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ブリテン 「真夏の夜の夢」 佐渡裕プロデュースオペラ公演

普段音楽の受容における性差というものをあまり感じることはないのだが、この亀和田武氏の指摘には頷かざるを得ない(ビートルズ初来日に関するコラムより)。
「新しい音楽、感情、表現にすぐ反応したのは少女だ。武道館の観客は、八割が十代半ばの女の子だ。男のファンが増えるのは、直後の『リボルバー』や『ホワイト・アルバム』など、曲や詞も進化し、ビートルズ思想が頭で理解可能になってからだ。」(週刊文春平成28年7月14日号)





佐渡裕の「真夏の夜の夢」初日。平日のマチネだが芸文のKOBELCOホールはほぼ満席。舞台としての完成度も高く、興行的にも音楽的にもまずは大成功といってよさそう。

 ブリテン「真夏の夜の夢」
 2016年7月22日@兵庫県立芸術文化センター
  オーべロン: 彌勒忠史
  タイターニア(ティターニア): 森谷真理
  パック: 塩谷南
  シーシアス: 森雅史
  ヒポリタ: 清水華澄
  ハーミア: クレア・プレスランド
  ヘレナ: イーファ・ミスケリー
  ライサンダー: ピーター・カーク
  ディミートリアス: チャールズ・ライス
  ボトム: アラン・ユーイング
  クインス: ジョシュア・ブルーム
  フルート: アンドリュー・ディッキンソン
  スナッグ: マシュー・スティフ
  スナウト: フィリップ・シェフィールド
  スターヴリング: アレクサンダー・ロビン・ベイカー
  合唱: ひょうごプロデュースオペラ児童合唱団
  管弦楽: 兵庫芸術文化センター管弦楽団
  指揮: 佐渡裕
  演出: アントニー・マクドナルド
  振付/ムーヴメント・ディレクター: ルーシー・バージ


このプロダクションを成功に導いた一番の立役者は振付・ムーヴメントディレクターのルーシー・バージではなかろうか。ボトム以下の6人の職人たちは歌手としても優れていたが、その演技に惚れ惚れしました。オペラなのだから歌手は歌ってナンボ、少々演技が下手でもそこは目を瞑って・・・という舞台があまりにも当たり前になっているが、振付次第でこんなに舞台が、いや音楽が活き活きと面白くなるのか、と目を見張る思いです。プログラムの紹介によれば、このルーシー・バージという人、「1970年より1985年までバレエ・ランバート(ランベール)でプリンシパル・ダンサーを務め、アンソニー・チューダー、フレデリック・アシュトン、リンゼイ・ケンプなど世界的な振付家の作品を創演」ということだが、さすがにシェイクスピアと「モンティ・パイソン」を生んだ国の人だと思わざるを得ない。職人たちが舞台に出てくると、もういちいち可笑しくて笑ってしまう。特に優男タイプのフルートとガチデブ体型のスナッグは、声と役柄とビジュアルが完璧に一致していて文句なし。ボトムはロバ頭になってから、動きがもうロバとしか言いようがなくて抱腹絶倒の可笑しさ。お月様の役のスターヴリングなんか、風船持って突っ立ってるだけで笑ってしまいそう。
このガテン系6人組のおかげで若干他の登場人物たちが食われてしまった感なきにしもあらずだが、前回の投稿でも書いた通り、私はブリテンが一番嬉々として書いた音楽がこの職人の場だったに違いないと思っているので、この舞台をもしブリテンが目にしたらさぞ大喜びだったと思います。実際、ベルクばりの表現主義からイタリアオペラのパロディーまで、音楽的にはなかなか高度な技法が駆使されていると思えるのだが、それが芝居と一体となって、これまで見たこともないハイレベルの舞台となっていました。
二組の若者たちの自然な演技と優れたアンサンブルも見事でした。4人の歌手は良くも悪くも突出した出来の人はおりませんでしたが、あくまでもアンサンブル主体のオペラなので何の不満もありません。それにしても、ここでも振付の一つ一つが本当によく練られたものであったと思います。これまで観てきたオペラの演出の多くが、いかに振付というものを軽視してきたのかと感じられます。
外国人勢に比べると、日本人キャストによる妖精とシーシアス・ヒポリタのコンビはなぜか演技が生硬で違和感を感じること頻り。パックもオーバーアクションで頂けない。外国人勢に比べてリハーサルの時間が足りなかったのか、それとも何らかの意図があるのか。だが、タイターニア役の森谷真理は、オーベロンと歌うと演技以前という感じがするのに、なぜかボトムと絡む場面は猫のような身のこなしで別人と見紛うほど蠱惑的な演技をしていました。ちなみにこのロバ頭のボトムとの場面、タイターニアがボトムの上着を脱がすと、ボトムはサスペンダーを下してベッドイン。上品だけれどお子様向けとは一線を画す演出で大変結構。
演技の話ばかり書いているけれど、この森谷真理という方、最初のオーベロンとの二重唱はなんとなくコロラトゥーラも決まらずぼんやりした印象なのに、ボトムとの場面は歌としても大変すぐれていました。弥勒忠史のオーベロンは可もなく不可もなし。やはりダブルキャストの藤木大地で聴くべきだったか、というのが正直なところ。ヒポリタの清水華澄は出番が少なくて、彼女の持ち味が生かせていたとは言い難い。シーシアスの森雅史は領主役にはやや非力な印象。妖精の合唱と豆の花・蜘蛛の巣・辛子の種・蛾の妖精はすべて子役(ただし少年合唱だけでなく女の子もいる)。これまで技術的な問題もあってか大人の女声がうたうことも多かったようだが、どうせなら少年だけで揃えてほしかったところ。
今回の公演は妖精たちが日本語で歌うというものだが、結果としてはやはりブリテンの音楽と日本語の「そぐわなさ」を痛感するに留まった感じ。ただこれもあまり徹底してなくて、ボトムと絡む場面ではタイターニアも御付の子役の妖精たちも英語で歌う。森谷真理の歌唱がボトムとの場面になると途端に活き活きとするのも、これと関係があるのかも知れません。日本人キャストによる魔笛の上演などでも、この言葉の問題はやっかいなものだが、やはり日本語と原語のまぜこぜというのは私には余計なことと感じられました。

