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Olivier Messiaen Complete Editionを聴く(その9)

分け入つても分け入つても社畜





60年代の作品を聴いていきます。今回は1965/69年に書かれた大規模なオルガン作品。

  CD10
  聖なる三位一体の神秘への瞑想(1965/69)
  
  オリヴィエ・ラトリー(org)
  2000年7月パリ・ノートルダムで録音

1965年の即興演奏を元に作曲され、メシアン自身の演奏で1972年3月29日、ワシントンDCの無原罪の御宿りの聖母教会で初演されています。
どうも私はメシアンのオルガン作品と相性が悪いのではないかと考えています。ピアノや管弦楽のための作品にくらべると、より実験的、即興的な要素が強いように思われますが(それはとりもなおさず、メシアンにとってオルガンが最も身近な楽器であったという証左でもあるのでしょう)、聴く側からすれば些かしんどいという感じがします。今回取り上げたような長大な作品だと、最後まで何度も聴き通すのはかなり忍耐のいる仕事でした。いや、実験的であること、長大であることが悪いのではないでしょう。私はもっと前衛的で長大な作品、例えばシュトックハウゼンであれフェルドマンであれ、これほどまで苦行めいた聴き方はしてこなかったはず。ならば相性が悪いとしか言いようがありません。それと、他のジャンルの作品とくらべてカトリシズムへの耽溺の度合いが著しく強い感じがして、それもつい敬遠してしまう原因かもしれません。まぁそれを言うなら「20の眼差し」だって同じようなものかも知れませんが、あちらは絢爛たるピアノ技巧が楽しみの大きなポイントになっているので大部分の聴き手はカトリシズムの教義を忘れて聴くことができる。だがそれが果たして正しいメシアンの享受のあり方かという疑問を持たざるを得ません。少なくともオルガン作品の場合、楽器の制約によってピアノほどの目覚ましい技巧は使えないので、その分カトリシズムという要素が全面に出てきて、私のような不心得な聴き手を苦しめるのかもしれません。

全部で9つの楽章から出来ていますが、解説によれば3つの性格を持つ3曲のセットから出来ているとのこと。すなわちⅠ:三位一体のそれぞれ(父と子と聖霊)に捧げられたもの(第1・6・7曲)、Ⅱ:神の様々な属性を表す音楽(第2・5・8曲)、Ⅲ:トマス・アキナスと出エジプト記に書かれた神の記述(第3・4・9曲)。曲順にこのカテゴリーを記すとⅠ→Ⅱ→Ⅲ→Ⅲ→Ⅱ→Ⅰ→Ⅰ→Ⅱ→Ⅲとなっていて、タイトルの三位一体と音楽の3曲×3セットの構造が照応しています。一方、この作品の中でメシアンは"langage communicable"という技法を第1・3・7曲で用いて音と言葉(文字)を照応させようとしているらしい。これが何を意味しているのかはスコアを取り寄せて分析しないと何とも言えませんが、これもまた晦渋な印象の原因なのかもしれません(ふと思い立って楽譜販売のサイトをみたら税込で22,356円もするので絶対取り寄せないと思うけど・・・)。
解説はともかく、耳で聴いた印象をもう少し分析すると、概ね3つのタイプの音楽にカテゴライズできるような気がします。まず9曲中6曲がオッフェルトリウムとでも呼べそうなソロと応唱が交替していくタイプの音楽で、その内第1・5・9曲が調性のないソロに先導され(カテゴリーA)、第2・6・8曲がグレゴリオ聖歌風のソロに先導されます(カテゴリーB)。全体に不協和音と無調的なパッセージに満ちた音楽の中で、カテゴリーBの3曲は比較的取っつきやすくて、聴いて楽しくまた美しい響きが随所に出てきます。第2曲のソロはあの「天の都市の色彩」で聴かれた東洋風の旋律で、私はてっきりガムランにインスパイアされたものと思っていましたがグレゴリオ聖歌をモディファイしたものと言われたらそんな気もしてくるのが面白い。第3・4・7曲はオッフェルトリウムの構造を持たないもので、トッカータ風であったり鳥の歌であったり、といった曲想(カテゴリーC)。これを曲順に並べるとA-B-C-C-A-B-C-B-Aとなって、シンメトリックという訳ではないがやはり3曲×3セットという構造が見て取れます。もっとも、こうやって分析しても苦手な作品が聴き易くなるわけでもなく、やはり難物だと思わざるを得ません。

