ワーグナー 「トリスタンとイゾルデ」 二期会公演

イーブイが進化したらヤックルになるんだよ。





東京で二期会の「トリスタンとイゾルデ」を観て早一週間以上経ちました。いつもなら大体鑑賞後2、3日の内には備忘記事をアップするのですが、今回は少し身辺が忙しかったのと、演奏についても演出についても何となくまとまった言葉にならなくて困っておりました。あまり先延ばしにしてもますます書くのが億劫になるので何かしら言葉にしてみます。

 2016年9月17日@東京文化会館大ホール
 ワーグナー 「トリスタンとイゾルデ」
  トリスタン: 福井敬
  マルケ王: 小鉄和広
  イゾルデ: 池田香織
  クルヴェナール: 友清崇
  メロート: 村上公太
  ブランゲーネ: 山下牧子
  牧童: 秋山徹
  舵取り: 小林由樹
  若い水夫の声: 菅野敦

  合唱: 二期会合唱団
  管弦楽: 読売日本交響楽団
  指揮: ヘスス・ロペス=コボス
  演出: ヴィリー・デッカー


「トリスタンとイゾルデ」というオペラに対しては、初めてカール・ベームのバイロイト・ライブのLPを聴いた高校生の頃から、「本当にこれを神ならぬ生身の人間が書いたのだろうか?」という思いを持ち続けています。特に第2幕の長大な二重唱。こんな音楽がこの世に存在すること自体、私には奇跡のように思えてなりません。爾来ワーグナー熱は治まったりぶり返したりの繰り返しですが、トリスタンだけはなんだかんだ言いながら折に触れて聴きなおしてきました。まったくとんでもない音楽だと聴くたびに思います。
関西住まいではなかなか実演に触れるチャンスがなくて、これまで舞台を観たのは2008年7月のパリ国立オペラの来日公演と2011年1月の新国立劇場公演のみ。前者は全裸の男女の映像が流れ続ける演出のおかげで気が散ったのか、何ともとりとめのない印象しかありません。後者はデイヴィッド・マクヴィカーの演出はやや不発気味なるも大野和士の指揮が素晴らしく大変感動しました。そんな訳で、これまで演奏と演出共に十全の舞台を観たという手ごたえはなく、二期会ブランドにはそれなりの信頼を置いているものの、どこまで心に響くものになるだろうかと半ば期待し、半ば恐れながら聴いたという次第。

今回のもやもやの理由の大半はやはり演出だろうか?読替えというほどドラスティックでもないがトラディショナルという感じでもない。背景は第1幕が様式化された波の絵、第2幕は森の樹々、第3幕は墨をぶちまけたような抽象的なデザイン。それが衝立のような2枚の壁に描かれて、その隙間から人物が出入りする。斜めに傾いだ舞台には全幕通して一艘の小舟が置かれ、歌手はその中で、あるいはその周りで時に櫂を手にして歌う(それも公園の池のボートを漕ぐような安っぽいプラスチックのオールにしか見えない)。衣装も最初は時代・国籍ともよく分からないものが、第3幕はごく現代的な衣装。クルヴェナールはまるで新橋の飲み屋にいる、ちょっと規律の緩い会社のサラリーマンみたい。それでも第2幕の途中まではそれなりに伝統的な所作が続くのだが、マルケ王らに踏み込まれたトリスタンが短剣で己の両目を切り裂き、イゾルデもそれに倣うというショッキングな結末。第3幕でトリスタンは布きれを目に巻いて歌うが、同じく布を目に巻いたイゾルデは途中でそれを取り払い、何事もなかったかのように歌い続ける。
備忘としてつらつら書いているのだが、私にはなんとも要領を得ないというか、途中からあれこれと考えることを放棄してしまったので甚だ感興の湧かないまま過ごしてしまった感じがします。ディティールに込められた意味がそれなりにあるのかも知れませんが、もはや興味をなくしてしまいました。こういうのって、わざわざ外国から演出家を招聘する必要があるのだろうか?

