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ワーグナー「さまよえるオランダ人」 びわ湖ホールプロデュースオペラ公演

プリッツCMのロシアン、小栗旬に化けてたくせに子猫すぎると家人から不評。





びわ湖ホールで久々のワーグナー。歌手や指揮に若干の不満があって感動とまでは行きませんでしたが、それでも全体としてはなかなかの好演でした。

 2016年3月5日@びわ湖ホール
 ワーグナー さまよえるオランダ人
 
  オランダ人: 青山貴    
  ダーラント: 妻屋秀和   
  ゼンタ: 橋爪ゆか  
  エリック: 福井敬  
  マリー: 小山由美   
  舵手: 清水徹太郎
  合唱: 二期会合唱団・新国立劇場合唱団・藤原歌劇団合唱部
  指揮: 沼尻竜典
  管弦楽: 京都市交響楽団
  演出: ミヒャエル・ハンペ

ダブルキャストで二日公演。もったいない感じがするが、空席の多さをみると興行的にはかなり苦しいのでしょうね。プロモーション次第でもう少しなんとかなるような気もしますが。
私は昨年の二期会の「ダナエの愛」でミダス王を歌った福井敬をもう一度聴きたいと思い、彼がエリックを歌う5日の方を選びました。しかし今回の公演で何よりも驚いたのはミヒャエル・ハンペの演出。
プロジェクション・マッピングを駆使した演出なのだが、この分野での技術の進歩には目を見張るものがありました。一昔前であれば、どうしても舞台のセットと映像の間に段差があったと思うのだが、今やバーチャルとリアルの継ぎ目が殆ど感じられないのですね。帆船の艫に見立てた大道具は超が附くほどリアルに作りこまれており、背景には嵐の海と不気味に流れる黒雲。そこに音もなく物凄い実在感で迫りくるオランダ船。その威圧感というのはちょっと信じがたいほど。だが何より驚愕したのは、第1幕が終わって映像が溶暗したかと思うと、今度はダーラントの家の作業場のような映像になり、艫かと思われたセットに暖色系の照明が当たると一瞬の内に女達が糸を紡ぐ屋内の場面に変わる。その映像の質感や奥行き感というのも凄いけれど、単に人を驚かすだけでなくてまるで17世紀ネーデルラントの写実的な絵画のような美しさと格調が感じられます。このあたりがハンペという人の凄いところで、舞台の隅々までヨーロッパ知識人としての教養が感じられます。CGを使えばどんなに無茶なト書きであっても、何でも出来てしまうので、却って演出とは何かという根源的な問いを禁じ得ないのだが、今回の演出には素直に「さすがはハンペ」と感心しました。
演出に関して附言すると、第1幕の終わりから終幕まで舞台の中央で眠りこけている若い船乗り、もう途中でネタバレしているのだが要はこの船乗りの夢でしたというオチについて賛否両論あるようだ。私は以前にも書いた通り、筋金入りのミソジニストたるワーグナーがとってつけたような「愛の救済」なるものを信じていないので、ノルウェー船の船乗りたちだけが朝焼けの舞台に残るこの「夢オチ」は悪くないと思いました。それに、この芝居の中でリアルな世界は船の上だけというコンセプトは、やけにマッチョなワーグナーの音楽とも違和感がない。
さらに附言すると、今回全幕切れ目なしで一気に演奏したのも、このプロジェクション・マッピングの威力を最大限活用できるからだろう。聴く側からすれば2時間半休憩なしは辛いところだが、場面転換の見事さはやはり見どころではあります。