演奏についてはこのシリーズの(その5)に書いた以上の印象はありませんので繰り返しません。何度聴いても腹に入らない音楽ですが、しばらく冷却期間を置くことにしましょう。
(この項続く)

by nekomatalistener | 2017-01-08 18:41 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

三輪眞弘の個展を聴く

紅白は家人が観るのでなんとなく目に入るだけなんだけど、SEKAI NO OWARIだけは目が耳が否応なく吸い寄せられる。なんかJ-POPで世界観みたいなものを感じさせるって凄いよね、知らんけど。





連休をだらだら過ごしていたらいつの間にか年が明けている。とりあえず去年聴いた最後のコンサートの備忘を書いておこう。


 2016年12月25日@フェニックスホール
 「声のような音/音のような声」三輪眞弘作品集
 (1)言葉の影、またはアレルヤ
 (休憩)
 (2)独唱曲「天使の秘密」
 (3)再現芸術における幽霊、またはラジオとマルチチャンネル・スピーカーシステムのための新しい時代
 (4)独唱曲「訪れよ、我が友よ」+「新しい時代」
 (休憩)
 (5)フォルマント兄弟の「スターバト・マーテル」
 (6)合唱曲「新しい時代」The New Era
 (7)ポップソング wach jetzt auf!

 丸谷晶子(Sp)
 岡野勇仁(MIDIアコーディオン)
 山名敏之(cemb)
 Orphe Choirs(合唱)
 大阪大学「芸術計画論」受講者有志(kb)

三輪眞弘の作品をライブで聴いたのは3回目。今回の作品はいずれも三輪眞弘が2000年に書いたモノローグ・オペラ「新しい時代」のスピンオフ作品で、最初の「言葉の影、またはアレルヤ」がオペラの前に書かれた以外はすべてオペラ完成後の作品。このオペラについて私はなにも知らないのだが、作曲者自身のトークから推し量ると、90年代後半に日本中を震撼させた二つの事件、すなわち1995年の地下鉄サリン事件と97年の神戸連続児童殺傷事件、それにまつわる「言葉」に対する思索がきっかけとなって作曲されたのだという。演奏に先だって企画・構成の伊東信宏氏と三輪氏とのトーク。作曲者はけっこう饒舌な方であるがトークはけっして判りやすい内容ではない。私の受け止めたままにあえて要約すれば、作曲者はあの教祖の名前を連呼する、一度聴けば忘れられない歌であるとか、14歳の少年による警察やマスコミを愚弄する一連の手紙であるとか、こういったテクストのもつ強度、明晰であり恐るべき訴求力をもつ言葉に対する羨望と絶望の入り混じった感情を吐露されていたように思う。もうひとつトークで興味深かったのは、この人は「歌」を書くというのがそもそも苦手である、個人の感情をメロディーに乗せて公にするということが出来ない、という話に続けて、しかし架空の教団の布教歌であれば大丈夫だと話していた。今回の最後のポップソングがまさにそれ。そういえば前回私がこの人の個展を聴いたときも、この人の言葉というものに対する強いこだわりを感じたのだが、今回の個展はそこに焦点を絞った好企画であったと思う。
実はこの個展を聴いて、私も音楽と言葉について何かしら思索の跡を言葉にしてみたいという誘惑に駆られていた。だがこの人の個展はプロの音楽家やライターがけっこう集結する場でもあるらしくて、例えば白石知雄氏の次のような文章を読むと素人が出る幕というのはほとんどないと思い知らされる。


