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イーヴ・ナット Yves Nat Ses Enregistrements 1930-1956(その15)

犬 の オ メ ェ レ ス ン





長々と書いてきたイーヴ・ナットの連載も今回が最後。ベートーヴェンの後期ソナタ4曲を聴きます。

  CD8
  ベートーヴェン
  ピアノ・ソナタ第28番イ長調Op.101 [1954.6.14.録音]
  ピアノ・ソナタ第30番ホ長調Op.109 [1954.2.17.録音]
  ピアノ・ソナタ第31番変イ長調Op.110 [1954.2.17.録音]
  ピアノ・ソナタ第32番ハ短調Op.111 [1954.2.17.録音]

ベートーヴェンの32のピアノソナタといえば『音楽の新約聖書』とまで呼ばれる重要な作品群であることは言を俟たない訳ですが、もし28番以降の作品が無かったとしたら、そこまでの値打ちがあっただろうか、と思います。それほどまでに、いわゆる後期ソナタというのは以前の作品と隔絶した唯一無二のものだろうと思います。
そんなソナタに対して、一体何を書いたらよいのか、このところずっと思い悩んできました(別に悩む必要もないのだけれど)。素人のお遊びブログですが、これでも一応、何かしら自分自身のオリジナルな見解を書きたいと思い、wikipediaに載っていることは書くまい、単なる印象批評みたいな文章も極力書くまい、という姿勢でこれまでやってきました。しかし、これら後期の作品群に対しては、恐らくこれまで夥しい論評、分析、賛辞が書かれてきたはずであり、今更何を書く必要があろうかと思います。
そうはいっても何か書かずにいられないのは業みたいなものでして、既に言い尽くされていることは百も承知で少しだけ、気になっていることを書き留めておきたい。
このシリーズの初回にOp.106の「ハンマークラヴィア・ソナタ」を取り上げた際に、いわゆる「後期様式」の特色を「①フーガの活用②装飾音としての機能を著しく逸脱した長大なトリル③ソナタ形式の再現部等における単純な繰り返しの回避④緩徐楽章における果てしない沈滞⑤形式上の、あるいは規模的な肥大」であると書きました。このCDに収められた4曲は⑤の規模的肥大は当てはまりませんが、その他の4点についてはあまり異論はなかろうと思います。しかし、②の「装飾音としての機能を著しく逸脱した長大なトリル」については若干の補足が必要かもしれません。
ベートーヴェンの後期ソナタや、同じく後期の「11のバガテルOp.119」、「ディアベリ変奏曲Op.120」に出てくる特徴あるトリルについて、トリルがこれほど重要な役割をするのはスクリャービンの後期ソナタとブーレーズの第2ソナタくらいなものだと書かれていたのは諸井誠だったか(記憶が定かではありませんが)、確かに晩年のベートーヴェンのピアノ曲に現れるトリルは一種独特なものがあります。だが、単に長大なトリルというのであれば、初期の第3番(譜例1)や中期の第21番(譜例2)にも出てきます。

(譜例1)
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(譜例2)
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そもそもトリルとはなにか。当たり前のようだが、一つは修飾の為。もう一つは現代のピアノに比べて音の減耗が激しい古い鍵盤楽器で、ある音を持続保持させる為。バロックから古典にかけてのトリルの用法はほぼこのいずれかと言ってよいと思います。たとえば上の譜例で挙げた用法は装飾的な意味合いもあるけれども、専ら音の持続保持の役割が大きいような気がします。
しかし、例えばOp109に現れる長大なトリル(譜例3)やOp111の三重トリル(譜例4)はそのいずれとも意味合いが異なるような気がします。

(譜例3)
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(譜例4)
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それは敢えて言えば天上の音楽としての表現、あらゆるものを浄化し、昇華させる魔法の言語としての機能を担っているのだろうと思います。これらを聴くときの、あの意識が遠のいていくような感覚は、確かにスクリャービンの用法に近いものかも知れません。
「ハンマークラヴィア」のフーガに頻出するトリルはまた少し意味合いが異なっており、一見バロック音楽の装飾的用法に近くも見えますが、こちらは弾き手に対して技術的な負荷を要求し、それを克服する者にのみ近づくことを許すようなもの、眠れるブリュンヒルデを守る炎のようなものの性格を担っています。例えば次のような箇所。
(譜例5)
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現代のピアノの書法としては難技巧というほどのものではありませんが、初演当時の聴衆はさぞ驚いたことだと思います。これはただでさえ峻嶮な峰々のあちこちに散在するクレヴァスや切り立った崖のようなもので、これを乗り越えて初めて遥かな高みに至るといったものなのでしょう。
ベートーヴェンのピアノ・ソナタの特色で、あまり語られないような気がするのがヴィルトゥオジテの追求ということ。そのヴィルトゥオジテというのはロマン派のそれとは随分異なるけれど、ベートーヴェンの場合、ピアノという楽器そのものの改良に併せて、新しい楽器のアクションの追求がそのまま新しいピアノ技法の開発に繋がっていったということなのでしょう。ここに挙げたトリルの用法も、そういったレベルでのヴィルトゥオジテの一種と見ることが出来るような気がします。そして、後期ソナタが通常の意味で「難曲揃い」であることの理由もそんなところにあるのでしょう。

ナットの演奏に関して、これまでの私の記述を読んだ人は「テクニックに相当の難があるようだが、難曲で知られる後期ソナタをちゃんと弾けているのだろうか」と危惧の念を持たれるかも知れませんが心配ご無用。このCDのセットの中でも最も技術的な破綻がないものだと思います。いや、それどころか数あるベートーヴェンのソナタの演奏の中でも最も優れたものの一つだと思います。私はけっして多くの録音を聴いてきたわけではありませんが、少なくとも後期ソナタに関してはソロモンとポリーニに匹敵するものだろうと思います。ポリーニの後期ソナタの録音は今もって不朽の名盤であると信じて疑いませんが、彼はある時期ナットの演奏を勉強したに違いありません(根拠はないですが)。それぞれ個性的な演奏家をゲルマン系とかラテン系などと大雑把に分けるつもりはありませんが、ナットの演奏というのはバックハウスやケンプなどとは全く異なる性格のもので、ポリーニやソロモンと並べるとやはり明らかに非ゲルマン系と呼びたくなるような共通するものが見つかります。それは明晰さであったり構築性といった言葉で表されるものですが、逆にゲルマン系(そんなカテゴリーが実在するとして)のピアニストに共通するものは(恐らく世評とは反対に)ファンタジーとか、それと裏腹の曖昧さのようなものかも知れません。どちらが上とか下という話ではありませんが、少なくとも私にはこのナットのベートーヴェン演奏は思いもかけないほどの大きな収穫であったことは確かです。
(この項終わり)
by nekomatalistener | 2013-11-24 16:55 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

イーヴ・ナット Yves Nat Ses Enregistrements 1930-1956(その14)

前々回の枕でヤクルトのバレンティンのことを書いたら、友達が「どうせ野球音痴でバレンティンの顔知らんでしょ」とアジャコングの画像を送ってきた。おかげでアジャコングのパンティラインが脳裏にちらついて大変困っています。





このシリーズも残すところあと2枚。今回はインタビューの録音とナット自作自演のあれこれ。

   CD15
   イーヴ・ナットへのインタビュー(自作のコンチェルトを語る)
   イーヴ・ナット
     ピアノ協奏曲* [1954.2.4.パリ・シャンゼリゼ劇場にて録音]
     ちいさなムジクのためにPour un petit moujik [1929.2.12.録音]
     5つのメロディ** [1943.6.1.録音]
       Dans vos viviers, dans vos étangs
       Chanson pour un officier de marine
       Chanson de la nageuse nue
       Que lentement passent les heures
       L'enfant à la poule aux œufs d'or