演出に関してもう少し。
舞台道具だが、最後の劇中劇以外は森のセットで押し通すのかと思いきや、苔生した森の場、倒木のあるさらに奥の森、タイターニアのベッドのある森の一角、職人たちの集まるクインスの作業場、最後のシーシアス邸が、つぎつぎに回り舞台で転換するという趣向。もっとも背景は書割で済ませていたりするのだが、見た目にも楽しくあまりチープな感じはしません。オーベロンやパックの衣装は日本の袴をアレンジしたらしいが、遠目にはスカートみたいでやや違和感あり。職人や貴族の衣装は19世紀風でまぁ常識的な範囲。
日本語字幕は特段文学的な香りのするものではないが、分かりやすく処理されていたように思います。職人たちの劇中劇の前口上、句読点を無視してトンチンカンな意味になるのをまずまず巧く訳していました。また、妖精が日本語で歌うところも字幕がついていたので、日本語を歌詞として聞き取るストレスがなく助かりました。

佐渡裕の指揮については、私はなんとなくもっと大味なものを想像していましたが、基本は精緻に、しかしタイターニアとボトムの場では思いがけないほどねっとりとした表現で、この有名とは言い難いオペラを紹介するのに過不足の無いバランスのとれたものであったと思います。タイターニアの目覚めの音楽の解放感、劇中劇のベルガマスク舞曲から真夜中の鐘の音楽に至る昂揚感も素晴らしい。佐渡裕はこのオペラの、1984年の関西初演の際に副指揮者を担当していたらしく、ブリテンの音楽とは縁もあれば適性もあるということなのでしょう。オーケストラも大きな破綻なく、おそらくは今後何日かある公演でさらに磨かれていくことだと思います。私は先に書いた通り、職人たちの場面で吹き出しそうになりながら本当に楽しくみていましたが、芝居が終わりに近づくに連れて、なぜか涙がでそうになりました。多少のデコボコはあったものの、ブリテンのオペラの凄さというものを改めて認識することができた良い公演でした。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2016-07-25 23:35 | 演奏会レビュー | Comments(0)

ブリテン 「真夏の夜の夢」を聴く

私は例えば上司に向かって「本気で怒らせないよう、でも反対意見をきちんと伝えるべく手加減しながら反論する」みたいなことを「甘噛み」と言ってたのだが、ある人から「それは乳首に対して使う言葉!」と訂正された。そうなの?





