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ヒンデミット 歌劇「画家マティス」 クーべリック指揮バイエルン放送so.

ツイッターとか見てると米倉斉加年(よねくらまさかね)を「さかとし」と間違ってた人が意外に多くてちょっと安心。




ヒンデミットのオペラを少しずつ聴いてきましたが、今回の「画家マチス」は文字通り彼の代表作といってよいのでしょう。その割には(同じ題名のオーケストラ曲はともかく)あまり聴かれてなさそうですが、大変な傑作です。
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   ヒンデミット 歌劇「画家マティス」

   アルブレヒト・フォン・ブランデンブルク: ジェームズ・キング
   マティス: ディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウ
   ローレンツ・フォン・ポンマースフェルデン: ゲルト・フェルトホフ
   ヴォルフガング・カピト: マンフレート・シュミット
   リーディンガー: ペーター・メーフェン
   ハンス・シュヴァルプ: ウィリアム・コックラン
   ヴァルトブルク伯: アレグザンダー・マルタ
   ジルヴェスター・フォン・シャウムベルク: ドナルド・グローブ
   ウルズラ: ローゼ・ヴァーゲマン
   レギーナ: ウルズラ・コシュト
   ヘルフェンシュタイン伯爵夫人: トゥルデリーゼ・シュミット
   伯爵の笛吹き: カール・クライレ
   バイエルン放送合唱団(合唱指揮:ハインツ・メンデ)
   ラファエル・クーベリック指揮バイエルン放送交響楽団
   1977年6月&12月録音
   CD:EMI50999 6 40740 2 3
 
 

このCDにはCD-ROMでドイツ語リブレットと英・仏の対訳が添付されていますが、時代背景が判らないと英語の対訳を読んだだけでは物語の理解はかなり難しいと思います。7幕からなる物語は1524年から1525年のドイツ農民戦争を背景にした一大ページェント、大河ドラマ風悲劇ともいうべきスケールの大きなもので様々な人物が現れますが、主人公としては次の5人とみてよいでしょう。

画家マティス・・・マインツの大司教に仕える教会画家であったが、戦乱の世で絵を描き続けることに疑問を持ち筆を折る。しかし農奴の悲惨な暮らしに同情しながらも貴族にリンチを加える彼らには反発を憶える。様々な艱難の後、聖アントニウスの誘惑を自らの幻覚として体験し、再び絵筆を執ることになる。イーゼンハイム祭壇画で知られるマティアス・グリューネヴァルトがモデル。

マインツ大司教アルブレヒト・・・ローマカトリックの司祭でありながら、経済的な逼迫からプロテスタントの裕福な商人リーディンガーの支援を受けている。司祭の妻帯を奨めるルター派に倣ってリーディンガーの娘ウルズラを娶ろうとするが、彼女の敬虔な心にふれて一切の財産を捨て、清貧の暮らしをすることになる。お抱え画家のマティスに対しては常に擁護者としてふるまう。史実の上では贖宥状(免罪符)の発行でカトリックの堕落の象徴とされる。ちなみにリーディンガーは史実ではフッガー家の商人ということになるだろう。

シュヴァルプ・・・農民戦争のリーダー。戦禍の中で絵を書くマティスを嘲笑い、後の物語のきっかけを作る。娘レギーナをマティスに託して戦死する。

ウルズラ・・・リーディンガーの娘。アルブレヒトと結婚することになり、慕っていたマティスのもとに奔ろうとするが、絵筆を捨てて戦乱の中に飛び込んでいこうとする彼に拒絶される。カトリックとプロテスタントの融和のための自己犠牲としてアルブレヒトと対峙し、彼の清貧への覚醒を呼び起こす。

レギーナ・・・戦禍の中シュヴァルプにつき従っていたが、マティスのもとで束の間の安らぎを得る。孤児となって身体を毀し、最後はウルズラとマティスに看取られて息を引き取る。

この5人に、ルター派とカトリックそれぞれの側の人々や、ドイツ諸侯の同盟軍の司令官らが絡む。しかしながら、物語の全体を見渡すと、数多くの登場人物を結びつける要となるのは、実はオペラには登場しないがあのマルティン・ルターではないか、という気がします。従って、このオペラを深く理解するにはルターと1517年に始まる宗教改革に関する最低限の知識が必要だと思われます。歌詞だけを追っていたのでは、特に聖職者の結婚に関するルター派とローマカトリックの対立がテーマとなっている第3幕など、いったい何が歌われているのか全く理解できないと思います。これに関しては、『ドイツ宗教改革』(R.W.スクリブナー、C.スコット・ディクスン/森田安一訳、岩波書店)という本にかなり詳しく書かれていて、オペラの理解に非常に役立ちましたが、元々神学のテキストとして書かれたものなのでやや専門的なのと翻訳が生硬で読みにくいのが難点。より一般向けの著書として『世界史リブレット27 宗教改革とその時代』(小泉徹、山川出版社)がページ数も少なく安価な割に内容が充実しているので、是非とも一読の上リブレットを読まれることをお勧めします。

ところでこの作品のリブレットはヒンデミット自身の作のようですが、彼はこの物語に何を託そうとしたのだろうか。以前、ヒンデミットのオペラ「カルディヤック」について「芸術家とその作品との関係性の一つの在り方について書かれた作品」と書きました。

http://nekolisten.exblog.jp/17351525/

ならばこの「画家マティス」が取り上げているのは、「芸術家とその生に対する態度」ということになるかも知れません。
画家であるマティスは、「行動の人」シュヴァルプに触発されて絵筆を捨て、戦いの世界に飛び込んでいきますが、思索と創造の世界に生きてきた彼は結局のところ「実世界」には馴染まない。特に農民たちが元の領主であるヘルフェンシュタイン伯爵をリンチに掛けて殺害し、その夫人を凌辱しようとするのを見て完全にこちらの世界から離反してしまいます。さりとて同盟軍の立場に与することも出来ず、結局は戦争の傍観者としての立場から脱却できない。その後、マティスは夢の中で聖アントニウスに変身し、数々のサタンの誘惑に打ち勝ったのち、アルブレヒト扮する聖パオロから再び生きる目的を与えられて画家として再生します。
シュヴァルプは恐らく人生というものを挟んで、芸術家マティスと対極的な位置にいます。彼は正義の実現のために単純だがまばゆいばかりに光り輝く行動の世界で生き、あっというまに死んでしまいます。マティスは彼の生き方に憧れ、その死を悼み、愛娘のレギーナを引き取ります。
大司教アルブレヒトの描かれ方は皮肉に満ちています。ルター派とローマカトリックそれぞれの取巻きに囲まれ、ルターの著書の焚書については優柔不断な態度をとり、司祭の結婚に関しても同様に周囲の工作にひたすら流されていきます。最後は美化されて清貧の道を選びますが、それも見ようによってはウルズラの訴えに流されたという見方もできます。史実の上での彼の姿と相俟って、曖昧な人物像しか結びません。しかし、かれこそはこの物語の狂言回しであって、鏡のように登場人物の主張を映し出す存在とも言えます。

