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京都市交響楽団創立60周年記念特別演奏会 シュトックハウゼン 「グルッペン」

猫にいつものカリカリじゃなくて猫缶あげたら余程美味いのかフガフガいいながら食べてる。クリスマスだしいいよね。





関西でグルッペンを生で聴く機会があるとは思わなかった。しかもケージとの取り合わせ。

 2016年12月23日@京都市勧業館みやこめっせ(第3展示場)
 シュトックハウゼン 3つのオーケストラのための「グルッペン」(1955~57)
 (休憩)
 ジョン・ケージ 5つのオーケストラのための30の小品(1981)
 (休憩)
 グルッペン(2回目)

 指揮
 シュトックハウゼン1・ケージ5:広上淳一
 シュトックハウゼン2・ケージ1:高関健
 シュトックハウゼン3・ケージ4:下野竜也
 ケージ2:大谷真由美
 ケージ3:水戸博之
 京都市交響楽団


今回の演奏会は京響60周年記念演奏会ということなのだが、それにしてもなんという大胆なプログラム。しかも驚いたことに何百人、何千人いるのか分からないけれどぎっしりのお客さん。いわゆる現代音楽だけのプログラムでこの集客は驚異的、というより殆ど有り得ないことだと思う。グルッペンが世に出てほぼ60年で、日本で演奏されるのはこれが3回目だという。東京からもたくさんの音楽関係者や好事家が集結していたのは間違いないにしても、どうみてもオタク系でないごく普通のコンサート客が大半を占めている。これはひょっとして1曲目で半分くらい帰っちゃうんじゃないか、と危惧していたが、最後までそんなに減った印象はない。休憩時にごく普通の若夫婦やオバサマ達の会話を聞くともなく聞いていると、「なんか難しいけど面白いね」「下野さんカワイイ!(笑)」といった感想が聞こえてくる。演奏中もみんな身じろぎもせず聴いている感じ(ケージのときはさすがに爆睡客が多かったみたいだが・・)。聴衆のマナーも上々。京響おそるべし。京都という町の懐の深さはもっとおそるべし。本当にこのオーケストラは日本一、いやもしかすると世界一市民から愛されているのかも知れない。
会場のみやこめっせは普段は企業の展示会などに使われているようだが、そのだだっ広い展示場(4千平米!)の正面と四方の5ヶ所にオーケストラ席があり、それに取り囲まれたフロアに折畳み椅子が並べられている。一旦座ってしまうと身動きもできないほどの詰込ぶりに、おそらく主催者だってここまでの盛況は予想していなかったことが伺われる。演奏前にNHKの岩槻アナの司会でまずは指揮の広上氏登場。60周年の記念に常任指揮者3人で何かやろうということになり、最初はモーツァルト(たぶん4つのオーケストラのためのセレナード第8番と、3台のピアノの協奏曲)などが案として挙がっていたようだが、下野さんが「グルッペンやりたい」と言い出し、高関さんが「いいね」、広上さんは「・・・?」だったそうだ。
さて肝心のグルッペンだが、私は生でこの作品を体験できただけでもう感無量であった。しかも3人の指揮者の確信に満ちた指揮を見ていると、完全に作品が手の内に入っているという印象を受けた。3つのオケが合うべきところでびしっと合うのには一種の生理的快感を味わった。中ほどより少し後の、3つの金管群が同じコードを吹き交わすところは(録音で聴いて想像はしていたけれど)頭のまわりをぐるぐると音像が駆け巡る。この目眩にも似た身体的な快感は本当に素晴らしい効果で、セリエリズムがどうのこうの、といった議論を吹っ飛ばすだけの力がある。会場が会場だけに、弦の音が届きにくい(ただでさえデッドな音響なのにフラジョレットやピッチカートを多用したりするので余計に)憾みはあるけれど、管と打楽器はほぼ過不足なく聞こえた。いやむしろシュトックハウゼンが書いた精緻極まりないスコアを耳で聞いて体験するには、音が融け合わないこのデッドな空間は意外に悪くなかったとも思えた。

休憩を挟んで今度は岩槻アナと高関氏のトーク。ケージ作品は3つのオケが緊密にリンクするグルッペンと異なって、5つのオケの指揮者とメンバーは自分の属するオケのスコアしか見ることができず、各曲の時間の中で、他の4群の音を聞きながら「適当に入っていく」のだそうだ。拍手が静まると会場のどこからともなくラジオの音が流れてくる。この日23日の15時過ぎのNHK第一ラジオはニュース解説でヘイトスピーチがどうとかの後にシェイクスピアの「ヴェニスの商人」の放送劇をやっていたのだが、それが演奏中にずっと流れている(なんか出来過ぎのような気がしたが後で調べてみたらリアルタイムでやっていた)。5つのオケといっても基本は音がスカスカなところがケージらしい。何より面白いのはこの偶然性という基本原理と作品の構造的な緩さというものが耳で聞いて如実に実感できるということ。先にも書いたが、聴衆がついつい眠りに落ちてしまうのも、グルッペンの緊密な書法と正反対のケージの書法を正しく受け止めた結果だとすれば、爆睡するのもまったくOKということになるだろう。まったくグルッペンと並べてケージをやろうという発想には恐れ入る。私はグルッペンの一回目と同じ席、会場の真ん中よりすこし後方(グルッペンの3人の指揮者は一望できるがケージの第1・第4オケは見えない)で聴いたのだが、グルッペンより更にサラウンドな音響効果を期待したが後方の2つのオケは殆ど後方から響いているようには聞こえなかった。これは人間の耳の構造上やむを得ないことなのだろう。第4オケにはパーティーで使うクラッカーのようなものも置いてあったはずだがこれも聞こえなかった。こんなことも生で聴かない限り決して分からないことだろう。

ケージのあとの休憩で何と席替え。一旦荷物を持って外にだされた客が大槻アナの合図で一斉に前方の席取りに駆け出すのは壮観でもあり、ちょいと危険な感じもするが、京都のお客さんは(大阪と違って)筋が良いので事故もなく席替え完了。こんなこと書くと大阪人に怒られそうだが、京都の人は性格は悪いけど民度は高い(大阪はその逆)ので仕方がない。私は後半は下野さんの第3オケのすぐ近くの席を確保した。
最後は下野氏のトークで、あんまり覚えていないが(笑)人柄の良さだけはよく分かる。そして2回目のグルッペン。こういった作品で繰り返し聴けるのは本当にありがたい。聞こえ方の違いそのものも面白いが、舞台狭しと並べられたザイロリンバやタムタム、スネアドラムとアフリカンドラム、カウベルといった夥しい打楽器群と、気迫に満ちた奏者の動きという視覚的な要素も加わってより面白く、この作品を本当に堪能したといったところだ。演奏後のなかなか熱狂的な拍手に、これは現実の光景だろうかと訝しく思ったほど。ケージはともかく、グルッペンは完全に古典の領域に入ったと言えるかもしれない。それにしても昨年のサントリーホールのツィンマーマンの時も思ったが、前衛的な音楽は客が入らないと思い込んでいるプロモーターは少し考えを改めたほうが良いのではないか。この日の偉業はしばらく業界の語り草になるだろうが、是非とも他のオーケストラやオペラハウスのレパートリー拡大に繋がってほしいものだと思う。
(この項終り)

by nekomatalistener | 2016-12-24 23:38 | 演奏会レビュー | Comments(0)

シュトックハウゼン 「光の月曜日」を聴く (その4)

以下の記事を投稿しようと思っていたらブーレーズ死去のニュースが飛び込んできた。ちょっと今は言葉もない・・・





「光の月曜日」、今回が最終回。
個人的な話で恐縮ですが、大阪の万博の時、私は小学二年生。両親にねだって何度も連れて行ってもらった。殆どすべてのパビリオンを制覇しているはずなので(凝り性は生まれつき)、当然ドイツ館では半年間殆ど張り付きだったシュトックハウゼンと仲間たちの演奏を聴くチャンスもあったはずだが、残念ながら何の記憶も残っていない(せんい館の湯浅譲二はかすかに憶えているのに・・・)。
シュトックハウゼンは2002年に亡くなっているが、それまでもちろん彼自身の演奏も聞いたことがない。私らの世代はある意味、60年代から70年を頂点とする一連の前衛音楽に関しては「遅く生まれすぎた世代」だともいえるが、将来いつの日か東京でリヒトが上演されるとして、その時に「早く生まれすぎた世代」になりたくないものだ。


「エーファの魔法」と題された第3幕は以下の部分から構成されています。

 エーファの魔法
 バセット・ホルン、アルト・フルートとピッコロ/合唱、児童合唱/モダン・オーケストラのための 

  使徒
   ・エーファの鏡
   ・知らせ
   ・スザーニ
   ・アヴェ
  パイド・パイパー(まだら服の笛吹き)
  誘拐

前半の「使徒」、どんな物語が展開するのかという問いに答えるのはとても難しい。こればかりは舞台で観ないとなんとも言えませんが、次のような合唱の歌詞の断片から作品の世界観を推測する他なさそうです(引用は「シュトックハウゼン音楽情報」のサイトから)。

