Olivier Messiaen Complete Editionを聴く(その11)

ネットニュースで、フィリピン沖に生息するエントツガイという不思議な貝の生態を知ったが、画像検索するとコテカみたいだった。殻の中身が、これがまた・・・(お察し下さい)。





これまで60年代の作品を一通り聴いてきたので、あとは時代を少しずつ遡ったり進んだり、気ままに聴いていこうと思います。という訳で、今回は「鳥のカタログ」の少し前に書かれた「異国の鳥たち」を含むディスクを聴きます。


 CD28
 ①おお聖なる饗宴よ(1937)
 ②世の終りのための四重奏曲(1940)
 ③ピアノと弦楽四重奏のための小品(1991)
 ④異国の鳥たち(1956)

 ①ケンブリッジ大学セント・ジョンズ・カレッジcho.
 ②ルーベン・ヨルダノフ(vn)、アルベール・テタール(vc)、クロード・デズルモン(cl)、ダニエル・バレンボイム(pf)
 ③イヴォンヌ・ロリオ(pf)、ロズモンドSQ
 ④ジャン=イヴ・ティボーデ(pf)、リッカルド・シャイー指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団
 ①1969.11②1978.4③1999.1.3~4④1995.9.9録音


まずは「異国の鳥たち」から。1956年、ピエール・ブーレーズの委嘱によって書かれた作品で、タイトルの通りインド、中国、マレーシア、南北アメリカ大陸の鳥たちの鳴き声が素材となっています。これは私には文句なしの傑作だと思われます。弦楽器を含まないオーケストラとピアノ、パーカッションのギラギラとした響きは、さながら南国の原色の鳥たちの姿を彷彿とさせますが、その音色としてのまとまりと、ピアノとオーケストラの交替の妙、様々な鳥たちが啼き交わすカオスと切迫したリズム、その全てが堅牢な知的構造物として統御されているのは、後にも先にもない、この時期だけのメシアンの特色と言ってもよさそうです。このすぐ後に書かれ始めた「鳥のカタログ」では、音楽の時間の流れは自然を模したかのようにもっとゆっくりと流れ、一つ一つの作品の演奏時間は時に途方もなく引き伸ばされ、自然の中を散策したり、散文を読んだりする体験に近いものとなりますが、「異国の鳥たち」では韻文で書かれた上質な詩を読む体験に近いという感じもします。ブーレーズがドメーヌ・ミュジカルを率いていた頃から繰り返し演奏しているのも、単に自分が委嘱したからというのではなく、この作品が彼の美意識にぴったりと合致するからに違いないと思います。そのブーレーズの演奏も良いけれど、このディスクのシャイーの演奏も愉悦に満ちた素晴らしいもので、辛口と思われがちなこの作品がこんなに楽しく聴けるというもの珍しかろうと思います。

「世の終りのための四重奏曲」は恐らくメシアンの中でも最も有名な作品だと思いますので、戦時下の一種の極限状況で書かれたといった情報については改めて書くまでもないでしょう。私は大昔にピーター・ゼルキンが結成したアンサンブル、タッシの演奏で初めてこの作品を知った世代なので、なんとなく(メシアンには何の関係もないのだが)70年代初頭のヒッピー文化を連想させるというか、LSDでラリってるようなイメージがついてまわるという時期があったのですが、改めて聴くとやはり凄い音楽だと思いました。初期のメシアンを代表する傑作でしょう。薄いガラス片を踏みしだくような独特の和声(例えば2曲目中ほどの下記譜例など)には陶酔感というか、一種の幻覚効果があって、そういう意味では「ラリっている」というのもあながち間違いではないのだけれど・・・。バレンボイムらによる演奏は気魄のこもった演奏で聴きごたえがあります。解説書には作曲者自身がレコーディングに立ち会い、お墨付きauthorizationを与えたと書かれています。