良かった点はまずイゾルデの池田香織が素晴らしかったこと。私は以前にも書いた通り、びわ湖オペラの「死の都」のブリギッタを聴いて素晴らしい歌手だと思っていましたが、メゾソプラノでやってきた歌手がどこまでイゾルデを歌えるのか、正直よく分かりませんでした。ですが豊かな中低音域だけでなく、高音域もまったく絶叫することなく音楽的に歌えることにまず驚き、しかも第1幕より第2幕、第2幕より第3幕とどんどん調子が良くなることに心底びっくりしました。正に向かうところ敵なし、といった風でした。
トリスタンの福井敬については、第3幕の前に体調不良の為もしかしたら途中でカバー歌手が歌うかもしれないとのアナウンスがあったものの、瀕死のトリスタンが歌う第3幕には寧ろプラスに働く面もあったようで、結果的になんら支障なく歌い切りました。これも以前このブログで「ダナエの愛」のミダス王が素晴らしかったという話を書きましたが、直情的なヘルデン役に関して日本では右に出るものがないと思います。ディティールがすこし雑に感じるところもありましたが、体調が悪いという印象はまったくありませんでした。
ブランゲーネの山下牧子も素晴らしく、第2幕では主君のためとはいえ取り返しのつかぬことをしでかしたブランゲーネの悲しみが切々と伝わりました。これは脇役としては驚くべきことだと思います。クルヴェナールの友清崇は、第1幕のやや浮ついた歌唱には少々疑問符がついたものの、第3幕はとても良かったと思います。生硬な演技にはちょっと参りましたが。マルケ王の小鉄和広は苦悩する王にしては表現が軽く、第2幕の長いモノローグを私は少し持て余しましたが、第3幕はようやく深々した声が聴けて悪くありませんでした。他の脇役はまずまず。
ヘスス・ロペス=コボスの指揮は深い息遣いを感じさせてよかったと思いますが、ベーム盤で育った世代としてはもっとうねるような官能的な響きがあるんじゃないか、と心のどこかで無いものねだりしてしまう。読響は大健闘だと思いますが、私は東京文化会館の1階席で聴き、これはやはり2階席のほうが良かったかな、とすこし後悔していました。それにしても日本のメジャーオケはことワーグナーに関してはまずハズレなく聴けるというのも、良い時代ではあります。つらつら書いた通り、全体としてはなんとも微妙な舞台でしたが、日が経つにつれてやはり観ておいてよかったと思っています。
(この項終り)

# by nekomatalistener | 2016-09-27 00:33 | 演奏会レビュー | Comments(0)

Olivier Messiaen Complete Editionを聴く(その6)

某業界紙にあるメーカーの「リケジョ向けイベント」の記事が載っていたが、今時リケジョて、「ナウなヤング」くらい読んでて恥ずかしいな。しかもこれ、理系女子を対象にしたイベント「理工チャレンジ(リコチャレ)」の一環で、リコチャレっつーのは「内閣府や経団連などが共催、企業や大学の協力で展開」しとるそうな。リコチャレ(笑)。もう理系女子は怒ってもいいと思うの。





引き続き60年代の作品を中心に。

 CD26
 ①ミのための詩(管弦楽版)(1937)
 ②鳥たちの目覚め(1953)
 ③七つの俳諧(1962)

 ①フランソワーズ・ポレ(Sp)
 ②ピエール=ローラン・エマール(Pf)
 ③ジョエラ・ジョーンズ(Pf)
 ピエール・ブーレーズ指揮クリーヴランド管弦楽団
 ①1994年11月録音②③1996月2月録音


