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京都観世会例会 「田村」 「百万」 「春日龍神」

【性格悪い】
札幌出身の人に敢えて西友偽装肉返金事件とかYOSAKOIソーラン祭りとかの話題を振る。





久々の観能。今回の三曲はいずれも春の季節のお話ということで、この時期の京都に実に似つかわしい。

 2016年3月27日@京都観世会館
 京都観世会三月例会

  田村
   シテ(童子/坂上田村麻呂) 松野浩行
   ワキ(旅僧) 小林努
   ワキツレ(従僧) 有松遼一・岡充
   間(所ノ者) 山本豪一

  狂言
  因幡堂
   シテ(夫) 小笠原匡
   アド(妻) 山本豪一

  百万 法楽之舞
   シテ(百万) 橋本雅夫
   子方 橋本充基
   ワキ(都ノ者) 有松遼一
   ワキツレ(伴ノ者) 小林努・岡充
   間(所ノ者) 小笠原匡

  仕舞
  嵐山 大江泰正
  網之段 浦田保親
  須磨源治 片山伸吾

  春日龍神 龍女之舞
   シテ(尉/龍神) 片山九郎右衛門
   ツレ(竜女) 味方團
   ツレ(男) 橋本忠樹
   ワキ(明恵上人) 殿田謙吉
   ワキツレ(従僧) 平木豊男・則久英志


最初は「田村」。
東国から都に出てきた僧が清水寺に参ると、箒を持って木陰を掃き清めている童子(坂上田村麻呂の化身)に出会う。童子は僧らの求めに応じて清水寺の縁起を語ると寺の田村堂に姿を消す。その夜僧が読経していると田村麻呂の霊が現れ、平城天皇の命によって鈴鹿の鬼神を平らげた様子を再現し、観音の力を讃えて消え去る。
二番目物(修羅物)に分類されますが、「田村」は「屋島」「箙」と並ぶ勝修羅物。私、不覚にも前半睡魔に襲われて大半寝てしまい、中入りからの感想しか書けませんが、絢爛たる若武者姿の田村麻呂が颯爽と、また激しく舞う姿は大層面白く、前段の名所語りを観損ねたのが残念です。ただ、これまで観てきた修羅物(朝長・頼政・通盛)の悲劇性と比べると、どうしても物足りなく思うのが正直なところ。勝修羅には勝修羅の味わいがあるはずなので、もう一度体調の良い時に観たいものです。

狂言は「因幡堂」。
大酒飲みの女房が実家に帰ったのを幸い、暇の状(離縁状)を出した男。さりとて独り身は不自由で、因幡堂に新しい女房を得たいと願を掛ける。怒り狂った女房は、男が因幡堂に籠っていると聞いて、神のお告げとばかりに「西門の階の女を娶れ」と囁く。男が西門に行くと果たして頭から衣を被いだ女がいる。その女を連れ帰り、祝言の酒を飲ませると飲むわ飲むわ・・・
これまで観てきた狂言の中では、「延命袋」と前段がほぼ同じ。落ちは酒乱の妻という設定の因幡堂の方がより哄笑を誘います。普通に考えれば修羅場となるはずだが、大笑いの内に終わるのがなんとも大らかで良い。

