めて平易な文体でありながら饒舌でもある翻案を行なっています。脚本を書いたウィリアム・プルーマーWilliam Plomerは本国では名の通った詩人のようですが、アルカイックな神秘劇としての味わいを狙った種々の技巧が読みとれるように思われます。
まず、能の冒頭近く、旅人の名ノリ(自己紹介)の後、旅の苦労を語る上歌(あげうた)、

ワキツレ「雲霞、あと遠山に越えなして、あと遠山に越えなして、幾関々の道すがら、国々過ぎて行く程に、此処ぞ名に負ふ墨田川、渡りに早く着きにけり、渡りに早く着きにけり」

オペラではこのような翻案となっています。

Behind me,under clouds and mist,
Heaths and pastures I have crossed;
Woods and moorlands I have passed,
Many a peril I have faced;
May God preserve wayfaring men!
Here is the bank of the Curlew River,
And now I have reached the ferry.

(雲と霧の下、
ヒースの丘や草地を背にして通り過ぎ、
森と荒野を越え、
私は数々の危難を見てきました。
神よ、旅人を守らせたまえ。
ここはカーリュー川の岸辺、
こうして船着き場にたどり着いたのです)

「雲霞」のみ一致していますが、英文のほうが視覚的により具体的に描かれています。また日本語の反復法は対句表現に置き換えられています。

つぎに女物狂(ものぐるひ・狂女)登場最初のセリフ。

シテ「げにや人の親の心は闇にあらねども、子を思ふ道に迷ふとは、今こそ思ひ白雪の、道行人に言伝てて、行方を何と尋ぬらん。聞くや如何に、うはの空なる風だにも」地歌「松に音する習ひあり」

Clear as a sky without a cloud
May be a mother's mind,
But darker than a starless night
With not one gleam,not one,
No gleam to show the way.

(雲ひとつない空のごとく
母の心は曇りなくあるべきところ、
星なき夜よりも我が心は暗く、
たった一すじの光もなく、
道を照らす僅かな光も私にはありませぬ)

ここでは謡曲独特の掛け言葉や和歌の引用は断念されているようです。しかし最も大きな違いは、英文のほうではこのセリフの前に、下に掲げたような長々としたうわ言のようなセリフが置かれていて、「狂」のイメージが強調されています。また子供の喩えとして使われているlambという言葉はいやでもキリストそのものを連想させるに違いありません。

You mock me,you ask me
Whither I go,
How should I know?
Where the nest of the curlew
Is not filled with snow,
Where the eyes of the lamb
Are untorn by the crow,
The carrion crow -
There let me go!

(お前達は私をあざけり、私に尋ねる。
そなたはどこへ行くのか、と。
だがどうして私がそれを知っていようか。
鴫の塒が
雪で覆われることなく、
子羊の両目が
からすに、あの死肉を漁る
からすに抉られることもない、
そのようなところに行かせておくれ)

次に、舟に乗りたければ面白う狂うてみせよという渡し守を女が非難していうセリフ。
シテ「うたてやな隅田川の渡守ならば、日も暮れぬ舟に乗れとこそ承るべけれ、形の如くも都の者を、舟に乗るなと承るは、隅田川の渡守とも、覚えぬ事な宣ひそよ」

英文
Ignorant man!
You refuse a passage
To me,a noblewoman!
It ill becomes you
Curlew ferryman,
Such incivility.

(無礼な者よ!
お前は私を舟に乗せぬというのか、
この貴顕なるわたくしを。
カーリューの渡し守よ、
このような非礼は
お前のような卑しいものにはさぞ似合いであろう)

ここは「伊勢物語」の業平と渡守の会話を下敷きにしていて、英文はそのあたりの翻案は断念しているようです。そのため後に続くかもめと都鳥のくだりは英文(gullとcurlew)ではなかなか意味の取りにくいやり取りになっています。

最後に、子供の亡霊が消えたのちの結びの場面。
地謡「互に手に手を取り交はせば、また消え消えとなり行けば、いよいよ思ひは真澄鏡、面影も幻も、見えつ隠れつする程に、東雲の空もほのぼのと、明け行けば跡絶えて、我が子と見えしは塚の上の、草茫々としてただ、標ばかりの浅茅が原と、なるこそ哀れなりけれ、なるこそ哀れなりけれ」

英文ではこの地謡に相当する訳文はなく、かわりに僧院長の次のようなセリフが置かれていて、合唱がこれに答えます。教会寓話劇としては当然の終わり方ではありますが、日本の能の無常感は彼の地ではなかなか理解されないのでしょうか。

A vision was seen,
A miracle and a mystery,
At our Curlew River here.
A woman was healed by prayer and grace,
A woman with grief distraught.

(このカーリューの岸辺にて、
この世のものとも思えぬ幻を、
神の秘蹟を私たちは目にしました。
悲しみに気のふれていた女は、
祈りと神の恩寵により救われました)

台本を読むだけでも、元の能とは相当異なった世界観が描かれているのが判ります。これぐらいにしておきますが、こんな調子で全文対比してみたらいろいろな発見があると思います。

肝心の音楽について。ブリテンの音楽についてはごく最近、「ピーター・グライムズ」の舞台をきっかけに親しむようになった為、まだまだ判っていないのですが、それにしても「カーリュー・リヴァー」の音楽は狷介で、人が容易に近づくことを拒むかのようです。およそ70分ほどの演奏時間のうち、最初一時間は極めてストイックな音楽が続きます。始めに少し触れたように、オルガンのパートは笙の和音を模していますが、他の楽器は独特な音の選び方に拠っていて、決して聴き手に媚びません。ところが物語も終盤のThe moon has risen(月は昇りぬ)以降の数分間、ようやく音楽が大きく動き出します。ここは教会旋法による感動的な音楽。物語も母が息子の亡霊によって慰められるクライマックスとなりますが、今度は一気に情緒に訴えかける音楽の運びとなって、本当に素晴らしいと思いながらも若干の戸惑いがなくもありません。思うに、この最後の部分のもたらす感動は真正なものだとしても、それに至る一時間がひたすら苦行になるような聴き方は作品にとっても聴き手にとっても不幸なことだろうという思いがします。大半を占めるストイックな音楽がこちらの心の奥深く染み込むまで、何度も何度もひたすら繰り返して聴くしかないのでしょう。すくなくともそれに値する音楽であるのは間違いないと思います。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2014-10-05 23:10 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

ブリテン 「ビリー・バッド」についての追記

ビリーが発作を起こす場面、不謹慎だがザ・ぼんちのおさむ師匠(のモノマネをするプラスマイナス岩橋)を連想。
(参考動画)
http://www.youtube.com/watch?v=Ggmx7SLeFv0





