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ワーグナー 「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 カラヤン指揮(その4)

ことしのエイプリル・フール企画ではマンツーマン英会話レアジョブの「ペット向け英語習得レッスン提供開始」
というのが面白かった。

 『対象
  犬 猫 
   ※年齢、犬猫種は問いません
  (中略)
  概要
   講師はフィリピン大学で生物学を専攻している学生および卒業生です。
   また、レッスンは現在、初級コースのみのご提供となり、
   簡単な英単語「one」(ワン)「near」(ニャー) などを学習していただきます。』

個人的には「フィリピン大学」云々と、画像のヘッドフォンの付け方が雑なところに妙な脱力感を覚えるww。
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今日は「東京・春・音楽祭」の「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の第1日目だが、私は7日の公演を聞く予定。その前に、先日3回に亘ってザックスの「迷いのモノローグ」と「ニワトコのモノローグ」を題材にしてちょっと詳細な分析を試み、それで予習記事は終わりにしようと思っていたのだが、更にどうしてもこれだけは書いておきたい、と思うことがあり、今回の4回目となった次第。
第3幕、ザックスがヴァルターにマイスターの歌の様々な規則を教える場面、ヴァルターが歌う「夢解きの歌」は変則的なバール形式(A-A'-B)に則っているが、そのBの部分(譜例20)。歌詞で言うと、Sei euch vertraut, welch hehres Wunder mir geschehn以下、「愛の動機」の変形によるこの部分は何度聴いても素晴らしいのだが、ここで問題にしたいのは、同じ歌が少し後の場面、一旦部屋に戻ったヴァルターが今度はエーヴァの前に現われ、「夢解きの歌」第3節を歌う、同じBの部分(譜例21)。歌詞はHuldreichstes Bild, dem ich zu nahen mich erkühnt!以下。
(譜例20)
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(譜例21)
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ここ(譜例21の7小節目)にbの音(シのフラット)が書かれているだけで音楽の色合いが随分かわる。このbの音を聴くと私は胸が締め付けられるような気持ちになる。たった一つの音の有る無しでこんなに音楽の聞こえ方が、否、音楽の意味が異なってくるのだ。例えて言えば、譜例20のほうは、まさにドイツ・ロマン派の音楽。シューベルトやウェーバー、シューマンを経て此処に至る初々しいロマンの香りが凝縮された音楽だが、譜例21のほうは、「後期ロマン派」と呼ぶにふさわしい陰りのある、官能をくすぐる音楽。それはワーグナーの後、マーラーを経てシェーンベルクに真っすぐに続いていく流れであり、その源流は恐らくフランツ・リスト(の1850年代以降の音楽)にあるのだろうというのが私の見立てだが、それはともかく、それぐらいこの「夢解きの歌」の第1・2節と第3節との間には大きな差異があるのだ。
ドラマの進展という意味で、「夢解きの歌」第1節、第2節のロマンティックな音楽と第3節で現われるbの音がどういう意味を持つのか。ザックスの導くままに「夢解きの歌」を歌う第1節、第2節のヴァルターは、まだ自身の中にある芸術の萌芽を完全には開花させていない。第2幕の大混乱を経て、少しは思慮深くなったかも知れないが、基本的には血気にはやる若者のままだ。しかし、ヴァルターが一旦退場し、ザックスとべックメッサーのやりとり、次いでザックスとエーヴァのやり取りが続く間に、明らかにヴァルターは成長している。何かと言えばすぐに剣に手を掛け、駆落ちしてでもエーヴァをものにしようとしていた若者ヴァルターは、わずかの間に、ザックスに敬意を払い、正々堂々と歌合戦に勝ってエーヴァを妻に迎えようとする、真の愛を知る男になった感じが、このbの一音に込められている。一方のエーヴァがザックスに導かれるかたちで、ただの金持ちの我儘娘から愛を知る大人の女へと変貌することは、このシリーズその2の回で譜例10の引用とそれに続く記述で触れた。本当にワーグナーの音楽が素晴らしいと思うのは、テクストだけでなく音楽そのものでこういった心の軌跡(心の成長と言ってもいいが、これはまさにビルドゥングスロマンの本質である)を描くことが出来たからだと思う。ヴァルターの「夢解きの歌」第3節のbを、ワーグナーがそれと意識して書いたかどうかは誰にも判らない。だが、意識的であれ無意識的であれ、その一音の意味するところは注意深い聴き手に間違いなく伝わるはずだ。
それにしても、こんな枝葉の、瑣末なこと、たった一つの音符にこだわって長大なオペラを聴く、ということが果たして「正しい」アプローチなのか、自分でも若干疑問なしとしないところだが、多少の自負を込めて言えば、これが猫またぎ流の聴き方なのだ。
(この項終わり)
by nekomatalistener | 2013-04-04 23:54 | CD・DVD試聴記 | Comments(2)

ワーグナー 「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 カラヤン指揮(その3)

これワロタわ~。
YAHOO!知恵袋より
Q:曲名を教えてください! すごく迫力のあるテンポのはやい曲です!

