ブリテン 「真夏の夜の夢」を聴く

私は例えば上司に向かって「本気で怒らせないよう、でも反対意見をきちんと伝えるべく手加減しながら反論する」みたいなことを「甘噛み」と言ってたのだが、ある人から「それは乳首に対して使う言葉!」と訂正された。そうなの?





7月に佐渡裕が指揮するブリテンの「真夏の夜の夢」を観にいくにあたり、少々予習をしております。
ブリテンの1ダース以上もあるオペラについては、以前「ピーター・グライムズ」「ビリー・バッド」「カーリュー・リヴァー」をこのブログで取り上げてきました。他にも音源は買い込んであるのですがなかなか腰を据えて聴くところまでいかず、今回ようやく重い腰を上げて聴き込んだ次第。
①は購入してそのままになっていた音源。それにはリブレットも対訳も附いておらず、省略や入れ替えはあるものの殆どシェークスピアの原文をそのまま用いた歌詞を理解するのは私にはかなりハードルが高い。という訳で日本語対訳が欲しくて図書館で②の音源を借りてきた。両者の聴き比べは後程。

 ブリテン「真夏の夜の夢」Op.64
 音源①
 オーベロン: アルフレッド・デラー
 タイターニア: エリザベス・ハーウッド
 パック: スティーヴン・テリー
 シーシアス: ジョン・シャーリー=カーク
 ヒポリタ: ヘレン・ワッツ
 ライサンダー: ピーター・ピアーズ
 ディミートリアス: トーマス・ヘムズリー
 ハーミア: ジョセフィン・ヴィージー
 ヘレナ: ヘザー・ハーパー
 ボトム: オーウェン・ブラニガン
 クインス: ノーマン・ラムズデン
 フルート: ケネス・マクドナルド
 スナッグ: デヴィッド・ケリー
 スナウト: ロバート・ティアー
 スターヴリング: キース・ラゲット
 ダウンサイド・スクールおよびエマニュエル・スクール合唱団
 ベンジャミン・ブリテン指揮ロンドン交響楽団
 1966年9月23,25-28日・10月3・5日録音
 CD:DECCA478 544 8

 音源②
 オーベロン: ブライアン・アサワ
 タイターニア: シルヴィア・マクネアー
 パック: カール・ファーガスン
 シーシアス: ブライアン・バナタイン・スコット
 ヒポリタ: ヒラリー・サマーズ
 ライサンダー: ジョン・マーク・エインズリー
 ディミートリアス: ポール・ウィーラン
 ハーミア: ラビー・フィロジーン
 ヘレナ: ジャニス・ワトソン
 ボトム: ロバート・ロイド
 クインス: グウィン・ハウエル
 フルート: イアン・ボストリッジ
 スナッグ: スティーヴン・リチャードソン
 スナウト: マーク・タッカー
 スターヴリング: ニール・デイヴィス
 ニュー・ロンドン児童合唱団
 コリン・デイヴィス指揮ロンドン交響楽団
 1995年12月録音
 CD:Philips PHCP5384

*登場人物の日本語表記はあまり定まっておらず、タイターニアのかわりにタイテーニアあるいはティターニア、シーシアスのかわりにシーシュースなどと表記されることも。

最初にどうでもいい話だが、タイトルについて最近は「夏の夜の夢」とする場合が多いようだ。そもそもMidsummerは夏至のことであって「真夏」というのが誤訳だとする説によるものだろう。私のごく個人的な意見だが、ながらく「真夏の・・・」で定着してきたこと、またそのほうが日本語としてもリズムが良いこと、夏至だろうが真夏だろうが、どのみちイギリスの気候風土や聖ヨハネ祭にまつわる様々な含意を普通の日本人が思い浮かべることはタイトルだけでは不可能なこと、等々で「真夏の・・・・」で良いのではないかと思っています。要はちょっと昔の映画、例えば「慕情」でも「望郷」でもなんでもいいが、原題とまったく違うからといって誰も咎めることがないのと似たようなものだろう。

シェークスピアの原作は5幕構成で、もちろんそのままでは一夜のオペラのリブレットとしては長すぎます。ブリテンは原作冒頭のシーシアスの宮殿の場をそっくりカットし、ハーミアの父イージーアスや臣下フィロストレートの登場場面もカットして最後の劇中劇の場以外はすべて森の中に絞り込んでいます。登場人物の饒舌で多分に装飾的な台詞もかなり刈り込まれていますが、(精査した訳ではないので感覚的ではあるけれど)ボトム以下の職人たちの会話は比較的カットが少ないように思います。
シーシアスとヒポリタの場面が短縮された為に、原作では
a1.貴族の中でも最も権力の大きい者
a2.貴族の若者
b.職人
c.妖精
という4グループに登場人物が分けられていたのに対し、オペラのほうでは
A.貴族
B.職人
C.妖精
という3グループにいわば圧縮されていて、ブリテンの音楽もほぼこの区分に従って3つのタイプにカテゴライズできるように思われます。

