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死の劇場 カントルへのオマージュ

このまえ、観るともなく観てたゴールデンのバラエティ番組で、最近若い子とかに通じない大阪弁ベスト10みたいなのをやってた。「てんごする」とか「でんする」とか、あー今でも使とるがな、というのもあるが、大学生の娘には殆ど通じない。ちなみに番組には出てこなかったが、「ほたえる」とか「家にいぬ」なんて言い方も通じない。ちょっとした衝撃。





「アゴラ言論プラットフォーム」という、様々な有識者の投稿から成り立っているサイトがある。おおよそ投稿の9割が政治と経済に関するものだが、たまに文化的な内容の投稿もある。偶々11月13日に新規投稿をチェックすると『「現代とカントル」考』という記事が目にとまった。内容を見ると、まさかのタデウシュ・カントール(最近はカントルという表記をするらしい)についての記事、しかも京都で11月15日までタデウシュ・カントル生誕100周年記念「死の劇場 カントルへのオマージュ」展をやっているとのこと。何はともあれこれは見ておかなくてはと思い、14日に京都市立芸術大学ギャラリー(@KCUA)に行ってきた。

http://agora-web.jp/archives/1660735.html

私は著者の若井朝彦氏については何も知らない。件のHPはFBのコメントしか受け入れないようであるし、ツイッターもFBもやらない私にはこの催しを教えて下さった氏に御礼すら出来ないが、よくぞ記事にしてくださったことだ。
もっとも私はタデウシュ・カントールについて詳しい訳でもなんでもない。ただ、昔(90年代の半ばだったと記憶する)、BSで彼の舞台「死の教室」の録画が放映され、私はまさしく死臭の漂うような、しかも美しい舞台を観て驚いた。カントールは1982年と90年の2回来日しており、利賀村と東京のパルコ劇場で「死の教室」を上演したとのことだが、今となってはBSで観たものがそのどちらであったかさえはっきりしない。
その後、なんどかカントールと彼の創始した劇団CRICOT2のことは気になりつつも、日本語で読める情報のあまりの少なさもあって次第に忘却の彼方に沈んでいったのだが、それでも何かの折にふと「死の教室」のことが思い出されたりすることもあった(特に死をモチーフにした舞台作品を観た折など)。
この前衛演劇がどうして30歳になるかどうかという頃の私をあれほどまでに魅了したのか、もはやよく覚えていないというのが実態だが、芝居の冒頭近く、年老いた(あるいは亡霊となった)かつての生徒達が、それぞれ自身の分身である子供の姿の人形を抱いて、階段型に並べられた机のまわりを延々とワルツにのって回る場面、また一つの言葉を生徒たちがつぎつぎと反復し、騒音にまで至る場面、これらをフロイトのテキスト(特に「鼠男の症例」)を手掛かりに反復強迫とシニフィアンの連鎖に見立てて分析すること、いわばラカンが『「盗まれた手紙」によるゼミナール』でやろうとしたことを無謀にもこの演劇をネタにやろうとしていたことは、今となっては少々厨ニ病的で恥ずかしいことだが事実なので仕方がない。

さて、そのような経緯で観ることになったこの催し、カントールの人となりや遺された作品に照準をあてた回顧展のようなものを想像していたがさにあらず。彼自身のドローイングなどもあるにはあるが、カントールの舞台から影響を受けたアーティストのインスタレーションや映像作品が展示の大半を占めていた。あくまでも「カントル」展ではなくて「カントルへのオマージュ」展なのであった。まぁ考えてみればカントールのような特異な演劇作家の業績を回顧するなら演劇を再演するに如くはないのであって、そうでなければ今回のような形態をとらざるを得ないということは理解できる。むしろ、中心の欠けた展示によって却って中心にあるはずの存在の大きさを際立たせていたと言えなくもない。例えて言えばサド侯爵が登場しないがゆえに真の主役であるという、あの三島由紀夫の演劇「サド侯爵夫人」のように。
備忘として展示作品の作家名を挙げると、石橋義正、ミロスワフ・バウカ、パヴェウ・アルトハメル、アルトゥル・ジミェフスキ、ヨアンナ・ライコフスカ、松井智惠、丹羽良徳、オル太、といったアーティスト達。私はこういったいわゆる現代アートに疎くて、これらをあれこれ論評する力がない。ただ、好き嫌いレベルの感想を言えば、パヴェウ・アルトハメルの二つの映像作品は、解説のちらしにも書かれている「日常の裂け目」のようなものが確かに感じられて、長いこと見入ってしまった。また、丹羽良徳の「デモ行進を逆走する」という映像、反原発デモの集団の中を先導者とカメラマンが逆行していくという、ただそれだけなのだが、この国の得体のしれない同調圧力を感じさせるものであった。オル太というアーティスト集団の「目覚め」というインスタレーション作品、オシフィエンチム(アウシュヴィッツ)の廃墟となった病院を舞台に、患者とおぼしい人物がずるずると這い回る映像はホラー映画並みの不気味さだが強烈な印象を残す。