  あなたはフォルメルのリム(分節)を集め、
  新たに分配し、
  エーファの身体の三度とミヒャエルの魂の四度の
  統合によって世界を癒やし、
  『光』の
  正しい理解を助ける。

「使徒」ではバセットホルンとフルート(どちらも舞台上で仕草をしながら演奏するらしい)がフィーチャーされ、濃密な雰囲気の合唱と絡みます。「月曜日」全体の中で最もアクースティックな音響が聞かれます。

後半の「パイド・パイパー」、Pied Piperとはあの「ハーメルンの笛吹」のこと。まだら服を着たフルート奏者(カティンカ・パスフェーア)が吹く様々な音や発語、サウンドプロジェクションによる物音や動物、鳥などの鳴き声などを子供達が声で真似していきます。これが大層面白い。初期の「少年の歌」以来、声や言葉を使って様々な実験を重ねてきたシュトックハウゼンの面目躍如といったところだろうと思います。この部分は独立した楽曲としての演奏も可能で、別CDも出ており幾分入手しやすそう(実はyoutubeで聴くこともできるけれど、権利関係がどうなっているのか判らないのでここには載せません)。お試しでこれをまず聴くという手もあるでしょう。少なくともリヒト入門編としては「ヘリコプター四重奏」よりもよほど近づきやすいような気がします。これはもう機知の爆発と言ってもよさそうだ。

続く「誘拐」でまたしてもサーカス風の音楽が響きます。前回ビートルズの「ビーイング・フォー・ザ・ベネフィット・オブ・ミスター・カイト」に言及したけれど、シュトックハウゼンのような音楽家がサーカス音楽を引用するとマーラーやストラヴィンスキーやアイヴズといった過去の音楽のアーカイブが凝縮されているように聞こえます。次いでエーファのフォルメルによる歌が何度も何度も繰り返されながら次第にフェードアウトしていきますが、その間舞台上では子供達が笛吹に着いていって姿を消し、エーファの巨大な彫像は次第に干からびて藪や灌木に覆われた山になっていきます。


この後、聴衆を見送るための「月曜日の別れ」と題された30分弱の音楽が演奏されます。

 月曜日の別れ(エーファの別れ)
 ピッコロ・フルート、多重ソプラノ・ヴォイス、電子鍵盤楽器のための

ここでは第3幕の「誘拐」で聴かれた歌がピッコロとソプラノによって延々と繰り返され、甲高い鳥の声とともにあたかも天上に消え去るかのようにフェードアウトします。それはこの巨大な作品(「迎え」と「別れ」を含めると4時間半を超える)が、水=海=羊水の世界から天上=空=鳥の世界に向かう大きな流れの中にあったことを認識させてくれます。長いと言えば長い音楽ですが、聴いていると時間の感覚が少し麻痺してしまう感じ。リヒト全体を支配している「フォルメル技法」について、私は未だによく分かっていませんが、大変印象的な旋律が何度も繰り返されるのを聴いていると、同じ音列による書法でもトータルセリエリズムとはまったく異なる音楽世界という印象を持ちます。

4回に亘って紹介してきましたが、この作品の面白さをどこまでお伝えできたものか心許ないというのが正直なところ。情動に訴える音楽ではありませんが、知的な構築物といったイメージとも少し異なる音楽。意外なほどウェットで、時に下品だったり俗っぽかったり、しかし基本的に仄暗く生暖かい音楽は、私が普段慣れ親しんできた音楽とは随分違うのでちょっと例えるものが見当たらない感じもします。次は「光の火曜日」に挑戦する予定です。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2016-01-06 23:55 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

シュトックハウゼン 「光の月曜日」を聴く (その3)

野坂昭如死去。最近はすっかり遠ざかっていたけど、ふと懐かしく思い出したのは「砂絵呪縛後日怪談(すなえしばりごじつのかいだん)」とか「骨餓身峠死人葛(ほねがみとうげほとけかずら)」といった業の深そうな怪談もの。あの独特の華麗な文体はクセになる。





第2幕は「エーファの二度目の出産」と題されていて、次のような部分から成り立っています。


エーファの二度目の出産
7少年独唱/バセット・ホルン、3バセット=テーゼ/コンサート・グランド・ピアノ/少女合唱、合唱、21女優/モダン・オーケストラのための 

 ・少女の行列
 ・ピアノ曲を伴う受胎
 ・再誕
 ・エーファの歌
   コア・デ・バセット-週の輪-バセット・テーゼ-イニシエーション

編成にある「モダン・オーケストラ」とは前回も書いた通り、複数台のシンセサイザー、サンプラー、打楽器、テープからなるユニットを指す用語のようです。バセットホルンや第三幕に登場するフルートは登場人物としての奏者により舞台の上で演奏され、通常であればピットの中に入るべき演奏者はサウンドエンジニアを含めてもごく僅かということになります。
通常の意味で物語が分かりやすく進展するということはありません。エーファは二度目の出産で月曜日の子供、火曜日の子供、以下日曜日まで七人の子供を産みますが、第一幕に比べると「あらすじ」のようなものの展開は希薄で、それにかわって劇中で演奏されるピアノ曲や、子供が歌う「週の輪」の音楽的な独立性が目に付きます。
「エーファの歌」の一部分をなす「週の輪」は、どことなく東南アジア風の特徴的な旋律が、あたかも有節歌曲のように繰り返され、「月曜日」の中でも最も耳に残る部分かも知れません。シュトックハウゼンの筆致は、子供が歌うには情け容赦もないというか、大変難しい歌唱だろうと思います。旋律は「三層の音楽的フォルメル」から構成されているそうだが、私は附点の附いた4度あがる部分がミヒャエルのフォルメルかな、とかろうじて分かる程度。ともかく「月曜日」全曲の中でも聴きどころとしては随一の箇所でしょう。歌詞は曜日ごとにごく断片的なものだが、「リヒト」全体の把握のためには大変重要なものという気がします。とりあえず「月曜日」の部分だけCDのブックレット及び「シュトックハウゼン音楽情報」のサイトから引用するとこんな感じ。


MONTAG:
Mond-Licht (humorvoll:heiß fängt die Woche an…)
EVA-tag - Geburt der Kinder
tsch - Rauschen - Mut
Grün Silbergrün - Sopran
Wasser - Riechen
Zeremonie und Magie

月曜日
月の光(ユーモラスに:熱は週の始まり…)
エーファの日 - 子供たちの誕生
チ-あふれ出す-勇気
緑色 銀緑色 - ソプラノ
水 - 嗅覚
儀式と魔法

「ピアノ曲を伴う受胎」は、女達の「エマール!」という呼びかけに応じて、セキセイインコの恰好をしたピアニスト(初演時はピエール・ローラン・エマール)がグランドピアノを弾きます。このピアノパートだけ独立させたものは「ピアノ曲XⅣ(『光の月曜日』の誕生日のフォルメル)」と題されてピエール・ブーレーズに捧げられているとのこと。内部奏法を含むこのピアノパートは、技巧的であるよりは叙情的ないし神秘的なもの(16分音符=60というとてつもなく遅いテンポで始まる)。私は以前このブログで、大井浩明が「クラヴィア曲XVIII(水曜日のフォルメル)」を弾いたときに、「安っぽいミュージカル、あるいは暗黒舞踏かなんかの舞台音楽みたい、というのが正直な感想」と書いたことがあるが、「月曜日」のほうも若干通俗的な感じがします。以前はなんとも居心地悪く聞こえたわけだが、今ならこの通俗性も含めてこの時期のシュトックハウゼン「らしさ」と捉えることができます。いずれにしても、初期の11曲のピアノ曲からなんと遠くまで来たのだろうと思わざるを得ません。
順番は前後しますが、冒頭の「少女の行列」は、シンセサイザーと澄んだ金属音のする打楽器に彩られた神秘的な女声合唱。「エーファの歌」の冒頭の「コア・デ・バセット」はホルンのCorとフランス語のCoeurを掛けた言葉、また「バセット・テーゼ」はBASSETTINENあるいはBASSET-TEASESと標記されていて、どちらも言葉遊びらしく訳しようがないようです。それはともかく、第2幕の後半はバセットホルンと少年の歌が大活躍します。サウンドプロジェクションでサーカスの音楽のような断片が背景に散りばめれ、休日の公園みたいな喧噪が聞こえてきます。私はふとビートルズの「ビーイング・フォー・ザ・ベネフィット・オブ・ミスター・カイト」を連想しましたが、牽強附会の誹りを免れないだろうか。この曲が収められた1967年のアルバム「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」のジャケットにはシュトックハウゼンの顔も描かれていたが、このサーカスの音楽はそれへの20年後の返礼であってもおかしくないのだが。