Aの貴族のカテゴリーについては、最後の劇中劇を別にすると、極めてシリアスで劇的な音楽。4人の恋人達の音楽だけ聴いているとこれまで私が聴いた陰惨なオペラの音楽とそんなに変わらないような気がします。ハーミアとヘレナが罵り合う場面で幾分喜劇的な要素が感じられるものの、基本は人間のリアルな愛憎をヴェリズモ・オペラさながらに描いたと言えなくもない。
戦後の前衛的な音楽の動向にはほとんど興味を示していないブリテンだが、完全に保守的とか伝統的というのとも少し違う。パリ時代のストラヴィンスキーやヒンデミットとブリテン、この3人の音楽語法というのはそれぞれ全然違うのだが、調性の体系を拡大して独自な語法としていくところは共通している。ただ誤解を恐れずにいえば、ストラヴィンスキーは常に未来を見つめながら自分の耳だけを頼りに極めて感覚的に書いているような気がするのに対し、ヒンデミットは過去に向き合いがら理論的に調性の拡大を図っている。ブリテンは当時のイギリスの保守的な音楽界や映画音楽などをたくさん書いた経験を踏まて、彼なりにコンテンポラリーな音楽を書いたのだろうが、背景には終生敬愛していたアルバン・ベルクのロマンティックな音楽への憧憬があることは確かだと思います。

次にBの職人たちの音楽だが、これが全体の中では一番面白く生気に溢れていて、ブリテンはさぞ嬉々としてこの音楽を書いたのだろうと想像できます。基本的にはブッフォな音楽だが、中でも注目すべきだと思われるのは、ロバの頭を被せられたボトムが仲間においてけぼりを食らって歌う"The woosell cock, so black of hue"。タイターニアの短い歌を挟んで2節あるのだが、まさにベルクの「ヴォツェック」を思わせるような面白さがある。そもそも妖精界と人間界というのは(妖精が人間の目には見えないこともあって)基本的に交わらないのだが、この歌をきっかけに二つの世界が交わるようになる。そこで、ヴォツェックのような正気と狂気を行ったり来たりする音楽に似通った音楽を書いたのだろうと想像します。
また第3幕の職人たちによる劇中劇の場は、まさかのイタリア・オペラのパロディーになっています。ピラマスに扮したボトムの歌う"Grim-look'd night!"はヴェルディのバリトンのアリアさながら。ここはブッフォではなく、シモン・ボッカネグラにでもなったつもりで大真面目に歌ってほしいところです。シスビーに扮したフルートの歌はドニゼッティの「ルチア」を初めとする狂乱のアリアのスタイルで書かれていますが、最初調子っぱずれに歌い始めて笑わせながら、最後はたいそう技巧的なアジリタを披露します。このアジリタが歌えなければ話にならないので、フルート役の歌手にはレジェロなハイテノールが必要でしょう。

最後にCの妖精の音楽だが、弦のグリッサンドやチェレスタの響きで幻想的な雰囲気を醸し出すところは、まあ常套的といってよいのかも知れません。ここで私が注目したのはまず第1幕のオベロンの歌"I know a bank where the wild thyme blows”。ここはバロックオペラの様式で書かれていて(私はよく言われるパーセルよりはモンテヴェルディのモノディーに近いような気がしました)、とても魅力的。タイターニアのパートはどこも素晴らしいですが、ロバ頭のボトムと添い寝するところは全曲の中で最も官能的な(ブリテンにしては、という意味だが)音楽で書かれています。

