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ヴォーン・ウィリアムズ 「旅の歌」 ~ 藤木大地リサイタル

前回の枕の続き。岸和田の局地的ヒット食品で「からやき」というのをやってたけど、私が幼少期のころ(だいたい大阪万博の前後)、ほぼ同じモノを「洋食焼き」と称して食ってた記憶が・・・あれはなんだったんだろ、と思ってwikipediaをみると、アレはどうも「一銭洋食」とか言われたお好み焼きのルーツみたいなことが書いてある。なんか歳感じるなぁ。ってかあの頃の食生活はふつーに貧しかったのかも。




昨年の11月に京都のバロックザールで藤木大地のリサイタルを聴いたばかりだが、またしても京都で彼の歌を聴く機会を得ました。といっても今回は小さなサロンでピアニストとのジョイント、時間的にもややコンパクトなプログラムであったにも関わらず大変聴き応えのある内容でした。

 2016年1月22日@カフェ・モンタージュ

  加藤昌則 旅のこころ(1998)

  ベートーヴェン ピアノソナタ第17番ニ短調Op.31-2

  ヴォーン・ウィリアムズ 旅の歌(全9曲)

  (アンコール)
  西村朗 木立をめぐる不思議(2015)

  加藤昌則 こもりうた(2005)

  福井文彦 かんぴょう


  カウンターテナー: 藤木大地
  ピアノ: 松本和将

藤木大地の声と表現力の素晴らしさについては昨年11月のリサイタルの時にも書いたので繰り返しませんが、今回は40人も入ればいっぱいになってしまうカフェでのリサイタルなので、よりインティメートな雰囲気を感じることができました。私は2013年のライマン「リア王」で、日生劇場の大ホールを満たす彼の声を聴き、昨年はやや小ぶりなバロックザール、そして今回のカフェと、様々な大きさの箱で聴いてきたわけですが、いずれの場合も声量や表現力にやり過ぎたり足りなかったりということがない。知的なコントロールの賜物ということだと思います。

リサイタルの最初に置かれた加藤昌則の「旅のこころ」、ポップスみたいな感じで軽く聴いていたら、途中から愛する恋人を失った人の歌だということが分かり、ぐっと来る。小手調べどころか、この一曲でこの日のリサイタルが構築しようとしていた世界にいきなり引き込まれてしまいました。こりゃやられたなぁという感じ。
藤木さんが一旦退場してピアノ演奏。カフェの店主が言うには、この日のプログラムのテーマは旅ということでしたが、ベートーヴェンのテンペストと旅の関係については触れずじまい。プロスペローらの旅ということかも知れないがベートーヴェンにはあまり関係のない話。それはともかく、松本和将の演奏、パッションがあふれ出すような気魄のこもった演奏、しかも技巧は確か。些か手垢の附いた感のあるこのソナタに対し、こういうアプローチがあるのか、と目を見開かされた思いがします。私は以前このブログで、イーヴ・ナットの弾くテンペストを聴いて、遊戯性とイタリアオペラの影響という観点からこのソナタを評したことがありました。それは今でも間違っていないと思いますが、この日の演奏はもっと重く、聴き手を解放するというよりも、ぎりぎりと息苦しいまでに追いつめるような演奏。ベートーヴェンの中期の始まりに位置する作品であるということを再認識させられました。正直なところ、藤木大地がメインでピアノは刺身のツマぐらいに思っていたらとんでもなかったということ。蛇足ながら、少しピアノのアクションの整備が足らなかったせいか、ペダルを離す時などに音が軽くビビることが多く耳障りなのが残念でした。

メインは全9曲からなるヴォーン・ウィリアムズの「旅の歌」。20代の終わりから30代の初め頃に書かれたこのRVW版「さすらう若人の歌」、おそらく作曲者の表現したい内容とメチエと年齢が奇跡の様にぴったりと重なった結果だと思うのだが、しみじみと良い曲だと思います。実は私、RVWについては交響曲を幾つか聞いた程度で、エルガーやホルストと並んで私の興味の外にある音楽なのだが、この歌曲集は折に触れて聴きたいと思っています。それにしても藤木の歌は声そのものも表現力も、素晴らしいと思いました。彼の声について、以前にカウンターテナーを聴いて感じる性差の混乱が無いと評したが、あんなに高い声で歌われていながらVagabondの声に相応しく聞こえるというのが不思議です。