物語としての展開が希薄な分、舞台上でのアクションが重要になるものと思いますが、CDで音を聴くだけでは正直なところ想像もつきません。これが通常のオペラであれば、台本作家や作曲家の手を離れて繰り返し上演され、良くも悪くも変質していくものと思われますが、「リヒト」の場合今後どのように推移していくのだろうか。舞台上のパフォーマーたちの所作についても詳細な指示をだしたシュトックハウゼンの場合、本人が死去して後の上演というのはなかなか困難を伴うものだろうと想像します。
先日、タデウシュ・カントールにまつわる展覧会を観て、このブログにも感想を書きましたが、カントールは舞台上に自ら立ち、指揮者のように役者に指示をだしたり、睨みを効かせたりしていました。このようなケースであれば、カントール死後の上演というものに、どのようにオーセンティシティを与えるのか、というのは難しい問題だと想像しますが、シュトックハウゼンの場合にも同じ問題があるのではないでしょうか(その意味でもオペラより演劇により近い感じがします)。
こんな例は演劇ではいくらでもあって、例えば白石加代子、鈴木忠志と早稲田小劇場による「劇的なるものをめぐってⅡ」、それが如何に伝説的な舞台であろうと、また当事者の幾人かが生きていようと、1970年の上演の姿を目の当たりにすることは誰にも出来ません。特に、白石加代子以外の女優による再演ないし再現など、オーセンティシティー以前にもやは意味をなさないと言わざるを得ません。
もちろんシュトックハウゼンの場合、昨年の東京における「歴年」のように、まずは初演時のコピーで構わないから、とにもかくにも舞台で観ることに意義があるとも言えます(因みにこの時は、「月曜日」の録音にも参加しているカティンカ・パスフェーアが「監修」という形で参加していた)。だが二度目三度目のプロダクションとなるとどうだろうか。いつまでもコピーという訳にもいかないだろうが、勝手な改変は何かと問題がありそうですね。ヨーロッパでの上演の状況など、詳しい方のご教示をお願いします。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2015-12-29 00:22 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

シュトックハウゼン 「光の月曜日」を聴く (その2)

新聞に軽減税率適用。ロビー活動成功でヒャッホーな人達を思うと腹立たしくて購読止めたくなるが、猫のウンコ包んで捨てるのに必要だから止めれない。





おそらくこんなマイナーブログを読んで「そうだ、俺もリヒト聴いてみよう」と思う方などほとんどおられないと思いますが、たとえ一人でも二人でもいい、「聴いてみたいけど正直迷っている」という方の背中をそっと押すぐらいのことはしてみたい。少なくとも「月曜日」を聴く限りでは思いのほか聴いて面白く、激しくイマジネーションを刺激する音楽でした。これを舞台で観たらさぞかし面白いだろうと思います。確かに前衛的な書法ですから万人向きとは言いませんが、けっしてビビるようなシロモノではない、と思います。

前回紹介した「月曜日の迎え」に続く第1幕は「エーファの最初の出産」と題されています。編成については「3ソプラノ、3テナー、1バス、1俳優/合唱(テープ)、21女優、児童合唱(7ソプラノと7アルト)/モダン・オーケストラのための」と書かれていますが、ここでいう「モダン・オーケストラ」とは複数のシンセサイザー奏者(ここでは3人)とサンプラー、多様な打楽器とテープからなる音響のことを指しているようです。弦楽器や管楽器が何十人と集まった通常の「オーケストラ」とは全く異なる用語です。
旧世代のシンセサイザーの音響はどことなくチープな感じもする。しかしこのチープさは、この時代のシュトックハウゼンの持ち味にもなっていて、決してネガティブな印象はありません。シュトックハウゼンがいわゆるプログレに与えた音楽的な影響というのは絶大なものがあると思うけれど(例えば「タンジェリン・ドリーム」の創設メンバーのコンラッド・シュニッツラーは14歳の時にシュトックハウゼンの電子音楽を聴いて多大な影響をうけたといいます)、70年代の終わり頃からの彼の音楽には逆にプログレからの影響というのも考えられそうだ。もちろんそれを断言できるほどの証拠がある訳でもないし、音楽をとことん聴き込んだ訳ではないので、あくまでも現時点での仮説です。

「エーファの最初の出産」は、次の6つの場面から出来ています。
 妊娠
 ハインツェルメンヒェン
 誕生のアリア(最初と第二)
 少年達の大騒ぎ
 ルツィファーの激怒
 大いなる嘆き
前回も書いたように、「月曜日」にはかろうじて物語らしきものがあります。この「最初の出産」でエーファは、
 ・ライオンの頭をした男の子
 ・ツバメの頭と羽と小さな尾をした双子の男の子
 ・馬の頭をした男の子
 ・オウムの頭と羽毛をした男の子
 ・セキセイインコの頭と羽根をした男の子
 ・犬の頭と足をした男の子
の7人の子供と、7人のハインツェルメンヒェン(ケルンの妖精あるいは小人)を産みます。ルツィファーはここではルツィポリープと呼ばれて、バリトン歌手と俳優の二人一役で表現されます。彼がなぜ激怒しているのか、テキストを読んでも私にはさっぱり分からないけれど、エーファに仕える女たちのからかいの様子は、「ラインの黄金」のアルベリヒとラインの乙女たちを想起させます。愛の断念から壮大な神話が始まるとでもいうのでしょうか。ともあれ、一度女達によって砂の中に埋められたルツィファーは、海の中から姿を現して子供達に「みんな戻れ!!もう一度はじめからやり直し!!!」と怒鳴る。子供達はエーファの彫像の子宮の中に消えていく。


音楽は男声の合唱によるオルゲルプンクトと女声による合唱から始まり、シンセサイザーと実に様々なサウンドプロジェクションがそれを彩ります。「リヒト」の理解のためには、その作曲技法の根幹をなす「スーパーフォルメル」の把握が不可欠なのだが、耳で聴いただけで、ここはエーファのフォルメル、これはルツィファーのフォルメル、と直ちに認識するだけの力は私にはないので、今はただ耳を慣らすといった段階です。しかし、いわゆるセリエリスムにおけるセリーとは全く性質の異なる音列でしかも延々と引き伸ばされるバスが基音としての働きをするので、非常に聴きやすく感じられます。もちろんポストモダンとしての新ロマン主義とは何の関係もない音楽ではあるのだけれど、聴いているとやはりドイツの人の音楽だなという気がします。多分に印象批評めいた感想で申し訳ないが、シュトックハウゼン自身のもう少し若いころの作品との類似でいえば、「ミクロフォニーⅡ」にでてくる合唱にやや近い感じ。あちらはまるでモーツァルトの魔笛に出てくる三人の侍女の合唱のような愉悦に満ちた合唱がきわめて前衛的なフレームの中に投げ込まれている作品だったが、「月曜日」も根っこは一緒。ある意味、ピカソのエッチングや絵画みたいに、漫画みたいなんだがよく見るとデッサンは正確無比、とでもいった感じでしょうか。
サウンドプロジェクションとしては、「月曜日の迎え」にも出てきた水音、雄鶏の時を作る声、ライオンの唸り声、犬の吠える声、馬の嘶き、牛のもーという声、なんだかよくわからないが熱帯の鳥みたいなやかましい鳴き声(カワウソ?)、象の声、等々。あるいは爆発音、ガラスの容器が割れる音、銃の発砲の音、雷鳴、銅鑼、チェーンソーのような騒音に木が切倒される音、目覚まし時計、トイレの水を流す音、等々。音楽素材の引用としてはなんだかよく分からないがファンファーレのような音楽、リストの「レ・プレリュード」、それに「ラ・マルセイエーズ」の一節。赤ん坊の泣き声や喃語やくしゃみの音、ヒットラーを思わせるヒストリカルな演説の録音、女の喘ぎ声・・・等々、もうひっきりなしにこれらの音が鳴っている。しかも合唱や子供達の大騒ぎ、3人のテノールによる饒舌な船乗りの歌、バスと俳優による下品なルツィファー(ルツィポリープ)の歌がこれに重なり、なんとも賑やかで退屈する暇もないほどなのに、不思議にとっ散らかった感じはなくて、緩さと精密さが両立している。私はこれまで、このブログでシュトックハウゼンについて書くとき、いつも「精密なのにテキトーっぽい」などと書いてきましたが、この緩さというものは、聞けば聞くほどシュトックハウゼンの音楽の本質に関わるものという気がします。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2015-12-21 23:47 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

シュトックハウゼン 「光の月曜日」を聴く (その1)

美濃加茂市の巨乳ポスターには男の私でもドン引き。アレはアカンわ。というか、この前志摩でもおんなじような話があったのに学習能力無さ過ぎ。





昨年の東京での「歴年」、今年の「シュティムンク」公演など、これまでシュトックハウゼンの音楽をすこし齧ってみて、想像以上に面白く、まっとうな音楽という気がしています。もちろん、天才と持ち上げる人もいれば、その作品をクズ呼ばわりするのみならず、作曲家の人格を「誇大妄想狂」だの「山師」だのと決めつける人達がいることも確かだろう。どっちにしても、1977年から2003年までのほぼ四半世紀を費やして完成させたオペラ「リヒト(光)」を聴かずして、シュトックハウゼンの評価など出来るはずがないと思うのだが・・・。何はともあれ少しずつ音源を聴いていこう。数年掛かりの予定です(笑)。


