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三輪眞弘の個展を聴く

紅白は家人が観るのでなんとなく目に入るだけなんだけど、SEKAI NO OWARIだけは目が耳が否応なく吸い寄せられる。なんかJ-POPで世界観みたいなものを感じさせるって凄いよね、知らんけど。





連休をだらだら過ごしていたらいつの間にか年が明けている。とりあえず去年聴いた最後のコンサートの備忘を書いておこう。


 2016年12月25日@フェニックスホール
 「声のような音/音のような声」三輪眞弘作品集
 (1)言葉の影、またはアレルヤ
 (休憩)
 (2)独唱曲「天使の秘密」
 (3)再現芸術における幽霊、またはラジオとマルチチャンネル・スピーカーシステムのための新しい時代
 (4)独唱曲「訪れよ、我が友よ」+「新しい時代」
 (休憩)
 (5)フォルマント兄弟の「スターバト・マーテル」
 (6)合唱曲「新しい時代」The New Era
 (7)ポップソング wach jetzt auf!

 丸谷晶子(Sp)
 岡野勇仁(MIDIアコーディオン)
 山名敏之(cemb)
 Orphe Choirs(合唱)
 大阪大学「芸術計画論」受講者有志(kb)

三輪眞弘の作品をライブで聴いたのは3回目。今回の作品はいずれも三輪眞弘が2000年に書いたモノローグ・オペラ「新しい時代」のスピンオフ作品で、最初の「言葉の影、またはアレルヤ」がオペラの前に書かれた以外はすべてオペラ完成後の作品。このオペラについて私はなにも知らないのだが、作曲者自身のトークから推し量ると、90年代後半に日本中を震撼させた二つの事件、すなわち1995年の地下鉄サリン事件と97年の神戸連続児童殺傷事件、それにまつわる「言葉」に対する思索がきっかけとなって作曲されたのだという。演奏に先だって企画・構成の伊東信宏氏と三輪氏とのトーク。作曲者はけっこう饒舌な方であるがトークはけっして判りやすい内容ではない。私の受け止めたままにあえて要約すれば、作曲者はあの教祖の名前を連呼する、一度聴けば忘れられない歌であるとか、14歳の少年による警察やマスコミを愚弄する一連の手紙であるとか、こういったテクストのもつ強度、明晰であり恐るべき訴求力をもつ言葉に対する羨望と絶望の入り混じった感情を吐露されていたように思う。もうひとつトークで興味深かったのは、この人は「歌」を書くというのがそもそも苦手である、個人の感情をメロディーに乗せて公にするということが出来ない、という話に続けて、しかし架空の教団の布教歌であれば大丈夫だと話していた。今回の最後のポップソングがまさにそれ。そういえば前回私がこの人の個展を聴いたときも、この人の言葉というものに対する強いこだわりを感じたのだが、今回の個展はそこに焦点を絞った好企画であったと思う。
実はこの個展を聴いて、私も音楽と言葉について何かしら思索の跡を言葉にしてみたいという誘惑に駆られていた。だがこの人の個展はプロの音楽家やライターがけっこう集結する場でもあるらしくて、例えば白石知雄氏の次のような文章を読むと素人が出る幕というのはほとんどないと思い知らされる。