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1937年に書かれた初期の無伴奏合唱(オルガン伴奏は任意)のためのモテット「おお聖なる饗宴よ」は、ドビュッシーの影響もさることながら既にメシアン独特の和声が現われる大変美しい小品。ネットでスコアが拾えたので少しだけ下に掲げますが、この言葉の抑揚に則した自由なリズムを見ると、メシアンの重要な語法の一つである附加リズムの起源を見る思いがします。セント・ジョンズ・カレッジ合唱団の演奏はクオリティが高く、こうした初期の落ち穂拾いのような録音でも手を抜かないのがグラモフォンらしい感じがしました。

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メシアン最晩年の「ピアノと弦楽四重奏のための小品」は、メシアンには珍しいクラシックな編成ですが、実はウィーンの楽譜出版社ウニフェルザール社の経営者であるアルフレート・シュレーの90歳の誕生日のために委嘱されたもので、もともとの注文は弦楽四重奏のための小品であったところ、メシアンがピアノを加えて作曲したというものでした。思わせぶりなG-A-Gis-Dのモットーは動機労作風の展開はなく、ピアノと弦が緊密に絡み合うこともなく並置、交替するのみ。しかも途中からピアノによるニワムシクイの声となります(相の手のように挿まれる弦のパッセージがこのモットーの4音から始まるのが御愛敬)。お世辞にも面白いとは言えないこの作品、メシアンはあまり感興の湧かないまま作曲したのではないだろうか。
(この項続く)

# by nekomatalistener | 2017-05-03 23:58 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

Olivier Messiaen Complete Editionを聴く(その10)

近鉄の車内放送で、車掌さんが何度も「ドアが閉まります、ドアが閉まります」と言ったあとに、ちょっと怒った声で”The doors will be closed!”と叫んではりました。外国の方がふざけてたんでしょうね。でも南海やったら「閉まるゆうとるやろがこのボケ」とか言いそう。





60年代の掉尾を飾る大作「我らの救い主イエス・キリストの変容」。

 CD14/15
 我らの救い主イエス・キリストの変容
 ロジェ・ムラーロ(Pf)、トマ・プレヴォー(fl)ロベール・フォンテーヌ(cl)
 エリック・ルヴィオノワ(vc)、フランシス・プティ(マリンバ)、
 ルノー・ムッツォリーニ(シロリンバ)、エマニュエル・キュルト(ヴィブラフォン)
 フランス国立放送合唱団
 チョン・ミュンフン指揮フランス国立放送フィルハーモニー管弦楽団
 2001年9月録音


1965年から1969年にかけて作曲され、1969年6月にリスボンで初演されています。テキストはマタイによる福音書の他、トマス・アクィナスの『神学大全』から取られているとのこと。しかし、このような外部情報が作品の理解に幾らかでも助けになるかと言えば勿論否である。正直なところ、私はこの大作を持て余していて、何度も聴けばそれなりに良さが分かるかと思いながらも、聴き通すこと自体がかなり重荷に感じています。作風は60年代の傑作群(「クロノクロミー」「七つの俳諧」「天の都市の色彩」)の流れを汲む辛口の楽章もあれば、幾分年代が遡ったような甘口のものもあって、その混合こそが70年から晩年に至るメシアンのスタイルの始まりだというのはよく分かりますが、私には苦手な音楽という他ありません。いまつらつらと考えていることは、やはり神学に対する教養なくしてメシアンの理解はあり得ないのではないだろうか、ということ。メシアンの少なくとも幾つかの作品は、音楽愛好家の誰でもがアプローチ可能な、普遍的で開かれたものではなくて、カトリックの教義を非常に深いレベルで共有する者にのみ、その狭き門が辛うじて開かれているのではないか、などと考えています。そのアプローチの至難さを思うと、半ば諦めの境地ではありますが、せめてトマス・アクイナスの著作の幾つかでも読んでみようかという無謀な気持ちも湧いてきます。メシアンの作品の中でもおそらく大変重要に違いないこの「変容」が、全く腹に入らないというのは実に悔しいものであります。
全体の理解とは程遠いのを承知で、備忘として全14楽章のちょっとした感想を記しておきます。各楽章の表題の邦訳は定まったものはないと思うので、ネットで拾ったものを仮に掲げておきますが、これが正しいのかどうか私には判断つきません。