ここまでが前もって発表されていた曲目で、ちょっとしたトークを挟んでアンコール。
まず西村朗の「木立をめぐる不思議」は2015年東京オペラシティのB→Cシリーズに藤木が出演した際に委嘱・初演されたものの再演。アンコールといっても12分ぐらい掛かるし、しかも物凄い緊張感に溢れた作品。その作風を一言で言うなら「新・表現主義」といったところでしょうか。歌もピアノも入魂の演奏で、これがプログラムのメインでも不思議でないほど。途中でピアニストがペダルを踏んだまま沈黙すると藤木の声が内部の弦と共鳴し、ざわざわとした響きが立ち昇る。なんという声の威力!私はまるで恐怖を感じたときの様に寒気がしました。
次に加藤昌則の「こもりうた」。これはうってかわって優しく慰撫するような歌。これで終わりかなと思ったらもう一曲。ユーモラスな「かんぴょう」。これが無ければ時間の割にへヴィなこの日のプログラムは閉じられなかったのだろう。前回も感じたことだが、アンコールも含めたプログラムビルディングに工夫の跡があってそれがまた楽しい。
ついでながら、ピアノは前回の中村圭介といい今回の松本和将といい、所謂伴奏ピアニストを遥かに超えたレベルにあります。同世代の彼らの存在は藤木にとっても大きな武器になるだろうと思います。どちらかといえばコンテンポラリー系は中村圭介の方が音の純度が高くて向いているような気がしましたが、RVWには松本和将の骨太さが合っていそう。たまたまなのかプログラムでピアニストを替えているのか分からないけれど、もし歌手が意識的に考えてピアニストを選択しているのなら、それに勝る贅沢はないだろうと思います。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2016-01-26 23:29 | 演奏会レビュー | Comments(0)

京都観世会例会 「翁」 「鶴亀」 「葛城」 「乱」

先日「ちゃちゃ入れマンデー」という関西ローカル番組を観ていたら、岸和田の局地的ヒット食品ということで、ソース焼きそばを生卵につけて食べる、というのをやってた。私、堺の南の方の出身だが、確かに幼少期にこれ食べてました(近所の個人経営のお好み焼き屋で)。だいたい岸和田近辺、堺の南端から泉佐野にかけては文化圏としてはとても近い。普通に美味かったと思うのだが、家人は「えーっ!?」という反応でした。




今年初めての能鑑賞。満席とはいかないものの、なかなかの盛況でした。

 2016年1月17日@京都観世会館
 京都観世会一月例会

  
   翁: 観世清和
   面箱: 鹿島俊裕
   千歳: 河村和晃
   三番叟: 井上松次郎

  鶴亀
   シテ(皇帝): 林喜右衛門
   ツレ(鶴): 河村浩太郎
   ツレ(亀): 松野浩行
   ワキ(大臣): 殿田謙吉
   ワキツレ(従臣): 大日方寛・則久英志
   間(官人): 佐藤友彦

  狂言
  鬼瓦
   シテ(大名): 井上松次郎
   アド(太郎冠者): 鹿島俊裕

  仕舞  
  高砂  井上裕久
  梅キリ  梅田邦久

  葛城大和舞
   シテ(里女・葛城ノ神): 浦田保浩
   ワキ(山伏): 室生欣哉
   ワキツレ(山伏): 則久英志・大日方寛
   間(里人): 松田高義

  仕舞
  屋島  片岡九郎右衛門
  雲林院クセ  大江又三郎
  鞍馬天狗  杉浦豊彦
 

  
   シテ(猩々): 田茂井廣道
   ワキ(高風): 岡充


「翁」を観るのは昨年の1月に次いで二回目。その時にブログに書いたことは繰り返さないが、やはり年の初めに相応しい出し物だと思います。見所の出入り口が閉ざされ、揚幕の内外で切り火が切られてから、演者らが舞台に揃うまで、緊張感が極限にまで高められる。3人の小鼓が勇壮に鳴りだすと、今度は貯まりに貯まったエネルギーが一気に開放される感じ。この緊張と緩和のコントラストの強烈さがなにより快いものでした。三番三の舞は昨年観たときほどの感興は得られませんでした。演者の恰幅が良すぎて、少し息が上がってしまったのが少し興醒めではありました。