     *ピエール・デルヴォー指揮フランス国営ラジオ局管弦楽団
     **イレーネ・ヨアヒム(Sp)
     **シャルル・ミュンシュ指揮パリ音楽院管弦楽団

前半にラジオでのインタビューが入っていますが、私フランス語まったく判りませんのでパス。最初インタビュアーの番組紹介があって、短いピアノ曲が流れるが、誰の何て曲かも判りません。インタビューの後半にナットのピアノ協奏曲の第4楽章のカデンツァが流れます。
さてその協奏曲ですが、フランス人でありながらベートーヴェンやシューマンを得意とした(少なくとも世間からそう思われていた)ナットの自作が如何なるものか、というのが興味のあるところですが、これがラヴェルとアンドレ・ジョリヴェとジャズを混ぜ合わせたようなシロモノ。まぁ一言でいってピアニストの余技の域を出る物ではありませんが、彼も時代の子であったのだなぁとちょっとした感慨を覚えます。
4楽章からなる18分ほどのこの協奏曲、第1楽章Allegro molto quasi prestoはラヴェル風の色彩豊かなオープニングからすぐにジョリヴェ風、あるいはジャズ風の音楽になって、フランス人の好みそうなエキゾチシズムに溢れた音楽が展開します。Andanteの第2楽章はちょっとムード音楽みたい。第3楽章Intermezzoは急速な連打音をモチーフにしたトッカータ風の音楽。Vivoのフィナーレは先立つ楽章のモチーフを用いたもので、ジャズのインプロヴィゼーションのようなカデンツァが奏されます。それなりに面白く退屈しませんが、歴史には残らんだろうなぁ。
ピアノ独奏による「ちいさなムジクのために」。Moujikを辞書で引くと「帝政ロシアの農民」などと書かれていますが、作品が書かれた背景は全く判りません。ムジクといえばイヴ・サン=ローランの愛犬のフレンチブルドッグの名前だが、それと関係があるのかどうか。不定冠詞が附いているので犬の名前じゃなさそうだな。それはともかく、ロシア風のメランコリーに満ちた美しい旋律で、久石譲だよと言われたら信じてしまいそう。途中の盛り上がりはラフマニノフを意識したのだろうが、ちょっとガチャガチャとやかましいのが残念。
「5つのメロディ」は最初の3曲がピアノ伴奏、後の2曲はオーケストラ伴奏。詞は第1・4曲がアポリネール、第2・3曲テオフィール・ブリアン、第5曲はナットの自作とのこと。いずれも1分から2分程度の短い作品ですが、こういうメロディーはフランス人にしか書けないだろうと思います。ミヨーの歌曲のような雰囲気もあって、なかなかの佳作です。歌っているイレーネ・ヨアヒム(本当はイレーヌ・ジョアシャンと発音するのだろうが日本ではヨアヒムで通っている)は知る人ぞしるフランスの歌姫。ドビュッシー、ベルク、ミヨーの他、プーレーズの「水の太陽」なんかも歌っています。現代音楽のファンは名前を憶えておいた方が良さそうだ。清楚なのにどこかノンシャランな歌いぶりが味わい深く、素敵です。協奏曲もそうですが、オーケストラもデルヴォーにミュンシュとなかなかの豪華版。ナットの日本での知名度は今一つですが、フランスで彼が如何に大切に思われているかが伺えます。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2013-09-22 15:25 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

イーヴ・ナット Yves Nat Ses Enregistrements 1930-1956(その13)

技術屋の部下のレポートで、「性能稼働率」を「性能感動率」とミスタイプしているのをなぜか「性感能動率」と空目。しかも「あはは、せいかんのうどうりつやて、マッサージかいな」などと(会議中なのに)口走ってしまう。





今回もベートーヴェン。残りわずかです。

   CD5
   ベートーヴェン
   ピアノ・ソナタ第16番ト長調Op.31-1 [1955.11.17.録音]
   ピアノ・ソナタ第17番二短調Op.31-2「テンペスト」 [1954.9.21以前の録音]
   ピアノ・ソナタ第18番変ホ長調Op.31-3 [1955年10月以前の録音]
   ピアノ・ソナタ第19番ト短調Op.49-1 [1954.9.21以前の録音]

作品31としてまとめられた3つのソナタに共通するのは、その遊戯性とでも言いたくなるような軽みと、イタリア・オペラの影響と思しい諸要素ではないかと密かに考えています。もしかするとこの3つのソナタは、ベートーヴェンなりにイタリアの音楽、それもクレメンティのソナタではなく、古典派イタリア・オペラとの対峙と受容の結果ではなかったか。もっとも同時代のオペラ、例えばケルビーニとかスポンティーニ、あるいは少し先輩格のサリエリのそれを私は殆ど知りませんので、あくまでも仮説ではありますが。ベートーヴェンの作風としては若干異質なこの作品群、しかし後期の偉大な作品に至る巨人の歩みの中で、決して無駄な回り道ではなかったと思います。
以下、その遊戯性とイタリア・オペラの受容という要素を少し詳しく見てみよう。

第16番の第1楽章はベートーヴェンの遊戯性が前面に現われた作品です。ト長調ですが第2主題は通常の二長調ではなくロ短調のブリッジを経てロ長調となっています。これは後の21番ハ長調の第2主題がホ長調となるのと同じ関係。展開部は動機労作というよりはピアニスティックな遊びの要素が大きい。再現部の第2主題はホ長調で始まりト長調に終止します。第2楽章はアリアのような旋律美が支配しています。流麗かつ装飾的で、ピアノによるコロラトゥーラみたい。ニ度現われるカデンツァはソプラノ歌手の歌う派手なブラヴーラを模しているのでしょう。第3楽章は穏やかなロンドですが、アダージョとアレグレットが何度か交替してプレストになだれ込むコーダはこれまた愉悦に満ちた遊びの世界。

第17番の有名なラルゴとアレグロの交替する冒頭、聴きようによっては劇的なレチタティーヴォの弦楽によるアコンパニャート(伴奏)のようにも聞こえます。「テンペスト」というタイトルにまつわる逸話は後世の創作と言われているけれど、確かにオペラの中の嵐の場を彷彿とさせます。何より展開部の終りに現われる次の箇所(譜例1)はレチタティーヴォそのもの。オペラを知らずしてテンペストを弾くのは、もしかしたら大変笑止なことかも知れない。
(譜例1)
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第2楽章は深い思索を思わせる素晴らしい楽章。だが、何気ない旋律線の装飾が紛れもなく前後の2作と共通の世界を有することを物語る。因みにこの楽章、ブラームスの第3ピアノ・ソナタのインテルメッツォ(譜例2)の発想の源となっていよう。
(譜例2)
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そういえば同じくブラームスの第2ソナタの冒頭は「テンペスト」の第1楽章みたいだ(譜例3)。第1ソナタがベートーヴェンの29番へのオマージュであることは一目瞭然だけれど他にもいろいろありそうだということ。
(譜例3)
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第3楽章は特に広く知られていると思いますが、これも私には音のメカニックな動きへの興味が先立つ遊戯的な楽章に思えます。従って殊更悲劇的に弾くのは相応しくないような気がします。

第18番も実に遊戯的な晴れやかな音楽。第1楽章の第2主題に附けられた派手な修飾はまるでブラヴーラ・アリアのようです。第2楽章はスケルツォと題されていますが2/4拍子の破格の音楽。これも湧きたつような楽しさに溢れています。スケルツォにしては珍しくソナタ形式で書かれています。第3楽章は穏やかなメヌエット。型通りの音楽だが主部とトリオの対比はやや薄い(調性は主部もトリオも同じ変ホ長調)。フィナーレは狂騒的なタランテラ。シューベルトの19番ソナタに与えた影響は顕著。シューベルトといえば初期の交響曲にもこんなのがあった(第3番D.200のフィナーレ)。弦楽四重奏曲第15番D.887のフィナーレも然り。

第19番、出版時期の関係で19番の番号がついているが実は第20番と同じく初期のソナチネ。子供の為の教材のように思われて軽くあしらわれるけれど、第1楽章のロココ風の悲しみとギャラントな味わいは格別。ソナタ形式によるアンダンテとアレグロのロンドの二つの楽章で見事に完結しています。ベートーヴェンの2楽章ソナタは最後の第32番に至るまでまったく過不足を感じさせないのがさすが。

