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シェルシ 「山羊座の歌」を聴く

「オスマントルコ」でGoogle検索406,000件に対して、「雄マントルコ」240,000件って多すぎるやろ。





23日は昼にグルッペン、夜にシェルシの「山羊座の歌」というダブルヘッダー。もうお腹いっぱい。


 2016年12月23日@カフェ・モンタージュ
 ジャチント・シェルシ 独唱のための「山羊座の歌」(抜粋)
 (第1,2,3,8,13,14,16,17,18,20曲)

 Sp:太田真紀


例によって店主高田氏のプレトークにほっこりさせられる。店主曰く、今日のお客さんはお昼のみやこめっせから流れてきた方が多いと思う。どうすれば昼公演に対抗できるか考えてきて、シェルシをやることにした。多分東京からもたくさん関係者が集まっているはずなので夜にこういうのをやれば皆さんくるだろう・・・(笑)。
カフェのいつもの観客席に30脚ほどの椅子、そしてそれに相対するように8脚の椅子が並べられている。観客席に向き合うように楽譜スタンドが立てられ、そのすぐ後ろに8脚の椅子に向き合うようにもうひとつスタンド、8脚の後ろにもスタンド、客席の真後ろの階段の上に更に一台のスタンド、つまり合わせ鏡のように四面舞台が設えられていて、8脚並びの椅子にもお客さんがすわる(当日はキャパ40人ほどのカフェは店主の読み通り満員御礼であった)。店主の「3つのオーケストラに対抗して四面舞台にしたら、ケージは五面舞台でした」というトークに皆大笑い。
ジャチント・シェルシについては何の予備知識も持たずに聴いた。「山羊座の歌」は夫人である平山美智子氏の存在がなければ生れ得なかった作品であること、1962年に原型が出来てから長い時間を掛けて作曲されたこと、ジェラール・グリゼーやトリスタン・ミュライユに影響を与えたこと、アシスタントに採譜させるスタイルが多少物議を醸すことがあったらしいこと、等々は後で知ったことである。
店主が照明を少し落とすと、お辞儀も拍手もなく控室からゆっくりとブリキの太鼓のようなものを鳴らしながら歌手が登場し、階段を上って歌い始める。歌、には違いないが、テキストらしきものは聴き取れない。微分音やグリッサンドの多用、舌打ちや喉を緊張させて絞り出すような声、それこそ山羊のべぇぇぇぇという鳴き声に似た声、叫び声、カップを口にあててこもらせた声、等々なんとも呪術的な世界が立ちのぼる。歌手は四面舞台を行ったり来たりしながら歌う。知らない人がこの光景を見たら、変な宗教の教祖様と信者の秘儀だと思うに違いない。
語法的にはべリオの「セクエンツァⅢ」(1965)やケージの「アリア」(1958)、リゲティの「アヴァンチュール」(1962)「ヌーヴェル・アヴァンチュール」(1966)、シュトックハウゼンの「私は空を散歩する・・・」(1972)なんかを聴いてきた人間にとっては腰を抜かすようなことはないのだけれど、ここで引合いに出した諸作と比べてもその音そのものへの執着というのは際立っているように思う。反面、洗練とか繊細さへはあまり関心が無さそう。およそ聴き手を楽しませようとするサービス精神も欠如している感じ。とはいえ、途中2回ほど現われる民謡風、あるいは日本の童歌(「かごめかごめ」のような)を思わせる単純な歌があったり、エコーマイクを通してグリッサンドの上端の音を響かせたり、終曲はリコーダーを吹きながら短3度の音程で発声したり、とあれこれしている内に45分ほどの時間があっという間に経ってしまったのも事実。音楽に感動や癒しを求める人には決してお薦めしないけれど私は実に面白く聴いた(深入りしたいかと問われたら微妙ではあるが・・・)。
歌い手の太田真紀にはお疲れ様の一言。この曲の演奏でこの人をどうのこうの評するというのは私には不可能である。べリオ、ブゾッティ、シャリーノなどを得意としているということなので機会があれば聴いてみたい。
(この項終り)

by nekomatalistener | 2016-12-25 11:16 | 演奏会レビュー | Comments(0)