ボトムとタイターニアの場の官能性に言及しましたが、よく考えてみると貴族の若者たちの場というのは、基本的に純潔とか貞操といったものに価値をおく世界なのでそもそも性的な要素というのは希薄にならざるを得ません。例えばヘレナがディミートリアスに対して、私をスパニエル犬のように打ってという台詞には誰しもマゾヒズム的な意味を嗅ぎとろうとするはずだが、ブリテンは賢明にもこの台詞にパストラル風の新古典主義的な音楽を附けて、過度な官能性を排除している。職人たちはというと、こちらは男ばかりの世界なので少なくとも表向きは官能の描写というのとは無縁(実際にはフルートの"Nay, faith,let me not play a woman;I have a beard coming.”という台詞でもって彼らの職人階級のホモソーシャルとホモフォービアの桎梏の問題がそれとなく示唆されているようにも思うのだが・・・)。対するに妖精の世界というのは人間界のモラルや性的タブーには全く縛られていない(この劇の発端はそもそも、インドの王様のところから盗んできた男の子をお小姓にした女王タイターニアと、その男の子を自分のものにしたくて仕方のない王オーベロンとの諍いであった)。モラルやタブーがあってこその官能、という訳で、人間のボトムと妖精のタイターニアが交わる場面(まさに禁断の愛だ)がもっとも性的なイメージを帯びるのは当然と言えば当然。もちろん原作でもオペラでも、タイターニアとボトムの間でどこまでの行為があったのかは何も書かれてはいないけれど、この芝居のなかで性的な交渉があったとすればこの二人の間にしかありえないのは事実。
次に、ではなぜこの場面でボトムはロバ頭の間抜けな姿に変身したのか、という問いに対しては、ヤン・コットが『シェイクスピアは我らの同時代人』所収の「ティターニアとろばの頭」という章の中に端的にこう書いています。
「ボトムはやがてろばの姿に変えられる。だがこの悪夢に満ちた夏の夜においては、ろばは通常の場合のように愚鈍さを象徴するのではない。古代からルネサンスまで、ろばという動物は、とたえばアプレイウスの『黄金のろば』の挿話が示すように、最も強い性的能力をもっていると信じられていたのであり、あらゆる四足獣の中で、いちばん長くいちばん堅い男根をもっていると考えられていたのだった。」
(ヤン・コット『シェイクスピアはわれらの同時代人』蜂谷昭雄・貴志哲雄訳、白水社)
ヤン・コットの分析というのはその精神分析的なアプローチなど、間違いとは言えないまでも、既に現代においては批判的に読まれるべきところも多いと思われます。しかしいまこうして改めて読み直すと、ブリテンのような、性的マイノリティ故にオペラの題材一つとってもそこに内在するエロスの要素に敏感かつ意識的にならざるをえなかった作曲家の作品を理解するには、恰好の補助線となりうると思いました。

演奏について少しだけ。
まず①の演奏だが、単に作曲者が指揮しているから、とか初演の時の主要メンバーによるとかいう以上に、これほど作品の世界観まで感じさせる演奏というのは稀だろうと思います。かつてのDECCAがその技術・ノウハウのすべてを注ぎ込んだであろう録音は本当に素晴らしく、夜の森のひんやりとした空気におもわず鳥肌が立つほどだ。歌手については個別にあれこれ言うのも愚かに思われるほど粒が揃っています。デラーのカウンターテナーなど、演奏スタイルとしてはもちろん古いのだけれど、一度聴いてしまうとこれ以外にありえないだろうと思ってしまいます。
②のコリン・デイヴィスは、例によって真摯で明晰、しかも情熱にも事欠かない良い指揮だと思いますが、①と比べると残念ながら何かが足りないと言わざるを得ません。予想通り、デイヴィスのある意味とてもリアリスティックな指揮というのは、Aの貴族たちの音楽にはとてもよく合っていて成功していると思いますが、Bの職人、Cの妖精の音楽は真面目なだけでは歯が立たないといった感じがします。ブライアン・アサワのカウンターテナーやシルヴィア・マクネアーのコロラトゥーラなど、②の歌手のほうが技術的な面ではむしろ①を上回っていると思いますが、それだけでは満足できない、というのも実に贅沢な話ではあります。もっとも、②がことさらレベルが低いというのではなくて、もっと高い次元での微妙な差異について述べたつもりなので、これから音源を求めようと思われる方には正直どちらでも良いのではと思っています。

ついでながら、Youtubeで簡単に観れる動画としては、エクサンプロヴァンスで大野和士が振った舞台の録画がとても面白いと思いました。ロバ頭のボトムとタイターニアの場は微妙にエロくて作品の本質をきちんと押さえていると思います。さて7月の兵庫県立芸術文化センターでの公演、どんな舞台が観れるのか。お子様向け人畜無害な舞台でなければ良いのだけれど・・・。
(この項終り)
# by nekomatalistener | 2016-07-05 01:19 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

Olivier Messiaen Complete Editionを聴く(その3)

「朝の声掛け運動」なるものに駆り出されて「おはようございます」の連呼。でも50回目くらいになると「おはいおごじまー」とか「おあごやー」とか、もはや原型を留めていない。





今回は大作「鳥のカタログ」。

  CD5~7
  鳥のカタログ
    第1巻
      1.キバシガラス※
      2.ニシコウライウグイス※
      3.イソヒヨドリ
    第2巻
      4.カオグロサバクヒタキ※
    第3巻
      5.モリフクロウ
      6.モリヒバリ
    第4巻
      7.ヨーロッパヨシキリ
    第5巻
      8.ヒメコウテンシ
      9.ヨーロッパウグイス
    第6巻
      10.コシジロイソヒヨドリ
    第7巻
      11.ノスリ※
      12.クロサバクヒタキ
      13.ダイシャクシギ

