ヴェルディ 「イル・トロヴァトーレ」 カラヤン(その5)

べたうち一括変換して遊ぶ。だいたい予想通りの結果。

  会長ロプロス空を飛べポセイドンは海を行けロデム返信地を駆けろ

ロデム、返信打つのは大変だろう。肉球でぽちっとエンター(想像中)・・・かわいい。
ロプロスは高そうな麻のジャケットにループタイしてる感じ。ポセイどん、おさんどん。

  砂の嵐に守られたバベルの党に住んでいる超能力正念場ビルに勢

最後に大きく崩れる。



これまで、先の見通しもなく思いつくまま書いてきたので獺祭図の如くとっ散らかしてしまいました。もう少し深く掘り下げてみたかったのですが、どうも収集がつきません。猫またぎの名が泣きますが、素人の戯言と思ってご容赦ください。この項もそろそろ強引に幕を引くべく、最後は演奏論を離れてヴェルディの作品を俯瞰してみようと思います。

ヴェルディは生涯に28作のオペラを書きました。そのヴェルディの歩みを仮に3期に分けてみますが、第1作「オベルト」(1839.11.17初演)から第19作「椿姫」(1853.3.6初演)までを初期、20作目の「シチリア島の夕べの祈り」(1855.6.13)から「シモン・ボッカネグラ」初稿、「仮面舞踏会」等を経て25作目「ドン・カルロ」(1867.3.11)までを中期(この中には初期の「マクベス」の1865年改訂版も含めてよいと思います)、そして第26作「アイーダ」(1871.12.24)、第27作「オテロ」(1887.2.5)、第28作「ファルスタッフ」(1893.2.9)を後期あるいは完成期(1881年の「シモン・ボッカネグラ」改訂版と1884年「ドン・カルロ」改訂版も含めて)とする見方が可能だろうと思います。
初期の19作の中でも最後の3作(リゴレット、イル・トロヴァトーレ、椿姫)で、ドニゼッティ・ベルリーニ流のベルカント・オペラが完成され、同時にその解体の始まりが伺えることは先日記した通りです。
中期の諸作を特徴づけるものは、それまでのステロタイプなオーケストラ書法の著しい深化、因習的なカヴァティーナ・カバレッタ形式の放棄、錯綜したリブレットと興行面での不成功等々のキーワードで語れそうですが、一言でいうなら「苦渋に満ちた模索あるいは試行錯誤」とでも言うものでしょうね。しかし、この苦渋の時期があったからこそ、アイーダ以降の真の天才の高みに辿り着いたとも言えそうです。(余談ですが、ヴェルディ演奏の大家アバドの録音した作品がこの中期の諸作に集中しているのは大変興味深いことだと思います。)
この巨人の歩みに匹敵するのはシェークスピアの37作の戯曲の歩みです。「ヘンリー4世」で作家としての一定の高みを実現した後しばらくの間、後の人々が「問題劇」と名付けた一連の苦い味わいをもつ不思議な作品を書きました(「トロイラスとクレシダ」「終わり良ければすべて良し」「尺には尺を」等)。その後におなじみの「オセロー」「リア王」「マクベス」が続くのですが、シェークスピアの本当に凄いところは、その後「冬物語」「テンペスト」などで許しに満ちた静謐な世界を描いて更なる高みに至ったところだと思います。
ヴェルディとシェークスピアの歩みを重ねてみると、初期のトロヴァトーレや椿姫はヘンリー4世に、中期の諸作は一連の問題劇、アイーダとオテロはオセロー以下の傑作群、そしてファルスタッフが冬物語やテンペストに、不思議な符徴を見せながら重なり合うのです。
若書きのレベルから着実に上昇して一定の高みに到った後に苦渋の期間、それを経て更なる高みに、という軌跡、これこそ天才の軌跡と呼べるのではないでしょうか。