前回の投稿で、「ビリー・バッド」の音楽について「やりきれないほど救いのない音楽」と書いたが、その事があれからずっと心に引っ掛かっていて、結局毎晩のように繰り返して聴くはめになってしまいました。
音楽を何度も聴き、もう一度リブレットをよく読んでみると、やはりヴィアは最後にビリーによって許され、救われたのだと思うようになりました。素直に台詞通り受け取ればいいのか、と。そんな虫の良い話ある訳がない、とも言える。しかし、これはメルヴィルとフォースターとブリテンの共作による男達のお伽話なのかも知れません。ならば大甘なエンディングでもいいじゃないか、と思う。いや、案外これがブリテンの本音だろう。
ビリーにとって艦長ヴィアは最初から最後まで敬愛の的であったが、ヴィアにとってのビリーは、自ら死を与えたにもかかわらず、いつしかキリストにも似た理想像となっていったように思われます。そして、ビリーの処刑前のモノローグも、幕切れのヴィアのモノローグも、決して暗いだけの音楽にはなっていないところが何とも味わい深いと思います。
リブレットを少し詳しく見てみよう。まずはビリーのモノローグの後半から。

And farewell to ye, old "Right's o'Man"!
Never your joys no more.
Farewell to this grand rough world!
Never more shipmates, no more sea,
no looking down from the heights to the depths!
But I've sighted a sail in the storm,
the far-shining sail that's not fate, and I'm contented.
I've seen where she's bound for.
She has a land of her own where she'll anchor for ever.
Oh, I'm contented. Don't matter now being hanged,
or being forgotten and caught in the weeds.
Don't matter now.
I'm strong, and I know it,
and I'll stay strong,
and that's all, and that's enough.

さようなら、老いぼれた『人権号』よ。
お前が俺に悦びをもたらすことはもう無いのだ。
この大いなる辛い世の中ともお別れだ。
もう仲間たちや海を見ることも無いのだ。
マストの天辺から海を見下ろすこともない。
だが、俺は嵐の中の帆船をこの目で見た。
遠くに輝く船、あれは運命なんかじゃない。
俺は満足した。
あの船が行きつくところを見たのだ。
そこには永遠に錨を降ろして安らう港があった。
ああ、俺は満足だ。吊るされたって、
忘れられて海の藻屑となったって構うもんか。
もうどうでもいい。
俺は強い。俺には判ってる。
そしてこれからも強いままだ。
それだけだ。もうそれだけで十分だ。

下手な訳で申し訳ありません。”That's not fate.”(あれは運命なんかじゃない)という一文はこれだけ読むと非常に意味が通りにくいけれども、その少し前に

But I had to strike down at Jemmy Legs - It's fate.
And Captain Vere has had to strike me down - Fate.

だが俺はジェミー・レッグ(クラッガートの渾名)を殺さねばならなかった。こいつは運命だ。
そしてヴィア艦長は俺を殺さねばならなかった。これも運命だ。

と語っていたのを受けた台詞と解釈すべきだろう。すなわち、ビリーにとっては、

現実=他者から与えられたもの=運命
幻想=自ら造り出したもの=運命とちがう何物か

ということなのだろうと思います。これはとてもペシミスティックな世界観というべきもので、ビリーの言葉というよりはブリテン(そして恐らくフォースター)の真情が吐露されたものだと受け止めたい。
このモノローグ後半の音楽はとても生き生きとしていて、まるでビリーは喜んで死に赴いていくような錯覚さえ覚えます。それでいて最後の”and that's enough.”の悲痛さはただならぬものがあります。
次にヴィアのモノローグ。

We committed his body to the deep.
The sea-fowl enshadowed him with their wings,
their harsh cries were his requiem. But the ship
passed on under light air towards the rose of dawn,
and soon it was full day in its clearness and strength.
... For I could have saved him. He knew it, even his
shipmates knew it, though earthly laws silenced them.
Oh what have I done?
But he has saved me, and blessed me,
and the love that passes understanding has come to me.
I was lost on the infinite sea,
but I've sighted a sail in the storm,
the far-shining sail, and I'm content.
I've seen where she's bound for.
There's a land where she'll anchor for ever.
I am an old man now,
and my mind can go back in peace to that far-away
summer of seventeen hundred and ninety-seven,
long ago now, years ago, centuries ago, when I,
Edward Fairfax Vere, commanded the "Indomitable"...

我々は彼の遺体を海へ放り込んだ。
海鳥が翼で彼の亡骸を蔽い隠し、
そのやかましい啼き声はまるでその死を悼むかのようだった。
だが船が薔薇色の夜明けの方へ軽やかに進んでいくと、
たちまち晴れた、強い日差しの真昼となった。
私は彼を救うことが出来たのだ。奴はそのことを知っていた。
いや、仲間たちも知っていて、ただ軍規のせいで黙っていただけだ。
ああ、私はなんということをしでかしたのか。
だが彼は私を救い、祝福さえしてくれたのだ。
そして理解を超えた愛が私のところにやって来た。
果てしも無い海を彷徨いながら、
だが、私は嵐の中に帆船を見た。
遠くに輝く船、
私は満足している。
あの船が行きつくところを見たのだ。
そこには永遠に錨を降ろして安らう港があった。
私はすっかり年老いたが、
私の心はあの1797年の遥かなる夏に
安らかに戻ることができる。
ずっと前に、何年も、何百年も前に、
この私、エドワード・フェアファックス・ヴィアが『不屈号』の艦長だった頃に。

嵐の中の光り輝く帆船のイメージ。もちろんヴィアは処刑前のビリーのモノローグについては何も知りません。しかし不思議な共感によって二人は同じ幻覚を見ます。これが救済でなくて何だろう。前にも書いた通り、ヴィアの歌う旋律は少し神経質で、ブリテンが自身へのアンビヴァレンツを投影していることは明らかだが、それでもこの幻視のところだけは非常に穏やかな音楽が附けられています。
昨年「ピーター・グライムズ」を見て、打ちのめされるほど感動したのですが、それから6年ほど後に書かれた「ピリー・バッド」はより多面的な思考を誘う内容となっています。前者が共同体への憎悪、父性への嫌悪と歪んだ性愛の物語だとすれば、後者には共同体(船員達)への愛と、父性(ヴィア)への全幅の信頼、歪んだ愛と並んでまっすぐな愛が描かれ、メルヴィルが刻みつけた善と悪への考察と重なり合って聴く者に深い感動を与えます。
それにしてもこの作品を舞台で観る日がいつか来るだろうか。なんとか私が生きている内にチャンスがあればいいが、なかなか難しいだろうなぁ。1951年初演の割には前衛的な語法は皆無、かといって全面的に調性が支配しているわけでもない。ブリテンはアルバン・ベルクの下で作曲を学びたいと望んでいたようだが、確かに「ヴォツェック」の間奏曲のような曖昧な調性感が支配的。まぁ万人向けの音楽とは言い難い。しかも男声のみのオペラとなると、いかに東京といえども、そうそう上演の機会があるとは思えません。定年後にヨーロッパで観るか(笑)。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2013-05-23 00:58 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

