Olivier Messiaen Complete Editionを聴く(その8)

真冬のさっむい日の早朝、駅のホームで半袖シャツで震えてるおっさんを見たことがあるのだが、あれは何かの罰ゲームだったのだろうか?未だに謎。





60年代の作品を網羅的に聴いていきます。

CD2
①鳥の小スケッチ(1985)
 1.ヨーロッパコマドリ
 2.クロウタドリ
 3.ヨーロッパコマドリ
 4.ウタツグミ※
 5.ヨーロッパコマドリ
 6.ヒバリ
②4つのリズムのエチュード(1949-1950)
 1.火の島Ⅰ
 2.音価と強度のモード
 3.リズム的ネウマ
 4.火の島Ⅱ
③カンテヨージャーヤー(1949)
④ロンドー(1943)
⑤ファンタジー・ブルレスク(1932)
⑥前奏曲(1964)
⑦ポール・デュカの墓のための小品(1935)

ピアノ: ロジェ・ムラロ
①②2001年2月15日③~⑦2001年2月22日

※表題のla grive musicienne(ウタツグミ)の学名はturdus philomelosが一般的なようだが、楽譜にはturdus ericetorumという古い学名が書かれている。

まずは「前奏曲」(1964)から。
比較的有名な初期の「8つの前奏曲」とはまったく別物。ですが、調性感のはっきりとしたアルカイックな旋律は、ラヴェルを思わせるものがあって大変魅力的。この古雅な旋律をメシアン独特の煌めくガラス片のような不協和音が彩る。この作品についてはメシアンの死後に遺稿の中から発見されたということ以外、ネットで調べても情報が乏しく、前衛真っ盛りの60年代にどうしてこのような調性作品が書かれたのかよく判りませんでした。まぁメシアンのような作曲家にとっては調性の有無などというのは大した問題ではなかったのかも知れません。こういった佳品に出会えるのはComplete Editionならではでしょう。

「鳥の小スケッチ」(1985)はイヴォンヌ・ロリオの希望に応じて書かれたもの。6曲のセットだが各曲はわずか2分ほどの小品。素材はタイトルの鳥の歌と「背景」をなすゆったりとした和音のみ、楽譜には鳥名以外は速度記号しか書かれておらず、大作「鳥のカタログ」や「ニワムシクイ」が標題以外にも様々な鳥の声や事物の音で満たされ、また言葉で楽譜に書き込まれているのとは大違いのシンプルさ。そのピアニスティックな書法は洗練の極みですが、特に第2曲など終止の和声がともすると協和音に解決する傾向など、晩年のメシアンのスタイルがよく現われていると思います。それを円熟と見るか、それともある種の退嬰と見るか、意見が分かれそう。だが終曲の息つく暇もなく啼き続けるヒバリの歌を聴いていると、老いたりとは云え、さすがは「ニワムシクイ」を書きあげた人だと心打たれずにはおれない。

「4つのリズムのエチュード」(1949~50)と「カンテヨージャーヤー」(1949)はメシアンのピアノ独奏曲の中ではもっとも実験的、しかも音楽史的な意味で最も重要であり、なおかつ耳で聴いてこの上なく面白いものではないでしょうか。私の個人的な好みでいえばエチュードの第1曲「火の島Ⅰ」はメシアンの数あるピアノ曲の中でも最も好きな作品。第2曲「音価と強度のモード」は後のトータル・セリエリズムの嚆矢となったことであまりにも有名ですが、その音響は難解どころか大変美しいもの。私は高校生の頃にミシェル・ベロフのLPで聴いて驚いたものです。そして「カンテヨージャーヤー」。タイトルは13世紀のインドの音楽学者Sarangadeva(1210-1247)の理論書Sangita Ratnakara に体系化されたヒンドゥーのリズムのことらしいのですが、理屈はともかく実に面白い音楽。「音価と強度のモード」で全面的に展開された音高・音価・強弱・アタックのセリーが部分的に使われているのも注目されます。