この大河小説のような壮大な物語を読み解くには、政治・宗教・芸術さまざまな切り口があると思いますが、私は例えばトーマス・マンの作品のような、芸術家が人生の苦難を経て成長していく物語、マティスを主人公とした教養小説Bildungsromanという捉え方をしました(それにヒンデミットほどのインテリならトーマス・マンを間違いなく読んでいるだろうと思います)。おそらく1910年代の終わりから1920年代の半ばにかけて、表現主義の旗手として、性や宗教のタブーに挑むようなオペラや、極端に無調的で先鋭的な音楽を書いてきたヒンデミットは、なんらかの葛藤、精神的な危機を経て「画家マティス」に聞く晴朗な新古典主義の音楽家に姿を変えたと思われますが、その過程における「治癒と再生」こそ、このオペラの真の主題であるという気がします。

ところで、ちょっと脱線しますが、芸術家の治癒と再生というなら、トーマス・マンよりもっと現代に近い作品があります。もちろんヒンデミットは知る由もないことですが、いずれも画家が主人公というところが面白いと思います。それに結局マティスは何故絵筆を一旦折り、どうして再び筆を取ったのかという謎は意外に深くて、これら他の分野の作品がその理解に資することもあるだろうと思います。
まず一つ目、三島由紀夫の『鏡子の家』。主人公の一人、画家の夏雄は世界の崩壊の幻想に囚われて突然絵が描けなくなるが、やがて世界と和解して再び絵筆を取ることになる。夏雄とは対照的に、ボクサーの峻吉はプロデビュー後すぐにチンピラと喧嘩して拳を潰され右翼団体に入るが、夏雄は終始峻吉には寛容で親しみを感じている。その他、売れない役者で最後自死する収、優秀な商社マンだがニヒリストの清一郎が登場する。この4人の男が集うサロンの女主人鏡子は、まさに鏡のように4人の姿を映し出して狂言回しの役割に徹する。読んでおられない方からはきっと「いくらなんでもヒンデミットと三島との比較は無理だろう」と嗤われそうですが、画家マティスを画家夏雄に、シュヴァルプを峻吉に、アルブレヒトを鏡子になぞらえることで、少なくとも私にはオペラの読解のための有力な補助線となりました。
もう一つは、ソ連の映画監督であるアンドレイ・タルコフスキーの1967年の映画「アンドレイ・ルブリョフ」。タルコフスキーはそこそこビッグネームであるし、日本にもファンが多いと思いますが、私は「アンドレイ・ルブリョフ」とその次の「惑星ソラリス」(1972)の2作が最高傑作だろうと思っています(1975年以降の「鏡」「ストーカー」「ノスタルジア」「サクリファイス」は私には難解に過ぎるような気がする)。なんと「アンドレイ・ルブリョフ」も画家が主人公。15世紀初頭のイコン画家ルブリョフは宗教の退廃やタタール人との戦争の中、自分自身も兵士を殺したことをきっかけに絵筆を折る。それ以来ルブリョフは沈黙の行を貫くが、ある日鋳物屋の少年が苦労の末に教会の鐘の鋳造に成功するのを見て感動し、少年を祝福して再び絵筆をとるという物語。お話の外形はこちらのほうがより「画家マティス」に近い感じがしますが、ソヴィエトで活動していたタルコフスキーがヒンデミットを知っていたかどうかはまったく判りません。もっとも、反体制的というより、あまりにも中世ロシア史を暗く描いている廉でソ連でしばらく発禁扱いとなっていた「アンドレイ・ルブリョフ」に対し、「画家マティス」のほうは、少なくともドイツ国内に向けた政治的なメッセージは私にはあまり感じられませんでした。それよりもドイツ農民戦争を一種の人民革命と見做す見解もある中での、暴力的な農民の描き方には驚くべきものがあり、1930年代のドイツでどのように受け止められたかはよく分りませんが、もしスターリン時代のソヴィエトで上演されていたなら(実際にはヒンデミットに関するあらゆる情報が遮断されていたのかも知れませんが)パステルナークどころじゃない衝撃だったに違いありません。そういった意味で、ナチスがヒンデミットを目の敵にして、「画家マティス」をどんな音楽なのかもわからずに「退廃音楽」として弾圧したのは、ある意味見当違いも甚だしいことではなかったかと思います。そこにあるのはむしろ反体制的な人民革命の萌芽を思わせる農民戦争への嫌悪であり、最初農民に同情的な立場をとっていたのに後に彼らを見はなすルターその人の態度へのインテリらしい解釈であり、皮肉な言い方をすれば体制の内側で芸術家としての悩みに耽る作曲家の姿である。まったくナチスはこのような無害な音楽は放っておけばよかったのに違いない。
まぁ、私の個人的なこじつけの是非はさておき、少なくとも政治的なものではなくて、芸術家の生Das Lebenに対する態度そのものがこのオペラの主題であると見做すことで、「画家マティス」は「カルディヤック」の続編ともいうべき位置を占めるように思われます。そしてそのことはこのオペラの歴史的な価値を些かも貶めることにはならないと考えます。


音楽に対する考察が後回しになってしまいましたが、本当に素晴らしい音楽でした。
初期の表現主義的な作品を除くと、ヒンデミットの音楽には「新古典主義」というレッテルが張られて、特に両大戦間の代表的な作品例として「画家マティス」がストラヴィンスキーの「プルチネッラ」と並び称される、というのが教科書的な書き方になるのでしょう。だいたい「新古典主義」という言葉も曖昧ですが、敢えて言えば表現主義と無調様式へのアンチテーゼという風にまとめることが出来そうです。
このオペラに関して言えば、物語は大変悲惨なものだが、音楽はどこまでも晴朗で格調が高い。第4幕の伯爵の私刑の場面や第6幕の聖アントニウスの誘惑の場面など、もっとおどろどろしく表現主義的、無調的な音楽を書くことも出来たはずですが、実際にヒンデミットが書いたのは非常に抑制が効いた音楽であり、それでいて少しも退屈にならず、聴くうちに静かな感動に襲われます。これこそが新古典主義と呼ばれる真の所以でしょう。オペラ全体に亘って明瞭な調性が支配していますが、そのシステムは伝統的なそれとは少しばかり異なっています。通常なら倚音として扱われる音がここではもう少し上位の扱いを受けていて、耳が慣れるに従って非常に美しく旋法的に聞こえます。その調性のシステムはヴォーカルスコアが手元にあればきれいに分析・整理できそうな気もするが今はもちろんそこまでは出来ません。このおそらく非常に意図的に、知的に組み立てられた調性システムは、後期ロマン派のデュオニュオス的な爛熟に代わるアポロン的な知的構造物の構成原理そのものであろうと思います。そこから、「新古典主義」に対して「アポロン的な世界の20世紀における復権」という意味合いを附加することも可能でしょう。