ブリテン 「ビリー・バッド」 ケント・ナガノ指揮ハレ管弦楽団

ハンドルネーム「ドリー」さんの村上春樹新作amazonレビューが面白過ぎると話題に。こういう文才のある毒舌家が書いた佐村河内守評を読んでみたいなぁ。




ブリテンの1951年に初演されたオペラ「ビリー・バッド」を聴いています。

  ブリテン「ビリー・バッド」Op.50(1951年オリジナル版)
  ビリー・バッド: トーマス・ハンプソン(Br)
  エドワード・フェアファックス・ヴィア: アンソニー・ロルフ・ジョンソン(T)
  ジョン・クラッガート: エリック・ハーフヴァーソン(Bs)
  レッドバーン: ラッセル・スミズ(Br)
  フリント: ギドン・ザックス(Br)
  ラトクリフ: サイモン・ワイルディング(Br)
  赤髭: マーティン・ヒル(T)
  ドナルド: クリストファー・マルトマン(Br)
  ダンスカー: リヒャルト・ヴァン・アラン(Bs)
  新米: アンドリュー・バーデン(T)
  新米の友人: ウィリアム・デイズリー(Br)
  スクウィーク(チュウチュウ): クリストファー・ジレット(T)
  マンチェスター少年合唱団
  ハレ合唱団・ノーザン・ヴォイシズ(キース・オーレル指揮)
  ケント・ナガノ指揮ハレ管弦楽団
  1997年5月25~31日録音
  CD:WARNER CLASSICS2564 67266-0

昨年、新国立劇場で「ピーター・グライムズ」を観て以来、ブリテンの音楽がとても気になっています。思いあまって"BENJAMIN BRITTEN THE COLLECTOR'S EDITION"というEMIから出ているCD37枚組を買い、今年の初めから聴きはじめて今ようやく10枚ほど聴いたところ。管弦楽曲をあれこれ聴きましたがいずれもピンときません。物凄く良い部分もあるのだが、全体として聴くと私にはとても遠く、よくわからない音楽。なんとなく想像していた通りなのですが、やはりテキストのある音楽のほうが(私にとっては)より魅力的な作曲家、ということだろうか。
それとは別に、「ピーター・グライムズ」以外のオペラも聴きたいと思って買ったこのCD、これは本当に素晴らしい作品でした。Wikipediaでも出てこないオペラ故、すこしだけ粗筋を紹介しておきましょう。

英仏戦争最中の1797年、すなわちイギリス海軍兵による「スピットヘッドとノアの反乱」の起こった年のこと。日本人にはよく判らない背景だが、トラファルガーの海戦の8年前と言えばなんとなくわかるだろうか。イギリスの軍艦「不屈号”Indomitable”」は船乗りの不足を解消すべく、近くを航行していた商船「人権号”Rights-o’-Man”」から数名を強制徴用する。その中の一人、ビリー・バッドは性格も見た目もよく、すぐに皆に好かれるが、緊張したり逆上すると激しい吃りの発作を起こすことがあった。兵曹長クラッガートはそんなビリーに眼をつけ、憎しみを募らせる。ついに彼は艦長ヴィアに、ビリーが反乱を企てていると讒言する。ヴィアはビリーをキャビンに呼び、クラッガートも同席する中、直接ことの真偽を尋ねる。ビリーは発作を起こし、腕を振り上げたところ傍にいたクラッガートの眉間に命中、図らずも彼を撲殺してしまう。目の前で起こった殺人について、ビリーの人となりをよく知るヴィアは苦悩しながらも、軍紀を保つため、ビリーを絞首刑とする・・・

ハーマン・メルヴィルの原作と筋立てはほぼ一緒(『ビリー・バッド』岩波文庫、坂下昇訳)。物語としては短編向きのものだが、原作は長編といってもよい長さがある。生前、小説家としては全く認められなかったメルヴィルが、発表のあてもなく、死の直前まで思索を刻みつけるかのように書かれた原作は時として晦渋を極める筆致となる。

ところで、原作とオペラはほぼ同じお話ながら、ビリーの人物造形に看過できない変更が見られます。原作のビリーはこんな風に描かれている。
「彼は若かった。それに、体軀でこそ、いっぱしの大人に発育してはいたけれども、見栄えでは年齢よりもずっと若やいで見えた。それというのも、まだ残る、つぶらな顔は、思春期の面影がほのかにただようているせいで、自然のままの色艶の清らかさは女性的としかいいようがなかった。」
あるいはこんな描写。
「とりわけ、人目を惹いたのは、豊かに動く表情にも、ふとした身ごなしにも、運動のはしはしにも、なにかのはずみで現われるなにものかだった。そして、このなにものかこそ、彼の母なる女性が、愛と恵みの手によって、
ひときわ優れた恩寵を授けられて、この世に生を享けてきた人間なのではなかったかを窺わせるのだった。」
ビリーが童貞ではないことは、次の箇所から知られます。
「しかし、船乗りが『酒と女と唄』の宿の常連だというのなら、それでは、船乗りに悪徳はなかったか?もちろん、そうではない。だが、陸人種の悪徳が―とまあいわせてもらうならば―心情のネジケをおびているのに対して、船乗りの心には、それほどの度合いはなかったし、それすらも、淫欲に根差すというよりは、長いあいだの抑制ののちの、生命力の奔騰であるかに見えた。つまりは自然の法則に従った、素直な流露だったのだ。」
この「美少年」といってもよいビリーの造形に対し、ブリテンはバリトンの役を与えている。
以前「ピーター・グライムズ」について書いた際にも、最初に聴いたとき、ピーターがテノール役であることに違和感を覚え、ジョージ・クラブの原作を読んで、なぜピーター役がテノールで書かれねばならなかったのかについて考察しました。その時はバルストロード=去勢する父=バス、ピーター=怒れる息子=テノール、という構図が見て取れた訳ですが、「ビリー・バッド」において、原作の美少年がバリトンで書かれていることにはもちろん理由があるはずだ。
まず一つ目の仮説は、このオペラの主役はテノール役のヴィアその人であり、その半面ビリーは脇役としてバリトンとなったというもの。テノールは主人公の記号であるとするなら、ブリテンの盟友であり、生活上のパートナーでもあったテノール歌手のピアーズに主役を歌わせたいと作曲者が思うのも当然。ならばヴィアこそこの劇の主人公だという考えは成り立ちそうだが、もう少し別の観点から考えてみよう。
二つ目の仮説は、ビリーはキリストのメタファーであるというもの。原作は至るところに聖書の引用が散りばめられており、容易にビリーがキリストのメタファーであることが判る(絞首刑の判決を受けて、二つのカノン砲の間に縛り付けられたビリーは、まさに二人の囚人の間で磔刑となったイエスそのものだ)。ならば、クラッガートはキリストを裏切ったユダでもあろう。古今の受難曲を思い浮かべれば判るとおり、ヨーロッパの音楽的な伝統は、キリストをバス、もしくはバリトンが歌うというものであり、ならばこそビリーをバリトンとしたという訳。それならテノールのヴィアは福音書を歌うエヴァンゲリストとしての役割か。
しかし、もっともありうべき仮説は、ビリーの性的魅力を表現するため、バリトンの役をあてがったというものだろう。私としては一つ目の仮説も二つ目の仮説も在り得るとしたうえで、真実は性的に成熟した男の表象としてバリトンを採用したのではないかと思っています。ブリテンは原作のビリーのイメージを曲げてまで、彼をバリトンに歌わせたかったのだろうと思います。

