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バルトーク 「コントラスツ」

難読地名の宝庫京都ですが、いちばんすげーなこれって思ったのは阪急と嵐電で「西院駅」の読み方が違うってことかな。ってか嵐電のほうの西院はちょっと想像の斜め上をいっとる。





「コントラスツ」を生演奏で聴く貴重な機会が京都でありました。

  2016年10月13日@カフェ・モンタージュ
  プーランク クラリネット・ソナタ(1962)
  プーランク ヴァイオリン・ソナタ(1943)
  (休憩)
  バルトーク コントラスツ(1938)

  クラリネット: 村井祐児
  ヴァイオリン: 石上真由子
  ピアノ: 船橋美穂

この日のお目当てはバルトークだったのですが(カフェ・モンタージュのHPにも特にプーランクという文字はなかったと思う)、予習なしで聴いた前半の2曲が素晴らしい作品でした。プーランクといえば、なんとなく瀟洒でモダンでセンスがよくて・・・というイメージ以上のものはなかったのですが、私はこの二つのソナタを聴きながら自分の不明を恥じる思いでした。よく考えてみれば、数年前にも新国立劇場の研修所オペラで「カルメル派修道女の対話」を観て、先入観を激しく打ち壊される経験をしているのですが、その時はそれ以上深入りすることもなく、今に至るまでプーランクのことは(有名なフルート・ソナタやいくつかのピアノ曲を除いて)よく知らないままにきたのです。オネゲルの墓前に捧げたというクラリネット・ソナタは、特段死を思わせる要素はなく、曲想もどちらかと言えば軽いものであるのに、聴き終わってなぜか胸が塞がれるような気がします。ガルシア・ロルカの死に際して書かれたというヴァイオリン・ソナタはうってかわって激しい曲想に満ちていて息を呑む思いで聴きました。どちらも私は初めて聴くもので、どこまで正しく受け止めたものか心許ないですが、プーランクの室内楽をサロン風の音楽と思っていた偏見が大きな間違いであることだけはよく判りました。この人の作品はいずれ体系的に聴いてみたいと思います。

「コントラスツ」はバルトークの作品の中では比較的軽い作品というイメージがありましたが、実際の演奏を聴くと(作曲時期からして当然ではあるのだが)弦楽四重奏曲第6番に通じる一種の晦冥さを感じました。この二つの作品には共通するモチーフもいくつかあることに今更ながら気付いた次第。以前にこのブログで弦楽四重奏曲第6番について「とてつもなく深刻そうなのにどこか飄々としており、真面目かと思えばどこか投げやり、しかもある種の人生に対する悪意のようなものが垣間見えて、一筋縄でいかないとはまさにこのこと。この後にアメリカで書かれた晩年の作品にみられる澄みきった境地のようなものは全く見られません」と書いたことがありました(2015年4月30日の投稿)が、これは「コントラスツ」にも概ね当てはまるような気がします。また、「コントラスツ」というタイトルについてもこれまで深く考えたことはありませんでしたが、3つの楽器、3つの楽章の対照以外にも、通常の調弦とスコルダトゥーラされた二挺のヴァイオリン、B管とA管2本のクラリネットの音色の差の面白さがタイトルの由来だと良く判りました。

クラリネットの村井祐児は1940年生まれ、私はこの楽器のこともあまり知らないのですがその世界では重鎮なのでしょう。さすがにお年の所為か、ちょっと指がもつれたり音が抜けたり、ピアノやヴァイオリンの音に対して明らかにバランスが悪かったり、ということもあったのですが、プーランクの音楽のたたずまいが曲を知らない私にもくっきりと立ちあらわれるのはさすが。バルトークで音負けして埋もれてしまうのと、ピアノとヴァイオリンの刻むリズムにほんの少し乗り切れないのは辛いところでしたが。演奏のあとに、この日をもって引退すると仰ったのは残念ではありますが致し方ないでしょう。もっとも店主の高田さんによれば前にも何度も引退宣言されているとのことでしたが(笑)。
ヴァイオリンの石上真由子はたいへんな逸材だと思います。ちょっと調べてみたら1991年生まれ、プロとして活動する傍ら、京都府立医大の学生さんでもあるとのこと。物凄いテクニックの持ち主で、バルトークのカデンツァなど唖然とするほど。他の曲ならいざ知らず、この日の曲目の演奏としてはもう言うことがありません。ピアノの船橋美穂は合わせもののピアニストとしてはベテラン。先鋭さはあまり感じないけれど安心して聴けるのが何よりという感じでしたが、親子ほども年の離れた村井のサポートをしつつ、娘でもおかしくない若い石上と丁々発止のリズムの応酬を同時に行うというのは実は大変なことじゃないかと思いました。
(この項終り)

by nekomatalistener | 2016-10-16 23:18 | 演奏会レビュー | Comments(0)