なお、最終日前日のこの日、カントールに関するシンポジウムも行われたようだが所用があって時間前に退出。多少の物足りなさもあったが、今現在日本語wikipediaに立項すらされていないこの不世出の舞台作家を思い出す機会としては十分な値打ちがあった。
(それにしても、この記事も「カントル」あるいは「カントール」で検索してきた方には、彼自身について殆ど何も情報をもたらさぬ中心が空虚な記事であることよ)

ちなみに「死の教室」はyoutubeで視聴可能。ただ権利関係がどうなっているのか分からないが、突然削除される可能性もあるので見るならお早めに。

https://www.youtube.com/watch?v=-p870MeyJuw

(この項終り)
by nekomatalistener | 2015-11-16 23:23 | その他 | Comments(0)

藤木大地 カウンターテナー・リサイタル

新大阪の近くの「西中島南方(にしなかじまみなみかた)」という駅名が、関東の方にはけっこうインパクトがある、というのが関西人には分からない。地味だけど東京の「西葛西」のほうがよっぽどびっくりするわ。





知人のお誘いで藤木大地のリサイタルに行ってきました。

 2015年11月7日@青山音楽記念館バロックザール
  藤木大地(カウンターテナー)
  中村圭介(ピアノ)

  ヴォーン=ウィリアムズ
   ・リュートを弾くオルフェウス
   ・美しいひとよ目覚めよ
   ・屋根の上の空
   ・静かな真昼
 
  アーン  クロリスに
  プーランク  美しき青春
 
  ベートーヴェン  連作歌曲集「遥かなる恋人に」

   (休憩)

  新作歌曲の世界初演によせるプレトーク(増田真結&清水慶彦)
 
  山頭火による挽歌《白い凾》
   1.白い凾(増田真結 作曲)
   2.12:00(増田真結 作曲)
   3.14:46(清水慶彦 作曲)
   4.白い凾(清水慶彦 作曲)

  弘田龍太郎   叱られて
  梁田貞   城ヶ島の雨
  橋本國彦   お菓子と娘

  ヘンデル  歌劇「アルチーナ」より〈緑の牧場よ〉
  グルック  歌劇「オルフェオとエウリディーチェ」より〈エウリディーチェを失って〉

   (アンコール)
  
  ヘンデル オンブラ・マイ・フ
  ゴンドラの唄
  ロンドンデリーの歌


この公演、まったくノーマークだったところに、知人から一緒に行くはずだったお連れさんの都合が悪くなったということでお誘いいただいたのですが、行ってよかった。素晴らしいリサイタルでした。
藤木大地については、一昨年のライマン「リア王」のエドガーを舞台で聴いており、そのときにも絶賛していましたが、2年ぶりに聴いて、改めてその凄さに驚きました。一昔前のカウンターテナーにありがちなある種の非力さや声域によるむら、不連続な声質の変化といったものを完全に克服した新たな世代の誕生という感じがする。息をのむようなソットヴォーチェからホールを満たすフォルテッシモまで自在に出せるだけでなく、歌詞に寄り添った表現の振幅の大きさこそがこの人の本領だろう。また、カウンターテナーから連想しがちな性差の混乱の感覚が、この人を聴いているとあまりなくて、まぁ視覚情報からそう思うのかも知れないけれどやはり男声=男性だなと思います。その意味で、「アルチーナ」のルッジェーロのアリアや、就中「オルフェオ」のアリアは現在の彼の声に最も相応しいものだったような気がします。
基本的にはリサイタルよりオペラに向いている人だと思うけれど、一方でプログラム前半のヴォーン=ウィリアムスやベートーヴェンの歌曲も素晴らしく、大きな音楽的身振りが知的なコントロールと生真面目で真正な歌詞の解釈に裏打ちされ、もしかしたら従来これらの作品の器と考えられていたものよりも大きな世界を提示しえていたのではないか、と思いました。
また、日本語のデクラメーションが非常によいこと、一昨年の「リア王」もそうだが、同時代の音楽を献身的に紹介しようとする姿勢等、この人の美点はまだまだありそう。アンコールの心憎い選曲には身悶えしそうになりました。