 「ダン!ダン!|ダン!ダン! |ダッダダーッダダー|ッダダーッダダー|
 アーアア|アアアア|アアアアアア|アアアアーア|アン
 ディレレレディレレレディレレレ|ディレレレディレレレディレレレディレレレ|
 ダン!ドン!ダン!ドン!|ダン!ドン!ダン!ドン!|
 ダッダダーッダダー|ッダダーッダダー|
 アーアア|アアアア|アアアアアア|アアアアーア|アン
 ディレレレディレレレディレレレ|ディレレレディレレレディレレレディレレレ・・・」
 
 よろしくお願いします。
 m(__)m

A:ベルディのレクイエムから「怒りの日」だと思います。





ちょっと脱線から。「マイスタージンガー」第3幕でヴァルターが歌う夢解きの歌の出だし(譜例13)、どこかで聴いた憶えが・・・と思ったらブラームスのヴァイオリン・ソナタの第2番じゃないか(譜例14)。もしかしたら誰でも知ってるネタなのかも知れませんが、これは素直にワーグナーに対するオマージュと見るべきだと思います。でも、そうだとすると、ワーグナーが大嫌いでブラームスを擁護していたハンスリックの立場はどうなるのだろう?
(譜例13)
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(譜例14)
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前回の予告通り、今回は第2幕でザックスが歌う「ニワトコのモノローグ」を取り上げます。それにしても私が無粋な人間というのもあるが、この場面で何が判らないかといえば、それは宵闇に漂う「ニワトコのかおり」。正確にいえば「セイヨウニワトコ」なのでしょうが、調べるとどうも「マスカットのような香り」がするそうだ。また、ユダが首をくくった木であるとか、魔法・魔術に関する様々な伝承があるとのこと。こういったヨーロッパの共同体の共有知を持たないというのは、ちょっと日本人としては辛いところ。
まず譜例15、序奏の冒頭6小節だが、最初の2小節、第1幕のヴァルターの歌に現われ、wikipediaによれば「春の促しの動機」などと呼ばれている動機、それに続く32分音符の下降音形で暗示される靴屋の動機、それに続くホルンの2音ずつ4度下がって3度上がり、次に5度下がる非常に特徴的な音形の動機の、3つの要素が現われています。実際、それに続く長いモノローグは、その題材の殆どが(ザックスが回想する)ヴァルターの歌と、後ほど展開される「靴造りの歌」から成り立っており、経済的と言うか、ごく少ない素材から無尽蔵とも思えるような音楽を紡いでいくワーグナーの才能ここに極まれり、といった感じがします。
(譜例15)
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「トリスタン」以降のワーグナーの楽劇が、その長大さにも関わらず非常に輪郭が掴みやすく思われる秘密は、この動機(ライトモチーフ)による作曲技法にあるのは間違いありませんが、どんなに長大であっても結局ごくわずかの素材の「使い回し」で成り立っているようなものなのに、聴いていて少しも退屈しないというのは、これはもうワーグナーの天賦の才としか言いようがありません。
「春の促しの動機」は全曲の至るところに現われる、この楽劇のもっとも重要な動機ですが、これは早くも前奏曲に現われる「衝動の動機」(譜例16)から直接導かれたものであることは言うまでもありません。
(譜例16)
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ざっと、ここまでは耳で聴いて引用元がすぐ判るものですが、3つ目のホルンの動機は少し判りにくいように思います。どうも呼び名すら持たないようなこの特徴的な音形、引用元は第1幕のヴァルターの「資格試験の歌」の次の部分でした(譜例17の5小節以降)。この部分のヴァルターの歌の歌詞は春の森の情景を歌うものであり、ニワトコのモノローグにおける、初夏の宵闇のリンデやにわとこの木立に照応しているので、これを「森の動機」と呼んでも差し支えないでしょう(森をホルンで表現するのはドイツ音楽のお約束)。ちなみにこの「資格試験の歌」などと呼ばれるヴァルターの歌は、私が思うに「ヴァルキューレ」第1幕でジークムントの歌う”Winterstürme wichen dem Wonnemond,”(ジークムントの愛の歌)にも匹敵する素晴らしい旋律だと思います。
(譜例17)
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「ニワトコのモノローグ」におけるこの動機は、本当に美しい、ドイツの初夏の夜を彷彿とさせる音楽なのに、この場面以降、(私の見落としが無ければ)このままの形での展開はされていないようです。しかし、この4度下がって3度上がり、次に5度下がる音形は、前奏曲の次の箇所(譜例18の第3小節目)、あるいは「愛の動機」などと呼ばれる動機(譜例19の第3小節目以降)などとも密接な関係があるに違いありません。
(譜例18)
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(譜例19)
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更に言うなら、この「4度下がる」というのは「マイスタージンガー」全体を支えている基本原理となっていて、前奏曲の冒頭から様々な動機、コラールやら乱闘の音楽やらべックメッサーのセレナーデまで、ほとんどありとあらゆる素材に共通して見出されるものとなっています。こじつけ、考え過ぎという勿れ。この原理こそベートーヴェン以降のドイツ音楽(少し乱暴な括り方ですが)に顕著な動機労作thematische Arbeitの根幹をなすものであり、ワーグナーのライトモチーフやその構造も、それを拡大敷衍したものに他ならない、と思います。そして、ワーグナーがこの「4度下がる」という動機の萌芽から長大な全曲を生みだしたのは、おそらく意識的なものであっただろうという気がします。

全曲の中からわずかにザックスの歌う二つのモノローグ、そこに現われた幾つかの動機を取り上げただけで予習終了、という訳ではありませんが、まぁこれぐらいにしておきます。微細な動機やその萌芽がどこにどのように仕込まれているか、ヴォーカルスコアにして400頁にもなる全曲を隈なく探索するのは骨は折れるが実に楽しい作業でした。あとは4月の音楽祭での公演を待つばかり。
前々回に予告したアドルノの『ヴァーグナー試論』の読書レポートについては、稿をかえて取り上げます。
(この項終わり)
by nekomatalistener | 2013-03-20 21:37 | CD・DVD試聴記 | Comments(2)

ワーグナー 「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 カラヤン指揮(その2)

「マイスタージンガー」第2幕、一旦侍女と姿を消したエーヴァが戻ってきたときのヴァルターの台詞、”Doch ja, sie kommt dort?”が、「どっひゃ~」としか聞こえない。もっとも「どっひゃ~あの娘やっぱり来たで~」という意味なのであながち間違いではない(違)。