と言う訳で、今回もそれぞれの作品の中でなにが起こったのかを書き残すに留めておきたい。
まず最初の「言葉の影、またはアレルヤ」について。会場の照明が落ちると、4人の黒い衣裳のキーボード奏者が現われ、互いに向き合って舞台の上に座る。なにかの儀式のように一礼。やがてミニマル音楽のような旋律の断片をそれぞれが弾き始め、少しずつ変化していくが、その変化のスピードは気が遠くなるほど遅い。よくあるミニマル音楽のモアレ状の変化よりも、キーボードの発する音のノイズ成分の変化のほうが結果として印象にのこる。これが30分ほども延々と続く間、何度か意識が飛びそうになるが、途中で数回ノイズが凝り固まった末に「ア、レ、ル、ヤ・・・」という囁きに聞える瞬間が出てくる。私は最初4人の演奏者が囁いているのかと思ったがどうもそうではないらしい。一体どのような仕組みなのか、これもフォルマント合成音声の一種なのだろうが、私はアメーバのように不定形な動きをしていた粘菌が、時期が来ると子実体を作って胞子を散布する映像を思い浮かべていた。機械の発する言葉は不気味であるが、これがなぜ不気味に思われるのかというのも考えてみると不思議ではある。フロイトの『不気味なもの』を再読したくなった。
第二部をとりまく二つの歌曲、「天使の秘密」と「訪れよ、我が友よ」+「新しい時代」はいずれもPCから流れるミニマル風の伴奏に乗せて歌われるもの。最初の「言葉の影・・・」もそうだが、このミニマルを構成する音楽の断片はいずれも「神の旋律」と呼ばれていて、オペラ「新しい時代」の基本原理となっている。歌そのものは何の変哲もない、どちらかといえば単純なものだが、なんとなく感じられる落ち着かなさについては最後のポップソングと併せて後述する。
第二部の、というよりこの個展の中心に位置づけられる「再現芸術における幽霊、またはラジオとマルチチャンネル・スピーカーシステムのための新しい時代」は大変興味深い作品で、これを聴けただけでも元が取れた感じがする。作曲者自身が舞台に一台のラジカセを置きに現われ、スイッチを入れて立ち去る。このラジカセと客席を取り囲む6チャンネルのスピーカーから、繁華街の雑踏の物音が聞こえてくる。やがて教団の信者と思しい若者のモノローグがあちこちから聞こえ、最初は聴力検査かと思うような微弱な音で教団の神の旋律が鳴っていたのが次第に大きくなっていく。殆ど真っ暗だった会場は、背景の壁がゆっくりと上がるとフェニックスホール自慢のガラス張りの向うに煌めく大阪の夜景が現われ、やがてまた背景の壁が降りて闇に閉ざされる。聴き手としては当然ながら、生の音声、アク―スティックな楽音が一切ない大作をコンサートの真ん中に配置した意図を探らずにはいられないのだが、何分言葉が熟して行かないので別の機会に譲りたい。
第3部はチェンバロとMIDIアコーディオンとソプラノによる「スターバト・マーテル」から始まる。ペルゴレージの「スターバト・マーテル」の最初の二重唱を、生身の歌手とMIDIアコーディオンのフォルマント合成による音声が歌うという趣向。MIDIアコーディオンの不安定さというのは、アコーディオンのボタン操作で子音と母音を指定することの非合理的な指使いにあるように見えた。もちろんこの不安定さそのものが作曲者の狙いなので、聴衆としてははらはらしながら(時に笑いをこらえながら)聴いているしかない。
合唱曲「新しい時代」も一筋縄ではいかない。一見活気に満ち溢れた布教ソングのように始まるが、その錯綜ぶりはなかなか半端なものではなくて、それまで伴奏ないし背景音として聴いてきたミニマル音形が合唱で展開されているかのようだ。
最後のポップソングも歌手とMIDIアコーディオンによる重唱(?)。明確な調性に基く音楽を現代音楽というシーンの中に置くことの、本質的ないかがわしさといったものを、架空の宗教団体のイニシエーションに置き換えるという意図、あるいは(作曲者は一種の照れというのか韜晦というのか、「歌」と言っていたが)調性音楽はもはや「夢落ち」のレベルでしか書けないという問題意識はここにきて明白。

私はこの雑文を専ら自分の備忘として書いていて、この場に居合わせなかった方にそこで得られた感興について伝えるのは本当に難しいことだと思う。しかし、私は2016年に聴いたすべてのコンサート(本当に恥ずかしいくらい少ないのだけれど)の中では、先日の京響の「グルッペン」に次いで印象深いものとして、つまり3月の「イェヌーファ」公演や、7月の「真夏の夜の夢」公演を凌ぐほどの面白いものとして感じ、受け止めたことを書きとめておきたい。
(この項終り)

by nekomatalistener | 2017-01-03 13:21 | 演奏会レビュー | Comments(0)

