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Olivier Messiaen Complete Editionを聴く(その16)

いつか自分が死ぬ直前には、たとえばバッハのコラールなんかが頭の中で鳴っているだろうか。よりによって「有馬兵衛の向陽閣へ~♪」みたいなんだったらやだな。





落穂拾いみたいな雑多な曲を集めた1枚。

CD31
①主題と変奏(ヴァイオリンとピアノのための)(1932)
②キリストの昇天(1935)
③ミのための詩(1937)
④ステンドグラスと鳥たち(1988)
⑤ヴォカリーズ・エチュード(1935)

①ギドン・クレーメル(vn)、マルタ・アルヘリチ(pf)
②チョン・ミュンフン指揮バスチーユ歌劇場管弦楽団
③ノエル・バーカー(Sp)、ロバート・シャーロウ・ジョンソン(pf)
④イヴォンヌ・ロリオ(pf)、カール・アントン・リッケンバッハー指揮ベルリン放送交響楽団
⑤ナタリー・マンフリーノ(Sp)、マリ・ヴェルムーラン(pf)

①1985年4月②1990年10月③1971年5月4-7日④?⑤2008年7月4日録音

「キリストの昇天」(1932/33)はオルガンのためのバージョンを先日紹介しましたが、このオーケストラ版が先に書かれており、後から第3曲を差し替えてオルガン用に編曲したとのこと。オーケストラ版は、良くも悪くも先人達からメシアンが得たものが露わに示されているけれども、オーケストラ・ピースとしての完成度の高さはもっと喧伝されて然るべきだろう。その穏やかな曲調と相俟って、もっとコンサート等で取り上げられないものかと思います。「先人達から得たもの」と書きましたが、特に第1曲における「パルジファル」の影響、第3曲のオリエンタリズムにおけるサンサーンス、そしてもちろんドビュッシーの影響は歴然としています。メシアンとサンサーンスの比較に異を唱える方も多かろうと思いますが、日本におけるサンサーンスの評価というのは不当に低いのではないかと思う(文士崩れの評論家の酷評はともかく、プロの音楽家の評価は概ね高いと聞く)。メシアン自身、後にサンサーンスを批判しているようだが、前衛音楽家として守旧派の代表たるサンサーンスを批判するのは当然として、少なくともこの時期のメシアンのオーケストラ書法にはサンサーンスの刻印が刻まれているような気がします。
チョン・ミュンフンの演奏はその精緻さで際立っていると思います。初期作がこれほどのレベルでレコーディングされるというのは本当に素晴らしいことだと思う。

以前このメシアンのシリーズその6で、甲斐貴也氏の論評を紹介したが、それによると「主題と変奏」(1932)と「ミのための詩」(1937)はどちらも最初の妻クレール・デルボスとの結婚が直接の契機となってかかれたものらしい。そう思って聴くからかも知れませんが、確かにこの2曲、かたやヴァイオリンとピアノのデュオ、かたや連作歌曲集と形態は違えど双子の兄弟のように似ています。それは作曲技法としては移調の限られた旋法による明確な調性作品、聴いた印象としては穏やかで幸せに満ちた曲調が支配的。いまだ習作の域を出ない初期作とは言え、不思議な魅力を持つ佳作だと思います。
「主題と変奏」はクレーメルとアルヘリチのデュオで、こんな落穂拾いみたいなディスクにはもったいないくらい素晴らしい演奏。「ミのための詩」はもっと透明な、天上的な声で聴いてみたいという気もするけれど、曲を知るには何の問題もないと思います。

ブーレーズとアンサンブル・アンテルコンタンポランの委嘱で書かれた「ステンドグラスと鳥たち」は一曲の大半が鳥の歌から成り立っている音楽としては最後のものだろうと思います。ブーレーズの委嘱だから、という訳ではないのでしょうが、晩年の作としては辛口の部類。スコアがどうなっているのか分かりませんが、途中で「クロノクロミー」のEpodeの箇所を思わせるようなカオスが出現するのが非常に印象的。10分に満たない小品ながらも重要な作品であると思います。シュレーカーなどちょっとマニアックな作品を取り上げることで知る人ぞ知る指揮者、カール・アントン・リッケンバッハーの指揮も見事。

