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シュトックハウゼン 「光の月曜日」を聴く (その3)

野坂昭如死去。最近はすっかり遠ざかっていたけど、ふと懐かしく思い出したのは「砂絵呪縛後日怪談(すなえしばりごじつのかいだん)」とか「骨餓身峠死人葛(ほねがみとうげほとけかずら)」といった業の深そうな怪談もの。あの独特の華麗な文体はクセになる。





第2幕は「エーファの二度目の出産」と題されていて、次のような部分から成り立っています。


エーファの二度目の出産
7少年独唱/バセット・ホルン、3バセット=テーゼ/コンサート・グランド・ピアノ/少女合唱、合唱、21女優/モダン・オーケストラのための 

 ・少女の行列
 ・ピアノ曲を伴う受胎
 ・再誕
 ・エーファの歌
   コア・デ・バセット-週の輪-バセット・テーゼ-イニシエーション

編成にある「モダン・オーケストラ」とは前回も書いた通り、複数台のシンセサイザー、サンプラー、打楽器、テープからなるユニットを指す用語のようです。バセットホルンや第三幕に登場するフルートは登場人物としての奏者により舞台の上で演奏され、通常であればピットの中に入るべき演奏者はサウンドエンジニアを含めてもごく僅かということになります。
通常の意味で物語が分かりやすく進展するということはありません。エーファは二度目の出産で月曜日の子供、火曜日の子供、以下日曜日まで七人の子供を産みますが、第一幕に比べると「あらすじ」のようなものの展開は希薄で、それにかわって劇中で演奏されるピアノ曲や、子供が歌う「週の輪」の音楽的な独立性が目に付きます。
「エーファの歌」の一部分をなす「週の輪」は、どことなく東南アジア風の特徴的な旋律が、あたかも有節歌曲のように繰り返され、「月曜日」の中でも最も耳に残る部分かも知れません。シュトックハウゼンの筆致は、子供が歌うには情け容赦もないというか、大変難しい歌唱だろうと思います。旋律は「三層の音楽的フォルメル」から構成されているそうだが、私は附点の附いた4度あがる部分がミヒャエルのフォルメルかな、とかろうじて分かる程度。ともかく「月曜日」全曲の中でも聴きどころとしては随一の箇所でしょう。歌詞は曜日ごとにごく断片的なものだが、「リヒト」全体の把握のためには大変重要なものという気がします。とりあえず「月曜日」の部分だけCDのブックレット及び「シュトックハウゼン音楽情報」のサイトから引用するとこんな感じ。


MONTAG:
Mond-Licht (humorvoll:heiß fängt die Woche an…)
EVA-tag - Geburt der Kinder
tsch - Rauschen - Mut
Grün Silbergrün - Sopran
Wasser - Riechen
Zeremonie und Magie

月曜日
月の光(ユーモラスに:熱は週の始まり…)
エーファの日 - 子供たちの誕生
チ-あふれ出す-勇気
緑色 銀緑色 - ソプラノ
水 - 嗅覚
儀式と魔法

「ピアノ曲を伴う受胎」は、女達の「エマール!」という呼びかけに応じて、セキセイインコの恰好をしたピアニスト(初演時はピエール・ローラン・エマール)がグランドピアノを弾きます。このピアノパートだけ独立させたものは「ピアノ曲XⅣ(『光の月曜日』の誕生日のフォルメル)」と題されてピエール・ブーレーズに捧げられているとのこと。内部奏法を含むこのピアノパートは、技巧的であるよりは叙情的ないし神秘的なもの(16分音符=60というとてつもなく遅いテンポで始まる)。私は以前このブログで、大井浩明が「クラヴィア曲XVIII(水曜日のフォルメル)」を弾いたときに、「安っぽいミュージカル、あるいは暗黒舞踏かなんかの舞台音楽みたい、というのが正直な感想」と書いたことがあるが、「月曜日」のほうも若干通俗的な感じがします。以前はなんとも居心地悪く聞こえたわけだが、今ならこの通俗性も含めてこの時期のシュトックハウゼン「らしさ」と捉えることができます。いずれにしても、初期の11曲のピアノ曲からなんと遠くまで来たのだろうと思わざるを得ません。
順番は前後しますが、冒頭の「少女の行列」は、シンセサイザーと澄んだ金属音のする打楽器に彩られた神秘的な女声合唱。「エーファの歌」の冒頭の「コア・デ・バセット」はホルンのCorとフランス語のCoeurを掛けた言葉、また「バセット・テーゼ」はBASSETTINENあるいはBASSET-TEASESと標記されていて、どちらも言葉遊びらしく訳しようがないようです。それはともかく、第2幕の後半はバセットホルンと少年の歌が大活躍します。サウンドプロジェクションでサーカスの音楽のような断片が背景に散りばめれ、休日の公園みたいな喧噪が聞こえてきます。私はふとビートルズの「ビーイング・フォー・ザ・ベネフィット・オブ・ミスター・カイト」を連想しましたが、牽強附会の誹りを免れないだろうか。この曲が収められた1967年のアルバム「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」のジャケットにはシュトックハウゼンの顔も描かれていたが、このサーカスの音楽はそれへの20年後の返礼であってもおかしくないのだが。