今回はナットの演奏について各曲ごとの論評は書きませんが、いずれのソナタも模範的な演奏だと思いました。50年代のナットはテクニックの衰えを力技で押し切るきらいが少しありますが、これらの軽みをおびた曲目では良い具合に力が抜けているように思います。「テンペスト」はともかく、ベートーヴェンのソナタの中でも不当に陽の目をみないこれらの作品の面白さを堪能しました。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2013-09-14 01:07 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

イーヴ・ナット Yves Nat Ses Enregistrements 1930-1956(その12)

ネット記事見てて「ん?パンティラインって何?」と思たらヤクルトのバレンティンの記事だった。




あと4枚。今回はSP時代の貴重な音源。

  シューマン
    ピアノ協奏曲イ短調Op.54 [1933年4月25-26日録音]
    ユージェーヌ・ビゴー指揮管弦楽団(不詳)
  フランク
    交響的変奏曲嬰ヘ短調 [1942.4.17録音]
    ガストン・プーレ指揮コンセール・ピエルネ管弦楽団
  ブラームス
    インテルメッツォ変ロ短調 Op.117-2 [1938.6.10.録音]
  リスト
    ハンガリー狂詩曲第2番嬰ハ短調 [1929.2.12.録音]
  ストラヴィンスキー
    「ペトルーシュカ」より「ロシアの踊り」 [1929.2.12.録音]


シューマンのピアノ協奏曲というと、私はいつも「ディレッタンティズムの勝利」ということを思います。作曲家としてのシューマンをアマチュア呼ばわりするつもりはありませんが、少なくともピアノ音楽においてプロフェッショナルな仕事と呼ぶのも同じ位の抵抗がある。そういったシューマンの特性こそディレッタンティズムというべきものだと思いますが、ある意味プロフェッショナルな音楽の極致であるべき協奏曲というジャンルにこのディレッタンティズムを持ち込んで、これほど成功させた例を他に知りません・・・と大上段に構えて書いてみたものの、本当にそうなのかと問われるとよく判らないのが素人の哀しさ。
ピアノ音楽に関しては一見群雄割拠のイメージのあるロマン派の時代ですが、よくよく考えてみるとこの作品と同時代、すなわち1840年代に初演されたピアノ協奏曲というと意外と思い浮かばないのですね。ショパンのそれはもっと若書きで1830年代初頭(メンデルスゾーン然り)、リストの第1番は40年代には既にあらかた作曲されていたとはいえ、改定に次ぐ改定により、実際に初演されたのは1850年代の半ば。本当の意味で同時代の作品といえるのはモシュレスとかヒラーといった人々のそれなのでしょうが、ごく一部の好事家にしか知られていないというのが実態。シューマンの本質の客観的な分析というのは意外に難しいことではあります。
もう少し主観も交えて書くなら、まずなによりこの協奏曲のソロパートは技巧的にはかなり平易なものであること。もちろんショパンやリストと比較して、という意味ですので誤解があってはいけませんが、シューマンの例えば「交響的練習曲」をそこそこ弾ける人ならお釣りがくるくらいのレベル。けっして、「トッカータ」や「幻想曲Op.17」の第二楽章のようなとんでもなく困難な技巧というのは出てきません。まずこのこと自体、ヴィルトゥオジテの飽くなき追求の場であったロマン派の協奏曲というジャンルにはとても珍しいことで、強調するに値することだと思います。よく第三楽章のヘミオラの部分が難所と言われるけれど、あれはオーケストラのパートが一度「落ちる」となかなか復帰できないからそう言われるのであって、ソリストにとっては難所という感じはしません。むしろほどほどの技巧で空を駆ける如く気持ちよく弾いてカタルシスも十分得られるところ。ピアノの技巧的側面におけるディレッタンティズム(あるいはプロフェッショナリズムの欠如)というのは、なかなか客観的に伝え難いところですが、さてお判り頂けるでしょうか。
もうひとつは、例えば譜例のような箇所。
(譜例1)
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何の変哲もない左手のアルペジオ。こういう箇所こそ、作曲家が秘術を尽くす箇所だと思うのだがこの単純さ。にもかかわらずこの部分は全曲の白眉といって差し支えないところでもある。本当にシューマンの素晴らしさの一端はこういう箇所にあるのだと思う。これをリストの協奏曲の次の箇所と比べてみると面白い。
(譜例2)
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楽譜面(づら)としてはとても良く似ているが、リストの書法はまぎれもないプロのそれという気がします。だからといってリストのほうが音楽的に優れているとはいかないところが面白いところだと思う(ちなみに私は決してリストが嫌いなわけではない)。
シューマンが練習のしすぎで指を傷めたというのはどうも伝説のようだが、ショパンやリストはもとより、同時代のさほど天才に恵まれていなかった人達と比べてもピアノの技巧に恵まれなかったのは確かだろう。もう少し若い頃のシューマンは(先程ちょっと触れたトッカータや幻想曲の第2楽章コーダのように)超絶技巧を駆使することもあるけれど、基本的にロマン派的超絶技巧というのは自分が弾けなければそもそも書けないもの。シューマンにとってのヴィルトゥオジテの追求は、やがてある種のルサンチマンにも似たものとなっていったように思います。この協奏曲の頃になってようやくそのヴィルトゥオジテの自縛から解き放たれ、敢えて平易な書法で協奏曲を書いたのだと考えられないでしょうか。私は個人的にはこの協奏曲をシューマンの初期の独奏曲ほどには評価していないのですが、逆に言えば私の愛する作品には確かにヴィルトゥオジテに対するルサンチマンのようなものがあると、この協奏曲を久しぶりに聴きながら思いました。
ナットの演奏は概ね良いものですが、第1楽章のカデンツァのクライマックスが妙に軽くて雑。私の趣味にはどうも合いませんでした。他の部分はナットとしては完成度も高く、実に惜しい録音です。オーケストラは特段上手いとも思いませんが、まずまずソロを邪魔しないレベル。録音のせいもあるでしょうがオーボエなど古風でロマンティックな響きがして、大戦前の時代を感じさせるものでした。

フランクのピアノとオーケストラの為の「交響的変奏曲」、私はこのディスクで初めて聴きました。有名なヴァイオリン・ソナタや二短調の交響曲、それにピアノのための「前奏曲、コラールとフーガ」くらいしか知らず、いずれも佳作だとは思いながらそれ以上深入りする機会の無かったフランクですが、この「交響的変奏曲」は大いに気に入りました。リストとワーグナーの開拓した世界の正統的な後継者という感じがします。作曲時期としてはヴァイオリン・ソナタとほぼ同時期の1885年頃、重苦しく、極端なまでにクロマティックな曲調が最後に明るい嬰へ長調に転調して開放的に終わるのもソナタと同様。緻密なピアノ書法も大変優れており、改めてフランクをあれこれ聴いてみたくなりました。
ナットの演奏は非常に立派なもので、相当の難技巧をものともせず果敢に弾き切っています。前半の重厚さと後半の上機嫌の対比も素晴らしい。ナットという人は本当に不思議で、大した難所でもないのに技巧的に破綻しているものもあれば、このフランクのように(瑕が無い訳ではないが)圧倒的なヴィルトゥオジテを誇る演奏もある。この15枚組アルバムの大半が1950年代の録音な訳だが、ナットの全盛期は多分フランクを録音した1942年前後だったのだろう。大戦の最中で仕方がないのでしょうが、その時期の演奏が殆ど残されていないのが残念に思います。

あとは簡単に。ブラームスのOp.117-2は以前1955年の録音を紹介しましたが、この戦前の録音もなかなかです。熱いブラームスを堪能しました。リストとストラヴィンスキー、半ば怖いもの見たさで聴きましたが意外や意外、驚くほど指回りよく弾けています。若いころのナットはかなりのヴィルトゥオーゾであったことが伺えます。「ペトルーシュカ」は超弩級の難曲ですから、さすがに怪しい音があちこちで鳴っていますが、それでもこの時代にこれだけ弾けたら大したものでしょう。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2013-09-08 15:35 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

イーヴ・ナット Yves Nat Ses Enregistrements 1930-1956(その11)

下肢の故障で手術した同僚が久々に出社。松葉杖でヒョコタンヒョコタン歩いているのを見ていると、後ろからそーっと近づいて膝カックンしたくなる。もう衝動を抑えるのに必死。