バルトーク 弦楽四重奏曲連続演奏会vol.3

電車の中で幼稚園くらいの女の子と親戚のおばちゃん風の女性の会話が聞こえてくる。おばちゃんが女の子にすきな食べ物を尋ねると、女の子が元気に「近大マグロッ!」と答えてはりました。





泉原隆志率いる弦楽四重奏団によるバルトーク連続演奏会の最終回は第2番と第6番。伸び盛りの若い演奏家が回を追うごとに成長していく様子は観ていて(聴いていて)素晴らしいと思いました。

 2015年4月24日@カフェ・モンタージュ
  バルトーク
   弦楽四重奏曲第2番Sz.67(1917)
   弦楽四重奏曲第6番Sz.114(1939)

  泉原隆志(vn)、長谷川真弓(vn)、金本洋子(va)、城甲実子(vc)


わずか半年ほど前に、第1回目(3番&5番)を聴いたときは、そのアンサンブルの瑕の多さに少しハラハラしたものですが、その分バルトークの音楽のフォークロア的な側面が際立ち、それはそれで実に面白いものでした。その後、第2回目(1番&4番)では格段にアンサンブルの精度がよくなり、今回は満を持しての最終回という感じがしました。
以前にも書いた通り、バルトークの弦楽四重奏曲については、ジュリアードSQの旧盤に代表されるような先鋭極まりない演奏、4本の鋼鉄製の針金がきりきりと絡み合うような演奏と、私がその昔愛聴していたノヴァークSQのような、肌理の粗い手触りと濃密なマジャールの血を感じさせるような演奏の二つのタイプがあるように思いますが、彼らの演奏はもちろん後者のタイプに近い。それはアンサンブルの精度の問題もあるけれど、むしろそれより峻嶮な山々に挑む彼らの気負いと愚直なアプローチの所為だろうと思います。その結果、第2番の特異な面白さが際立っていた反面、第6番の晦渋さを改めて認識することにもなりました。

第2番は1915年から1917年にかけて書かれたということだが、その少し前に大規模なバレエ音楽「かかし王子」が、そのあとにパントマイム「中国の不思議な役人」が書かれているところを見ると、この時代にバルトークの作風が伝統を踏み越えて大きく変化したのは間違いないところ。したがってこの第2番には、ストラヴィンスキーのオペラ「うぐいすの歌」やシェーンベルクの「グレの歌」と同じく、一つの作品中に様式の大きな変化が刻まれていると言えます。ラプソディックな第1楽章、仏領アルジェリアで採集したサハラの民族音楽の影響を受けた第2楽章に比べると、急進的な第3楽章の特異さが突出しています。一般には弦楽四重奏曲第4番(1928)あたりがバルトークがもっとも「前衛的」であったとされているようですが、私はむしろ1918年あたり、「中国の不思議な役人」もそうだが、「ピアノのための3つのエチュード」なんかのほうがはるかに無調的で演奏も至難、若きバルトークが内なる天才の命ずるままに自由奔放に書いている感じがします。というわけで、弦楽四重奏曲第2番というのは一般に思われているよりもはるかに重要な作品ではないか、と改めて思いました。今回の演奏では第1、第2楽章と第3楽章との落差が巧まずして強調されていた結果、この作品の特異さ、様式の切断のようなものを理解できたような気がします。

アメリカ移住の直前に書かれた第6番は、私にはなかなか腹に入らない難物。カフェ・モンタージュの店主が、バルトークという人は真顔で冗談を言うので、周りの者はどこまでが冗談でどこから本気なのかわからなかった、同様にこの第6番もよく分からない云々と仰っていたのはまさにその通り。楽章を追うごとにMesto(悲しげに)の部分が増殖していくような構造、第1楽章のベートーヴェンの第16番や「大フーガ」を思わせるようなモットーの扱いと、同じくベートーヴェンの後期ピアノソナタのパロディのようなMarcia、冗談のかけらもない苦い味わいのBurlettaに続いてMesto一色に塗りつぶされた救いのない第4楽章。とてつもなく深刻そうなのにどこか飄々としており、真面目かと思えばどこか投げやり、しかもある種の人生に対する悪意のようなものが垣間見えて、一筋縄でいかないとはまさにこのこと。この後にアメリカで書かれた晩年の作品にみられる澄みきった境地のようなものは全く見られません。恐るべき音楽だとは思うけれど、そんなにしょっちゅうは聴きたいと思わないし、今回の演奏を聴いてもその思いは変わりません。今回の演奏は大変な熱演だったと思いますが、残念ながらその晦渋さを超えて、聴き手の腹に落ちるような演奏には至っていないと思いました。ある作品に対して、演奏者が若いということがネックになることなど本当はあまりないと思いたいのだが、この6番ばかりは彼らも歯が立たなかったという他ありません。