残りの3曲、「ファンタジー・ブルレスク」(1932)、「ポール・デュカの墓のための小品」(1935)、「ロンドー」(1943)は作曲年代は10年以上の開きがあるけれど、いずれも習作といって差し支えなさそう。逆に、まだまだドビュッシーの尻尾を引きずった「ロンドー」とほぼ同時期に「アーメンの幻影」や「嬰児イエズスにそそぐ20の眼差し」が書かれていることのほうが驚きなのかも知れません。最も作曲年代の古い「ファンタジー・ブルレスク」は導入に続いて現われる主題の三連符と四連符のぶつかり合いや、裏拍に附けられたアクセントがジャジーな雰囲気を醸し出して面白い。ポール・デュカの死に際して書かれた小品は厳粛な下降音形をメシアン独特の和音が彩る。それは苦痛に引き裂かれるようでもあり、苦悶と見紛うばかりの快楽の表象とも聞える。これは異色のtombeau(故人を追悼する器楽曲)と言えるのではないでしょうか。

ロジェ・ムラロの演奏はいずれも見事。特に「鳥の小スケッチ」と「4つのリズムのエチュード」はライブ録音で聴衆の拍手も入っているのですが、ごく小さな傷がいくつかあるものの技巧的に突き詰めた演奏だと思います。中でも「火の島Ⅰ・Ⅱ」の気迫が凄い。思うにライブならではの音楽の推進力を慮って敢えて傷の修正はしなかったのでしょう。先に少し触れたミシェル・ベロフの若き日の録音と比べると若干モノクロームな感じもしますが、現時点で望みうる最上の演奏であると思います。それにしてもベロフ盤の色彩感あふれる録音は、録音技術の賜物なのか実際の演奏自体のせいなのか、未だによく分かりませんが本当に素晴らしいものであったと懐かしく思い出します。
(この項続く)

# by nekomatalistener | 2016-10-24 22:54 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

バルトーク 「コントラスツ」

難読地名の宝庫京都ですが、いちばんすげーなこれって思ったのは阪急と嵐電で「西院駅」の読み方が違うってことかな。ってか嵐電のほうの西院はちょっと想像の斜め上をいっとる。





「コントラスツ」を生演奏で聴く貴重な機会が京都でありました。

  2016年10月13日@カフェ・モンタージュ
  プーランク クラリネット・ソナタ(1962)
  プーランク ヴァイオリン・ソナタ(1943)
  (休憩)
  バルトーク コントラスツ(1938)

  クラリネット: 村井祐児
  ヴァイオリン: 石上真由子
  ピアノ: 船橋美穂

この日のお目当てはバルトークだったのですが(カフェ・モンタージュのHPにも特にプーランクという文字はなかったと思う)、予習なしで聴いた前半の2曲が素晴らしい作品でした。プーランクといえば、なんとなく瀟洒でモダンでセンスがよくて・・・というイメージ以上のものはなかったのですが、私はこの二つのソナタを聴きながら自分の不明を恥じる思いでした。よく考えてみれば、数年前にも新国立劇場の研修所オペラで「カルメル派修道女の対話」を観て、先入観を激しく打ち壊される経験をしているのですが、その時はそれ以上深入りすることもなく、今に至るまでプーランクのことは(有名なフルート・ソナタやいくつかのピアノ曲を除いて)よく知らないままにきたのです。オネゲルの墓前に捧げたというクラリネット・ソナタは、特段死を思わせる要素はなく、曲想もどちらかと言えば軽いものであるのに、聴き終わってなぜか胸が塞がれるような気がします。ガルシア・ロルカの死に際して書かれたというヴァイオリン・ソナタはうってかわって激しい曲想に満ちていて息を呑む思いで聴きました。どちらも私は初めて聴くもので、どこまで正しく受け止めたものか心許ないですが、プーランクの室内楽をサロン風の音楽と思っていた偏見が大きな間違いであることだけはよく判りました。この人の作品はいずれ体系的に聴いてみたいと思います。