物語としての展開が希薄な分、舞台上でのアクションが重要になるものと思いますが、CDで音を聴くだけでは正直なところ想像もつきません。これが通常のオペラであれば、台本作家や作曲家の手を離れて繰り返し上演され、良くも悪くも変質していくものと思われますが、「リヒト」の場合今後どのように推移していくのだろうか。舞台上のパフォーマーたちの所作についても詳細な指示をだしたシュトックハウゼンの場合、本人が死去して後の上演というのはなかなか困難を伴うものだろうと想像します。
先日、タデウシュ・カントールにまつわる展覧会を観て、このブログにも感想を書きましたが、カントールは舞台上に自ら立ち、指揮者のように役者に指示をだしたり、睨みを効かせたりしていました。このようなケースであれば、カントール死後の上演というものに、どのようにオーセンティシティを与えるのか、というのは難しい問題だと想像しますが、シュトックハウゼンの場合にも同じ問題があるのではないでしょうか(その意味でもオペラより演劇により近い感じがします)。
こんな例は演劇ではいくらでもあって、例えば白石加代子、鈴木忠志と早稲田小劇場による「劇的なるものをめぐってⅡ」、それが如何に伝説的な舞台であろうと、また当事者の幾人かが生きていようと、1970年の上演の姿を目の当たりにすることは誰にも出来ません。特に、白石加代子以外の女優による再演ないし再現など、オーセンティシティー以前にもやは意味をなさないと言わざるを得ません。
もちろんシュトックハウゼンの場合、昨年の東京における「歴年」のように、まずは初演時のコピーで構わないから、とにもかくにも舞台で観ることに意義があるとも言えます(因みにこの時は、「月曜日」の録音にも参加しているカティンカ・パスフェーアが「監修」という形で参加していた)。だが二度目三度目のプロダクションとなるとどうだろうか。いつまでもコピーという訳にもいかないだろうが、勝手な改変は何かと問題がありそうですね。ヨーロッパでの上演の状況など、詳しい方のご教示をお願いします。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2015-12-29 00:22 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

シュトックハウゼン 「光の月曜日」を聴く (その2)

新聞に軽減税率適用。ロビー活動成功でヒャッホーな人達を思うと腹立たしくて購読止めたくなるが、猫のウンコ包んで捨てるのに必要だから止めれない。





おそらくこんなマイナーブログを読んで「そうだ、俺もリヒト聴いてみよう」と思う方などほとんどおられないと思いますが、たとえ一人でも二人でもいい、「聴いてみたいけど正直迷っている」という方の背中をそっと押すぐらいのことはしてみたい。少なくとも「月曜日」を聴く限りでは思いのほか聴いて面白く、激しくイマジネーションを刺激する音楽でした。これを舞台で観たらさぞかし面白いだろうと思います。確かに前衛的な書法ですから万人向きとは言いませんが、けっしてビビるようなシロモノではない、と思います。

前回紹介した「月曜日の迎え」に続く第1幕は「エーファの最初の出産」と題されています。編成については「3ソプラノ、3テナー、1バス、1俳優/合唱(テープ)、21女優、児童合唱(7ソプラノと7アルト)/モダン・オーケストラのための」と書かれていますが、ここでいう「モダン・オーケストラ」とは複数のシンセサイザー奏者(ここでは3人)とサンプラー、多様な打楽器とテープからなる音響のことを指しているようです。弦楽器や管楽器が何十人と集まった通常の「オーケストラ」とは全く異なる用語です。
旧世代のシンセサイザーの音響はどことなくチープな感じもする。しかしこのチープさは、この時代のシュトックハウゼンの持ち味にもなっていて、決してネガティブな印象はありません。シュトックハウゼンがいわゆるプログレに与えた音楽的な影響というのは絶大なものがあると思うけれど(例えば「タンジェリン・ドリーム」の創設メンバーのコンラッド・シュニッツラーは14歳の時にシュトックハウゼンの電子音楽を聴いて多大な影響をうけたといいます)、70年代の終わり頃からの彼の音楽には逆にプログレからの影響というのも考えられそうだ。もちろんそれを断言できるほどの証拠がある訳でもないし、音楽をとことん聴き込んだ訳ではないので、あくまでも現時点での仮説です。