この名無しのカルテット、この後の予定はまったく無いそうだ。泉原さんのコンマスとしての活動も忙しいに違いなく、長期に亘ってアンサンブルを練り上げていくのは大変なのかもしれませんが、今回のバルトークシリーズは大成功だったと思うので、なんとかこれからも弦楽四重奏団としての活動をしてほしいものです。ショスタコーヴィチの15曲、シェーンベルクの4曲、ウェーベルンの3曲(Op.5,9,28)にベルクの2曲etc、彼らの演奏で聴いてみたい作品はたくさんあります。どうか息長く取り組んでほしいと思うのですが。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2015-04-30 23:10 | 演奏会レビュー | Comments(0)

バルトーク 弦楽四重奏曲連続演奏会vol.2

検索画面で「常岡」とうっただけで「常岡浩介 猫」とか「常岡浩介 にゃーにゃ」とか出てきてなごむわー。





泉原隆志率いる弦楽四重奏団のバルトーク連続演奏会の第2回を聴きました。

  2015年2月9日@カフェ・モンタージュ
  バルトーク
   弦楽四重奏曲第1番Sz.40 (1909)
   弦楽四重奏曲第4番Sz.91 (1927)

  泉原隆志(vn)、長谷川真弓(vn)、金本洋子(va)、城甲実子(vc)


同じメンバーによる第1回の様子は以前このブログに書きましたが、

http://nekolisten.exblog.jp/20248537/

今回の演奏もバルトークのフォークロア的な側面を際立たせる演奏という印象は変わりません。しかし、前回よりも技巧のほつれが少なく、音楽への踏込み方も深くなっており、完成度が格段に上がっていました。上り坂にある若い人達らしく、わずか数ヶ月の間に驚くほど巧くなっているように思いました。
私個人のバルトークの弦楽四重奏曲との出会いについては前回書きましたので繰り返しませんが、第1番についてはどうしても後の諸作に比べて、内容の割に長すぎるのではないか、といった感想を持たざるを得ませんでした。しかし、今回彼らの闘志がみなぎるような気負い立つ演奏を聴いて、初めてこの作品を飽きずに最後まで面白く聴きとおせたような気がします。このことは本当に凄いことだと思います。バルトークの、ベートーヴェン以降の弦楽四重奏曲の歴史に連なろうとする気負いが、彼らの今現在の演奏スタイルにぴたりと合致したことでこのような演奏になったのでしょう。そしてその気負いを正しく表現すれば、フォークロア的側面は体臭のように自ずと現れ出るのだと思います。もしかするとこのような表現は、技巧にも優れ、場数を踏んだベテランではなくて、彼らのような伸び盛りの若い四重奏団にしかできないものがあるのかも知れず、今回の演奏を聴けたことは実に貴重な体験であったのかも知れません。

第4番について、カフェ・モンタージュの店主がベルクの「抒情組曲」と並んで20世紀の弦楽四重奏曲の双璧といったことを口にされていましたが、これに異を唱える向きは少ないだろうと思います。もちろんショスタコーヴィチ、シェーンベルク、ウェーベルン、ブリテンはどうなるんだ、という声もあろうかと思いますが、彼らの作品がどれか一つというよりは全体として重要であるのに比べて、抒情組曲とバルトーク4番はずばり1曲対1曲のガチンコ勝負という感じがします。それだけどちらも多彩で密度の濃い作品ということでしょう。
それはともかく第4番も実に面白い演奏。彼らの演奏は、前回よりはるかに技巧的な難点が克服されているものの、精緻といった感じではなく、かなり粗削りなところも残しているのは確かだろうと思います。しかし粗削りだからこそ、この作品のもつマジャールの血の刻印がはっきりと読み取れるような気がしました。前回、私は第3番を評して「バルトークのラジカルな要素とフォークロア的要素がぎりぎりの地点で奇跡のように両立している」と書きましたが、今回の演奏を聴くと、やはりこの言葉は第4番にこそ相応しいと思います。そういった意味で、作品の本質をとらえた優れた演奏であったと思います。

このシリーズ、来る4月24日、第2番と第6番が最終回。今回も満員御礼だったそうなので、興味のある方はどうぞお早めに。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2015-02-12 22:34 | 演奏会レビュー | Comments(0)

バルトーク 弦楽四重奏曲全曲演奏会vol.1

私が生まれて初めてハマった曲は多分「ワシントン広場の夜は更けて」。本人の記憶はないが、「あんたはこのレコードかけんとご飯食べんかったね~」等の証言多数。





京都のカフェ・モンタージュでバルトークの弦楽四重奏曲を2曲聴いてきました。

  2014年9月30日@カフェ・モンタージュ
   バルトーク
    弦楽四重奏曲第3番Sz.85 (1927)
    (休憩) 
    弦楽四重奏曲第5番Sz.102 (1934)