「翁」の次はそのまま「鶴亀」に続きます。
唐土の都の初春、皇帝のもとに大臣らが集い、鶴亀の舞を勧める。鶴と亀が現れて舞うと、たいそう感興を催された皇帝は玉座を降り自らも舞う。
官人の短い口上に続く大臣の奏上の場は極めて短く、すぐに鶴亀の舞と皇帝の舞が続くという簡素な筋立て。きらびやかな装束と優雅な舞をただひたすら楽しめばよいのでしょう。シテ(皇帝)の林喜右衛門は、歌舞伎であれば女形タイプの、武張ったところの全くないほっそりとした体形をされているので、ことさら戦乱とは無縁の泰平の世を感じさせるところが実に面白く感じられました。

狂言は「鬼瓦」。
ながらく訴訟の為に国元を離れていた大名、めでたく片が付いて暇をもらい国に戻ることになる。せっかくだというので太郎冠者を引き連れて薬師如来にお礼旁参詣することに。大名はお堂の鬼瓦を見て急に泣き出す。太郎冠者が訳を尋ねると、鬼瓦の小鼻が張ったところや大きく裂けた口を見て国元の妻を思い出したという。いや、確かに、云々と言いながらどのみち程なく会えるだろうと二人して大笑い。
女房の容姿というのは現代でもお笑いのネタではありますが、ここでは国元に残してきた妻への懐かしさがまず先にあるので嫌味なく笑い興じることができます。

仕舞は都合五番。仕舞は仕舞の良さがあると思いますが、観能を重ねるに連れて元の能を見ているケースが増えてくると(今回で言えば高砂・梅・鞍馬天狗)、能と仕舞の比較など前は知らなかった楽しみもでてきます。また、基本的に初春を寿ぐことに特化した番組で、「屋島」という修羅物が入っているのもアクセントになっていていい感じ。ただ今回の仕舞では梅田邦久が以前拝見したときから比べると立居にすこし高齢ゆえの覚束なさが感じられ、心から楽しむという訳に行きませんでした。

次に「葛城」。これも一昨年の暮れに一度観てブログにも取り上げたので、物語等は省略。体調の所為もあって前半少しうとうとしてしまいました。後半、雪の庵から現れた葛城山の女神は十分美しいけれど、最初に見たときの、雪明りを眼前にするかと思われたほどの驚きは得られませんでした。同じ能を観ても都度印象が変わることは当然といえば当然。本来ならその違いについてこそ詳述したいところだが、今回は前半かなり意識が飛んでいるので割愛します。

切能は「乱(みだれ)」、元々は「猩々」という能だが、中之舞が猩々乱になると小書ではなくて題名自体が「乱」に変わってしまうということらしい。
古の唐土、揚子の里に高風という親孝行な男がいたが、ある夜の夢のお告げ通り市で酒を売るようになると次第に富貴の身になった。そのころ、市の立つたびに酒を買いに来る客がいたが、いくら飲んでも面色が変わらない。不思議に思った高風が名を尋ねると、自分は海中に住む猩々であると正体を明かして姿を消す。夜になり、高風が潯陽の江で酒を用意して待っていると猩々が現れ、酒を飲んで舞う。猩々は高風が「御身心すなほなるにより」、汲めども尽きぬ酒壺を与える。
ワキ(高風)の口上で前段がさっと語られるとすぐに赤頭の猩々が現れて舞う。音をならさず足拍子を踏む、頭を何度も振る、波を蹴散らしてあるくような足の捌きかた(乱足)など、特徴的な舞が続き、ほどよいところでさっと終わる。そもそも猩々とはなにか、などと考えるネタはいくらでもあるが、とにかく派手な舞台に身を見張っていればそれでいいのかな、と思います。目出度い内容で、謡の最後も「尽きせぬ宿こそ。めでたけれ。」で終わるので附祝言はなし。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2016-01-24 00:39 | 観劇記録 | Comments(0)

ロームシアター京都プロデュース・オペラ 「フィデリオ」公演

紅白には何の興味もなく、家人が観るのでBGM化してたが、レベッカが出たときだけセンサーがちょっと反応。曲そのものより、流行ってた頃の記憶があれこれ呼びさまされて、しかも30年も経つと微妙に記憶が美化されてる感じ。ありそうで意外にない体験。