先に書いた通り、今回のお目当てはエリックを歌った福井敬だったわけですが、声量もずば抜けているし思い切りの良さもあるのだが全体として少し雑な感じがしました。しがない猟師の役だが、単純なようでいて実は小心だったり小狡かったり、もっと陰影のある役なので勢いだけでは御しがたいのでしょうか。これと比べたらミダス王の方がはるかに直情的な役どころではありました。
今回最も優れた歌を聞かせてくれたのはダーラントを歌った妻屋秀和。バス役ならどんな役でも高いクオリティで歌えてしまうので器用貧乏みたいに思える時もあるが、これは声質からいっても天賦の体軀からみても当たり役だと思います。オランダ人の青山貴も悪くはないのだがところどころ音程が甘い感じ。前に新国立で聴いたときの歌手もこんな感じだったので歌いにくい役なのかも知れません。ゼンタの橋爪ゆかは、最初もう少し声量が欲しくてもどかしい感じでしたが後半はいい感じ。吼えずに丁寧に聴かせるところは良いが、もっとグラマラスな声をこの役には期待してしまいます。マリーと舵手についてはしっかりした歌手が脇を固めているなぁという印象。
合唱は新国立劇場・二期会・藤原歌劇団の合同出張ということで大変結構。幽霊船の船乗りの合唱はPAでなく本物(笑)が出てきて歌う。当たり前のことだと思うが最近ではこれが贅沢なんだそうである。この船乗り達は蛸だか烏賊だかの怪物のような恰好なのだが、「パイレーツ・オブ・カリビアン」みたいだなんて言ったらハンペ先生に怒られそう。
沼尻竜典指揮する京響は大変レベルの高い演奏でした。あまり情に流されない彼の指揮は、このマッチョな楽劇には打ってつけ。だが、細かいことをあげつらうようだが第1幕のオランダ人とダーラントの実に下世話な二重唱がト長調で終始すると見せかけていきなりヘ調の属七になり、舵手がSüdwind!Südwind!と叫ぶ場面、ほとんど世界観の断絶といってもよさそうなこの場面で何事もなかったかのように音楽がサクサク進むのはどうなのか。偶々好きな場面なのでこんなことを書くのだけれど、こんな細部の処理が一事が万事で真の感動に至らない要因だとすれば、やはりもったいない話だと思います。もっと感動を!体の震える程の感動を!と思ってしまいます。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2016-03-08 23:09 | 演奏会レビュー | Comments(0)

新国立劇場公演 ワーグナー 「さまよえるオランダ人」

取り押さえられたネコ(一応先日の大分合同新聞ネタの続き)。
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「さまよえるオランダ人」の舞台を観て来ました。

  2012年3月17日
     ダーラント: ディオゲネス・ランデス
     ゼンタ: ジェニファー・ウィルソン
     エリック: トミスラフ・ムツェック
     マリー: 竹本 節子
     舵手: 望月 哲也
     オランダ人: エフゲニー・ニキティン
     指揮: トマーシュ・ネトピル
     演出: マティアス・フォン・シュテークマン
     合唱指揮: 三澤 洋史
     合唱: 新国立劇場合唱団
     管弦楽: 東京交響楽団

