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ドニゼッティ 「ドン・パスクァーレ」 沼尻竜典オペラセレクション

毎朝ラジオで、
モノタロウ~、モノタロウ~、こうばでつかう~しょーもーひんを、ネットでちゅーもんモ~ノタロウ~
というCMが流れるのが頭にこびりついて離れないのでなんとかしてください。





びわ湖ホールで「ドン・パスクァーレ」を観てきました。

 2016年10月23日@びわ湖ホール
 ドニゼッティ 「ドン・パスクァーレ」
  ドン・パスクァーレ: 牧野正人
  マラテスタ: 須藤慎吾
  エルネスト: アントニーノ・シラグーザ
  ノリーナ: 砂川涼子
  公証人: 柴山秀明
  合唱: びわ湖ホール声楽アンサンブル、藤原歌劇団合唱部
  管弦楽: 日本センチュリー交響楽団
  指揮: 沼尻竜典
  演出: フランチェスコ・ベッロット


ドニゼッティ晩年の喜劇ということで、日本での上演は何かと難しいだろうと思ってましたが、全体としては大健闘といった感じがしました。だが同時にコンメディア・デラルテの末裔たるドタバタ劇で観客を笑わせるのは、日本ではまず不可能ということもよく分かりました。今回の公演では演出にフランチェスコ・ベッロットを招いて、いろいろと工夫の跡も伺えるのだけれど笑いに繋がらない。この7月にブリテンの「真夏の夜の夢」を見て、ルーシー・バージの振付に大笑いしたことを思うと、演出次第でもうちょっと何とかなるような気もするが、イタリアの気候風土の中で生まれたこういった喜劇は、温暖で湿度の高い国では無理なのでしょう。
もちろんドニゼッティの音楽が素晴らしいので、かならずしも笑いは必要ではないという意見もあると思いますが、感傷はほどほどで切り上げてさっさと乾いた音楽に戻っていくこの音楽のスタイルは、やはり舞台で観るなら笑いとセットであってほしいというのが私の無いものねだり。
話のついでで演出から備忘を記すと、舞台はドン・パスクァーレの豪邸の居間。壁にはちょっとくすんだ色合いの巨大な絵画がびっしりと飾られ、ギリシャ風の彫刻やソファなどの調度が設えられている。ノリーナがこれらを売り払ってしまうと、それまで重厚な邸宅の居間であった舞台が白々となにもない壁だけのセットになる。最初は正装の執事と召使がうやうやしく出入りしていたのが、後半は何やらいかがわしい連中も交じって賑やかにドタバタを演じる。演出家がドン・パスクァーレの孤独に着目した創意工夫はよく分かるのだが、肝心の笑いの要素がなければ些末な演出意図だけが独り歩きする感じもする。

歌手では売れっ子のシラグーザを招いたのが何よりの目玉だと思いますが、なにか突き抜けてくるような歌の力というものが少し物足りない。シラグーザをもってしてもアンサンブルとなると全体にこじんまりとした感じがつきまといます。それを承知の上でいうと、ノリーナの砂川涼子が素晴らしいと思いました。リリコが身上の歌手だと思うけれど抜群のアジリタのテクニックを持っているので今回の役まわりはぴったりだと思います。アジリタだけでなく、声に強い芯がある歌い手なので、しおらしい修道女から蓮っ葉な女に豹変してからの声質が更に役柄との一体感を感じさせます。終幕のロッシーニ風のロンドはお見事の一言。
シラグーザは、ロッシーニならいざ知らず、どうもドニゼッティでは声が脳天気すぎて殊更薄っぺらい男に聞こえてしまうのがどうも好きになれません。以前聴いたネモリーノ(愛の妙薬)なら、それでも観客の涙を絞る美しいカヴァティーナを堪能できて多少のことはどうでもよくなるのですが、ドン・パスクァーレではカヴァティーナもセレナーデも随分あっさりとしているので(それが晩年のドニゼッティの様式なのでしょうが)、物足りなさだけが残るといったところ。それでもこの人がアンサンブルに入ると俄然音楽が引き締まるのはさすがだと思いました。
マラテスタの須藤慎吾、脇役ですがバリトン歌手としてはアジリタがきちんと歌えていて気持ちが良い。ロッシーニのブッフォ歌手でもなかなかこうは歌えないのじゃなかろうか。タイトル・ロールの牧野正人はオーケストラより一歩飛び出す癖があって、ソロもアンサンブルもちょっとハラハラする。まぁイタリアの歌劇場のライブなどを聴いても、ブッフォのバス・バリトン歌手なんかこんなもん、という気もするが、せっかくのアンサンブルなのにもったいないと思う瞬間が多々ありました。マラテスタと聴き比べると、やはりなんだかんだ言っても技術があってこそ、と思います。
合同編成の合唱もなかなかのレベル。お話としてはあってもなくても一向に構わない役回りだが、だからこそ高レベルの演奏で聴くと尚更贅沢感が出るというもの。