ビリーはある種の男達の欲望をそそるのだが、中でもクラッガートという男の場合、その欲望はサディスティックな欲望と表裏一体であり、端的にビリーを殺したいという欲望に駆られている。しかし、男としてのビリーの美しさ、魅力をもっとも正しく理解しているのもクラッガートである。彼は原作でこのように書かれている。
「おそらくこの船上で、ビリー・バッドの内なるところに具現されていた道徳的特異現象を最も知的に理解する力があったのは、この武器係り兵曹長ただひとりだったのではあるまいか?」
あるいはもっと端的な、あからさまな描写。
「ビリーが黄昏の折半直の余暇のおり、上部砲列甲板をぶらつきながら、人ごみに混じった若い散歩者の誰かれに向かって、冗談の一斉射撃を換わしながら進んでいるときなぞ、クラッガートの人目をはばかる流眄(ながしめ)が、きりっと結んだ彼の腰帯あたりにピタリと停まると、この天性の陽気を輝かしている『日輪の子』をつけてゆくうちに、次第に物思いに沈んだ、憂鬱そうな表情に居直ってゆくことがある。」(この箇所は訳注においても「エロスの表白」と書かれている)
このクラッガートという男の人物造型はオペラのリブレットでも実に精緻に描かれているが、それもそのはず、台詞はE.M.フォースターとエリック・クロズィアの共同制作。フォースターといえば「眺めのいい部屋」や「モーリス」であまりにも有名な作家ですが、余談ながらコクトー、オーデン、フォースターといった大作家たちが競ってオペラのリブレットに手を染めたのが20世紀のオペラの特色といも言えるのではないでしょうか。
第2幕、ビリーを殺そうと決意する長いモノローグでクラッガートは次のように歌います。
O beauty, o handsomeness, goodness!
Would that I never encountered you!
(おお、美しく、男らしく、善良なビリー、
お前に出会わなければよかった)
クラッガートの性的対象としてのビリーにはやはりバリトンが相応しいという訳だ。

ではヴィアはどうだろうか。船乗り皆の敬愛の的。軍艦の艦長ともなれば父も同然、しかしオペラでは甲高い
テノールの役となっています。ヴィアは原作ではビリーの処刑後ほどなくして、敵艦の攻撃により落命するが、オペラでは生きながらえて老人としての姿を晒す。ヴィアはビリーを救うことが出来なかった。これが一生彼の負い目となるが、最後のエピローグではビリーによって許され、救われたと感じている。1797年という特異な年、ヴィアならずともビリーを救うことは難しかったろうとは思うが、ヴィアは本当に許されたのだろうか。作曲者のヴィアの造形は実に複雑。船乗りとしては知的である彼は、平穏な航海の折はプルタークなどを読んでいる。オペラのリブレットではヴィアがクラッガートを評してギリシャ神話のアルゴスみたいだというと、他の士官たちが「は?」と訊き返すところがある。これだけで船乗りにあるまじきインテリ、という人物が立ち現われる。原作でも、ヴィアはこのように描かれている。
「同じ階級にも、彼ほどの造詣はなく、まじめさにも劣る士官たちもいて、彼も仕事の必要上つき合っていたものだが、こうした人間のあいだでは、ヴィアという男は愉快な仲間になるための特性を欠いた、無味乾燥で、本臭い紳士だというのが評判だった。」
どうもブリテンの筆致はこのヴィアという男に対しては一筋縄ではいかない。
神経質な旋律を歌うハイテノールの人物は、どうみてもブリテンのシンパシーが注がれているとは思えない。
クラッガートの造形は原作もオペラも大差はないが、彼の造形が確かなので、この物語のテーマが男の嫉妬であること、また男の嫉妬の背後には紛うかたなき同性愛の存在が見られること、一目瞭然である。オペラの中でのクラッガートの扱いは大変おおきくて、「オテロ」のヤーゴのクレドにも匹敵する大アリアが与えられている。
ビリーとヴィアとクラッガート。ブリテンが本当に主人公としたかったのはこの3人のうち誰だろう。原作とは異なって、成熟した雄の性的魅力を無邪気に、無防備に振りまくバリトンのビリー。神経質なインテリで、最後までビリーによる許しを希うヴィア。ビリーを誰よりも愛し、それゆえ罠にはめて殺そうと目論むクラッガート。ブリテンというゲイの作曲家がクラッガードに素晴らしい悪のモノローグを書かざるを得なかったその心境を思うと、なんというか暗澹たる気分になってしまいます。

ブリテンの音楽は本当に優れたものですが、とくに第3幕の最後、死刑判決のあと、ビリーが拘禁されている小部屋にヴィアが入って行った後の音楽が天才的。このあと、ヴィアとビリーの間で如何なる会話が交わされたのか、オペラは何も伝えないが、音楽が雄弁に二人の心情を語ります。突き刺すような金管の咆哮に背筋も凍る思いがします。そして、ビリーの絞首ののち、船乗りたちの言葉にならない憤懣の合唱が、士官たちの合唱(”Down all hands!”やめろ、お前ら!)によって次第に力をなくしていく場面も素晴らしい。ブリテンという人は本当に合唱の扱いが巧いと思います。
それにしてもなんという救いのない音楽。最後のエピローグはヴィアに救いがもたらされたと考える向きもあろうかと思うが、先程も書いたとおり、どうも単純な救済の音楽をブリテンが書いたとは思えない。そうなると、「ピーター・グライムズ」同様、やりきれないほど救いのない音楽ということになる。

演奏に関して一言。ケント・ナガノの指揮が素晴らしい。歌手達もそれぞれ所を得た歌いぶりです。とくに主役級の3人の歌唱は素晴らしく、おおらかなビリー、神経質なヴィア、そして輝ける悪役のクラッガート、それぞれに相応しい歌唱です。
CDにはリブレットは添付されていませんが、ネットで入手することができました。ただ、この英語のリブレットはなかなか読解が難しい。難しい理由はいろいろありますが、まず海軍用語。例えば航海士が水兵を怒鳴りつけるこんな台詞。
Here is the spot, men! Look at the main deck!
Stains on the deck of seventy-four.
Get' em off, you idle brutes!
この”seventy-four”というのが”a type of two-decked sailing ship of the line nominally carrying 74 guns. ”という事がわからないと意味が通じない。
それに、pressとかimpressがいずれも「強制的に徴用する」という意味で使われているのも馴染みが薄い。さらには俗語、とくに罵倒語の類が頻出するが、これも辞書を引いても載ってなくて閉口。
それと、軍艦の中は艦長を頂点とするヒエラルキーが支配しているのだが、登場人物の上下関係がとても判りにくい。中尉と航海長とはどっちが上か、とか。おまけにmidshipmanという幹部候補生みたいなのが出てくるが、こいつが黄色い声のガキのくせにえらく威張っている。で、航海士らがこいつらにいやらしいおべっかを使う。そんなわけで、相当辞書をひかないと理解できませんが、こうして時間をかけてリブレットを読み込むのは作品の理解にとっては非常に良い側面もあって、なかなか得難い経験ではあります。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2013-05-13 00:46 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