7月に佐渡裕が指揮するブリテンの「真夏の夜の夢」を観にいくにあたり、少々予習をしております。
ブリテンの1ダース以上もあるオペラについては、以前「ピーター・グライムズ」「ビリー・バッド」「カーリュー・リヴァー」をこのブログで取り上げてきました。他にも音源は買い込んであるのですがなかなか腰を据えて聴くところまでいかず、今回ようやく重い腰を上げて聴き込んだ次第。
①は購入してそのままになっていた音源。それにはリブレットも対訳も附いておらず、省略や入れ替えはあるものの殆どシェークスピアの原文をそのまま用いた歌詞を理解するのは私にはかなりハードルが高い。という訳で日本語対訳が欲しくて図書館で②の音源を借りてきた。両者の聴き比べは後程。

 ブリテン「真夏の夜の夢」Op.64
 音源①
 オーベロン: アルフレッド・デラー
 タイターニア: エリザベス・ハーウッド
 パック: スティーヴン・テリー
 シーシアス: ジョン・シャーリー=カーク
 ヒポリタ: ヘレン・ワッツ
 ライサンダー: ピーター・ピアーズ
 ディミートリアス: トーマス・ヘムズリー
 ハーミア: ジョセフィン・ヴィージー
 ヘレナ: ヘザー・ハーパー
 ボトム: オーウェン・ブラニガン
 クインス: ノーマン・ラムズデン
 フルート: ケネス・マクドナルド
 スナッグ: デヴィッド・ケリー
 スナウト: ロバート・ティアー
 スターヴリング: キース・ラゲット
 ダウンサイド・スクールおよびエマニュエル・スクール合唱団
 ベンジャミン・ブリテン指揮ロンドン交響楽団
 1966年9月23,25-28日・10月3・5日録音
 CD:DECCA478 544 8

 音源②
 オーベロン: ブライアン・アサワ
 タイターニア: シルヴィア・マクネアー
 パック: カール・ファーガスン
 シーシアス: ブライアン・バナタイン・スコット
 ヒポリタ: ヒラリー・サマーズ
 ライサンダー: ジョン・マーク・エインズリー
 ディミートリアス: ポール・ウィーラン
 ハーミア: ラビー・フィロジーン
 ヘレナ: ジャニス・ワトソン
 ボトム: ロバート・ロイド
 クインス: グウィン・ハウエル
 フルート: イアン・ボストリッジ
 スナッグ: スティーヴン・リチャードソン
 スナウト: マーク・タッカー
 スターヴリング: ニール・デイヴィス
 ニュー・ロンドン児童合唱団
 コリン・デイヴィス指揮ロンドン交響楽団
 1995年12月録音
 CD:Philips PHCP5384

*登場人物の日本語表記はあまり定まっておらず、タイターニアのかわりにタイテーニアあるいはティターニア、シーシアスのかわりにシーシュースなどと表記されることも。

最初にどうでもいい話だが、タイトルについて最近は「夏の夜の夢」とする場合が多いようだ。そもそもMidsummerは夏至のことであって「真夏」というのが誤訳だとする説によるものだろう。私のごく個人的な意見だが、ながらく「真夏の・・・」で定着してきたこと、またそのほうが日本語としてもリズムが良いこと、夏至だろうが真夏だろうが、どのみちイギリスの気候風土や聖ヨハネ祭にまつわる様々な含意を普通の日本人が思い浮かべることはタイトルだけでは不可能なこと、等々で「真夏の・・・・」で良いのではないかと思っています。要はちょっと昔の映画、例えば「慕情」でも「望郷」でもなんでもいいが、原題とまったく違うからといって誰も咎めることがないのと似たようなものだろう。

シェークスピアの原作は5幕構成で、もちろんそのままでは一夜のオペラのリブレットとしては長すぎます。ブリテンは原作冒頭のシーシアスの宮殿の場をそっくりカットし、ハーミアの父イージーアスや臣下フィロストレートの登場場面もカットして最後の劇中劇の場以外はすべて森の中に絞り込んでいます。登場人物の饒舌で多分に装飾的な台詞もかなり刈り込まれていますが、(精査した訳ではないので感覚的ではあるけれど)ボトム以下の職人たちの会話は比較的カットが少ないように思います。
シーシアスとヒポリタの場面が短縮された為に、原作では
a1.貴族の中でも最も権力の大きい者
a2.貴族の若者
b.職人
c.妖精
という4グループに登場人物が分けられていたのに対し、オペラのほうでは
A.貴族
B.職人
C.妖精
という3グループにいわば圧縮されていて、ブリテンの音楽もほぼこの区分に従って3つのタイプにカテゴライズできるように思われます。