脱線ついでにもう少しこの天才の軌跡について考えてみますが、ではバッハやモーツァルトはどうなのか?彼らの作品の中で、苦渋にみちた試行錯誤の時期はあるのか、という問いについてはどうでしょうか?バッハのカンタータをあれこれ聴いてみると、確かに初期のワイマール時代のカンタータのいくつかには実験的としか言いようのないものが見つかります。例えば様々なスタイルのレチタティーヴォを連ねたBWV18「天より雨くだり雪おちて」、ダカーポアリアの可能性の追求BWV182「天の王よ、汝を迎えまつらん」等々。しかし、それ以降はなんの苦渋も淀みもなく、受難曲やミサ曲を経て「音楽の捧げ物」や「フーガの技法」の奇跡のような高みに到ったように思われます。モーツァルトも、確かにウィーンに出てからのある時期を境に、一段高いレベルに到ったのは間違いありませんが、苦渋や淀みとは無縁なように思われます。天才の質が違うのか、それとも私がそういった作品の存在を知らないだけなのか。いやいや、あんたそんな単純なもんじゃない、彼らにもこんな不思議な作品、一見淀みにしか見えないけれど重要な作品があるよ、と仰る方がおられましたら是非ともご教示願いたいと思います。
(この項、とりあえず終わり)
# by nekomatalistener | 2011-09-17 22:16 | CD・DVD試聴記 | Comments(2)

ヴェルディ 「イル・トロヴァトーレ」 カラヤン(その4)

全然飼い主の言うことを聞かない犬の名前がロデム(しかも雑種)。



音楽を聴いて受ける様々な感情を言語化するのは本当に難しいですね。私の駄文を読んで、それでもトロヴァトーレを観たい、聴きたいと思って下さる人が一人でもいたら、もう4回目となるこの項を書き続ける目的の大部分は達成されているようなもんですが、猫またぎなリスナーとしては、まだまだこの魚には身が残っているような気がするのでもうちょっと続けます。

番号付きオペラという概念があります。時代時代で定義は異なりますが、いわゆるベルカント・オペラの場合、Scena-Cavatina-Scena-Cabaletta を基本形とする一区切りの楽曲を一曲として数え、全体が2曲目、3曲目と連なっていくものです。中にはカバレッタがなくカヴァティーナのみでナンバーを構成するもの(Romanza)、三部形式や二部形式による独立した合唱、あるいは各幕のフィナーレとなるナンバーでは少し自由度がアップして、ソロや様々な組合せのアンサンブルが幾つも続く場合もあります。前回舌足らずなまま、トロヴァトーレを構成する形式とその解体について書きましたが、その前提として全曲の構成がどうなっているのか見てみます。但し、スコアを見ながら、という訳ではないので、多少リブレットや楽譜の指定とはずれているかも知れませんが。

第1部
 第1曲 フェルランドと従者達の合唱による導入
  基本形。カバレッタの部分は簡潔極まりないですがいきなりメーター振り切れそうな盛り上がりを見せます。
 第2曲 レオノーラのアリア
  基本形。完璧なプロポーションの大アリア。
第3曲 伯爵・マンリーコ・レオノーラの三重唱
  基本形。第1シェーナは伯爵のソロ。カヴァティーナの部分に「トゥルバドゥールの歌」が嵌め込まれています。

第2部
 第4曲 ジプシーの合唱とアズチェーナの歌
  不均衡な三部形式。アズチェーナの歌の後に短いシェーナ、合唱の繰り返しは短縮されています。
 第5曲 アズチェーナのロマンツァ
  基本的にはロマンツァ形式と思いますが、後半は短縮されたカバレッタとも、劇的シェーナとも言える部分に繋がっています。
 第6曲 アズチェーナとマンリーコの二重唱
  基本形。
 第7曲 伯爵・フェルランド・従者達のアンサンブル
  基本形。
 第8曲 フィナーレ(レオノーラ・伯爵・マンリーコ・その他)
  尼僧の合唱の後に前曲のコーダが繰り返されるので、これを第7曲の結尾と見ることも出来そうですが、attaccaでそのままレオノーラのシェーナに続く為、これを拡大されたシェーナと見做しておきます。カバレッタは壮大なコンチェルタートの様相を帯びています。

第3部
 第9曲 兵士の合唱
  短い導入合唱とシェーナに単純な二部形式の合唱が続きます。
 第10曲 伯爵・アズチェーナ・フェルランドらのアンサンブル
  基本形。
 第11曲 マンリーコのアリア
  基本形。カバレッタの後半は兵士達も参加して白熱のストレッタとなります。

第4部
 第12曲 レオノーラのアリア 
  基本形。第2シェーナは修道僧の合唱と幽閉されたマンリーコの歌が入って拡大されています。
 第13曲 伯爵とレオノーラの二重唱
  基本形ですが、カヴァティーナの代わりに切迫したテンポの二重唱が置かれているのでカバレッタが二つあるように聞こえます。
 第14曲 フィナーレ
  様々な組み合わせのアンサンブルをシェーナで繋いでいく形式で書かれています。