1935年の「ヴォカリーズ・エチュード」は未だ習作の域を出ていない小品。そもそもこのアルバム、”Complete Edition”と言いながら結構遺漏が多いのだが、この手の初期作品はもう十分、といったところ。きれいな曲だし、もし好きな方がおられたら申し訳ないのだが・・・。
(この項終り)

by nekomatalistener | 2017-10-26 00:18 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

Olivier Messiaen Complete Editionを聴く(その15)

久々の映画鑑賞でポール・バーホーベンの「エルElle」を観る。イザベラ・ユペール扮するヒロインがレイプ犯を追い詰めるサイコサスペンスかと思ったら、中ほどで犯人があっさり分かってからの全く先が読めない展開が凄い。フェミニストが発狂しそうな描写が山ほどあるけど、多分何を言われても歯牙にもかけなさそうなのが潔い感じ。登場人物でマトモな人間が一人もいないのも笑っちゃうが、特に敬虔なクリスチャンへの悪意がハンパじゃない。おそろしく病んだ物語なのに後味が悪くないのも不思議といや不思議。でも、映画が終わって館内が明るくなった時の、観客のなんともいえない残尿感みたいなもやもやが最も面白かったかも。





メシアンがオルガンのために書いた二つの大作を聴いていきます。かたや戦後の前衛の旗手であった頃の作品、もう一つは晩年の作品です。


 CD12/13
 オルガンの書(1950)
 聖体秘蹟の書(1984)

 オリヴィエ・ラトリー(org)
 2000年7月パリ・ノートルダムで録音


私はどうもメシアンのオルガン作品が苦手だということは再三書いてきました。1950年に作曲された7曲からなる「オルガンの書」についてもなかなか手強い印象ですが、これまで聴いてきたオルガン曲のなかでは最も面白い作品でした。手元にスコアがないので解説の受売りですが、構成原理としてはヒンドゥーのリズムとセリエリズムと鳥の歌の混合、それがカトリックの教義(楽譜にはコリント人への第一の手紙13:12や、ローマ人への手紙11:36が記されているらしい)と結び付けられているといったところ。確かに、この前後の作品と比べても、というよりメシアンの全ての作品の中でも最も前衛的な作風で、1948~49年あたりの「カンテヨージャーヤー」や「4つのリズムのエチュード」に通じるものがあります。ただ、ピアノと違ってオルガン作品の場合、めくるめくようなヴィルトゥオジテはあまりなく、また人がオルガン作品に期待するような分厚くマッシブな響きはとても少なくて、(激烈な無窮動の第6曲を別とすると)上記の構成原理がむき出しになっているかのような、あるいは点と線だけで書かれたような薄い響きが殊更実験的な印象を強めています。終曲は静謐な印象ながらも複雑なリズムカノンの技法が用いられていて、「音価と強度のモード」でやったことをオルガンで展開しようとしたのかも知れません。数回耳で聴いた程度ではなかなか腹に入らない作品ですが、これは今後何度も聴いてみたいと思います。

1984年の「聖体秘蹟の書」はメシアンの最後のオルガン作品であり、全18曲からなる大曲。その大半はパリのサント・トリニテ教会でのメシアン自身の即興演奏を基にしているといいます。私の苦手意識を横に置いておくと、これはまさにメシアンの生涯に亘るオルガン作曲技法の集大成と呼ぶに相応しいもので、そこには鈍い色彩の油絵のような分厚い和音から、晩年の特色である薄い和声、点と線で書かれたようなテクスチュアまで、さまざまなグラデーションが見られる。また禍々しい不協和な響きからメシアン初期の、あの快楽とも苦痛ともつかない美しくも歪んだ和声、また第16曲のように殆どイージーリスニングと見紛うばかりの甘い和声まで、調性と無調の間のグラデーション、さらにグレゴリオ聖歌風のモノディとホモフォニーの教義問答、徹頭徹尾鳥の歌で構成された楽曲(第15曲)、激烈なトッカータに甘いカンティレーナと、本当に様々な技法が次々と立ち現れるのは壮観という他ありません。しかし、その野放図に伸び広がるゴシック建築みたいな悪趣味ぶりというのは、やはり私にはなかなか素直に受け入れがたい側面もあるのでした。おまけに、18曲それぞれに例によって宗教的な表題がついており、最後まで徹底した宗教オタクであったメシアンは、その点でも私には遠い音楽家であったと言わざるを得ません。もう少し聴き込めば印象も変わるだろうか、と思いながら、なかなか聴き通すのが困難な作品でした。
(この項終り)