結局私はこういった知的な音楽というものが心底大好きなのだろうと思います。このブログで多分一番多く取り上げたのはストラヴィンスキーだと思いますが、今後ヒンデミットはそれに次ぐポジションを私の嗜好の中で占めるに違いありません。
ストラヴィンスキーとの一番の違いは、その手堅いかっちりとした書法。ストラヴィンスキーのほうは良くも悪くももっと風通しのよい音楽で、あまり形式というものに対する偏愛は感じられません。ところがヒンデミットの場合、以前取り上げた「聖女スザンナ」や「ヌシュ=ヌシ」でも作品の相当長い部分で変奏曲形式が使われていたり、対位法的な書法が顕著であった訳ですが、「マティス」でも第2幕の後半が変奏曲形式で書かれていたり、また対位法的な書法も多い。いかにもドイツの作曲家という感じ。反面、オペラの題材から致し方ないとは思いますがユーモアの要素はほぼ皆無。また、これは今のところ若干印象論的な言い方になりますが、伝統的な調性の体系からの逸脱という点については、ヒンデミットのほうがやや理論的(後の「ルードゥス・トナリス」を見れば明らかでしょう)なのに対して、ストラヴィンスキーのほうはもっと直観的・感覚的な感じがします。もちろんどっちが上とかいう問題ではありません。

クーベリックの指揮、フィッシャー=ディースカウらの歌手、比較の対象を知りませんがいずれも文句なしの名演だと思います。特にフィッシャー=ディースカウの知的な歌の表情は、行動の世界に憧れながらついに傍観者でしかありなかったインテリの悲しみまでも感じさせて秀逸。ジェームス・キングが大司教というのは最初のうち違和感がありましたが、この優柔不断で流されやすい、しかし人は決して悪くない司教には実はぴったりな歌唱だと思うようになりました。シュヴァルプを歌うウィリアム・コックランと、敵対する連合軍の士官ジルヴェスターを歌うドナルド・グローブ、立場は違えども共に行動の人ということでなんとなく似ているのも配役の妙という感じがします。女声の三人、いずれも有名どころではありませんが真摯な歌いぶりで好感を持ちました。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2014-09-07 01:10 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

ヒンデミット 「ヌシュ=ヌシ」 アルブレヒト指揮ベルリン放送so.

全シリーズみてみたい関西ローカルCMベスト3。
 1.モリ工業のステンレスポール
 2.ケンミンの焼ビーフン
 3.関西電気保安協会
  




ヒンデミットの珍しい舞台作品を紹介します。
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  ヌシュ=ヌシ Op.20 (1920)
  (一幕のビルマの人形劇、フランツ・ブライの台詞による)

   ムン・タ・ビャ(ビルマの皇帝)・乞食・伝令1・詩人2: ハラルト・シュタム(Bs)
   ラクヴェン(王子): マルテン・シューマッハー(語り)
   キセ・ヴァイン将軍・儀典長: ヴィクトル・フォン・ハーレム(Bs)
   刑吏: ヨーゼフ・ベッカー(Bs)
   スズリュ(宦官): デイヴィッド・クナットソン(Tファルセット)
   トゥム・トゥム(ツァトヴァイの家来): ヴィルフリート・ガームリッヒ(T)
   カマデヴァ・詩人1: ペーター・マウス(T)
   伝令2: アレハンドロ・ラミレス(T)
   バンザ(皇帝の第1の妻)・娘1: ヴェレーナ・シュヴァイツァー(Sp)
   オザザ(皇帝の第2の妻): セリーナ・リンズレー(コロラトゥーラSp)
   トヴァイゼ(皇帝の第3の妻)・娘2: ガブリエーレ・シュレッケンバッハ(A)
   ラタサタ(皇帝の第4の妻)・娘3: グドルン・ジーバー(Sp)
   踊り子1: ジョルジーヌ・レーシック(Sp)
   踊り子2: ギゼラ・ポール(A)
   猿1: ヴェルナー・マルシャル(T)
   猿2: マンフレッド・クレバー(T)
   指揮: ゲルト・アルブレヒト
   管弦楽: ベルリン放送交響楽団
   1987年3月23-25日録音
   CD:WERGO WER60146-50


私の通っていた高校は、まぁ昔の事とて学習指導要領なんぞ屁とも思わぬ変わり者の教師が何人かいて、今も懐かしく思い出すのはそういった先生たち。例えば世界史の先生は一年間掛かって古代ギリシャが終わらないといった調子ですが、中でも漢文の先生は教科書なんぞ全く使わず、史記列傳の抜粋なんかで今思えば大変貴重な講義をされていました。特に司馬遷が武帝の怒りをかって宮刑に処せられ、その失意から立ち上がって史記52万字余を完成させた経緯を熱く語ってくださったことは今も鮮明に覚えています。

「ヌシュ=ヌシ」を聴きながらふと昔のことを思い出しましたが、こちらは司馬遷のうけた屈辱とは大違いのおふざけぶり。もっとも、このオペラのシノプシスは、少なくとも英語で読めるネット上の情報はどれもこれも中途半端で、たくさんの人物が登場するこのオペラ(というかビルマの人形劇)の物語についてはさっぱり要領を得ませんでした。CDはドイツ語のリブレットが附いているだけマシですが、せめて英語の対訳があれば、と思います。いくつかの情報をつなぎあわせるとこんなお話かと・・・。

貴族ツァトヴァイの家来トゥム・トゥムは皇帝ムン・タ・ビャの後宮からつぎつぎと主のために女をかどわかしていた。ある日、欲望の神カマデヴァが、巨大なねずみと鰐の合体したような妖怪ヌシュ=ヌシに跨ってトゥム・トゥムに吉報を告げる。飲んだくれの老将軍キセ・ヴァインがヌシュ=ヌシに躓いて押しつぶしてしまう。将軍はそのときヌシュ=ヌシに金玉を食いちぎられてしまうが、トゥム・トゥムのおかげで命拾いをしたので彼に褒美をつかわし家来にする。ツァトヴァイの悪事が露見し、皇帝の召喚をうけたトゥム・トゥムはすべては主人の指図の所為だと言い張るが、そのおかげで新しい主人の将軍キセ・ヴァインが宮刑に処せられることになる。いざ玉切り役人が将軍の金玉を切ろうとするが、それはどこにもなかったとさ。