  Pf:ロジェ・ムラロ
  1999.2ライブ録音

※タイトルの鳥の種名について。
第1曲「ベニアシガラス(ベニハシガラスの誤記?)」と書いてある文献もあったが、Chocard des Alpesに対応する英語名Alpine Choughの和名はキバシガラスが妥当。ただしキバシガラスの学名は楽譜の扉に記載されているラテン名Corasia graculusではなくてPyrrhocorax graculusが正しいようだ。
第2曲「キガシラコウライウグイス」「コウライウグイス」と書いてあるものもあるが、Loriot(仏)Oriolus oriolus(羅)Golden Oriole(英)の和名はニシコウライウグイスが妥当。
第4曲「カオグロヒタキ」と書いてあるものがあるがTraquet Stapazin(仏)Oenanthe hispanica(羅)Black-eared Wheatear(英)の和名はカオグロサバクヒタキが妥当。
(以上3件は偶々手元に楽譜があったので確認できたけれど、wikipediaもピティナ・ピアノ曲事典もナクソス・ミュージック・ライブラリーも、殆どの無責任な個人ブログ同様間違いだらけということがよく判る事例)
第11曲「ノスリ」Buse variable(仏)Buteo buteo(羅)Buzzard(英)は正確には日本のノスリButeo japonicusとは別種のヨーロッパノスリだがごく最近まで同種とされていたので単にノスリとしておく。


今年の東京のラ・フォル・ジュルネでピエール=ローラン・エマールが「鳥のカタログ」を取り上げたり、最近では児玉桃・大井浩明・中川賢一といった人達が全曲演奏会をするなど、ここ数年の日本における「鳥のカタログ」の受容には目を見張るものがあると思います。メシアンのピアノ作品としては「嬰児イエズスに注ぐ二十の眼差し」が突出して人気があるのに対して、この「鳥のカタログ」はメシアンの中でもかなり辛口の音楽であって、これが一定の広がりをもつ聴衆から認知される事態というのは一昔前には想像もつかなかったことでした。
戦後の「音価と強度のモード」で一躍前衛音楽の最前線に躍り出たものの、やがてその流れとは一線を画することとなったメシアン。この時期、伝統と前衛のどちらにも与せず孤高の道を歩んでいたメシアンにとって、「鳥の歌」は音楽語法の最大の武器であり、1956年から58年に書かれた「鳥のカタログ」はその語法のネタ帳でもあり、試作の場でもあり、同時に完成品に磨き上げられた作品でもある、といったところでしょうか。
そこには通常の意味でのエンターテイメント性や音楽の愉しみといったものは皆無とはいわないがとても少ない。その点で「嬰児イエズスに注ぐ二十の眼差し」のような、今やPTNAのアマチュアコンクールでも時々弾く人がいるといった事態は少し考え難いかも知れません。また同時代あるいは後世への影響という点では「音価と強度のモード」のような革新的なイディオムは実はあまりなくて、「カンテヨージャーヤー」なんかのほうがよほど重要に思われるほど。いずれにしても、10年後20年後に、この作品がさらに広い聴衆を獲得するに至るのかどうか、非常に関心のあるところではあります。

この作品に接する時いつも思うことですが、作曲者はこれを耳で聴くだけでなく楽譜を見ながら聴くことを期待していたのではないかと思われてなりません。楽譜のほとんどどのページにも、今鳴いている鳥の名前、鳥以外の様々な事物(蛙や蝉や植物、海や池や氷河など)、夜明けであるとか日没であるとかの背景が書き込まれていて、良くも悪くも紙芝居めいたところもあり、こういったテキストを知らずにタイトルのイメージ、あるいはそれすらなく抽象的な音の運動としてこれらの作品を聴くということは如何にも片手落ちという感じがします。もちろん、この作品は抽象的な音の運動として聴いても十分面白く、退屈することもないのだが、歌詞の内容を知らずにオペラや歌曲を聴くことと同じく、それだけでは正しく作品を受容したとは言えない気がする。もし楽譜が入手できるなら是非ご覧になることをお勧めします。
例えば演奏に30分を要する大曲「ヨーロッパヨシキリ」には20種類近い鳥たちの歌の他に、蛙の合唱や、あやめ、睡蓮、ジギタリスなどの植物があらわれ、楽譜のあちこちに夜明けから日没までの具体的な時間(たとえば午前10時など)の書き込みがある。また全曲のなかでももっとも急進的な「コシジロイソヒヨドリ」には鳥だけでなく、ステゴザウルスやディプロドクスの化石なんてものが現れる(もしかしたらサン=サーンスの「動物の謝肉祭」からの連想?)。耳だけで聴くとほとんどセリエリスムの音楽と見紛うばかりだが、書き込みを見ていると映画「ナイトミュージアム」ばりのファンタジーに溢れた音楽にも聞こえる。たとえば小学生くらいの子供に、楽譜の書き込みを読みながら聴かせたなら、とても面白がってくれるんじゃないかな。
こんなことをつらつら書いていると、はからずも音楽の二つのありかた、いわゆる絶対音楽と標題音楽との対立とか止揚といったものをメシアンが念頭に置いていたように思われてきます。高度に抽象的な現代音楽としての顔と、ほとんどリヒャルト・シュトラウスの「アルプス交響曲」並みに具体的・描写的な音の絵巻物(そこには良い意味での通俗性もたっぷりと含まれている)としての顔、その両方を作曲者は聴く者に感受してもらいたかったのでは、と思います。
だがネットで検索するとけっこう「鳥のカタログ」について書かれた記事は沢山見つかるのだが、この夥しい楽譜への書き込み(特に鳥以外の要素)を丹念に追ったものは残念ながらほとんど見当たらない。いずれもう一度この作品に立ち戻って自分で書こうか、と思った次第。