  泉原隆志(vn)、長谷川真弓(vn)、金本洋子(va)、城甲実子(vc)

私がバルトークの弦楽四重奏曲を初めて聴いたのは中学生の頃、ノヴァークSQの廉価盤LPを買ってそれこそむさぼるように聴いた時期がありました。たまたま安くて目についた程度のきっかけでしたが、名高いジュリアードSQではなくノヴァーク盤からバルトークの世界に足を踏み入れたのは今にして思えば意味のあることだったと思います。精緻極まりないジュリアードに比べて、荒削りでバルトークの土俗性を否応なく暴きだすノヴァークSQの演奏は、一般に傑作とされる4番以降よりも前半の3曲により向いていると思います。実は私、バルトークの6つの弦楽四重奏曲の中では第3番が一番好きなのですが、バルトークのラジカルな要素とフォークロア的要素がぎりぎりの地点で奇跡のように両立している作品だと思います。もし私がジュリアードの旧盤あたりを最初に聴いていたなら、多分第4番のほうをより好んでいたかも知れません。フォークロア的要素を高度に抽象化して激烈な音楽に仕上げた第4番はもちろん傑作だと思いますが、個人的な好き嫌いのレベルでは断然第3番になってしまうのは、若い頃のノヴァークSQ体験の刷込みによるところが大きいのではないかと思っています。

さて今回の演奏、今のところ名無しの弦楽四重奏団ということで、アンサンブルとして練れていないのかも知れませんが、前半の第3番はかなり瑕の多い演奏でした。冒頭のチェロのハーモニックスの上に積みあがる和音からして今ひとつ音程が決まらず、一気に不安になりましたが、案の定seconda parteでは何度か崩壊寸前まで乱れることも。ちょっと「商品」としてどうかな、と思いつつも、なんというかこの作品の「初演」を聴いているような不思議な感覚になりました。これは皮肉でも嫌味でもなくて、彼らが満身創痍ながらも借り物でない自分達の言葉で語っていたということなのだろうと思います。少なくともジュリアードの劣化コピーを聴かされるよりは遥かに面白い演奏でした。多分その率直で奔放な表現が作品のフォークロアな部分にマッチするのだろうと思います。
私は何種類も聴き比べてきたわけでもなく、熱心なコンサート・ゴーアーでもないのでよくは知りませんが、バルトークの場合、やはりジュリアードの旧盤の影響というのが大きくて、その磁場から逃れて自由に演奏するということが非常に困難な状況なのかな、と思います。いま手元にあるエマーソンSQのCDを聴いてもそういった感をつよく持ちます(ものすごく優れた録音ではありますが)。その点今回の演奏、粗はあっても自由にのびやかに(ご本人達はそれどころじゃなかったかも知れませんが)弾いておられた感じを受けたのは良かったと思います。

後半の第5番は前半よりも精度の高い演奏で、作品の核心の部分に迫るものがありました。この第5番については、これまでバルトークの創作の絶頂期に位置しながらも、なにか生命力の衰えのようなものを感じていました。これはほぼ同時期の「弦楽器・打楽器・チェレスタのための音楽」や「2台のピアノと打楽器のためのソナタ」も同様。大変な傑作だけれど1920年代の勢いは残念ながら失われていると思っていました。しかし今回の演奏を聴いて、作品に宿っている膨大なエネルギー(うかつにも今まであまり気づいていなかった)を感じ取ることが出来たように思います。多少粗っぽい演奏ではありますが、既存の演奏のコピーでなく自分達の言葉で表現しようとする気迫が、作品の真価を聴き手に伝えるのだと思います。
個々の奏者の技量を云々することはしませんが、京都市交響楽団のコンマスでもある泉原氏が強力に(強引に)全体を統率するスタイル。場数を重ねてもうすこし余裕が出来たなら伸び代は大きいと見ました。今後バルトークの全曲演奏を目指しているとのこと。作品としての完成度の高さでは随一の第4番や、一筋縄ではゆかぬ悪意と苦い味わいに満ちた第6番などにどう取り組んでいかれるのか大変興味を持っています。

余談ですが、カフェ・モンタージュの店主、ちょっと要領悪そうで軽くイラッと来るタイプなんだけれど、演奏前のちょっとしたトークが飄々としてなかなか良いです。演奏会のフライヤーがいつも手作り感溢れているのですが、今回のは同時代の空気を表したくてアンドレ・ケルテスが1938年に撮ったニューヨーク・シティ・バレエの写真を使ってみたとさりげなく解説。いやぁそのセンス、侮れませんわ。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2014-10-01 23:37 | 演奏会レビュー | Comments(0)