 シュトックハウゼン オペラ「リヒト」より 月曜日 MONTAG aus LICHT

  エーファ(3Sp): アネット・メリーウェザー、ドンナ・サーレイ、ヤナ・ムラゾヴァ
  ルツィファー/ルツィポリープ(Bs): ニコラス・イシャーウッド

  バセット・ホルン: スザンヌ・スティーブンス、曽田留美、ネレ・ラングレア
  フルート/ピッコロ: カティンカ・パスフェーア
  ピアノ: ピエール・ローラン・エマール
  電子鍵盤楽器: ミヒャエル・オブスト、ジモン・シュトックハウゼン、ミヒャエル・スヴォボダ
  打楽器: アンドレアス・ベトガー
  合唱: ケルン西ドイツ放送局合唱団、ブダペスト放送局児童合唱団
  1986年8~11月、1988年1~5月録音
  CD:STOCKHAUSEN-VERLAG CD36A~E


とにかくこれだけの大作、7部からなる「リヒト」の第1作「月曜日」だけでもCD5枚組ということで、何かしら日本語で手軽に読めるガイドがほしいところだが、幸いなことに下記のサイトが大変理解の助けになります。

松平敬氏のブログより
http://matsudaira-takashi.jp/stockhausen/

シュトックハウゼン音楽情報より
http://www001.upp.so-net.ne.jp/kst-info/CDList01.html

後者はStockhausen-VerlagのCDの分厚いブックレットの翻訳だが、譜例が省略されています。やはりちゃんとCDを買ってくれ、ということだろうか?それはともかく、「月曜日」ではかろうじて物語らしきものがある。無理やり要約すると、「始原的な女性であるエーファは一度目の出産で7人の異形の子供を産み、二回目の出産で月曜日から日曜日までの7人の子供を産む。ルツィファーは激怒し、ハーメルンの笛吹が子供たちを攫っていく」というもの。ルツィファーとはルツィフェル、すなわち堕天使、悪魔のことだろうと思うが、彼が何に激怒しているのか、笛吹はなぜ子供達を攫い、攫われた子供達がどうなるのか、普通にテクストを読んでも分からないし、この先火曜日、水曜日と聴いて行ったら分かるというものでもなさそう。これは神話の創造であって、言葉の表層だけを捉えてもほとんど何の意味ももたらさない。一通りテクストを通覧した後にある種のパラディグマティックな分析によって見えてくるものがあるのかもしれない。

「月曜日」の全体は、
 ・月曜日の迎え
 ・第1幕 エーファの最初の出産
 ・第2幕 エーファの二度目の出産
 ・第3幕 エーファの魔法
 ・月曜日の別れ
から成り立っています。
「月曜日の迎え」(多重バセットホルン、電子鍵盤楽器とサウンド・プロジェクションのための)は、オペラが始まる前に、劇場に入って客席に着く聴衆たちを迎えるための30分ほどの音楽。バセットホルンによる和音が半音階的あるいは微分音的にゆるやかに下降し、上昇する。途中なんどか、波が寄せては返すような水音が聞こえる。生命を育む始原の海とエーファの羊水のイメージ。静かで瞑想的な音楽だが、安らぎを感じこそすれ不思議と退屈しない。
ところでwikipediaでバセットホルンについて調べてみると、モーツァルトが幾つかの作品を残した後は、R.シュトラウスまで殆ど目立った作品がないとのこと。クラリネットに駆逐されてしまったのだろうが、すこし鼻が詰まったような地味な音色は独特。それにしてもシュトックハウゼンのこの楽器への偏愛ぶりは特異といってよいのだろう。オペラの中では専らエーファを象徴しているようだ。
尚、「迎え」の編成にはシンセサイザーが含まれています。延々と引き伸ばされる音はおそらくバセットホルンからシンセに受け渡されているように思いますが耳で聴いているだけではバセットホルンとシンセの「繋ぎ目」はよく分かりません。

詳細を極める上掲「音楽情報」サイトの記述に附け加えることは実はあまりないのだけれど、こんな感じで、及ばずながら補足的な事柄や個人的な感想・備忘などを綴っていく予定。とにかくこういった作品は繰り返し繰り返し聴く以外に受容する術はありません。続きはいずれまたということで急がずに参ります。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2015-12-05 15:38 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

シュトックハウゼン 「シュティムング」公演

もう30年近く前の話。会社の独身寮でヴィシュネグラツキーの微分音を使った音楽を聴いていたら、クラシックには全く興味のない同僚Uが部屋に来て「なにこれ?」と言いながらしばらく耳を傾けていた。するとUの顔色が次第に悪くなって、「吐きそう・・・」。「まじ?」と尋ねると「・・・まじっす・・・」というので慌てて中止。ヴィシュネグラツキー恐るべし。っていうか、この同僚、音楽の素養とかはまるで無いのだが耳は確かだったと思う。





先週のツィンマーマンに続いてまたまたサントリーホール詣。

 2015年8月29日@サントリーホール(ブルーローズ)
 シュトックハウゼン 「シュティムング」(1968パリ版)
  音楽監督:ユーリア・ミハーイ
  ソプラノ:工藤あかね、ユーリア・ミハーイ
  アルト:太田真紀
  テノール:金沢青児、山枡信明
  バス:松平 敬
  音響:有馬純寿


23日にツィンマーマンを聴いたおかげで、その後音楽を聴く気がしなくなるという後遺症を発症していたのですが、シュトックハウゼンの「シュティムング」のおかげで随分快復できたような気がします。
今こうして少し気が抜けた状態で感想を綴ろうとしていると、まさに祭りの後といった気分だけれど、音楽の力をまざまざと、またしみじみと感じた一週間であったと思います。

今回の公演はブルーローズという小さなホールでしたが、それにしたってこの演目で満員御礼というのには驚きます。私は開演の一時間前には会場に着いたのですが、わずかな当日券を求めて長い列が出来ていたことにも驚きました。この盛況の拠って来たる所については、客層の若さとあわせて、後段でもうすこし考察します。
さて、会場に入ると、真ん中にしつらえられた高さ1mほどの四角い祭壇のような舞台(6段ほどの階段で登るようになっている)の四方を客席が取り囲むようなかたち。舞台の上には6人分のクッションとスコアが円陣に並べられています。定刻を少し過ぎた静寂の中、6人の歌手が赤、黄、青、黒、白、ピンクとそれぞれ思い思いのブラウスやシャツに裸足で静かに現れ、舞台をゆっくりと一周して登壇、胡坐をかいて座る。演奏の後は長い長い沈黙と静寂。6人が互いに一礼し、立ち上がったところでようやく拍手が沸き起こる。
こういったことは、1972年にシュトックハウゼンが作曲した「私は空を散歩する・・・」と同様、シアターピースというほどではないにしても、儀式的あるいは呪術的な所作が指定されていて、CDで音だけ聴いているだけでは絶対に分からない。まぁこれは60年代後半の、ビートルズにおけるマハリシ・マヘシ・ヨギ体験みたいなもの、あるいはもっと漠然と当時のヒッピー文化の影響と考えればよいのだろう。あるいはもしかしたら日本の武道の「礼に始まり礼に終わる」みたいなものなのかも知れない。

音楽全体の殆どがB(B♭)とその倍音(F-D-As(A♭)-C)から成り立っていて、シュトックハウゼンの中でもその響きの清澄さは特異なものだと思います。素材は実に簡潔だが、そこから70分にわたって繰り広げられる音楽は、ホーミーのような倍音唱法であるとか、さまざまな母音を種々のリズムとテンポ、6人のさまざまな組み合わせで歌ったり、あるいは息を吸ったり吐いたりをマイクロフォンで増幅したりと、少しも退屈することがありません。また世界の神々の名前や曜日の名前、エロい内容の詩の朗読など、やりようによって幾らでも神秘的にできそうなところを敢えて俗っぽく聴かせ、また実際にはきわめて精緻に書かれているのにものすごくいい加減に聞こえるというのが、いかにもシュトックハウゼンらしいと思いました(これは以前に大井浩明の演奏で「自然の持続時間」を聴いたときにも感じたこと)。しかしこの俗っぽさ、いい加減さこそ、ツィンマーマンの毒に中てられた精神にはなによりの癒しとなったようにも思えます。

6人の演奏は本当に見事だったと思います。ほぼ1ヶ月に亘って、たった一日の公演のために明けてもくれてもシュティムングの練習をするという合宿のような日々を送ってきたそうだ。もうこれだけの演奏を聞かせてもらえば文句のつけようがないのだが、それでも欲を言えば本当はもっと高いレベルのパフォーマンスがあり得るという気がする。たとえばCDに聴くコレギウム・ヴォカーレ・ケルンの、6人の声がもっと緊密に絡み合って、聴いていて危うくトランス状態になりそうな高いレベルには若干届かなかったような気がします。そのなかではやはりこの作品を何度も歌ってきたユーリア・ミハーイが頭一つ抜けていたと思いますが、エロい詩の最中に流し目で舌を激しく動かしたりと、かなりヤバいなと思いました(笑)。