カヴァティーナ・カバレッタ形式による独唱のための楽曲(他の登場人物は原則シェーナでしか歌わない)を狭義のアリアと呼ぶなら、実はこのオペラには3曲しかないのですね(No2レオノーラ、No11マンリーコ、No12レオノーラ)。なんとなく、次から次へとアリアを繋げて行く歌合戦という獏としたイメージを抱きがちな作品ですが、大半は種々の組合せのアンサンブルで構成されています。
私はこういう分析ごっこ(スコアを見ていないので、あくまで「ごっこ」です)は結構大切だと思っています。なぜなら、よく言われるような通説俗説(たとえば、ヴェルディは本来このオペラをアズチェーナと名付けようと思っていたが、なるほどレオノーラの占める位置は相対的に低い、とか)に対して疑問を持ち、判断を保留することが出来るからです。また、前作リゴレットでこの因習的な番号付きオペラの世界をせっかく脱却したのに、次のトロヴァトーレで再び保守的な世界に後退したとよく言われますが、それがどの程度正しいのか、一度は分析しないと直感だけでは判らないものです。
前回も書いたように、私はカラヤンの各幕、各部分の燃焼度の微妙な違いと、各ナンバーの様式の純正度あるいは解体の度合に関連を見たいと思っています。実のところ、矢張り相関がありそうだ、というぐらいで確信には至りません。また、どれだけ精緻に考察しても所詮印象批評の域を出ないような気もしています。
(この項続く)
# by nekomatalistener | 2011-09-15 22:22 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

ヴェルディ 「イル・トロヴァトーレ」 カラヤン(その3)

「ひつこい」と「しつこい」、どっちが正解かとっさに判らない。
「正解は・・・料理はひつこい、勧誘はしつこい」などと言われると信用するね絶対。



あとはサクサク行きましょう。
第3部の最大の聴き所は幕切れのマンリーコのハイC。残念ながらステファノのハイCはなんとか絞り出しました、というレベル。この点セラフィン盤のベルゴンツィはすごいな。まぁ、音楽的にはハイCが出たからどうのこうの、は大した意味があるとも思えませんが、そこは歌舞伎役者が大見得を切るみたいなもんでね、やはり無いとさびしい。
第4部は再びレオノーラの大アリアで始まります。カラスの素晴らしさについて、もうくどくど書く必要もないでしょう。このアリア、第2シェーナに合唱が入って拡大されていますが、形式としては典型的なカヴァティーナ・カバレッタ形式に則っています。先ほど、喩えに持ち出した歌舞伎と同様、この、形式に則るということ、定められた矩の中で最大限の感情表現を行なうこと、ここにこそトロヴァトーレの魅力の一端があります。それはベルリーニやドニゼッティにより完成させられ、ヴェルディに受け継がれた形式美というものです。更に言えば、トロヴァトーレにはこの様式の完成と同時に、前作のリゴレットもそうですが、早くもその解体の過程が始まっているところにも魅力があるのですが、カラヤンの隈取のはっきりとした表現は、この形式美を夏の太陽のようにくっきりと照らし出すと共に、内在する衝動が形式の軛を破ろうとしているところについては、その光は混乱を混乱として露わにしているようにも思われます。ユーゲントシュティルを地でいくようなR.シュトラウスなどに対するカラヤンの偏愛を思うと、一見ことは逆のようにも思われますが、ここでのカラヤンは、形式の呪縛の中でより自在に息をしており、逆にその束縛が弱い箇所では不安にも似た表情を垣間見せるのです。
このオペラの第1部を構成する3つのナンバーは全てこのカヴァティーナ・カバレッタ形式を下敷きとしており、他の3部ではその解体が見られますが、カラヤンの指揮が本当に輝かしいのはこの第1部なのであって、その他の3部については、形式の溶け具合に応じて白熱した剛毅さよりも纏綿たる情趣のほうが勝っているように思われます。イタリアオペラとしては熱量がやや少ないというネガティブな見方もできるかもしれません。
これはカラヤンの解釈の問題でしょうか、それともヴェルディのトロヴァトーレの持つ本質的な欠陥、というのが言いすぎなら限界といってもいいですが、そういうものに起因するのでしょうか。その問いに答えることは、問い自体の正当性の有無も含めて困難ですが、一つだけ言えることは、ヴェルディはこのトロヴァトーレでベルリーニ以来のベルカントオペラの完成を成し遂げ、同時にその解体に向かっていったが、解体の果てに新たな様式の誕生と呼ぶに足る美的構造を生み出すには、その後「シチリア島の夕べの祈り」から「ドン・カルロ」に至る10年以上の歳月を必要としたということです。つまり、トロヴァトーレには輝かしい完成と同時に、苦渋に満ちた模索の始まりが刻印されており、カラヤンはこの作品を(セラフィンのように)徹頭徹尾輝かしい歌で覆い尽くすのではなく、様式の推移をなんとか描き分けようと心を砕いているように思われてなりません。その結果現れたものは、歌合戦になりがちなこの作品には類まれな、陰影に満ちた悲劇的世界の表現でした。
誤解のないように言えば、セラフィンのアプローチは本当に規範となるべきもので、十全なイタリアオペラの解釈としては正しいのだと思います。それでもカラヤンをより好むかどうかは、もう個人の趣味嗜好としかいいようのない問題なのでしょうね。
(この項続く)
# by nekomatalistener | 2011-09-13 23:32 | CD・DVD試聴記 | Comments(6)