かつての京都会館が改装してロームシアターという名でオープン。その杮落とし公演に行ってきました。

 2016年1月11日
 ベートーヴェン「フィデリオ」
  レオノーレ(フィデリオ): 木下美穂子
  フロレスタン: 小原啓楼
  ドン・ピツァロ: 小森輝彦
  ドン・フェルナンド: 黒田博
  マルツェリーネ: 石橋栄実
  ロッコ: 久保和範
  ヤキーノ: 糸賀修平
  管弦楽: 京都市交響楽団
  合唱: 京響コーラス、京都市少年合唱団
  指揮: 下野竜也
  演出: 三浦基

京都の人って何となく保守的そうに見えて実は新しもん好きというイメージがあって、今回のおよそオペラ的ではない演出についても(少なくとも私の周りの客席や幕間のロビーで聞こえてくるオバサマ方のおしゃべりを聴く限り)、さも当たり前のこととして受容されているように見受けられました(腹の中で考えていることが全く違うということもありがちだが(笑))。これは実に驚くべきことであって、よくまぁホールの杮落しでこんな企画が通ったものだと思います。
演出の三浦基氏については私はまったく予備知識がなく、帰ってからyoutubeで動画検索して、あの奇妙な語り手のイントネーションがこの人の舞台では珍しくもないことだと分かりましたが、会場の大半の聴衆は与り知らぬこと。冒頭の、序曲の演奏を阻害するだけに思えたベケットの引用も然り。私には演出家の独りよがりというか、この不出来な台本を演劇としてなんとか救済しようとするあまり、音楽へのリスペクトが疎かになったように思われてならないのですが、これもまた京都らしい興行、懐の深さを感じさせるとかなんとか、大人の対応でスルーすべきものかも知れない。だから次のパラグラフは本来チラシの裏にでもメモしておくべき類のことだと思ってくださればと思います。
私はベートーヴェンのこの、演劇としてもオペラとしても甚だ不評である「フィデリオ」について、実はやりよう如何によってはこの上なくアクチュアルなものになると思っているし、そうでなければ読替え云々は措くとしても、そもそも舞台でやる意味がないとまで考えています(事実、ベートーヴェンの音楽を聴くのならば、この異形のオペラの場合、演奏会形式がもっとも相応しいと思います)。本当にこのオペラに本気で取り組むのならば、例えば劉暁波氏とフロレスタンを重ねあわせて某国から猛烈な抗議がくるぐらいの物議を醸してみたらどうか。別にあからさまな政治的主張をせよ、ということではない。そうではなくて、楽聖ベートーヴェンだの音楽は国境を超えるだの太平楽かつ脳天気なことを考えている聴衆に、そのベートーヴェンの上演すらままならないこの世界の過酷さを気づかせるという選択肢はなかったのだろうかということ。今回の演出で、どうしても擁護論を書けないと思ったのは、詰まる所無害である、という理由なのかもしれないと感じています。それならそれで構わないが、どうか音楽を邪魔しないで、と小さな声でつぶやくのみ。
一応備忘でざっと演出の模様を記録しておくと、オーケストラは舞台の上、その奥に二つのスロープと歩廊からなる簡素な装置。何もないピットの中では赤いフード付きの囚人服を着た囚人たちが歩いたり寝そべったり、その様子を俯瞰カメラでとらえた映像が舞台奥のスクリーンに映し出される。歌手たちは奥のスロープや歩廊の上で、あるいはオケの中に設えられた細い通路で、ほぼ直立で正面を向き、殆ど芝居らしい芝居をせずに歌う。囚人の合唱はセット奥に隠れていた男声合唱が受け持ち、赤い服の囚人らは歌わない。最後の合唱はピットから笑顔で手をふりながら飛び出してきた大人と子供の合唱団員らが歌う。ざっとこんなところかな。