TRANSMUSIC2014 三輪眞弘を迎えて

映画「美女と野獣」が話題に。でもホントは、「野獣が王子様に戻ったので、野獣の毛深い見てくれと優しさにギャップ萌えしていたケモナーのベルはちょっとがっかりしましたとさ。」というのが正しいエンディングだと思うんだがなぁ。




8月のシュトックハウゼン「歴年」コンサートで、二日目の後半に演奏された三輪眞弘の「59049年カウンター(2014)~2人の詠人、10人の桁人と音具を奏でる傍観者達のための」を聴いて(観て)以来、ずっとこの人のことが気に懸っていました。今回、ほぼこの人の個展といってもよい演奏会を大阪で聴くことが出来たのは思いもよらぬ出来事でした。

 2014年11月8日@いずみホール
 サントリー芸術財団コンサートTRANSMUSIC2014

  クラーレンス・バルロ
  ナイルの1月(1984) 
   室内オーケストラのための
    指揮:野平一郎 
    いずみシンフォニエッタ大阪

  三輪眞弘
  ひとのきえさり、藤井貞和の詞による序奏と朗読(2013)
   シンギング・マシン、アイントンと9人の演奏者のための
    シンギング・マシン、アイントン:マーティン・リッチズ
    いずみシンフォニエッタ大阪

  (休憩)

  フォルマント兄弟
  歌謡曲「夢のワルツ」(2012/2014)
   MIDIアコーディオンとオーケストラのための
    指揮:野平一郎
    MIDIアコーディオン:岡野勇仁
    ギター:佐近田展康
    いずみシンフォニエッタ大阪

  三輪眞弘
  万葉集の一節を主題とする変奏曲(2014)
   MIDIアコーディオンと管弦合奏のための
    MIDIアコーディオン:岡野勇仁
    いずみシンフォニエッタ大阪

  三輪眞弘
  海ゆかば <万葉集の一節を主題とする変奏曲>内包曲(2014)
   MIDIキーボードとパソコンのための
    MIDIキーボード:岡野勇仁
    

大阪という場所柄、このようないわゆるゲンダイオンガクのみの企画を実現させた関係者の蛮勇には敬意を表する次第だが、私の個人的な感想はなかなか言葉になりません。前半の「ひとのきえさり」では作品のそこかしこに3.11の終末論的、黙示録的イメージが垣間見えるのが正直煩わしく、後半「万葉集の一節云々」は太平洋戦争末期のイメージがかなり直截に表現されていて、青臭すぎて政治的メッセージにもならない京大あたりの学生の立て看をみているような鼻白む思いがしました。にもかかわらず、「音楽」としてみた場合に、これらの作品がとんでもない魅力を放っているというのも事実であって、結局のところ、「面白かった」という陳腐な感想に行きついてしまうのが少々歯がゆいところ。もっとも、音楽の定義にもよるけれど、「聴く」というよりは体感する音楽、ひとつのフォルムに収まって自律し、自己完結しているものではなく、ある種のインスタレーションのように「開かれた」それ、という気がします。それが何に向かって開かれているのかは議論のあるところでしょうが、まだうまく言語化できませんがその一部が時事問題というわけなのでしょう(ホントはこういった素人の備忘兼プログ論評というのは、プロの批評なんかが出回る前にアップするに限るのだが、今回ぐずぐずしているうちに白石知雄氏とか大久保賢氏あたりがガンガン書いているのでやりにくくて仕方がない(笑))。

三輪眞弘の音楽の方向性あるいはモティーフとして、司会役の伊東信宏氏が3点にまとめて紹介されていましたが、それによるとひとつは「夢落ち」という要素、つまり「ギヤック族のこれこれこういう儀式の音楽を再現した・・・・という夢を見た」というパターンで紹介されるような、架空の滅ぼされた先住民族あるいは古代民族の音楽や儀式。二つ目はアルゴリズムによる音楽、ある規則を決めておけばパソコンでオートマティックに生成されるような音楽。三つ目は言葉というものに対するこだわり。たとえば機械にことば(人工音声)をしゃべらせるというもの。これはこの通りだと思うが、もうひとつ4つ目の要素が反原発とか反戦のような要素。音楽と政治思想との関わり合いというのも重要かつ困難なテーマだが、私は素直に、相性が悪いもん同士、という感じがします。