別の情報ではヌシュ=ヌシは緑色のinflatable pool toy(プールで使う鰐などの形のビニールのおもちゃ)みたいだと書かれていました。また、nuschとはnutsすなわちtesticlesのことだとも。いずれにしても、どの解説も申し合わせたようにこの台詞がobsceneであると書かれています。
そんなわけで台詞の詳細は判らずじまいですが、音楽は実に面白い。冒頭のひょうきんなトゥム・トゥムのテーマはどことなくプッチーニ風で、「ジャンニ・スキッキ」からインスパイアされたであろう作曲経緯を忍ばせます(ヒンデミットとプッチーニを繋ぐ存在としてフェルッチョ・ブゾーニを忘れてはいけないのかも知れませんが、それはまた別の機会に)。これに続いて無調すれすれの舞曲や、ペンタトニックによる猥雑な踊り、二人の踊り子と二匹の猿が歌う濃密な夜の気配ただよう怪しくも美しい音楽、宦官がうたうファルセットの歌や、皇帝の歌うワーグナーのパロディ等々、実に多彩。あるいは皇帝の4人の妻たちが次々と歌うところは、「アリアと変奏」と題されていて、こんなところもいかにもヒンデミットらしいと思いました。1920年という時点でのオリエンタリズム&モダニズム音楽の集大成といった趣もあって、バルトークのパントマイム「中国の不思議な役人」やストラヴィンスキーの歌劇「うぐいすの歌」と並べると20世紀音楽史上の一大奇観をなすように思えます。以前とりあげた「聖女スザンナ」同様、ヒンデミット自身が後に封印してしまったこともあって、これら初期作品の評価はまだまだこれから、というのが実情かも知れません。
こんなマイナー・オペラでもIMSLPでヴォーカルスコアがDL出来るのがちょっと驚きでした。せっかくですので、皇帝の歌のところ、すこし譜例を挙げておきます。
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後宮の女たちを次々に寝取られた嘆きの歌のようですが、ここはワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」第2幕のマルケ王の歌"Mir dies?Dies, Tristan, mir?"のパロディになっています。歌詞もTristanをKyce Waingに換えた他はほぼ一緒。多彩な打楽器を含むオーケストラを用いているのに、ここだけやけに貧粗なオーケストレーションというのもワーグナー(というよりもワグネリアン達)に対する悪意のなせるわざでしょうか。

演奏について巧拙を云々するのは、こういった珍しい演目の場合あまり意味があるとは思えませんが、アルブレヒトの指揮、多くの歌手ともども大変すぐれた演奏だと思います。トゥム・トゥムと二人の踊り子が幾分歌う場面が多い他は、つぎつぎと現れては消えていく役柄が多いのですが、どの歌手も所を得たものです。アルブレヒトはこういったドイツ・モダニズムの音楽のエキスパートと言ってよいと思いますが、私が初期ヒンデミットの特色と考えている強迫的な音楽をドライブする力や、第2場の官能的な夜の音楽など素晴らしいと思いました。

余談だが、この「ヌシュ=ヌシ」の全曲盤CD、日本のamazonだと中古品で8,197円、新品だと12,395円という高値がついています。私はamazonUKで買いましたが、そちらだと送料込で2,973円、正味10日ほどで手元に届きました。中古屋さんの商売の邪魔する気はないですが、いくら激レア・アイテムでもこれはちょっと酷いんじゃないかと思った次第。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2014-08-13 15:50 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

ヒンデミット 「聖女スザンナ」他 (その3)

「エバラ出血熱」でググったら7,890件もあった。残念。





前回、演奏評を書きもらしてしまいました。このような珍しい演目なので比較の対象を知らないのですが、主役級の二人、スーザン・ブロック、デッラ・ジョーンズとも素晴らしい出来栄えであると思います。息の詰まるような濃密な表現、大オーケストラに拮抗できるだけのワーグナーばりのフォルテ、ともに歌いきっていると思います。ただ、時にスザンナよりもクレメンツィアのほうが年若に聞こえることがあって、どっちが歌っているのか判らなくなる時がしばしばありました。もちろんこれは欠点というほどのことではありません。トルトゥリエ指揮のBBCフィルも素晴らしいと思います。こぢんまりとした音像の録音はもう少やり様があったかも。

「ヌシュ=ヌシの踊り」は三部作の中の「ヌシュ=ヌシ」からコンサート用に抜粋したもの。台本は表現主義の作家フランツ・ブライがビルマの人形劇の為にかいた笑劇に基いているとのこと。元のオペラがとても面白そうなのでただいまamazonUKで注文中です。Nusch-Nuschiとはスラングでキンタマのことだとか。リーフレットの解説は簡潔すぎてよく判りませんがいったいどんなお話なんでしょう。
このCDに収められた9分ほどの作品、猛烈に面白い。初期ヒンデミットの特色といってよいと思いますが、びっしりと書き込まれた音の分厚さと前へ前へせっつかれるような強迫感はここでも顕著です。無調風の急進的な音楽とビルマ風(というか東アジア風)のペンタトニックな音楽が交替していきます。物語の題材にしても音楽にしても、バルトークのバレエ「中国の不思議な役人」を思い出さないわけにはいきませんが、バルトークのほうは1918年には作曲に着手しているものの初演は1926年ですから、ヒンデミットはこの傑作バレエをまったく知らずに「ヌシュ=ヌシ」を書いたことになります。ヒンデミットの先進性はもっと喧伝されてよいのではないかと思います。バルトークのほうは少なくとも組曲版は演奏の機会もそこそこあり、音源の種類も豊富ですが、ヒンデミットの人気がないのはとても残念に思います。

次の「トゥッティフェントヒェン」組曲はこれまでの2作品とは打って変わって子供向けの素直な音楽。これも舞台作品からの演奏会用組曲。元の舞台作品は1922年に演奏されていますがそれっきりになったようで作品番号がありません。組曲版も結局作曲者の死後に発見されるまで演奏の機会がなかったようです。
トゥッティフェントヒェンとはある彫刻家が木彫りでつくった人形、それがいろいろ悪戯するという話のようです。まぁドイツ版ピノキオといったところでしょうか。音楽はいたって伝統的なものですが、ところどころモダニズムの片鱗が感じられるのが面白い。中でも7曲目はケーキウォークのリズムで書かれたジャズ風音楽。その他はドイツ民謡や宗教歌が元ネタになっているようだ。4曲目に使われている民謡は日本では「山の音楽家」(あたしゃ音楽家、山の子リス、じょうずにバイオリンひいてみましょう、きゅきゅきゅっきゅっきゅっ・・・)で私の年代なら誰でも知っている童謡。また終曲は「神の御子は今宵しも」の邦題で知られる讃美歌111番が引用されていて親しみ深い。
このように声楽入り舞台作品と演奏会用組曲、古典的・伝統的な音楽からの引用とモダニズムの衝突、といえばあのストラヴィンスキーの「プルチネッラ」を思い出す訳だが、プルチネッラの初演は1920年。ヒンデミットは当然この同時代の音楽を知っていたと思うが、どちらかといえばモダニズムの発露よりは教育的志向の方を強く感じる。

1917年の「3つの歌Op.9」、リーフレットによれば表現主義の詩人達との出会いによってそれまで優秀な学生にすぎなかったヒンデミットは時代をリードする音楽家になったのだといいます。ただ今の耳でこの作品を聴くと、表現主義的というよりは濃密な後期ロマン派の残滓のほうを強く感じます、とくに第3曲、途中から曲がマーチになるところ、マーラーの「子供の角笛」かなにかを聴いているような気がする。いずれにしてもヒンデミットの音楽的原点を知るという意味で貴重な録音であると思います。