さて、前回、第3幕の前奏曲と、続くザックスの「迷いのモノローグ」の主要な動機となっている旋律が、第2幕の「靴造りの歌」に由来しているのを見ましたが、第3幕のモノローグ以降の場面で同じ動機がどのように使われているかを検証してみます。
昨夜の乱闘騒ぎを辛くも逃れてザックス邸で一夜を明かしたヴァルターが工房に現われると、何としても彼に歌合戦で優勝してもらいたいザックスは、マイスターの歌の規則を彼に教えます。ザックスに導かれるままにヴァルターが「夢解きの歌」の第1節を歌い終わると、例の動機が現われます(譜例6)。ザックスは中年とはいえまだまだ男ざかり、前の日エーヴァから結婚相手として「男やもめのザックス親方では駄目なの?」などと囁かれたザックスはついその気になるものの、エーヴァがヴァルターに真の愛情を抱いていることを見届け、自分の恋を諦めます。台詞には何もそのようなことは書かれていないが、音楽がそのことを雄弁に語っています。
(譜例6)
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ヴァルターの素晴らしい歌に心底感動したザックスは第2節目を促し、ヴァルターが歌い終わるとまたしても例の動機が姿を見せます(譜例7)。しかしここでは動機は短縮され、ほのめかす程度に扱われている。
(譜例7)
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第3節を歌うことを断ったヴァルターに対し、ザックスは決然と「では、言葉はしかるべき場所で行為とともに示しなさい!」と言いますが、動機は殆ど原型をとどめずに決然たる調子にモディファイされています(譜例8)。
(譜例8)
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その後、ザックスとべックメッサーのやりとりの後、ザックスの工房にエーヴァが現われ、靴の修理にかこつけてヴァルターのことを気にしていると、ヴァルターが歌の第3節を歌いながら登場します。気付かぬふりをして靴を直すザックス。ここで例の動機が一瞬現われたのち(譜例9)、ただちに「靴造りの歌」に変化し、苦い諦念が笑いの世界に溶けていきます。実は私、ここからのザックスの歌は涙なしには聴くことができません。見事な音楽ですが、しかしどちらかといえば芸術的所産というよりは精緻な職人芸の世界という気もします。ただし、それはワーグナーの作曲法を貶めるのではなく、これほどの膨大なスコアが動機というさまざまな縦糸と横糸を撚り合わせたように造られているのは驚異的といってもよい事象ではあります。
(譜例9)
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感極まったエーヴァがザックスの計らいに感謝して”O Sachs! Mein freund! Du teurer Mann!”(ああ、ザックスさん、大事なお方!)と叫ぶところにも例の動機が潜んでいて、この「迷い」はエーヴァ自身のものでもあったことが判ります(譜例10)。
(譜例10)
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そこからエーヴァの長いソロが始まりますが、次第に強まる半音階的色彩はエーヴァの精神的成長を物語るかのよう。”Doch nun hat's mich gewählt zu nie gekannter Qual”(しかし、いまの私は思いもよらぬ苦しみを味わわされている身です)に至って、殆ど「トリスタンとイゾルデ」と見紛うばかりに音楽が上り詰めると、ザックスが「ハンス・ザックスは賢明だったから、マルケ王のような仕合せは望まなかったのだよ」と、「トリスタン」の引用にのせて歌います。
なんという音楽!これが喜劇か、と少しばかり空恐ろしくなるほど。その後、場面はいよいよ歌合戦の場へ。群衆に向かってザックスが開式を告げる場面、「あなた方の気持は軽いでしょうが、私の心は重くなります、私のような哀れな者に、あまりの栄誉が与えられますと。」という箇所でまたしても例の動機(譜例11)。
(譜例11)
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そしていよいよ大詰め、見事勝利とエーヴァとの結婚を勝ち取ったヴァルターを指して、ザックスが群衆に「どうです、私の選んだ証人に間違いはなかったでしょう!」というところにも動機がちょっと現われます(譜例12)。未練がましいといやぁ未練がましい、しかし人間の心理を丁寧に音で追いかければこういうことになるのでしょう。
(譜例12)
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以上見てきたようなことは、もちろん知らなくたって一向に観賞の妨げにはなりませんが、知っているのと知らないのとではやはり作品の受け取り方が違ってくるように思います。「迷いの動機」ひとつとってもこの調子ですから、正味4時間半の音楽を動機レベルで分析していけばとんでもないことになるのですが、それにしても「マイスタージンガー」に続く「ニーベルングの指輪」に至っては、4夜に亘って繰り広げられる長大な全曲がこのような「動機」の網目として作曲されていて、本当に筆のすさびで書き流したような小節が一つもないとさえ思われます。「トリスタン」にしても「指輪」にしても、うねるような音響の渦に巻き込まれ、忘我の境地を漂うのも一つの「聴き方」ではあると思いますが、一度は知的な分析という過程を経るのも悪いことではないと思います。
「マイスタージンガー」にどれほどの動機が使われているかは、ちょっとネットなどで解説を当たれば判ることですので、次回はあまり言及されていない(と思われる)動機を取り上げながら、有名な「ニワトコのモノローグ」について書いてみたいと思います。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2013-03-18 00:26 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

ワーグナー 「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 カラヤン指揮(その1)

「ニュルンベルクのマイスタージンガー」に何度も出てくる”Fanget an!”(始めよ!)という旋律、ファーンゲターーンというのを参鶏湯(サームゲターーン)と空耳。ほら、もう、そうとしか聞こえなくなったでしょ(悪魔の笑み)。



4月の「東京・春・音楽祭」の目玉はなんといっても「ニュルンベルクのマイスタージンガー」公演。ワーグナー生誕200年に相応しいその公演で特に目を惹くのはヴァルター役をフロリアン・フォークトが歌うこと。昨年の6月に新国立劇場で彼の歌うローエングリンを聴いて、その類稀な才能に驚嘆しながらも、どうしてもその声質が好きになれなかったことは以前このブログにも書きました。にもかかわらず「マイスタージンガー」のチケットを買ったのは、いま間違いなく旬の真っ最中のフォークトをもう一度聴いておきたかったのと、どうして(世間であれほどもてはやされていたのに)私が好きになれなかったのかを分析してみたいと思ったから。