Aの貴族のカテゴリーについては、最後の劇中劇を別にすると、極めてシリアスで劇的な音楽。4人の恋人達の音楽だけ聴いているとこれまで私が聴いた陰惨なオペラの音楽とそんなに変わらないような気がします。ハーミアとヘレナが罵り合う場面で幾分喜劇的な要素が感じられるものの、基本は人間のリアルな愛憎をヴェリズモ・オペラさながらに描いたと言えなくもない。
戦後の前衛的な音楽の動向にはほとんど興味を示していないブリテンだが、完全に保守的とか伝統的というのとも少し違う。パリ時代のストラヴィンスキーやヒンデミットとブリテン、この3人の音楽語法というのはそれぞれ全然違うのだが、調性の体系を拡大して独自な語法としていくところは共通している。ただ誤解を恐れずにいえば、ストラヴィンスキーは常に未来を見つめながら自分の耳だけを頼りに極めて感覚的に書いているような気がするのに対し、ヒンデミットは過去に向き合いがら理論的に調性の拡大を図っている。ブリテンは当時のイギリスの保守的な音楽界や映画音楽などをたくさん書いた経験を踏まて、彼なりにコンテンポラリーな音楽を書いたのだろうが、背景には終生敬愛していたアルバン・ベルクのロマンティックな音楽への憧憬があることは確かだと思います。

次にBの職人たちの音楽だが、これが全体の中では一番面白く生気に溢れていて、ブリテンはさぞ嬉々としてこの音楽を書いたのだろうと想像できます。基本的にはブッフォな音楽だが、中でも注目すべきだと思われるのは、ロバの頭を被せられたボトムが仲間においてけぼりを食らって歌う"The woosell cock, so black of hue"。タイターニアの短い歌を挟んで2節あるのだが、まさにベルクの「ヴォツェック」を思わせるような面白さがある。そもそも妖精界と人間界というのは(妖精が人間の目には見えないこともあって)基本的に交わらないのだが、この歌をきっかけに二つの世界が交わるようになる。そこで、ヴォツェックのような正気と狂気を行ったり来たりする音楽に似通った音楽を書いたのだろうと想像します。
また第3幕の職人たちによる劇中劇の場は、まさかのイタリア・オペラのパロディーになっています。ピラマスに扮したボトムの歌う"Grim-look'd night!"はヴェルディのバリトンのアリアさながら。ここはブッフォではなく、シモン・ボッカネグラにでもなったつもりで大真面目に歌ってほしいところです。シスビーに扮したフルートの歌はドニゼッティの「ルチア」を初めとする狂乱のアリアのスタイルで書かれていますが、最初調子っぱずれに歌い始めて笑わせながら、最後はたいそう技巧的なアジリタを披露します。このアジリタが歌えなければ話にならないので、フルート役の歌手にはレジェロなハイテノールが必要でしょう。

最後にCの妖精の音楽だが、弦のグリッサンドやチェレスタの響きで幻想的な雰囲気を醸し出すところは、まあ常套的といってよいのかも知れません。ここで私が注目したのはまず第1幕のオベロンの歌"I know a bank where the wild thyme blows”。ここはバロックオペラの様式で書かれていて(私はよく言われるパーセルよりはモンテヴェルディのモノディーに近いような気がしました)、とても魅力的。タイターニアのパートはどこも素晴らしいですが、ロバ頭のボトムと添い寝するところは全曲の中で最も官能的な(ブリテンにしては、という意味だが)音楽で書かれています。