「コントラスツ」はバルトークの作品の中では比較的軽い作品というイメージがありましたが、実際の演奏を聴くと(作曲時期からして当然ではあるのだが)弦楽四重奏曲第6番に通じる一種の晦冥さを感じました。この二つの作品には共通するモチーフもいくつかあることに今更ながら気付いた次第。以前にこのブログで弦楽四重奏曲第6番について「とてつもなく深刻そうなのにどこか飄々としており、真面目かと思えばどこか投げやり、しかもある種の人生に対する悪意のようなものが垣間見えて、一筋縄でいかないとはまさにこのこと。この後にアメリカで書かれた晩年の作品にみられる澄みきった境地のようなものは全く見られません」と書いたことがありました(2015年4月30日の投稿)が、これは「コントラスツ」にも概ね当てはまるような気がします。また、「コントラスツ」というタイトルについてもこれまで深く考えたことはありませんでしたが、3つの楽器、3つの楽章の対照以外にも、通常の調弦とスコルダトゥーラされた二挺のヴァイオリン、B管とA管2本のクラリネットの音色の差の面白さがタイトルの由来だと良く判りました。

クラリネットの村井祐児は1940年生まれ、私はこの楽器のこともあまり知らないのですがその世界では重鎮なのでしょう。さすがにお年の所為か、ちょっと指がもつれたり音が抜けたり、ピアノやヴァイオリンの音に対して明らかにバランスが悪かったり、ということもあったのですが、プーランクの音楽のたたずまいが曲を知らない私にもくっきりと立ちあらわれるのはさすが。バルトークで音負けして埋もれてしまうのと、ピアノとヴァイオリンの刻むリズムにほんの少し乗り切れないのは辛いところでしたが。演奏のあとに、この日をもって引退すると仰ったのは残念ではありますが致し方ないでしょう。もっとも店主の高田さんによれば前にも何度も引退宣言されているとのことでしたが(笑)。
ヴァイオリンの石上真由子はたいへんな逸材だと思います。ちょっと調べてみたら1991年生まれ、プロとして活動する傍ら、京都府立医大の学生さんでもあるとのこと。物凄いテクニックの持ち主で、バルトークのカデンツァなど唖然とするほど。他の曲ならいざ知らず、この日の曲目の演奏としてはもう言うことがありません。ピアノの船橋美穂は合わせもののピアニストとしてはベテラン。先鋭さはあまり感じないけれど安心して聴けるのが何よりという感じでしたが、親子ほども年の離れた村井のサポートをしつつ、娘でもおかしくない若い石上と丁々発止のリズムの応酬を同時に行うというのは実は大変なことじゃないかと思いました。
(この項終り)

# by nekomatalistener | 2016-10-16 23:18 | 演奏会レビュー | Comments(0)

ブゾーニ ヴァイオリンソナタ第2番ホ短調BV.244

アンネ・ゾフィー・フォン・カワウソさん。





今年はブゾーニ生誕150周年。名前だけはそこそこ知られているのに、メモリアル・イヤーなのに、なんか盛り上がらないですね。

 2016年10月8日@カフェ・モンタージュ
 ブゾーニ ヴァイオリンソナタ第2番ホ短調BV244(1900)

 ヴァイオリン: 谷本華子
 ピアノ: 奈良田朋子


ブゾーニの作品で最もよく知られているものと言えば、ロマンティックというか、やたら大仰なバッハのシャコンヌのピアノ独奏用編曲くらいなものでしょうか。だがこの一作でブゾーニについて云々するのはあまりにも気の毒というもの。えらく難しそうなピアノ曲、例えば「対位法的幻想曲」を聴くと、ヒンデミットに通じる様な面白さは感じるけれど、なかなか真面目に聴いてみようとはならないのが辛いところ。この人について何か語るならせめて「アルレッキーノ」「トゥーランドット」「ファウスト博士」の3つのオペラぐらいは聴き込んでからにしたいと思いながらも、あまりの人気のなさに少しはブゾーニ擁護論を書いてみたいという思いを禁じ得ません。
と言う訳で、まったく予備知識なしで聴いたリサイタルでしたが、想像以上に面白く聴きました。カフェ・モンタージュの店主の高田氏の、思い入れのある作品ということで、恒例のトークもいつも以上に長いものでしたが、ちょっと個人的な思いが強すぎるような気がするので、ここに備忘として内容を挙げるのは止めておきましょう。興味のある方は高田さんのツイッターにあれこれ書かれているのでご参考まで。