今回の公演の立役者は実は沼尻の指揮だと考えています。プッチーニやコルンゴルトだと、泣かせてほしいところでサクサクと進んでいくので物足りない思いをしてきたのですが、こういう喜劇に思いのほか適性があったのかと驚きました。序曲からして、カラッとして粘らないのに絶妙なアゴーギグが効いていて、これぞドニゼッティ、と嬉しくなります。アンサンブルの推進力も見事。例によってカヴァティーナは良くも悪くも情に流されないものですが、この作品の性格にはむしろ向いている。エルネストのカヴァティーナなど、さあこれから、と思った瞬間にぷいっと喜劇の音楽に戻る瞬間が堪りません。大げさに言えば、こういった書法というのはヴェルディの「ファルスタッフ」第3幕のフェントンのカヴァティーナ、あの涙腺が緩みそうになる瞬間にもう終わってしまう変わり身の早さと共通するところがあるようにも思えます。ドニゼッティとヴェルディの格の差こそあれど、一生をオペラに捧げた人生の果てにたどり着いた境地といえなくもない。私はドニゼッティについて、世間で思われているよりずっと偉大なオペラ作曲家だと思っているけれど、改めてそんなことに気づかせてくれたのは今回の指揮の大きな成果じゃなかろうかと思っています。センチュリーも実に結構。多少のデコボコはあっても来て良かったと思える公演でした。
(この項終り)


by nekomatalistener | 2016-10-26 00:06 | 演奏会レビュー | Comments(0)

Olivier Messiaen Complete Editionを聴く(その8)

真冬のさっむい日の早朝、駅のホームで半袖シャツで震えてるおっさんを見たことがあるのだが、あれは何かの罰ゲームだったのだろうか?未だに謎。





60年代の作品を網羅的に聴いていきます。

CD2
①鳥の小スケッチ(1985)
 1.ヨーロッパコマドリ
 2.クロウタドリ
 3.ヨーロッパコマドリ
 4.ウタツグミ※
 5.ヨーロッパコマドリ
 6.ヒバリ
②4つのリズムのエチュード(1949-1950)
 1.火の島Ⅰ
 2.音価と強度のモード
 3.リズム的ネウマ
 4.火の島Ⅱ
③カンテヨージャーヤー(1949)
④ロンドー(1943)
⑤ファンタジー・ブルレスク(1932)
⑥前奏曲(1964)
⑦ポール・デュカの墓のための小品(1935)

ピアノ: ロジェ・ムラロ
①②2001年2月15日③~⑦2001年2月22日

※表題のla grive musicienne(ウタツグミ)の学名はturdus philomelosが一般的なようだが、楽譜にはturdus ericetorumという古い学名が書かれている。