ヴェルディ 「イル・トロヴァトーレ」 カラヤン(その2)

あるブログで「護身用ターミネーター」という言葉を発見。
ひょっとして売っているのなら、ほしい。



カラヤンのトロヴァトーレを聴くと標榜しておきながら、先ほどセラフィン聴いてました(笑)。一応、規範となる演奏ですからね。データをつけておきましょう。

 マンリーコ・・・・・・・カルロ・ベルゴンツィ
 レオノーラ・・・・・・・アントニエッタ・ステッラ
 ルーナ伯爵・・・・・・・エットーレ・バスティアニーニ
 アズチェーナ・・・・・・フィオレンツァ・コッソット
 フェルランド・・・・・・イーヴォ・ヴィンコ
 ルイス・・・・・・・・・フランコ・リッチャルディ
 セラフィン指揮ミラノ・スカラ座o,cho(1962年7月録音)
 CD:DG00289 477 5662

錚々たる、といいますか。先日、カラヤンのディスクについて「カラスを聴くための録音」と書きましたが、これは裏を返せば、人様にお薦めする際のファーストチョイスとしてはちょっとどうだろうか、という事です。多分沢山の方が、カラスはともかく、カラヤンのトロヴァトーレって真正なイタリアオペラとしてどうなのよ?と思ってらっしゃるということは重々分かっております。
世評に従えば、ファーストチョイスはなんといってもセラフィン盤でしょうね。ええ、そうです、そうですとも。でもね、こんなこと言うと袋叩きに会いそうですが、コッソットは美声過ぎて邪悪さがないし、ベルゴンツィは松竹新喜劇みたいなくさい泣きが入るし、ステッラはカラスと比べたらもう(自主規制)だし。
私はカラヤンの、ファーストチョイスとはなり得なくとも、時に規範からはみ出てしまっても尚、ヴェルディの本質に迫ろうとする演奏を愛して止みません。その魅力をもう少し書き連ねてみたいと思います。

ところで、前回第一部のレオノーラのアリアについて、カバレッタの繰り返しが省略云々と書きましたが、セラフィン盤も同様で、しかもイネスのセリフはレオノーラと重なって歌われていました。まったくいい加減な記憶です。批判めいたことを書くときはよくよく調べてみなければなりませんね。スコアではどうなっているのか、ご存じの方の御教示をお待ちしております。

第2幕、というより第2部と称したほうが正確ですが、古い録音のせいもあるけれど冒頭のジプシーの合唱(アンヴィル・コーラス)が物凄く荒削りに歌われています。え、なに、素人さん?と思うほど。しかし一度聴いてしまうと、プロの磨きあげた歌い方では物足らなくなります。

 Vedi! Le fosche notturne spoglie
 De' cieli sveste l'immensa volta;
 Sembra una vedova che alfin si toglie
 I bruni panni ond'era involta. 
 All'opra! all'opra!
 Dàgli, martella.
 Chi del gitano i giorni abbella?
 La zingarella!
 Versami un tratto; lena e coraggio
 Il corpo e l'anima traggon dal bere.
 Oh guarda, guarda! del sole un raggio
 Brilla più vivido nel mio/tuo bicchiere! 
 All'opra, all'opra...
 Dàgli, martella...
 Chi del gitano i giorni abbella?
 La zingarella!