ムラロの演奏はそのややモノクロームな響きのせいか、具象的な題材を用いながらも高度に抽象的に響くこの作品の性格にそれなりに合致していると思われます。コントラストのきつい(だがめっぽう面白い)ウゴルスキー盤と好対照だが、ムラロの路線をもっと徹底しているのはピーター・ヒルかも知れません。夥しい種類の鳥の鳴き声の中でも、めくるめくようなテンポで気が遠くなるほど長く鳴きつづける鳥たち(例えば2曲目に登場するニワムシクイとか7曲目のヨーロッパヨシキリ、12曲目のミナミノドジロムシクイなど)の声は、ムラロは猛烈によく回る指で一気呵成に弾いたという感じだが、ウゴルスキーはスピードよりも打鍵の深さを求めているのか、一見ダサく、もっさりして聞こえる。またスタジオ録音のウゴルスキーに対して、ムラロはライブ録音(途中2回の聴衆の拍手も入っている)で、もちろん多少の修正はあるのでしょうが実演でこれだけ弾ければ大したものであるし、「一気呵成」に聞こえるのもライブならではのことなのだろう。だが聴いていて息が詰まるような、一種恐怖にも似た感銘を受けたのはウゴルスキーのほうでした。まぁこの辺りは優劣というより個人の好き嫌いの問題だろうと思います。
(この項続く)
# by nekomatalistener | 2016-06-05 02:07 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

蓮實重彦氏の記者会見について(雑談)

東の「聚楽よ~ん」に対抗できるのは西だとやはり「明日への活力」ですかね。





蓮實重彦氏の三島賞受賞の記者会見が話題になっている。文字に起こしたものを読むとなかなか痛快であるが、動画を見てみると、絶滅危惧種の珍獣をカメラの前に引きずり出して、みんなで恐々棒で突いているような感じがなきにしもあらず。記者の不勉強ぶりには、大手新聞社の学芸部員にしてこの程度かと暗澹たる気分になるが、蓮實氏の回答はある意味誠実すぎるほど。
以下の引用元はハフィントンポストより。
http://www.huffingtonpost.jp/2016/05/16/hasumi-mishima_n_9998942.html

・・・・・・

――わかりました。黒田さんの世界には若々しさがあると。私は蓮實さんの作品に若々しさを感じたのですが、そういう風にご自身で理解はされていたりしますか。

黒田さん(の作品)は傑作であり、私の書いたものは到底傑作といえるものではありません。あの程度のものなら、私のように散文のフィクションの研究をしているものであれば、いつでも書けるもの。あの程度の作品というのは相対的に優れたものでしかないと思っております。

(中略)

――逆に伺いたいのですが。研究者の目で「相対的に優れたものでしかない」と思いながら、小説というものは書いたりできるものなのでしょうか。やっぱり何か情熱やパッションがなければ書けないと思うのですが。

情熱やパッションは全くありませんでした。専ら、知的な操作によるものです。

・・・・・・





蓮實氏の自己韜晦を多少差し引かねばならないと思いながら、この既視感はなんだろう、と思ったらコレ(文春の記事)でした。
(文春の元記事は手元にないので江川紹子氏の下記記事より引用)
http://bylines.news.yahoo.co.jp/egawashoko/20140206-00032407/



新垣隆
「彼(佐村河内氏)の申し出は一種の息抜きでした。あの程度の楽曲だったら、現代音楽の勉強をしている者なら誰でもできる、どうせ売れるわけはない、という思いもありました」

・・・・・・・




「だからなに?」と聞かれと困るけれど、こういった言葉は、創造とはなにか、芸術はどこからやってくるのか、といった問いを(多少逆説的ではあるけれど)改めて惹起するだけの力を持っているように思われる。このブログで折に触れて作曲家のメチエだのなんだのと書いてきたことも、私がストラヴィンスキーやヒンデミット、ハイドンといった、一見パッションとは無縁の乾いた音楽を書く人達に惹かれるのも、このような問いに導かれてのことだろう。ついでに言えば、この問いの周りをぐるぐる回っている限り、私にはこの、創造には「情熱やパッション」が不可欠だと思っている新聞記者や、「佐村河内守の交響曲」に心酔した人達を嗤う資格は無いのだと思う。
蓮實氏の『伯爵夫人』は掲載誌(新潮4月号)を買い逃して実は未読。6月に単行本が出るようなので改めて書く機会があるかも知れません。
(この項終り)
# by nekomatalistener | 2016-05-21 00:11 | その他 | Comments(0)