「ヌシュ=ヌシの踊り」以下の演奏も「聖女スザンナ」と同じく非常に精緻ではあるけれども(おそらくは録音のせいもあって)音像がすこし小さくこぢんまりとまとまり過ぎという気がするが、珍しいレパートリーを知るという意味においては何ら不足はありません。ヒンデミットに興味のある方には強くお薦めしておきます。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2014-08-03 00:05 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

ヒンデミット 「聖女スザンナ」他 (その2)

いふまいとおもへどけふのあつさかな
昔の人は上手いこと言うなぁと思うが、これよりもっと昔々、和泉式部にこんなんあった。
よのなかは春と秋とになりはてゝ夏と冬とのなからましかば
日本人って夏と冬が来るたび、少なくとも千年以上おんなじこと言ってる。





「聖女スザンナ」の続きです。
前回、このわずか25分足らずのオペラの構造を下記のように見立てました。

  前奏曲(変奏曲主題の提示) 1~44小節(44小節)
  レチタティーヴォ 45~105小節(61小節)
  変奏曲
   主題の再提示 106~157小節(52小節)
   第1変奏 158~210小節(53小節)
   第2変奏 211~272小節(62小節)
   第3変奏 273~322小節(50小節)
   第4変奏 323~384小節(62小節)
   第5変奏 385~445小節(61小節)
   第6変奏 446~494小節(49小節)
   カデンツァと変奏曲の結尾 495~521小節(27小節)
  コーダ(尼僧の合唱) 522~603小節(83小節)

これをもう少し詳細に見ていきます。
前奏曲(譜例1)は、第1~22小節と第23~44小節の二節に分かれています。ゆっくりと和声がうつろう弦に乗せてフルートがゆるやかな息の長い旋律を歌い、第2節はほとんど繰り返しにも見えるが音高・旋律・リズムすべて微妙に異なる。つまり22小節ずつA-A'という構造になっており、以下の変奏も概ねこの構造を踏まえています。樹々の花の匂い、夜啼き鶯の声、ゆらめく蠟燭の炎、ト書きに書かれている全てがこのひそやかな前奏に描きつくされています。
(譜例1)
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幕が開くとすぐにスザンナとクレメンツィアの対話が始まります。このレチタティーヴォの開始は管弦楽がほとんど沈黙し、オルガンの高いGisの音だけが耳鳴りのように小さく延々と続きます。CDの解説にはwolf toneと書かれています。一種の倍音ですね。夜のしじまの表現として卓抜な着想だと思います。後半は3本のフルートのクロマティックな上昇とチェレスタのフィギュールがまるで官能の疼きが足元から這い上がってくるような感覚を呼び覚まします(譜例2)
(譜例2)
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スザンナのAve Mariaからいよいよ変奏曲がはじまります。主題の再提示と変奏の各々最後になにかしら叫びや大きな感情の爆発が置かれ、A-A’-Bの繰り返しで全体が構成されていますが、後半は主題の変形と解体、Bの部分の拡大が進むため、各変奏の境界は次第に曖昧になっていきます。よって先の見立ての第5変奏以降あたりからは試案と別の切り分け方があるかも知れません。主題再提示の後のBは作男の登場とスザンナの「悪魔!」の叫びで、極端に不協和な管弦楽の咆哮が現れます(譜例3)。
(譜例3)
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第1変奏(譜例4)では主題は概ね提示部通り始まりますが、後半オーケストラがより色彩的に展開されBになだれ込んでいきます。Bの部分はクレメンツィアの叫び。
(譜例4)
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第2変奏はそれまで三連譜をモチーフにしていた主題に附点付きのリズムが現れます(譜例5)。音楽も大きく動きはじめ、Bの部分ではクレメンツィアの「ベアータ!」という叫びが置かれています。
(譜例5)
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第3変奏(譜例6)は激情が一旦収まるがすぐに音楽が切迫の度合いを増していきます。昔の恐ろしい話が語られ、Bの部分で再度「ベアータ!」の叫びが現れます。
(譜例6)
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第4変奏(譜例7)から主題は大きく解体され、三連符のモチーフだけが執拗に繰り返されます。Bはクレメンツィアの語りからクラリネットのカデンツァ風パッセージ。
(譜例7)
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第5変奏(譜例8)は弦のアクロバティックなパッセージに続いて附点付きの主題。音楽はいよいよ無調の度合いを強めていきます。Bは突然衣服を脱ぎ捨てたスザンナの「わたしは美しい!」の叫びと管弦楽の雄叫び。
(譜例8)
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息つく暇もなく怒濤の第6変奏(譜例9)。主題はばらばらに分解され、Bの部分はハ長調のフォルティシシモ。全曲の頂点に最遠隔調のハ長調をもってくるのはバルトークの「青髭公の城」(1918年)と同様のアイデア。ヒンデミットはこれを聴く機会があったのだろうか?
(譜例9)
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真夜中を告げる鐘の響きとクラリネットのカデンツァ(譜例10)を変奏曲の結尾、陰鬱な尼僧たちの行進(譜例11)からをコーダと見ました。この後、主題とスザンナの拒否、尼僧たちの「悪魔!」の叫び。叩きつけるような変ホ短調の強奏のうちに幕が降ります。
(譜例10)
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(譜例11)
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このような分析でこの音楽の面白さが伝えられるとは思いませんが、祈りと叫びの両極の間を振れる物語に応答して音楽も静寂と狂騒の両極を行きつ戻りつします。オーケストラが爆発するところでは「カルディアック」でも見られた過剰な音の洪水、強迫的性格が見られますが、A-A’-Bの基本形を繰り返すことで自ずと節度ある暴発という趣を見せ、全体としては神秘的抒情的宗教劇の枠組みにかろうじて収まっていると思われます。後に、よりドライで知的な作風にシフトしたヒンデミットはこれら若書きの表現主義的な作品群を封印してしまったらしく、いまだ知名度もなく音源も少ないようですが、ストレートに聴いて面白いのはむしろこの初期の作品群のような気がします。
次回は「ヌシュ=ヌシ」他の併録作品を簡単にコメントする予定です。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2014-08-02 00:15 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

ヒンデミット 「聖女スザンナ」他 (その1)

(承前)CMといやあれは昭和の終わり頃だったか、バブル時代の資生堂インウイ「セルジュ・ルタンス」のCMで山口小夜子をモデルに、マーラーの第10番のアダージョが流れていたものがあったが、あれは凄かった。映像も選曲も。あの頃はTVCMが確かに時代の最先端を行っていたと思う。





久々のCD鑑賞記はヒンデミットのレアものの取り合わせ。このブログでは以前彼のオペラ「カルディヤック」を取り上げたことがあるが、今回はさらに珍しい作品ばかりです。

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  歌劇「聖女スザンナ」Op.21
     スザンナ: スーザン・ブロック(Sp)
     クレメンツィア: デッラ・ジョーンズ(Ms)
     老尼僧: アメラル・ガンソン(Ms)
     若い女: マリア・トリーダウェイ(語り)
     作男: マーク・ローリンソン(語り)
  ヌシュ=ヌシの踊り
  トゥッティフェントヒェン組曲
  3つの歌Op.9
     スーザン・ブロック(Sp)