京都市交響楽団創立60周年記念特別演奏会 シュトックハウゼン 「グルッペン」

猫にいつものカリカリじゃなくて猫缶あげたら余程美味いのかフガフガいいながら食べてる。クリスマスだしいいよね。





関西でグルッペンを生で聴く機会があるとは思わなかった。しかもケージとの取り合わせ。

 2016年12月23日@京都市勧業館みやこめっせ(第3展示場)
 シュトックハウゼン 3つのオーケストラのための「グルッペン」(1955~57)
 (休憩)
 ジョン・ケージ 5つのオーケストラのための30の小品(1981)
 (休憩)
 グルッペン(2回目)

 指揮
 シュトックハウゼン1・ケージ5:広上淳一
 シュトックハウゼン2・ケージ1:高関健
 シュトックハウゼン3・ケージ4:下野竜也
 ケージ2:大谷真由美
 ケージ3:水戸博之
 京都市交響楽団


今回の演奏会は京響60周年記念演奏会ということなのだが、それにしてもなんという大胆なプログラム。しかも驚いたことに何百人、何千人いるのか分からないけれどぎっしりのお客さん。いわゆる現代音楽だけのプログラムでこの集客は驚異的、というより殆ど有り得ないことだと思う。グルッペンが世に出てほぼ60年で、日本で演奏されるのはこれが3回目だという。東京からもたくさんの音楽関係者や好事家が集結していたのは間違いないにしても、どうみてもオタク系でないごく普通のコンサート客が大半を占めている。これはひょっとして1曲目で半分くらい帰っちゃうんじゃないか、と危惧していたが、最後までそんなに減った印象はない。休憩時にごく普通の若夫婦やオバサマ達の会話を聞くともなく聞いていると、「なんか難しいけど面白いね」「下野さんカワイイ!(笑)」といった感想が聞こえてくる。演奏中もみんな身じろぎもせず聴いている感じ(ケージのときはさすがに爆睡客が多かったみたいだが・・)。聴衆のマナーも上々。京響おそるべし。京都という町の懐の深さはもっとおそるべし。本当にこのオーケストラは日本一、いやもしかすると世界一市民から愛されているのかも知れない。
会場のみやこめっせは普段は企業の展示会などに使われているようだが、そのだだっ広い展示場(4千平米!)の正面と四方の5ヶ所にオーケストラ席があり、それに取り囲まれたフロアに折畳み椅子が並べられている。一旦座ってしまうと身動きもできないほどの詰込ぶりに、おそらく主催者だってここまでの盛況は予想していなかったことが伺われる。演奏前にNHKの岩槻アナの司会でまずは指揮の広上氏登場。60周年の記念に常任指揮者3人で何かやろうということになり、最初はモーツァルト(たぶん4つのオーケストラのためのセレナード第8番と、3台のピアノの協奏曲)などが案として挙がっていたようだが、下野さんが「グルッペンやりたい」と言い出し、高関さんが「いいね」、広上さんは「・・・?」だったそうだ。
さて肝心のグルッペンだが、私は生でこの作品を体験できただけでもう感無量であった。しかも3人の指揮者の確信に満ちた指揮を見ていると、完全に作品が手の内に入っているという印象を受けた。3つのオケが合うべきところでびしっと合うのには一種の生理的快感を味わった。中ほどより少し後の、3つの金管群が同じコードを吹き交わすところは(録音で聴いて想像はしていたけれど)頭のまわりをぐるぐると音像が駆け巡る。この目眩にも似た身体的な快感は本当に素晴らしい効果で、セリエリズムがどうのこうの、といった議論を吹っ飛ばすだけの力がある。会場が会場だけに、弦の音が届きにくい(ただでさえデッドな音響なのにフラジョレットやピッチカートを多用したりするので余計に)憾みはあるけれど、管と打楽器はほぼ過不足なく聞こえた。いやむしろシュトックハウゼンが書いた精緻極まりないスコアを耳で聞いて体験するには、音が融け合わないこのデッドな空間は意外に悪くなかったとも思えた。