新国立劇場公演 ブリテン「ピーター・グライムズ」

そんなに若くもない子に「あの人のやり方は権柄尽くやからね」と言ってみたが案の定通じない。やっぱり死語でした。




新国立劇場がまたしても、とてつもなく素晴らしい舞台を見せてくれました。人間の疎外というテーマを扱って、恐らくベルクの「ヴォツェック」、ショスタコーヴィチの「ムツェンスク郡のマクベス夫人」と並んで、最も20世紀的なオペラだろうと思います。この僅か3年ほどの間にこれらの3つのオペラを高品質な舞台で観ることができたのは何と言う幸運だろうか、と思います。実は私が観た14日の公演は最終日。これが最終日ではなくて、まだ残りの公演の残席があればもう一度観ただろうと思う。それが出来なかったことが悔しく思われる程、今回の舞台に関しては音楽・演出とも言うことがない。


  2012年10月14日
    ピーター・グライムズ:スチュアート・スケルトン
    エレン・オーフォード:スーザン・グリットン
    バルストロード:ジョナサン・サマーズ
    アーンティ:キャサリン・ウィン=ロジャース
    姪1:鵜木絵里
    姪2:平井香織
    ボブ・ボウルズ:糸賀修平
    スワロー:久保和範
    セドリー夫人:加納悦子
    ホレース・アダムス:望月哲也
    ネッド・キーン:吉川健一
    ホブソン:大澤建
    指揮:リチャード・アームストロング
    演出:ウィリー・デッカー
    合唱指揮:三澤洋史
    合唱:新国立劇場合唱団
    管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団

歌手の中ではタイトル・ロールを歌ったスチュアート・スケルトンがずば抜けていました。野卑な顔立ちに羆のような巨漢、まるでこの役を演じるために生れてきたみたいだ。この声は些か荒削りで、正直なところ最終日ということもあってか、ちょっと疲れが感じられたが、通常ならば瑕と感じられる声の乱れさえ役柄によく合っている。まるで粗い麻布の手触りのよう。ウィリー・デッカーの演出は第2幕第2場、ピーターが少年を虐待する場で、最初は恐怖に逃げ回っていた少年が次第にピーターに懐き、しまいには彼にまつわりつくという設定で、ピーターの異常な性格を和らげ、物語を罪なき者が共同体から疎外される悲劇へと単純化している。以前の投稿(2012.9.23.)でも書いた通り、このオペラからペデラスティの要素を取り除くのは、あまりに物語を皮相的に見過ぎることになりかねないと思うが、スケルトンの歌を聴いていると案外これでいいのかも、と思います。単純で粗野な人間がふとした偶然から、徹底的に人々から排斥されるようになる恐ろしさ、そこに照準を合わせるために敢えてピーターの性格の異常さを抑えたということなら、この演出の狙いは十分成功していたというべきだと思う。もしピーター役がもう少し神経質で性格的な側面を強調するタイプの歌手であれば、ここまでの歌手と演出の一体感というのは感じられなかったかもしれない。また、物語の単純化に物足りない思いをしたかもしれない。そういう意味で、今回の公演を成功に導いたのは一にも二にもスケルトンの声とその体躯から滲み出る人柄、ということになるだろう。
ピーター役が凄過ぎて他の歌手は少し割を食った感じですが、エレンを歌ったスーザン・グリットンはなかなか素晴らしい歌手だと思いました。落ち着きがあって暖かい声に、ふと往年の名花ヘザー・ハーパーを思いだしたほど。刺繍の歌に思わず涙がこぼれそうになりました。
バルストロードを歌うジョナサン・サマーズは悪くはないが声量が少し物足りない。これも前の投稿に書いたとおり、このバルストロードという役はジョージ・クラブの原詩の父親が投影されているのだから、やりようによってはピーターを抑圧するもの、ピーターにとって「去勢する父」となりうる役柄ですが、この歌手では(良くも悪くも)そこまでの連想は湧かない。あと脇役の中ではネッドやボブ、スワロー、ホブソンら男性陣は可も無く不可も無く、対するにアーンティ、ミセス・セドリー、2人の姪はいずれも優れた出来で、第2幕第1場の女ばかりの四重唱は素晴らしかった。この2人の姪はCDで音だけ聴いていると、どういう役柄なのかイメージが湧かなくて困るのだが、今回の演出のような蓮っ葉で、下層階級故村人からバカにされる役というのはああなるほど、と目を開かれる思いがします。
今回の公演が成功したもう一つの要因は合唱の素晴らしさ。この合唱団が凄いのはいつものことだが、今回ほどその威力を見せつけたこともないのではないか。第3幕第1場終わりの凄まじい合唱、ピーターを追い詰め、エレンを絶望の淵に追いやる村人の悪意には本当に身の毛がよだつ思いがします。合唱の動かし方はやや整然としすぎている感じもして好き嫌いが分かれるところだと思う。私はもうすこし無秩序感があったほうが良いと思ったが、今回の演出の眼目は先程も書いたとおり、ピーターを徹底的に疎外し、苛め抜く群衆という構図に重きを置いていて、エレンやバルストロードですら一歩間違えばこの群衆の敵意の的になってしまうところが何とも恐ろしいと思わせる。そういう意味では、この非人間的ともいえる群衆の動かし方はそれなりに筋が通っていると言えます。
舞台の装置は斜めに傾いだ舞台に、教会やパブを表す二枚の巨大な壁、それに必要最小限の机や椅子といった小道具。高度に抽象化されているが、よそよそしさはなく、悲劇が心に沁み入る邪魔立てをしない。素晴らしい舞台だと思います。舞台も衣裳も黒を基調にしているが、第3幕第1場のダンスパーティーの場面のみ、娼婦らと思しき女達が真っ赤なドレスを着て猥雑さを振りまく。思うにピーターの粗暴さと異常な性癖は、この演出ではピーターをとりまく群衆のいかがわしさに転換されているようだ。本当のところは、ピーターの悲しみの背後にはブリテンその人の性的マイノリティ故の悲しみが横たわっていて、その両者を繋ぐものとしてピーターのペデラスティ(それは決して単純な同情に値するものではなくて、むしろ忌まわしく目を背けるべきものとして描かれる)があったはずだが、今回の演出は良くも悪くもその忌まわしさはピーターから群衆のほうにシフトされていて、偶々人々の敵意の対象となったピーターとエレンの悲劇に収斂され、単純化されている。しかし繰り返しになるが、それが物足りなさにつながるのではなく、スケルトンという稀有な歌手の存在によって、本当に心を揺さぶられる悲劇に昇華していたように思う。おそらくこのオペラに馴染みのない聴衆からすれば、まるで昨今のイジメ問題にも低通するような今回の演出は初めて接するには良かったのだと思う。しかし、もしピーターが劇中で徹底的に少年を虐めぬいたとしたら?第2幕第1場で(ト書きに忠実に)もしピーターがエレンを平手打ちにしていたとしたら?観客の印象はかなり変わったはずだ。今回のピーターの悲しみに私自身も深く同情し、感動したけれど、それだけがこのオペラの十全な姿ではないことを知っているのと知らないのとでは大違いだろう。だからこそ、そんなにしょっちゅう取り上げられる演目ではないが、何時の日か、異なった演出でもう一度見てみたいと強く思わずにはいられない。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2012-10-17 00:22 | 演奏会レビュー | Comments(0)