演奏についても何となく満たされないものが残りました。下野の指揮だが全体に早めの筋肉質な音楽。だが第1幕あまりにもサクサクと音楽が進んでいくので聴衆が取り残されてしまう感じ。特に囚人の合唱など、歌手達の非力さをカバーするかのような早いテンポ(まさかそんなことはないと思うけれど)。だが、第2幕でフロレスタンが登場すると(相変わらずテンポは速めだが)俄然音楽が活き活きと呼吸を始めるかのよう。フロレスタンとレオノーラの二重唱、慣習通り挿入されたレオノーラ序曲第3番とフィナーレ、第1幕とは見違えるような音楽が続きます。ただぜいたくを言えば、このフィナーレ、本当はもっと恰幅のよい音楽という気がします。下野はこれまで聴いたコンテンポラリー作品だと、小技を排して真正面から音楽に向かい合う素晴らしい指揮ぶりなのに、ベートーヴェンだと少し力み過ぎた感じがします。
歌手ではフロレスタンの小原啓楼が圧倒的に優れていました。第2幕が演奏として断然前半より優れていたことのおおきな理由はこの人の声そのものだろう。私が一番最近この人を聴いたのは、ライマン「リア王」のエドマンド役の時だと思うが、それからさらに表現力が増しているように思いました。フィデリオの木下美穂子、最初やや不安定なところもあったがよく堪えて、第二幕は素晴らしい歌唱を聞かせてくれたと思います。マルツェリーナの石橋栄実はこのブログで何度も取り上げてきたが、この役は彼女のスピントとしての非凡な資質によくあっていると思います。
ロッコとフェルナンドは強靭な声というにはやや弱い感じもしたが、役柄の大きさによくあった歌唱。ヤキーノはオペラの中では性格的にも弱いし損な役柄だが、糸賀修平の声質は屈託のなさよりは性格の粗雑さを思わせるものがあって、私の抱くヤキーノのイメージとは少し違う。だからどうしたと聞かれると困るが、すくなくともヤキーノという役に少しでも存在感を与える歌唱ではなかったと思います。
今回一番聴いていてつらかったのはドン・ピツァロを歌った小森輝彦。私がライマンの「リア王」で驚嘆したのはつい数年前だというのに、まぎれもなく「老い」が刻印された声が痛々しくて仕方なかった。しばらくどのような役柄を引き受けるか難しい時期が続くのだろう。
合唱は、新国立劇場の合唱のレベルを聴きつけているともうレベルが全然違ってがっかりします。フィナーレで少年合唱を入れたのは演出家と指揮者どちらのアイデアだろうか?それ自体は良いとも悪いともいいかねるが、ベートーヴェンの音楽の凄さでなんとか「終わりよければ・・・」で収まった感じ。今回の公演の為に、久々にバーンスタインの録音(グンドラ・ヤノヴィッツのレオノーラにルネ・コロのフロレスタン)を聴いたりしていたのだが、聴けば聴くほど素晴らしい音楽だと思うようになりました。演奏会形式で良いから(いや、先にも書いた通り、演奏会形式のほうがむしろ好ましいくらい)、もう少し実演を聴く機会があれば、と思います。個人的には年末の第九の20回に1回くらいは「ミサ・ソレムニス」か「フィデリオ」をやってくれないかな、と思っています。

追記
このリニューアルされたホールについて、音響がデッドであるという評を見かけました。私は1階の20列目あたりで聴きましたが、確かに残響はやや短めなものの、明晰な響きを求める向きにはなかなか良いホールのように感じました。次はピットの中のオケを聴いてみたいものです。
(この項終り)

1/21更に追記
一週間経過したがやはり納得できない。
演出について、SNSでベケットの「引用」と書いた人は何人もいるが「パクリ」と書いた人はいない。でもなんだかもやもやする。いいのかあれで?それとは別に、あの語り手の文節を無視した途切れ途切れの台詞も、ベケットの”Sans”っぽいし。オペラの読替えそのものは決して否定しないが、どう読み替えたのか私には全く分からなかったし、第一あんなに表層的で舌足らずなやり方だと単なる食い合わせみたいになってしまうと思う。
by nekomatalistener | 2016-01-13 00:45 | 演奏会レビュー | Comments(0)