とりあえずフォークトのことは措いといて、ワーグナーの音楽をじっくり予習してみたいと思います。正味4時間半に及ぶ超大作を短期間で隅々まで把握するのはとても無理な話ですから、CDを聴きながら、ことさら耳に残る小さな部分、音楽用語でいうところの「動機(モチーフ)」レベルで、私の心を掴んで放さない些細な部分にこだわって、感じたことを数回に分けて書いてみたいと思います。
同時に、いままでこのブログでワーグナーを取り上げた際に、その物語に見られる謎のようなものについて、色んな思考の補助線を引きながらとりとめもないことを書き連ねてきた訳ですが、今回はそういった素人談義は止めて、最近買ったテオドール・W・アドルノの『ヴァーグナー試論』(高橋順一訳、作品社)を少しずつ読み進めながら、特に「マイスタージンガー」の理解に資するところについて書きとめてみたいと思っています。
今聴いている音源は下記の通り。

   ワーグナー 楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」全曲
   ハンス・ザックス: テオ・アダム(Bs-Br)
   ファイト・ポーグナー: カール・リッダーブッシュ(Bs)
   クンツ・フォーゲルゲザンク: エーベルハルト・ビュヒナー(T)
   ジクストゥス・べックメッサー: ジェレイント・エヴァンス(Br)
   フリッツ・コートナー: ゾルタン・ケレメン(Bs)
   ヴァルター・フォン・シュトルツィング: ルネ・コロ(T)
   ダーヴィット: ペーター・シュライヤー(T)
   エーヴァ: ヘレン・ドナート(Sp)
   マグダレーネ: ルート・ヘッセ(Ms)
   夜警: クルト・モル(Bs)
   ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ドレスデン国立管弦楽団(シュターツカペレ・ドレスデン)
   ドレスデン国立歌劇場合唱団・ライプツィヒ放送合唱団(合唱指揮ホイスト・ノイマン)
   1970年11月24~30日&12月1~」4日ドレスデン聖ルカ教会にて録音
   CD:EMI CLASSICS TOCE11390-93

カラヤンといえば、「アンチ・カラヤン」という言葉があるくらい、嫌いな人は嫌いな訳ですが、この録音に限って言えば本当に歴史的録音といってもよい超弩級の名演という気がします。何より凄いのはシュターツカペレ・ドレスデンの質実剛健という表現がぴったりなその音色。もしカラヤンがベルリン・フィルでこの作品を録音していたならこれほどの成功は納められなかったのでは、と思います。当時共産圏であった東ドイツで、ある意味コマーシャリズムの呪縛から逃れて独自の進化をしたシュターツカペレの魅力は、既に語りつくされているのかもしれませんが、私も賛辞を捧げずにはいられない。その温かみのある、木肌のような手触りの音はもしかしたら現代では既に幾分失われていて、この「マイスタージンガー」の録音に辛うじて往年の素晴らしさを聴くことができるだけなのかも知れません(普段オーケストラをあまり聴かないのでえらそうなことは言えませんが)。カラヤンは敢えてこのオーケストラの音色を磨き上げるのではなく、またスタイリッシュな指揮というよりもドイツの伝統に則した指揮に徹することによって、真にオーセンティックなワーグナーの演奏を作り上げています。
歌手達はもう言うことなし。人間的な魅力に溢れるテオ・アダムのザックスと、天馬空を行くようなルネ・コロのヴァルター、お転婆だった金持ちの娘が物語の進展に合わせて真の愛情に目覚めた女性に変貌していくヘレン・ドナートのエーヴァ、厭らしい敵役でありながらもどこか憎めないエヴァンスのべックメッサー、いずれも素晴らしい。モーツァルトやバッハを端正に歌う歌手、というイメージの強いシュライヤーが、おっちょこちょいの靴屋の徒弟ダーヴィットを楽しそうに、しかも主役を決して食ってしまわないように歌っているのも好ましい。このオペラにはフルネームを与えられた多くの職人達が現われますが、いずれも所を得た歌手ばかりで、けっして上手すぎないのが役柄に見あっていて素晴らしいと思います。合唱も然り。あまり沢山聴いている訳ではないけれど、これはカラヤンの残した夥しい録音の中でも、「ばらの騎士」の旧盤などと並ぶ傑作ではないでしょうか。