第1セプテネール
第1曲 福音叙述
打楽器のみの開始に続いておもむろにユニゾンの合唱が歌い出す。 この楽章に限らず、オーケストラも合唱も巨大な編成の割に極めてストイックというか、不経済な書法が目立つ。
第2曲 御自身の栄光の体のかたどりに
歓びに溢れる冒頭の主題が印象的。合唱は前半またもやユニゾン、後ろ三分の一ほどがハーモニックな書法。拡大された調性によるやや辛口の音楽に甘い和音が時折現われる。
第3曲 イエス・キリスト、あなたは神の栄光の輝き
「クロノクロミー」の延長線上にある素晴らしい音楽。管弦楽、合唱とも室内楽的な密やかさから巨大編成ならではのマッシヴな響きまでとてもレンジが広い。
第4曲 福音叙述
第1曲とほぼ同様の音楽が繰り返される
第5曲 あなたの幕屋は何と慕わしいことか
抒情的な合唱に続いて、ピアノ、チェロ、シロリンバなどのソロを含む室内楽的な響きが美しい。
第6曲 それは永遠の光の輝き
女声のユニゾンとオーケストラの鳥の声による短い間奏曲風の楽章。木管とシロリンバ、ピアノが啼き交わす鳥の歌はなかなかカオティークで面白い。
第7曲 聖なる山の聖歌
40年代の諸作品に出てくる、不協和に軋みながら協和音に解決するメシアン独特の音形が現われる。静かで美しい合唱。

第2セプテネール
第8曲 福音叙述
第1曲、第4曲の再現だが、クセナキスを思わせる弦のグリッサンドが出てくる。かつての弟子が「メタスタシス」を書いてから10年以上も経って、なぜ引用めいた音形を書いたのだろうか?
第9曲 完全なる出生の完全なる承認
導入は最後の審判の如く打ち鳴らされるシンバルや喇叭の咆哮、男声ユニゾンが続くが、これが何度も繰り返され、第1曲の福音叙述、ソロ楽器による技巧的なフレーズ、男声ソロの単音によるテキストの朗唱、トニカで始まる調性感のある合唱などがモザイク状に組み合わされる。長大な楽章の中に、福音叙述や朗唱が嵌め込まれているのは、この楽章自体が入れ子状になった小規模なミサ曲であるようにも聞こえる。
第10曲 子らの完全なる世継ぎ
チェロの抒情的なソロ、薄いオーケストラを伴って歌われるユニゾンの合唱、言葉は矛盾しているが「巨大な室内楽」を聴いているよう。
第11曲 福音叙述
第1曲、第4曲、第8曲より幾分長く、開始は他の3曲と異なって上昇音形から始まる。
第12曲 このところは何と恐ろしい
ピアノのカデンツァに続いて40年代風の合唱が2回現われる。合唱はユニゾンから終盤のカオティークな叫びまで多様。
第13曲 完全なる三位一体の現出
点描的な書法の大変前衛的なオーケストラと、時にグレゴリオ風男声ユニゾンを伴う合唱、それに臆面もない協和音の奇妙な混合。
第14曲 栄光の光の聖歌
苦悶と陶酔の狭間を、軋みながら移ろい、協和音に至る合唱。好きか、と聞かれると困るけれども、ある意味メシアンの面目躍如たる音楽だろう。
(この項続く)

# by nekomatalistener | 2017-04-23 00:33 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

シューベルト 「美しき水車小屋の娘」D795

取引先の合田(ごうだ)さんという方からメールが来るたびに、頭の中で「太陽光だゴーダ♪」というCMがエンドレスで鳴りだして困っています。それに、業務で団体積立保険の振込承認をするたびに、「純金積み立てコツコツ♪」というCMがこれまたエンドレスで鳴りだします。もういや。





久しぶりのカフェ・モンタージュで、シューベルトの「美しき水車小屋の娘」を聴きました。

 2017年4月2日@カフェ・モンタージュ
 シューベルト 「美しき水車小屋の娘」D795
  ペーター・シェーネ(Br)
  武田牧子・ヘルムス(Pf)