 見よ!大空が闇夜の帳を
 払いのけるのを!
 まるで黒い喪服を脱ぎすてる
 未亡人みたいに。
 働け!働け!さあ!金槌を!
 ジプシーの日々を明るくするものはなんだ?
 そりゃジプシーの女さ!
 酒をくれ。酒は体に強さを、
 心に勇気を与えてくれるのだ。
 おお見るがいい!太陽の光に
 俺の/お前のグラスが輝くのを!
 働け!働け!
 ジプシーの日々を明るくするものはなんだ?
 そりゃジプシーの女さ!

 第3部の兵士の合唱もそうですが、これならオペラがはねた後、食事をして酔っぱらったイタリアのおじさん達も機嫌よく歌いたくなるというもの。ヴェルディの合唱が本当にプロでなければ歌えなくなるのはもう少し後、「仮面舞踏会」や「ドン・カルロ」の対位法的・立体的な合唱をヴェルディが書くようになってからです。この荒さは後年のカラヤンなら許さないかもしれませんが、これはこれで1956年当時のカラヤンの、センスの賜物と思いたい。
続くアズチェーナとマンリーコのやり取り、バルビエリのアズチェーナが少し物足りません。それなりにドスも効いてるのですが、いかんせんカラスの後に登場して割を喰った感じです。ステファノもおとなしめ。こちらはまぁ母親の前で神妙に話を聞く立場なので仕方がないか。
終わり近く、伯爵の、従者達の合唱を交えたアリアのカバレッタ Per me, ora fatale, i tuoi momenti affretta の自在なテンポ、スカラのつわものどもを引きずりまわすカラヤンの剛腕は圧巻です。
そして第2部フィナーレ、またもやカラスの登場で俄然音楽が引き締まります。レオノーラのカヴァティーナの、Può fra gli eletti al mio perduto beneというところのカラス独特の含み声に鳥肌が立つ思いです。ここからはもう頭を垂れて音楽を聞くのみ。私は、無理だらけの絵空事のお話が、すぐれた歌手と指揮者によって、血の流れている真実に昇華していくこの瞬間がたまらなく好きです。
(この項続く)
# by nekomatalistener | 2011-09-11 00:37 | CD・DVD試聴記 | Comments(3)

ヴェルディ 「イル・トロヴァトーレ」 カラヤン(その1)

会社で普段あまり話すことのない技術屋(26歳、ちなみに私は48歳)と昼飯食いながら話をしていた時のこと。「○○さん(私の2段階くらい上の上司)いつまでも帰らへんから『はよ帰れ~エコエコアザラク』て呪文唱えとなったわ」と私が言うと、目を輝かして彼が食いついてきた。おおっ君、エコエコアザラク知ってんのか、同志よ!と一瞬思ったが、私の頭の中には漫画(1975年連載開始)、やつの頭ん中は映画(1996年公開)、どうも噛み合わない。却って自分の歳を痛感して萎える。


東京初台の新国立劇場2011/2012年シーズンの開幕はご存じヴェルディの「イル・トロヴァトーレ」。今回はこの作品を聴いていきます。音源は1956年カラヤン盤。


 マンリーコ・・・・・・・ジュゼッペ・ディ・ステファノ
 レオノーラ・・・・・・・マリア・カラス
 ルーナ伯爵・・・・・・・ローランド・パネライ
 アズチェーナ・・・・・・フェドーラ・バルビエリ
 フェルランド・・・・・・ニコラ・ザッカリア
 ルイス・・・・・・・・・レナート・エルコラーニ
 カラヤン指揮ミラノ・スカラ座o,cho(1956年8月録音)
 CD:Naxos8.111280-81

イル・トロヴァトーレという作品の、ヴェルディの創作史の中の位置付けについては後日改めて触れるとして・・・
この録音、一言でいうならカラスを聴くための録音という気がします。ステファノもパネライも素敵ですが、カラスのレオノーラがあまりにも凄すぎる。レオノーラという人物造形そのものがまるで彼女の為に書かれたような、と言いますか。第1幕、フェルランドと夜警をする従者達の場面の後のレオノーラの大アリア、典型的(あるいは因習的)なカヴァティーナ・カバレッタ形式のアリアですが、最初の拡大されたシェーナで早くもカラスの本領発揮。戦くような、あるいは熱に浮かされたような歌唱に、聴く者は一気にドラマに引きずり込まれ、冷静さを失ってしまいます。