さて私にとって3回目となる「百万」。初回も二回目も、そして今回も感じたことだが、どうも私にはこの母子再会のお話に無理があるように思えて仕方がない。演者にとっても観客にとっても人気があるらしく、だからこそわずかな期間に三度も観たわけですが、私には皆さんが感じておられるであろう情趣とか母子の情愛とかいったものを感受する能力が欠けているのだろうか。もしかすると、母子再会とは口実で、その実次から次へと繰り広げられる狂女の舞を楽しむものという考え方もあるだろう。しかしそれなら尚更、見巧者ならぬ身にはハードルの高い話です。音楽でもなんでもそうですが、広く世に知られ親しまれているものには必ずそれなりの理由がある、しかし十回聴いて(観て)ピンとこなければもう自分とは縁がなかったとしか思いようがない。まぁ三回で見切りを附けるのも早すぎるでしょうから、次の機会があればまた観てみようと思います。
そうそう、今回初めて気づいたこと。百万は男から幼子を引き会わされると、それまで被っていた烏帽子を静かに脱いで畳む。百万は、物狂いとして群集の前で踊ることを何度か「恥」と呼んでおり、烏帽子を脱ぐ姿にはこの労苦から解き放たれるという万感の思いが籠っているように見えました。とても重要な所作だと思うのですが、いままで気づかなかったものか、それとも細かい所作は毎度異なっているものなのか。
それはそうと、この能で最も違和感があるのは一回目の感想で「名乗りの遅延」と書いたこと、すなわち「男」が子方から「これなる物狂いをよくよく見候へば。故郷の母にて御入り候。恐れながらよその様にて。問うて給はり候へ。」と言われた男が「これは思いひもよらぬ事を承り候ふものかな。やがて問うて参らせうずるにて候。」と答えながらも結局すぐには名乗らせないこと。なんとも情の無い話だが、そもそもこの男の素性は如何なるものなのか。流派によっては僧とするものもあるようだけれど、通常は「和州三芳野の者」としか分からない。これについて下記のような記載を見つけました(柴田稔氏のブログ)。

http://aobanokai.exblog.jp/17162465/

ここには私見と断りながらも、子方は稚児(=性的な慰み者としての)として僧に売られる為に西大寺で攫われたとし、「男」を人身売買で生計を立てるものと推論しています。これは卓見だと思いますが、この見方に立てば男がなかなか子方の名乗りを上げさせないのも理解しやすい。つまり稚児は男にとっては大切な商品だったのだから、出来ることなら母子がそれと知らず別れてほしい、しかし最後はつい情にほだされ・・・ということだろうと思います。そうなると、殊更に仏典用語が頻発する謡本文も幾分皮肉めいた感じがしなくもないが、これ以上のことは本文に即した分析が必要であり、私の手には余るので止めておきます。

仕舞は三番。三者三様それぞれの味わいがあるような気がします。「須磨源氏」は派手さは微塵もないがシテの台詞が多くて興味深い。源氏に因んだ能の中では比較的上演の機会が少ないようですが、全編を観てみたい。尚、「網之段」とは「桜川」の中のシテ(狂女)の舞であるとのこと。

最後は「春日龍神」。
高山寺の高僧明恵上人は仏道を極めるために入唐渡天の志を抱く。春日明神に暇乞いの挨拶にいくと、宮守(実は明神の使い)が、釈迦入滅の後は春日山こそ霊鷲山(りょうじゅせん)というべきであり、わざわざ天竺に渡るには及ばぬ。むしろ明恵と解脱上人(貞慶)を両の腕とも左右の目とも頼んでおられる神慮に背くことになろうと話す。上人が思いとどまると宮守は喜び、三笠の山に釈迦の誕生から入滅まで天竺の様子を映してみせようと言って姿を消す。やがて春日の野山が金色に染まると龍女、ついで龍神が百千眷属を引き連れて現れ、宮守の言葉通り辺りは天竺に変じて釈迦の生涯を写し、龍神は上人の翻意を確かめて去っていく。
素人と笑われようが、やはり龍神鬼神の類が出てくる能は理屈抜きに面白い。前段でいろいろお話のディティールがあるものの、全ては後段のスペクタクルな愉しみのためのものといった感じがします。三笠の山に釈迦の生涯を映すなど、まるで現代のプロジェクションマッピングそのものだし、八大龍神が百千眷属引き連れて現れるというのも実に壮大。龍女と龍神それぞれが舞うというのも、言葉の生み出すイメージに現実の舞台が負けないための工夫だろうと思います。最初(田村)少し寝てしまい、途中(百万)よく分からぬまま見ていたのだが終わり良ければすべて良し。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2016-03-28 23:00 | 観劇記録 | Comments(0)

シューベルト 高雅なワルツ

私らの世代って、たまに「嵐が丘」は手旗信号で人妻と話をする物語だとマジで思ってる人いるよね。




シューベルト舞曲集の第二夜。

  2016年3月24日@カフェ・モンタージュ
  「高雅なワルツ」
   ― シューベルト ピアノ作品全曲シリーズvol.6―

   3つのエコセーズ D816
   6つのドイツ舞曲 D820
   12のドイツ舞曲 D790(作品171)
   12の高雅なワルツ D969(作品77)