店主のトークを聴かずとも、この19世紀最後の年に書かれたソナタで、ブゾーニがバッハ以降の200年の音楽的蓄積を総括しようとしたことは明らか。一回聴いただけではなかなか理解できたとは言えないけれど、典型的な動機労作的書法という感じがします。簡潔な提示部というべき第一楽章、嵐のように過ぎ去るプレストの第2楽章、動機があの手この手で展開される長大な第3楽章がattaccaで演奏されます。高田氏も触れていたように、確かにセザール・フランクの影響は顕著だと思いましたが、こういった書法、建築史でいうならネオ・ゴシック様式と時代的にも重なる、ごてごてと暑苦しく書き込まれた書法というのは、リストの1850年代から60年代のある種の作品からの影響が大きいのではないかと思いました。例えば「バッハの『泣き、嘆き、憂い、慄き』による変奏曲」とか「B-A-C-Hの名による幻想曲とフーガ」などがそうですが、中でもリストがマイアベーアのオペラ「預言者」のコラール主題に基いてオルガンのために書いた「『アド・ノス・アド・サルタレム・ウンダム』による幻想曲とフーガ」という作品の長大さ、音楽的な多彩さがふと思い出されたのでした。ブゾーニはこのオルガンのための作品をピアノ独奏用に編曲しており、まさに彼のヴァイオリン・ソナタの源流として相応しい作品であると思います。ちなみにこのリスト=ブゾーニの「アド・ノス・・・」は若き日のモギレフスキーが演奏した素晴らしい録音がありますので、興味のある方は是非お聴きになることをお勧めします。

演奏者の谷本華子、奈良田朋子の両氏についても私は何の予備知識もなく聴いたのですが、素晴らしい演奏であったと思います。30代前半のブゾーニが気負いこんで書いた書法はヴァイオリンもピアノも相当技巧的に困難なはずですが、お二人とも実に危なげのないテクニックで胸のすくような演奏をされていました。また早いパッセージだけでなく、ゆっくりとした部分でのくぐもったような中音域の音色と、輝かしい高音域の対比も魅力的で、決して短くはない作品なのにあっという間に終わってしまったという印象。小さなサロン故、聴衆は30人といったところでしたが、ブゾーニの生誕150周年を祝うに相応しい一夜でした。
(この項終り)

# by nekomatalistener | 2016-10-10 15:16 | 演奏会レビュー | Comments(0)

Olivier Messiaen Complete Editionを聴く(その7)

手塚治虫の「ユフラテの樹」という漫画に、超能力を得た少女がペトルーシュカを初見で弾くという場面が出てくる。この漫画の初出は1975年、ポリーニのペトルーシュカのLPは71録音で、翌年の暮には日本でも発売されたそうだが、手塚治虫はこのLP聴いていたのかなぁ?にしてもペトルーシュカを初見で、という発想すげーな。





60年代の作品「天の都市の色彩」を中心に。

 CD30
 ①神の顕現の3つの小典礼(1944)
 ②天の都市の色彩(1963)
 ③聖体秘蹟への讃歌(1932)
 ④ヴァイオリンとピアノのための幻想曲(1933)

 ①ロジェ・ムラロ Roger Muraro(pf)
  ヴァレリー・アルトマン=クラヴリー Valérie Hartmann-Claverie(オンド・マルトノ)
  エレーヌ・コルレット Hélène Collerette(vn)
  フランス国立放送女声合唱団
 ②カトリーヌ・クルノー Catherine Cournot(pf)
 ①~③チョン・ミュンフン指揮フランス国立放送フィルハーモニー管弦楽団
 ④ダニエル・ホープ Daniel Hope(vn)
  マリー・ヴェルムラン Marie Vermeulin(pf)