それと是非書き留めておきたいことだが、伴奏を務めた中村圭介のピアノが素晴らしかったと思います。音色とニュアンスの多彩さ、デュナミークの幅の広さは並みの伴奏ピアニストのレベルを遥かに超えていました。息をひそめるようなピアニッシモのその先に、もっとひそかな、しかも痩せないピアニッシシモが続くといった具合。それでいてあくまでも歌に寄り添う伴奏としての立ち位置を守った演奏。グルックのアコンパニャートの呼吸なども見事。一般論として、伴奏は「ピアノ演奏」として見ると技巧や表現の点で物足らなかったり、ピアニストが巧けりゃ巧いで自分を弁えないパフォーマンスになったり、と難しいものだと思いますが、この日の組み合わせは理想的だったのじゃないかな、とおもいます。

それぞれの曲目について若干備忘がてら書いておきます。
最初のヴォーン=ウィリアムス、年代の割に保守的な作風だが、私は他の作品をほとんど聴いたことがないので、これだけであれこれ判断するつもりはありません。が、この日歌われた歌曲は虚飾とか衒いとかいったものが一切ない、素直な感情の発露という感じがします。そのために却って藤木がこれをリサイタルのトップに持ってきたことに自信のあらわれを感じました。
レイナルド・アーンは、フランス歌曲の愛好家にはよく知られているらしいが私は多分初めて聴いたのではと思います。プルーストに(いろんな意味で)可愛がられた人のようですが、確かに高貴な香りのただようサロン風の音楽。次のプーランクともども、佳品というべき作品。
ベートーヴェンの「遥かなる恋人に」も愛すべき作品。ビーダーマイヤー風と言ってしまえばそれまでだが、こういった作品があってこそベートーヴェンの世界の奥行というものがあるのだろうと思います。
リサイタルの後半の最初に、作曲者である増田真結と清水慶彦の両氏によるプレトークがありました。藤木大地の京都におけるモノオペラ「人でなしの恋」(増田真結)の公演を機に連作歌曲の創作の話がでたこと、山頭火をテキストにすると決めて改めて彼の俳句を精査すると、意外なほど死にまつわるものが多く見つかり、タイトルを「挽歌」としたこと、中でも第3曲のテキストとなった「流れて水が街にあふるるや春」は、山頭火自身にはなんの関係もないとは言え、現代の我々が読むといやでも3.11のイメージを持たざるを得ないことなどが話されました。作品自体は無調をベースにした表現主義的といってもよさそうなもので、この日の良質な聴衆にも恵まれて息をすることさえ憚られるほどの緊張感でした。
当日のパンフレットには解説や歌詞が一切書かれていないのですが、やはりこういった作品はテキストを記載してほしいと思います。この作品に用いられた俳句は私の耳に残ったのは以下の3つ(他にもあるのかも知れませんが)。表記は「青空文庫」所収のものに従っています。

 さくらさくらさくさくらちるさくら (「行乞記(二)四月十五日)

 骨(こつ)となつてかへつたかサクラさく(佐世保駅凱旋日) (「行乞記(ニ)」三月廿三日)

 流れて水が街にあふるるや春 (「旅日記」昭和十四年五月六日)

プログラムの最後はヘンデルとグルック。バロックや古典のオペラ・セリアが、極度に様式的であるにも関わらず、なにかしら人間の「真実」とでもいったものの表現に至ることがある、というのは、このブログでもあちこちで書いてきたような気がしますが、この2作はさしずめその典型。短いアリアの抜粋ですが、格調高いセリアの世界が味わえました。
アンコールについては何も説明の要は無いでしょう。美しい旋律に、隣に知人がいなければ私、多分泣いたと思います。