カラヤンとシュターツカペレの恐るべき表現の深さという意味で、次の箇所を挙げておきたい。第3幕の前奏曲の、3/2拍子が一小節はさまった直後のフォルテッシモの部分(譜例1)、ワーグナーの膨大なスコアの中でも出色の部分だと思うが、これをカラヤンとシュターツカペレは聴き手の魂を揺さぶるかのように鳴らす。私の貧しい言葉では表現のしようも無いが、もし私が指揮者だとしたら、オーケストラからこんなフォルテッシモを引き出すことが出来たなら死んでもいい、とすら思うだろう。
(譜例1)
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このホ短調の主和音にCisを重ねた和音で始まる特徴のある音形は、世間では「迷いの動機」などと呼ばれていて、第3幕のザックスの「迷い(迷妄)のモノローグ」に出てくるのだが、実は第2幕にも意義深い登場の仕方をしていることに気付いたのでちょっと拾い上げてみたい。
まず、譜例1の当該箇所の低音だが、Cis-Dis-E-Fis-G-A-Hと上昇する音形。次に第2幕ザックスの「靴造りの歌」の第1節、”Als Eva aus dem Paradies”(エーヴァが楽園から神様に追い出されたとき)の低音(譜例2)を見てみると、E-Fis-G-A-B-C-Dとなっていて、ホ短調(前奏曲)とト短調(靴造りの歌)の違いはあれど同じ音形。これで「迷いのモノローグ」は実はザックスが創世記のエーヴァ(イヴ)にことよせて密かに想いを寄せるエーヴァへの恋心を歌っているということが判る。
(譜例2)
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「靴造りの歌」第2節の同じくだりの歌詞は”O Eva!Eva!Schlimmes Weib”(おお エーヴァ ひどい女よ!)というもの。そして第3節”O Eva!Hör mein' Klageruf.”(おお エーヴァ !わしの嘆きを聞いとくれ!)(譜例3)でついに譜例1の上声部の旋律が現われる(伴奏部の一番上の段)。
(譜例3)
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これが第3幕の前奏曲冒頭、そしてザックスの「迷いのモノローグ」に変奏されていくのだが、この第2幕の「靴造りの歌」における素材の「仕込み」は周到を極めていて、かなり聴き込まないと判らないように仕組まれている。ザックスの歌を聴いてエーヴァは思わず、”Mich schmerzt das Lied, ich weiß nicht wie!”(なぜだか、あの歌を聞くと心が痛むの!)と歌うが、この台詞に附けられた音楽の内声にも同じ旋律が書き込まれている(譜例4)。
(譜例4)
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第3幕の前奏曲は、少し後に出てくる「迷いのモノローグ」の素材から作られている、とする解説が多いようだが、ちょっと仔細に調べれば実は第2幕の「靴造りの歌」、もはや若い女の恋愛の対象からは外れてしまった中年男のやるせない歌からの引用であるということがこれで判りました(譜例5は前奏曲の冒頭)。
(譜例5)
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では、同じ旋律が第3幕、前奏曲と「迷いのモノローグ」以外の部分でどのように使われているか、これがまた分析すればするほど面白いのだがちょっと長くなるので続きは次回に。
(譜例はIMSLPからダウンロードしたマインツのB. Schott's Söhne社の1868年初版のヴォーカルスコアで、ピアノ伴奏の編曲はなんとかの歴史的ピアニスト、カール・タウジヒによるもの。引用した対訳は音楽之友社のオペラ対訳ライブラリーのものを使わせて頂きました)
(この項続く)
by nekomatalistener | 2013-03-14 00:01 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

ヴェルディ 「イル・トロヴァトーレ」 カラヤン(その4)

全然飼い主の言うことを聞かない犬の名前がロデム(しかも雑種)。



音楽を聴いて受ける様々な感情を言語化するのは本当に難しいですね。私の駄文を読んで、それでもトロヴァトーレを観たい、聴きたいと思って下さる人が一人でもいたら、もう4回目となるこの項を書き続ける目的の大部分は達成されているようなもんですが、猫またぎなリスナーとしては、まだまだこの魚には身が残っているような気がするのでもうちょっと続けます。

番号付きオペラという概念があります。時代時代で定義は異なりますが、いわゆるベルカント・オペラの場合、Scena-Cavatina-Scena-Cabaletta を基本形とする一区切りの楽曲を一曲として数え、全体が2曲目、3曲目と連なっていくものです。中にはカバレッタがなくカヴァティーナのみでナンバーを構成するもの(Romanza)、三部形式や二部形式による独立した合唱、あるいは各幕のフィナーレとなるナンバーでは少し自由度がアップして、ソロや様々な組合せのアンサンブルが幾つも続く場合もあります。前回舌足らずなまま、トロヴァトーレを構成する形式とその解体について書きましたが、その前提として全曲の構成がどうなっているのか見てみます。但し、スコアを見ながら、という訳ではないので、多少リブレットや楽譜の指定とはずれているかも知れませんが。

第1部
 第1曲 フェルランドと従者達の合唱による導入
  基本形。カバレッタの部分は簡潔極まりないですがいきなりメーター振り切れそうな盛り上がりを見せます。
 第2曲 レオノーラのアリア
  基本形。完璧なプロポーションの大アリア。
第3曲 伯爵・マンリーコ・レオノーラの三重唱
  基本形。第1シェーナは伯爵のソロ。カヴァティーナの部分に「トゥルバドゥールの歌」が嵌め込まれています。

第2部
 第4曲 ジプシーの合唱とアズチェーナの歌
  不均衡な三部形式。アズチェーナの歌の後に短いシェーナ、合唱の繰り返しは短縮されています。
 第5曲 アズチェーナのロマンツァ
  基本的にはロマンツァ形式と思いますが、後半は短縮されたカバレッタとも、劇的シェーナとも言える部分に繋がっています。
 第6曲 アズチェーナとマンリーコの二重唱
  基本形。
 第7曲 伯爵・フェルランド・従者達のアンサンブル
  基本形。
 第8曲 フィナーレ(レオノーラ・伯爵・マンリーコ・その他)
  尼僧の合唱の後に前曲のコーダが繰り返されるので、これを第7曲の結尾と見ることも出来そうですが、attaccaでそのままレオノーラのシェーナに続く為、これを拡大されたシェーナと見做しておきます。カバレッタは壮大なコンチェルタートの様相を帯びています。

第3部
 第9曲 兵士の合唱
  短い導入合唱とシェーナに単純な二部形式の合唱が続きます。
 第10曲 伯爵・アズチェーナ・フェルランドらのアンサンブル
  基本形。
 第11曲 マンリーコのアリア
  基本形。カバレッタの後半は兵士達も参加して白熱のストレッタとなります。

第4部
 第12曲 レオノーラのアリア 
  基本形。第2シェーナは修道僧の合唱と幽閉されたマンリーコの歌が入って拡大されています。
 第13曲 伯爵とレオノーラの二重唱
  基本形ですが、カヴァティーナの代わりに切迫したテンポの二重唱が置かれているのでカバレッタが二つあるように聞こえます。
 第14曲 フィナーレ
  様々な組み合わせのアンサンブルをシェーナで繋いでいく形式で書かれています。