ナットのシリーズ、どんどんいきますよ。今回はベートーヴェン4曲。

   CD4
   ピアノ・ソナタ第12番変イ長調Op.26 [1955.9.20.以前の録音]
   ピアノ・ソナタ第13番変ホ長調Op.27-1 [1955.9.20以前の録音]
   ピアノ・ソナタ第14番嬰ハ短調Op.27-2「月光」 [1955.6.24.録音]
   ピアノ・ソナタ第15番ニ長調Op.28「田園」 [1955.9.20.以前の録音]


ベートーヴェンのいわゆる中期と呼ばれる時期を何時からと見るかはいろんな説があると思いますが、12番ソナタを聴いていると明らかにそれまでのソナタ群とは作風が変化していることに気付きます。次のOp.27の2曲と併せて、初期から中期への橋渡し的な存在と見るのが妥当だろうと思います。このソナタの最大の特色は変奏曲→スケルツォ→葬送行進曲→無窮動風ロンド、というようにソナタ形式に拠る楽章がないことですが、そのこと自体はモーツァルトの有名なトルコ行進曲附きのソナタもそうでしたから、ベートーヴェンの発案という訳には行きません。しかし、各々の楽章のコントラストの強さや、全編に漲る自由闊達さにはモーツァルトやハイドンのような先人達の作品とは全く異なる音楽を感じます。この作風の変化の内実を具体的に、クレメンティのような同時代人との相互影響の分析を踏まえて研究してみたいという誘惑に駆られます(クレメンティのソナタは100曲ほどあるようなので真面目にやろうとすると大変ですが)。
ところで第3楽章の葬送行進曲は変イ短調という大変珍しい調性で書かれていますが、ベートーヴェン以前にこの調性で作品を書いた人はいるのだろうか?有名なところではアルベニスの「イベリア」の第1曲「エボカシオン」とか、リストの「ラ・カンパネラ」の初稿(S140の方。現行の改定版は嬰ト短調)が思いつくところですがいずれもベートーヴェン以降の作品。ご存じの方がおられましたらご教示ください。
ナットの演奏は大変優れていますが、第3楽章の行進曲の再現部をffで開始しているのは疑問(ラフマニノフ盤のショパンの葬送行進曲じゃあるまいし)。同じ楽章の中間部も叩き過ぎて音が汚く割れているのが、ナットらしいとも言えるけれど評価は分かれるでしょう。

第13番ソナタは、次の第14番と共に「幻想曲風ソナタ」と題されています。「幻想曲」の定義にも拠りますが、ロマン派的な「幻想曲」をイメージすると第14番にこそ相応しい表題となりますが、「ソナタ形式に拠らない自由な形式による作品」と捉えると先の12番と同じく、このソナタ形式楽章を持たない13番の方がより表題に合致した曲、と言えます。地味な作品ながら、第2楽章Allegro molto e vivaceはそれまでの古典的なスケルツォと一線を画す近代的感覚に満ちた音楽となっており、ベートーヴェン自身の初期から中期への橋渡しと同時に、古典派からロマン派への移行をも示しているように思われます。
ナットは最初の3つの楽章は優れていますが、技巧的にやや難度の高い終楽章は粗さが目立ちます。それでもこの時代のピアニストにしては様式感が非常に的確なところが素晴らしいと思いました。ただこの録音、attaccaの指示があるにも関わらず、第2楽章と第3楽章の間で背後のヒスノイズも含めて完全に音が途切れてしまいます。4つの楽章が全てattaccaで連続して奏されることが作曲者の新機軸なはずですからこれはいただけません。原盤のLPがどうなっているのか判りませんが、この録音の編集者は楽譜も読めないのか、とちょっと文句を言いたくなります。

第14番、言わずと知れた月光。「熱情」や「悲愴」については若干食傷気味と書いた私ですが、14番については何度聴いても良い曲だと思います。まぁこういうのを名曲と称するのでしょう。先の13番と並んで「幻想曲風ソナタ」と題されていますが、緩徐楽章で始まるのはベートーヴェンの発明ではないし、終楽章は堂々たるソナタ形式。これに敢えて幻想曲風と名づけたのはやはり第1楽章のロマンティックな楽想に起因するのでしょうから、まさにロマン派の源流を見る思いがします。
ナットの演奏は平凡と言えば平凡、終楽章のテクニックの粗さも最初は耳に障りますが、聴きこむほどに骨格のはっきりした良い演奏だということに気付きます。早めの第1楽章の右手に旋律が出てくるときのちょっとしたルバートも知的で良い。彼のシューマンに対して「構築的」という表現をしましたが、それがどこから来るものなのかも何となく理解できます。

第15番ソナタの通称「田園」は後世の人の附けたものですが、私はあまり使いたいとは思いません。ソナタ形式のアレグロ→三部形式のアンダンテ→スケルツォ→ロンドという構成は先立つ3つのソナタと比べると自由さという点で一歩後退しているかに見えますが、なんといっても目を惹くのは近代的メランコリーの感じられるアンダンテ。何を以てロマン派の嚆矢とするかは諸説あるでしょうが、私には先の「幻想曲風ソナタ」と並んでこのアンダンテこそそれではないかと密かに思っています。通称通りどこか緩い感じのするソナタですが、この楽章のおかげで意外と重要な作品になり得ていると思います。
ナットは持ち前の剛直さはやや抑えていますが、基本的にいつもながらのスタイル。この緩いソナタには実に好ましい効果をもたらしています。技巧的にはやや平易といったところですので粗も目立たず、良い演奏だと思います。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2013-08-12 00:00 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

イーヴ・ナット Yves Nat Ses Enregistrements 1930-1956(その10)

これはピアノ弾きには痛い指摘(笑)。
  クラオタの毒舌な妹bot‏@claotas_bot8月5日
  お兄ちゃん。そんなにクラシック好きなのにどうしてハ音記号も読めないの?





シリーズ10回目。シューベルト、ショパン、ブラームス、ナットのレパートリーとしては周辺的であったであろう作品を集めた一枚。

  CD9
  シューベルト
    楽興の時 D.780 [1952.5.6以前の録音]
  ショパン
    ピアノ・ソナタ第2番変ロ短調Op.35「葬送」 [19533.6.録音]
    幻想曲ヘ短調Op.49 [1953.3.6.録音]
    舟歌嬰へ長調Op.60 [1953.3.6.録音]
    ワルツ第14番ホ短調(遺作) [1930年録音]
  ブラームス
    2つのラプソディOp.79 [1956年録音]

シューベルトのピアノ・ソナタのような大曲はごく僅かしか彼の生前に出版されなかったと言いますが、「楽興の時」D.780は1823年とその翌年に第3曲と第6曲がそれぞれザウアー&ライデスドルフから出版された『音楽アルバム』に掲載され、1828年の彼の死の直前に6曲まとめて作品94として出版されました。第3曲が突出して有名ですが、シューベルトは一体誰を対象に、あるいはどのような機会を想定してこれらの作品を書いたのかが気になるところ。技巧的には平易な作品なので、おそらくプロがサロンのリサイタルで弾くためではなく、アマチュアが家庭で演奏することを想定しているのでしょう。子供の頃に即興曲集と一緒にレッスンで学んだ方も多いはず。それだけにプロが弾いて人に耳を傾けさせるのは意外に難しいという気がします。また、現代の我々が聴くと、そこに単なるハウスムジークの愉楽にとどまらないある種の瞑さや晦渋さのようなものが感じられ、ベートーヴェンのバガテル集と並んでブラームス晩年の小品集Op.116~119の先駆としての性格も認められます。
ナットの慈しむような演奏はこういった作品の性格にとてもよく合っている感じがします。終曲の無垢なる深遠さに静かに焔が宿るさまはハウスムジークの領域を遥かに飛び越えています。ひとつ気になったのは第2曲が調律の所為でところどころ耳触りな音が鳴ること。単に調律が拙いのか、それとも昔のフランスではこういう調律法もあって、変イ長調の属和音だと濁るのか。お詳しいかたの御教示をお待ちしております。