それにしても、ツィンマーマンの時もそうだったのですが、客層がけっこう若くて、普段のクラシックコンサートとは様相がかなり違う(ツイッターの件数が多いのもそのせい)。前回、そのことに対して、「大げさにいえば未来へのかすかな希望を感じた」と手放しで喜んでいたわけだが、よくよく考えるとツィンマーマンとシュトックハウゼンだからここまでの盛況だった訳で、これがハリソン・バートウィッスルやジェルジ・クルタークやジェラール・グリゼーだったらこうはいかなかっただろうという気がします。もちろんブーレーズやルイジ・ノーノなんかでもそうだろう。いや、ツィンマーマンやシュトックハウゼンにしたって、実のところここまで、すなわち膨大なツイートがtogetterでまとめられるといった事態が現れるなど想像もしていなかった訳ですが、ではツィンマーマンとシュトックハウゼンの共通点はなにか、あるいは彼らと先に挙げたバートウィッスル以下の人達との違いはなにか、といえばこれは難問。別の問いとして、プロモーション次第で若い客層を掴めそうな人ならスティーヴ・ライヒとかモートン・フェルドマンとか、あるいはもっと大御所でケージやクセナキスなんかも挙げられるだろう。誰かのツイートにも似たようなコメントがあったのだけれど、要は保守本流(あくまでも現代音楽における、という意味だが)を少し外しているあたりが人気の核心なのでしょう。保守本流の定義というのも難しいのですが、仮にブーレーズが振りそうな現代音楽が保守本流だとすると、(ツィンマーマンは微妙だけど)彼が間違っても振りそうにない音楽が突如間歇的に人気がでて「祭り」状態になる、ということは何となく言えそう。これって日本だけの現象なのか欧米でもそうなのか、とか考え始めるとキリがないのだが、実に興味深い現象ではあります。

それはともかく、今回の「祭り」でよく分かったことは、東京であればプロモーション次第でシュトックハウゼンの「リヒト」全曲上演が可能なのではないか、という感触というか希望を得たこと(残念ながら他の都市では考えられない)。もう既に誰か動いていると思うけれど、何年か先にきっと実現するという気がします。その時はたぶんお台場あたりでヘリコプター四重奏曲の演奏をするのかな。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2015-08-31 22:51 | 演奏会レビュー | Comments(0)

シュトックハウゼン「シュティムング」に関する二、三の事柄

【スタッフ急募】
観光客相手に寝そべったりあくびしたりするだけの簡単なおしごとです
年齢容姿経験不問カリカリ支給賞与有(ツナ缶)
㈲谷中ニャンズスタッフサービス
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こんなブログでも何かしら役に立っているみたいで、先日のツィンマーマンのレクイエム公演に関するツイッターを見ていると、作品の予習に使っていただいた方が何人かおられたようでした。
ならば同じくサントリーサマーフェスティバルの目玉のひとつ、明日のシュトックハウゼン「シュティムング」公演に際し、下記のネット文献を紹介しておこう。Stockhausen Verlagから出ている2枚組CD(Stockhausen Edition no. 12)の解説文と同内容のもので、おそらく日本語で読めるもので最も詳細なものだと思います。未読の方は是非目を通していただきたい。

http://www001.upp.so-net.ne.jp/kst-info/linerNotes/CD12/Stimmung.html

残念ながら譜例が省略されているので、その驚くほど精緻に書かれた譜面が如何なるものか、なかなか想像もつかないかも知れません。これは先ほど紹介したCDの分厚いリーフレットに何葉も収録されていて大変参考になります。必要最小限の記号だけで演奏者の直観あるいは即興に多くを委ねるタイプの作品とは全く異なり、かなりびっしりと書き込まれている感じです。
できれば公演前にCDの詳細な感想など書きたかったのだが時間がありません。またの機会にしたいと思いますが、ほんの少しだけ。全部で51のセクションのうち第19セクション。ヒナ=ア=テュアテュア=ア=カカイというハワイの神様の名前を唱えるところ、どうしても笑ってしまう。カイカイカイカイ・・・・と猛烈なスピードで発語されると関西人の耳には痒い痒い痒い・・・と聞こえてしまうので、ちょっとこれはなんぎやなぁと(笑)。もっともここで笑うのはちっとも不謹慎じゃなくて、作曲者も草葉の蔭だかシリウス星だかできっと許して下さるだろうという気がします。昨年の「歴年」の寒いギャグとか、シュティムング後半に出てくるエロい詩の朗読とか、これらは作曲家のサービス精神の発露なのか、それとも日本でいうところのオヤジギャグなのか謎ですが、笑ったり「寒っ!」とつぶやいたりはアリだと思うのだが。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2015-08-28 23:37 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

シュトックハウゼン 「歴年」(雅楽版・洋楽版) Der JAHRESLAUF

常田富士男(ときたふじお)って、ついさっきまで「つねたふじお」だと思ってた。





シュトックハウゼンの「歴年」(雅楽版、洋楽版)を観てきました。実に面白い舞台で、東京まで出かけて行った甲斐がありました。

8月28日@サントリーホール

シュトックハウゼン 《リヒト》から 歴年(1977)【雅楽版】

  音楽監督:木戸敏郎
  共同演出:木戸敏郎・佐藤信
  笙:宮田まゆみ、石川高、東野珠美
  龍笛:芝祐靖、笹本武志、岩亀裕子
  篳篥:中村仁美、八百谷啓、田淵勝彦
  鉦鼓:神田佳子/ 鞨鼓:山口恭範/ 太鼓:菅原淳
  楽筝:福永千恵子
  琵琶:佐藤紀雄

  奉行:西村高夫
  舞人:松井北斗、笹井聖秀、山田文彦、小原完基
  助演:宮崎恵治、光田圭亮、實光崇浩、黒田真史
  子役:柄沢怜奈
  時計:今村俊博、佐々木汐理、佐藤駿、須崎愛理

一柳慧 時の佇い 雅楽のための(2014)

  笙・竽:宮田まゆみ、石川高、東野珠美、三浦礼美、中村華子、村岡健一郎
  龍笛:笹本武志、岩亀裕子
  篳篥:中村仁美、八百谷啓、田淵勝彦
  大篳篥:溝入由美子
  箜篌:佐々木冬彦
  軋筝・十七絃筝:福永千恵子、多井智紀、中澤沙央里
  打物:神田佳子、山口恭範、菅原淳

8月30日@サントリーホール

シュトックハウゼン オペラ《リヒト》から〈火曜日〉第一幕 歴年(1979)【洋楽版】

  音楽監督:カティンカ・パスフェーア
  演出:佐藤信
  ミヒャエル:鈴木准
  ルツィファー:松平敬
  シンセサイザー:鈴木隆太、高橋ドレミ、島崎佐智代
  ピッコロフルート:井原和子、斎藤和志、齋藤光晴
  ソプラノサクソフォーン:大石将紀、江川良子、冨岡祐子
  アンヴィル:岩見玲奈/ ボンゴ:村井勲/ バスドラム:山本貢太
  電子ハープシコード:白石准
  ギター:山田岳

  レフェリー:高橋淳
  舞人:清水寛二、武内靖彦、竹屋啓子、松島誠
  助演:宮崎恵治、光田圭亮、實光崇浩、黒田真史
  子役:柄沢怜奈
  時計:今村俊博、佐々木汐理、佐藤駿、須崎愛理

三輪眞弘 59049年カウンター(2014)~2人の詠人、10人の桁人と音具を奏でる傍観者達のための

  LSTチーム:松平敬、横浜都市文化ラボ桁人チーム
  MSTチーム:高橋淳、横浜都市文化ラボ桁人チーム
  フルート:斎藤和志、齋藤光晴
  サクソフォーン:大石将紀、江川良子、冨岡祐子
  ヴィオラ:飯野和英
  チェロ:宇田川元子
  シンセサイザー:鈴木隆太、白石准、高橋ドレミ
  パーカッション:岩見玲奈、村井勲、山本貢太


今回の公演についてのネット上の反応は概ね上々。この業界でプロとして飯を食っているような評論家やライターの方々、私はよく存じ上げませんが随分多くの方が本公演に集結されていたようだ。1977年の東京初演は多くの業界人の酷評に晒されたのみならず、それが原因でそれ以降のシュトックハウゼンの舞台作品の公演そのものが僅かな例外はあれど実質的にこの国で禁じられてしまった訳だが、37年の後にこうして極めて上質なパフォーマンスによってその封印が解かれたことは実に慶賀の至り。今後長く語り継がれるに違いない。当時の、そして今回の公演のプロデュースをされた木戸敏郎氏の感慨は如何ばかりかと思い、こちらまでちょっと胸が熱くなる思いだ。
1977年の初演後の、ほとんどスキャンダルと言ってもよさそうな経緯については、今回のサントリー芸術財団サマーフェスティバル2014のHPや会場で無料配布されていたパンフレットに詳しいが、当時の酷評が具体的に如何なるものであったかは下記URLを参照されたい。

http://www001.upp.so-net.ne.jp/kst-info/Texts/Premiere1977.html

さらに、音楽業界以外の、より生々しい記述は下記のURLで読むことが出来る。「世間の良識とはこんなものである。」という木戸氏の血を吐くような記述は是非とも読んでいただきたいと思う。2014年の我々が後出しじゃんけんのようにこれらの評を書いた音楽家たちを責める訳にはもちろんいかない。しかし、とにもかくにも自分の耳で聴いて評を書いた彼らはまだ誠実であって、ここに登場する朝日新聞の何某のように、自分で舞台を観ることもなく否定的な言説を垂れ流した連中がいたこと、しかもそれが日本の良識なるものを代表していたことは忘れてはならないと思う。

http://ooipiano.exblog.jp/17327697/

音楽そのものについて殆ど予備知識の無い状態で、一気にその全容を知ることになった「歴年」について、体系的に多くを語る力は筆者にはないが、思いついたことを3点ほど備忘替わりに記しておこう。