「エーファの最初の出産」は、次の6つの場面から出来ています。
 妊娠
 ハインツェルメンヒェン
 誕生のアリア(最初と第二)
 少年達の大騒ぎ
 ルツィファーの激怒
 大いなる嘆き
前回も書いたように、「月曜日」にはかろうじて物語らしきものがあります。この「最初の出産」でエーファは、
 ・ライオンの頭をした男の子
 ・ツバメの頭と羽と小さな尾をした双子の男の子
 ・馬の頭をした男の子
 ・オウムの頭と羽毛をした男の子
 ・セキセイインコの頭と羽根をした男の子
 ・犬の頭と足をした男の子
の7人の子供と、7人のハインツェルメンヒェン(ケルンの妖精あるいは小人)を産みます。ルツィファーはここではルツィポリープと呼ばれて、バリトン歌手と俳優の二人一役で表現されます。彼がなぜ激怒しているのか、テキストを読んでも私にはさっぱり分からないけれど、エーファに仕える女たちのからかいの様子は、「ラインの黄金」のアルベリヒとラインの乙女たちを想起させます。愛の断念から壮大な神話が始まるとでもいうのでしょうか。ともあれ、一度女達によって砂の中に埋められたルツィファーは、海の中から姿を現して子供達に「みんな戻れ!!もう一度はじめからやり直し!!!」と怒鳴る。子供達はエーファの彫像の子宮の中に消えていく。


音楽は男声の合唱によるオルゲルプンクトと女声による合唱から始まり、シンセサイザーと実に様々なサウンドプロジェクションがそれを彩ります。「リヒト」の理解のためには、その作曲技法の根幹をなす「スーパーフォルメル」の把握が不可欠なのだが、耳で聴いただけで、ここはエーファのフォルメル、これはルツィファーのフォルメル、と直ちに認識するだけの力は私にはないので、今はただ耳を慣らすといった段階です。しかし、いわゆるセリエリスムにおけるセリーとは全く性質の異なる音列でしかも延々と引き伸ばされるバスが基音としての働きをするので、非常に聴きやすく感じられます。もちろんポストモダンとしての新ロマン主義とは何の関係もない音楽ではあるのだけれど、聴いているとやはりドイツの人の音楽だなという気がします。多分に印象批評めいた感想で申し訳ないが、シュトックハウゼン自身のもう少し若いころの作品との類似でいえば、「ミクロフォニーⅡ」にでてくる合唱にやや近い感じ。あちらはまるでモーツァルトの魔笛に出てくる三人の侍女の合唱のような愉悦に満ちた合唱がきわめて前衛的なフレームの中に投げ込まれている作品だったが、「月曜日」も根っこは一緒。ある意味、ピカソのエッチングや絵画みたいに、漫画みたいなんだがよく見るとデッサンは正確無比、とでもいった感じでしょうか。
サウンドプロジェクションとしては、「月曜日の迎え」にも出てきた水音、雄鶏の時を作る声、ライオンの唸り声、犬の吠える声、馬の嘶き、牛のもーという声、なんだかよくわからないが熱帯の鳥みたいなやかましい鳴き声(カワウソ?)、象の声、等々。あるいは爆発音、ガラスの容器が割れる音、銃の発砲の音、雷鳴、銅鑼、チェーンソーのような騒音に木が切倒される音、目覚まし時計、トイレの水を流す音、等々。音楽素材の引用としてはなんだかよく分からないがファンファーレのような音楽、リストの「レ・プレリュード」、それに「ラ・マルセイエーズ」の一節。赤ん坊の泣き声や喃語やくしゃみの音、ヒットラーを思わせるヒストリカルな演説の録音、女の喘ぎ声・・・等々、もうひっきりなしにこれらの音が鳴っている。しかも合唱や子供達の大騒ぎ、3人のテノールによる饒舌な船乗りの歌、バスと俳優による下品なルツィファー(ルツィポリープ)の歌がこれに重なり、なんとも賑やかで退屈する暇もないほどなのに、不思議にとっ散らかった感じはなくて、緩さと精密さが両立している。私はこれまで、このブログでシュトックハウゼンについて書くとき、いつも「精密なのにテキトーっぽい」などと書いてきましたが、この緩さというものは、聞けば聞くほどシュトックハウゼンの音楽の本質に関わるものという気がします。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2015-12-21 23:47 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

片山定期能 「通盛」 「海士」

池井戸潤と井戸田潤がどうしてもごっちゃになってしまう。





今年の能の見納めです。
2015年12月13日@京都観世会館
片山定期能十二月公演

 通盛
  シテ(浦の老人/平通盛の霊) 分林道治
  ツレ(浦の女/小宰相局の霊) 武田大志
  ワキ(僧) 小林努
  ワキツレ(従僧) 有松遼一
  アイ(浦の男) 山口耕道

 仕舞
  白楽天 橋本忠樹
  龍田キリ 梅田嘉宏
  鳥追舟 青木道喜
  碇潜(いかりかづき) 味方玄

 狂言
 棒縛
  シテ(太郎冠者) 茂山良暢
  アド(主) 岡村宏懇
  アド(次郎冠者) 新島健人

 仕舞
 定家 片山九郎右衛門

 海士懐中之舞
  シテ(海人の女/龍女(房前の母の霊)) 片山伸吾
  子方(藤原房前) 片山峻佑
  ワキ(従者) 江崎欽次朗
  ワキツレ(従者) 和田英基・松本義昭
  アイ(浦の男) 茂山良暢