by nekomatalistener | 2017-10-08 14:33 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

アンサンブル・ノマド結成20周年記念”饗宴” vol.1 20世紀の華

ラッコ鍋(笑)。





このところ出張や会食続きでブログ更新もままなりませんが、記憶が薄れる前に・・・


 アンサンブル・ノマド第59回定期演奏会
 2017年9月23日@東京オペラシティリサイタルホール

 P.ヴァスクス: 遠き光(1996-97)
   vn: 野口千代光 指揮: 中川賢一
 M.フェルドマン: ヴィオラ・イン・マイ・ライフⅢ・Ⅰ・Ⅱ(1970)
   va: 花田和加子 指揮: 佐藤紀雄
 I.クセナキス: エオンタ(1963)
   pf: 中川賢一 指揮:佐藤紀雄
 武満徹: 波・ウェイヴス(1976)
   cl: 菊池秀夫


ネットでたまたま目に留まったこのコンサート、クセナキスのエオンタを生で聴ける機会など、残りの生涯でどれだけあるだろうかと思わずチケットを押さえました。結果、エオンタに限らず、本当に感動する演奏会でした。感動といっても色んな種類があるのだけれど、情でも知でもない、なんというか魂を根底から揺すぶられるというか、ああ聴きに行って良かったと心の底から思えるような体験でした。

まずはヴァスクスの「遠き光」。このアンサンブル・ノマド結成20周年記念コンサートは「”饗宴” メンバーによる協奏曲集」と銘打たれていて、この作品はヴァイオリン・ソロと弦楽合奏(4-4-3-2-1)によるもの。ギドン・クレーメルが取り上げているのでご存じのかたも多いと思いますが、徹底的に悲劇的な短調で書かれた作品。その悲劇的な色調というのは、敢えて喩えればバーバーの弦楽のためのアダージョみたいな感じもするが、あのアダージョがケネディの死とか映画「プラトーン」とは何の関係もないのと同様、ヴァスクスが生まれたラトビアという国の過酷な歴史と結び付けることは慎まねばならない。しかし、ヤナーチェクの「1.X.1905.」の得体の知れない悲劇性に対して、それを言葉にしようと思えば、音楽の背景にある歴史を引き合いに出さなければどうにも説明のつかないものが残るのと同様、単に作曲上のメチエをあれこれ並べてもどうにも割り切れないもの、胸を塞ぐような重苦しいものが残る。かなり長い作品で、聴いて楽しいものではないが、曲の中程よりすこし終わり方、ヴァイオリンのカデンツァのあとの地獄の扉が開いたかのようなグロテスクなワルツなど、最後まで聴かせる力があることは確か。演奏も見事でした。

短い休憩のあと、佐藤紀雄氏が舞台に出てきて、フェルドマンの演奏に際してパンフレットやチラシは手に持たず鞄のなかへ、という異例のお願いをされました。ひたすらピアニッシモの世界が続くフェルドマンの演奏前には実に賢明な措置。また曲順をⅢ・Ⅰ・Ⅱの順で行うこと、これは直感によるもので理論的な説明はできないこと、もっとも作品自体、三曲を一気に演奏することは想定していないこと、などをお話しされました。この日演奏されたヴィオラと小オーケストラのための作品は、フェルドマンがケージに傾倒していた時期から後期の静謐な世界に移行し始める時期のもので、点描法というのか、ポツポツと現れてしばらく空間を漂った後しずかに消えていく音が実に美しい。息をするのも憚られるような静寂の中、指揮者が手を降ろして初めて深く息をつくというのは、若干聴き手にマゾヒスティックな姿勢を取らせるところもあるが、これこそフェルドマンを生で聴く愉しみではありました。