ブリテン 「ピーター・グライムズ」 作曲者指揮コヴェント・ガーデン王立歌劇場管弦楽団(その2)

もう今の若い子、ヘルタースケルターときいてビートルズを真っ先に思い浮かべるってなこともないのだろう。でもビートルズのヘルタースケルター、今聴いても衝撃的なくらいかっこいい。





ブリテンの音楽そっちのけで、もう少し脱線めいた話を・・・。「ピーター・グライムズ」のリブレットを読んでいて、今一つ実態の判らない言葉が頻出します。一つはapprentice、もうひとつはworkhouseという言葉。前者は「徒弟」、後者は辞書を引くと「貧民用の収容作業施設」と書いてあるが、リブレットを見る限りいわゆる孤児院のようなものか、と思われます。ピーターはこのworkhouseからapprenticeを買ってきて、自分の仕事を手伝わせているという訳です。ピーターの身を案じる心優しい寡婦エレンは、自ら新しい徒弟をピーターの為に調達しますが、村人の反応はこれから重労働に就く少年への同情ではなく、エレンが嫌われ者のピーターに過度の同情を寄せるあまり自らの評判を落とすことに対する懸念と思われます。大勢いる脇役で、ボブ・ボールズという男だけが、
Is this a Christian country?
Are pauper children so enslaved
That their bodies go for cash?
と、この人身売買めいた行いを非難しますが、ボールズ自身は”Methody wastre”(メソジストの屑)と呼ばれており、決して人々の共感を得ていません。
ご存じの方も多いと思いますが、18世紀の終わりから19世紀の初め、まさにピーター・グライムズの時代にイギリスで起こった産業革命において顕著なことは「児童労働」の存在でしょう。19世紀初頭の熟練成人労働者の平均賃金は20~25シリングであったのに対して、紡績工場の糸つなぎ工や清掃工に携わる児童労働者のそれは平均3シリングであり、これが工場労働者の実に4割を占めていたといいます。しかも彼らの相当部分は工場の正規雇用ではなくて、職工の私的な雇用、まさに徒弟として劣悪な労働条件に甘んじており、その職種は工場だけでなく炭坑作業にまで及んでいたそうです。彼らの労働実態は悲惨極まるものだったようですが、ある意味増大する貧困層の子女を社会の経済サイクルに取り込む上で、当時としては必要不可欠なものだったのでしょう。
この産業革命に遡ること一世紀、あの「ガリヴァー旅行記」のジョナサン・スウィフトが1729年に著した著作に『貧家の子女がその両親並びに祖国にとっての重荷となることを防止し、且社会に対して有用ならしめんとする方法についての私案』(邦訳岩波文庫『奴婢訓』所収、深町弘三訳)というのがあり、スウィフトはその中で当時アイルランドで深刻な社会問題となっていた貧民児童の出生数を毎年12万人と試算し、その内2万は繁殖用に残しておいて、残り10万を食用として富裕層に提供するという提案を行なっている(皮肉なのか大真面目なのか判らないが)。食用としては満1歳頃が最も美味であるとして、それまでに母親が要する養育費に始まり、その調理法まで微に入り細に入り書き連ねています。1世紀後のイギリスの貧民問題は、産業革命のせいでアイルランドの比ではなかったと思いますが、児童労働はこのスウィフトの提案を多少なりとも人道的に緩和した上で、この問題を解決しようとしたものだとも言えそうです。オペラの舞台となる地方都市オールドバラで、この貧民問題がどれほど苛烈なものだったのかは判りませんでしたが、このオペラを聴いて感じる一種の違和感、少年に対する人々のシンパシーの薄さについて少し考えてみたという次第。

さていよいよブリテンの「ピーター・グライムズ」の音楽語法について感じたことを記しておこう。因みにこれまでブリテンを真剣に聴いた記憶はあまりありません。テレビで観た「戦争レクイエム」(随分前にF=ディースカウとユリア・ヴァラディが出演していたもの)と、あとは中学だか高校だかで聞かされた「青少年のための管弦楽入門」、知人のアマチュア・オケの演奏会で聴いた「シンプル・シンフォニー」くらいなものです。そのどれもが既に忘却の彼方に消えています。とてもじゃないが、ブリテンの音楽語法云々と大上段に構えて御託を並べる資格はないことをお断りしておきます。

①節約された、または禁欲的な管弦楽法
歌手が歌うところはとにかくオーケストラが薄く書かれているようだ。これは一つは英語が客席にきちんと届くように、という配慮でしょう。イタリアやドイツの、大音響をバックに太ったプリマドンナが吼えまくるタイプの音楽とは全く異なった世界という感じがしますが、それだけではない。通常ならばここぞとばかりにオーケストラを鳴らし、観客の感動を煽るべきところで、オケが完全に沈黙してしまう。例えばプロローグ後半、ピーターとエレンの二重唱。あるいは第3幕第2場、ピーターのモノローグからバルストロードによる自殺の勧告に至る長い場面。特に後者の最後、
Balstrode (goes up to Peter and speaks)
Come on, I’ll help you with the boat.
Ellen
No!
Balstrode (speaking)
Sail out till you lose sight of land, then sink the boat.
D’you hear? Sink her.
Goodbye Peter.
の部分は歌うことすら止めて話すだけ。芝居のクライマックスなのに。こんなオペラ、ちょっと他に思いつきません。これは作曲者の含羞と野心の綯い交ぜになった心理だろうか。よりによってこんなところでお涙頂戴の音楽を書きたくないという気持ちと、それでいて観客を最大限に感動させようという野心。ともかく後者は大成功していて、CDで聴いていても恐ろしさに身も凍り、緊張が極限にまで高まった後に、おずおずとオーケストラが海辺の夜明の音楽を鳴らし出すと深い感動に襲われます。天才的、と言っていいのかどうか判りませんが、とにかくえらいものを聴いてしまった、と率直に思います。