40人ほどのキャパのカフェでシューベルトを聴く。考えただけでわくわくするようなリサイタル。さぞかしインティメートな一時間だろうと予想していたのだが、ピアニストが野太い音で序奏を弾きだした瞬間「あれっ?」と思いました。数秒遅れてバリトンが歌いだした瞬間、ああ、この声も身振りも大柄な歌にはこの伴奏しかないのか、と納得するものがありました。物理的に声がデカいという訳ではないが、もう少し大きなホールのほうが聴き映えがするだろうと思わせる声。ドラマティックというより、演劇的と言ったほうがしっくりくる感じがしました。
シューベルトの作品の中でも最も抒情的と思われがちなこのツィクルスが本当に凄いのは、こういった演劇的な歌唱であっても何の違和感もないところでしょう。この作品の白眉は、第17曲「いやな色」と第18曲「しぼめる花」の落差にこそあったのだと気付かされる。この二曲の間にはほとんど深淵といってよいぐらいの虚無が広がっているようにも思います。それ以前にも、あちこちに現れる長調と短調の交代、あのシューベルトの音楽のトレードマークのように言われながらも、どちらかといえば垢抜けない、素人臭くさえ思われたメチエが、シェーネの歌唱では千々に乱れる心そのものの表現として聞こえるのにも驚きました。
ただ、この日の歌唱の全てを肯定するつもりはありません。本当に息もつかせない演奏ではありましたが、心を揺さぶられるような思いはありませんでした。CDなどで聴いてきて、下らない三文詩人の詩がどうしてここまで昇華されるのか、なぜ涙を禁じ得ないのか、と不思議に思う経験もしてきたのですが、この日の演奏にそこまで思わせるものはなかったという他ありません。では、何が足りなかったのか。
これは本当に言語化するのが困難ですが、一つは歌い過ぎ、ピアノも鳴らし過ぎ、会場が狭すぎ、といった身も蓋もない言い方になるのでしょう。だがもう一つは(私の信条としてあまり形而上学的な言説は弄したくないのだが)、なぜシューベルトがこのツィクルスにおいて、有節歌曲の形式と、より自由度の高い形式を対比させながら書いたのか、という考察の有る無しに関わるような気がします。心の欲するところに従い則を超えず、ではないが、最初の「さすらい」からして、歌手もピアニストも、どうもこの則を超えて奔放に走ってしまった感がある。有節歌曲の頸木とシューベルトのイマジネーションのせめぎあいがあればこそ、「しぼめる花」の後半、形式を大きく逸脱して、長調に転じてからの音楽の広がりが聴き手の涙を絞るのだろうと思うのですが、終にそのレベルには至らなかった、それどころか、最後の2曲が付け足しのように聞こえてしまった、ということでしょう。これは芸術家の円熟といったことではなくて、分析的アプローチの有無の問題という気がします。
だが、つらつら思うところはあっても本当に良い歌唱だったと思います。声質も容姿も気持ちよく、まだまだ伸び代のある歌手と思いました。
武田牧子・ヘルムスの伴奏、冒頭にも書いた通り野太く歌手に負けないピアノ。終了後のトークによれば、ずいぶんと久しぶりの合わせで、シェーネが前日に日本に着いたためリハもほとんど取れなかったようですが、歌にぴったりと寄り添ってどんなに劇的であっても破綻しないのはさすがです。ペダルが少な目なのは良いとして、もう少し余韻のようなものがあれば、というのは私の悪い癖の無い物ねだり。

最後にどうでもいい話。今回のチラシには「水車屋の娘」とあって、店主のトークによれば、彼女は粉屋の親方のお嬢さんであるので、水車「小屋」の娘ではなく「水車屋」という呼び名がよかろう、とのこと。私は以前ブリテンの「真夏の夜の夢」に関して書いた通り、作品の表題で逐語訳をしても仕方がないし、長く親しまれ、日本語としてのリズムが良い呼び名でいいと思っているので、断然「水車小屋の娘」派です。そんなに原義が大切なら「美しき製粉業者の娘」と呼んだらいいんじゃないか。ま、どうでもいいんですが(笑)。
(この項終り)