と言う訳で、今回もそれぞれの作品の中でなにが起こったのかを書き残すに留めておきたい。
まず最初の「言葉の影、またはアレルヤ」について。会場の照明が落ちると、4人の黒い衣裳のキーボード奏者が現われ、互いに向き合って舞台の上に座る。なにかの儀式のように一礼。やがてミニマル音楽のような旋律の断片をそれぞれが弾き始め、少しずつ変化していくが、その変化のスピードは気が遠くなるほど遅い。よくあるミニマル音楽のモアレ状の変化よりも、キーボードの発する音のノイズ成分の変化のほうが結果として印象にのこる。これが30分ほども延々と続く間、何度か意識が飛びそうになるが、途中で数回ノイズが凝り固まった末に「ア、レ、ル、ヤ・・・」という囁きに聞える瞬間が出てくる。私は最初4人の演奏者が囁いているのかと思ったがどうもそうではないらしい。一体どのような仕組みなのか、これもフォルマント合成音声の一種なのだろうが、私はアメーバのように不定形な動きをしていた粘菌が、時期が来ると子実体を作って胞子を散布する映像を思い浮かべていた。機械の発する言葉は不気味であるが、これがなぜ不気味に思われるのかというのも考えてみると不思議ではある。フロイトの『不気味なもの』を再読したくなった。
第二部をとりまく二つの歌曲、「天使の秘密」と「訪れよ、我が友よ」+「新しい時代」はいずれもPCから流れるミニマル風の伴奏に乗せて歌われるもの。最初の「言葉の影・・・」もそうだが、このミニマルを構成する音楽の断片はいずれも「神の旋律」と呼ばれていて、オペラ「新しい時代」の基本原理となっている。歌そのものは何の変哲もない、どちらかといえば単純なものだが、なんとなく感じられる落ち着かなさについては最後のポップソングと併せて後述する。
第二部の、というよりこの個展の中心に位置づけられる「再現芸術における幽霊、またはラジオとマルチチャンネル・スピーカーシステムのための新しい時代」は大変興味深い作品で、これを聴けただけでも元が取れた感じがする。作曲者自身が舞台に一台のラジカセを置きに現われ、スイッチを入れて立ち去る。このラジカセと客席を取り囲む6チャンネルのスピーカーから、繁華街の雑踏の物音が聞こえてくる。やがて教団の信者と思しい若者のモノローグがあちこちから聞こえ、最初は聴力検査かと思うような微弱な音で教団の神の旋律が鳴っていたのが次第に大きくなっていく。殆ど真っ暗だった会場は、背景の壁がゆっくりと上がるとフェニックスホール自慢のガラス張りの向うに煌めく大阪の夜景が現われ、やがてまた背景の壁が降りて闇に閉ざされる。聴き手としては当然ながら、生の音声、アク―スティックな楽音が一切ない大作をコンサートの真ん中に配置した意図を探らずにはいられないのだが、何分言葉が熟して行かないので別の機会に譲りたい。
第3部はチェンバロとMIDIアコーディオンとソプラノによる「スターバト・マーテル」から始まる。ペルゴレージの「スターバト・マーテル」の最初の二重唱を、生身の歌手とMIDIアコーディオンのフォルマント合成による音声が歌うという趣向。MIDIアコーディオンの不安定さというのは、アコーディオンのボタン操作で子音と母音を指定することの非合理的な指使いにあるように見えた。もちろんこの不安定さそのものが作曲者の狙いなので、聴衆としてははらはらしながら(時に笑いをこらえながら)聴いているしかない。
合唱曲「新しい時代」も一筋縄ではいかない。一見活気に満ち溢れた布教ソングのように始まるが、その錯綜ぶりはなかなか半端なものではなくて、それまで伴奏ないし背景音として聴いてきたミニマル音形が合唱で展開されているかのようだ。
最後のポップソングも歌手とMIDIアコーディオンによる重唱(?)。明確な調性に基く音楽を現代音楽というシーンの中に置くことの、本質的ないかがわしさといったものを、架空の宗教団体のイニシエーションに置き換えるという意図、あるいは(作曲者は一種の照れというのか韜晦というのか、「歌」と言っていたが)調性音楽はもはや「夢落ち」のレベルでしか書けないという問題意識はここにきて明白。

私はこの雑文を専ら自分の備忘として書いていて、この場に居合わせなかった方にそこで得られた感興について伝えるのは本当に難しいことだと思う。しかし、私は2016年に聴いたすべてのコンサート(本当に恥ずかしいくらい少ないのだけれど)の中では、先日の京響の「グルッペン」に次いで印象深いものとして、つまり3月の「イェヌーファ」公演や、7月の「真夏の夜の夢」公演を凌ぐほどの面白いものとして感じ、受け止めたことを書きとめておきたい。
(この項終り)

by nekomatalistener | 2017-01-03 13:21 | 演奏会レビュー | Comments(0)