まずは「前奏曲」(1964)から。
比較的有名な初期の「8つの前奏曲」とはまったく別物。ですが、調性感のはっきりとしたアルカイックな旋律は、ラヴェルを思わせるものがあって大変魅力的。この古雅な旋律をメシアン独特の煌めくガラス片のような不協和音が彩る。この作品についてはメシアンの死後に遺稿の中から発見されたということ以外、ネットで調べても情報が乏しく、前衛真っ盛りの60年代にどうしてこのような調性作品が書かれたのかよく判りませんでした。まぁメシアンのような作曲家にとっては調性の有無などというのは大した問題ではなかったのかも知れません。こういった佳品に出会えるのはComplete Editionならではでしょう。

「鳥の小スケッチ」(1985)はイヴォンヌ・ロリオの希望に応じて書かれたもの。6曲のセットだが各曲はわずか2分ほどの小品。素材はタイトルの鳥の歌と「背景」をなすゆったりとした和音のみ、楽譜には鳥名以外は速度記号しか書かれておらず、大作「鳥のカタログ」や「ニワムシクイ」が標題以外にも様々な鳥の声や事物の音で満たされ、また言葉で楽譜に書き込まれているのとは大違いのシンプルさ。そのピアニスティックな書法は洗練の極みですが、特に第2曲など終止の和声がともすると協和音に解決する傾向など、晩年のメシアンのスタイルがよく現われていると思います。それを円熟と見るか、それともある種の退嬰と見るか、意見が分かれそう。だが終曲の息つく暇もなく啼き続けるヒバリの歌を聴いていると、老いたりとは云え、さすがは「ニワムシクイ」を書きあげた人だと心打たれずにはおれない。

「4つのリズムのエチュード」(1949~50)と「カンテヨージャーヤー」(1949)はメシアンのピアノ独奏曲の中ではもっとも実験的、しかも音楽史的な意味で最も重要であり、なおかつ耳で聴いてこの上なく面白いものではないでしょうか。私の個人的な好みでいえばエチュードの第1曲「火の島Ⅰ」はメシアンの数あるピアノ曲の中でも最も好きな作品。第2曲「音価と強度のモード」は後のトータル・セリエリズムの嚆矢となったことであまりにも有名ですが、その音響は難解どころか大変美しいもの。私は高校生の頃にミシェル・ベロフのLPで聴いて驚いたものです。そして「カンテヨージャーヤー」。タイトルは13世紀のインドの音楽学者Sarangadeva(1210-1247)の理論書Sangita Ratnakara に体系化されたヒンドゥーのリズムのことらしいのですが、理屈はともかく実に面白い音楽。「音価と強度のモード」で全面的に展開された音高・音価・強弱・アタックのセリーが部分的に使われているのも注目されます。

残りの3曲、「ファンタジー・ブルレスク」(1932)、「ポール・デュカの墓のための小品」(1935)、「ロンドー」(1943)は作曲年代は10年以上の開きがあるけれど、いずれも習作といって差し支えなさそう。逆に、まだまだドビュッシーの尻尾を引きずった「ロンドー」とほぼ同時期に「アーメンの幻影」や「嬰児イエズスにそそぐ20の眼差し」が書かれていることのほうが驚きなのかも知れません。最も作曲年代の古い「ファンタジー・ブルレスク」は導入に続いて現われる主題の三連符と四連符のぶつかり合いや、裏拍に附けられたアクセントがジャジーな雰囲気を醸し出して面白い。ポール・デュカの死に際して書かれた小品は厳粛な下降音形をメシアン独特の和音が彩る。それは苦痛に引き裂かれるようでもあり、苦悶と見紛うばかりの快楽の表象とも聞える。これは異色のtombeau(故人を追悼する器楽曲)と言えるのではないでしょうか。

ロジェ・ムラロの演奏はいずれも見事。特に「鳥の小スケッチ」と「4つのリズムのエチュード」はライブ録音で聴衆の拍手も入っているのですが、ごく小さな傷がいくつかあるものの技巧的に突き詰めた演奏だと思います。中でも「火の島Ⅰ・Ⅱ」の気迫が凄い。思うにライブならではの音楽の推進力を慮って敢えて傷の修正はしなかったのでしょう。先に少し触れたミシェル・ベロフの若き日の録音と比べると若干モノクロームな感じもしますが、現時点で望みうる最上の演奏であると思います。それにしてもベロフ盤の色彩感あふれる録音は、録音技術の賜物なのか実際の演奏自体のせいなのか、未だによく分かりませんが本当に素晴らしいものであったと懐かしく思い出します。
(この項続く)

by nekomatalistener | 2016-10-24 22:54 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