指揮者としてメジャーになってからのブーレーズの特色が、良くも悪くもあからさまに現れ出たような一枚。若いころのブーレーズであれば、初期作の「ミのための詩」など決して取り上げなかったような気もしますが、大成した指揮者として「トゥーランガリラ」だけではないメシアンの全体像をブーレーズなりに示そうとしたのでしょうか。いずれも極限まで音を磨き上げ、ひたすら美しい響きを追及したといった趣だが、ブーレーズが若いころにアンサンブル・ドメーヌ・ミュジカルと録音した「七つの俳諧」と聴き比べてみると、ほとんどムード音楽のように聞えてしまうところが好き嫌いの分かれるところだと思います。といっても決して微温的というのではなくて、その完成度の高さというのは本当に素晴らしいのだけれど、旧録音のあの、生まれたばかりの現代音楽の仮借なき演奏と比べると、もしかしたら物凄く大切なものが失われているのではないかという思いを禁じえない。批判的な感想を書いたが、メシアンのスコアからこれほどの美しさを引き出すのはブーレーズの天才的な耳の良さという他ないということは強調しておくべきでしょう。辛口と思われがちな「七つの俳諧」がこれほど甘く聞こえるというのはある意味驚異的。


個々の作品について少しだけ触れておきます。
「ミのための詩」はメシアンの最初の妻クレール・デルボスのために書いた1936年の歌曲集を翌37年にオーケストラ伴奏に編曲したもの。この最初の結婚は不幸な結果に終わったけれど、この歌曲集はメシアンには珍しく思われるほど愛と優しさにあふれたもの。こういった作品も魅力的だ。比較的知名度が低く、日本語で読める文献も少ないですが、大井浩明のブログに寄せた甲斐貴也氏の解説は曲の背景を知る上で大変参考になりました。

「鳥たちの目覚め」は鳥の歌だけを素材とした20分ほどの小オーケストラのための作品。最初長いピアノ・ソロのユニゾンで一羽の鳥が啼き始め、次第に鳥が増え始めて曲の中ほどでは様々な鳥たちが目覚めて一斉に啼きだす。メシアンの作品としては辛口の部類だと思いますが、そのめくるめく啼き声には圧倒される思いがします。
大変実験的な音楽と、絵画的描写的な構図との重ね合わせ。こういった形でなければ53年の段階ではメシアンといえども鳥の歌だけの作品というのは提示し得なかったのだろう。しかしこの実験は、わずか3年後には「異国の鳥たち」や「鳥のカタログ」という傑作に結実する。そのプロトタイプとしての「目覚め」をブーレーズは録音する価値があると考えたのだろう。曲の終りがた、ピアノの高音でチチチと鳥が啼くところでふとクセナキスの「エヴリアリ」を思い出したりするのも楽しい。

「七つの俳諧」はメシアンとイヴォンヌ・ロリオが1962年に日本を訪れた際の様々な印象を7つの短い音楽にまとめたもの。第4楽章の雅楽の響きを翻案したものの他はことさら日本的な素材はないが、これは60年代の傑作群のひとつといって良いと思います。
第1曲「導入」は微かな風に反応して動くモビルを見ているような極度に抽象的な、しかも美しい音楽。本人がどういうか分らないが、例えばハリソン・バートウィッスルとか近藤譲のある種の作品に(影響とは言わないが)微かな木霊を聞く思いがする。「クロノクロミー」とも共通する、純粋に音響としての美を追求した傑作。
第2曲「奈良公園と石灯籠」。「導入」の印象のままに続けて演奏されます。作曲者が石灯籠に着目したのは、無機質だが構成と秩序の美が感じられるという点で、よく判るような気がします。
第3曲「山中━カデンツァ」。鳥の歌が現れて先のニ曲の冷たい美との対称を図る。鶯の歌がトランペットで歌われるのがめっぽう面白い。
第4曲「雅楽」。メシアンが雅楽を一旦咀嚼して再構成した響きは、雅楽のもつウルトラモダンな側面をよく捉えている。表面的でない日本の印象の内面への取り込みを感じます。
第5曲「宮島と海の中の鳥居」。ことさら描写的な音楽という訳ではないが、なめらかな金管の旋律と鳥の声、そして絵画的なタイトルによって、どこかクリスチャン・ラッセンのイラストみたいにつるつるした感じが無きにしも非ず。一歩間違えば表面的かつ俗悪な印象すら与えるリスクを孕みながらも、辛うじて抽象的な美として存立しているところがメシアンのメシアンたる所以か。
第6曲「軽井沢の鳥たち」。「クロノクロミー」、そしてこの「俳諧」において、鳥の声は自然の描写といったレベルを遥かに超えて、音響的素材として抽象的な知的構造物のいわば建築資材としての役割を果たすようになったように思う。メシアンは同じ事を何十年もやっているようでいながら、鳥のカタログから更に高みに昇ったのではないか。
第7曲「コーダ」。「導入」とほぼ同じ素材を用いてシンメトリカルにこの楽曲を締めくくります。
(この項続く)