     リーズ・フェスティヴァル合唱団
     ヤン・パスカル・トルトゥリエ指揮BBCフィルハーモニック
     1997年5月7~9日録音
     CD:CHANDOS Chan9620


まずは「聖女スザンナ」から。1919年から21年に掛けて書かれた、いずれも性をテーマとする一幕物のオペラ三部作(「殺人者、女の望み」「ヌシュ=ヌシ」とこの「聖女スザンナ」)については、個人のブログで取り上げたものがいくつか見つかりましたが、基本的に日本語の文献が極めて少ない。「聖女スザンナ」のリブレットはCDのリーフレットによれば、1915年に若くして戦死したアウグスト・シュトラムの戯曲によるものらしいが、この人の戯曲はその表現主義的な作風によってSchreidramen(絶叫演劇?)と呼ばれていたとか。英語の対訳を読むと、イングマール・ベルイマンの陰鬱な映画の脚本を読んでいるような気にさせられます。ココシュカの台本による血なまぐさい「殺人者、女の望み」、かなりお下劣な笑劇「ヌシュ=ヌシ」と抒情的宗教劇の趣をもつ「聖女スザンナ」の取り合わせは、当然のことながら1918年のプッチーニの三部作「外套」「聖女アンジェリカ」「ジャンニ・スキッキ」に触発されたものと思いますが、ヒンデミットのほうは(「殺人者・・・」は聴いたことがありませんが)いずれも性をテーマとするかなり激烈な作風で、作曲者が最も表現主義的であったころの作品。ちなみに1928年クルシェネクも一幕物オペラの三部作「独裁者」「秘密の王国」「ヘビー級、または国家の栄光」を書いているが、こちらは激レア・アイテムにつき私は聴いたことがありません。
さきほど、プッチーニの「聖女アンジェリカ」との対比で抒情的宗教劇と書きましたが、実際には随分とエロティックな物語で、初演の際には教会サイドからの妨害があったとのこと。また時代は少し下るが、のちにヒンデミットがナチスから「退廃芸術」の烙印を押される遠因の一つであったかも知れません。
英語版のwikipediaにもシノプシスが載ってませんので物語を簡単に紹介しておきます。
* * * * *
とある修道院。ニワトコ(注1)の花の匂いがむせかえるような初夏の夜、若い修道女スザンナが祈っていると古参の修道女クレメンツィアがやってくる。その時、窓の外から快楽に喘ぐ若い女の声がする。礼拝堂に入ってきた若い女にスザンナは興味を持つが、すぐに相手の逞しい作男がやってきて女を連れ戻そうとする。スザンナは発作的に彼らに向かって「悪魔!」と叫ぶ。クレメンツィアは30年以上も前のおぞましい出来事を思い出し、スザンナに告げる。それは、今日と同じような夏の夜、ベアータという若い女が突然キリスト像の前で裸になって像に抱きつくという事件が起こり、この瀆神の罪を犯したベアータを尼僧ら皆で生きながらにして礼拝堂の壁に塗り込めたというものであった。それ以来半裸のキリスト像の腰は布で覆われていたのだが、この告白を聞くうちにスザンナも同じ欲望に取り憑かれ、全裸になってキリストの腰布をはぎ取る。突然十字架の上からスザンナの髪に巨大な蜘蛛が落ちてきて、彼女は髪を掻き毟りながら身もだえする。そこに尼僧たちがやってきて、スザンナに懺悔を迫るが、彼女はこれを拒否。一同が「悪魔!」(Satana!)と叫ぶ中、幕が降りる。
* * * * *
いやはやなんとも。さすがフロイトとヒステリーの時代だと思うばかりですが、音楽のほうもかなり無調的。但しシェーンベルクの無調作品、たとえば「期待」(1909年)などと比べると、「無調的」ではあるものの主音の存在によってよく聴くと拡大された調性作品であるということに気付きます。実際、オペラの前奏は嬰ヘ長調の三和音から始まり、終盤のクライマックスは最も遠隔調のハ長調、最後の尼僧の合唱は変ホ短調の三和音の上に展開されていることなど。全体にひそやかな薄い響きで描かれた部分が多いものの、中盤からの変奏曲形式で描かれた部分になると、登場人物の感情の起伏に合わせて時に大オーケストラの激烈な咆哮が現れます。この変奏曲はものすごく緻密に書かれていて、非常に優れた音楽だと思いました。ちなみにオペラにおける変奏曲形式といえば、誰しもベルクの「ヴォツェック」の第1幕第4場の医師と大尉の会話(パッサカリア)、あるいは第3幕第1場のマリーの懺悔(一つの主題によるインヴェンション)を思い出すでしょうが、ヴォツェックの初演は1925年ですから、もしかしたらベルクがこのヒンデミットのオペラから影響を受けた可能性はあると思います。
ところで、ネットを漁っていて見つけた下記の論文にこんな記述がありました。

http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/5740/1/kenkyu0220400890.pdf#search='%E3%83%92%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%9F%E3%83%83%E3%83%88+%E3%83%8C%E3%82%B7%E3%83%A5%EF%BC%9D%E3%83%8C%E3%82%B7+pdf'

「特に「聖女スザンナ」は、音楽はテキストに導かれるままに流れているように見えて、実は長大な変奏形式をとっており、しかもそれは小節数上、厳密なシンメトリー構造を示しているのであって、決してその場の思いつきや情景描写だけで書かれているわけではない。」
(江藤光紀著『引き裂かれたポートレート : オペラ「画家マチス」のはらむもの』
一橋研究, 22(4): 89-114)
この著作の中では、具体的にどのような小節数上のシンメトリーなのかが記されておらず、「へぇ」と思いながらIMSLPでダウンロードしたヴォーカルスコアを眺めているとどうも納得がいきません。最初の長大なレチタティーヴォは変奏曲の一部とは思えませんし、コーダの小節数を数えてもシンメトリーを成しているようにも思えません。少なくとも「小節数上、厳密なシンメトリー」という言葉は、ベルクの「ルル」の間奏曲や「抒情組曲」の第3楽章のような回文形式にこそ相応しいはず。どうも著者の思い込みで筆が滑ったように感じられるのですが如何でしょうか。
ちなみに少し素人分析をしてみると、こんな構造ではないかと思います。

  前奏曲(変奏曲主題の提示) 1~44小節(44小節)
  レチタティーヴォ 45~105小節(61小節)
  変奏曲
   主題の再提示 106~157小節(52小節)
   第1変奏 158~210小節(53小節)
   第2変奏 211~272小節(62小節)
   第3変奏 273~322小節(50小節)
   第4変奏 323~384小節(62小節)
   第5変奏 385~445小節(61小節)
   第6変奏 446~494小節(49小節)
   カデンツァと変奏曲の結尾 495~521小節(27小節)
  コーダ(尼僧の合唱) 522~603小節(83小節)