ショパンはいずれも超が附く位の有名曲ですので、作品そのものについて私があれこれ蘊蓄めいた事を記す必要はないでしょう。
ナットの演奏だが、2番ソナタは技巧が追い付かずに破綻しているところが多く、ピアニストのお仕事として弾かざるを得なかったにしても少々痛々しい感じがします。しかしその瑕に耳が慣れてくると、剛毅な表現がそれなりに味わい深く、彼が表現したかったことが見えてきて瑕が気にならなくなるのが不思議。特に最初の二つの楽章はミスタッチをものともせず、あるべきフレージングに徹して弾いているのが感じられ、思わず居住まいを正してしまう程。第3楽章の葬送行進曲はラフマニノフ盤に倣い、前半はpからffへ、後半はffからppへ、という外連味たっぷりの演奏だがナットのアプローチには合わない。それより何より、この改変はラフマニノフだから許されることであって少々頂けない。
「幻想曲」も惜しむらくは細部の磨きあげと響きの純度が不足しているものの、骨格は素晴らしいプロポーションで私は大いに気に入りました。技巧面で彼に数倍優る演奏家が、細部の精巧さに淫して崩れそうな演奏をするケースと比べれば遥かに好ましく思います。
「舟歌」は、私にとって「幻想ポロネーズ」と並んで大好きな作品ですが、「幻想曲」と同様のアプローチで謹聴に値する演奏でした。もちろんホロヴィッツのような不健康さというか、病的な陰りはナットには望むべくもないが、嬰ヘ短調poco più mossoからの中間部はショパンの深淵に迫るものを感じました。
遺作のホ短調ワルツはおまけみたいなものだが、SP時代のナットは颯爽としたテンポとテクニックでそれなりに聴かせます。

ブラームスの「2つのラプソディ」。少し前のアマチュアコンクールの定番曲というイメージがあるが、最近は流行らないのか、あまり聴かない気がします。少し手の大きな人であればアマチュアでもそれなりに勢いで弾けてしまうのだが、実はプロにしてもなかなか良い演奏は難しい(弾いている本人だけはけっこうカタルシスを感じているのが困ったものww)。ブラームスにしては作品そのものの出来も今一つという気がして、いずれにしても難物でしょう。
ナットの演奏も悪くはないのですが、作品の評価を塗り替えるほどのものは感じられませんでした。以前取り上げたヘンデル・ヴァリエーションやOp.117が素晴らしい演奏だったので、どうせなら晩年のその他の作品、例えばOp.119あたりを録音しておいてくれたら良かったのに、とまぁこれは無い物ねだり。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2013-08-08 02:07 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

イーヴ・ナット Yves Nat Ses Enregistrements 1930-1956(その9)

ある日のyoutubeサーフィン。まず、あるツイッターで知ったモングンオール・オンダールのホーメイを聴いたら、投稿者が巻上公一なのを知ってヒカシューのあれこれを聴き、思えば70年代の終りから80年代の初め頃ってヘンな時代だよなぁと戸川純をひとしきり、ついでにゲルニカの動力の姫。ヒカシューといえば、ということでクラフトワークの動画を探したら一杯ある。ひさびさにロボットとか聴いてスゲー!私の中高生の頃って凄いのね。



イーヴ・ナットのシリーズ、今回はベートーヴェン。

  CD3
  ベートーヴェン
    ピアノ・ソナタ第8番ハ短調Op.13「悲愴」 [1951年録音]
    ピアノ・ソナタ第9番ホ長調Op.14-1 [1953年6月録音]
    ピアノ・ソナタ第10番ト長調Op.14-2 [1953年6月録音]
    ピアノ・ソナタ第11番変ロ長調Op.22 [1955.9.20以前の録音]

まずは「悲愴」から。
一昔前は、ベートーヴェンのピアノ・ソナタといえば「悲愴」「月光」「熱情」のセットがその代名詞のように言われていたものです(いや、現代でもそうなのでしょう)。「ワルトシュタイン」「テンペスト」「告別」のセットを挙げる人もいるかも知れないが、世間一般における知名度ではまず比較にならないだろう。ただ、20世紀の終りの頃には既に一夜のリサイタルをこれら表題附きのソナタで埋めるようなピアニストは流行遅れと見做されるようになり、多少とも音楽を判っているつもりの人なら、ベートーヴェンの真価はこれらのソナタではなく、28番から32番のいわゆる後期ソナタにこそ存していることを疑わないという事態が出来しました。1970年代半ばにポリーニが、初期や中期ではなくいきなり後期ソナタの録音を世に問うたのは、その時代の変化の象徴的な出来事であったと思います。爾来、腕自慢のピアニスト達は、リサイタルで弾くなら後期あるいはそれに作風の近い26番や27番であり、それ以外のソナタを避けるか、あるいはプログラムの最初のほうに、小手調べのように初期や中期の表題のない比較的目立たない作品を置くか、といった風に変化してきたように思われます。もはや現代において、悲愴や月光を殊更リサイタルで弾くのは相当の勇気が要ることは間違いないところでしょう。
私はこういった潮流の変化について、例えば「悲愴」「月光」「熱情」の組合せがレコード会社の販売戦略(ちょうどLP1枚に収まって都合がよい云々)として無理やり3大名曲としてでっちあげられたものであって、作品自体の価値の多寡とは何の関係もないといったシニカルな見方に与するつもりはないが、それでも、そのおかげでこの3曲に対してかなり食傷気味になったのは事実。正直なところ、そんじょそこらのピアニストがこれらの作品をプログラムに組んでいたらそれだけで聴く意欲が幾分失せるだろうし、あるいはもし知り合いが「ベートーヴェンだったら悲愴が一番好き」などと言おうものなら、(馬鹿にするつもりはないにしても)勘弁してくれ、と思うだろう。こういった告白はある種の人達の反感を買うのは判っているが、私のこのソナタに対するスタンスというものを明らかにしておくのは無意味ではないと思います。
実際のところ、この作品の意義については、直前のOp10のソナタでハイドンの世界から完全に自立した世界を確立したのに続いて、はやくもロマン派と見紛うばかりの表出力が得られたと言う側面と、ムツィオ・クレメンティの顕著な影響という両方を冷静に分析する必要があるだろう。その仕事は私の手には余るけれど、要するに私は手放しで傑作というつもりもなければ、所詮は初期ソナタの一つと切り捨てるつもりもない、ということ。
もうひとつ、極私的な話をしておくと、私は中学一年生の時、いわゆるピアノのお稽古の発表会でこのソナタの第1楽章を弾いたのだが、それからしばらくしてピアノに対する熱が少しばかり醒めてしまい、レッスンも止めてしまった。というか、その頃の無邪気な私は、プロとして食っていけるようなピアニストは、12歳かそこらの歳にはすでにショパンのエチュードに取り組んでいるものだということを知ってある種の衝撃を受け、明けても暮れてもベートーヴェンのソナタを弾かされていた自分に嫌気がさしたのだろう。少なくともその頃レッスンでやった初期から中期に掛けてのソナタに感じるなにがしかのアンビヴァレントな感覚は、この体験抜きには私には説明がつかない。今、こうして50歳を超えてようやく、単なる音楽愛好家としていろいろと音楽を聴いたり、それについて考えたりするバックボーンとして、この頃のベートーヴェン体験がどれほど自分の血や骨となって役だっているかをひしひしと感じ、当時就いていた先生に対しても感謝の念を感じているのだが、ベートーヴェンにまつわるこの苦いような甘いような記憶は、多分死ぬまで私につきまとうのでしょう。
肝心のナットの演奏だが、そんな背景のある作品故どうしても粗が目立ち、可もなく不可もない演奏として聞えてしまいます。これはナットが悪いのではなくて、私の受け止め方の問題。多分誰が弾いても満足することはないでしょう。それでも第2楽章の主題の控えめな歌わせ方には好ましいものを感じるし、第1楽章の奇を衒わない序奏にしても悪くはない。第3楽章のコーダあたりの強弱の付け方はやや作為的、音像が揺れたりわざとらしく奥に引っ込んだりするEMIの悪名高い録音(エンジニアの癖というか)もその印象に一役買っていそうだ。