# by nekomatalistener | 2016-09-11 19:05 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

Olivier Messiaen Complete Editionを聴く(その5)

最近の話だけどピアノのレッスンでブラームスの3番ソナタの第1楽章を弾いたら、最後の和音に対して先生に「ニャン、じゃなくてニャ~ン」と言われた。ニュアンスはビシバシ伝わるので、その時はなるほどと思ったが、あとで楽譜に赤鉛筆で「にゃーん」と書いてあるのを友人に見られてちょっと恥ずかしかった。





引き続き60年代の作品を中心に聴いていきます。

  CD11
  オルガンのための前奏曲(1930)
  献堂式のための唱句(1960)
  モノディ(1963)
  キリストの昇天(1933~34) 
  聖霊降臨祭のミサ(1949~50)

  オリヴィエ・ラトリー(org)
  2000年7月パリ・ノートルダムで録音


今回の一枚はオルガンのための作品集。
この5曲、最初期の「前奏曲」と「キリストの昇天」以外は、非常に晦渋な作風で、メシアンにとってのオルガンという楽器はピアノ以上に実験の場として機能していたのではないかという印象を持ちました。メシアンのピアノ作品がいずれも高度な技巧を駆使したものであるとしても、それはあくまでもイヴォンヌ・ロリオを想定して書いたからそうなったのであって、メシアン自身の腕前の程はどうだったのだろうか、という問いに対しては、2台ピアノのための「アーメンの幻影」の、初演でロリオが担当したプリモ(第1ピアノ)とメシアンが担当したセコンド(第2ピアノ)の、かなりはっきりとした技巧的水準の差を見ればある程度はっきりしていると思います。だが、オルガンの場合、どこまでもメシアン自身による演奏を想定して書かれており、そのために却ってピアノよりも自由な即興的要素や、容易に人を近づけない実験的精神に溢れた作品になりえたと考えることが出来そうです。

最初の「前奏曲」は1930年(ネットには28年という記載も)に作曲され1997年に遺稿の中から発見されたとのこと。初期作ながらも聴けばすぐメシアンと判る個性の強さ。ドビュシー直系の音楽だが、後半の巨大なゴシック建築のような和音群は宗教的法悦を感じさせるメシアン独自なもの。だが私はふとサティの「4つのオジーヴ」を思い出しました。フランスの音楽の底知れぬ魅力の源流をあれこれ想像する楽しみがここにもありました。

1960年の「献堂式のための唱句」については「聖堂奉献祭のための唱句」という訳も見かけます。先程、メシアンにとってオルガンという楽器はピアノ以上に実験の場であったと書きましたが、この作品もおよそ聞き手に媚びるということがない。だが静謐なモノディと鳥の歌に挟まれて何度か現れる色彩的な和声はまぎれもなくメシアンのものであって、峻嶮な音楽という感じはしません。もともとコンセルヴァトワールの学生の試験用として書かれたということと関係があるのかも知れません。

次に1963年の「モノディ」。メシアンには例えば「世の終わりのための四重奏」の中のクラリネットソロとか、以前このシリーズでも取り上げた「峡谷から星たちへ」のホルンソロのような不思議な楽曲があるが、このオルガンのための「モノディ」もその系列をなすものだろうか。実際に教会やコンサートホールで聴けばどう感じるか分らないが、CDで聴くだけではちょっと途方に暮れる感じがします。だがメシアンの全体像を知るには、こういった作品を知らずに済ますことはできないだろうと思います。