もう一度短い休憩を挟んでいよいよお目当ての「エオンタ」。演奏会でクセナキスを聴くのは、はるか昔にストラスブール・パーカッション・アンサンブルが来日したときの「プレイヤード」以来かもしれません。私はこの「エオンタ」が好きで、昔は高橋悠治のレコードくらいしかなかったけれど、最近はyoutubeでけっこう色んな演奏が聴けたりする。ピアノパートは基本的に「ヘルマ」と似た書法が多く、ピアノの全域に亘って確率的に(耳で聴けはほとんど無作為のように)音が現れ、しかも五連符と六連符を重ね合わせて更にいくつもの装飾音符が付くといったもの。これに金管五重奏(2tp・3tb)のノイジーな合奏が重なるのだが、これまでCDやyoutubeで聴いてきた演奏を大きく分けるとピアノのchaoticな側面を強調したもの(技巧的な制約でchaoticにならざるを得ないものも含む)と、それでも必死に論理的な書法を伝えようともがいているようなものに大別出来るような気がします。中川賢一のピアノは、どちらかと言えばchaoticに近いということになるのだと思うが、土台楽譜通りに弾くことはほぼ不可能であり、一瞬でも気を抜けば即崩壊してしまうような書法に対して、鬼気迫る形相でとにもかくにも弾き切ったことに対して私は震撼させられました。エオンタのピアノについて巧い下手を云々することは、実際に自分で弾いたことのある人間だけにしか許されないだろうというのが私の持論。金管の5人は舞台の上を歩き回り、ばらばらの方向に向かって楽器を吹く(そのために舞台袖に二人の副指揮者がつく)。その凶暴なグリッサンドやトレモロは白亜ではなくてまさに浅田彰のいう「古い赤土のギリシャ」の世界だと思う。ピアノ・金管とも見事な演奏だったと思いますが、この日一番のMVPはピアノの譜めくりのお姉さんだったかも。Boosey&Hawkesのスタディスコアをお持ちの方は分かっていただけると思いますが、アレは並みの読譜力では目で追えるシロモノではありません。

最後の武満徹の「ウェイヴス」、私は武満に対してすこし苦手意識があるけれど、これは傑作だと思います。舞台中央にクラリネット、舞台上手よりに打楽器奏者の奏するバスドラム、中央後方にホルン、それを挟むように二人のトロンボーン。ホルン奏者の横には薄い銅鑼のような楽器、トロンボーン奏者の横にはスネアドラムが配されていて、強く楽器を吹くと銅鑼やスネアが共振して微かに砂がこぼれるような音を発する。楽譜を照らすライト以外は照明が落とされ、文字通り波が寄せては返すような響きが続く。それは繊細極まりないのだが、音響の羅列ではなくて音楽としての自律性を感じさせるだけの強靭な何かがあって、いつもの「タケミツトーン」とは少し色合いの異なる音楽だと思う。最初に私が「傑作」と書いた所以です。

以上、駆け足で備忘を書いたのだが、それにしてもアンサンブル・ノマドの軌跡というのは素晴らしい。その長い業績の中でも、この日のプログラムは特に聞き手の咀嚼力を要するものだろうと思います。私が通常の意味でコンサート・ゴーアーになれないのは、別に古典やロマン派を忌避しているのではなくて、たまにこういった演奏会に行くとなると、それなりに準備をして、当日必死の思いで咀嚼し、そのあと時間を掛けて反芻するだけの時間が必要となるから、というのが当たっているかも知れません。実際、一昨年のツィンマーマンのレクイエムの演奏会や、今回の演奏会のあと、しばらく虚脱状態になって音楽を聴くのが少し辛くなります。こういった現象を何と呼べばいいのか、すこし考えあぐねています。
(この項終り)

by nekomatalistener | 2017-10-01 23:32 | 演奏会レビュー | Comments(0)