Olivier Messiaen Complete Editionを聴く(その2)

北京ダックの「全聚徳」の漢字を説明するのに、「しゅは「聚楽よ~ん」の聚」と説明して分かってもらえる世代。





このメシアン・シリーズ、気の向くまま順不同で聴いていきます。今回は「峡谷から星たちへ」。

 CD21/22
 峡谷から星たちへ(1974)
 第1部
  I.砂漠
  II.ムクドリモドキ
  III.星たちの上に書かれているもの・・・
  IV.マミジロオニヒタキ
  V.シーダー・ブレイクスと畏怖の賜物
 第2部
  VI.恒星の呼び声
  VII.ブライス・キャニオンと赤橙色の岩
 第3部
  VIII.甦りしものとアルデバランの星の歌
  IX.マネシツグミ
  X.モリツグミ
  XI.ハワイツグミ、ソウシチョウ、ハワイヒタキ、アカハラシキチョウ
  XII.ザイオン・パークと天上の都

  ピアノ: ロジェ・ムラロ Roger Muraro
  ホルン: ジャン・ジャック・ジュスタフレ Jean-Jacques Justafré
  シロリンバ: フランシス・プティ Francis Petit
  グロッケンシュピール: ルノー・ミュゾリーニ Renaud Muzzolini
  チョン・ミュンフン指揮フランス国立放送フィルハーモニー管弦楽団
  2001年7月録音

(タイトル邦訳はタワレコHPの楽曲紹介から拾ったが鳥の名前についてはどこまで学問的に正確なのか私には判断がつきません)

アリス・タリーの委嘱により作曲され、1974年にアメリカで初演。もともと1976年のアメリカ建国200年での演奏を目論んでいたもののようです。オーケストラはソリスト扱いされているピアノ・ホルン・シロリンバ・グロッケンシュピールの他に多数の管楽器や打楽器を含むが、弦楽器は13人しかおらず、あたかも巨大な室内楽といった響きが特徴的。
各楽章のタイトルを見ればお分かりの通り、グランドキャニオンなど大自然を描く音画(メシアンは1972年の春にユタ州を訪れている)、ピアノを中心とした鳥の歌、星に寄せる音楽、の3つの要素から成り立っています(天と地と、それを結びつける鳥、という構図)。
この自然の描写だが、風や砂嵐の直截な描写(エオリフォーンやジェオフォーンといった特殊楽器が使われている)と、随所に現れる調性も露わな甘ったるい旋律が特徴で、こういっては何だがかなり通俗的な感じ。しかも「トゥーランガリラ」ほどの溢れだすパワーというのはなくて、なんとなく隙間の多い音楽に聞こえる。ふとアラン・ホヴァネスの「そして神は偉大なる鯨を創り給うた」を思い出したといえば何となく雰囲気を理解していただけるだろうか。誤解を恐れずに言うと、少しチープなのである(それが悪いという訳ではないし、駄作と決めつけるつもりもない。それに、メシアン自身は大真面目でこの作品を書いているはずなので、チープという評価も畏れ多いという他ないのだが・・・)。
一方、鳥の歌についてはもうお手の物といった感じのいつものメシアン。ただ、この作品の直前に書かれた大作「ニワムシクイ」などと比べると、なんとなくエネルギーに乏しい感じがしなくもない。作曲当時60代の半ば。メシアン老いたりというほどの歳でもないのだが明らかに内包するエネルギーが低い。好意的に考えれば、それだけメシアンの自己主張が減って、自然・鳥・星の世界をありのままに描写しようとする態度になってきたと言えるだろうか。
メシアンが星にちなんだ音楽を書くと、いつも禍々しい響きになるような気がするが、第8曲「甦りしものとアルデバラン星の歌」はこの大作の中でも最も美しい楽曲だろうと思います。これだって通俗的といってしまえばそれまでなのだが、その甘い旋律とクロタルやグロッケンシュピールなど金属打楽器の煌めくような響きの魅力はやはり堪えられません。これだけ単独で何度も聴いてしまいそう。また第6曲「恒星の呼び声」はホルンのソロのための楽曲で、独立して吹かれることもあるといいます。官能とは正反対の、いわば体温を感じさせない不思議な楽曲。

余談ですが、いまブーレーズのアンサンブル・ドメーヌ時代の録音を集中して聴いているのですが、ブーレーズが取り上げるメシアン作品というのはものすごく偏りがあるのが面白い。具体的には「異国の鳥たち」とか「七つの俳諧」とか、とにかく甘い旋律が出てこない辛口の作品が多いということ。一方で「トゥーランガリラ」のような楽曲には全く関心がなかったようだ。その意味で、この「峡谷から星たちへ」も、ブーレーズが絶対に取り上げなかったであろうタイプの作品ということになるだろう。私自身はその甘ったるさとチープさに「どうしようもないなぁ」とつぶやきながら、それでもつい魔がさすように繰り返し聴いてしまうのがちょっと悔しい。