  Ne' tornei. V'apparve
  Bruno le vesti ed il cimier, lo scudo
  Bruno e di stemma ignudo,
  Sconosciuto guerrier, che dell'agone
  Gli onori ottenne... Al vincitor sul crine
  Il serto io posi... Civil guerra intanto
  Arse... Nol vidi più! come d'aurato
  Sogno fuggente imago! ed era volta

  馬上試合の時よ。そこに、
  黒い甲冑と黒い兜をまとい、
  黒い盾には羽飾りもなく、
  見知らぬ戦士が現れ、
  優勝の栄誉を勝ち取ったのです。
  私は勝者に王冠をさずけました。
  それから戦争が起こって・・・もうあの人を見ることはなかったのです。
  まるで黄金の夢の中の出来事のよう。

こんな録音残されたら後世の歌手はたまったもんじゃないでしょうな。誰が歌ってもカラスとの比較を免れないでしょうから。ある意味罪つくりなお方です。
続くカヴァティーナ、殆ど荒唐無稽に近いお話の中の人物なのに、何という存在感、実在感。

  Tacea la notte placida
  e bella in ciel sereno
  La luna il viso argenteo
  Mostrava lieto e pieno...
  Quando suonar per l'aere,
  Infino allor sì muto,
  Dolci s'udiro e flebili
  Gli accordi d'un liuto,
  E versi melanconici
  Un Trovator cantò.

  音もない静かな夜のこと、
  おだやかな空には美しい月が、
  銀色の丸いお顔を
  幸せそうに見せていました。
  その時、それまで大層静かだったのに、
  空気を鳴り響かせるみたいに、
  あまく切ないリュートの調べが
  聞こえてきたのよ。
  一人のトゥルバドゥールが
  物悲しい歌を歌っていたの。

カバレッタは技術的にもきわめて優れた歌唱です。カラヤンの指揮もカラスに寄り添って、彼女への奉仕だけを考えているようです。カラヤンの指揮は、後年唯我独尊というか、歌手の個性は二の次というスタイルに変わっていき、今となっては様々な毀誉褒貶が付いて回るけれども、この頃の彼の指揮はやっぱり他の追随を許さないものがあります。カラヤンの先祖はマケドニアの貴族だったそうですが、大げさにいえばゲルマンとは違うそのマケドニアの血が、ギリシャのディーヴァの血と共鳴しているような気がする。
カバレッタの繰り返しは省略されていて、おかげで侍女イネスのセリフもカットされています。こういう因習的カットは私の好むところではないけれども、これだけの演奏を聴かされたらもう何の不満もありません。

第1幕のフィナーレはルーナ伯爵・マンリーコ・レオノーラの三重唱。マンリーコの第一声、最初聴いたとき、えらく音程外しているように聞こえました。何度も聴いていると気にならなくなりますが、ステファノのちょっと脳天気なスタイルが今となっては違和感がある、ということでしょうか。
でも同時に、彼が全盛期どれだけイタリアで人気があったかもよく分かるような気がします。実際に舞台で聴いたら私も熱狂したに違いない。

  Deserto sulla terra,
  Col rio destino in guerra
  E sola spese un cor
  Al Trovator!
  Ma s'ei quel cor possiede,
  Bello di casta fede,
  E d'ogni re maggior
  Il Trovator!

  武運拙く 
  この地に独り、
  唯一の望みは心にのみ
  詩人に捧げられし心にのみ。
  だがもし操ただしきその心、
  己がものに出来たなら、
  彼は全ての王にぞ勝れりし、
  トゥルバドゥールぞ勝れりし。

これこそイタリアの歌。いや、やっぱり凄いや。脳天気だろうが何だろうが、合理的発声法と違ってようが、これぞイタリアのテノール、ディ・ステファノ。不遇の晩年と悲劇的な死に思いを至らせ胸が詰まる。
最後のメーター振り切れそうな三重唱に至ってはもう何もいうことがありません。血沸き肉躍るとはこのことでしょう。
(この項続く)
(対訳はhttp://www.opera-guide.ch/というサイトの英訳からの拙訳です。重訳ということもあって多分ニュアンスが違うとか、いろいろあると思いますが御容赦ください)
# by nekomatalistener | 2011-09-09 00:13 | CD・DVD試聴記 | Comments(8)