佐渡裕のトゥーランガリラ交響曲

「バーニラ、バニラ、バーニラ求人、バーニラバニラで高収入~♪」って大音量で流してるフーゾク系アドトラック、ふとしたはずみに頭の中でエンドレスで鳴り出すのでやめてほしい。





随分日が経過したので備忘のみ簡単に。


 兵庫芸術文化センター管弦楽団 第99回定期演奏会
 2017年9月17日@兵庫県立芸術文化センター
  メシアン トゥーランガリラ交響曲
  (アンコール)
  ピアノとオンド・マルトノのための未刊の4つの小品より 第1曲

  指揮: 佐渡裕
  ピアノ: ロジェ・ムラロ
  オンド・マルトノ: 原田節
  管弦楽: 兵庫芸術文化センター管弦楽団


昨年の京響に引き続いて今年もトゥーランガリラを聴くことができました。
佐渡裕の指揮というのは、意外に先入観を覆すような読めないところがあって、どういった演奏になるのか楽しみでしたが、今回の演奏は一言でいえばエンタメ志向の強いとても分かりやすい演奏。それがこの人の強みであり、また弱みでもあるといったところ。
昨年聴いた高関健氏の指揮を思い出すと、その違いは歴然としています。高関の演奏は(どこがどうと具体的に言葉にするのは難しいが)分析志向といっていいものでしたが、佐渡のほうは早い楽章は異様なほど早く、遅い楽章もあまり粘らない。退屈しがちな聴き手にはちょうど頃合いなのかも知れません。「星の血の喜び」など、猛烈なテンポで金管が派手に雄叫びをあげるのが刺激的で、これをかっこよく感じる聴き手も多いのでしょうが、私は本当はこの作品、オーケストラの技量自慢のダシではなくて、もっとスコラ哲学がめんどくさいという意味合いで「めんどくさい」作品だと思うので、なんだかメシアンの「レスピーギ化」といった感じがしました。「愛の眠りの園」はとてもきれいで、素晴らしい弱音が聴けたのだが、やはり緩徐楽章全体の印象はあっさりしてる、というもの。昨年のブリテンの舞台、ボトムとタイターニアの濡れ場でねっとりとエロい音楽をやった人にしてはちょっとなぁ、という感じ。
現実問題として、関西(京都はちょっと違うが)でトゥーランガリラをやろうと思えば、こういうエンタメ路線しかないのかも知れません。実際、今回の演奏でも(でさえ)途中で辛抱堪らず席を外す客がかなりいたので、仕方ないのかなとも思います。でもそれではこぼれ落ちていく要素がこの曲にはたくさんあって、それをこそ実演で聴きたいという客もいるはず。例えばオンド・マルトノと木管の絡み合いはCDで聴くだけでは絶対に分からない面白さがあると思うのですが、それを味わう環境ではなかったということ。関西(しつこいようだが京都を除く)で20世紀作品をやる意義は大きいはずだが、結果は残念という他ない。
良し悪し、好き嫌いは別として、ちょっと面白かったのは、ガムラン隊(ピアノ、オンド・マルトノ、チェレスタ、ジュ・ドゥ・タンブル、ビブラフォン)と、金管とそれ以外の楽器が、マッスとしても溶け合わずにバラバラに聞こえたこと。猛烈なテンポでも、3群の各々の縦の線はよく合っていて、技量の高さが分かるのだが、3群がそれ以上溶け合わないのは不思議。たぶん、メシアンのスコア自体にそう聞こえがちな要素があって、あまりテンポを煽るとそれが露わになるということでしょうか。主役ともいうべきムラロのピアノは見事だが、本当はもっと表現したいことがあるだろうに、と気の毒に思える瞬間もありました。アンコールの初期の小品のほうが寧ろ表現者としてはカタルシスがあったのでは、と思ったほど、これは意外な聴きものでした。
(この項終り)

by nekomatalistener | 2017-10-01 23:10 | 演奏会レビュー | Comments(0)