9番ソナタは、再びハイドン的な世界に戻って、いささか饒舌な音楽が書き連ねられている印象があります。そこにはソナチネ的平明さがあって、技巧的にも比較的平易な部類だと思います。
ナットの演奏はけだし名演である。どこといって突出したものはないが自発性溢れる音楽に身を任せられる感じがします。

10番は、優美な1楽章、古典的な変奏曲にスケルツォと題された終楽章(実質的にはロンド)が続く構成のソナタ。9番と同じくソナチネ風、技巧的には9番より少し難しいがそれでも平易な部類でしょう。やはりハイドン的な機知に溢れていて、第1楽章にはハイドンの好んだ疑似再現部が展開部の中に現われる。
ナットの演奏は最初の二つの楽章はとても良いが、スケルツォの駆け上がる音形が些かテンポが前のめり過ぎて、ヘミオラの特徴のあるリズムが活かせていないのが残念。

11番は7番以来の堂々たる4楽章ソナタ。典型的なcon brioの第1楽章に、内実のしっかり詰った長い第2楽章、第3楽章はスケルツォではなくメヌエットが置かれているが、トリオは疾風怒濤のト短調、フィナーレはこれも実にベートーヴェンらしいグラツィオーゾなロンド。しかもこのロンドの短調のクープレは対位法を駆使した展開部となっています。この11番は地味な存在ながら初期ソナタの完成形といえます。ナットの演奏は各々の楽章の特徴をよくとらえた優れた演奏だと思います。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2013-08-01 20:16 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

イーヴ・ナット Yves Nat Ses Enregistrements 1930-1956(その8)

シューマンがショパンを評して、
「諸君、天才だ、脱帽したまえ。」
クラオタの毒舌な妹bot
「諸君、変態だ、通報したまえ。」




15回シリーズのつもりで始めたイーヴ・ナットのレポートですが、昨年10月に7回目で中断。ながらく放置してましたが再開します。昨年もそうでしたが、この季節になるとPTNAやアマコンに知人が出演したりするので、一気にピアノ熱が再発するのです。普段はピアノそのものをあまり聴かないし、単身赴任でクラヴィノーヴァさえない環境なんですが。
そんなことはともかく・・・。

  CD13
  シューマン
    蝶々Op.2 [1954.9.22録音]
    アラベスクOp.18 [1952年12月録音]
    子供の情景Op.15 [1952年12月録音]
    ウィーンの謝肉祭の道化Op.26 [1938.6.10.録音]
    「幻想小曲集」Op.12より 「夕べに」「飛翔」「なぜ」 [1937.3.12.録音]
    子供の情景Op.15 [1930.5.14.&10.17.録音]

シューマンについて何度も書いてきたことですが、形式に対する希求とその頸木を逃れようとするファンタジーとの相克というものを感じます。「蝶々」についても、全体が12の小曲に分かれているものの、一部分を取り出して演奏するのは全く意味をなさないという意味で、形式と内容との齟齬があります(同じ小曲集でも、例えばショパンの「前奏曲集」から任意の一曲を取り出して、あるいは数曲を選んで弾いても様になるのとは随分違う)。辛うじて第11曲のポロネーズがなんとか三部形式を保っているぐらいで、残りの大半は非常に断片的、三部形式(A-B-A)もしくはロンド(A-B-A-C-A)の体裁を取っているものもあるが、大半はA-B、あるいはA-B-Cという断片の継接ぎのようなもの。全体を通すと不思議な統一感があって、これをなんと評したものか。敢えて言うならバレエのディヴェルティスマンをピアノで聴いているみたいな感じもしますが、では1830年頃のバレエがどんなものだったかと言われるとなんとも言えません。同時代に同じような作品があったのかすら私は知りませんので、これがシューマンのオリジナルな形式、というより作品形態かどうかも判りません。なんとも謎に満ちた作品です。
それにしても、昔ケンプのレコードを聴いて「なんてつまらない曲」と思っていました。「謝肉祭」の為の習作、あるいは出来の悪いスケッチのようなものかも知れないなぁとも。しかしナットの演奏を聴いて、この考えは全面的に改めなければと思いました。本当に素晴らしい演奏ですが、、これは作品そのものが素晴らしいのか、演奏が素晴らしいのか、最早判然としないほど。いつもながらの骨の太い(過度に感傷的であったりデリケートすぎたりではない)演奏ですが、それでいて馥郁たる香りのする、いや、あまり印象批評みたいな書き方はしたくないが、古き良き時代のサロンで貴婦人達の笑いさざめく声を聞くような、そんな演奏。ここでのナットはテクニックもしっかりしているし、このシリーズの中では録音もなかなか良い(最後の属七の和音が一つずつ消えて行くところもきれいに聞こえる)。
同じような経験を実は「ダヴィッド同盟舞曲集」でもしたことがあって、最初に聴いたのが誰の演奏かも忘れましたが、つまらんとまでは思わずとも「なんと瑕の多い作品」と思っていた若き日の私の目を開いてくれたのはFMで聴いたポリーニの1984年の演奏でした。これは今手元にないので記憶が若干あやふやですが、HOSANNAというブートレグ・レーベルから出ていたCDと同一のものだと思います。これ聞いたらDGの正規盤があほらしくて聴けなくなるという恐ろしい代物。結局は、シューマンの真価と言うものは本当に優れた演奏によってしかもたらされない、という当たり前の結論になるのでしょう。ナットとポリーニを同列で論じるのもどうかと思うが、この「蝶々」は私にとっては作品の真価を知らしめた演奏ということになります。

「アラベスク」は小品ながら独立した作品番号が与えられています。技巧的には平易で長さも手頃、素人でも簡単に弾けてしまう分、プロの演奏でこれといったものも無ければ、リサイタルなんかで聴いてもたいていつまらない、といのは私の偏見だろうか。
ナットの演奏も特段どうこう言うほどではないが、主部のリタルダンドの表現にハッとするものがあります。こういうのをプロの仕事というのだろう。ただ、イ短調のMinoreⅡが速すぎて香りが飛んでしまっているように思われるのが惜しい。

「子供の情景」、シューマンの代表作のように言われていた時代もあるようだが、基本的にはアマチュアが自分で弾くための作品という気がします。逆にプロがリサイタルでこれを弾いて、聴衆を魅了することが出来れば、それは本当に凄いことだろうと思います。
ナットの1952年録音の演奏は悪くは無いですが、良くも悪くも常識的で、この作品のイメージを覆すことはありませんでした。なお、このCDには1930年録音の短縮版も入っています。こちらは繰り返しが殆ど無いもので、78回転のSPレコードしかない時代、片面に4分ほどしか入らず、しかも一枚が高価な時代にはそれなりに価値、というか需要があったのでしょうが、今となっては音楽に対してかなり乱暴なものに聞こえてしまいます。ただし若いナットの演奏はなかなかのもので、52年盤より優れています。スクラッチノイズの向うから切れ味のある知的な解釈を窺うことが出来ます。

「ウィーンの謝肉祭の道化」は本家「謝肉祭」ほど有名ではありませんが、その重要性という点では「謝肉祭」を上回るのではないか、と密かに思っています。シューマンの形式への希求が5楽章のソナタ風の器を得て、もっとも幸福な形で成就したように思われます。ある意味、3つあるピアノ・ソナタや3楽章の「幻想曲」Op.17よりもソナタらしく聞えるのが面白い。しかも本来ソナタ形式で書かれるべき第1楽章がロンドで書かれ、フィナーレが逆にロンドではなくてソナタ形式で書かれているのに、全体の中では収まるべきところに収まっていて、強固な形式感を感じさせるのも不思議といえば不思議。私にとっては「クライスレリアーナ」と「ダヴィット同盟舞曲集」に次いで大切な作品ということで、「フモレスケ」や「ノヴェレッテン」とならぶポジションを占めています。
この作品の録音では何と言ってもミケランジェリのDG盤が定番だと思いますが、このナットの演奏もとても優れています。「インテルメッツォ」の知と情のせめぎ合い、フィナーレ第2主題のやや遅めのテンポ設定と驚くべき沈潜ぶりが素晴らしい。