最後に蛇足。リサイタルが行われたバロックザールだが、客席の奥行があまりない割に天井がとても高く、何度も通った知人によると音響という点でなかなかプロ泣かせらしい。これだけのたっぱがあるなら2階3階席も作ればいいのにそれもなし。音が上方に散ってしまうかなと心配でしたが、結果は全くの杞憂に終わりました。それもまた、この日の歌手と伴奏の素晴らしさを物語ることであると思います。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2015-11-10 21:43 | 演奏会レビュー | Comments(0)

井上同門定期能 「井筒」 「菊慈童」

ハロウィンで仮装しとる若い連中をみてお嘆きのご同輩も大勢おられることと思いますが、こういう宗教的無節操(寛容というのとは違うけど)のおかげで、この国は大したテロもなく戦争にもならずに70年やってこれたってのはあると思うなぁ。





久々の観能。

 2015年10月31日@京都観世会館
 井上同門定期能

  井筒
   シテ(里女・有常ノ女) 吉田篤史
   ワキ(旅僧) 原大
   間(里人) 茂山正邦

  狂言
  延命袋
   シテ(男) 茂山七五三
   アド(女房) 丸石やすし
   アド(太郎冠者) 茂山童司

  仕舞
  通小町 井上裕久
  花筐 大江又三郎

  菊慈童遊舞之楽
   シテ(慈童) 浦部好弘
   ワキ(勅使) 江崎正左衛門
   ワキツレ(従臣) 和田英基・江崎欽次朗


今回の演目のつながり、「井筒」の井戸の作り物には芒の穂があしらわれ、「菊慈童」はもちろん菊ということで、どちらも秋に相応しいということでしょうか。

まずは「井筒」。
旅の僧が初瀬参りの途中、櫟本(いちのもと)の在原寺で在原業平の墓に回向する一人の女に出会う。女は自分は紀有常の女(むすめ)と名乗り姿を消す。在所の物に尋ねると、幼馴染であった業平と有常の女はやがて夫婦となったといい、伊勢物語に記された筒井筒のエピソードを語る。その夜、供養のために逗留した僧のもとに有常の女の霊が現れ、唐衣の上に業平の衣装をまとい、巻纓冠(けんえいのかん)を着けて舞う。やがて女は井戸を覗き込むと、そこに映る姿を見て夫をなつかしみ、夜明けとともに姿を消す。
中入りでアイの語る物語は伊勢物語の筒井筒段そのものですが、伊勢物語のほうがこの一組の男女について「ゐなかわたらひしける人の子ども」と書かれているのを在原業平と紀有常女に置き換えています。その他は能のテキストも伊勢物語から引いた詩句が多く、テキストに登場する6首の歌、すなわち
 風吹けば沖つ白波たつた山夜半にや君がひとり越ゆらん
 筒井つの井筒にかけしまろがたけ過ぎにけらしな妹見ざるまに
 くらべこし振分髪も肩すぎぬ君ならずして誰があぐべき
 あだなりと 名にこそ立てれ 櫻花 年に稀なる 人も待ちけり
 梓弓 真弓槻弓年を経て 我がせしがごと うるはしみせよ
 月やあらぬ 春や昔の 春ならぬ 我が身ひとつは もとの身にして
はすべてそのままの形で、あるいはすこし形を変えて取り込まれています。お話は分かりやすく、これといって大きな事件もおこらずひたすら優美な舞が続くのだが、終わってみると1時間50分ほど掛かっている。実にこれが長いような短いような、不思議な時間感覚(ところどころ睡魔に襲われて余りえらそうなことは言えませんが)。最後の部分、
(地)亡婦魄霊(ばうふはくれい)に姿はしぼめる花の。色なうて匂。残りて在原の寺の鐘もほのぼのと。明くれば古寺の松風や芭蕉葉(ばせうは)の夢も。破れて覚めにけり夢は破れ明けにけり。
はまさに神韻縹渺として、これこそいわゆる幽玄というものか、と少し分かった風なことを考えた次第。