# by nekomatalistener | 2017-04-07 01:01 | 演奏会レビュー | Comments(2)

ワーグナー 「ラインの黄金」 びわ湖ホールプロデュースオペラ公演

マクドのポテトの端っことか切れ端がカリカリに揚がってるのがたまに混じってるのって、けっこう幸せ。





仕事の忙しさにかまけてたらあっという間に3週間以上も経過。いろんな方の感想も出尽くした頃に間の抜けたブログ更新ですが、自分の為の備忘として、あれやこれやの記憶が薄まらないうちにメモを書いておこう。

 2017年3月5日@びわ湖ホール
 ワーグナー 「ラインの黄金」
  ヴォータン: 青山貴
  ドンナー: 黒田博
  フロー: 福井敬
  ローゲ: 清水徹太郎
  ファゾルト: 片桐直樹
  ファフナー: ジョン・ハオ
  アルベリヒ: 志村文彦
  ミーメ: 高橋淳
  フリッカ: 谷口睦美
  フライア: 森谷真理
  エルダ: 池田香織
  ヴォークリンデ: 小川里美
  ヴェルグンデ: 森季子
  フロスヒルデ: 中島郁子
  管弦楽: 京都市交響楽団
  指揮: 沼尻竜典
  演出: ミヒャエル・ハンペ


「ラインの黄金」をまともに通して聴くのって久しぶりのような気がします。高校生の頃に「トリスタンとイゾルデ」の毒にあてられてしまい、大学に入った記念に、「ニーベルングの指輪」全曲のベームのバイロイト盤(当時LPレコードで16枚組だったと思う)を買って、浴びるように聴いたのも今は遠い昔。その頃も、「ワルキューレ」以降の3作に比べて、「ラインの黄金」は音楽的に今一つのような気がして、それほど真面目に聴いた記憶がありません。
しかし、今回の公演を聴いて、やはり抜群に面白い音楽であると改めて認識しました。以前このブログで「マイスタージンガー」のいくつかの動機を細かく分析したことがありましたが、この「ラインの黄金」についても一度はそういった作業をしてみたいという気になっています。そんな誘惑に駆られるのも、偏に沼尻の指揮のおかげといえそうです。
沼尻さんの指揮といえば、このブログでは過去プッチーニやコルンゴルト、そして「オランダ人」などを取り上げてきて、いずれもサクサクと進む音楽に何かしら不満めいたものを書いてきました。その指揮の真価に気付いたのは昨年のドニゼッティの時でしたが、今回の「ラインの黄金」の指揮は素晴らしいものであったと思います。冒頭の変ホ長調のコードが延々と続く序曲といえば、混沌から次第になにか形のあるものが浮かび上がってくる、といった演奏が多いと思いますが、沼尻の音楽は常に明晰で混沌の対極にある音楽といった感じ。こまかく動く弦の内声を克明に聴かせて、これほどの大曲の演奏としてはあり得ないほどの精緻な印象を受けました。こういったアプローチは敢えて言えばブーレーズのそれに近いと思いますが、沼尻のほうがより劇場的なセンスがあるというのか、醒めているようでいて、燃焼度が高いというのか、要は長時間飽きずに聴かせるオペラ職人としての技を備えているということでしょう。この人が昔からこうなのか、ここ最近進化を遂げてこうなったのか、数えるほどしか聞いていない私には俄かに判断がつかないけれど、今回の公演に限って言えば、情におぼれない音楽はそのままでありながら、四つの場をつなぐ間奏が文字通り白熱の演奏で、全体として大変メリハリのある強靭な音楽となっていたというのが真相かと思います(それにこたえる京響も素晴らしいものでした)。これから毎年一作ずつ行われる指輪の公演、とても期待できるものになりそうです。