   (アンコール)
   プロコフィエフ シューベルトによるワルツ組曲

   ピアノ: 佐藤卓史

23日の感想にも少し書いたように、第一夜を聴いて、シューベルトってこんなもの、と思っていると第二夜を聴いてその豊かな熟成に驚くことになります。第一夜の作品は1816年~23年の作曲、第二夜は1823年から27年、そして作曲家の死は1828年。そんなに長い期間が経過したわけでもないのに何と言う変化がもたらされたことか。昨日の感想の中で、シューマンの世界までほんのひと跨ぎ、と書きましたが、第二夜はそのシューマンの世界に肉薄しています。いやそれどころか、シューマンの中でもとびきりの傑作である「ダヴィッド同盟舞曲集」に優るとも劣らぬ世界を知ることになりました。
演奏が始まる前に、例によって店主高田氏のトークがあるのですが、それによると「12のドイツ舞曲」D790の手稿はシューベルトの死後、シューマンの所蔵するところとなり、シューマンの死後ブラームスの手に亘ってようやく世間の知るところとなったと言います。このD790に限らず、シューベルトの多くの作品は作曲家の死後、兄フェルディナントやその他の音楽家の手によって草稿が守られたのですが、その多くは出版という形ではなく、ごく限られた人の秘蔵するところとなり、その全貌が広く知られるようになるのは殆ど20世紀に入ってから、ということのようです。だが明らかにシューマンはその天才を知っていたし、ブラームスやリストも知っていた。シューマンの「蝶々」「謝肉祭」「ダヴィッド同盟舞曲集」などは、シューベルトの舞曲、特にD790からの露骨なまでの影響を抜きにしては今後語ることができないだろうと思います。
演奏はまず「3つのエコセーズ」D816から始まりました。あっという間に終わってしまう小曲ですが、サロンが光で満たされるような気がするほど豊穣な音楽。次の「6つのドイツ舞曲」D820はウェーベルンがオーケストラに編曲していることで比較的有名な作品。ブーレーズが監修したウェーベルン全集の旧盤にはウェーベルン自身の指揮によるこの舞曲の歴史的演奏が収録されていました。これも、特段なにといって変わった和声が使われている訳ではないがとても面白い。佐藤氏のトークによればこのD816とD820は1824年、シューベルトがエステルハージ家の令嬢カロリーネのピアノ教師をしていた頃に作曲され、おそらくは彼女のピアノの教育的目的から書かれたものだろうといいます。
そしてD790。1823年に書かれたといいますが、12曲が調性や曲調などの緊密なプランの元に配列されているのは明らかです。先にも書いたように、この作品は今後シューマンの偉大な先駆的作品として甦るべきものだと思います。
最後に「12の高雅なワルツ」D969。1827年に出版されていますが、昨日の投稿でも書いたように、出版された作品については草稿が廃棄される習慣があったため、作曲の詳しい経緯はよく判らないようです。佐藤氏によればほぼ確実に、タイトルは出版社が勝手に付けたものであると言えるようです。それはともかく、先の3曲に比べると、ドイッチュ番号が遅いにも拘わらず、音楽としての成熟度は一歩後退している感じがなくもない。かなり以前に書かれた舞曲を後に出版したのかも知れません。
アンコールはプロコフィエフによるシューベルトの舞曲のコンピレーション。作曲者の個性は割と抑え気味だが、最後のほうにちょっとプロコフィエフっぽく和音を叩きつけて終わるのが微笑ましい。

佐藤卓史のピアノについてはほぼ昨日書いた感想通りですが、作品のレベルが上がると自ずから演奏も高揚していく感じ。今回のように、「曲を知る」という意味では何の不満もありませんが、ピアノの演奏を楽しむ、というのであればもう少しメカニックを磨く余地はありそう。
by nekomatalistener | 2016-03-26 17:50 | 演奏会レビュー | Comments(0)