バルトーク 「コントラスツ」

難読地名の宝庫京都ですが、いちばんすげーなこれって思ったのは阪急と嵐電で「西院駅」の読み方が違うってことかな。ってか嵐電のほうの西院はちょっと想像の斜め上をいっとる。





「コントラスツ」を生演奏で聴く貴重な機会が京都でありました。

  2016年10月13日@カフェ・モンタージュ
  プーランク クラリネット・ソナタ(1962)
  プーランク ヴァイオリン・ソナタ(1943)
  (休憩)
  バルトーク コントラスツ(1938)

  クラリネット: 村井祐児
  ヴァイオリン: 石上真由子
  ピアノ: 船橋美穂

この日のお目当てはバルトークだったのですが(カフェ・モンタージュのHPにも特にプーランクという文字はなかったと思う)、予習なしで聴いた前半の2曲が素晴らしい作品でした。プーランクといえば、なんとなく瀟洒でモダンでセンスがよくて・・・というイメージ以上のものはなかったのですが、私はこの二つのソナタを聴きながら自分の不明を恥じる思いでした。よく考えてみれば、数年前にも新国立劇場の研修所オペラで「カルメル派修道女の対話」を観て、先入観を激しく打ち壊される経験をしているのですが、その時はそれ以上深入りすることもなく、今に至るまでプーランクのことは(有名なフルート・ソナタやいくつかのピアノ曲を除いて)よく知らないままにきたのです。オネゲルの墓前に捧げたというクラリネット・ソナタは、特段死を思わせる要素はなく、曲想もどちらかと言えば軽いものであるのに、聴き終わってなぜか胸が塞がれるような気がします。ガルシア・ロルカの死に際して書かれたというヴァイオリン・ソナタはうってかわって激しい曲想に満ちていて息を呑む思いで聴きました。どちらも私は初めて聴くもので、どこまで正しく受け止めたものか心許ないですが、プーランクの室内楽をサロン風の音楽と思っていた偏見が大きな間違いであることだけはよく判りました。この人の作品はいずれ体系的に聴いてみたいと思います。

「コントラスツ」はバルトークの作品の中では比較的軽い作品というイメージがありましたが、実際の演奏を聴くと(作曲時期からして当然ではあるのだが)弦楽四重奏曲第6番に通じる一種の晦冥さを感じました。この二つの作品には共通するモチーフもいくつかあることに今更ながら気付いた次第。以前にこのブログで弦楽四重奏曲第6番について「とてつもなく深刻そうなのにどこか飄々としており、真面目かと思えばどこか投げやり、しかもある種の人生に対する悪意のようなものが垣間見えて、一筋縄でいかないとはまさにこのこと。この後にアメリカで書かれた晩年の作品にみられる澄みきった境地のようなものは全く見られません」と書いたことがありました(2015年4月30日の投稿)が、これは「コントラスツ」にも概ね当てはまるような気がします。また、「コントラスツ」というタイトルについてもこれまで深く考えたことはありませんでしたが、3つの楽器、3つの楽章の対照以外にも、通常の調弦とスコルダトゥーラされた二挺のヴァイオリン、B管とA管2本のクラリネットの音色の差の面白さがタイトルの由来だと良く判りました。