カヴァティーナ・カバレッタ形式による独唱のための楽曲(他の登場人物は原則シェーナでしか歌わない)を狭義のアリアと呼ぶなら、実はこのオペラには3曲しかないのですね(No2レオノーラ、No11マンリーコ、No12レオノーラ)。なんとなく、次から次へとアリアを繋げて行く歌合戦という獏としたイメージを抱きがちな作品ですが、大半は種々の組合せのアンサンブルで構成されています。
私はこういう分析ごっこ(スコアを見ていないので、あくまで「ごっこ」です)は結構大切だと思っています。なぜなら、よく言われるような通説俗説(たとえば、ヴェルディは本来このオペラをアズチェーナと名付けようと思っていたが、なるほどレオノーラの占める位置は相対的に低い、とか)に対して疑問を持ち、判断を保留することが出来るからです。また、前作リゴレットでこの因習的な番号付きオペラの世界をせっかく脱却したのに、次のトロヴァトーレで再び保守的な世界に後退したとよく言われますが、それがどの程度正しいのか、一度は分析しないと直感だけでは判らないものです。
前回も書いたように、私はカラヤンの各幕、各部分の燃焼度の微妙な違いと、各ナンバーの様式の純正度あるいは解体の度合に関連を見たいと思っています。実のところ、矢張り相関がありそうだ、というぐらいで確信には至りません。また、どれだけ精緻に考察しても所詮印象批評の域を出ないような気もしています。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2011-09-15 22:22 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

ヴェルディ 「イル・トロヴァトーレ」 カラヤン(その3)

「ひつこい」と「しつこい」、どっちが正解かとっさに判らない。
「正解は・・・料理はひつこい、勧誘はしつこい」などと言われると信用するね絶対。



あとはサクサク行きましょう。
第3部の最大の聴き所は幕切れのマンリーコのハイC。残念ながらステファノのハイCはなんとか絞り出しました、というレベル。この点セラフィン盤のベルゴンツィはすごいな。まぁ、音楽的にはハイCが出たからどうのこうの、は大した意味があるとも思えませんが、そこは歌舞伎役者が大見得を切るみたいなもんでね、やはり無いとさびしい。
第4部は再びレオノーラの大アリアで始まります。カラスの素晴らしさについて、もうくどくど書く必要もないでしょう。このアリア、第2シェーナに合唱が入って拡大されていますが、形式としては典型的なカヴァティーナ・カバレッタ形式に則っています。先ほど、喩えに持ち出した歌舞伎と同様、この、形式に則るということ、定められた矩の中で最大限の感情表現を行なうこと、ここにこそトロヴァトーレの魅力の一端があります。それはベルリーニやドニゼッティにより完成させられ、ヴェルディに受け継がれた形式美というものです。更に言えば、トロヴァトーレにはこの様式の完成と同時に、前作のリゴレットもそうですが、早くもその解体の過程が始まっているところにも魅力があるのですが、カラヤンの隈取のはっきりとした表現は、この形式美を夏の太陽のようにくっきりと照らし出すと共に、内在する衝動が形式の軛を破ろうとしているところについては、その光は混乱を混乱として露わにしているようにも思われます。ユーゲントシュティルを地でいくようなR.シュトラウスなどに対するカラヤンの偏愛を思うと、一見ことは逆のようにも思われますが、ここでのカラヤンは、形式の呪縛の中でより自在に息をしており、逆にその束縛が弱い箇所では不安にも似た表情を垣間見せるのです。
このオペラの第1部を構成する3つのナンバーは全てこのカヴァティーナ・カバレッタ形式を下敷きとしており、他の3部ではその解体が見られますが、カラヤンの指揮が本当に輝かしいのはこの第1部なのであって、その他の3部については、形式の溶け具合に応じて白熱した剛毅さよりも纏綿たる情趣のほうが勝っているように思われます。イタリアオペラとしては熱量がやや少ないというネガティブな見方もできるかもしれません。
これはカラヤンの解釈の問題でしょうか、それともヴェルディのトロヴァトーレの持つ本質的な欠陥、というのが言いすぎなら限界といってもいいですが、そういうものに起因するのでしょうか。その問いに答えることは、問い自体の正当性の有無も含めて困難ですが、一つだけ言えることは、ヴェルディはこのトロヴァトーレでベルリーニ以来のベルカントオペラの完成を成し遂げ、同時にその解体に向かっていったが、解体の果てに新たな様式の誕生と呼ぶに足る美的構造を生み出すには、その後「シチリア島の夕べの祈り」から「ドン・カルロ」に至る10年以上の歳月を必要としたということです。つまり、トロヴァトーレには輝かしい完成と同時に、苦渋に満ちた模索の始まりが刻印されており、カラヤンはこの作品を(セラフィンのように)徹頭徹尾輝かしい歌で覆い尽くすのではなく、様式の推移をなんとか描き分けようと心を砕いているように思われてなりません。その結果現れたものは、歌合戦になりがちなこの作品には類まれな、陰影に満ちた悲劇的世界の表現でした。
誤解のないように言えば、セラフィンのアプローチは本当に規範となるべきもので、十全なイタリアオペラの解釈としては正しいのだと思います。それでもカラヤンをより好むかどうかは、もう個人の趣味嗜好としかいいようのない問題なのでしょうね。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2011-09-13 23:32 | CD・DVD試聴記 | Comments(6)

ヴェルディ 「イル・トロヴァトーレ」 カラヤン(その2)