これを書く前にちらっと幾つかのブログを覘いてみましたが、特にシュテークマンの演出が評判が悪いですね。私はそんなに酷い演出ではないと思いました。ほどほどに保守的・・・というと否定的なニュアンスになりますが、妙ちきりんな読替えよりはマシ。最後にゼンタがオランダ船に乗り込んで、オランダ人が陸に取り残される、というのは、えっ?と思いますが、先日の拙論に書いたように端からオランダ人の救済なんてものを信用していない人間からすればどっちが陸に残ろうが大したことではない・・・と、ちょっと暴論すぎますね。もう少し正確に言うと、最後の演出は意外なくらい違和感がなかった、と言っておきましょう。というのも、結局は「救済」なるものはゼンタの独りよがりであってオランダ人は実は救済されない(メタレベルでは救済を望んでいない)という結論は変わらないから、ということであると思います。
演出の主眼である、スペクタクルをどう見せるか、という点については、第一幕のオランダ船出現の場面の不気味さは、簡素なセットだけれど効果的でした。しかしながら最大の問題は第三幕のオランダ船の亡霊の合唱。これがPAで興醒めなことこの上ない。PAを全否定するつもりはありません。第一幕はオランダ船の出番が少ない分あまり気になりませんでしたし、他のオペラなら、例えば「サロメ」で地下牢からヨカナーンが歌うところなど今どきPA無しではちょっと考えられないでしょう。しかし、オランダ人の第三幕の合唱をPAで処理するというのは演出家の発想の貧困以外の何ものでもないんじゃないか?ここは多少無理してでも生歌を聞かせるべきだったと思います。生きている船乗りの合唱のほうがあまりに素晴らしかっただけに残念でした。
登場人物の動かし方についても、私はゼンタやオランダ人のこの世の者とも思われない動きと、ダーラントやエリック、舵手などの日常的とも言える動きの対比がそれなりに筋が通っていると思いました。船乗りや娘たち群衆の動きはまぁこんなもんでしょう。こんなことをいちいち書くのも、こういった一人ひとりの動かし方についても随分と手厳しい批評があるから。ワーグナー以外だとそうでもないんですがね。いまやワーグナーの楽劇は、演出も何でもあり、批評もなんでもあり、ましてや素人は言ったもん勝ち、ということか。要するに、何か一言云いたい手合いにはぴったりの素材というわけです。私自身は、基本的にあまり音楽を邪魔しない演出だったので安心したといったところでした。
歌手については、ゼンタのジェニファー・ウィルソンが素晴らしい。ワーグナーのソプラノはこうでなくちゃ。稀に見る理想的なワーグナー歌いでしょうね。ブログで、動きが緩慢、とか、若い娘に見えない、とか皆さん散々書いておられますが、もうすこし大人になろうよ(笑)。歌舞伎だって黒子が現実にいるはずないとか、女形は実は男だ、なんてことふつう考えないだろ。ワーグナーの音楽を愛するということは、それを歌うに相応しい歌手の体格の問題も受け入れるということ。ウィルソンの体格について云々する人達というのは、私にはワーグナーに対する愛と理解とリスペクトが足りないという風に見えます。この歌手、そろそろこのあたりが声量的にレッドゾーンかな、と思っていたらそこから先さらに声量が増していき、しかもその増え方が凄まじく、一瞬も揺れたり割れたりしない。なんとか彼女の声が衰える前に、彼女の歌うブリュンヒルデを聴いてみたいものです。たぶん鳥肌がたつんじゃないかな。
歌手で次に良かったのは、脇役ですが舵手を歌う望月哲也。昨年の「サロメ」のナラボートの時も感心した歌手ですが、上手い下手という以上に、役柄のキャラクターを正確に表現し、聴き手に伝える能力において、ずばぬけた力量を持った歌手だと思います。この舵手の役というのは、それこそホモソーシャル代表の脳ミソ筋肉みたいな野郎なんだが、その愛すべき馬鹿さ加減まで表現し得ていました。
前評判の高かったオランダ人のエフゲニー・ニキティンは少し期待外れかな。声量はあるし、声質は深く、しかも舞台栄えのする偉丈夫なんですが、ところどころ音程が微妙に振れる。それもあがったりぶら下がったり、一貫しないので、どうも聴き手からすれば乗り切れない感じがする。もしかしたら他の日に比べて体調面で万全ではなかったのかも。むしろエリックのトミスラフ・ムツェックのほうが安心して聴けた感じがします。役柄としてもやや軽目のせいもあるけれど、若さもひたむきさもあって良かったですね。ダーラントのディオゲネス・ランデスですが、エリック同様そこそこ歌えていれば「我ら凡人」の代表としての役柄は充分に全うしているとも言える。しかし、それだけでは済まない重厚極まりない歌をワーグナーはダーラントに与えたわけで、それに相応しい声か、と言えば物足りないといわざるを得ない。辛い評価かも知れませんがダーラントが充実していれば、男声だけの第一幕はもっと(ワグネリアンでない人達にも)面白くなるだろうと思います。もっとも私が聴いたのと別の公演では不調で途中降板したと言いますから、やはり体調が万全でなかったのかも知れません。
今回の公演で何といっても印象に残るのは三澤洋史率いる船乗りの男声合唱の凄まじさ。新国立の合唱の素晴らしさは過去に何度か触れましたが、今回の合唱は世界のオペラハウスでもそんなに聴けないレベルじゃないのかな。それだけに、繰り返しになるけれどPAの使用が残念。
トマーシュ・ネトピル指揮する東京交響楽団、前奏曲ではすこし音が薄い、というかもっと音圧がほしいと感じましたが、劇が始まると全く気にならなくなりました。どうも私は、歌手に対する期待値よりオケに対する期待値のほうが若干低いせいもあるかも知れませんが、これぐらいやってくれたら言うことないと思う。むしろこれだけのレベルの演奏聴いて不満をいう人って一体なんなの?と思ってしまう。ただ、確かに音の薄さというのはどうしようもなくて、ところどころウェーバーみたいに聞こえるというのは否めない。それ自体はマイナスでもなんでもなくて、事実この若書きのオペラはウェーバーどころかイタリアオペラみたいなページまであるのである。それが第一幕のダーラントの出帆の場面、明るい男声の二重唱が高揚の果てに沸点を迎え、ト調長の属音の和音で終始すると見せかけてから突然のヘ長調の属七への遥かなる飛躍、これこそワーグナーをワーグナーたらしめるもの、この飛躍こそワーグナーの天才を証するものです。ワーグナーが単なるロマンティック・オペラの作曲家に留まらず、現代にまでまっすぐ繋がる音楽の始祖となった訳は、なにも「トリスタン和音」の発明だけではないのです。その、ウェーバーの後継者たる位置と後期ロマン派の入り口の両方を耳に感じさせてくれたのは今回のオーケストラの大きな功績だと思う。
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ちなみに前奏曲はいわゆる「救済のテーマ」のないバージョンですが、第三幕は「救済」ありのバージョンであまり一貫性がない。音楽的には「救済あり」のほうが満腹感があるね(笑)。休憩は第一幕の後に1回のみ。幕間なしバージョンはちょっときついだろうから、これは妥当。
(この項終わり)
by nekomatalistener | 2012-03-20 00:17 | 演奏会レビュー | Comments(0)