1933年に管弦楽のために書かれた「昇天」をオルガンに編曲する際、メシアンは第3楽章を別の楽曲に入れ替えています。宗教的な法悦、爆発的な歓喜、気の遠くなるほど長く引き伸ばされた甘い旋律、等々初期メシアンを代表する作品には違いありません。こういった楽曲にオルガンという楽器は実に相応しいと思いますが、私がひねくれているのか信仰心を持たないせいか、感動というよりも些か大仰に過ぎるところや通俗的な側面を感じます。

メシアンのオルガン作品の晦渋さや実験性という点で、とりわけ1950年の「精霊降臨祭のミサ」のそれは群を抜いているように思いました。全5楽章の内、最初の4つの楽章は、およそ音楽の快楽といったものと無縁な、ちょっとやそっと聴いただけでは山裾に近づくことすら困難な音楽が続きます(第4曲だけ少し甘い旋律が出てくるけれど)。最終楽章でようやく音楽的な爆発が聴かれますが、おそるべき不協和音のクラスターは、一瞬リゲティの「ヴォルーミナ」を思い出すほどの凄まじさで、メシアンが実際の降臨祭のミサでこれを弾いたのかどうか知りませんが、もしそうならミサに集まった信徒たちは呆気にとられたことと思います。
ちなみにタイトルの「精霊降臨祭」pentecôteはペンテコステあるいは五旬節とも言われ、一般の日本人にはなじみが薄いがカトリックでは復活祭の50日後(年により異なるが5月半ばから6月半ば)の重要な祝日であるらしい。

奏者のオリヴィエ・ラトリーは1962年生まれのオルガニストで、ノートルダム寺院の正オルガニストとのこと。これまであまり近現代のオルガン曲を聴いてこなかった私にはその演奏の巧拙を語ることはできませんが、大変な集中力と知性を感じました。
(この項続く)

# by nekomatalistener | 2016-08-26 23:15 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

Olivier Messiaen Complete Editionを聴く(その4)

卵から孵化したと思ったらコラッタだったときの落胆たるや・・・




前回とりあげた「鳥のカタログ」に続く、黄金の60年代の作品を聴いていきます。

  CD23
  クロノクロミー(1959-1960)
  天より来たりし街(1987)
  我死者の復活を待ち望む(1964)
  ピエール・ブーレーズ指揮クリーヴランド管弦楽団
  1993年3月録音