休憩を挟んで今度は岩槻アナと高関氏のトーク。ケージ作品は3つのオケが緊密にリンクするグルッペンと異なって、5つのオケの指揮者とメンバーは自分の属するオケのスコアしか見ることができず、各曲の時間の中で、他の4群の音を聞きながら「適当に入っていく」のだそうだ。拍手が静まると会場のどこからともなくラジオの音が流れてくる。この日23日の15時過ぎのNHK第一ラジオはニュース解説でヘイトスピーチがどうとかの後にシェイクスピアの「ヴェニスの商人」の放送劇をやっていたのだが、それが演奏中にずっと流れている(なんか出来過ぎのような気がしたが後で調べてみたらリアルタイムでやっていた)。5つのオケといっても基本は音がスカスカなところがケージらしい。何より面白いのはこの偶然性という基本原理と作品の構造的な緩さというものが耳で聞いて如実に実感できるということ。先にも書いたが、聴衆がついつい眠りに落ちてしまうのも、グルッペンの緊密な書法と正反対のケージの書法を正しく受け止めた結果だとすれば、爆睡するのもまったくOKということになるだろう。まったくグルッペンと並べてケージをやろうという発想には恐れ入る。私はグルッペンの一回目と同じ席、会場の真ん中よりすこし後方(グルッペンの3人の指揮者は一望できるがケージの第1・第4オケは見えない)で聴いたのだが、グルッペンより更にサラウンドな音響効果を期待したが後方の2つのオケは殆ど後方から響いているようには聞こえなかった。これは人間の耳の構造上やむを得ないことなのだろう。第4オケにはパーティーで使うクラッカーのようなものも置いてあったはずだがこれも聞こえなかった。こんなことも生で聴かない限り決して分からないことだろう。

ケージのあとの休憩で何と席替え。一旦荷物を持って外にだされた客が大槻アナの合図で一斉に前方の席取りに駆け出すのは壮観でもあり、ちょいと危険な感じもするが、京都のお客さんは(大阪と違って)筋が良いので事故もなく席替え完了。こんなこと書くと大阪人に怒られそうだが、京都の人は性格は悪いけど民度は高い(大阪はその逆)ので仕方がない。私は後半は下野さんの第3オケのすぐ近くの席を確保した。
最後は下野氏のトークで、あんまり覚えていないが(笑)人柄の良さだけはよく分かる。そして2回目のグルッペン。こういった作品で繰り返し聴けるのは本当にありがたい。聞こえ方の違いそのものも面白いが、舞台狭しと並べられたザイロリンバやタムタム、スネアドラムとアフリカンドラム、カウベルといった夥しい打楽器群と、気迫に満ちた奏者の動きという視覚的な要素も加わってより面白く、この作品を本当に堪能したといったところだ。演奏後のなかなか熱狂的な拍手に、これは現実の光景だろうかと訝しく思ったほど。ケージはともかく、グルッペンは完全に古典の領域に入ったと言えるかもしれない。それにしても昨年のサントリーホールのツィンマーマンの時も思ったが、前衛的な音楽は客が入らないと思い込んでいるプロモーターは少し考えを改めたほうが良いのではないか。この日の偉業はしばらく業界の語り草になるだろうが、是非とも他のオーケストラやオペラハウスのレパートリー拡大に繋がってほしいものだと思う。
(この項終り)

by nekomatalistener | 2016-12-24 23:38 | 演奏会レビュー | Comments(0)

京都市交響楽団第607回定期演奏会 メシアン「トゥーランガリラ交響曲」

ユーキャンの流行語大賞って年々酷くなっとる。なんかぱよちん系のジジイがはしゃいでるみたいで痛々しいというか。で、それをまたよりによって鳥頭ちゅん太郎が擁護するってもう地獄絵図。あ、でも三省堂の「今年の新語」はわりとマトモですよ。





10月から職場が変わり、猛烈に忙しい日々を過ごしておりまして、なかなか音楽を聴く時間がとれません。そんな中でも、「トゥーランガリラ」を生で聴く機会となれば聞き逃す訳にはいきません。積もり積もった疲労と寝不足で80分の長丁場は少々心配でしたが、目の覚めるような演奏にあっという間に時間が過ぎ去った感じがしました。