 ①2008.4②③2008.7④2008.7.4録音


以下は現時点での私の仮説にすぎないが、このメシアンという人はラヴェルやストラヴィンスキーのように生涯のどの時期をとっても高いクオリティで駄作がないタイプではなくて、駄作佳作混在する初期(30年代)、実験と作風の確立の中期(40~50年代)、傑作の森というべき充実期(60年代)、若干過去の作風に回帰しつつ手癖のようなものでそれなりに大作を書き続けた後期(70年代以降)とおおまかに見取り図を描くことができそうだ(これからいろいろと聴き込む内に考えが変わるかもしれないが)。
まず「天の都市の色彩」(「天国の色彩」とも)ですが、少し前の「クロノクロミー」「七つの俳諧」とともに60年代の、というよりメシアンの全創作の中での頂点を形作っているように思います。これはもう「音と色彩の三部作」と言っても良いのではないでしょうか。ガムランの影響、というよりそれを咀嚼しきった表現が素晴らしく、ところどころあからさまな東洋風の旋律も出てくるが抽象度は高い。因みに初演は1964年10月17日、ドナウエッシンゲン音楽祭でイヴォンヌ・ロリオのピアノ、ピエール・ブーレーズ指揮アンサンブル・ドメーヌ・ミュジカルによって演奏されています。スコアには黙示録から下記の引用が書き込まれているそうだ。

1.その御座(みくら)に坐したまふ者あり、その坐し給ふものの状は碧玉・赤瑪瑙のごとく、かつ御座の周圍(まはり)には緑玉のごとき虹ありき(Ⅳ.3)。
2.ここに七つのラッパをもてる七人の御使これを吹く備をなせり(Ⅷ.6)。
3.第五の御使ラッパを吹きしに、われ一つの星の天より地に隕(お)ちたるを見たり(Ⅸ.1)。
4.その都の光輝(かがやき)はいと貴き玉のごとく、透徹(すきとほ)る碧玉のごとし(XXI.11)。
5.都の石垣の基はさまざまの寶石にて飾れり。第一の基は碧玉、第二は瑠璃、第三は玉髄、第四は緑玉、第五は紅縞瑪瑙、第六は赤瑪瑙、第七は貴橄欖石、第八は緑柱石、第九は黄玉石、第十は緑玉髄、第十一は青玉、第十二は紫水晶なり(XXI.19-20)。

メシアンはいわゆる音と色彩の「共感覚」(ある音を聴くとある色が見える)を持っていたらしいが、私にはこの共感覚というものがよく判りません。時々音楽の印象を述べるのに「色彩的」という言葉を使うけれども、具体的に緑や赤の色が見えている訳ではありません。ですがこの黙示録の引用を見ていると何となくメシアンの感じていたものが判るような気がします。実際の色彩を想起すると若干悪趣味な感じもするが、これは純粋に言葉からその言わんとする美を感受すべきものでしょう。メシアンの響きそのものから受ける印象もまた、ぎらぎらと光る極彩色の綾織のように悪趣味スレスレではあるが、それが極度の洗練と同居していて大変クセになります。

