タグ:ジェフスキー ( 1 ) タグの人気記事

The People United will NEVER be defeated!

「アリとキリギリス」のwikipediaの記述すごいな。
「この寓話には二つの寓意がある。一つは、キリギリスのように将来の危機への備えを怠ると、その将来が訪れた時に非常に困ることになるので、アリのように将来の危機の事を常に考え、行動し、準備をしておくのが良いというもの。 二つ目は、アリのように夏にせこせことためこんでいる者というのは、餓死寸前の困窮者にさえ助けの手を差し伸べないほど冷酷で独善的なけちであるのが常だ、というものである。」





なんとなくサヨク嫌いだと思っていた大井さんが、よりによってこんなプログラム。4月1日(エイプリルフール)というのと相俟って、これは何か悪い冗談なのか、と最後まで気が抜けない(笑)。


 2015年4月1日@カフェ・モンタージュ
  
  高橋悠治: 毛沢東詞三首 (1975)
  ジェフスキ: 「不屈の民」変奏曲 (1975)(カデンツァは池田拓実(2015)※)
  (アンコール)
  坂本龍一: エナジーフロー (1999)
  吉松隆: 左寄りの舞曲Op.35-2 (1988)

  ※カデンツァで引用された曲: 
  高橋悠治《管制塔のうた》(1978)〔成田空港入場検問廃止記念〕
  セルヒオ・オルテガ《ベンセレーモス》(1971)
  《サリール・アル=サワリム》(2014)

  ピアノ: 大井浩明


思うに大井浩明というピアニストは、自分の好む作品をリサイタルで提示するだけでは飽き足らず、その作品の生まれたコンテクストの全体像を示そうとする志向が強いのだと思います。この人が本当に好んでいる作品は、たぶんどこかで本人が話していたとおりシュトックハウゼン、クセナキス、ブーレーズあたりなのだとおもうが、それらの作品を繰り返し繰り返し取り上げるだけでは飽き足らず、その同時代の、あるいはそれに先行する、または影響を受けた人たちの膨大な作品のアーカイヴを提示せずにはいられないのだろう。
同様の志向は多かれ少なかれ、現代音楽(あまり好きな言葉=切り分け方ではないが、便宜的に1945年以降の音楽をこう呼んでおく)を得意とする演奏家に共通するものだろうと思います。ブーレーズもポリーニも、自身のプログラムビルディングによる大規模な現代音楽の連続演奏会を行っています。しかし、ブーレーズが一連の20世紀音楽の回顧展を行った際のインタビューで、ショスタコーヴィチがひとつも入っていないことを訝しんだインタビュアーに対し、「私はショスタコーヴィチが重要な作曲家だとは思いません。それに下品ですし・・・」と答えたように、ブーレーズにしてもポリーニにしても、そのプログラムは彼らの厳しい審美眼に耐える作品のみが選ばれており、彼らの「趣味に合わない」作品は厳しく排除されていたように思う。しかし、大井浩明はこれまで膨大な作品を取り上げているが、それは彼自身が好む作品だけではなく、そのコンテクストを構成するものであれば例え自分の趣味でなく、共鳴もしない、あるいは駄作であっても敢えて取り上げるという点で、他に比べるもののないピアニストという気がします。
そういった意味で戦後のある時期、60~70年代の音楽を取り上げようとすれば、このコンテクストを提示するには政治的メッセージ(それももっぱら左寄りの)の強い一連の作品をオミットするわけには絶対にいかないと考えたのだろう。誰がどう考えたって、思想的な意味で大井浩明とジェフスキーや高橋悠治が共鳴することはありえないにも関わらず、大井浩明は敢えて彼らの作品だけでリサイタルを行う、そういう人なのだ。しかも4月1日(四月馬鹿)に悪意を込めたアンコール曲と並べて。
大井浩明の「政治思想」がいかなるものなのか、彼のツイッターに溢れるネトウヨ風の露悪的なディスクールをどこまで真に受けたものかよく分かりませんが、今回のアンコールも含めた「サヨク的なるものに対するあからさまな悪意」は筋金入りという気がします。カフェモンタージュに集まった聴衆が実のところどう思ったか知らないが(案外、坂本龍一すてき!とか思ったかもしれないが)、もし坂本龍一や吉松隆がこの場に居合わせたなら、その微妙なおちょくり方に憤慨して席を蹴って帰ってもおかしくないとおもいます。

以上は演奏家の思考を忖度しながらの考察だが、一方で聴くものの立場からすれば、こういった演奏会に接して、「音楽は思想(政治)を語りうるか」という根源的な問いを改めて考えないわけにはいかない。私は再三再四書いてきたように、音楽というのは本質的にシニフィアンの連鎖であって、一切の意味作用を剥奪されていると考えるものであるが、反対に音楽というものは本質的に政治的なものであって、人はあらゆるところにそのメッセージ性を感じ取るべきであるという立場があるのは当然だろうと思います。特に革命歌の引用を聞いて人は何を思うべきか、というのはなかなか面白い設問であろう。例えばこれがベルクのヴァイオリン協奏曲であれば、バッハのコラールの引用から「われ満ち足れり」という章句に思いを致さずに音だけを聞くというのは困難だろう。音楽がシニフィアンの連鎖だとしても、いわば不純物の形で介入してくる言葉や意味というものを抜きにしてその音楽を評価できるのか、というのは意外に困難な問いだと思います。

大井浩明の演奏はここ最近いつも思うことだけれど、ディティールが粗っぽくて、長時間聞き続けるのは正直つらいところもある(初めて「不屈の民」を聴いたのがアムラン盤、なんて人は尚更だろう)。しかし今回はそのような演奏スタイルが案外合ってなくもない。学生運動華やかなりしころの集会で奏でられる音楽はこのような粗い手触りのものこそ相応しいだろう。そのような音楽はコンサートホールなんかじゃなくて、昔であれば京大の西部講堂なんかが相応しかったのだと思うが、この日のカフェモンタージュはある意味そのような特殊な空間のオールタナティブとして機能していたように思う。ひさびさにアングラという言葉をふと思いだす実に不思議な感覚。客の入りが少なくて20人ほどしかいなかったが、それもまた良し。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2015-04-02 22:58 | 演奏会レビュー | Comments(0)