最後に、戦前の録音で「幻想小曲集」の最初の3曲が収められていますが、いかなる事情で録音が中断したのか判りません。聴いた印象としては昨年の8月にレポートを投稿した1955年録音のものとあまり変わりません。
これまでナットのシューマンのあれこれを聴いてきて、その出来の良し悪しにかなりムラのある印象を持ちます。いや、ベートーヴェンもそうなんだが、誰もが挙って弾く有名曲とそうでない曲とでは明らかに演奏の温度差がある感じがする(こういった印象論は、私自身の個々の作品への思いが反映されるので注意が必要なのは言うまでも無い)。ナットの人となりについては全く知識がないのですが、演奏を聴く限り相当気ままな感じがするのだが・・・。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2013-07-26 20:21 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

イーヴ・ナット Yves Nat Ses Enregistrements 1930-1956(その7)

ブルセラ症ってちゃんとした獣医学用語らしいんだけど、どうしてもあっち関係の病気かと思うよね。





シリーズ7回目はベートーヴェンの初期ソナタ4曲を聴きます。

 CD2
 ベートーヴェン
  ピアノ・ソナタ第4番変ホ長調Op.7 [1955.9.20.以前の録音]
  ピアノ・ソナタ第5番ハ短調Op.10-1 [1955.2.9.録音]
  ピアノ・ソナタ第6番へ長調Op.10-2 [1955.2.9.録音]
  ピアノ・ソナタ第7番ニ長調Op.10-3 [1955.2.23.録音]

4番ソナタについて、私はこれまでベートーヴェンのGrazioso路線の代表作と思っていました。それはもちろん間違っていたとは言いませんが、改めて楽譜を良く見ると第1楽章はMolto allegro e con brioと書かれていて、これを殊更「優美に」弾くのはベートーヴェンが想定していた演奏とは少し違うかも知れない、と思いました。この思い込みには2つ原因があって、一つ目は音楽そのものから導かれる印象。この第1楽章は6/8拍子でしかも流れるようなフレーズに富んでいることや、メヌエットとスケルツォの中間的な様式の流麗な第3楽章、そしてGraziosoそのもののフィナーレから受ける全体的な印象が作品そのもののイメージを強固に規定してしまいます。それと、ごく一部の人間だけかも知れませんが、ミケランジェリがドイツ・グラモフォンに録音した数少ない正規盤の印象が強烈すぎるというのが二つ目。ミケランジェリはかつては私にとって神にも等しいピアニストでしたが、この4番ソナタの録音に関してはコード・ガーベンがその著書の中で、ケンプの演奏と比べて散々ミケランジェリの解釈の恣意性をあげつらった末に、ヨアヒム・カイザーが1971年のレコード評で「細かな美しい部分で、音楽は奇妙に甘ったるく、なんの身振りもなく、展開していく緊張感に欠ける」云々とこきおろしていたと記している(『ミケランジェリ ある天才との綱渡り』コード・ガーベン著・蔵原順子訳、アルファベータ社)。そこまでぼろくそに言わなくとも、と思うが、彼のお陰で必要以上にGraziosoなイメージが刷り込まれてしまったのは事実だろう(それは軽やかさとか流麗さとは違って、意外なほど垢抜けない重さを伴っているのだが)。
いずれにせよ、これまで聴いてきたナットの剛毅な演奏、アタックのきつい演奏によって、この4番ソナタの新たなイメージが生れるかと思っていたらさにあらず、案外と柔らかく流麗な演奏です。これはやはり、音楽そのものの要求に素直に従えばこういった演奏になる、ということでしょうか。Molto allegro云々というのとは少し違うと言わざるを得ない。大体、この頃のベートーヴェンのcon brioは中期のそれとは少しニュアンスが違うのかもしれない。
それにしても、先に書かれたOp.2の3つのソナタに見られた緊密な展開部は、この4番ソナタの第1楽章の展開部では技法上の後退といってもよいくらい、主題を短調に置き換えるだけの極めてシンプルな手法で書かれているのが印象的。これは提示部と再現部が意外に多彩な素材で出来ているため、敢えて展開部をシンプルにしたというのが正解なのでしょうが、音楽がおおらかに、何と言って策を弄することなく構えの大きな音楽に聞こえるという効果をもたらしています。何一つ技巧的なフレーズのない第2楽章も素晴らしい。少しピアノが弾ける人ならまず間違いなく初見で弾けてしまうはずだが、これを音楽的に弾くのは大変だと思う。ここ数年、PTNAとかアマコンといった、アマチュアのピアノ演奏を聴く機会が多少あるのだが、古典やロマン派を弾くコンテスタントの中には耳を蔽いたくなるほど音楽としての感興が感じられない人達がいます。彼らに最も必要な修練は、こういった緩徐楽章を丁寧に弾いて、どうすれば音楽として間が持つようになるのか考えながら弾き続けることかも知れないなぁ、と思う。ベートーヴェンの初期作品の緩徐楽章を聴きながらそんなことを考えていると、大久保賢氏のブログでちょっと関連することを書いておられました(ピアノのレッスンにおける緩徐楽章軽視について)。そちらも併せてどうぞ。
http://blogs.yahoo.co.jp/katzeblanca/23810598.html

初期ソナタを番号順にずっと聴いていくと、このOp.10におけるベートーヴェンの音楽の長足の進歩に驚きます。詳細な分析を行う力は私にはありませんが、ハイドンやクレメンティの影響から出発したベートーヴェンがついに自己の音楽的スタイルを確立したかに見えます。
5番ソナタはそのハ短調という調性と厳しく力強い曲想によって、後の8番ソナタや交響曲第5番をいやでも連想させます。シンプルな3楽章構成、緊密な動機労作的書法によって一分の隙もない音楽が展開されています。第3楽章の展開部の終わりは交響曲第5番にそっくりなところが出てきますが、偶然の一致で済ますことはできないと思います。
6番も3楽章構成。上機嫌なベートーヴェン。プレストのフィナーレは天才的な筆致だと思います。ハイドンから学んだものと、バッハのインヴェンション風の対位法が素晴らしい手際で結びつけられている。
7番に至ってベートーヴェンのスタイルが完全に確立されたと見てよいでしょう。ここには独特の強さと熱気、それと若干の強引さがあって紛うかたなきベートーヴェンらしさを感じます。二短調の第2楽章はその深刻さ故に、はるか後の29番ソナタの嬰ヘ短調のアダージョを思い起こさせる。第3楽章の晴朗なメヌエットも素晴らしいが、フィナーレのロンドに頻出する問いかけの動機も実にベートーヴェンらしい。
Op.10の3曲、ナットの演奏は大変優れていて、これら初期ソナタとの相性のよさを感じます。もちろんベートーヴェンの音楽の大きさというものは、ある一つの演奏スタイルしか受け付けないといったものではありませんが、それでもナットの剛毅な演奏は音楽との一体性を強く感じさせます。しかし少なくとも日本では、バックハウスやケンプ、もしかしたらグルダほどにもベートーヴェン演奏の規範としては認知されておらず、どこまで行っても一部の好事家のための録音と思われていないだろうか。これまでにも書いてきた通り、確かに中期の有名曲には些か雑な演奏があったり、指回りに若干難があったりするのは事実だが、それはドイツの巨匠達だって同様(いや、メカニックという意味ではもっと酷いかもしれない)。そこにはかつての日本人独特の「本場主義」「独墺至上主義」の悪しき影響があるのは事実として、ではナットと独墺系ピアニストの演奏上の差異はどのようなものか、いずれケンプやバックハウスも含めていろんな演奏を聴いて考えてみたいと思っています。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2012-10-24 21:17 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

イーヴ・ナット Yves Nat Ses Enregistrements 1930-1956(その6)

以前いた職場で、若い子数人連れて京都のすっぽんの老舗「大市」に行った時のこと。若い男子がすっぽんのえんぺら(甲羅のまわりの黒いとこ)食いながら「美味いっすねーこれ。ナスですか?」とのたまった。ニ度と連れてくるか(怒)と思いました。