ワーグナー 「さまよえるオランダ人」 ドホナーニ指揮ウィーン・フィル

大分にしては凶悪事件だ。

先日の未明、「大分市内のドラッグストアに何者かが侵入している」と大分南署に警備会社から110番通報があった。 当直の署員たちが現場に急行。警備会社の案内で真っ暗な店内に入った。警戒しながら慎重に調べていると、署員の一人が「痛っ!」。 侵入者から攻撃されたのかと身構えると、足元には大きな野良猫。
他に異常はなく“侵入者”はネコらしいことが分かった。右足首をネコに引っ掛かれた署員は「事件でなくて良かった」とほっとしながら、 「このネコを建造物侵入と公務執行妨害の現行犯で逮捕してやりたいよ」。
大分合同新聞[2012年03月08日 14:22]
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予習シリーズ、3月の新国立劇場の演目はワーグナーの「さまよえるオランダ人」。

  ワーグナー「さまよえるオランダ人」
    オランダ人: ロバート・ヘイル
    ゼンタ: ヒルデガルト・ベーレンス
    エリック: ヨーゼフ・プロチュカ
    ダーラント: クルト・リドル
    舵手: ウヴェ・ハイルマン
    マリー: イリス・ヴァーミリオン
    ウィーン国立歌劇場合唱団
    クリストフ・フォン・ドホナーニ指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
    1991.3~11月録音
    DECCA00289 478 2503

こんな有名作なのに予習か、と言われそうですが、この歳になるまでまともに聴いたことがないのだから仕方ありません。ワーグナーに関しては、私が高2か高3の頃から大学に入って1年かそこらの間、時期にして2年足らずほどでしたが、まるでハシカに罹ったようにそれこそ浴びるように聴いていた時期がありました。一番最初にハマッたのは「トリスタンとイゾルデ」、きっかけはNHK-FMで抜粋を聴いたことだったと思います。それから「ニーベルングの指輪」、その中でも特に「ヴァルキューレ」、最後に「パルジファル」。大学の途中くらいから憑き物が落ちたみたいに聴かなくなってしまいました。舞台で観たのは4度、何時の公演かもはっきり憶えていませんが、若杉弘が振った「ヴァルキューレ」、2008年のパリ・オペラ座の来日公演での「トリスタンとイゾルデ」、新国立の「ジークフリート」(2010年)と「トリスタン」(2011年。こいつは凄かった)、それぐらいだと思います。つまり、かつてワーグナー好きであった一時期はあるにせよ、よく知っているのは僅かな作品であって、オランダ人、ローエングリン、タンホイザー、そしてマイスタージンガーについてはちょっと齧ったくらいしか聴いてなかったのです。

そんな程度のワーグナー理解ではあるが、その経験のなかでなんとなく感じてきたのが、ワーグナーのミソジニーの問題。例えば「トリスタンとイゾルデ」。何度聴いても異様に感じるのは、マルケ王やクルヴェナールがトリスタンに示す過度の愛情、それは臣下を慈しむとか、主君に忠義を捧げるといったレベルを超えて、本来ならばホモフォビアによって辛うじて維持されてきたはずのホモソーシャルな騎士の世界に危機をもたらすように思われます。事実、この世界にイゾルデという異分子が投じられることによって、この麗しきホモソーシャリティは壊滅します。「パルジファル」ではそれがもっと露骨に描かれ、「指輪」では神と人間の世界の分裂を絡めて、幾分晦渋の度合いを強めながらも通奏低音のようにホモソーシャルな男性社会を破壊する女性(ブリュンヒルデ)という描かれ方をしています。こういった記述は判りにくいでしょうか。私はこれらの分析のツールとして、上野千鶴子によって判りやすくまとめられたイヴ・セジウィックの理論を用いようとしていますが、それは「ホモソーシャリティはミソジニーによって成り立ち、ホモフォビアによって維持される」というものです(上野千鶴子『女ぎらい―ニッポンのミソジニー』紀伊國屋書店)。実際のワーグナーの猟色家としての姿も、彼が典型的なミソジニストであると考えれば辻褄があうというもの。もっともそういった見方をするならば中世の騎士物語など殆どこの構図になるのではないか、という疑いもあるでしょう。それはその通りであって、だからこそミソジニーはこれほどまでに世間に蔓延しているのだ、と言えるのですが、それにしてもワーグナーのミソジニーの度合いは群を抜いていると言ってよいでしょう。