シューベルト 感傷的なワルツ

3月14日投稿の枕の続きとしてぴったりなツイートが話題に。

つきしろ ‏@tsukishiron · 3月18日
インドア派の技術者を引き留めるために、なぜか部署のみんなで休日にハイキングという天下り老害が提唱する「仲間との一体感」を作り上げる施策を実施した結果、めでたく引き留め対象が全員退職したことが





カフェ・モンタージュで二夜連続シューベルト舞曲集リサイタル。まずは第一夜の備忘です。

  2016年3月23日@カフェ・モンタージュ
  「感傷的なワルツ」
  ― シューベルト ピアノ作品全曲シリーズvol.6―

   8つのレントラー 変ロ長調 D378
   3つのメヌエット D380(未完・佐藤卓史による補筆完成版)
   34の感傷的なワルツ D779(作品50)

   (アンコール)
   リスト 「ウィーンの夜会」より 第6曲

   ピアノ: 佐藤卓史


よほどのシューベルトマニアは別として、普段CDでこのような舞曲を立て続けに聴くということはどなたも殆どないと思います。その意味では大変貴重な機会でした。また、今回のリサイタルほど、この小さなカフェ&サロンに相応しいものもないと思います。大きなホールでは採算上の問題以上に、音楽の在り方として失われるものが多かろうと思います。
現代では忘却の彼方に沈んでいるようなシューベルトの舞曲ですが、店主高田さんのトークによると、1920年代あたりはけっこう人気があり、コルトーを初めとする名だたるピアニストがSPレコードに録音していたとのこと。とにかく一曲一曲が短いのでSPというフォーマットにはぴったりだと思いますが、店主が第一次大戦後のこの流行をビーダーマイヤー様式に関連付けていたのは面白い視点だと思います。もっとも19世紀前半のビーダーマイヤー様式が、ユーゲントシュティルのいわば反動として復権するのは1900年あたりと、20年代よりはやや早い時期のような気もしますが、いずれにしろそのころの中産階級のシンプルな居間で聴くには実に相応しい音楽であったことは理解できます。
店主に負けず劣らず奏者の佐藤氏もトークが上手い方でしたが、それによると歌曲王といわれるシューベルトだが歌曲の多くは作曲家がリスクを負う自費出版という形で後世に残され、資金回収が出来たものもあれば出来なかったものもある。その他の大規模な音楽はピアノソナタにしろ交響曲にしろ、ほとんど出版のあてもなかったのだが、舞曲だけは当時はとても人気があり、次々と出版されてシューベルトの数少ない収入源のひとつであったということです。

音楽について少々。最初のレントラーとメヌエットは1816年、シューベルト18歳の作品。レントラーは何の屈託もなくひたすら明るい音楽。和声もほとんどⅠ・Ⅳ・Ⅴの三和音だけで出来ているような感じ。傑作でもなんでもないが、普段着のシューベルトの姿がよく分かります。同時期のメヌエットはそれぞれ2つのトリオを持っていて、レントラーよりはやや規模も大きく仰々しい感じ(3曲目はトリオⅠの途中で未完)。だがこれも基本は家庭で演奏して楽しむための音楽だったのだろうと思います。
これがプログラム後半、1825年の出版、1823年に書かれたとされる「34の感傷的なワルツ」になると、音楽がやや陰影を帯びてくる感じ。もちろん基本は家庭音楽ですから単純な左手の刻みのうえで右手が旋律を弾くだけなのだが、右手は三度で重ねてあるところが多く、アマチュアにはすこし難しそう。クロマティックという程ではないのだが、ところどころ美しく移ろいゆく和声進行があったり、ヘミオラが現れたり、シューマンの「蝶々」を思わせるような音楽が続きます。中でも印象的な第13曲(譜例)は後にリストが「ウィーンの夜会」に編曲しているロマンティックな音楽。ここからシューマンの「謝肉祭」まではほんの一跨ぎという感じがします。
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ちなみに、佐藤氏のトークによると、当時は出版されると原稿(自筆譜)は廃棄されていたらしく、この34のワルツについても自筆譜がない。よって34曲の配列が作曲家の意図によるのか、出版社が適当にセレクトしただけなのかは分からないといいます。また、シューベルトにおいては「レントラー」も「ドイツ舞曲」も「ワルツ」も音楽的には特に差異はないのだけれど、自筆で「ワルツ」と書かれている作品は一つしかなく、他は「レントラー」か「ドイツ舞曲」あるいはタイトル無しであるそうだ。「感傷的なワルツ」というタイトルはどうも出版社のキャッチコピーであったようです。
リストの「ウィーンの夜会」をアンコールに持ってきたのは当然の流れ。これもマイナーな作品だが、そこそこ華やかな音楽が演奏家受けするのか、春秋社のリスト選集に楽譜が載っているからか、元ネタよりははるかに聴く機会が多い。シューベルトと並べて聴くことでより親しみの湧くものになりました。