オーケストラはこんなに素晴らしかったのに、全体としての印象がそれほどでもないのは、演出によるところが大きいと思います。ミヒャエル・ハンペのプロジェクションマッピングを駆使した演出については、以前に「さまよえるオランダ人」で絶賛したところですが、今回の場合、ト書き通りになんでもできてしまうが故のPMの限界というものをまざまざと感じたような気がします。確かに冒頭のライン河の水底の場面は大変美しく、水中を舞うラインの乙女の映像と、舞台上で歌う歌手が自然に入れ替わるのも見事というほかなかったのですが、ワルハラ城を望む天上界やアルベリヒとミーメの住む地下世界の描写は、あまりにも表現がト書き通りに過ぎて、どうにも興醒めのする思いでした。少なくとも聴き手の想像力の一切を封じ込めてしまうのは、やはり舞台芸術としてどこか違うのではないかとの疑念をぬぐうことができません。PMの威力を否定するつもりは毛頭ありませんが、この技術の凄さに、観客の想像の余地を残す工夫のようなものが加われば、というのは無い物ねだりでしょうか?

歌手勢は大変充実しており、特に私の観た二日目の公演、ほぼオール日本人キャストでよくぞここまで隙のない布陣を組めたものだと感心した次第。ここまで粒がそろっていると、個別の歌手について云々するのも、技術的にどうこういうよりは個人の好き嫌いの話になってしまいますが、それでも特に印象深い歌い手を記すと、まずはローゲの清水徹太郎。「ジークフリート」のミーメ同様、大変重要な役回りだと思いますが、十分に重責を果たしたといえるのではないでしょうか。そのドイツ語のデクラメーションについて云々する力は私にはないが、とにかく膨大な台詞を伝えるだけで流麗な旋律がまったくないと思われがちなローゲの歌が、音楽としても自律的で魅力あるものとして聞こえたことは強調しておきたい。アルベリヒの志村文彦も、性格的なバリトンとしての表現力が凄いと思いました。楽譜に書かれた音との乖離がどこまで許容できるかという問題はあるのかも知れませんが、オペラが一方で演劇でもあることを改めて感じました。
出番は少ないが、去年「トリスタンとイゾルデ」を聴いた福井敬(フロー)と池田香織(エルダ)のコンビがまたもや素晴らしい歌を聞かせてくれました。「ジークフリート」でのエルダはもう少し出番が長いから、是非とも彼女のエルダを再来年に聴いてみたいものです。
ヴォータンは神としての威厳を強調するか、それとも人間臭さというのか、神であるのに碌でもないことばかりやらかす輩という側面を出すかで表現が大きく変わるのだろう。かつてのホッターなんかを聴いてきたオールドファンの受けはいざ知らず、私はこの後者寄りのヴォータンは悪くないと思いました。
その他すべて割愛するが、どの歌手も誰一人これはちょっと・・という人がいなかったのは大変なことだと思います。できればダブルキャストの両方を聴いておきたかったと思いました(一日目を聴いた方の感想をみていると両日行く値打ちは十分あったようだ)。
「東京・春・音楽祭」では来月いよいよ「神々のたそがれ」公演。関西住まいの身には羨ましい限りだが、関西でも上質なリング上演が始まったことを心から喜びたいと思います。
(この項終り)

# by nekomatalistener | 2017-03-28 00:27 | 演奏会レビュー | Comments(2)

ドニゼッティ 「連隊の娘」 びわ湖ホール公演

ブログのアクセスレポートの検索キーワードを見てちょっと笑ったやつ2件。
「ポゴレリチ 客席を見る」
「フロリアン フォークト 嫌い」
これで私のブログを訪れた方がどうかがっかりしてませんように。





昨年の「ドン・パスクァーレ」に続いてまたもドニゼッティ。今回は中ホールでの公演でしたが、ベルカント好きのファンに支えられてそれなりの盛況でした。

 2017年2月12日@びわ湖ホール中ホール
 ドニゼッティ 「連隊の娘」
  マリー: 飯嶋幸子
  トニオ: 小堀勇介
  ベルケンフィールド侯爵夫人: 鈴木 望
  スュルピス: 五島真澄
  オルテンシウス: 林 隆史