フィルアップの3曲はいずれもあまり知られていない初期の作品で、正直それほど面白いとも思えません。
「神の現前の3つの小典礼」は「アーメンの幻影」と同じく、ドゥニーズ・テュアルによってプレイアッド演奏会の為に委嘱され、1945年4月21日にジネット・マルトノのオンド・マルトノ、イヴォンヌ・ロリオのピアノ、イヴォンヌ・グヴェルネ合唱団、ロジェ・デゾルミエール指揮のパリ音楽院管弦楽団により初演されています。
第1曲のピアノによる鳥の歌はたいへん魅力的、第2、第3曲の、ちょっと「喜びの精霊の眼差し」を想起させるようなリズムの乱舞も聴きどころ。しかし凡庸な旋律や臆面もなく表面的な効果をまき散らすオンドマルトノを聴いていると、駄作と言うつもりはないがちょっと苦手だと思ってしまう。
「聖体秘蹟への讃歌」は1932年に作曲されたものの、その後の戦禍によりスコアが失われ、1947年に記憶に基いて書きなおしたものといいます。出だしを聴いただけでトゥーランガリラを想起せざるを得ないところなど、これはむしろ1947年の作品と言いたくもなるけれど、それに続くドビュッシーのエピゴーネン丸出しの曲想や、仰々しいタイトルと内容とのギャップはやはり初期作という感じもします。
1933年に最初の妻クレール・デルボスのために書かれた「幻想曲」は、メシアンの死後、2007年にデュラン社より出版されたとのこと。メシアン独自の和声にも溢れ、初期の全貌を把握するうえで貴重な作品かもしれないが、佳作扱いするのはすこし躊躇われる感じも。

チョン・ミュンフン指揮するフランス国立放送フィルハーモニー管弦楽団の演奏はたいへん美しく精緻。「天の都市の色彩」など、ブーレーズほどの踏み込みはないようにも思うがこれはこれで立派な演奏だと思います。初期作がこのような高いレベルで聴けるというのはたいへん喜ばしいことだと思います。
(この項続く)

# by nekomatalistener | 2016-10-02 15:32 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

ワーグナー 「トリスタンとイゾルデ」 二期会公演

イーブイが進化したらヤックルになるんだよ。





東京で二期会の「トリスタンとイゾルデ」を観て早一週間以上経ちました。いつもなら大体鑑賞後2、3日の内には備忘記事をアップするのですが、今回は少し身辺が忙しかったのと、演奏についても演出についても何となくまとまった言葉にならなくて困っておりました。あまり先延ばしにしてもますます書くのが億劫になるので何かしら言葉にしてみます。

 2016年9月17日@東京文化会館大ホール
 ワーグナー 「トリスタンとイゾルデ」
  トリスタン: 福井敬
  マルケ王: 小鉄和広
  イゾルデ: 池田香織
  クルヴェナール: 友清崇
  メロート: 村上公太
  ブランゲーネ: 山下牧子
  牧童: 秋山徹
  舵取り: 小林由樹
  若い水夫の声: 菅野敦

  合唱: 二期会合唱団
  管弦楽: 読売日本交響楽団
  指揮: ヘスス・ロペス=コボス
  演出: ヴィリー・デッカー


「トリスタンとイゾルデ」というオペラに対しては、初めてカール・ベームのバイロイト・ライブのLPを聴いた高校生の頃から、「本当にこれを神ならぬ生身の人間が書いたのだろうか?」という思いを持ち続けています。特に第2幕の長大な二重唱。こんな音楽がこの世に存在すること自体、私には奇跡のように思えてなりません。爾来ワーグナー熱は治まったりぶり返したりの繰り返しですが、トリスタンだけはなんだかんだ言いながら折に触れて聴きなおしてきました。まったくとんでもない音楽だと聴くたびに思います。
関西住まいではなかなか実演に触れるチャンスがなくて、これまで舞台を観たのは2008年7月のパリ国立オペラの来日公演と2011年1月の新国立劇場公演のみ。前者は全裸の男女の映像が流れ続ける演出のおかげで気が散ったのか、何ともとりとめのない印象しかありません。後者はデイヴィッド・マクヴィカーの演出はやや不発気味なるも大野和士の指揮が素晴らしく大変感動しました。そんな訳で、これまで演奏と演出共に十全の舞台を観たという手ごたえはなく、二期会ブランドにはそれなりの信頼を置いているものの、どこまで心に響くものになるだろうかと半ば期待し、半ば恐れながら聴いたという次第。