ブーレーズ追悼

節子、それブーレーズやない、ピエール瀧や。




このブログで一言でも「ブーレーズ」という言葉が入った記事を検索すると39編もありました。どんだけブーレーズ好きなんだ俺。
とはいうものの、基本的にコンサート・ゴーアーではない私は、指揮者としてのブーレーズを生で聴いたのは1995年5月26日のサントリーホールでのロンドン交響楽団を指揮した公演のみ。確かこの時は、もともとポリーニがバルトークのコンチェルトをやるはずだったのが急遽体調不良でラヴェルのマ・メール・ロアのオーケストラ版に差替えられたと記憶している。ポリーニ目当てでわざわざ奈良から東京まで出てきて、がっかりしたはずなのに、この時のメシアンの「クロノクロミー」の演奏があまりにも素晴らしくて、そのがっかりした記憶というのが全くない。まるで、粉々になったステンドグラスが頭の上から降ってきたみたいな感じというのか、忘我とか法悦というのはこういうことを言うのかな、とぼんやり考えていたように思います。もちろんメシアンの音楽自体が素晴らしいのだけれど、あの色彩感の表出というのは只事ではなかったはずです。クロノクロミーとは時間と色を表すギリシャ語からの造語みたいだが、これほどタイトルに相応しい演奏もなかろうと思いました。メシアンに呆然としてしまい、プログラム後半のストラヴィンスキーの「春の祭典」の記憶があまりないのは残念ですが、ブーレーズ死去と聞いて真っ先に思い浮かべた記憶がこの公演でした。

指揮者としてのブーレーズは、私はおそらく膨大なディスコグラフィーの内の何分の一も聴いていない上に、圧倒的なものもあれば意外に微温的に感じられるものもあって、やや評価が定まらないところがあります。しかし、色んな作曲家の作品の中で、知名度は低いが傑作であるとか、完成度に難はあるが絶対に無視できない作品とかを思い浮かべると、そのかなりの部分がブーレーズのLPで初めて聴いたということに気が付きます。例えば、ドビュッシーならバレエ「遊戯」、ラヴェルであれば「マラルメの3つの歌」、ベルリオーズの「レリオ」、ストラヴィンスキーの「ダンバートン・オークス」、バルトークの「かかし王子」、マーラーの「嘆きの歌」なんかもそう。そのいくつかは未だにまともな競合盤もないようだが、こういった作品の存在を私に教えてくれたことはどんなに感謝しても感謝しきれません。私が学生の頃には殆ど知られていなかったハリソン・バートウィッスルやジェルジュ・クルターグの録音も然り。
これらの大半を私はLPで聴いてきたのでいま手元に殆ど無いのが残念。あやふやな記憶でベスト・スリーを挙げるのも申し訳ないような気もするが、これだけは外せない、と思うものをとりあえず3つ記しておきたい。
①ウェーベルン作品全集
 これは新旧2組の録音がありますが、あらゆる虚飾を削ぎ落とした果ての美しさというのは旧盤により顕著な感じがします。ただ、旧盤をCBSのCDで買い直したところ、なぜか安っぽい録音で(当時の私のオーディオ機器の所為かも知れませんが)、元のLPの音に遠く及ばなかった記憶があるので、CDで聴くなら新盤ということになるだろうか。いずれにしても新旧とも偉業と呼ぶに足る素晴らしい仕事だと思います。
②シェーンベルク 「ピエロ・リュネール」
 ブーレーズはこの作品を何度も録音しているが、最初期のピラルツィクが歌った仏ADES盤が一番好き。イヴォンヌ・ミントン盤、クリスティーネ・シェーファー盤と時代が下るとともに、音響としてはますます美しく、しかし何か大切なものがすこしずつ失われていく感じも。
③ベルク 「ルル」
フリードリッヒ・ツェルハ補筆による全3幕版の初めての録音。今はすっかり人気曲の仲間入りして、このディスクのテレサ・ストラータス(ルル)やイヴォンヌ・ミントン(ゲシュヴィッツ伯爵令嬢)を凌ぐ歌い手は数多いるが、この録音の凄まじい熱気と退廃の香りは何物にも代えがたいと思います。
ま、他にも挙げたいディスクはありますが、ブーレーズが指揮者としてメジャーになればなるほど、私の興味が(曲目にも演奏にも)薄れていくということは何となく言えそうな気がします。