次いで狂言。
ある男、女房が用あって実家に帰ったのを幸い、暇(いとま)の状(=離縁状)をしたため太郎冠者に持っていかせる。これを見て怒り狂った女房、慌てて夫の下に戻るも男の心は変わらない。女房、近頃都では女を離縁するときは気に入った家財を渡すものだといって、あれがほしいこれもほしいと言う。男もそれで離縁できるなら家財の一つや二つ、なんの惜しいことがあるものか、と思っていると、女は大きな袋を男の頭からすっぽり被せ、むりやり男を引っ張っていく。
お話を字にするとなかなか上手く伝わらないかも知れませんが、これは本当に面白く大笑いできるものでした。特に脇役ながら女房の八つ当たりを恐れて主の指図を断ろうとする太郎冠者と、ヒステリックなようでいて実は知恵ものという女房の人物造形がなかなか素晴らしいものでした。

仕舞は二番。よく分からないながらも、「通小町」のほうが立ち姿がすっと美しい感じがして、最後まで飽きずに見ておりました。それとくらべると「花筐」のほうはもう少し自由というか、だからという訳ではないでしょうが、仕舞の中ほどで何度かシテの台詞が入るのだが一ヶ所間違えて地謡の方から訂正されておりました。

最後に「菊慈童」。
魏の文帝の家臣が、不老長寿の水の流れる酈縣山(れっけんさん)の水上を見てまいれとの命をうけてやってくる。そこは桃源郷さながら菊が咲き乱れ、粗末な庵には周の穆王(ぼくわう)の慈童を名乗る少年が住んでいる。家臣は周と魏では七百年もの開きがあることを訝る。童子はかつて帝の枕を跨いだ咎でこの山中に追放となったが、不憫に思った穆王から偈(げ、経文の詩句)を記した枕を下される。童子が菊の葉にこの偈を書き写すと、そこからこぼれた露が流れとなり、霊水とも美酒ともなって不老長寿の身となったのだという。慈童はひとしきり舞を披露すると、この命を時の帝に捧げて姿を消す。
いったい室町時代の人々にとって周や魏の故事がどれほど身近であったのかよく分かりませんが、この元ネタは太平記の巻十三にあるとのこと。さっそく調べてみると、下記のような記述がありました。
爰に慈童君の恩命に任て、毎朝に一反此文を唱けるが、若忘もやせんずらんと思ければ、側なる菊の下葉に此文を書付けり。其より此菊の葉にをける下露、僅に落て流るゝ谷の水に滴りけるが、其水皆天の霊薬と成る。慈童渇に臨で是を飲に、水の味天の甘露の如にして、恰百味の珍に勝れり。加之天人花を捧て来り、鬼神手を束て奉仕しける間、敢て虎狼悪獣の恐無して、却て換骨羽化の仙人と成る。是のみならず、此谷の流の末を汲で飲ける民三百余家、皆病即消滅して不老不死の上寿を保てり。其後時代推移て、八百余年まで慈童猶少年の貌有て、更に衰老の姿なし。魏の文帝の時、彭祖と名を替て、此術を文帝に授奉る。文帝是を受て菊花の盃を伝へて、万年の寿を被成。今の重陽の宴是也。
重陽の起源をwikipediaで見ると全く違う逸話があって混乱しますが、いずれにしても太平記は当時武士階級の教養の書でもあり、そこに書かれた逸話はそこそこのポピュラリティを得ていたとみてよいのでしょう。
この曲、もともと前段があったらしいのですが、現在の観世流では後段のみとなっているようだ。そのせいで時間的にはコンパクト、追放された経緯もそこそこに舞がはじまります。舞台には菊をあしらった台座に帝から賜った枕が置かれており、童子は舞った後に枕を手にして感慨にふける。遊舞之楽という小書がつくと囃子がより軽快になるとのことだが、太鼓も入っての囃子は軽快というよりもむしろ勇壮な感じ。その割には舞はあまり激しさのないものだが、目にも耳にも十分に面白く感じられました。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2015-11-04 00:22 | 観劇記録 | Comments(0)

ザ・カレッジ・オペラハウス公演 ヴェルディ「ファルスタッフ」

11月1日の午前11時頃、頬とか首にざっくり切られた傷(もちろんハロウィンの仮装)はそのままで、メイクだけばっちり決めたOL風女子が一人で地下鉄に乗ってたのが謎。