 2016年11月26日@京都コンサートホール
 メシアン トゥーランガリラ交響曲

 京都市交響楽団
 指揮:高関健
 ピアノ:児玉桃
 オンド・マルトノ:原田節

メシアンが好きな人もそうでない人も、彼の代表作が「トゥーランガリラ交響曲」であることに異論を唱える人は少なかろうと思います。私はどこかで書いたとおり、60年代の「クロノクロミー」「七つの俳諧」「天国の色彩」あたりが本当の傑作群だと思っているのですが、それでも「トゥーランガリラ」を実際の演奏で聴くと、その途轍もないエネルギーに圧倒される思いでした。音楽そのものについて書きたいことはたくさんあるのですが、それはメシアンのコンプリートアルバムの試聴記に譲ることにして、演奏の備忘のみ簡単に記しておきます。
演奏の始まる前に、指揮者の高関健氏によるプレトークがあり、まずは舞台前方に並べられた独奏楽器群(ピアノ、オンド・マルトノ、チェレスタ、ジュ・ドゥ・タンブル、ビブラフォン)の説明(オンド・マルトノ以外を「ガムラン隊」というのだそうだ)。それから「移調の限られた旋法」「不可逆リズム」といった音楽原理の説明がありました。後者は素人にも分かるように、というのはなかなか難しくて、若干舌足らずな感じもしましたが、高関氏自身が若いころはメシアンをあまり好きではなかったのに、近年になって楽譜をアナリーゼするとすべての音がこういった原理に基づいて書かれていることに驚き、それ以来メシアンが大好きになったと仰ったのは印象的でした。
そんな高関氏のプレトークを聴いたから、というのではなくて本当に精緻である意味醒めた演奏でした。「トゥーランガリラ」と聞いてまず思い浮かべるカオティックな猥雑さとかエロティシズムといった要素は希薄で、あまり好きな言葉ではないが「分析的」というか、音楽の構造が透けて見えるような不思議な演奏でした。ブーレーズは「トゥーランガリラ」を嫌っていたと聞いたことがありますが、こういう演奏なら御大も喜んで聴いたのでは、と想像します。これまであまり強い印象を持たなかった指揮者ですが、本当に面白い演奏をする人だと思いました。それでもあちこちに出てくる三和音による強烈な終始の臆面の無さはどうしようもなく、盛り上がることは確かだが少々げんなりするのも事実。まぁ大戦後すぐに現れた異形の音楽であることは確かでしょう。
児玉桃のピアノは大熱演。80分ほとんど出ずっぱりで弾くのはピアニストにとってこの上なく過酷だろうと思いますが、「嬰児イエズスの20のまなざし」を全曲通して弾くことに比べれば、彼女くらいのプロのピアニストにとってはまだしも楽なのかもしれません。彼女の強靭な打鍵を以てしてもオーケストラのトゥッティが被るとほとんどピアノが聞こえなくなりますが、これは偏にメシアンの書き方が悪いのであってピアニストのせいではないと思います。
オンド・マルトノを生で聴くのも初体験でしたが、実際に聴くと思いのほかあちこちで音が鳴っているという印象(録音で聴いても全部は聞き取れない)。緩徐楽章でクラリネットと被せて鳴らすところの精妙な音色など、こればかりは実際の演奏を聴かないと絶対にわからないと痛感しました。
京響も熱演だったと思います。指揮者の目指す音楽をとにもかくにもリアライズして長時間弾き切ったというだけでも大変なことだと思います。ですが、終演後に指揮者がオーケストラのセクションごとに立たせてねぎらいの拍手を送っている時、パーカッションのセクションになった途端にしつこくブーイングしている人が一人いてちょっと興ざめしました。これほどの難曲、大曲でパーカッションの大小の事故というのは避けられません。少なくとも私にはまったく気になるほどではなかったのですが、あまりに執拗なブーイングを聞くと、この人どれだけ分かってんのかね、と嫌みのひとつも言いたくなるというもの。私だって準備不足の、あるいは技術の追いつかないプロの演奏には激しく拒否反応を起こしたりすることはあるけれど、それとこれとは違う。ちょっと余談になるけれど、私は以前友人と2台ピアノのための「アーメンの幻影」の終曲「成就のアーメン」のプリモをあるアマチュアの演奏団体のセミクローズドな演奏会で弾いたことがあるのですが、その時最も困難を極めたのはデュラン社のスコアで最初の7ページほどのリズムカノンの箇所でした。プリモの右手、左手、セコンドの旋律がずれにずれていく複雑なリズムカノンは、youtubeでプロの演奏を観ても無事故で弾いているものは皆無といってよいほど。大切なのは小さい事故があってもすぐに合わせるべきところで合わせて復帰することだと思いました。そういった意味でこの日の京響のパーカッションはまさにプロの演奏だと思ったのですが、何がそれほど気に食わなかったのか、この手のブーイングの主は、逆に自分の知識をひけらかすだけの御仁に思えてしまうのがつらいところ。ブーイングを否定するつもりはありませんが、周りに「よくぞやってくれた」と思わせるのは至難の業なのでしょう。
(この項終り)

by nekomatalistener | 2016-12-07 01:03 | 演奏会レビュー | Comments(0)