作曲家としてのブーレーズにも簡単に触れておきたい。これはたくさんの人が指摘していることですが、指揮者としてのブーレーズ同様、作曲家としてのブーレーズも、メジャーになればなるほどますます美しく、しかしどこか空虚な作品を書くようになったというのは概ねその通りという気がします。そういった意味で、ベストスリーを挙げるなら半世紀以上前の作品が並ぶのは仕方ないのかも。
①ル・マルトー・サン・メートル
この曲も何度も録音しているが、やはり初期のアンサンブル・ミュジック・ヴィヴァント盤が一番印象に残っています。美しいだけでなく、本当はとても危険な音楽という感じがする。初めてスコアを見ながら聴いたとき、殆ど小節ごとに変わる拍子が繁分数で書かれていることに驚き、幼稚な感想だけれど「頭いいんだろうなこの人・・・」と思った記憶がある。
②2台のピアノのためのストルクチュール
昔WERGO盤で聴いたコンタルスキー兄弟の火花散る演奏が強烈でした。割と最近、CDで聴きなおす機会があったのだが、やはり鮮烈な体験でした。これだけの密度の2台ピアノ作品って今後生まれ得るだろうか?
戦時中のメシアンは別格として、大戦後に書かれた2台ピアノ作品としてはもう別次元というか、言っちゃ悪いがリゲティやルトスワフスキーの現代風サロン音楽とは拠って立つ次元が完全に違う。これに比肩出来るのはツィンマーマンの「モノローグ」ぐらいなものかもしれない。
③第2ピアノソナタ
学生の頃に、当時は物凄く高価だったウジェル社の大判の楽譜を買って、第1楽章くらいは弾いてみたいと思ったがやはり素人には手も足も出ないなと嘆息。1995年に東京でポリーニが弾くのを生で聴き、やはり凄い作品だと改めて驚愕。第3楽章のトリオのエクリチュールにしびれます。まさにポリフォニーの極致。第4楽章は全体が驚異の連続、空前絶後の音楽だと思います。最近ジャン・バラケのソナタとの相互影響が取り沙汰されたりもするけれど、これからもブーレーズのこのソナタの価値は微動だにしないだろうと思います。

本当は「水の太陽」とか「婚礼の顔」を挙げるのが通っぽい感じもするが、そんなに何度も聴いた訳ではないので平凡なラインナップになりました。一方「プリ・スロン・プリ」や「エクラ」などの煌めくような美しさは、とても素敵だと思いますが、上に挙げた3曲が、レコードやCDを聴くだけでも真剣勝負の厳しさを伴う行為になってしまうのに比べて、どうしても美しすぎて眠くなる(笑)。というか、極めて精巧なガラス細工を眺めてるような気分になってしまう。それが芸術の在り方としていいのか悪いのか、という議論は意味がないとしても、やはり一種の退嬰感というのは否定できないように思います。同じガラス片でも、きらきらと光る装飾品に向いたものもあれば、相手の喉を掻き切る凶器に向いているものもあるわけだが、美しく磨けば磨くほど凶器としての側面がすり減っていくようなものか。

ブーレーズ死去のニュースには驚いたけれど、90歳ならもう大概のことはやり尽くしたのだろうと思います。私は(昨年のアバドの時とか)、慣れ親しんできた演奏家が亡くなっても、ま、仕方ないね、で済むほうなのだが、なぜかブーレーズに対してはこうやって駄文ながら何かを捧げずにはいられなかった。それほど今の私の音楽に対する姿勢だとか嗜好といったものに、ブーレーズが与えてくれた影響が大きいということなのだと思います。やはり私はブーレーズがほんとに好きだったんだろうな。心からの感謝を捧げたい。
by nekomatalistener | 2016-01-08 00:01 | その他 | Comments(0)

シュトックハウゼン 「光の月曜日」を聴く (その4)

以下の記事を投稿しようと思っていたらブーレーズ死去のニュースが飛び込んできた。ちょっと今は言葉もない・・・





「光の月曜日」、今回が最終回。
個人的な話で恐縮ですが、大阪の万博の時、私は小学二年生。両親にねだって何度も連れて行ってもらった。殆どすべてのパビリオンを制覇しているはずなので(凝り性は生まれつき)、当然ドイツ館では半年間殆ど張り付きだったシュトックハウゼンと仲間たちの演奏を聴くチャンスもあったはずだが、残念ながら何の記憶も残っていない(せんい館の湯浅譲二はかすかに憶えているのに・・・)。
シュトックハウゼンは2002年に亡くなっているが、それまでもちろん彼自身の演奏も聞いたことがない。私らの世代はある意味、60年代から70年を頂点とする一連の前衛音楽に関しては「遅く生まれすぎた世代」だともいえるが、将来いつの日か東京でリヒトが上演されるとして、その時に「早く生まれすぎた世代」になりたくないものだ。