あるブログで「護身用ターミネーター」という言葉を発見。
ひょっとして売っているのなら、ほしい。



カラヤンのトロヴァトーレを聴くと標榜しておきながら、先ほどセラフィン聴いてました(笑)。一応、規範となる演奏ですからね。データをつけておきましょう。

 マンリーコ・・・・・・・カルロ・ベルゴンツィ
 レオノーラ・・・・・・・アントニエッタ・ステッラ
 ルーナ伯爵・・・・・・・エットーレ・バスティアニーニ
 アズチェーナ・・・・・・フィオレンツァ・コッソット
 フェルランド・・・・・・イーヴォ・ヴィンコ
 ルイス・・・・・・・・・フランコ・リッチャルディ
 セラフィン指揮ミラノ・スカラ座o,cho(1962年7月録音)
 CD:DG00289 477 5662

錚々たる、といいますか。先日、カラヤンのディスクについて「カラスを聴くための録音」と書きましたが、これは裏を返せば、人様にお薦めする際のファーストチョイスとしてはちょっとどうだろうか、という事です。多分沢山の方が、カラスはともかく、カラヤンのトロヴァトーレって真正なイタリアオペラとしてどうなのよ?と思ってらっしゃるということは重々分かっております。
世評に従えば、ファーストチョイスはなんといってもセラフィン盤でしょうね。ええ、そうです、そうですとも。でもね、こんなこと言うと袋叩きに会いそうですが、コッソットは美声過ぎて邪悪さがないし、ベルゴンツィは松竹新喜劇みたいなくさい泣きが入るし、ステッラはカラスと比べたらもう(自主規制)だし。
私はカラヤンの、ファーストチョイスとはなり得なくとも、時に規範からはみ出てしまっても尚、ヴェルディの本質に迫ろうとする演奏を愛して止みません。その魅力をもう少し書き連ねてみたいと思います。

ところで、前回第一部のレオノーラのアリアについて、カバレッタの繰り返しが省略云々と書きましたが、セラフィン盤も同様で、しかもイネスのセリフはレオノーラと重なって歌われていました。まったくいい加減な記憶です。批判めいたことを書くときはよくよく調べてみなければなりませんね。スコアではどうなっているのか、ご存じの方の御教示をお待ちしております。

第2幕、というより第2部と称したほうが正確ですが、古い録音のせいもあるけれど冒頭のジプシーの合唱(アンヴィル・コーラス)が物凄く荒削りに歌われています。え、なに、素人さん?と思うほど。しかし一度聴いてしまうと、プロの磨きあげた歌い方では物足らなくなります。

 Vedi! Le fosche notturne spoglie
 De' cieli sveste l'immensa volta;
 Sembra una vedova che alfin si toglie
 I bruni panni ond'era involta. 
 All'opra! all'opra!
 Dàgli, martella.
 Chi del gitano i giorni abbella?
 La zingarella!
 Versami un tratto; lena e coraggio
 Il corpo e l'anima traggon dal bere.
 Oh guarda, guarda! del sole un raggio
 Brilla più vivido nel mio/tuo bicchiere! 
 All'opra, all'opra...
 Dàgli, martella...
 Chi del gitano i giorni abbella?
 La zingarella!

 見よ!大空が闇夜の帳を
 払いのけるのを!
 まるで黒い喪服を脱ぎすてる
 未亡人みたいに。
 働け!働け!さあ!金槌を!
 ジプシーの日々を明るくするものはなんだ?
 そりゃジプシーの女さ!
 酒をくれ。酒は体に強さを、
 心に勇気を与えてくれるのだ。
 おお見るがいい!太陽の光に
 俺の/お前のグラスが輝くのを!
 働け!働け!
 ジプシーの日々を明るくするものはなんだ?
 そりゃジプシーの女さ!

 第3部の兵士の合唱もそうですが、これならオペラがはねた後、食事をして酔っぱらったイタリアのおじさん達も機嫌よく歌いたくなるというもの。ヴェルディの合唱が本当にプロでなければ歌えなくなるのはもう少し後、「仮面舞踏会」や「ドン・カルロ」の対位法的・立体的な合唱をヴェルディが書くようになってからです。この荒さは後年のカラヤンなら許さないかもしれませんが、これはこれで1956年当時のカラヤンの、センスの賜物と思いたい。
続くアズチェーナとマンリーコのやり取り、バルビエリのアズチェーナが少し物足りません。それなりにドスも効いてるのですが、いかんせんカラスの後に登場して割を喰った感じです。ステファノもおとなしめ。こちらはまぁ母親の前で神妙に話を聞く立場なので仕方がないか。
終わり近く、伯爵の、従者達の合唱を交えたアリアのカバレッタ Per me, ora fatale, i tuoi momenti affretta の自在なテンポ、スカラのつわものどもを引きずりまわすカラヤンの剛腕は圧巻です。
そして第2部フィナーレ、またもやカラスの登場で俄然音楽が引き締まります。レオノーラのカヴァティーナの、Può fra gli eletti al mio perduto beneというところのカラス独特の含み声に鳥肌が立つ思いです。ここからはもう頭を垂れて音楽を聞くのみ。私は、無理だらけの絵空事のお話が、すぐれた歌手と指揮者によって、血の流れている真実に昇華していくこの瞬間がたまらなく好きです。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2011-09-11 00:37 | CD・DVD試聴記 | Comments(3)

ヴェルディ 「イル・トロヴァトーレ」 カラヤン(その1)

会社で普段あまり話すことのない技術屋(26歳、ちなみに私は48歳)と昼飯食いながら話をしていた時のこと。「○○さん(私の2段階くらい上の上司)いつまでも帰らへんから『はよ帰れ~エコエコアザラク』て呪文唱えとなったわ」と私が言うと、目を輝かして彼が食いついてきた。おおっ君、エコエコアザラク知ってんのか、同志よ!と一瞬思ったが、私の頭の中には漫画(1975年連載開始)、やつの頭ん中は映画(1996年公開)、どうも噛み合わない。却って自分の歳を痛感して萎える。