ボトムとタイターニアの場の官能性に言及しましたが、よく考えてみると貴族の若者たちの場というのは、基本的に純潔とか貞操といったものに価値をおく世界なのでそもそも性的な要素というのは希薄にならざるを得ません。例えばヘレナがディミートリアスに対して、私をスパニエル犬のように打ってという台詞には誰しもマゾヒズム的な意味を嗅ぎとろうとするはずだが、ブリテンは賢明にもこの台詞にパストラル風の新古典主義的な音楽を附けて、過度な官能性を排除している。職人たちはというと、こちらは男ばかりの世界なので少なくとも表向きは官能の描写というのとは無縁(実際にはフルートの"Nay, faith,let me not play a woman;I have a beard coming.”という台詞でもって彼らの職人階級のホモソーシャルとホモフォービアの桎梏の問題がそれとなく示唆されているようにも思うのだが・・・)。対するに妖精の世界というのは人間界のモラルや性的タブーには全く縛られていない(この劇の発端はそもそも、インドの王様のところから盗んできた男の子をお小姓にした女王タイターニアと、その男の子を自分のものにしたくて仕方のない王オーベロンとの諍いであった)。モラルやタブーがあってこその官能、という訳で、人間のボトムと妖精のタイターニアが交わる場面(まさに禁断の愛だ)がもっとも性的なイメージを帯びるのは当然と言えば当然。もちろん原作でもオペラでも、タイターニアとボトムの間でどこまでの行為があったのかは何も書かれてはいないけれど、この芝居のなかで性的な交渉があったとすればこの二人の間にしかありえないのは事実。
次に、ではなぜこの場面でボトムはロバ頭の間抜けな姿に変身したのか、という問いに対しては、ヤン・コットが『シェイクスピアは我らの同時代人』所収の「ティターニアとろばの頭」という章の中に端的にこう書いています。
「ボトムはやがてろばの姿に変えられる。だがこの悪夢に満ちた夏の夜においては、ろばは通常の場合のように愚鈍さを象徴するのではない。古代からルネサンスまで、ろばという動物は、とたえばアプレイウスの『黄金のろば』の挿話が示すように、最も強い性的能力をもっていると信じられていたのであり、あらゆる四足獣の中で、いちばん長くいちばん堅い男根をもっていると考えられていたのだった。」
(ヤン・コット『シェイクスピアはわれらの同時代人』蜂谷昭雄・貴志哲雄訳、白水社)
ヤン・コットの分析というのはその精神分析的なアプローチなど、間違いとは言えないまでも、既に現代においては批判的に読まれるべきところも多いと思われます。しかしいまこうして改めて読み直すと、ブリテンのような、性的マイノリティ故にオペラの題材一つとってもそこに内在するエロスの要素に敏感かつ意識的にならざるをえなかった作曲家の作品を理解するには、恰好の補助線となりうると思いました。

演奏について少しだけ。
まず①の演奏だが、単に作曲者が指揮しているから、とか初演の時の主要メンバーによるとかいう以上に、これほど作品の世界観まで感じさせる演奏というのは稀だろうと思います。かつてのDECCAがその技術・ノウハウのすべてを注ぎ込んだであろう録音は本当に素晴らしく、夜の森のひんやりとした空気におもわず鳥肌が立つほどだ。歌手については個別にあれこれ言うのも愚かに思われるほど粒が揃っています。デラーのカウンターテナーなど、演奏スタイルとしてはもちろん古いのだけれど、一度聴いてしまうとこれ以外にありえないだろうと思ってしまいます。
②のコリン・デイヴィスは、例によって真摯で明晰、しかも情熱にも事欠かない良い指揮だと思いますが、①と比べると残念ながら何かが足りないと言わざるを得ません。予想通り、デイヴィスのある意味とてもリアリスティックな指揮というのは、Aの貴族たちの音楽にはとてもよく合っていて成功していると思いますが、Bの職人、Cの妖精の音楽は真面目なだけでは歯が立たないといった感じがします。ブライアン・アサワのカウンターテナーやシルヴィア・マクネアーのコロラトゥーラなど、②の歌手のほうが技術的な面ではむしろ①を上回っていると思いますが、それだけでは満足できない、というのも実に贅沢な話ではあります。もっとも、②がことさらレベルが低いというのではなくて、もっと高い次元での微妙な差異について述べたつもりなので、これから音源を求めようと思われる方には正直どちらでも良いのではと思っています。

ついでながら、Youtubeで簡単に観れる動画としては、エクサンプロヴァンスで大野和士が振った舞台の録画がとても面白いと思いました。ロバ頭のボトムとタイターニアの場は微妙にエロくて作品の本質をきちんと押さえていると思います。さて7月の兵庫県立芸術文化センターでの公演、どんな舞台が観れるのか。お子様向け人畜無害な舞台でなければ良いのだけれど・・・。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2016-07-05 01:19 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)