クラリネットの村井祐児は1940年生まれ、私はこの楽器のこともあまり知らないのですがその世界では重鎮なのでしょう。さすがにお年の所為か、ちょっと指がもつれたり音が抜けたり、ピアノやヴァイオリンの音に対して明らかにバランスが悪かったり、ということもあったのですが、プーランクの音楽のたたずまいが曲を知らない私にもくっきりと立ちあらわれるのはさすが。バルトークで音負けして埋もれてしまうのと、ピアノとヴァイオリンの刻むリズムにほんの少し乗り切れないのは辛いところでしたが。演奏のあとに、この日をもって引退すると仰ったのは残念ではありますが致し方ないでしょう。もっとも店主の高田さんによれば前にも何度も引退宣言されているとのことでしたが(笑)。
ヴァイオリンの石上真由子はたいへんな逸材だと思います。ちょっと調べてみたら1991年生まれ、プロとして活動する傍ら、京都府立医大の学生さんでもあるとのこと。物凄いテクニックの持ち主で、バルトークのカデンツァなど唖然とするほど。他の曲ならいざ知らず、この日の曲目の演奏としてはもう言うことがありません。ピアノの船橋美穂は合わせもののピアニストとしてはベテラン。先鋭さはあまり感じないけれど安心して聴けるのが何よりという感じでしたが、親子ほども年の離れた村井のサポートをしつつ、娘でもおかしくない若い石上と丁々発止のリズムの応酬を同時に行うというのは実は大変なことじゃないかと思いました。
(この項終り)

by nekomatalistener | 2016-10-16 23:18 | 演奏会レビュー | Comments(0)

ブゾーニ ヴァイオリンソナタ第2番ホ短調BV.244

アンネ・ゾフィー・フォン・カワウソさん。





今年はブゾーニ生誕150周年。名前だけはそこそこ知られているのに、メモリアル・イヤーなのに、なんか盛り上がらないですね。

 2016年10月8日@カフェ・モンタージュ
 ブゾーニ ヴァイオリンソナタ第2番ホ短調BV244(1900)

 ヴァイオリン: 谷本華子
 ピアノ: 奈良田朋子


ブゾーニの作品で最もよく知られているものと言えば、ロマンティックというか、やたら大仰なバッハのシャコンヌのピアノ独奏用編曲くらいなものでしょうか。だがこの一作でブゾーニについて云々するのはあまりにも気の毒というもの。えらく難しそうなピアノ曲、例えば「対位法的幻想曲」を聴くと、ヒンデミットに通じる様な面白さは感じるけれど、なかなか真面目に聴いてみようとはならないのが辛いところ。この人について何か語るならせめて「アルレッキーノ」「トゥーランドット」「ファウスト博士」の3つのオペラぐらいは聴き込んでからにしたいと思いながらも、あまりの人気のなさに少しはブゾーニ擁護論を書いてみたいという思いを禁じ得ません。
と言う訳で、まったく予備知識なしで聴いたリサイタルでしたが、想像以上に面白く聴きました。カフェ・モンタージュの店主の高田氏の、思い入れのある作品ということで、恒例のトークもいつも以上に長いものでしたが、ちょっと個人的な思いが強すぎるような気がするので、ここに備忘として内容を挙げるのは止めておきましょう。興味のある方は高田さんのツイッターにあれこれ書かれているのでご参考まで。

店主のトークを聴かずとも、この19世紀最後の年に書かれたソナタで、ブゾーニがバッハ以降の200年の音楽的蓄積を総括しようとしたことは明らか。一回聴いただけではなかなか理解できたとは言えないけれど、典型的な動機労作的書法という感じがします。簡潔な提示部というべき第一楽章、嵐のように過ぎ去るプレストの第2楽章、動機があの手この手で展開される長大な第3楽章がattaccaで演奏されます。高田氏も触れていたように、確かにセザール・フランクの影響は顕著だと思いましたが、こういった書法、建築史でいうならネオ・ゴシック様式と時代的にも重なる、ごてごてと暑苦しく書き込まれた書法というのは、リストの1850年代から60年代のある種の作品からの影響が大きいのではないかと思いました。例えば「バッハの『泣き、嘆き、憂い、慄き』による変奏曲」とか「B-A-C-Hの名による幻想曲とフーガ」などがそうですが、中でもリストがマイアベーアのオペラ「預言者」のコラール主題に基いてオルガンのために書いた「『アド・ノス・アド・サルタレム・ウンダム』による幻想曲とフーガ」という作品の長大さ、音楽的な多彩さがふと思い出されたのでした。ブゾーニはこのオルガンのための作品をピアノ独奏用に編曲しており、まさに彼のヴァイオリン・ソナタの源流として相応しい作品であると思います。ちなみにこのリスト=ブゾーニの「アド・ノス・・・」は若き日のモギレフスキーが演奏した素晴らしい録音がありますので、興味のある方は是非お聴きになることをお勧めします。