さて、オランダ人について。世間では、この作品の主題は「女性の愛による救済」であるなどと言われていますが馬鹿も休み休み言えと言いたい。本当に皆さん、このオペラを観て、聴いて、「オランダ人はゼンタの愛によって救済されて良かったね」とか、「やっぱり最後に勝つのは愛だよね」などと本気で思うのだろうか。もしそうなら本当に自分の頭の中が湧いてないか心配したほうが良いと思う。有名なハリー・クプファーの演出はこのお話全体がゼンタの神経症的妄想であるとしたようですが、それもまたおかしな話。そりゃ主人公は、というより、ワーグナーが自己を投影していたのは明らかにゼンタではなくてオランダ人だろう、って話です。この悪魔に取り憑かれたオランダ人、彼こそワーグナーが自己を投影するどころか、無意識のレベルでは同一化を図ろうとしていた存在であることは間違いありません。ではオランダ人の苦悩とは何だったのか?ここでニーチェの思想を持ち出しても良いのだが、この時期ワーグナーが深く影響されていたのはニーチェではなくてショーペンハウエルだろう、といった反論に対抗できるほどには私自身よく判ってませんので、ここでは仮にそれを創造のデーモンとしておきましょう。このデーモン故に、ワーグナーは極端な自己愛を持つと同時に、自己を呪わずにはおられなかったはずです。しかし、だからといって強烈なミソジニストであるワーグナーは、たとえ最後の審判の日まで冥い海を彷徨うことになろうとも女性の愛によって救済されたいとは思わなかったに違いありません。実際、ワーグナーはこのデーモンと共に人生を歩み、巨大な楽劇を創造し、バイロイトという理想の劇場まで作ったのですが、よくぞ途中でつまらぬゼンタに引っかからずに海に逃げ出せたものです(何の気なしにこう書いて、普段はあまり意識しない己のミソジニーの強さに驚いています)。この辺りの議論、精神分析の技法も知らぬ素人ですので上手く説明できずにもどかしい思いをするのですが、間違ってはならないのはこれはすべてワーグナーの無意識のレベルで起こっていることであり、台本にこう書いてある、といった反証は無意味であること、しかも厄介なことに、これを立証するには象徴界の産物としての台本を読む以外には手立てがないということです。しかしそこは素人の気安さで、厳密な議論は省いて論を進めていきます。