①今回、時間をおかずにオリジナルの雅楽版と、そのトランスクリプションである洋楽版の両方を聴いたのは非常に貴重な経験であった。単に書かれた順番に拠る訳ではなく、雅楽版が唯一無二のオリジナリティ(この楽器のこの音でなければならぬ、と感じさせる力)を持っているように感じられるのに対し、洋楽版がどこまでいっても雅楽のトランスクリプションでしかないと感じられるのが実に興味深いと思う。別の見方をすれば、雅楽のために書かれた作品を洋楽器のためにトランスクリプトすることは可能であっても、洋楽器のために書かれた作品を雅楽で演奏しようという発想はおそらく有り得なかっただろう。この不可逆性は、雅楽の音響の特殊性によると言ってよいのだろうか。
木戸氏の回想によれば、まずシュトックハウゼンから各楽器の演奏可能な音域について問合せがあり、最初、雅楽で通常使われる音だけを楽譜やテープで回答したという。ところが後日来日のおり、実際の雅楽の奏者たちが演奏に先立って各自音合わせをする様子を聴いて、シュトックハウゼンが「以前の回答にない音があるではないか」と文句をいい、それから雅楽で普段使わない音も含めて作曲を続けたとのこと。このことは、本来の雅楽の響きと、それを逸脱(木戸氏の言い方を借りるなら脱構築)した響きの両方を結果的に音楽にもたらすことになったに違いない。その結果、ここには雅楽本来の響きと、逸脱が絶妙なバランスで存在しており、少なくとも我々日本人からすれば意外なほど「とっつきやすい」音楽になったことは確かだ。
雅楽版のオリジナリティの強烈さ故か、翌々日に洋楽版を聴くと、洋楽版が美しいけれども何か足りないように思われる。その足らないものが何かを考察するならば、雅楽版で「伝統と破壊(革新あるいは脱構築といってもいい)」と感じられるものが、洋楽版では「通俗と前衛」というレベルに成り下がっているような感じを受ける。シュトックハウゼンの通俗性については、このブログで以前大井浩明が弾いた「クラヴィア曲XVⅢ《水曜日のフォルメル》」や「自然の持続時間」の評でもすこし言及したところだが、良くも悪くもこの作曲家を理解する上でのキーファクターだろう。いずれにしても洋楽版により顕著な通俗性のようなものを認めつつ、単にネガティブな評価をするのではなく、後の「リヒト」や「クラング」の理解にどう繋げていくかが重要だろうと思う。

②曲の途中で4回現れる寸劇、まるで学芸会レベルの安直さが1977年当時の激烈な拒否反応の一因であることは間違いないと思うが、いまここでこの寸劇に対してある種の解釈行為を通じて正当化、あるいはリノベーションをするつもりはない(登場するライオンから聖アントニウスの誘惑を連想し、ドイツの正統なインテリの思考の跡を辿るのも一興だが)。それより面白かったのは、雅楽版の寸劇が下らないと思いつつも思わず笑ってしまう(私だけでなく会場の多くの観客が失笑を禁じえないといった風であった)のに対して、洋楽版の寸劇は(内容はほぼ同じであるにもかかわらず)まったく笑いを誘わなかったという事実である。これは単に2回目だからという訳ではなさそうだ。ひとつは雅楽版で、ついつい誘惑に負けてしまう舞人の恰好がキョンシーみたいでユーモラスなのに対して、洋楽版の舞人がやや芸術的(「ゲイジツ的」と表記したほうが良いかも)に過ぎて、哄笑とそぐわないということ。それともうすこし根源的な理由として、少なくとも日本人が雅楽というものから連想するものと笑いというのは、天鈿女命このかた案外と相性が良いというのは穿ちすぎだろうか。しかし、当たり前のように笑いを許容する雅楽にくらべ、どことなく「教養」の残り香のする洋楽版に笑いが似つかわしくないのも事実だろう。

③音楽そのものに対する感想ではないが、演奏にさきだって木戸氏のプレトークがあり、大変興味深いものであった。曰く、1977年、音楽界からあれほどの酷評がでたにも関わらず、いわゆる構造主義と呼ばれる陣営、それは思想家批評家だけでなく建築家だとかいろんな業界の人たちであったが、そういった人たちからの受けは非常に良かったという。そこで木戸氏は、赤という色はそれだけであれば色としての情報しかもたないが、黄・緑と並べることで「とまれ」という意味が発生する、という記号論のイロハをもちだしながら、歴年のなかのクラスターは例えばスーラのような点描派の画家がやったことを音でやっているわけで、そこから逆に「音から光へ」の照応が生まれる、といった内容の話をされていた。この説の後段の当否は私にはわからないが、前段に関して言えば、そういえば60年代の前衛の季節を潜り抜けてきた世代の音楽家の多くは、実存主義的左翼ともいうべき人たちであって、当時台頭してきた構造主義的な思考にはなじまなかったのだろうと思った。これはシュトックハウゼンの音楽が構造主義的か否かとは関係がないかもしれないが、以前からこのブログで何度か「シニフィアンの連鎖としての音楽」について書いてきた筆者としては看過できない言説であり、今後時間をかけてシュトックハウゼンの音楽(特に「リヒト」)と向かい合っていくうえでの補助線の一つになるだろうとの思いを得た。


各々の公演の後半はこの公演のために書かれた委嘱作。一柳慧の「時の佇い」は、雅楽の楽器に、箜篌・軋筝など古代の復元楽器を加えたアンサンブルのための作品。これが70年代以降、雅楽や和楽器のために掃いて捨てるほど書かれた諸作に伍して歴史に残るか否かは判らないけれど、耳で聴いて面白く、シアターピースというほどではないにせよ視覚的な楽しみもあって大変結構。それにしても、雅楽の可能性というのはまだまだ汲みつくされていないのかもしれない、と聞きながらふと思った次第。遅ればせながら現代雅楽なるものをこれからもうすこし聴いてみたいと思った。

三輪眞弘のほうは、「歴年」の洋楽楽器と2014と記された舞台装置を用いて、「歴年」とはまったくことなる種類の音楽を聞かせる。舞台の上に二人の歌手と10人の「桁人」、10人の楽器奏者とノートパソコンを操作する一人の「悪魔」。舞台のスクリーンには悪魔の操作によっていろんな西暦の年号(これまでの年号以外にも45123年とかさまざまな)、それと10個の矢印や円弧が映し出され、その記号のいくつかは点滅している。10人の桁人はなんらかの規則によって舞台の数字の上を歩き回り、10人の奏者は楽譜ではなく(多分)桁人の位置やスピードを見て早いパルスや遅いパルスを奏し、あるいは沈黙する。じっと見ていればその規則性・法則が判るかと思ったが、残念ながらそれには至らず。一種のシアターピースであるが、いわゆる不確定性が採用されているのかどうかも不明。しかしそのデジタルなパルスによる音楽はまるでスティーヴ・ライヒのミニマル音楽みたいでとても聴き易い。しかも、「歴年」に聞くある種の俗っぽさとはまた違う種類の音楽で、シュトックハウゼンの音楽の不可知論的非デジタル性とでもいったものが結果的に炙り出されたように思う。

雅楽・洋楽ともに、演奏者と舞人のパフォーマンスは素晴らしものであった。どのように記譜されているのかは判らないが、4群の異なるテンポで進められる音楽が、指揮者がいるわけでもないのに縦に合うべきところでビシッと合うというのは、この演奏の精密さ故のことだろう。シュトックハウゼンの音楽というのはとても不思議だと思うのだが、その演奏に携わる人に一種の秘教的な信仰心や自己犠牲の精神を植え付け、膨大な練習とリハーサルの時間を掛けて基本的に暗譜で演奏するというスタイルを(少なくともある一時期)取らせていたようだ。このような演奏スタイルは雅楽(に限らず邦楽一般)の人たちにはさほど違和感がないのかもしれないし、洋楽版の人達にも一種の憧憬を感じさせたかも知れない(実際にそこまでのめり込めばパフォーマーとしての身の破滅かも知れないが)。ミヒャエルとルツィファーを歌った歌手について現時点で巧拙を云々するつもりはない。将来いつの日か、リヒト全曲公演でルツィファーやミヒャエルを歌うのを聴いてみたいと夢想している。

今回の記念碑的な公演は37年前の不幸な出来事にけりをつけるという意味合いが強いとしても、本当は東京での「リヒト」全曲公演への先駆けという位置づけがあってしかるべきだろう。全部で7夜、延べ29時間という公演、東京ならもしかしたら、という気もする。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2014-09-02 01:20 | 演奏会レビュー | Comments(0)