佐藤卓史の演奏はいずれも活気にあふれていて、ムジツィーレンの愉しみがよく伝わってきます。曲が曲だけにこまかい瑕疵をあげつらうのも野暮というものでしょう。だがアンコールのリストとなると、ちょっとメカニックが追い付かない箇所があって心から楽しむという訳にはいきませんでした。起承転結の殆どないシューベルトを暗譜で弾いていたのにリストの方は楽譜を置いて視奏というのも解せないところ。準備期間が少し足りなかったのでしょうか、本当はもうすこし弾ける人だと思います。




さて、本稿を書き終えた時点で私は24日の第二夜を既に聴いている訳だが、第一夜に上記のような感想を抱いて第二夜を聴くとちょっとした衝撃を覚えることになりました。その時の感想は稿を改めて書きます。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2016-03-25 15:14 | 演奏会レビュー | Comments(0)

3.11雑感

疑似科学かどうか簡単な見分け方。一言でも「波動」という言葉使ってたらアウト。




ある方のツイートに、今回の「イェヌーファ」と「ピーター・グライムズ」と「軍人たち」が新国立劇場ベストスリーと書いてあるのを見ました。私は残念ながら「軍人たち」は観ていないので何とも云いかねるけれど、「ピーター・グライムズ」は確かに凄い舞台でした。だが「イェヌーファ」がそこまで凄かったかと言われたら、ちょっと違う感じもする。
ではお前のベストスリーはと聞かれたら?グリャコヴァの歌った「蝶々夫人」、クヴィエチェンの「ドン・ジョヴァンニ」、いろいろ思い浮かぶが「ムツェンスクのマクベス夫人」も捨てがたい。もう二位以下はどうでもいいが、一つだけ極私的ベストワンを選ぶなら何と言っても2011年4月16日の「ばらの騎士」だろう。
この年の3月11日、新浦安駅近くで単身生活を送っていた私の住まいは、液状化でトイレもシャワーも使えなくなり、余震や停電など、東北の人たちとは比べ物にならないとはいえ、それなりに大変な日々を送っていた。実に地震から一ヶ月以上、不思議と音楽を聴く気にならず、やはり衣食足りてこその音楽、たかが音楽、という思いを持ち始めていた。これではいかんと思い、思い切って行くことにした「ばらの騎士」。正直なところ、なぜいまばらの騎士か、と思わないでもなかった。オックス男爵を歌ったフランツ・ハヴラタ以外は元の海外キャストは誰も日本に来ず、大半は日本人カバー歌手。指揮を予定していたアルミンクも来ない。客観的にみてどれほどのレベルの公演だったのか今となっては判然としない。だが一ヶ月ぶりに音楽を浴びて、私はもうほとんど第1幕から泣いていた。終幕の三重唱に至っては嗚咽を堪えることが出来なかった。私だけではない。あちこちからすすり泣く声が聞こえた。
この公演の時ほど音楽のもつ力を感じたことはない。あの震災自体は不幸な出来事だったが、一方でこのような貴重な経験もした。
いつかこのブログにも記そうと思いながらようやく果たせた。
by nekomatalistener | 2016-03-15 22:39 | その他 | Comments(2)

新国立劇場公演 ヤナーチェク 「イェヌーファ」 

大手企業で運動会など再評価 一体感醸成に効果「リアルな交流できる」
SankeiBiz 2月18日(木)8時15分配信
・・・・・
うそつけ。




新国立劇場初登場のヤナーチェク。正直なところ直前まで行くのを迷っていたのですが、友人の「一生後悔するよ」というメールで急遽楽日を観ることに。これは観ておいてよかった。