ちょっと長くなりそうなので一旦切ります。

(注1)ドイツ語のリブレットにはFlieder、英語対訳にはlilacと書かれている。これをニワトコと訳した理由は以前「ニュルンベルクのマイスタージンガー」について書いた折に言及しているので参照されたし。
http://nekolisten.exblog.jp/17584540/
(この項続く)
by nekomatalistener | 2014-08-01 00:24 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

新国立劇場オペラ研修所公演 ヒンデミット「カルディヤック」

イオンがピーコック買収。でもピーコックって、英語のネイティブにしたら「おしっこち○こ」みたいに聞えないのだろうか。とっても謎。ピーはおしっこじゃなくて豆だろうって説もあるが、ならば「まめち○こ」かって言えばどっちもどっち。




一年ぶりのオペラ研修所公演。いつものことながら珍しいオペラを優れた演奏で、しかも格安で聴けるのがとてもありがたい。

   2013年3月3日
   カルディヤック: 村松恒矢(Br)
   その娘: 吉田和夏(Sp)
   士官: 日浦眞矩(T)
   貴婦人: 立川清子(Sp)
   騎士: 伊藤達人(T)
   金商人: 大塚博章(Bs)
   衛兵隊長: 大久保光哉(Br)
   指揮: 高橋直史
   演出: 三浦安浩
   合唱: 栗友会合唱団
   管弦楽: トウキョウ・モーツァルトプレーヤーズ

まず演出のことについて。幕明けの無声映画風の映像処理が素晴らしい。1920年の無声映画「カリガリ博士」を思わせるような演出、このオペラがまさに表現主義の時代に書かれたことを雄弁に提示していました。
三浦安浩の演出は、去年ラヴェルの「スペインの時」とツェムリンスキーの「フィレンツェの悲劇」の時にちょっと批判めいたことを書きましたが、今回は前みたいなどぎつい性的表現は抑えられていて大変良かったと思います。全体に闇を強調するモノクロームな色彩がスタイリッシュで知的な感じがします。コンパクトな回り舞台の仕掛けも秀逸でした。ただ、一つ二つ疑問もありました。3人ばかり黙役が出てきますが、私にはどうも意味不明で見た目にも煩わしく、演出家の言うようなドッペルゲンガーの恐怖は感じられませんでした。また、カルディヤックとその娘とのやり取りの中でボールの受け渡しの場面が出てきますが、これもこの演出家の独りよがりな解釈という気がして、なくもがなと思いました。さらに、騎士が貴婦人に贈るカルディヤックの手になる豪奢な金細工だが、これがなぜかストリッパーのおねえちゃんのバタフライ・パンツみたいで、とても下品。露悪的な表現を狙ったのかもしれませんが、どうもこういう所がこの演出家とは反りが合いません。

歌手では仕官を歌った日浦眞矩がとても良かったと思います。ヒンデミットの書いた音楽はワーグナーばりにドラマティックで声量も必要、しかも知的で乾いた叙情表現も必要、という難しい役どころかと思いますが素晴らしい歌唱だったのではないでしょうか。最後ちょっとスタミナ切れのようでしたが、彼の名前は記憶に留めておきたいと思います。
カルディヤックの娘を歌った吉田和夏は昨年「スペインの時」のコンセプシオンを聴いていますが、その時のツンデレとは大違いで今回はいかにも若い清純な娘といった歌い方、芳醇さは感じられませんがこの役なら「あり」だろうと思いました。
貴婦人の立川清子はグラマラスな歌い方が役にぴったりですが、立ち姿があまり貴婦人といった感じがしないのがちょっと残念。騎士の伊藤達人は昨年「フィレンツェの悲劇」でグイドを歌っていた人。そのグイド役もそうだが、こちらの騎士役もハイテノールの至難なパートを果敢に歌っていました。金商人の大塚博章はまずまず、衛兵隊長の大久保光哉はちょっと厳しかったように思います(一ヶ所派手にドイツ語をトチッてたような気が・・・)。
肝心のカルディヤック役の村松恒矢は健闘だと思いましたが、もうすこし高望みしたくなるところ。予習でフィッシャー=ディースカウなんか聴いたのが失敗か(笑)。しかしこれだけの至難な役なのにたったの二日の公演で終わりというのも切ないなぁ。場数を踏めばまだまだ良くなるのに、と思います。

トウキョウ・モーツァルトプレーヤーズは(多分)初めて聴いたが素晴らしい演奏だったと思います。演奏は大変だろうと思うが、あまり官能的な要素がない分、テクニックと勢いでなんとかなるのかも知れない(そういう意味ではとても日本人向けw)。それにしても大熱演だったと思います。
今回の公演でなによりも印象的だったのはヒンデミットの音楽自体が大変な出来栄えだということ。今回が日本初演だとのことだが、ヨーロッパではときどき舞台に掛けられているようです。ひと様のブログも少し覗いてみましたが概ね好評。没後50年ということもあって、器楽以外の作品にも日があたってほしいと思います。ちなみに「カルディヤック」が気に入っていろいろCDを漁ってみようとしましたが、あまり手に入りません。とりあえず「画家マティス」と「聖女スザンナ」を買いましたので、これから聴いてみようと思います。
by nekomatalistener | 2013-03-04 23:56 | 演奏会レビュー | Comments(0)

ヒンデミット 「カルディヤック」 カイルベルト指揮D.フィッシャー=ディースカウ他

いつもの散髪屋で、充電式のバリカンで襟足から後頭部にかけて刈り込んでるときに、いきなり「ジャッ!」と音がして髪の毛大量に噛み込んだままバリカンが止まってしまった。おもわず「イデデデ・・・」と叫んだのが私も散髪屋の兄ちゃんもツボにはまってしまい、しばらく双方笑いがとまらず悶絶(涙)。





新国立劇場のオペラ研修所公演が今年もまた3月に行なわれます。昨年はツェムリンスキーの「フィレンツェの悲劇」とラヴェルの「スペインの時」の二本立てでしたが、今年はヒンデミットの「カルディヤック」。演目が渋すぎます。今まで食わず嫌いで、ベレゾフスキーの弾いた「ルードゥス・トナリス」と「1922年」の組合せのCD以外ほとんどまともに聴いてこなかったヒンデミットですが、まずはCDで予習と相成った次第。


  カルディヤック: ディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウ
  その娘: レオノーレ・キルシュタイン
  士官: ドナルド・グローブ
  金商人: カール・クリスティアン・コーン
  騎士: エーベルハルト・カッツ
  貴婦人: エリーザベト・ゼーデルシュトレーム
  憲兵隊長: ヴィリ・ネット
  ヨーゼフ・カイルベルト指揮ケルン放送交響楽団・合唱団
  1968年ラジオ放送録音
  CD:ALLEGRO OPD-1427