大井浩明 シュトックハウゼン歿後5周年リサイタル

10月29日のJR西日本のプレスリリースより。
「奈良線 六地蔵駅の社員が起床遅延したことにより営業開始が遅れる事象が発生しました。ご利用のお客様には大変ご迷惑おかけしましたことをお詫び申し上げます。」とあって、笑っちゃうのがその原因。
「六地蔵駅の社員が起床後に二度寝したためです。」
ニ度寝って・・・正直過ぎて「ああ、もうそれは仕方ないよね」って思ってしまう。



秋晴れの週末の昼下がり、大井浩明の弾くシュトックハウゼンを聴きに出かけてまいりました。

  11月3日 於タカギクラヴィア松濤サロン
  シュトックハウゼン ピアノ独奏のための《自然の持続時間》Natürliche Dauern(2005/06全24曲)
  (連作『音~一日の24時間』より「第3時間目」)

以前大井氏のリサイタルでシュトックハウゼンのピアノ曲Ⅰ~Ⅺを聴いた時に、アンコールとしてこの「自然の持続時間」の終曲を聴きました(アンコールといっても15分以上あった訳だが)。その時は随分とりとめのない作品だなぁ、といった程度の感想しか持ち得なかったのですが、今回全24曲を聴いてとても面白いと思いました。
私はシュトックハウゼンという人について、特段詳しい訳でもなければ大好きという訳でもありません。何枚か持っているCD(「ルフラン」とか「ツィクルス」とか)はいずれも1960年代までの所謂「初期作」で、2007年まで生きた作曲家の後半生に書かれた巨大な二つの作品、「光」と「音」についてはいくつかの抜粋を聴いたことがあるのみ(最近は有名な「ヘリコプター四重奏曲」も「ヒュムネン」もyoutubeで全曲聴けたりするので便利な世の中ではあるが・・・)。それにしても、「光」が全曲通すと28時間、「音」については11時間云々と聞くと、ほとんど誇大妄想狂かとびびってしまうのは事実だけれど、今回はとにかく余計なことは考えずに音に身を任せることにしました。
プログラムに記された作曲者による演奏時間の目安によると、前半12曲で70分ほど、後半12曲で60分といったところですが、大井氏の演奏は前半で1時間40分ほど掛ってました。特に最初の4曲、ぽつぽつと弾かれる音が減衰して完全に聞こえなくなるまで耳を澄ましていると、際限なく演奏時間が伸びて行き、この部分だけで1時間くらい掛っていたのではないか。休憩の後の大井氏のトークによると、シュトックハウゼン自身はけっこう現実的なところがあって、「音が完全に減衰するといっても、演奏者には聞えていても聴衆には聞こえないこともあるのだから、早めに切り上げてどんどん先に進むこと」と楽譜にも書かれている、とのことだそうだ。しかし、この日の会場は50人も入れば満席になる小さなサロン。良く手入れされているスタインウェイは果てしなく余韻が響き続けるので、ある意味苦行にも似た様相を呈していました。後半はさすがに少し早目に切り上げる演奏で、きっかり1時間ほどで終わりました。ちなみにwikipediaにはこの作品の表題について『自然な演奏時間』としたほうが的確であるように書かれている。まぁその通りかも知れないが、このタイトルの醸しだす多層的な意味合いはこの訳語では消えてしまいます。
それはともかくふと思ったのだが、シュトックハウゼン自身の「演奏時間の目安」が随分短めなのは、シュトックハウゼンをもってしても、音が減衰していくのをこれほどの時間を掛けて聴き入るというのに実は耐え得なかったのではないか、ということ。以前大井氏がケージの「易の音楽」を弾いた時に、ケージ指定の時間より随分間伸びしていたのも同様だろう。私自身、子供の頃、仏壇の輪を鳴らして完全に消えるまでじっと耳を澄ませていた記憶があるが、こういう減衰の美学のようなものは日本人独特のもので西洋には本来なかったものではないか、と。これは何の根拠もない思いつきの域をでないものだが、あながち間違いでもなかろうと思っています。
もちろんこういった作品を聴いていて多少の退屈さを感じないという訳ではない。これを、モートン・フェルドマンの例えば「ピアノ」とか「マリの宮殿」といった作品と比較すると、シュトックハウゼンのほうの一曲一曲よりもフェルドマンの作品のほうが遥かに演奏時間としては長いが、フェルドマンのほうがより短く感じます。どちらも耳で聴くとポツポツとしか音が鳴らないが、フェルドマンのほうは実はそのリズムは厳密に記譜されていて、そういったことが聴く側の感じ方に影響しているのだろうか。
シュトックハウゼンの話に戻すと、音の選び方としてはセリエールな手法も使われているようだが、むしろより自由な、時として若干の通俗性すら感じられる手法。広義の調性を感じさせるような作品では、リゲティのエチュードのような響きも聞こえる(「無限柱」とか「開放弦」のような)。しかもリゲティのような精緻さはあまりなくて、ぱっと聴いた感じは随分テキトーに書いてるなぁ、というもの。そうかと思えば例の「ピアノ曲Ⅹ」でお馴染みの手袋(プロテクター)をはめて弾くものがあったり(Ⅹに比べるとかなり穏健だが)、神事で使うような鈴や仏具の輪を鳴らしながら弾くものがあったり。あるいはピアニストが言葉を発したり、クラスターも内部奏法も要は何でもあり。こう書くとシュトックハウゼンのピアノ曲の集大成みたいに思われるかもしれませんが、そんなことはなくて繰り返しになるけれどものすごくテキトーっぽい音楽がたらたら続く(これは貶しているのではなく、そのユルさが凄く面白い)。初期のピアノ曲のような精密極まりない書法と比べると、なんと遠い地点にまで来たものか、と思いますがそれはそれでとても面白いものでした。これを機会にちょっとシュトックハウゼンを集中的に聴いてみたいと考えています。今ならユーロ安でStockhausen-Verlagの馬鹿高いCDも買い頃かも知れません。
演奏に関して一言。大井氏の演奏、さすがだと思います。息を呑むような最弱音から強烈な強音まで、そのデュナーミクの幅の広さとか、鼻にかかったようなウナ・コルダの響きをはじめとする音色のパレットの多彩さとか、本当に感心しました。この人の演奏について、ともすればその曲目の激烈さばかりが言及されがちだが、指の回りだけでない真のテクニックについてもっと喧伝されるべきだろうと思います。
若い子から年配の方まで幅白い年齢層の聴衆でした。年配といっても、この人達が若かりし頃は正に前衛の時代だったのかもなぁ。休憩のあと何ぼか減るかなぁと思っていたらほとんど誰一人帰った方はいらっしゃらなかった模様。さすが東京です。
by nekomatalistener | 2012-11-04 20:47 | 演奏会レビュー | Comments(0)

大井浩明 カールハインツ・シュトックハウゼン歿後5周年 初期クラヴィア曲集成

大阪万博のニュージーランド館で食べたマトンカレーをもう一度食べてみたい。
(ネタ切れ中)




大井浩明のPortraits of Composersシリーズの最終回はシュトックハウゼンの初期ピアノ曲の全曲
(KlavierstückeI~XI)と、晩年のオペラ「光」から派生的に生まれた作品KlavierstückXVIII のシンセサイザーによる演奏。

  2012年1月29日@白寿ホール
  クラヴィア曲I~IX 
    (休憩)
  クラヴィア曲XVIII ≪水曜日のフォルメル≫
  クラヴィア曲XI
  クラヴィア曲X
    (アンコール)
  ≪自然の持続時間≫より 第24曲