演奏順に備忘を書いていきますが、ます最初のバルロの「ナイルの1月」、構成としてはまず最初に7人の弦楽器奏者の奏でるハーモニックスとクロタルのような鈴の音のゆるやかな部分が随分と長く続き、やがて2本のソプラノ・サキソフォン、ピアノとその他の打楽器が加わります。途中、ロマンティックな弦楽合奏や、租界のナイトクラブの音楽みたいな妙ちきりんな音楽を挿んで、前半が回帰しますが、最初そこはかとなく感じられ、中間のエピソードであからさまであった調性感は次第にサックスの阿鼻叫喚に掻き消されていくというもの。演奏後に三輪氏のトークによってその作品を組み入れた理由の種明かしがされた訳だが、それによると、三輪氏がドイツで勉強していた頃、たまたまラジオでこの作品が流れていて、それ以来バルロとは直接の子弟関係はないが最も影響を受けた作曲家として今日に至っているということでした。耳で聴いただけでは判りませんが、この音楽全体がIm Januar am Nil という破擦音のない音素で構成された詩句(あとに続きがあるそうだが)をある規則というかアルゴリズムによって音化したものだという。つまり若き日の三輪が当時やろうとしていたことの全てがここでなされていた、ということだそうだ・・・。しかし、そういった種明かしがなくても、長い時間を掛けて次第にカオティックになっていく音楽を私は面白く聴きました。

二曲目の「ひとのきえさり」は、先にも書いた通り、聴きながらちょっと困惑もしましたが、音楽として見るとこれほど面白いものもないと思います。プログラムには藤井貞和による「ひとのきえさり」という3.11にインスパイアされた詩が掲げられており、それを構成する7音節からなる詩句が音化されています。舞台の上手では5人の管楽器奏者が円陣を作って演奏しますが、この5つの楽器がアイウエオの母音をそれぞれ担い、子音に相当する12の音程を詩句に応じて奏するというもののようだ。舞台下手にはシンギング・マシーンなる奇妙な機械が置かれており、アクリルの筒のなかを舌や唇に相当するブイのようなものが浮き沈みし、4人の女性がこれを取り囲んで、ある規則にしたがって子音パイプ(中空のプラスチックのパイプで膝を叩くとそれぞれ異なった音程の音がなる)を叩きながら、隣の奏者といそがしくそのパイプの受け渡しを行う。下手の奥では機械の考案者であるマーティン・リッチズがシンギング・マシーンを操作している。やがて奏者たちが儀式のように黙礼して舞台を去ると、舞台中央にならべられたアイントン(四角い中空の2.7mほどのパイプが3本並べられ、低周波の唸り(Ein Ton といいながら3本のパイプの音が少しずつ周波数が違う)が起こる。シンギング・マシーンが詩句を話す。
こうしてあえて自分の備忘として書いているが、おそらく読んだだけでは何のことやら、という感じでしょうね。判りやすい喩えかどうか自信はないが、言ってみれば「明和電機のライブ」と「ミクロフォニーⅠ(シュトックハウゼン)のライブ」を足して2で割ったような感じ。いや、この儀式の禍々しさはどちらに例えても適切ではないのですが、こんな喩えしかちょっと思い浮かびません。

休憩後の「夢のワルツ」。作曲者としてクレジットされているフォルマント兄弟は三輪眞弘と佐近田展康のユニット名だが、この二人はパンフレットによると父親違いの異母兄弟だそうだ。つまりアカの他人ですね。人工音声で歌うアコーディオンがゴージャスなバックバンド(これを現代音楽のスペシャリスト軍団が演奏するという可笑しさ)にあわせて昭和レトロなムード歌謡を歌うという趣向。MIDIアコーディオンの関節がはずれそうな頼りなさに、聴いている間中、私はおかしくて仕方がありませんでした。作曲者のトークによれば、よく初音ミクとの比較について訊ねられるということだが、三輪の繰り出す音声機械はあのボーカロイドのような完成度はなく、操作する人がまちがえば機械もまちがえるというところがミソのようだ。たしかに、音程も発音もやたら怪しい不完全な楽器にしかできない表現もあるというのは本当だと思います。