「クロノクロミー」は1960年10月16日にドナウエッシンゲンでハンス・ロスバウトにより初演された大規模オーケストラの為の作品。
今年の初め、ブーレーズ死去に際して短い追悼記事を書いた際にも言及したことですが、1995年5月26日サントリーホールで聴いたブーレーズ指揮ロンドン交響楽団による「クロノクロミー」は本当に素晴らしいものでした。詳細は繰り返しませんが、当該記事で書かなかったことを少しだけ。
ブーレーズにとってメシアンはかつての恩師でもあり、当然その作品を得意としている、と思いがちなのですが、実は非常に限られた曲目しか取り上げていないように思います。例えば若き日のアンサンブル・ドメーヌ・ミュジカルを指揮ないし監修した10枚組CDの中で、メシアンはピアノソロを含めても「異国の鳥たち」「カンテヨージャーヤー」「七つの俳諧」のわずか3曲。そのいずれもがメシアンの作品のなかでも特に辛口で、甘さや官能性とは無縁の音楽だけを選んだ結果だと言えそうです。ブーレーズは「トゥーランガリラ」などは嫌っていて(ソースが不明なのだが)「売春宿の音楽」と評したという話を見聞きしたこともあります。ブーレーズのこのような非寛容ともいえる姿勢は、年齢とともに、また指揮者としての成功とともに和らいでいき、今回取り上げたCDの他、「ステンドグラスと鳥たち」「「天国の色彩」などを録音していますが、メシアンの多くの作品に現れる甘さ、官能性、あるいは若干の通俗性、といった要素は最後まで苦手であったように思います。
話を「クロノクロミー」に戻すと、この作品こそブーレーズの志向する甘くないメシアンの代表作にして最大の傑作という感じがします。これからメシアンのコンプリート盤を聴いていこうとする矢先にこんなことを書くのも気が引けるが、もしかするとこれはメシアンの膨大な作品のなかでも最も優れたものではないか、と思うのはブーレーズの影響を受け過ぎた結果なのかも知れません。あるいは私がカトリックの教義に疎いことの裏返しで、宗教的なテキストを持たないがゆえにアプローチしやすかったとも言えそう。それはともかく、極度に抽象的で、リズムと音色の多彩さだけで勝負したような(まさに時間χρόνοςと色彩χρώμα)音楽、鳥の歌さえここでは具象性を剥奪されています。しかし、終盤で18人のソリストが無秩序に鳥の歌を歌い始めると、そこには官能というのとは違うけれど法悦とか恩寵としか言いようのない不思議な感覚に満たされます。だが、日本語wikipediaにはこの作品が立項されていないということが、現在のこの作品に対する不当ともいえる人気の無さを物語っています。「トゥーランガリラ」の演奏会がごく日常的なイベントとして受容され、アマチュアのピアノ・コンペティションで「嬰児イエズス」を取り上げる猛者もいる昨今、あえて「クロノクロミー」のような作品に光を当てたいというのが今こうして私がブログで取り上げている理由です。

1987年に作曲された「天より来たりし都市」は、1992年に死去したメシアンのほぼ最後の大がかりな作品と言って良さそうです。初演は1989年11月17日ピエール・ブーレーズ指揮。
その創作の最初期から何度も何度も書いてきた宗教的法悦境というべき作風の、最後の開花といってよいのでしょう。メシアンなりに戦後の前衛音楽をあるいはリードし、あるいは少し距離を置きながら伴走してきた50年代・60年代を経て、再び40年代の、甘さと若干の通俗性を含む作風に回帰したようにも思えます。これを一種の退嬰と見ることもできそうですが、かのバッハがライプツィヒで書いた夥しいカンタータだって、どれをとってもバッハそのもの、ある意味進歩や進化といった概念を超越しているのと同じで、メシアンという人はことカトリシズムに関しては生涯を貫いて同じことを語り続けたと考えることもできそう。

「我死者の復活を待ち望む」は1963年に当時の文化相であったアンドレ・マルローより、先の世界大戦の犠牲者の追悼のために委嘱され、1965年5月7日セルジュ・ボドの指揮で初演されています。
メシアンのカトリシズムへの思いというのは、私のような宗教心の欠片もない人間には理解不能としか言いようがないのですが、それが全面的に表に現れたこのような作品を前にすると本当に途方にくれてしまいます。これまでメシアンをあれこれ聴いてきて、時に分かった風な小賢しい言説を垂れ流してきた私のような人間に対して、まさに鉄槌を下すような難解な音楽という気がします。拡大され曖昧だとはいえ調性感がない訳でもなく、第4楽章のようにガムラン音楽のあからさまな影響が聴かれたり、チューブラーベルやタムタムなど多彩な打楽器が使われていたり、メシアンとしては決して人を寄せ付けぬ音楽を書いたつもりはないのかも知れませんが、結果的には随分取っつきの悪い音楽になってしまったという印象。だが、これとほぼ同じ時期、1965年にストラヴィンスキーが書いた「イントロイトゥス」の、あのミザントロープを想起するほどの峻嶮な音楽と比べれば、何度も繰り返し聴くことで作品に近づくことは出来そうな気がする。