久しぶりに19世紀の音楽を聴く(笑)。CD10枚目、ブラームスとシューマンの傑作を収めたものを聴いていきます。

 
 CD10
 ブラームス
   ヘンデルの主題による変奏曲とフーガOp.24 [1955年10月あるいは11月録音]
   3つの間奏曲Op.117 [1955.12.5.録音]
 シューマン
   クライスレリアーナOp.16 [1951年11月以前の録音]
   3つのロマンスOp.28 [1952年12月録音]

順不同で「クライスレリアーナ」から。私も含めて、シューマンの最高傑作は「クレイスレリアーナ」であると信じて疑わない人は大勢おられると思います。およそ19世紀に書かれたピアノ曲で、これほど「ロマン派」と呼ぶに相応しい作品もないのではないでしょうか。言葉にしてしまうと皮相的になってしまうが、ここには「苦悩」とか「憧憬」とか、それより何より個人的な恋愛に纏わる感情の全てが音になって盛り込まれている。しかしシューマンが凡百の同時代のマイナーな作曲家達と違ったのは、その極私的世界を突き詰めた果てに、物凄い回り道をして普遍的なるものにまで至った点だろうと思います。では前者と後者を隔てるものは何か、と問われれば、これは大変難しい問題だと言えます。これは例えば「自己愛の強い人間」と「自己信頼性の高い人間」の違いは何か、という問いにも似て、両者とも基本的に自己に向かうエロスの力を拠り所にしていながらその現われ方が微妙に異なる。そこに働いている力の一つは論理というものだろうと思います。つまりシューマンの音楽は、極私的でありながらも極めて論理的である、と言うには更に数百語数千語を費やさねばならないのだが、それはまぁ追々書く機会もあるでしょう。
ところで以前シューマンの「ノヴェレッテン」について書きましたが、「クラスレリアーナ」と並べてみるとまさに同じもののポジとネガのように見えてくることに気が附きました。同じ8曲構成で、前者は前にも書いたとおりへ長調-二長調-二長調-二長調-二長調-イ長調-ホ長調-嬰ヘ短調という(第1曲を除いて)基本的にシャープ系の調性配列、その音楽の特質は全能感と殆ど狂騒と見紛うばかりの多幸感でした。それに対して「クレイスレリアーナ」はニ短調-変ロ長調-ト短調-変ロ長調-ト短調-変ロ長調-ハ短調-二短調、という徹底的にフラット系の配列。そこにあるのは激情と憂鬱の交替。この出来の悪いポジ(ノヴェレッテン)と出来の良いネガ(クライスレリアーナ)を重ね合わせるとシューマンの本質がより明確になると思います。また両者ともファンタジーの飛翔を形式の頸木で押さえつけようとする傾向が強いのですが、前者が(特に第8曲において)目を覆いたくなるほどの破綻を来しているのに対し、後者はより単純な構造を採っているという対比も面白い(但し第7曲目のコーダだけは異質で、それがシューマンらしいとも言える)。
さてこの「クライスレリアーナ」の演奏ということになると、これはもうホロヴィッツの名演を超えるものは無いのではないかと思います。それは上手いとか下手といったレベルを遥かに超えて、シューマンの狂気にまで肉薄する演奏となると、これ以上のものは想像もつかないといったレベルでの話。それと比べると、ナットの演奏は悪くは無いのだが何とも物足りない。ナットのシューマン演奏について今迄「剛直」とか「構築的」といった言葉を使ってきて、今回のクライスレリアーナにしても微温的なものが微塵もないのはとても好ましいのだが、いつにもまして小さな瑕が目について耳が素直に入っていかない。いや、瑕というのもどうかと思うが、例えば第8曲中間部、ナットは恐らくパデレフスキー版の明らかに誤りと思われる箇所をそのままGで弾いている(譜例1の3小節目左手の低音)。
(譜例1)
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ここは当然譜例2のようにBでなければならない箇所だが、弾いていて気にならないのだろうか?
(譜例2 ブライトコップ・ウント・ヘルテル社のクララ・シューマン校訂版)
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あるいは第2曲のインテルメッツォⅡの後の箇所、譜例3の1小節目の右手のAに附けられたナチュラル。ここは初版もナチュラルになっていて多少の議論があるかも知れませんが、おそらく草稿のフラットの読み間違いで、ブライトコップの最近の版はもちろんフラット(As)になっています。ここをナットはAsではなくAで弾いていてちょっと耳に引っ掛かります(最近のブライトコップ版はなぜかコピーガードされていたので譜例は載せられませんでした)。
(譜例3 パデレフスキー版)
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もうひとつ。第8曲目の譜例4の2小節目と3小節目をまたいで左手のGに附けられているタイをなぜかナットは無視して3小節目のGを叩きなおしているが実にオマヌケ。前後の脈絡から言ってもありえない箇所だが、大げさに言えばこういった些細なことで奏者の論理性を疑ってしまうのです。
(譜例4 パデレフスキー版)
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しつこいようだがもう一か所。第1曲目中間部、譜例5の2段目1小節目の左手Asと3段目1小節目の左手Gesにアクセントが附いていて、これは実に意義深いアクセントなのだがナットは全く無視。薄いテクスチュアから対位旋律が浮かび上がってくる素晴らしい仕掛けなのに、この無頓着ぶりをどう考えたらいいのか。
(譜例5 ブライトコップ版)
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繰り返しの有無についてはやや恣意的。それはいいとしても第7曲のフガート前半の繰り返しをしないのはちょっと困る。やはりこのあたりも重箱の隅をつつくつもりはないが論理性の欠如のようなものを感じてしかたがない。それに、これはナットの所為ではないが、マスターテープの保存が悪かったようで所々聞き苦しいところがある。第2曲や第6曲の終わりがブチッと切れるのはもう許し難い。
まぁこんな類のことは可愛い子の鼻毛みたいなもんで、気にしなければいいのに、という声もあろうかと思うが、鼻毛を見ても可愛いと思えるか、見た瞬間に百年の恋も醒めるか、の違いは大きい(笑)。なぜナットの鼻毛は許せないのか、ま、そこまで分析して書くつもりはないけど・・・。

あとは簡単に。ブラームスの「ヘンデル・ヴァリエーション」、ブラームス作品の中でも傑作だと思います。「パガニーニ・ヴァリエーション」ほどの難技巧ではないにしても、恐るべき難所が至る所にあって、しかもその克服は並大抵でないのにそれが(良い演奏であればあるほど)聴き手には難所と映らなくて、努力が報われないこと甚だしい。そこがまたピアノ弾きには燃える(萌える)ところなんだが。
ナットの演奏は実に立派で、聴いていて熱い感動を禁じえない。ブラームスとの相性の良さはあまり世間で喧伝されていないのではなかろうか。出来ることならピアノ協奏曲なんかも録音しておいてほしかったものです。

「間奏曲」はブラームス晩年の傑作。私、先日とうとう50の大台に乗ってしまったのだが、こういう作品を聴いていると歳をとるのも悪くないと思います。若い時には味わえない良さというものが確かにある。第3曲目は昔は私、良く分からなかった曲なのですが、最初から最後までアウフタクト附き5小節でワン・フレーズという書法が、まさに後悔の多い人生を振り返ってうじうじと思い悩む初老の男に相応しいではないか。まどろむような中間部までこの5小節構造が支配していて、これがブラームスの構築力、論理の力なのだと思う。
ナットの演奏は言うことなし。秋の夜長の愛惜措くあたわざる名演だと思う。

「3つのロマンス」は、シューマンの初期作品の中では目立たないし傑作だとも思わないけれど、なかなか捨てがたい魅力があるのも確か。「クライスレリアーナ」や「フモレスケ」のような作品を目指しながらも最終的にそこまでファンタジーが膨らまず、さりとて捨てるには惜しい、といった断片がこのような曲集になったのだろうか。特に第3曲は「ノヴェレッテン」との共通点が多く、おそらく平行して書かれながら選に漏れた断片だろうと思います。
ナットは剛直なばかりでなくて、こういった小品をいつくしむように弾いているのが実に好ましいと思います。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2012-10-13 23:32 | CD・DVD試聴記 | Comments(3)