 2016年3月11日@新国立劇場
  ブリヤ家の女主人: ハンナ・シュヴァルツ
  ラツァ・クレメニュ: ヴィル・ハルトマン
  シュテヴァ・ブリヤ: ジャンルカ・ザンピエーリ
  コステルニチカ: ジェニファー・ラーモア
  イェヌーファ: ミヒャエラ・カウネ
  粉屋の親方: 萩原 潤
  村長: 志村文彦
  村長夫人: 与田朝子
  カロルカ: 針生美智子
  羊飼いの女: 鵜木絵里
  バレナ: 小泉詠子
  ヤノ: 吉原圭子

  指揮: トマーシュ・ハヌス
  演出: クリストフ・ロイ
  合唱指揮: 冨平恭平
  合唱: 新国立劇場合唱団
  管弦楽: 東京交響楽団


ヤナーチェクの音楽を聴くと、その独自性にいつも驚いてしまいます。質実剛健というか無骨な手触り、洗練というのとは全く違うが恐るべき完成度。過去のどんな音楽にも似ていない(少なくともどんな先行者がいたのかよく分からない)という点で、ムソルグスキーと並び立つ天才であると思います(ムソルグスキーの場合はダルゴムイシスキーが一応先行者ということでいいのだろうか)。
この「イェヌーファ」にしても、耳で聴くだけでは垢抜けない感じがしなくもないのですが、舞台で観るとその音楽と演劇との緊密な結びつきに驚嘆することになります。特に第2幕終結部の身を突き刺すような金管の扱い方や、第3幕の終わりの、カメラがパンして大きく視界が拓けるような音楽は、舞台と合わさることで物凄い威力を放っていました。
それよりなにより、どうしようもない登場人物ばかり出てくるこのオペラを貫く、ヤナーチェクの慈愛としか言いようのない暖かな視線には殆どたじろぐ思いがします。屑の中の屑であるステヴァだけでなく、他の登場人物だって多かれ少なかれろくでもない連中ばかりなのだが、ヤナーチェクは彼らに些かも下卑た歌を歌わせない。その真摯な音楽はモラヴィアの田舎の愛憎劇を人間の根源的な悲劇にまで昇華する。ヒューマニズムという言葉は手垢が付き過ぎて普段まず使わない言葉だが、ヤナーチェクの音楽に底流するものこそ、真のヒューマニズムだと言っても過言ではないような気がします。