そしていよいよ新作の初演。「変奏曲」と「海ゆかば(内包曲)」は続けて演奏されます。舞台の上にオーケストラの団員がてんでばらばらの方向に向いて座る。指揮者がいないかわりに各人の譜面立てにはそれぞれ一台ずつスマホが置かれていて、一つのPCで制御された各団員バラバラのテンポのメトロノーム(光の点滅信号)を受信し、点滅している。風鈴がなり、アコーディオン奏者が演奏を始めると、このメトロノームに従い各奏者が微妙にずれた合いの手を入れる。ひとしきりそれらが続いた後、演奏をやめた奏者たちが密やかに聞き取れないぐらいの声で特攻隊員の手紙を朗読する。戦時中のラジオ放送のように、「海ゆかば」がテープで流れると、アコーディオン奏者が人工音声で歌うキーボードで海ゆかばを弾く。しかし、最後に魔法が解けたようにキーボードの音声への変換が途絶え、不協和音がいくつか鳴って終わる。
ちょっとコメントに困るというか、その時感じたことが批評として私の中で内面化していかない。いわゆる大本営発表というやつへの反発、社会の同調圧力への反発がばらばらのメトロノームの発想の源となっているようだが、縦が合わなければ合わないほど、音程の怪しい(妖しい)アコーディオンの合いの手としてはより「音楽的に」響いてしまうという皮肉。究極の規則性と究極の無作為性(例えばケージの「易の音楽」!)がしばしば似通った相貌を呈するという、戦後70年繰り返し繰り返し確認された音楽行為をまたしても追体験させられるというか、どんなに規則を捨て去っても音がある限り、音楽として成り立ってしまうという音の本質の強靭さを突きつけられるというか。そんなことは作曲家たるもの百も承知のはずだが、目の前で起こっていることはなんなのか。政治的なるものに惑わされて音の本質を誤ったのか。
こういった音楽に「海ゆかば」をモチーフとして使うというは、はじめのうち如何なものかという思いを禁じ得なかったけれど、けっして茶化さず玩具にせず、粛然と終わるところは辛うじて好感を持ち得たところです。しかし、この日いずみホールで海ゆかばを聴き、なにかしら心に響いた人がいるなら、それはそれでいいけれど靖国の遊就館も是非行ってほしいと思いました(あそこにはこの大伴家持の歌があちこちに掲げられています)。これは政治的信条の問題というだけでなく、こういったセンシティブな問題に対してこそ人は多角的な視座をもつべきであろうと思うから。
なお、始まって数分して、三輪氏が舞台のほうに進んで演奏を中断、客席に向かって何度も謝りながらアコーディオンに繋がっているコードを確認し、最初からやり直し。どうも音声に変換するためのコードが繋がっていなかったようだが、曲が曲だけに、一瞬「これは仕組まれたハプニングみたいなやつか?」と勘繰ってしまいました。まぁライブならではの面白さではありますね。


余談ですが、開演前に大井浩明氏と法貴彩子氏を発見。ほんの立ち話ですが法貴さんとお話することが出来て良かったです。意外というと失礼ですが、いきなり話しかけてきたおっさん(私)にとても愛想よくにこやかにヴォルフガング・リームのお話などして頂き、ますますファンになりました。来年はラヴェルの全曲演奏会や、難曲と仰るリヒャルト・シュトラウスのヴァイオリン・ソナタの再演など予定されておられるようですので、ピアノ好き、ピアノ弾きの皆様ぜひ応援をよろしくお願いします。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2014-11-10 23:11 | 演奏会レビュー | Comments(3)