まずは「通盛」(みちもり)から。
阿波国鳴門にて、平家の一門を弔う旅の僧のもとに、浦の老人と女(実は通盛とその妻、小宰相局の亡霊)が釣舟に乗って現れる。女は、通盛の討死を知った小宰相局が鳴門で入水したことを話すと、自ら老人ともども海に飛び込んで消えてしまう。その夜、僧たちの読経に誘われる如く、通盛と小宰相局の霊がふたたび現れ、戦の前の夫婦の語らいもそこそこに、後ろ髪を引かれる思いで出陣し、敵と刺し違えて修羅道に堕ちた経緯を語るのだった。
二番目物ですが、シテの妻が出てくることで格段に見どころの多い曲となっています。前半は小宰相局の入水の件が中心。舞台には篝火を焚いた釣舟の作り物が出され、乳母らの制止を振り切って入水する場では、思いの外の素早さで小舟から歩み出てしゃがみこみ、立ち上がって橋懸りから消えていく。本当に一瞬の所作ですが、切々たる台詞や地謡と相俟って、予めこうなると分かっていても衝撃を受けます。

ツレ「さる程に小宰相の局乳母を近づけ。
二人「いかに何とか思ふ。我頼もしき人々は都に留まり。通盛は討たれぬ。誰を頼みてながらふべき。此海に沈まんとて。主従泣く泣く手を取り組み舟端に臨み。
ツレ「さるにてもあの海にこそ沈まうずらめ。
地下歌「沈むべき身の心にや。涙の兼ねて浮ぶらん。
上歌「西はと問へば月の入る。其方も見えず大方の。春の夜や霞むらん涙もともに曇るらん。乳母泣く泣く取り付きて。此時の物思君一人に限らず。思し召し止り給へと御衣の袖に取り付くを。振り切り海に入ると見て老人も同じ満汐の。底の水屑となりにけり。

後半はまず別れを惜しむ夫婦の語らいが、出陣を急く声によって中断される件。この直前、鼓が沈黙して、笛のみ前後と打って変わって静かに叙情的な一節を吹くのが大変印象的。

通盛も其随一たりしが。忍んで我が陣に帰り。小宰相の局に向ひ。
クセ「既に軍。明日にきはまりぬ。痛はしや御身は通盛ならで此うちに頼むべき人なし。我ともかくもなるならば。都に帰り忘れずは。亡き跡弔ひてたび給へ。名残をしみの御盃。通盛酌を取り。指す盃の宵の間も。転寝なりし睦言は。たとへば唐土の。項羽高祖の攻を受け。数行虞氏が。涙も是にはいかで増るべき。燈火暗うして。月の光にさし向ひ。語り慰む所に。
シテ「舎弟の能登の守。
地「早甲胃をよろひつゝ。通盛は何くにぞ。など遅なはり給ふぞと。呼ばはりし其声の。あら恥かしや能登の守。我が弟といひながら。他人より猶恥かしや。暇申してさらばとて。行くも行かれぬ一の谷の。所から須磨の山の。後髪ぞ引かるゝ。

夫婦の別れが、かくも美しく簡潔な言葉の連なりで表現されるとは。私は思わず三島由紀夫の「憂国」を思い出してしまったほど。因みにここに出てくる「たとへば唐土の」以下は和漢朗詠集の中の
 「燈暗うして數行虞氏(すかうぐし)が涙、
 夜深(ふ)けぬれば四面楚歌の聲」
を引用したもの。
ともあれその後、通盛は太刀を持って、近江国木村源吾重章と刺し違えて討死する。
私が二番目物(修羅物)の能を観るのは「朝長」「頼政」に次いで三回目ですが、必要最小限の所作と、多くは平家物語から引いたと思しい言葉の力によって、眼前に合戦の状況がありありと浮かぶ様には驚きを禁じえません。本当に類まれな演劇であると思います。

狂言は「棒縛」。
ある主人、用事で家を留守にするのだが、出掛ける度に甕の酒が減ることに腹立たしい思いをしている。主人は太郎冠者を呼ぶと、次郎冠者が酒を盗むので懲らしめるといい、次郎冠者をおだてて棒術を披露させるうちに両腕を棒縛りにする。次いで太郎冠者も気を許した隙に主人に後ろ手を縛られてしまう。主人が出かけると、両手を縛られた二人は助け合って知恵を絞って酒を盗み飲み、酔っぱらってしまう。そこに主人が戻ってきて・・・。
この一年ほど、いろんな狂言を観てきましたが、太郎冠者次郎冠者が登場するのは他になかったような気がします。狂言の典型だと思っていたのだが意外にそうでもないのか、あるいは典型的すぎて却って演目としては避けられるのか。いずれにしても理屈抜きで笑えるものです。今回は深刻な内容の能に挟まれて、この単純な哄笑が所を得ていたように思いますが、実は能を観始める以前に、機会があって渋谷のセルリアンタワー能楽堂で観た「棒縛」のほうがもっと腹の底から笑わせてもらったような気がします。今回の演者は達者だけれど、すこし硬さが感じられたように思いました。