東京初台の新国立劇場2011/2012年シーズンの開幕はご存じヴェルディの「イル・トロヴァトーレ」。今回はこの作品を聴いていきます。音源は1956年カラヤン盤。


 マンリーコ・・・・・・・ジュゼッペ・ディ・ステファノ
 レオノーラ・・・・・・・マリア・カラス
 ルーナ伯爵・・・・・・・ローランド・パネライ
 アズチェーナ・・・・・・フェドーラ・バルビエリ
 フェルランド・・・・・・ニコラ・ザッカリア
 ルイス・・・・・・・・・レナート・エルコラーニ
 カラヤン指揮ミラノ・スカラ座o,cho(1956年8月録音)
 CD:Naxos8.111280-81

イル・トロヴァトーレという作品の、ヴェルディの創作史の中の位置付けについては後日改めて触れるとして・・・
この録音、一言でいうならカラスを聴くための録音という気がします。ステファノもパネライも素敵ですが、カラスのレオノーラがあまりにも凄すぎる。レオノーラという人物造形そのものがまるで彼女の為に書かれたような、と言いますか。第1幕、フェルランドと夜警をする従者達の場面の後のレオノーラの大アリア、典型的(あるいは因習的)なカヴァティーナ・カバレッタ形式のアリアですが、最初の拡大されたシェーナで早くもカラスの本領発揮。戦くような、あるいは熱に浮かされたような歌唱に、聴く者は一気にドラマに引きずり込まれ、冷静さを失ってしまいます。

  Ne' tornei. V'apparve
  Bruno le vesti ed il cimier, lo scudo
  Bruno e di stemma ignudo,
  Sconosciuto guerrier, che dell'agone
  Gli onori ottenne... Al vincitor sul crine
  Il serto io posi... Civil guerra intanto
  Arse... Nol vidi più! come d'aurato
  Sogno fuggente imago! ed era volta

  馬上試合の時よ。そこに、
  黒い甲冑と黒い兜をまとい、
  黒い盾には羽飾りもなく、
  見知らぬ戦士が現れ、
  優勝の栄誉を勝ち取ったのです。
  私は勝者に王冠をさずけました。
  それから戦争が起こって・・・もうあの人を見ることはなかったのです。
  まるで黄金の夢の中の出来事のよう。

こんな録音残されたら後世の歌手はたまったもんじゃないでしょうな。誰が歌ってもカラスとの比較を免れないでしょうから。ある意味罪つくりなお方です。
続くカヴァティーナ、殆ど荒唐無稽に近いお話の中の人物なのに、何という存在感、実在感。

  Tacea la notte placida
  e bella in ciel sereno
  La luna il viso argenteo
  Mostrava lieto e pieno...
  Quando suonar per l'aere,
  Infino allor sì muto,
  Dolci s'udiro e flebili
  Gli accordi d'un liuto,
  E versi melanconici
  Un Trovator cantò.

  音もない静かな夜のこと、
  おだやかな空には美しい月が、
  銀色の丸いお顔を
  幸せそうに見せていました。
  その時、それまで大層静かだったのに、
  空気を鳴り響かせるみたいに、
  あまく切ないリュートの調べが
  聞こえてきたのよ。
  一人のトゥルバドゥールが
  物悲しい歌を歌っていたの。

カバレッタは技術的にもきわめて優れた歌唱です。カラヤンの指揮もカラスに寄り添って、彼女への奉仕だけを考えているようです。カラヤンの指揮は、後年唯我独尊というか、歌手の個性は二の次というスタイルに変わっていき、今となっては様々な毀誉褒貶が付いて回るけれども、この頃の彼の指揮はやっぱり他の追随を許さないものがあります。カラヤンの先祖はマケドニアの貴族だったそうですが、大げさにいえばゲルマンとは違うそのマケドニアの血が、ギリシャのディーヴァの血と共鳴しているような気がする。
カバレッタの繰り返しは省略されていて、おかげで侍女イネスのセリフもカットされています。こういう因習的カットは私の好むところではないけれども、これだけの演奏を聴かされたらもう何の不満もありません。

第1幕のフィナーレはルーナ伯爵・マンリーコ・レオノーラの三重唱。マンリーコの第一声、最初聴いたとき、えらく音程外しているように聞こえました。何度も聴いていると気にならなくなりますが、ステファノのちょっと脳天気なスタイルが今となっては違和感がある、ということでしょうか。
でも同時に、彼が全盛期どれだけイタリアで人気があったかもよく分かるような気がします。実際に舞台で聴いたら私も熱狂したに違いない。

  Deserto sulla terra,
  Col rio destino in guerra
  E sola spese un cor
  Al Trovator!
  Ma s'ei quel cor possiede,
  Bello di casta fede,
  E d'ogni re maggior
  Il Trovator!

  武運拙く 
  この地に独り、
  唯一の望みは心にのみ
  詩人に捧げられし心にのみ。
  だがもし操ただしきその心、
  己がものに出来たなら、
  彼は全ての王にぞ勝れりし、
  トゥルバドゥールぞ勝れりし。

これこそイタリアの歌。いや、やっぱり凄いや。脳天気だろうが何だろうが、合理的発声法と違ってようが、これぞイタリアのテノール、ディ・ステファノ。不遇の晩年と悲劇的な死に思いを至らせ胸が詰まる。
最後のメーター振り切れそうな三重唱に至ってはもう何もいうことがありません。血沸き肉躍るとはこのことでしょう。
(この項続く)
(対訳はhttp://www.opera-guide.ch/というサイトの英訳からの拙訳です。重訳ということもあって多分ニュアンスが違うとか、いろいろあると思いますが御容赦ください)
by nekomatalistener | 2011-09-09 00:13 | CD・DVD試聴記 | Comments(8)