ザ・カレッジ・オペラハウスの「ファルスタッフ」公演に行ってきました。

 2015年11月1日@ザ・カレッジ・オペラハウス
 ヴェルディ「ファルスタッフ」
  ファルスタッフ: 田中勉
  フォード: 晴雅彦
  アリーチェ: 松田昌恵
  ナンネッタ: 石橋栄実
  フェントン: 清水徹太郎
  クイックリー: 荒川祐子
  メグ: 並河寿美
  カイウス: 清原邦仁
  バルドルフォ: 小林峻
  ピストラ: 松森治
  指揮: 下野竜也
  合唱: ザ・カレッジ・オペラハウス合唱団
  管弦楽: ザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団
  演出: 岩田達宗


ザ・カレッジ・オペラハウスは昨年ブリテンの「カーリュー・リヴァー」を観て、関西でもこんな上質なオペラが観れるのかと感心したのですが、上演記録を見ると、1989年の杮落し以降、モーツァルトやヴェルディに混じって、ブゾーニの「トゥーランドット」やヘンツェの「若い恋人たちへのエレジー」など、意欲的な作品がずらりと並んでいます。特にブリテンは「カーリュー・リヴァー」以外にも「アルバート・ヘリング」「ねじの回転」「真夏の世の夢」「ピーター・グライムズ」が過去取り上げられており、昨年の名演はこういった蓄積があってこそ、と思います。昨年まで長らく無関心であったことを本当に悔やんでいます。
今回の「ファルスタッフ」は1989年の杮落しで演奏された演目ですが、大阪音大100周年という記念すべき年に合わせて再度取り上げられたもののようです。ピットを使うと650席ほどの比較的小さい劇場で、しかも客席には音大の学生や関係者が多いとはいえ、全席完売というのは立派。
それにしてもなぜ杮落しが「ファルスタッフ」だったのか、経緯を訊いてみたいものですが、あらためてこのオペラを聴くと、本当にヴェルディが最後に行きついた最高傑作、いや、人類がこの400年だか500年だかの間に書いた最も優れた音楽の一つかもしれないとまで思いました。

前置きはさておき、今回の「ファルスタッフ」、本当に楽しい舞台で、観終わって幸せな気持ちになりました。実を言えば、歌手もオーケストラも演出も、ヴェルディが到達した高みには今一つ及ばず、というところもありますが、舞台に漲る熱気と緊張がなんとも快く、多少の粗は全く気になりなせんでした。
指揮の下野竜也のことはこれまでこのブログで、松村禎三の「沈黙」、ライマンの「メデア」「リア王」の指揮について書いてきて、ヴェルディというのが少し意外でしたが素晴らしい演奏であったと思います。いつもながら、小細工を弄せず大掴みに音楽の本質を抉り出すタイプの指揮で、若いころの直情的なヴェルディならいざ知らず、もはやイタリアオペラの概念をはるかに超えてしまった晩年のスコアは彼の指揮のスタイルにうってつけの素材であったというべきでしょう。残念だったのは、ところどころオケが鳴りすぎるところがあったり、フーガで締めくくられる幕切れがちょっととっ散らかった感じになったり、私は長らくジュリーニがロサンゼルス・フィルと組んだスタイリッシュなCDを聴いてきて殊更そう思ったのかも知れませんが、それでも音楽の本質はすこしも損なわれていないと思いました。
歌手ではタイトルロールの田中勉が素晴らしい。歌の巧さだけではどうしようもない役柄ですが、尊大で図々しい中にも人を魅了してやまない愛嬌が感じられます。この人を聴くのは昨年の「鬼娘恋首引」に続いて二回目だと思うが、声も良く演技も出来る得難い人だろうと思います。
純粋に声の美しさで最も酔わせてくれたのはフェントン役の清水徹太郎。第3幕のカヴァティーナはまるでネモリーノのアリアみたいに聴くたびに涙腺が緩んでしまうけれど、あっというまに終わってしまってもったいない位。癖のない美声のテノールで、もう少し陰影のある役ならどう思ったか分からないが、このあんまり物を考えてなさそうなフェントン役はぴったりのはまり役。なんだかあまり褒め言葉になってないみたいだが本当に素晴らしかった。
ナンネッタの石橋栄実はついこの間ロッシーニの「ランスへの旅」でコルテーゼ夫人を歌ってました。気鋭のリリコ・スピントだろうと思いますが、ナンネッタにはちょっと声がきつくてリリコよりスピントが勝ちすぎている感じも。もうちょっとネジの緩そうな歌い方のほうがよさそうですが、これはこれで立派な歌唱。
アリーチェとウィンザーの奥さん連中は無難な感じかな。私にとって理想のアリーチェといえばジュリーニ盤のリッチャレッリ、ということで、比較するつもりはないがちょっと評価が辛めになってしまうのかも。でも至難なアンサンブルを皆さん実に楽しそうに歌っていたことは特筆に値すると思う。
フォード役の晴雅彦は、以前びわ湖の「死の都」のフリッツ役で辛めの評を書きましたが、今回は立派な歌唱。第2幕の長いモノローグも大変良かったと思います。だけどこの役にはもっと上の表現があるような気がします。楽しい喜劇の中にちらっと覗く深淵のようなもの。ものすごく無いものねだりだというのはよく分かっているつもりですが・・・。
その他脇役の清原邦仁(カイウス)、小林峻(バルドルフォ)、松森治(ピストラ)、十派ひとからげに脇役というのが失礼に思われるほど気合が入っていて存在感がありました。存在感といえば黙役の山川大樹(ガーター亭の主)と森本絢子(小姓ロビン)の存在感も大したもの。合唱も含め、スタッフやキャストの熱い一体感がこちらに伝わるのはこういった公演の最大の愉しみかも知れません。