先程、半ば冗談めいてオランダ人が危うくゼンタの罠を逃れて海に逃げたかのように書きましたが、テキストのメタレベルで起こっていることはまさしくそういうことだったのではないか。第1幕、主体たるオランダ人が客体たるダーラントを説得して娘ゼンタを得るように描かれているが、主体と客体を逆転すれば、誇り高いオランダ人は俗物たるダーラントの姦計によってゼンタの罠に搦め取られようとしている、とはいえないか。オランダ人にとっての(ゼンタとの)陸の生活とは、創造のデーモンとは無縁の小市民的幸福の追求そのもの、その一方で第1幕の影の主役とも言うべき男声合唱は、軍隊と並んで典型的なホモソーシャルである船乗り達の世界の素晴らしさを謳歌しますが、これこそ栄光に満ちた創造のデーモンの世界です。第2幕のゼンタ、これは今の若い人の言葉で言えば「イタい女」ということでしょうが、実際にある種の精神病理学的な異常さを帯びています。「ゼンタ症候群」なんて病名が在ってもちっとも不思議ではない(実際にあったりして)。表向きの話は、自己犠牲を夢見るゼンタをなんとか現実の恋愛に引き戻そうとマリーやエリックが努力するが、彼女は言うことを聴かず、実際にオランダ人と対面すると直ちに我を忘れるほどの恋に落ちて救済の欲望に取り憑かれてしまう。メタレベルではオランダ人はゼンタに対して身の危険を感じ、彼女から逃げようと思っているはずだが、それはこの第2幕後半、オランダ人とゼンタの妙に噛み合わない二重唱に現れています。それまで二人の目には父ダーラントの姿はろくに入っていなかったというのに、オランダ人はゼンタに向かって、お前の父の選択に対して怒ってはいないのかと問い、ゼンタは父の命令に従うと答えます。ゼンタという人物がいかに分裂した存在であるかは、第2幕前半であれほど俗物(マリー・エリック・娘たち)を軽蔑していながら、後半では俗物中の俗物というべき父ダーラントの言いなりに(結果的に)なってしまうということ。そして、ゼンタは典型的な「父の娘」、すなわちエレクトラ・コンプレックスの持ち主であり、彼女の同一化の欲望はあくまでもダーラントに向かっている。ラカン風に言えば、彼女の欲望とは同一化の対象であるダーラントの欲望なのだから、そもそもオランダ人に対する救済者としての適格性自体に疑問符がつくのです。但し、ここで見落としてはならないと思うことは、ダーラントは確かに俗物ではあるが、彼の富に対する執着はおそらくワーグナー自身の姿が幾分投影されていること、音楽的にも決して(ミーメのような)コミカルな歌はあてがわれていないということです。そういった意味でダーラントの役割も分裂しているが、そこにアンビヴァレンツがあるとしてそれはより愛に近いほうに傾いていると言えるでしょう。そして第3幕。表向きの話は、エリックとゼンタという若くて将来のある2人を見てオランダ人は自らの救済を断念し、海に乗り出すが、ゼンタは海に身を投げ、救済が成就されるというもの(されないという版もある)。これも象徴界における隠喩や倒置といった手法で読み解けば、ゼンタの魔手を辛くも逃れたオランダ人は、友たる船乗りたちとともに冥い海原、すなわち前人未到の創造の旅に出て行くというわけだ。このテキストのメタレベルにおけるハッピーエンド、カタルシスに人は無意識に酔い痴れているとはいえないでしょうか。
ワグナーの楽劇については、ネットというメディアではなく同人誌のような媒体には恐らく多くの考察があると思いますので、以上述べたようなことはもしかしたら語りつくされているのかも知れませんが、ネット上の薄っぺらい紹介サイトやブログの類で胸焼けするほど「愛による救済」というマントラを読まされたので、敢えて以上のようなことを書かずにはいられませんでした。このブログで何度か(しかし控えめに)世評とかいったものに対する私の本能的といってもよいくらいの嫌悪感について言及してきましたが、「救済」云々の言説も同じです。もう気持ち悪くなる。

取り上げたCDは、単に予習のために音源を探していて、一番安かったからという理由で選びました(2枚組で1,775円)。これはセカンドチョイスというか、もしかしたらサードチョイスくらいにしときなはれ、という代物かも知れませんが、オーケストラと合唱は兎に角凄いの一言。ウィーン・フィルの何がどう凄いのか、これ聴けば如実に判ります。他と何が違うって音圧が違う。物理的に音が大きいとかじゃなくて、腹に響く感じ。なんだろうね、これは。オケと合唱だけなら数多の名盤の中でも一押しだと思う。最も問題なのは、ベーレンスのゼンタ。花の命は短いのがソプラノの宿命とはいえ、ベーレンスの花は本当に短かったと云わざるを得ない。録音が遅すぎたのか、もう声が揺れるわ、かすれるわ。ベーレンスの熱狂的なファンはどう受け止めるのか判らないけれど、私は聴いていて痛ましくて仕方が無かった。これはデッカのキャスティングのミスなのか、それともゼンタという役柄を深く考察した結果、こんな「イタい声」を採用したのか(まさかね)。オランダ人のロバート・ヘイルと、ダーラントのクルト・リドルは素晴らしい歌唱です。もう数年録音が早ければ凄い名盤になったろうに、と思いました。
最後にワーグナーの音楽そのもの。ハシカが治ってから30年が経ち、今更この歳になってどこまでシンパシーを感じることができるかな、などと甘いことを考えていたら、その音楽の魔力にあやうく搦めとられそうになりました。あやうく、というのはこのブログの為にストラヴィンスキーなんかも並行して聴いているので、それだけ毒の効き目が弱かった、ということ(笑)。しかしそれにしても恐るべき強靭な音楽です。
(この項終わり)
by nekomatalistener | 2012-03-09 00:41 | CD・DVD試聴記 | Comments(9)