仕舞は都合五番。ついこの間「白楽天」の仕舞を観たばかりなので比較するのも楽しい(どちらがどうとは分かりませんが)。「碇潜」からの仕舞は難度が高そうだが、気品の感じられる舞姿でとても気に入りました。

最後は「海士」(あま)。
淡海公(藤原不比等)の子、房前(ふさざき)大臣は、讃岐国志度浦で亡くなったという母の菩提を弔いに彼の地に下向してくる。そこに浦の海女(実は大臣の母の亡霊)が現れ、大臣に語りかける。遡ること十三年前、淡海公は、龍神に奪われた唐土伝来の宝の珠を求めて志度浦に来たが、地元の海女と契りを結んで一子を設ける。淡海公は海女に、龍宮の珠を取ってきたならばこの子を世継ぎにしようと持ちかけると、わが子の為ならば何の命が惜しかろうと彼女は海に潜る。果たして龍宮の珠を奪い返すと、自分の乳の下を切り裂いて珠を埋め込み、血の穢れを嫌う龍や鰐の追手を逃れるが、公に珠を渡してこと切れたという。我こそその時の海女の霊だと明かした女は、龍女の姿で再び我が子たる大臣の前に現れ、ありがたい経文を手渡して成仏するのだった。
お話はご覧のとおり大変無理のある、荒唐無稽といっても良いものですが、子方の演じる房前大臣と亡き母との交流の切なさ、珠を龍宮から奪う件の凄惨な描写など、見どころ多く人気のある出し物のようです。それにしても、乳の下をかき切るなどと言っても、実際の所作は左の胸のあたりに手を置くだけ、だったりするので、これは是非とも謡曲の詩句を学んでから観るべき演目という感じがします。テキストは二番目物のそれに比べるとやや難解。しかし経典の詩句がそのまま出てくるような箇所を除いて、少しでも事前にテキストを読んでおけば、台詞であれ地謡であれ概ね聞き取れるはず。きめ細やかに描かれた母の情、あるいは水底に広がる龍宮の情景など、所作と囃子と言葉の三つの要素が密接に結び合わされて初めて、荒唐無稽から人の胸を抉る真実の舞台へと昇華するものであると思います。

地「かくて龍宮にいたりて宮中を見れば其高さ。三十丈の玉塔に。かの珠を籠めおき香花を供へ守護神は。八龍並み居たり其外悪魚鰐の口。逃れ難しや我が命。さすが恩愛の故郷の方ぞ恋しき。あの波の彼方にぞ。我が子はあるらん父大臣もおはすらん。さるにても此侭に。別れはてなん悲しさよと涙ぐみて立ちしが又思ひ切りて手を合わせ。南無や志度寺の観音薩埵(さつた)の力を合はせてたび給へとて。大悲の利剣を額に当て龍宮の中に飛び入れば。左右へばつとぞ退いたりける其隙に。宝珠を盗みとつて。逃げんとすれば。守護神おつかくかねてたくみし事なれば。持ちたる剣を取り直し。乳(ち)の下をかき切り珠を押し籠め剣を捨てゝぞ伏したりける。

今回の上演は、つい先週「鞍馬天狗」で牛若を演じた子方、片山峻祐と信吾氏の親子共演ということでしたが、やはり他に得難い子方でしょうね。聞けば小学校5年生ということで、子方が務まるのもあとわずか。声変わりが終わった後は本格的な若手能役者として活躍されるに違いありません。
by nekomatalistener | 2015-12-17 00:07 | 観劇記録 | Comments(0)

林定期能 「江口」 「鞍馬天狗」

能「鞍馬天狗」、河村晴道氏が最初の解説で「恋慕の情」などと仰るので思わず
鞍馬天狗「ウホッ」牛若丸「アッー!」な展開を想像。





林定期能の本年の納会ということもあって、客席はほぼ満員、補助席も出ていました。和服姿のご婦人多数、まことにけっこうな光景です。

 2015年12月6日@京都観世会館
 林定期能

  江口
   シテ(里女、江口君) 河村晴久
   ワキ(僧) 福王和幸
   ワキツレ(僧) 中村宜成・廣谷和夫
   ツレ(侍女) 樹下千慧・松野浩行
   間(所の者) 茂山千三郎

  狂言  
  二九十八
   シテ(男) 茂山あきら
   アド(妻) 丸石やすし

  仕舞
   白楽天 河村和重
   葛城 味方健
   籠太鼓 林喜右衛門
   車僧 片山伸吾

  鞍馬天狗
   シテ(山伏、大天狗) 林宗一郎
   子方(牛若) 片山峻佑
   ワキ(僧) 岡充
   間(能力) 茂山逸平
   間(木葉天狗) 丸石やすし・鈴木実・茂山千三郎