予想通りというべきか、やはりピアノ曲X の演奏が圧巻。前半はI からIX まで順番通り弾いたのですが、後半は順序を入れ替え、XVIII→XI→X という順番でした。
私のようなごく一般的な聴衆にとっては、シュトックハウゼンのピアノ曲Ⅰ~XI を全曲通してとにもかくにも聴き通すという事自体に大変な意義があった訳で、大井浩明のようなピアニストが出てきたから当たり前のようにこんなリサイタルを企画しているけれど、普通は一晩で全曲弾くなんてありえない話。しかし大井氏自身にとっても、全曲弾くという点に最大の眼目があった筈であり、こうすることによって作曲家の全体像に少しでも近づき、俯瞰する目線を得ようと考えたのだろうと思います。もしも時間的な、あるいは物理的・生理的、さまざまな制約がないならば、XI までとは全く作曲年代も様式も異なるXII~XVII や、「自然の持続時間」など、あるいは「マントラ」とか他のピアノ作品も含めて全部やりたいと思われていたに違いありません。そういった性格をもつリサイタルですので、聴き手としては全体を全体として受容するような姿勢さえあれば、小賢しいことは言わずとも、この演奏会を正しく享受できたといえるでしょう。しかしそうは言っても、個々の作品の印象は書き留めておきたいところ。
I~IV については、こういった性格のリサイタルですから殊更小手調べとして聞こえますが、V はメシアンを思わせるような装飾音符群の響きが大層美しく、早くも初期のシュトックハウゼンの音楽に陶然としてしまいます。V からVIII についてはいずれもダンパーを上げた状態で弦を共鳴させるハーモニクスや、3本のペダルの踏み込みの深さまで指定したペダリングなど、まずは音の美しさそのものを感じ取るべき作品でしょう。長大なVI、一つの音が完全に消え去るまで耳を澄ませなければならない、長い休符が頻発する作品ですが、本来こういったコンセプトは、梵鐘や仏壇のりんの果てしない響きが消え去るまで(大した我慢もせずに)耳を傾けていられる日本人には珍しくもないものでしょう。しかし、当日の会場では、この長い休符のところであちこちから深い寝息が露わに聞こえてきて恥ずかしい。これがジョン・ケージの「易の音楽」かなんかだったら、寝息もイビキも音楽の一部として許されるかも知れませんがこの時期のシュトックハウゼンの音楽は何というか、そういうノイズを許さないのですねぇ(笑)。困ったものです。
それはともかく、Ⅰ~VIII は基本的にはいわゆるクラシック音楽の延長線上にある音楽であり、伝統的なヴィルトゥオジテに則った作風。今の地点から振り返ればそんなにぶっとんだ感じはしない。これがIX になると相当いっちゃってる、というか、いきなり何かクスリでもやってそうなあぶない音楽になってしまいます。そしてX は今や戦後前衛作品の金字塔と言ってよいと思います。その規模の大きさ、後世への影響の大きさ、そして何よりも音楽それ自体としての力強さと美しさに掛けて、ブーレーズの第2ソナタと並び称されるべき作品でしょう。ただし、一般的な評価としては、X よりもXI の方が、その不確定性の採用によって、より歴史的に重要な作品と考えられているのかも知れません。

ちょっと個人的な思い出も含めて脱線しますが、ピアノ曲X といえば、なんといってもあのポリーニが1978年に来日した際の演奏が今も語り草です。私もこの時の公演の記録を昔読んで、実際に聴いた人達をどんなにうらやましく思ったことか。その記録はたいてい、それまできっちりした身なりをしていたポリーニが上着を脱ぎ、手にプロテクターをはめて舞台に現れたことへの驚きと、その後の火花の散るような凄絶な演奏への賞賛が書かれていたものです。私自身とシュトックハウゼンの音楽との接点に関して言えば、それからかなり時代が下って1989年のポリーニ来日時のリサイタルを聴く機会がありましたが、その時のプログラムはブラームスのOp.119、シェーンベルクのOp.11、シュトックハウゼンのピアノ曲VとIX、休憩を挟んでベートーヴェンの29番ソナタ「ハンマークラヴィア」という重量級のものでした(確か東京文化会館で聴いたはずです)。ヘルベルト・ヘンクやアロイス・コンタルスキーのCDを買ったのはそれよりずっと後のことですから、私はこのとき何の予習もなしでシュトックハウゼンのV とXI を聴いたことになります(今時はyoutubeでX だって聴ける時代ですが、その頃は絶望的に情報が少なかったのです)。そのせいか、V に関しては殆ど記憶にないのですが、対するにIX の記憶は今も鮮明です。強烈に憶えているのは、クラシック音楽の延長線上にあるV と、カルトな味わいのIX の間に横たわる深淵の目も眩むような深さ、それと、楽譜を見ながらポリーニは弾いていたのですが、途中で楽譜が楽譜立てからずり落ちそうになり、間一髪でポリーニが手で押しとどめたのですが、見ていたこっちが心臓がとまりそうになったことです。それでも、ポリーニのその時のIX は、終盤に出てくる、夜空に消えていく星屑のような装飾音符の乱舞が息を呑むばかりに美しく、シュトックハウゼンの音楽におけるピアノ書法(もっともそれは1952年から1961年という非常に限られた期間のことですが)に完全に魅せられてしまったのでした。私は最近のポリーニの公演には殆ど行っていないのですが、彼はその後もことある毎にシュトックハウゼンを取り上げています。ポリーニという演奏家に対する好き嫌いは措くとして、このことは大変素晴らしいことだと思います。
シュトックハウゼンのピアノ曲は、聴いた感じだけなので確信はないですが、X を除くとピアニズムという観点ではロマン派の名人芸の延長線上にあるといえます。指の回りと別次元の、リズムの複雑さや音価の測り方が極めて困難なことに由来する難しさ、さらにはハーモニクスや特殊なぺダリングの困難さはあっても、基本的には古典派やロマン派をきっちり学んだピアニストならば弾けるはず。しかしX に関して言えばもう完全に過去の音楽とは切断されており、ピアノの技巧ということに関しても、過去のそれとは全く異質。にもかかわらず言葉の通常の意味で超絶技巧の極致という感じがします。XI は不確定性が全面に出ている反面、ピアノ技法という点ではIX 以前に戻っている感じですが、これを事前の準備なしで本来の指定の如く、断片を目にとまった順番に弾く、というのは別の意味で困難さがあるのでしょう。いずれにしてもX 以外はプロのピアニストであれば何とか弾けるハズ。X だって、演奏には大変な困難を伴うと思うけれど、リサイタルに掛ける意義も大きく、報われるものも非常に大きいと思います。少しでも多くのピアニストが当たり前のように取り上げてほしいものだと思う。なんといっても、この時期のシュトックハウゼンのピアノ曲は、ピアノを弾きながら舞台の上で目玉焼きを作る必要もなければ、グランドピアノの蓋の上で全裸になる必要もないですから、その点は簡単ですねw。
話は変わるが、よく最近のピアニストが、現代モノ(同時代の作品、ということではなくて、一応エスタブリッシュメントとしての現代音楽という意味だが)にも目を配ってますよ、といったジェスチャーでリゲティのエチュードであったり、シャリーノであったりを採り上げることがありますよね。アマチュアのピアニストにヴァインなんかが最近人気あるみたいなのも、同様の文脈で理解する必要がある。それが決して悪いとは言わないがそれって現代モノと言っていいのか?と思うことがあります。ある意味「現代風」という衣装をまとったサロン音楽なんじゃないか(それが言い過ぎなら、ソフトコアな現代曲という言い方もある、同じようなものか)。その点、シュトックハウゼンのXI までの諸作品は紛れも無くハードコアなのに響きも美しく、超絶技巧が聴く者を魅了して已まない。もちろん、人気投票したらリゲティの10分の1も得票できないことはよく分かっている。

大井氏の演奏に戻りましょう。XI の演奏に際して、例の大判の断片がばらばらに記された楽譜と、事前に弾く順番を記したと思しい小さめの楽譜の両方を楽譜台に置いて弾いていました。事前に準備することによって失われるものと、事前の準備なして弾くことのリスクないしは困難について云々する資格は私にはありませんが、本当のことを言えばXI に関しては事前に準備した上で暗譜して弾くのが一番良い解決法という気がします。
そしていよいよX。殆ど全編を覆う凶暴なグリッサンドとクラスターとパルス。そして時々果てしない沈黙。人間の耳はどんな音にもいずれ慣れる、という意味で言うなら、私は初めてこれを聴いたとき、これは音の暴力だと感じて最後まで聞くのが辛かったのですが、すぐに慣れて、とうとうその響きを美しいと感じてしまうようになりました。こんな体験は他にはクセナキスの「ジョンシェ」(1977年)を聴いたときぐらいでしょうか。まぁ、斯く言う私だって高校生のころはシェーンベルクのOp11-3ですら音の暴力と感じていて、何度も聴くうちに堪らなく美しく感じられるようになった訳ですが・・・それはともかく、大井氏が上着を脱いだ時は、ああなんて締りのないカラダ、と別なところに注意力が行ってしまって萎えそうになりましたが、プロテクターを嵌めて弾き始めたらもうかっこよくてしびれました。いや、そんなことより大井氏の音質がこの音楽に本当によく合致しているのだと思いました。
順番は前後しますが、XVIII、なんというか、安っぽいミュージカル、あるいは暗黒舞踏かなんかの舞台音楽みたい、というのが正直な感想。とにかく私にはシュトックハウゼンの後半生の創作について云々できる知識が全く無いので、こんな印象だけでネガティヴなことは言いたくないのだが、ずっと居心地が悪くて難儀しました。これはアンコールの(その割には15分も掛かるけれど)「自然の持続時間」の終曲も同様。いずれにしても、生涯に亘る作品をいろいろ聴きたいと思うのですが、シュトックハウゼンのCDってなぜか馬鹿高いですね。いくらなんでもコスパ悪すぎだろうと思って買えません。それでもいつかは「光」を聴くことがあるかも知れませんから、ネタ元の「光」を聴かないうちはとりあえずXVIII の判断も保留しておきたいと思います。

このブログが大井氏の目にとまるかどうか判らないけれど、次回は会場のイビキや寝息が気にならないように是非ジョン・ケージ特集をお願いしたいものです。「易の音楽」は我々聴衆にとっても絶対に素通りしてはいけない音楽だと思いますので。白寿ホールのピアノはプリペアさせてくれなさそうだけど「易の音楽」ならその点も大丈夫だし(笑)。
by nekomatalistener | 2012-01-31 22:31 | 演奏会レビュー | Comments(2)