ムラロのピアノ、チョン・ミュンフンの指揮、いずれもこの作品にはほどよく合っているのだろうが、精緻さが過ぎてちょっと脂が抜け過ぎたきらいも。特にムラロのピアノは意外にモノクロームな感じがするが、いずれにしてもピアニストにとっては大変な難曲だろうと思います。
(この項続く)
# by nekomatalistener | 2016-05-15 00:41 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

いまさら「森の歌」を聴くということ

職場で「コントレールのアラタさんかっこいい」「アラタさん色気あり過ぎ~」とか君ら言うとるけど、横で聞いてるおぢさん達の頭には、せいぜい古田新太の顔しか浮かんでないと思うよ。





ラ・フォル・ジュルネびわ湖2016の催しの内、ショスタコーヴィチの「森の歌」と、それに寄せたレクチャーに行ってきました。

  2016年4月29日@びわ湖ホール
  レクチャー「森の歌」をめぐって~音楽・政治・社会~
   亀山郁夫×浅田彰

  スメタナ 「わが祖国」より モルダウ
  ショスタコーヴィチ オラトリオ「森の歌」Op.81
   二塚直紀(T)、片桐直樹(Bs)
   びわ湖ホール声楽アンサンブル
   ラ・フォル・ジュルネびわ湖「森の歌」合唱団
   大津児童合唱団
   日本センチュリー交響楽団
   ダニエル・ライスキン(指揮)


さて、拙稿のタイトルに掲げた「なぜいまさら森の歌なのか」という問いに最初に答えておくと、このラ・フォル・ジュルネびわ湖という一連の催しのテーマが「ナチュール」ということで、自然をテーマにしたプログラムが特色だというのだが、この「森の歌」のテーマはスターリンによる自然改造計画の一環である防風林の植樹であり、いまとなってはこの計画そのものがアラル海の消滅という凄まじい環境破壊の原因となったと言われている。それなのに「森の歌」。無邪気なのか無知なのか、それとも何か深謀遠慮のようなものがあるのか、演奏会だけならなんとも測りかねるところがあるのだが、それに先だってロシア文学の第一人者である亀山郁夫氏と、私たちの世代にとっては日本の知を代表する哲学者として知らぬ者のない浅田彰氏が「森の歌」をめぐってレクチャーを行うというので俄然興味が湧いたという次第。
そのレクチャーだが、想像以上に面白く知的興奮を味わいました。最初に亀山氏により「森の歌」の作曲の経緯が語られましたが、そこでは1937年のスターリンによる大粛清、1942年スターリングラード攻防戦、45年交響曲第9番の初演と48年のジダーノフ批判、そして何よりも49年3月16年にスターリンからショスタコーヴィチに直々に掛ってきた電話(その中でスターリンはジダーノフ批判によって殆ど失職中のショスタコーヴィチを宥め励ましたという)のことなど作品の理解に必要な事項が簡略に紹介されました。次に浅田氏が登場し、自由な対談形式でショスタコーヴィチを巡る様々な意見が交されました。
お二人の論点は詰るところショスタコーヴィチに限らず、なぜこの時代のロシアの作曲家達はこのようなプロパガンダ作品を書かねばならなかったのか、という問いに集約されるように思います。その幾つかを備忘を兼ねて記しておくと、
・ロシアでも革命前には様々なアヴァンギャルドな芸術の試みが行われていたが、1928年の第一次五ヶ年計画を機に社会主義革命が完成し、大いなる歴史の物語が終わった(モダンの終焉)。その後に芸術に求められたのは最早極左的小児病的な前衛ごっこではなくて社会主義リアリズムに基くものでなければならないとされた。つまりアヴァンギャルドの代わりとしてのポストモダン。
(この社会主義リアリズムの対語として資本主義リアリズムという言葉を考えた際、それにぴったり当てはまるのはウォーホルである、というのは如何にも浅田彰らしい見解だと思います。ソヴィエトのプロパガンダ音楽を、ウォーホルのキャンベルスープやモンローのシルクスクリーンのキッチュに準えるという見方はちょっと目から鱗が落ちる思いだ)。
・ショスタコーヴィチと権力の接触というのは三度あった。一つは1936年のプラウダ批判、二つ目は47年のジダーノフ批判、そして最後は1960年の作曲家同盟第一書記への任命と翌年のソヴィエト共産党入党。プラウダ批判の時は交響曲第5番で名誉回復し、ジダーノフ批判の時は森の歌を書いた。しかし3つ目の権力との接触により、ショスタコーヴィチは前衛を弾圧する側についた。このことは絶対に容認できないことであった。
(これまた浅田氏の面目躍如といった見解だと思うが、この3つめの接触こそ権力の恐ろしさを物語るものだろう)。
・アイザイア・バーリンの書簡に出てくる話だそうだが、1958年にショスタコーヴィチがオックスフォード大学の学位授与によりイギリスを訪れた際、私的なサロンコンサートが開かれ、同席していたプーランクも演奏した。その洒脱な演奏の後にショスタコーヴィチがピアノで自作の前奏曲とフーガを弾き始めると、空気が変わっていきなり19世紀のベートーヴェンやブラームスも斯くやといった苦悩に満ちた音楽家の姿が現れた。
この逸話が浅田氏から紹介されたのち、亀山氏より、「森の歌」もけっこうだけれど、それでショスタコーヴィチに興味を持たれたのならぜひ交響曲4番とか8番とかも聴いてみてほしい、あのような音楽を書いたという自負があったればこそ、易々と5番や森の歌のような踏み絵を踏んだのだ、といった話があり、レクチャーが締めくくられました。
非常に限られた時間であるにもかかわらず、この現代に敢えて「森の歌」を聴くために知っておくべきことはほぼ充分に語られていたように思います。あえていえば例のヴォルコフの「証言」に関するお二人の見解なども聞いてみたかったと思います。