「江口」を観るのは7月(片山定期能)に次いで2回目。観た感想もそんなに変わらなくて、「長い・・・」というもの(優に2時間は掛かっていたと思う)。でも不思議と眠くもならず、退屈というのとも違う。前回、遊女が普賢菩薩に変じるためにこの長い時間が必要なのかも、といったことを書いたが、本当のところはどうだろうか。シテの舞は日頃の厳しい修練を感じさせるものの、わずかに上体がぶれる瞬間が何度かあり、本当の意味での美しさ、余計なものをそぎ落としたあとに残る色気のようなものを感じるには至らなかったというのが正直なところ。もしそうでなければ、体感時間も少し変わってきたような気がします。

前に「江口」を鑑賞した際に、中世における遊女という存在がどのようなものであったか、気になりつつも付け焼刃であれこれ述べることを差し控えました。その時書きたかったことというのは、遊女が普賢菩薩に変化(へんげ)するというのはどうことなのか、当時の遊女というものにどの程度の聖性が認められていたのか、といったことでしたが、その後、11世紀の中頃、平安末期に藤原明衡によって書かれた「新猿楽記」を読んで、すこし謎が解けたような気がしています(以下の引用は東洋文庫「新猿楽記」川口久雄訳注による)。この「新猿楽記」のなかに遊女である十六君という人物について書かれた段があるのだが、そこには

十六ノ君ハ、遊女夜発(ウカラメヤハツ)ノ長者、江口河尻ノ好色ナリ。
(十六の君は、遊女や夜発などといった川船宿の女たちの女主人であり、遊女のたまり場である江口や河尻の中でも名の通った美女である。)

とあって、観阿弥の時代(「江口」は観阿弥作世阿弥改作と云われている)とは300年ほども開いているのだが、江口という地名が中世において「遊女の里」として広く知られていたことが分かります。
肝心の遊女の描写は、

昼ハ簦(ヒカサ)ヲ荷ツテ、身ヲ上下ノ倫(トモガラ)ニ任セ、夜ハ舷(フナバタ)ヲ叩ヒテ、心ヲ往還ノ客(マラウト)ニ懸ク。抑モ淫奔徴嬖(テウヘイ)ノ行、偃仰養風(エンギヤウヤウフウ)ノ態(ワザ)、琴絃麦歯(キムゲムバクシ)ノ徳、龍飛虎歩(リヨウヒコホ)ノ用、具セズトイフコトナシ。
(昼は、大笠をかついでいって、日傘の陰で身分の上下を問わず男たちにその身を任せる。夜は夜で、船に乗って、水の上で船端を叩いて、淀の河口を往来する旅人たちに想いを懸ける。そもそも、この女は、相手をえらばず淫欲にふけり情事をほしいままにし、わざを尽して、伏臥したり仰臥したりして養生の道を尽す。琴絃・麦歯の名器をもって、龍飛・虎歩の房事を行うのに、至らざるなしといわれる。)

とあり、そこには殊更遊女を美化したり神聖視したりする態度は皆無、むしろあけすけな、露悪的な描写が続いています(ちなみに詳細を極める注釈によれば琴絃・麦歯とはいずれも女陰の謂、龍飛・虎歩は体位の一種のようだ)。
遊女というものがこのように見られていたからこそ、能「江口」における普賢菩薩への変化というものがある種の驚きをもって人々に迎えられたという仮説が成り立ちます。もちろんそれは能「江口」の固有の特色ではなくて仏教全般に関わる問題かも知れませんが、中世の遊女像がある程度はっきりすることで、一見とりとめもないお話が観る者に新たな側面を見せるような気がします。

ついでながら、引用した「新猿楽記」だが、別に好色文学というのではなくて、どちらかといえば今でいう「風俗リポート」に近いような気もしますが、二十も年下の男と結婚して、六十になるというのに旦那の浮気に狂わんばかりの女(第一の本の妻)やら、どうしようもなく素行が悪いのだが、唯一の取り柄が大きな陰茎という男(十四の御許の夫)など、表向きの歴史が決して教えてくれない中世の風俗が活き活きと、また猥雑に描かれていて貴重な文献であると思います。生憎絶版のようだが、大きめの図書館には必ずあるでしょうから興味がおありでしたら是非。