②雄弁極まりない間奏曲
ブリテンのオーケストラ書法の確かさは6曲ある間奏曲で遺憾なく発揮されます。そのいずれも極めて優れた音楽ですが、そこに濃厚に漂う海の気配が本当に素晴らしいと思います。特段描写的という訳でもないのに、潮騒や風の音、光の濃淡まで感じさせる。オーケストラによる海の気配の表現というと、いつも私はヴェルディの「シモン・ボッカネグラ」第1幕のアメーリアのアリア、あるいはベルリオーズの「トロイの人々」のディドーとエネアスの二重唱を思い出すのですが、この間奏曲は二人の天才の作品の系列に附け加えてもいいと思います。

③ピーターとエレンの歌の抒情性
オペラは基本的にアリアやレチタティーヴォといった区分なく進行し、このオペラがベルクの「ヴォツェック」に深くインスパイアされたという事情を物語っています(その意味で、ショスタコーヴィチの「ムツェンスク郡のマクベス夫人」とも近い位置に立っています)。しかし、主役の二人については、まるでプッチーニのオペラのように、独立させて歌える体裁をとった歌が随所に散りばめられています。それはいずれも抒情性の勝ったもので、アリアというよりはSongと呼ぶに相応しいものです。例えば第1幕第1場のエレンの歌うLet her among you without fault(あなた方の中で罪のない者だけが)や、第2場でピーターの歌うNow the great Bear and Pleiades(おおぐま座とプレアデスが)、第2幕第1場のエレンのGlitter of waves(波のきらめきは)、同第2場のピーターのIn dreams I’ve built myself some kindlier home(夢のなかで俺は家を建てた)、第3幕エレンEmbroidery in childhood was(子供のころ刺繍は)等々、メロディーメーカーとしての類まれな才能を示して余りあるものがあります。別にブリテンがイギリス人だから、というのでなく、(歌詞が英語だからというのはあるが)、アンドリュー・ロイド・ウェッバーに真っすぐ通じているような、そういった才能を感じます。

ここでちょっと脱線。エレンの歌の、
Let her among you without fault
Cast the first stone
という台詞はもちろんヨハネの福音書第8章の引用で、自分をキリストになぞらえている訳ですが、彼女がいかに心のきれいな女性であろうとも、ピーターを男として愛するのではなく、キリスト教徒としての憐れみから愛そうとしたことが最初の大きな躓きであったように思います。皮肉にもピーターは、バルストロードから金や財産など無くてもエレンはお前を受け入れるだろう、と言われて、逆に「憐れみからじゃ嫌だ」と叫びます。
Balstrode
Man – go and ask her
Without your booty.
She’ll have you now.
Peter
No – not for pity!...
このリブレット、私は文字通り猫またぎの名に恥じないくらいには読みこんだつもりですが、本当に良く出来た文学的価値の高いものだと思います。

④俗物たちの俗っぽい音楽と群衆の威圧感
バルストロードを除いて大勢の脇役は多かれ少なかれ、専ら好奇心からピーターを疑い、追い詰める俗物たち。彼らの歌に附けられた音楽は概ね諧謔的であったり通俗的であったりする。例えば冒頭の判事スワローのスケルツォ風の審問の場や、第3幕冒頭、スワローと二人の姪のフォックストロットなど。これが図らずも全体的な観点からは音楽が深刻になり過ぎるのを防ぎ、ピーターとエレンの悲劇を浮き立たせているとも言えます。
それとは別に名前も与えられていない村人、群衆の合唱がオペラでは極めて重要な役割をしています。その集団の性格は一言で言うなら付和雷同。彼らは無邪気にピーターを追い詰め、結果的に徒弟の事故死を招く結果となりますが、そのマッシヴな合唱の威圧感は凄まじく、特に第3幕第1場終盤の合唱はそれまでのジャズ風のフォックストロットと不気味な半音階進行が合わさって圧倒的威力を発揮し、聴いていて鳥肌が立つほど。その劇場的効果は目覚ましく、舞台を観たらどう思うのか、とても楽しみ。

またまた脱線ながら、登場人物の中に「二人の姪」というのが出てきて、セドリー夫人と並んで俗物代表とでもいうべき歌を二重唱で歌う。双子なのかどうかも判らない二人ですが、いつも寄り添って二人で歌う姿はどう見ても双子。双子といえばギリシャ・ローマの昔から神話には夥しい双子が登場して、神秘や超自然的世界を体現するのだが、こちらの双子は完全に神秘性が剥奪されている。にもかかわらず、なぜかこの二人が出てくるとざわざわと妙に落ち着かない。何と言えばいいか、イメージとしてはあのダイアン・アーバスの代表作の双子の姉妹の写真、というより、それを引用したキューブリックの映画「シャイニング」の双子の映像をいやでも思い出します。この姪たちの位置づけというのは正直よく判らないのですが、一抹の禍々しさを醸し出しているのは確か。

通俗的、と言うことに関してもう一点。第2幕第1場、ピーターが自分を責めるエレンに激昂し、平手打ちを喰らわせて歌う、So be it! – And God have mercy upon me!に附けられた音楽、これが続く村人たちの合唱、ピーターとエレンの痴話喧嘩かと喜びはしゃぎまくる下衆な群衆の歌の旋律にモディファイされますが、同じ旋律がその後の間奏曲Ⅳ「パッサカリア」の沈鬱な音楽となり、さらに第2幕の幕切れ、少年が事故死した後の張りつめた音楽の終結部となります。このあたりのブリテンの手腕は並々ならぬものがあって、本当に感服します。汲めども尽きぬ、とはこのこと。

以上、脱線だらけでさぞ読み難かったと思いますが、4つの切り口で「ピーター・グライムズ」の音楽を分析してみました。初演の1945年という時代を考えると、語法としては些か保守的に過ぎる感じもしますが、かといって判りやすい、とか、親しみやすい、という印象はそれ程ありません。むしろ、今回の駄文を書くにあたっては結構な回数繰り返して聴いて、ようやくここまでイメージを固めたようなところがあります。おそらく歴史に残る傑作というのは、そんなに容易く手の内に入るようなものではないと、改めて音楽の難しさと、それを乗り越えて核心に近附いていく楽しさを同時に味わいました。これから暫らく初台での公演の日まで、この音楽から遠ざかって何かが熟成するのを待とうと思います。

演奏について少しだけ。比較の対象も知らないのにこんなことを言ってはいけないが、本当にこれは唯一無二の演奏ではないでしょうか。歌手も脇役の一人一人に至るまで真実に満ち溢れた歌唱。本当はこんな陰惨なオペラ、あまり繰り返して聴きたくもないのだが、聴き始めるともう止めることができません。参りました。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2012-09-25 23:12 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

ブリテン 「ピーター・グライムズ」 作曲者指揮コヴェント・ガーデン王立歌劇場管弦楽団(その1)