「エーファの魔法」と題された第3幕は以下の部分から構成されています。

 エーファの魔法
 バセット・ホルン、アルト・フルートとピッコロ/合唱、児童合唱/モダン・オーケストラのための 

  使徒
   ・エーファの鏡
   ・知らせ
   ・スザーニ
   ・アヴェ
  パイド・パイパー(まだら服の笛吹き)
  誘拐

前半の「使徒」、どんな物語が展開するのかという問いに答えるのはとても難しい。こればかりは舞台で観ないとなんとも言えませんが、次のような合唱の歌詞の断片から作品の世界観を推測する他なさそうです(引用は「シュトックハウゼン音楽情報」のサイトから)。

  あなたはフォルメルのリム(分節)を集め、
  新たに分配し、
  エーファの身体の三度とミヒャエルの魂の四度の
  統合によって世界を癒やし、
  『光』の
  正しい理解を助ける。

「使徒」ではバセットホルンとフルート(どちらも舞台上で仕草をしながら演奏するらしい)がフィーチャーされ、濃密な雰囲気の合唱と絡みます。「月曜日」全体の中で最もアクースティックな音響が聞かれます。

後半の「パイド・パイパー」、Pied Piperとはあの「ハーメルンの笛吹」のこと。まだら服を着たフルート奏者(カティンカ・パスフェーア)が吹く様々な音や発語、サウンドプロジェクションによる物音や動物、鳥などの鳴き声などを子供達が声で真似していきます。これが大層面白い。初期の「少年の歌」以来、声や言葉を使って様々な実験を重ねてきたシュトックハウゼンの面目躍如といったところだろうと思います。この部分は独立した楽曲としての演奏も可能で、別CDも出ており幾分入手しやすそう(実はyoutubeで聴くこともできるけれど、権利関係がどうなっているのか判らないのでここには載せません)。お試しでこれをまず聴くという手もあるでしょう。少なくともリヒト入門編としては「ヘリコプター四重奏」よりもよほど近づきやすいような気がします。これはもう機知の爆発と言ってもよさそうだ。

続く「誘拐」でまたしてもサーカス風の音楽が響きます。前回ビートルズの「ビーイング・フォー・ザ・ベネフィット・オブ・ミスター・カイト」に言及したけれど、シュトックハウゼンのような音楽家がサーカス音楽を引用するとマーラーやストラヴィンスキーやアイヴズといった過去の音楽のアーカイブが凝縮されているように聞こえます。次いでエーファのフォルメルによる歌が何度も何度も繰り返されながら次第にフェードアウトしていきますが、その間舞台上では子供達が笛吹に着いていって姿を消し、エーファの巨大な彫像は次第に干からびて藪や灌木に覆われた山になっていきます。


この後、聴衆を見送るための「月曜日の別れ」と題された30分弱の音楽が演奏されます。

 月曜日の別れ(エーファの別れ)
 ピッコロ・フルート、多重ソプラノ・ヴォイス、電子鍵盤楽器のための

ここでは第3幕の「誘拐」で聴かれた歌がピッコロとソプラノによって延々と繰り返され、甲高い鳥の声とともにあたかも天上に消え去るかのようにフェードアウトします。それはこの巨大な作品(「迎え」と「別れ」を含めると4時間半を超える)が、水=海=羊水の世界から天上=空=鳥の世界に向かう大きな流れの中にあったことを認識させてくれます。長いと言えば長い音楽ですが、聴いていると時間の感覚が少し麻痺してしまう感じ。リヒト全体を支配している「フォルメル技法」について、私は未だによく分かっていませんが、大変印象的な旋律が何度も繰り返されるのを聴いていると、同じ音列による書法でもトータルセリエリズムとはまったく異なる音楽世界という印象を持ちます。

4回に亘って紹介してきましたが、この作品の面白さをどこまでお伝えできたものか心許ないというのが正直なところ。情動に訴える音楽ではありませんが、知的な構築物といったイメージとも少し異なる音楽。意外なほどウェットで、時に下品だったり俗っぽかったり、しかし基本的に仄暗く生暖かい音楽は、私が普段慣れ親しんできた音楽とは随分違うのでちょっと例えるものが見当たらない感じもします。次は「光の火曜日」に挑戦する予定です。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2016-01-06 23:55 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)