ブーレーズの演奏について一言。どの曲も、冒頭に記した私の記憶の中にある「クロノクロミー」の演奏と比べると、些か整理されすぎという感なきにしもあらず。しかしオーケストラから引き出す音の色彩感が尋常でない感じがします。本当に耳の良い指揮者であったと改めて感服しました。
(この項続く)
# by nekomatalistener | 2016-08-19 23:12 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

ヤナーチェク 「草陰の小径」

先だっての参院選で落選とはいえ26万票近くとった某候補者。ホメオパシーとか地震兵器とか寝言ほざくまえに「自分らしくあれる」とかいうヘンな日本語をなんとかしたほうがいいと思う。ちなみに髭は気にならない。





久しぶりに京都のカフェ・モンタージュに行ってきました。ヤナーチェクの「草陰の小径」のみで一夜のプログラムというのも、このサロンならではでしょう。


  2016年8月10日@カフェ・モンタージュ
  ヤナーチェク 「草陰の小径」全曲
  (アンコール)
  パデレフスキー メヌエット
  エドゥアルド・シュット J.シュトラウス「美しき青きドナウ」によるパラフレーズ

  Pf:マルティン・カルリーチェク



ヤナーチェクの「草陰の小径」については以前にこのブログで取り上げたことがあります。

http://nekolisten.exblog.jp/16944241/

そこで「本質的にオペラ作曲家であったムソルグスキーの「展覧会の絵」がまるでオーケストラのスケッチのように思えるのとよく似て、ピアノ曲としての評価にとても困るところがある。」と書いたのですが、今回改めて聴いてみた感想もほぼ同じものでした。およそピアニスティックという概念の正反対の音楽。とはいえ、素人臭いというのとも少し違って、実に不思議な書法という他ありません。カフェ・モンタージュの店主の高田氏のトークでも触れられていた通り、曲のあちこちにドビュッシーを思わせる響きがでてきますが、この作品の原型ができた1901年にはドビュッシーは「版画」すらまだ書いていなかったというのは実に驚くべきことだと思います。同じく店主のトークで、以前あるピアニストにヤナーチェク作品によるリサイタルを提案したところ拒否されたという話がありましたが、この「草陰の小径」に限らず、「霧の中で」にしろ「ピアノソナタ1.X.1905」にしろ、ピアニストにとってはフラストレーションの溜まる作品だろうと思います。

今回演奏したマルティン・カルリーチェクはチェコ在住のヴァイオリニスト白石茉奈の夫君とのこと。太く良く伸びる音の持ち主で、弱音のパレットの多さも十分だと思いましたが、技巧の切れの良さは今一つといったところ。もちろんヤナーチェクはロマン派風の複雑な技巧を要する曲ではないのだが、どうも大味な感じがして、ヤナーチェクの音楽のもつとてつもない悲劇性とか、行間から滲み出るような死の気配といったものはあまり感じられません。本当にピアニストにとっては一筋縄ではいかない作品だろうと思いますが、もう少し聴かせ様があったのではとちょっと残念。

アンコールでパデレフスキーのメヌエットを弾いて、コーダで少し事故があったせいか、もう一曲サービス。エドゥアルド・シュットEduard Schüttは私も初めて聴くものでしたが、1856年にロシアのサンクトペテルブルグで生れ、1933年に没したコンポーザー・ピアニストで、IMSLPに沢山のピアノ曲が登録されていました。このパラフレーズは、ゴドフスキーのそれほどは手が込んでなくて、ほどほどの技巧で最大限の演奏効果を出すことのみを眼目としているように思えました。毒にも薬にもならないサロン音楽と言ってしまえばそれまでですが、アマチュアがちょっと余興で弾けば拍手喝采間違いないといったところ。おかげでヤナーチェクの世界がぶち壊しになったのですが、最後に店主が「いったい皆さん何を聴きにいらしたんですかね」と皮肉とも嫌味とも取れる発言で聴衆の笑いを取ったのも、小さなサロンでのインティメートなリサイタルならではで、それもまた良し。
(この項終り)
# by nekomatalistener | 2016-08-13 17:26 | 演奏会レビュー | Comments(0)