演奏者の谷本華子、奈良田朋子の両氏についても私は何の予備知識もなく聴いたのですが、素晴らしい演奏であったと思います。30代前半のブゾーニが気負いこんで書いた書法はヴァイオリンもピアノも相当技巧的に困難なはずですが、お二人とも実に危なげのないテクニックで胸のすくような演奏をされていました。また早いパッセージだけでなく、ゆっくりとした部分でのくぐもったような中音域の音色と、輝かしい高音域の対比も魅力的で、決して短くはない作品なのにあっという間に終わってしまったという印象。小さなサロン故、聴衆は30人といったところでしたが、ブゾーニの生誕150周年を祝うに相応しい一夜でした。
(この項終り)

by nekomatalistener | 2016-10-10 15:16 | 演奏会レビュー | Comments(0)

Olivier Messiaen Complete Editionを聴く(その7)

手塚治虫の「ユフラテの樹」という漫画に、超能力を得た少女がペトルーシュカを初見で弾くという場面が出てくる。この漫画の初出は1975年、ポリーニのペトルーシュカのLPは71録音で、翌年の暮には日本でも発売されたそうだが、手塚治虫はこのLP聴いていたのかなぁ?にしてもペトルーシュカを初見で、という発想すげーな。





60年代の作品「天の都市の色彩」を中心に。

 CD30
 ①神の顕現の3つの小典礼(1944)
 ②天の都市の色彩(1963)
 ③聖体秘蹟への讃歌(1932)
 ④ヴァイオリンとピアノのための幻想曲(1933)

 ①ロジェ・ムラロ Roger Muraro(pf)
  ヴァレリー・アルトマン=クラヴリー Valérie Hartmann-Claverie(オンド・マルトノ)
  エレーヌ・コルレット Hélène Collerette(vn)
  フランス国立放送女声合唱団
 ②カトリーヌ・クルノー Catherine Cournot(pf)
 ①~③チョン・ミュンフン指揮フランス国立放送フィルハーモニー管弦楽団
 ④ダニエル・ホープ Daniel Hope(vn)
  マリー・ヴェルムラン Marie Vermeulin(pf)

 ①2008.4②③2008.7④2008.7.4録音


以下は現時点での私の仮説にすぎないが、このメシアンという人はラヴェルやストラヴィンスキーのように生涯のどの時期をとっても高いクオリティで駄作がないタイプではなくて、駄作佳作混在する初期(30年代)、実験と作風の確立の中期(40~50年代)、傑作の森というべき充実期(60年代)、若干過去の作風に回帰しつつ手癖のようなものでそれなりに大作を書き続けた後期(70年代以降)とおおまかに見取り図を描くことができそうだ(これからいろいろと聴き込む内に考えが変わるかもしれないが)。
まず「天の都市の色彩」(「天国の色彩」とも)ですが、少し前の「クロノクロミー」「七つの俳諧」とともに60年代の、というよりメシアンの全創作の中での頂点を形作っているように思います。これはもう「音と色彩の三部作」と言っても良いのではないでしょうか。ガムランの影響、というよりそれを咀嚼しきった表現が素晴らしく、ところどころあからさまな東洋風の旋律も出てくるが抽象度は高い。因みに初演は1964年10月17日、ドナウエッシンゲン音楽祭でイヴォンヌ・ロリオのピアノ、ピエール・ブーレーズ指揮アンサンブル・ドメーヌ・ミュジカルによって演奏されています。スコアには黙示録から下記の引用が書き込まれているそうだ。