さて肝心の「森の歌」だが、私の手元にはテルミカーノフがサンクトペテルブルク・フィルハーモニー交響楽団を振った1997年の録音があってこの日に先だって改めて何度か聴いてみた。やはりどうにもならない作品だと思ったが、とにかく実演を聴いたらどう思うか、多少の興味はあった。また、吉松隆氏のブログで森の歌の終曲が、ムソルグスキーの「ボリス・ゴドノフ」の終幕クロームイの森の場面の引用であるという記事を読んで大変興味を持ったこともある。
http://yoshim.cocolog-nifty.com/office/2006/09/post_3bc0.html

だが「森の歌」の終曲の4分の7拍子の合唱とボリスの合唱、共に変イ長調で確かに似てるといえば似てるが、さて本当にこれがボリスの引用かといえば微妙。もちろん、事実だとしてもあからさまにそれと判るような引用はするはずもない。このブログの記事に書かれている他の論拠も、状況証拠には違いないが決め手に欠けるという印象。こんなことも実演を通して考えてみたかったことだ。
しかし、400名近い公募による大合唱団や、バスが日本語で歌いだしたことでまずがっかり。別に原典にこだわるつもりはないのだが、この曲に限ってはロシア語で歌って、字幕にスターリン賛美の対訳が出ることで違和感を感じることが大事なはず。日本語ではまず言葉が聴きとりにくくて神経がそちらにいってしまうのが苛立たしいのと、スターリン賛美の側面はほとんど消えてしまうことが問題だろう。また大合唱団が悪いというつもりもないが、結局この演奏会が想定している客層はなんなのだろう、という疑問に行きつく。いまさら歌声運動の時代のオールドファン目当てという訳でもなかろう。ラ・フォル・ジュルネがクラシック音楽に対するハードルを下げて、多くの聴衆を集めることに成功したことを否定するつもりもない。しかし、ナチュール=自然=森といった安易な企画(レクチャーは別だが)、それにモルダウ・プラス壮大な合唱で感動する人達が対象だというなら、やはりこの選曲はいかがなものか、という気がする。現代において「森の歌」を演奏するなら、もっと批判的に、ひねくれた客層相手にやるべきだと思うのだ。
それにしても、なんという大言壮語、空虚な音楽だろうか。ショスタコーヴィチの生涯の中で汚点といってもよいのではないかという前からの私の思いは覆ることはありませんでした。合唱は寄せ集めにしては健闘、センチュリー交響楽団はブラスが吠えたてることなく美音を奏でていて秀逸だと思っただけに、いろいろと残念な結果でした。

追記
ショスタコーヴィチに対する三度目の権力の介入に関して一言。60年の作曲家同盟第一書記就任に限らず、この前後に夥しい賞や名誉ある地位をソヴィエト政府から受けているのはよく知られている。しかし「自作全集への序文とその序文についての短い考察」Op.123というバリトンの為の短い歌曲はあまり知られていないのかもしれない。だが彼自身が授与されたおびただしい勲章や役職をバリトンがぼそぼそと読み上げるという凄まじく自嘲的な音楽は絶対に知らないでは通らない。交響曲5番など聴いてる暇があればこの歌曲こそ聴いてほしいと思うくらいだ。もはやこの時期には作曲者はあまり怖いものがなくなっていたのかも知れないが、よくもこんな作品をしれっと書いたものだ。
(この項終り)
# by nekomatalistener | 2016-05-04 20:46 | 演奏会レビュー | Comments(3)