”猛反発枕”でyahoo検索したら32,200件もあってがっかり。



10月から始まる新国立劇場新シーズン、トップを飾る「ピーター・グライムズ」の予習をしています。まずは音源の紹介から。

  ベンジャミン・ブリテン「ピーター・グライムズ」全曲
  ピーター・グライムズ:ピーター・ピアーズ
  エレン・オーフォード:クレア・ワトソン
  バルストロード:ジェームズ・ピーズ
  ホブソン:デイヴィッド・ケリー
  スワロー:オーウェン・ブラニガン
  セドリー夫人:ローリス・エルムス
  アーンティ:ジーン・ワトソン
  姪1:マリオン・スタッドホルム
  姪2:イリス・ケルズ
  ボブ・ボールズ:レイモンド・二ルソン
  牧師:ジョン・ラニガン
  ネッド・キーン:ジェラント・エヴァンス
  ジョン:マーカス・ノーマン
  ベンジャミン・ブリテン指揮コヴェント・ガーデン王立歌劇場管弦楽団・合唱団
  1958年12月録音
  CD:DECCA4757713

この1945年に初演されたオペラが、ジョージ・クラブGeorge Crabbe(1754-1832)のバラッド(物語詩、譚詩)「町」”The Borough”(1810年出版)の中の”Peter Grimes”を題材としていること、モンタギュー・スレイターの台本から少年愛的な描写を作曲者がカットしたことはwikipediaを見れば判ることですが、クラブの原作は日本では殆ど知られていないどころか、私の知る限り翻訳すらなされていないようです。作曲者が19世紀初頭に書かれた原作のどこに霊感を得たのか確認することは決して無駄なことではないと思います。幸いなことにこの原作はProject Gutenbergというサイトで容易に検索することが出来ました。
http://www.gutenberg.org/dirs/etext04/gcrf10h.htm
オペラのリブレットも全く一かけらの救いもない物語ですが、オペラに登場するピーター・グライムズが単なる粗暴な漁師ではなくて、人間的な感情を持ち、観客の感動をもたらす人間であるのに対し、原作のピーターは父に反抗してひたすら悪の道に染まり、最期は父の亡霊に苛まれて死ぬという設定。400行近い長詩は読むのにかなり骨が折れましたが、ざっとこんな内容。

ピーターの父は貧しい漁師だったが、敬虔でもの静かな老人であった。一人息子のピーターは父に烈しく反抗し、手を上げることすらあったが、父が死ぬと自分の行いを恥じて烈しく泣いた。ピーターは貧しく、漁だけでは暮らしていけないので次第に盗みを憶えた。悪行が募るに従い彼はますます人嫌いになっていった。ある日ピーターは孤児院から少年を買って徒弟にし、衝動のままに彼を折檻した。少年はろくに食事も与えられず、必要に迫られて嘘をつき盗みをしたが3年後に死んだ。町の人々はピーターを疑ったけれど彼が少年を殺したという証拠はなかった。ピーターは再び徒弟の少年を買ったが彼は船のマストから墜ちて死んだ。この時も人々は疑ったがどうすることもできなかった。以前にも増して良心を失ったピーターは3人目の少年を徒弟としたが、烈しい仕事とピーターの折檻によって少年の足は不自由になった。ある日、ロンドンに魚を売りに行った帰りの船が嵐に遭い、少年が死んだ。ついにピーターは法廷に召喚されたが最後までしらを切りとおした。判事はピーターに少年を雇うことを禁じた。それ以降嫌われ者のピーターは一人で漁をすることになり、孤独のなかであらゆるものを呪い、毒づくようになった。病を得たピーターは教会附きの病院に連れてこられた。人々はピーターへの疑いは晴らしていなかったが彼の運命には同情していた。司祭が呼ばれ、ピーターの懺悔が始まった。ピーターは漁の最中に海で父と少年たちの亡霊を見た。彼らは来る日も来る日もピーターを苛み、船から海に飛び込むよう唆すのだった。死の床で人々に囲まれ、ピーターは「奴らが来た」と叫んで死んだ・・・・・

文学的素養に乏しい私が言うのもなんだが、私にはあまり出来のよいバラッドには思えなかったのですが、ブリテンがこの物語の何処に惹かれたのか、ポイントは父との確執(というか、父性に対する嫌悪)と少年への折檻の嗜虐的な描写の2点ではないでしょうか。ブリテン自身がこのバラッドを読んで衝撃を受けたにも関らず、オペラでは父親に関する描写が一切出てきません。その代りに退役した船長であるバルストロードという人物がピーターを諌め、最後は彼に自殺を促します。私はオペラを聴きながら、最初の内どうして作曲家はピーター・グライムズをテノールの役としたのか、イメージが合わず不思議な感じがしていましたが、原作を読み、バルストロードに投影された父性への嫌悪を重ね合わせることで、これは「罰を下す父=バリトン」と「怒れる息子=テノール」という構図に則っているのだということが判りました。バルストロードを単に厳しくも慈愛に満ちた老人と捉えるだけではなく、ピーターのアンビヴァレンツの対象、フロイト流にいえば「去勢する父」と捉える見方もできるわけです。
少年に対する虐待については、もちろん原詩ではあからさまにそれが性的欲望と結びついたものだとは書かれていませんが、読めば当然過ぎるほどそうだと判るように書かれています。Wikipediaにあるスレイターの初稿の「少年愛的な描写」がどのようなものか判りませんが、ブリテンの「検閲」は自らの同性愛的性向の隠蔽というよりは、この物語を舞台にかける為に必要欠くべからざる措置であったというべきでしょう。戦後、少なくとも舞台の上では様々なタブーが許されるようになったとは言え、少年に性的暴行を加えて死に至らしめるというのではさすがに具合が悪いでしょうから。もっともリブレットを注意深く読むと、「検閲」を免れた箇所が幾つか見つかります。プロローグの法廷の場面、判事のスワローの台詞、
There's something here perhaps in your favour. I’ m told you rescued the boy from drowning
in the March storms.
スワローは単にピーターが少年を虐待しているのではなく、そこに歪んではいるが紛うかたない愛があるのを(恐らく無意識の内に)感じています。だからこそ、スワローはピーターに次のような審判を下します。
Peter Grimes, I here advise you – do not get another boy apprentice. Get a fisherman to
help you – big enough to stand up for himself.
この審判はピーターが有罪になるのを期待していた村人をがっかりさせますが、少年ではなく大人の徒弟を雇え、というスワローの審判は実に的確であったというべきでしょう。実際、ピーターの無実を信じるエレンが別の少年を連れてきたことから悲劇が始まったのですから。このオペラを観る者はきっとピーターの不運に同情し、彼を取り巻く不条理に怒り、最後は深い感動を得られるはずですが、私はたとえへそ曲がりと言われようと、このオペラの根底に隠されている、ある忌まわしいもの、不気味なものから目を逸らせてはならないと思います。このオペラに込められたブリテンのヒューマニズムは本物だとしても、それだけを見ていたのでは、あまりにも皮相的な理解と言わざるを得ないと思います。

ブリテンの音楽そのものについては次回に。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2012-09-23 19:39 | CD・DVD試聴記 | Comments(4)