今回の公演、私は新国立劇場の過去の公演の中でもトップクラスだと思いますが、まず主役級の歌手達が本当に素晴らしかった。特に、ラツァを歌ったヴィル・ハルトマンとコステルニチカを歌ったジェニファー・ラーモアはこの作品の上演史に残るだろうと思います。とりわけハルトマンは、まさにラツァを歌うために生まれてきたのではないかとすら思う(こんな感想は2012年「ピーター・グライムズ」の時のスチュアート・スケルトン以来かもしれない)。ハンナ・シュヴァルツも凄い。1943年生まれで、今回の日本公演では同時に「サロメ」のヘロディアスも歌うというから正にバケモノ。もちろんイェヌーファのミヒャエラ・カウネ、シュテヴァのジャンルカ・ザンピエーリも言うことなし。脇役を固める日本勢は、難しいチェコ語(モラヴィア方言)のオペラということで大変だったと思うのだが、これといって穴がないのは大したものだと思いました。
トマーシュ・ハヌス指揮東京交響楽団の演奏も大変優れたものだったと思います。ツイッターやブログなどぱらぱらと見ていると、概ねこの公演に対しては高評価ながら、海外で幾度か舞台を観た方の中にはやや辛口のものもありました。余りにも演奏がきれいに整理されすぎて、ドラマの生々しさが犠牲になっているとの評価を見ましたが、そのような見方があることは当然のことだろうと思います。ヤナーチェクほどの天才の音楽であれば、演出や歌手の如何によってもっと高いレベルがあり得て当然、これが最高ということはないのでしょう。だが、今後の日本におけるヤナーチェクの受容を考えた場合に、これほど高い水準の好演が新国立劇場という大箱で、多くの人の目に触れたということは大きな意義をもつはず。
これは演出にも言えることであって、今回それが残念ながらレンタルであって再演が望みえないことを残念に思われる向きもあった。だがこれも、レンタルであれ何であれ、とにもかくにも新国立劇場で取り上げられたということが大切なのではないか。その演出はというと、第1幕、オーケストラの序奏の前に、白々とした光に満たされ、机と椅子以外は何の調度もない刑務所の取調室のような部屋に、刑務官がコステルニチカを連れてくるところから始まる。以下はすべてコステルニチカの回想という見立て。この殺風景な白い空間は、ストーリーの進展に連れて、横幅が広がり、奥の壁がスライドして麦畑が見えたり、雪景色が見えたりと変化するが、その高さと奥行はこの劇場のキャパのおそらく半分も使っておらず、それがそのままイェヌーファやコステルニチカをとりまく閉塞的な社会を表している(現代の日本だって、すこし田舎に行けばこのような生き辛い社会はいくらでもみつかるだろう)。人物の動かし方は極めて演劇的で、途中何度も現れるゲネラルパウゼではとてつもない緊張を強いられます。登場人物は、第1幕でラツァが吊りズボンにアンダーシャツ一枚という野良着姿であるほかは皆現代風のファッション、ラツァも2幕以降はスーツを着ている。イェヌーファは最初深紅のワンピースで出てくるが終幕はごく地味な黒の衣装。このあたり、それぞれに意味があるのだろうがよく分かっていないので割愛。決して伝統的とも言い切れない舞台であるのに、観終わると深い充足感を感じます。

今回の公演に関して、特にツイッターで絶賛の嵐になり、最初の内興行的には苦戦していたようだが、私が観た楽日はまずまずの客の入りであったように思います。新国立劇場の客層は比較的保守的だとしても、その内容次第でこうしてマイナーなレパートリーであっても客が入るということは実に心強いことだ。来シーズンの新国立劇場の目を覆うばかりの陳腐なラインナップには心底がっかりしたが、関係者には今回の成功事例をよく分析していただきたいものです。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2016-03-14 22:29 | 演奏会レビュー | Comments(2)

ワーグナー「さまよえるオランダ人」 びわ湖ホールプロデュースオペラ公演

プリッツCMのロシアン、小栗旬に化けてたくせに子猫すぎると家人から不評。





びわ湖ホールで久々のワーグナー。歌手や指揮に若干の不満があって感動とまでは行きませんでしたが、それでも全体としてはなかなかの好演でした。

 2016年3月5日@びわ湖ホール
 ワーグナー さまよえるオランダ人
 
  オランダ人: 青山貴    
  ダーラント: 妻屋秀和   
  ゼンタ: 橋爪ゆか  
  エリック: 福井敬  
  マリー: 小山由美   
  舵手: 清水徹太郎
  合唱: 二期会合唱団・新国立劇場合唱団・藤原歌劇団合唱部
  指揮: 沼尻竜典
  管弦楽: 京都市交響楽団
  演出: ミヒャエル・ハンペ