このCD、シノプシスは附いてますが対訳なし。ドイツ語のリブレットはネットで入手しましたが英訳は見つからず(なぜかイタリア語とスペイン語の対訳は見つかりました)。珍しいオペラだが、それにしても手掛かりが少なくて閉口します。
まずは原作を読んでみました。E.T.A.ホフマンの『スキュデリ嬢』(吉田六郎訳、岩波文庫)、これがめっぽう面白い。ゴシックホラー風でもあり、推理小説風でもある。一説には推理小説はポーの1841年の小説『モルグ街の殺人』に始まると言いますが、1819年に発表されたこちらの小説も十分にミステリとしての面白さを備えています。謎を解決するのは73歳になる老嬢スキュデリで、17世紀のパリに実在した人物。ルイ14世の知遇を得て大活躍をしますが、もう一人の主人公と言ってよいのが金細工職人のカルディヤック(邦訳ではカルディラックと表記されています)。スキュデリを主人公と見るか、カルディヤックを主人公と見るかで作品観も大きく変わってくる訳だが、後者の見方については訳者のあとがきでヴァルター・ハーリヒのホフマン論を引用して「カルディラックは生まれながら「生(ダス・レーベン)」即ち人の世、と相容れぬ悖徳の芸術家魂を賦与された名匠である。芸術家魂とは、市民の掟では律し切れぬ悪魔的な執心である。芸術家とは、心理的には、人間の皮をかぶった兇悪な犯罪人である。」と書かれている通りだろう。
ネタばれを承知で少し詳しく書くと、カルディヤックは精巧を極めた金細工でパリ中の貴族たちを夢中にさせていたが、自らの作品に惚れ込むあまり、カルディヤックから金細工を買った人々を次々に殺し、細工を密かに取り戻しては秘密の小部屋に蒐集していたというのがここで扱われている犯罪の中身である。これすなわち、芸術家とその作品との関係性の一つの在り方について書かれた作品という訳だが、オペラのリブレットは大胆にも原作からスキュデリや重要な役回りの火刑裁判所長官、弁護士等々の人物をそっくり取り除き、推理小説ないし犯罪小説としての要素を削ぎ落としてこの芸術の本質というものに特化しているように見えます。リブレットではカルディヤック以外の登場人物がいずれも名前を持たないこともその現われでしょう。そして、ヒンデミットがオペラの題材としてこれをえらび、カルディヤックと名づけた理由もそこにある。

この本質、芸術家とその作品との関係性について、これを読み解くキーワードは肛門性格に由来する蒐集癖と強迫性人格障害ということになろうか。カルディヤックの蒐集癖の対象が金細工というのは象徴的である。ここでは糞便から金銭、そして黄金へといった象徴交換のメカニズムが見て取れます。
「実際、太古的な考え方が支配的であったところ、あるいは残っているところではどこでも、古代文化においても、神話、童話、迷信においても、無意識的な思考においても、夢においても、また神経症においても、金銭は糞便ともっとも深い関係をもたされている。悪魔がその情婦に贈る黄金が、彼の立ち去ったのちには、糞に変わってしまうという話はよく知られているが、この悪魔はしかし、抑圧された無意識の本能生活が擬人化されたものにほかならないのである。」(フロイト『性格と肛門愛』人文書院フロイト著作集5)
少なくともここに現れる金細工はフェティシズムの対象(それはフロイトによれば男根期に由来するものと考えられる)とは異なるものということになる。そして、殺人にまで至る「物」への執着は肛門サディズム体制に因るものということになるだろう。
これはこのオペラの物語のことだけを論じているのではありません。ヒンデミットの音楽自体にみられる顕著な強迫的性格、かならずしも大規模な編成ではないにせよ、スコアにびっしりと書かれていると思しい息苦しいまでの過剰な音の洪水、せっつかれるような、まえのめりに息つく暇も与えないリズムと、極度に無調的で激烈な作風、そのすべてがオペラの題材(あるいはヒンデミットその人)の肛門性格を物語っていると思います。肛門性格と強迫神経症との強い関連についてはフロイトの「鼠男の症例」を読んだ方にはほとんど自明のことでしょうが、いま私の手元にありませんのでかわりに次の一節を参考までに引用しておきましょう。
「私がさしあたり強迫型というなじみのない名前をあたえた第二の類型は高度の緊張のもとに自我から分離してゆく、超自我の優勢ということで際立っている。この類型は愛の喪失に対する不安のかわりに良心の不安によって支配され、外への依存性のかわりにいわば内への依存性をしめしており、高度の独立性を展開して、社会的には、文化のどちらかといえば保守的な真の担い手となるのである。(中略)最後に、ナルシシズム的強迫型は、外的な自律性と良心の要請への顧慮にさらに強力な活動への能力を付加し、こうして自我を超自我に対して強化することによって、文化的にもっとも価値の高い変種を生みだす。」(フロイト『リビドー的類型について』同前)
先にも書いたとおり、私の貧弱なヒンデミット体験ではその音楽の全体像は判りません。だが、このオペラが書かれた1926年といえば、リヒャルト・シュトラウスは「エジプトのヘレナ」第一稿を書いていた頃、ベルクは「叙情組曲」、シェーンベルクもいつぞやこのブログでも取り上げたOp.29の「組曲」で十二音技法の確立に向けて苦心していたころ。そう考えるとヒンデミットの先進性というものに驚かざるを得ません。しかしその一方で、同時代の作曲家達から当然与えられる様々な影響というものも感じられ、例えばシュトラウスの「影のない女」といった作品、あるいは「カルディヤック」よりもう少し後に書かれたベルクの「ルル」の、あの幕間に映画を上映しながら演奏される間奏曲などを連想させる部分があったり・・・。「カルディヤック」の音楽的特性について、さきほど再三にわたり「強迫的」という言葉を使いましたが、いくつか抒情的な箇所もあって、たとえば第一幕の貴婦人のLiedと題された第5曲 "Die Zeit vergeht"や第二幕カルディヤックのArioso "Mag Mondlicht leuchten!"(第13曲)など、ひんやりとした抒情性に溢れています(ちなみに全三幕の音楽は全部で18曲のナンバーから成るものの、基本的には切れ目なくぶっ通しで演奏されます)。もっとも官能性はあまりなくて、いわば「砂糖抜きのリヒャルト・シュトラウス」といった感じ。いずれにしてもものすごく知的で刺激的な音楽でした。下手すりゃ一生聴くことが無かったかも、と思うと、やはり食わず嫌いはよろしくないなぁと思った次第です。

演奏については、カイルベルトの指揮にとてつもない燃焼度を感じるけれど、録音が悪くてやや聞きづらい。歌手はとびきりの名手を揃えているが、対訳がなく、こまかいニュアンスが判らないので論評しかねるところがある。フィッシャー=ディースカウなどきっと素晴らしい歌唱なんでしょうが・・・。このCD、商品としては若干問題はあるものの、もちろん舞台に接する前の予習としては十分すぎるほど素晴らしい演奏だと言ってよいと思います。
by nekomatalistener | 2013-02-21 21:04 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)