次に狂言「ニ九十八」。
この狂言、そんなに込み入った話でもないのだが、おおよそ前後に内容が分かれているように思います。前半は、ある男が妻を得たいと思い立ち、清水寺に願掛けをすると、西門の階(きざはし)にいる女こそお前の妻となる者だとのお告げを得る。はたしてその場所に被き(かずき)を被った女がいる。男が住まいを尋ねると答えを謎解きに込めた歌を詠みかける。町名まで分かって何軒めかと尋ねたところ「にく」と女は返事して消えるが、男は室町の十八軒目だろうと見当をつける。後半はその住まいを男が訪ねると件の女が待っている。被きを被ったまま祝言の杯をかわしたところで素顔を見ると、これがとんでもない醜女。男はなんとかして逃げ出そうとするが・・・。
現代人の感覚からすると、前半の頓智はちょっと笑いにはつながりません。後半は後半で、不細工な女を嗤うというのがちょっとアレな感じ。「三人片輪」ほどじゃないにしても日常的な演目としてはだんだんとやりにくくなるタイプの出し物なのでしょう。

仕舞は四番。最初の「白楽天」を舞った河村和重は名人といってよいのでしょうね。体の内から力が漲るような舞には言葉を失う思いでした。

最後に「鞍馬天狗」。
この演目、季節としては花見の頃なのだが、大勢の子方が賑やかに、また微笑ましく登場すること、お話しは実に単純明快しかも牛若丸のエピソードであること、子方とはいえ、源氏の人質としての身の上を嘆く牛若の台詞が胸にぐっとくること、天狗の舞が華々しいこと等々、年の瀬の納会にもぴったりな演目だと思いました。
さる僧が大勢の稚児たちを連れて鞍馬山に花見にやってくる。そこに見慣れぬ山伏が禁制を破って我が物顔に入り込む。気色ばむ能力(のうりき)を制して、僧と稚児たちはその場を離れる。稚児の内、一人の少年がその場に残る。その稚児こそ遮那王すなわち牛若丸、後の義経。栄華を極める平家の一門にあって辛い立場を味わっていた牛若に山伏は深く同情し、我こそは鞍馬の大天狗と正体を明かす。大天狗は少年に秘伝の兵法を伝え、かならず平家をほろぼすよう励ますのだった。

実に見どころのおおい演目ですが、なんといっても素晴らしいのは、一人居残った牛若と天狗の対話。

シテ詞「いかに申し候。唯今の児達は皆々御帰り候ふに。何とて御一人是には御座候ふぞ。
子方詞「さん候唯今の児達は平家の一門。中にも安芸の守清盛が子供たるにより。一寺の賞翫他山のおぼえ時の花たり。みづからも同山には候へども。よろづ面目もなき事どもにて。月にも花にも捨てられて候。
シテ「あら痛はしや候。さすがに和上臈は。常磐腹には三男。毘沙門の沙の字をかたどり。御名をも沙那
王殿と付け申す。あら痛はしや御身を知れば。所も鞍馬の木蔭の月。
地「見る人もなき山里の桜花。よその散りなん後にこそ。咲かばさくべきにあら痛はしの御事や。

この後、天狗はやさしく牛若に手を添え、各地の桜を(おそらくは空中を飛んで愛宕に吉野に・・・と瞬時に連れまわすという見立てで)牛若に見せる。控えめながらその所作、またやや先立つ地謡「御物笑の種蒔くや。言の葉しげき恋草の。老をな隔てそ垣穂の梅さてこそ花の情なれ。花に三春の約あり。人に一夜を馴れそめて。後いかならんうちつけに心空に楢柴の。馴れは増らで恋のまさらん悔しさよ。」と、そこはかとなく少年愛の気配が漂う。
手下の木葉天狗たちが長刀の稽古をするという奇天烈な中入りの後、天狗から兵法を授かるべく、牛若は凛々しく薙刀の稽古の装束で現れる。テキストには、
子方一声「さても沙那王がいでたちには。肌には薄花桜の単に。顕紋紗の直垂の。露を結んで肩にかけ。白糸の腹巻白柄の長刀。
地「たとへば天魔鬼神なりとも。さこそ嵐の山桜。はなやかなりける出立かな。
云々と記されていて、なんというか、稚児趣味ここに極まれりという感じがしますね。私はショタコンではないのだが、牛若というのが如何に中世の人々の性的ファンタジーをそそる存在であったか、ということは容易に想像がつく(弁慶とのエピソードなどもそういった文脈で語られるべきものかもしれません)。
後半は天狗の勇壮な舞が置かれていて、切能としての面白さにも溢れています。天狗が牛若に語る長良と黄石公の逸話は史記に出てくるとのこと。
子方の片山峻佑は立派に役をつとめていました。台詞も多く、薙刀をもって舞う場面もあり、なかなか大変な役だろうと思います。片山峻佑、伸吾氏のご子息とのこと。いまどきの子には珍しいほどの凛々しい姿を見ているとふと「絶滅危惧種」という言葉が浮かんでしまいました。精進して立派な役者に育ってほしいと思います。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2015-12-10 00:06 | 観劇記録 | Comments(0)

シュトックハウゼン 「光の月曜日」を聴く (その1)