  園田隆一郎指揮 大阪交響楽団
  びわ湖ホール声楽アンサンブル
  演出: 中村敬一

演出の中村敬一氏によるプレトークがあって、ヴェルディの「ナブッコ」の少し前に書かれたことから、オペラというものが貴族やブルジョア階級の嗜みから市民の愉しみに変わりゆく時代の推移について触れられていましたが、実際の楽しい舞台を観ているとまぁそんなことはどうでもよくて、ひたすら音楽を楽しむというのが正しい享受のあり方という気がします。
実際、吉本新喜劇みたいなお話に、ドニゼッティの中でも極め付けの脳天気な音楽。このブログで何度か書いてきたように、ドニゼッティには「ロベルト・デヴェリュー」や「マリア・ストゥアルダ」のような天才的な作品があるのだが、こちらはお世辞にも傑作という感じはなくて、せいぜい手練れのオペラ職人のやっつけ仕事といったところ。だが、トニオの有名なハイCが頻出するアリアを聴くとどうしようもなく胸が高鳴るし、マリーのロマンスには思わず涙腺が緩んでしまう。この快楽と無縁の人のほうが寧ろ世間のクラシック好きやコンサートゴーアーの中ではマジョリティかも知れないというのは寂しくもあるけれど、冬枯れの琵琶湖畔でこういった密やかな愉しみを味わうにはその寂しささえ一種のスパイスになるような気もします。

今回の公演は何より主役の二人の歌唱が素晴らしかったと思います。トニオの小堀勇介は初々しい歌いぶりで大変好ましく思いました。見た目と声と純朴な役柄が寸分のずれもなく一致している感じ。例の9連続ハイCは、あまりにも軽やかなので拍子抜けしそうになります。これならCisでもDでも大丈夫そうと思うが、これは大変なことに違いありません。パヴァロッティのレコードで聴いてきたような興奮とは違いますが、どちらかと言えばバカでおっちょこちょいなトニオのアリアには背筋に電流が走るみたいな興奮は不要なのだと気付きました。それでもびわ湖の客は皆さん耳が肥えてらっしゃるのか割れんばかりの拍手。小堀さんも本当にうれしそう。いいもの聴いたなと思います。
マリーの飯嶋幸子も策を弄せず愚直に役柄に取り組んでとてもよかったと思います。コロラトゥーラも危なげなく、ロマンスもしんみりと聴かせます。もっと手練手管の限りを尽くすみたいなやり方もあるんじゃないか、と思いながらも、この素朴な人たちばかりのオペラにはこれで十二分じゃないか、とも思います。
その他ではスュルピスの五島真澄が美声のバリトンで思いのほか良かったと思います。最後にちょこっとだけ出てくるクラーケントルプ公爵夫人を増田貴寛が演じていましたが、まるでマツコ・デラックスみたいな衣装で存在感を発揮。侯爵夫人の鈴木望も最後に悲しみと威厳をちらっと垣間見せて後味よく大団円を迎えました。
あと忘れてはならないのが兵隊や農夫や小間使い達といった役柄の合唱。この軽いオペラにはもったいないほどの立派な合唱で、贅沢な気分を味わえました。

園田隆一郎の指揮も秀逸。なんの引っ掛かりもない脳天気な音楽だからこそセンスがまともに出てしまう怖さがある音楽ですが、本当になんの引っ掛かりもなく楽しめたのは実は凄いことだと思います。初演当時のパリの当世風なのか、些か軽佻浮薄な音楽と、ベルカントの神髄たるロマンスが何の矛盾もなく同居するこの音楽で指揮者のセンスの良さを感じたのは意外な喜びでした。
演出もまた妙なひねりの一切ないもの。衣装も身のこなしも兵隊さんは兵隊さんらしく、貴族は貴族らしく、といった感じ。下手にはしゃがれると辟易すること必至のお話だけにこれはありがたい。よくも悪くも素直、という言い方があるけれど、今回はその素直さがすべて良い方向にいったんじゃないかな。フランス風のオペラ・コミークなので地の台詞による学芸会みたいな芝居が音楽を繋いでいくのですが、これが全てフランス語。まぁ若干尻がもぞもぞする感じもあるものの、フランス語と日本語のまぜこぜよりはマシかなといったところ。難しいものです。
(この項終り)

# by nekomatalistener | 2017-02-15 00:43 | 演奏会レビュー | Comments(0)