岩田達宗の読み替えの要素の一切ない演出は安心感が取り柄といった類ですが、ちょっとした仕草や小芝居の部分で笑わせる要素が散りばめられていて好感を持ちました。また、まるで「北斗の拳」に出てきそうなモヒカンのバルドルフォにスキンヘッド&隻眼のピストラ、「おそ松くん」のイヤミ氏そのまんまのカイウスなど、漫画的表現もやりすぎ感がなくていい感じ。いささか学芸会めいたガーター亭の大道具、それが回り舞台になっていてスタッフが人力で押すと今度はやや金のかかってそうなウィンザーの広場のセット、でもそのあとのフォード亭も森の場面もこのセットを使い回し。今回はこれで充分です。手作り感満載の舞台で大いに結構。それよりも、演出家がプログラムに書いている小文になんどもファルスタッフのことを「ゴミ」と書いていて、そうかなぁと若干疑問。むしろごみ溜めのようなガーター亭の上にもウィンザーの中流階級の街並み同様に十字架が見えることのほうがミソだと思われます。誰も傷つかず最後はみんなで仲良くフーガを歌って終わる喜劇に、これ以上の何のメッセージが必要だろうかと思います。

最後にすこし余談めいたことを。
プログラムの冊子のなかで芝池昌美氏が、「《ファルスタッフ》ではしばしばパロディが用いられていること、しかもその多くがヴェルディ自身の過去の作品からのものである(後略)」と書かれており、その一例として第2幕のフォードのモノローグを、「オテロ」第2幕の”Ora e per sempre addio”のパロディであると書いておられます。こんなことを書かれると「ほんまかいな?」とつい他の例を探したくなるのですが、今はそのヒマも気力もないので、代わりにちょっと思いついたことを書いておきます。
このフォードのモノローグ、「オテロ」のパロディ云々はちょっと置いておくとして、先ほども少し書いた通り、喜劇の中に突如現れる特異と言ってもよい悲劇的な音楽。その中にすごく特徴的で耳に残るホルンの音型が出てきます(譜例1)。

譜例1
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このホルン2声(実際には4本で吹いているのだが)の旋律、すこし前にフォードが「(妻を寝取られた男の頭に生えるという)2本の角が自分にもはえてきた」云々と歌うのを受けて、2声のCorno(ホルン=角)の旋律を持ってきたのだろうと思いますが、この部分を聴きながらふと「ドン・カルロ」第4幕のフィリッポのアリアによく似た音型が出てくる(こちらもホルン4本)のを思い出しました(譜例2)。

譜例2
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音型がすこし違うので自己引用とは呼べないかも知れませんが、耳で聴いた感じがとてもよく似ているのは確かかなと思います。いややはり音の上下をすこし入れ替えたら一緒のような気もする。少なくとも愛するエリザベッタをカルロに奪われたフィリッポの悲しみを、ヴェルディがふと思い出したとしても何の不思議もないでしょう。「ファルスタッフ」のスコアはいつか仔細に調べてみたい気がしますね。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2015-11-03 01:29 | 演奏会レビュー | Comments(0)