美濃加茂市の巨乳ポスターには男の私でもドン引き。アレはアカンわ。というか、この前志摩でもおんなじような話があったのに学習能力無さ過ぎ。





昨年の東京での「歴年」、今年の「シュティムンク」公演など、これまでシュトックハウゼンの音楽をすこし齧ってみて、想像以上に面白く、まっとうな音楽という気がしています。もちろん、天才と持ち上げる人もいれば、その作品をクズ呼ばわりするのみならず、作曲家の人格を「誇大妄想狂」だの「山師」だのと決めつける人達がいることも確かだろう。どっちにしても、1977年から2003年までのほぼ四半世紀を費やして完成させたオペラ「リヒト(光)」を聴かずして、シュトックハウゼンの評価など出来るはずがないと思うのだが・・・。何はともあれ少しずつ音源を聴いていこう。数年掛かりの予定です(笑)。


 シュトックハウゼン オペラ「リヒト」より 月曜日 MONTAG aus LICHT

  エーファ(3Sp): アネット・メリーウェザー、ドンナ・サーレイ、ヤナ・ムラゾヴァ
  ルツィファー/ルツィポリープ(Bs): ニコラス・イシャーウッド

  バセット・ホルン: スザンヌ・スティーブンス、曽田留美、ネレ・ラングレア
  フルート/ピッコロ: カティンカ・パスフェーア
  ピアノ: ピエール・ローラン・エマール
  電子鍵盤楽器: ミヒャエル・オブスト、ジモン・シュトックハウゼン、ミヒャエル・スヴォボダ
  打楽器: アンドレアス・ベトガー
  合唱: ケルン西ドイツ放送局合唱団、ブダペスト放送局児童合唱団
  1986年8~11月、1988年1~5月録音
  CD:STOCKHAUSEN-VERLAG CD36A~E


とにかくこれだけの大作、7部からなる「リヒト」の第1作「月曜日」だけでもCD5枚組ということで、何かしら日本語で手軽に読めるガイドがほしいところだが、幸いなことに下記のサイトが大変理解の助けになります。

松平敬氏のブログより
http://matsudaira-takashi.jp/stockhausen/

シュトックハウゼン音楽情報より
http://www001.upp.so-net.ne.jp/kst-info/CDList01.html

後者はStockhausen-VerlagのCDの分厚いブックレットの翻訳だが、譜例が省略されています。やはりちゃんとCDを買ってくれ、ということだろうか?それはともかく、「月曜日」ではかろうじて物語らしきものがある。無理やり要約すると、「始原的な女性であるエーファは一度目の出産で7人の異形の子供を産み、二回目の出産で月曜日から日曜日までの7人の子供を産む。ルツィファーは激怒し、ハーメルンの笛吹が子供たちを攫っていく」というもの。ルツィファーとはルツィフェル、すなわち堕天使、悪魔のことだろうと思うが、彼が何に激怒しているのか、笛吹はなぜ子供達を攫い、攫われた子供達がどうなるのか、普通にテクストを読んでも分からないし、この先火曜日、水曜日と聴いて行ったら分かるというものでもなさそう。これは神話の創造であって、言葉の表層だけを捉えてもほとんど何の意味ももたらさない。一通りテクストを通覧した後にある種のパラディグマティックな分析によって見えてくるものがあるのかもしれない。

「月曜日」の全体は、
 ・月曜日の迎え
 ・第1幕 エーファの最初の出産
 ・第2幕 エーファの二度目の出産
 ・第3幕 エーファの魔法
 ・月曜日の別れ
から成り立っています。
「月曜日の迎え」(多重バセットホルン、電子鍵盤楽器とサウンド・プロジェクションのための)は、オペラが始まる前に、劇場に入って客席に着く聴衆たちを迎えるための30分ほどの音楽。バセットホルンによる和音が半音階的あるいは微分音的にゆるやかに下降し、上昇する。途中なんどか、波が寄せては返すような水音が聞こえる。生命を育む始原の海とエーファの羊水のイメージ。静かで瞑想的な音楽だが、安らぎを感じこそすれ不思議と退屈しない。
ところでwikipediaでバセットホルンについて調べてみると、モーツァルトが幾つかの作品を残した後は、R.シュトラウスまで殆ど目立った作品がないとのこと。クラリネットに駆逐されてしまったのだろうが、すこし鼻が詰まったような地味な音色は独特。それにしてもシュトックハウゼンのこの楽器への偏愛ぶりは特異といってよいのだろう。オペラの中では専らエーファを象徴しているようだ。
尚、「迎え」の編成にはシンセサイザーが含まれています。延々と引き伸ばされる音はおそらくバセットホルンからシンセに受け渡されているように思いますが耳で聴いているだけではバセットホルンとシンセの「繋ぎ目」はよく分かりません。

詳細を極める上掲「音楽情報」サイトの記述に附け加えることは実はあまりないのだけれど、こんな感じで、及ばずながら補足的な事柄や個人的な感想・備忘などを綴っていく予定。とにかくこういった作品は繰り返し繰り返し聴く以外に受容する術はありません。続きはいずれまたということで急がずに参ります。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2015-12-05 15:38 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)