今回のもやもやの理由の大半はやはり演出だろうか?読替えというほどドラスティックでもないがトラディショナルという感じでもない。背景は第1幕が様式化された波の絵、第2幕は森の樹々、第3幕は墨をぶちまけたような抽象的なデザイン。それが衝立のような2枚の壁に描かれて、その隙間から人物が出入りする。斜めに傾いだ舞台には全幕通して一艘の小舟が置かれ、歌手はその中で、あるいはその周りで時に櫂を手にして歌う(それも公園の池のボートを漕ぐような安っぽいプラスチックのオールにしか見えない)。衣装も最初は時代・国籍ともよく分からないものが、第3幕はごく現代的な衣装。クルヴェナールはまるで新橋の飲み屋にいる、ちょっと規律の緩い会社のサラリーマンみたい。それでも第2幕の途中まではそれなりに伝統的な所作が続くのだが、マルケ王らに踏み込まれたトリスタンが短剣で己の両目を切り裂き、イゾルデもそれに倣うというショッキングな結末。第3幕でトリスタンは布きれを目に巻いて歌うが、同じく布を目に巻いたイゾルデは途中でそれを取り払い、何事もなかったかのように歌い続ける。
備忘としてつらつら書いているのだが、私にはなんとも要領を得ないというか、途中からあれこれと考えることを放棄してしまったので甚だ感興の湧かないまま過ごしてしまった感じがします。ディティールに込められた意味がそれなりにあるのかも知れませんが、もはや興味をなくしてしまいました。こういうのって、わざわざ外国から演出家を招聘する必要があるのだろうか?

良かった点はまずイゾルデの池田香織が素晴らしかったこと。私は以前にも書いた通り、びわ湖オペラの「死の都」のブリギッタを聴いて素晴らしい歌手だと思っていましたが、メゾソプラノでやってきた歌手がどこまでイゾルデを歌えるのか、正直よく分かりませんでした。ですが豊かな中低音域だけでなく、高音域もまったく絶叫することなく音楽的に歌えることにまず驚き、しかも第1幕より第2幕、第2幕より第3幕とどんどん調子が良くなることに心底びっくりしました。正に向かうところ敵なし、といった風でした。
トリスタンの福井敬については、第3幕の前に体調不良の為もしかしたら途中でカバー歌手が歌うかもしれないとのアナウンスがあったものの、瀕死のトリスタンが歌う第3幕には寧ろプラスに働く面もあったようで、結果的になんら支障なく歌い切りました。これも以前このブログで「ダナエの愛」のミダス王が素晴らしかったという話を書きましたが、直情的なヘルデン役に関して日本では右に出るものがないと思います。ディティールがすこし雑に感じるところもありましたが、体調が悪いという印象はまったくありませんでした。
ブランゲーネの山下牧子も素晴らしく、第2幕では主君のためとはいえ取り返しのつかぬことをしでかしたブランゲーネの悲しみが切々と伝わりました。これは脇役としては驚くべきことだと思います。クルヴェナールの友清崇は、第1幕のやや浮ついた歌唱には少々疑問符がついたものの、第3幕はとても良かったと思います。生硬な演技にはちょっと参りましたが。マルケ王の小鉄和広は苦悩する王にしては表現が軽く、第2幕の長いモノローグを私は少し持て余しましたが、第3幕はようやく深々した声が聴けて悪くありませんでした。他の脇役はまずまず。
ヘスス・ロペス=コボスの指揮は深い息遣いを感じさせてよかったと思いますが、ベーム盤で育った世代としてはもっとうねるような官能的な響きがあるんじゃないか、と心のどこかで無いものねだりしてしまう。読響は大健闘だと思いますが、私は東京文化会館の1階席で聴き、これはやはり2階席のほうが良かったかな、とすこし後悔していました。それにしても日本のメジャーオケはことワーグナーに関してはまずハズレなく聴けるというのも、良い時代ではあります。つらつら書いた通り、全体としてはなんとも微妙な舞台でしたが、日が経つにつれてやはり観ておいてよかったと思っています。
(この項終り)

# by nekomatalistener | 2016-09-27 00:33 | 演奏会レビュー | Comments(0)