1.その御座(みくら)に坐したまふ者あり、その坐し給ふものの状は碧玉・赤瑪瑙のごとく、かつ御座の周圍(まはり)には緑玉のごとき虹ありき(Ⅳ.3)。
2.ここに七つのラッパをもてる七人の御使これを吹く備をなせり(Ⅷ.6)。
3.第五の御使ラッパを吹きしに、われ一つの星の天より地に隕(お)ちたるを見たり(Ⅸ.1)。
4.その都の光輝(かがやき)はいと貴き玉のごとく、透徹(すきとほ)る碧玉のごとし(XXI.11)。
5.都の石垣の基はさまざまの寶石にて飾れり。第一の基は碧玉、第二は瑠璃、第三は玉髄、第四は緑玉、第五は紅縞瑪瑙、第六は赤瑪瑙、第七は貴橄欖石、第八は緑柱石、第九は黄玉石、第十は緑玉髄、第十一は青玉、第十二は紫水晶なり(XXI.19-20)。

メシアンはいわゆる音と色彩の「共感覚」(ある音を聴くとある色が見える)を持っていたらしいが、私にはこの共感覚というものがよく判りません。時々音楽の印象を述べるのに「色彩的」という言葉を使うけれども、具体的に緑や赤の色が見えている訳ではありません。ですがこの黙示録の引用を見ていると何となくメシアンの感じていたものが判るような気がします。実際の色彩を想起すると若干悪趣味な感じもするが、これは純粋に言葉からその言わんとする美を感受すべきものでしょう。メシアンの響きそのものから受ける印象もまた、ぎらぎらと光る極彩色の綾織のように悪趣味スレスレではあるが、それが極度の洗練と同居していて大変クセになります。

フィルアップの3曲はいずれもあまり知られていない初期の作品で、正直それほど面白いとも思えません。
「神の現前の3つの小典礼」は「アーメンの幻影」と同じく、ドゥニーズ・テュアルによってプレイアッド演奏会の為に委嘱され、1945年4月21日にジネット・マルトノのオンド・マルトノ、イヴォンヌ・ロリオのピアノ、イヴォンヌ・グヴェルネ合唱団、ロジェ・デゾルミエール指揮のパリ音楽院管弦楽団により初演されています。
第1曲のピアノによる鳥の歌はたいへん魅力的、第2、第3曲の、ちょっと「喜びの精霊の眼差し」を想起させるようなリズムの乱舞も聴きどころ。しかし凡庸な旋律や臆面もなく表面的な効果をまき散らすオンドマルトノを聴いていると、駄作と言うつもりはないがちょっと苦手だと思ってしまう。
「聖体秘蹟への讃歌」は1932年に作曲されたものの、その後の戦禍によりスコアが失われ、1947年に記憶に基いて書きなおしたものといいます。出だしを聴いただけでトゥーランガリラを想起せざるを得ないところなど、これはむしろ1947年の作品と言いたくもなるけれど、それに続くドビュッシーのエピゴーネン丸出しの曲想や、仰々しいタイトルと内容とのギャップはやはり初期作という感じもします。
1933年に最初の妻クレール・デルボスのために書かれた「幻想曲」は、メシアンの死後、2007年にデュラン社より出版されたとのこと。メシアン独自の和声にも溢れ、初期の全貌を把握するうえで貴重な作品かもしれないが、佳作扱いするのはすこし躊躇われる感じも。

チョン・ミュンフン指揮するフランス国立放送フィルハーモニー管弦楽団の演奏はたいへん美しく精緻。「天の都市の色彩」など、ブーレーズほどの踏み込みはないようにも思うがこれはこれで立派な演奏だと思います。初期作がこのような高いレベルで聴けるというのはたいへん喜ばしいことだと思います。
(この項続く)

by nekomatalistener | 2016-10-02 15:32 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)