ダブルキャストで二日公演。もったいない感じがするが、空席の多さをみると興行的にはかなり苦しいのでしょうね。プロモーション次第でもう少しなんとかなるような気もしますが。
私は昨年の二期会の「ダナエの愛」でミダス王を歌った福井敬をもう一度聴きたいと思い、彼がエリックを歌う5日の方を選びました。しかし今回の公演で何よりも驚いたのはミヒャエル・ハンペの演出。
プロジェクション・マッピングを駆使した演出なのだが、この分野での技術の進歩には目を見張るものがありました。一昔前であれば、どうしても舞台のセットと映像の間に段差があったと思うのだが、今やバーチャルとリアルの継ぎ目が殆ど感じられないのですね。帆船の艫に見立てた大道具は超が附くほどリアルに作りこまれており、背景には嵐の海と不気味に流れる黒雲。そこに音もなく物凄い実在感で迫りくるオランダ船。その威圧感というのはちょっと信じがたいほど。だが何より驚愕したのは、第1幕が終わって映像が溶暗したかと思うと、今度はダーラントの家の作業場のような映像になり、艫かと思われたセットに暖色系の照明が当たると一瞬の内に女達が糸を紡ぐ屋内の場面に変わる。その映像の質感や奥行き感というのも凄いけれど、単に人を驚かすだけでなくてまるで17世紀ネーデルラントの写実的な絵画のような美しさと格調が感じられます。このあたりがハンペという人の凄いところで、舞台の隅々までヨーロッパ知識人としての教養が感じられます。CGを使えばどんなに無茶なト書きであっても、何でも出来てしまうので、却って演出とは何かという根源的な問いを禁じ得ないのだが、今回の演出には素直に「さすがはハンペ」と感心しました。
演出に関して附言すると、第1幕の終わりから終幕まで舞台の中央で眠りこけている若い船乗り、もう途中でネタバレしているのだが要はこの船乗りの夢でしたというオチについて賛否両論あるようだ。私は以前にも書いた通り、筋金入りのミソジニストたるワーグナーがとってつけたような「愛の救済」なるものを信じていないので、ノルウェー船の船乗りたちだけが朝焼けの舞台に残るこの「夢オチ」は悪くないと思いました。それに、この芝居の中でリアルな世界は船の上だけというコンセプトは、やけにマッチョなワーグナーの音楽とも違和感がない。
さらに附言すると、今回全幕切れ目なしで一気に演奏したのも、このプロジェクション・マッピングの威力を最大限活用できるからだろう。聴く側からすれば2時間半休憩なしは辛いところだが、場面転換の見事さはやはり見どころではあります。

先に書いた通り、今回のお目当てはエリックを歌った福井敬だったわけですが、声量もずば抜けているし思い切りの良さもあるのだが全体として少し雑な感じがしました。しがない猟師の役だが、単純なようでいて実は小心だったり小狡かったり、もっと陰影のある役なので勢いだけでは御しがたいのでしょうか。これと比べたらミダス王の方がはるかに直情的な役どころではありました。
今回最も優れた歌を聞かせてくれたのはダーラントを歌った妻屋秀和。バス役ならどんな役でも高いクオリティで歌えてしまうので器用貧乏みたいに思える時もあるが、これは声質からいっても天賦の体軀からみても当たり役だと思います。オランダ人の青山貴も悪くはないのだがところどころ音程が甘い感じ。前に新国立で聴いたときの歌手もこんな感じだったので歌いにくい役なのかも知れません。ゼンタの橋爪ゆかは、最初もう少し声量が欲しくてもどかしい感じでしたが後半はいい感じ。吼えずに丁寧に聴かせるところは良いが、もっとグラマラスな声をこの役には期待してしまいます。マリーと舵手についてはしっかりした歌手が脇を固めているなぁという印象。
合唱は新国立劇場・二期会・藤原歌劇団の合同出張ということで大変結構。幽霊船の船乗りの合唱はPAでなく本物(笑)が出てきて歌う。当たり前のことだと思うが最近ではこれが贅沢なんだそうである。この船乗り達は蛸だか烏賊だかの怪物のような恰好なのだが、「パイレーツ・オブ・カリビアン」みたいだなんて言ったらハンペ先生に怒られそう。
沼尻竜典指揮する京響は大変レベルの高い演奏でした。あまり情に流されない彼の指揮は、このマッチョな楽劇には打ってつけ。だが、細かいことをあげつらうようだが第1幕のオランダ人とダーラントの実に下世話な二重唱がト長調で終始すると見せかけていきなりヘ調の属七になり、舵手がSüdwind!Südwind!と叫ぶ場面、ほとんど世界観の断絶といってもよさそうなこの場面で何事もなかったかのように音楽がサクサク進むのはどうなのか。偶々好きな場面なのでこんなことを書くのだけれど、こんな細部の処理が一事が万事で真の感動に至らない要因だとすれば、やはりもったいない話だと思います。もっと感動を!体の震える程の感動を!と思ってしまいます。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2016-03-08 23:09 | 演奏会レビュー | Comments(0)