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シュトックハウゼン 「シュティムング」公演

もう30年近く前の話。会社の独身寮でヴィシュネグラツキーの微分音を使った音楽を聴いていたら、クラシックには全く興味のない同僚Uが部屋に来て「なにこれ?」と言いながらしばらく耳を傾けていた。するとUの顔色が次第に悪くなって、「吐きそう・・・」。「まじ?」と尋ねると「・・・まじっす・・・」というので慌てて中止。ヴィシュネグラツキー恐るべし。っていうか、この同僚、音楽の素養とかはまるで無いのだが耳は確かだったと思う。





先週のツィンマーマンに続いてまたまたサントリーホール詣。

 2015年8月29日@サントリーホール(ブルーローズ)
 シュトックハウゼン 「シュティムング」(1968パリ版)
  音楽監督:ユーリア・ミハーイ
  ソプラノ:工藤あかね、ユーリア・ミハーイ
  アルト:太田真紀
  テノール:金沢青児、山枡信明
  バス:松平 敬
  音響:有馬純寿


23日にツィンマーマンを聴いたおかげで、その後音楽を聴く気がしなくなるという後遺症を発症していたのですが、シュトックハウゼンの「シュティムング」のおかげで随分快復できたような気がします。
今こうして少し気が抜けた状態で感想を綴ろうとしていると、まさに祭りの後といった気分だけれど、音楽の力をまざまざと、またしみじみと感じた一週間であったと思います。

今回の公演はブルーローズという小さなホールでしたが、それにしたってこの演目で満員御礼というのには驚きます。私は開演の一時間前には会場に着いたのですが、わずかな当日券を求めて長い列が出来ていたことにも驚きました。この盛況の拠って来たる所については、客層の若さとあわせて、後段でもうすこし考察します。
さて、会場に入ると、真ん中にしつらえられた高さ1mほどの四角い祭壇のような舞台(6段ほどの階段で登るようになっている)の四方を客席が取り囲むようなかたち。舞台の上には6人分のクッションとスコアが円陣に並べられています。定刻を少し過ぎた静寂の中、6人の歌手が赤、黄、青、黒、白、ピンクとそれぞれ思い思いのブラウスやシャツに裸足で静かに現れ、舞台をゆっくりと一周して登壇、胡坐をかいて座る。演奏の後は長い長い沈黙と静寂。6人が互いに一礼し、立ち上がったところでようやく拍手が沸き起こる。
こういったことは、1972年にシュトックハウゼンが作曲した「私は空を散歩する・・・」と同様、シアターピースというほどではないにしても、儀式的あるいは呪術的な所作が指定されていて、CDで音だけ聴いているだけでは絶対に分からない。まぁこれは60年代後半の、ビートルズにおけるマハリシ・マヘシ・ヨギ体験みたいなもの、あるいはもっと漠然と当時のヒッピー文化の影響と考えればよいのだろう。あるいはもしかしたら日本の武道の「礼に始まり礼に終わる」みたいなものなのかも知れない。

音楽全体の殆どがB(B♭)とその倍音(F-D-As(A♭)-C)から成り立っていて、シュトックハウゼンの中でもその響きの清澄さは特異なものだと思います。素材は実に簡潔だが、そこから70分にわたって繰り広げられる音楽は、ホーミーのような倍音唱法であるとか、さまざまな母音を種々のリズムとテンポ、6人のさまざまな組み合わせで歌ったり、あるいは息を吸ったり吐いたりをマイクロフォンで増幅したりと、少しも退屈することがありません。また世界の神々の名前や曜日の名前、エロい内容の詩の朗読など、やりようによって幾らでも神秘的にできそうなところを敢えて俗っぽく聴かせ、また実際にはきわめて精緻に書かれているのにものすごくいい加減に聞こえるというのが、いかにもシュトックハウゼンらしいと思いました(これは以前に大井浩明の演奏で「自然の持続時間」を聴いたときにも感じたこと)。しかしこの俗っぽさ、いい加減さこそ、ツィンマーマンの毒に中てられた精神にはなによりの癒しとなったようにも思えます。

6人の演奏は本当に見事だったと思います。ほぼ1ヶ月に亘って、たった一日の公演のために明けてもくれてもシュティムングの練習をするという合宿のような日々を送ってきたそうだ。もうこれだけの演奏を聞かせてもらえば文句のつけようがないのだが、それでも欲を言えば本当はもっと高いレベルのパフォーマンスがあり得るという気がする。たとえばCDに聴くコレギウム・ヴォカーレ・ケルンの、6人の声がもっと緊密に絡み合って、聴いていて危うくトランス状態になりそうな高いレベルには若干届かなかったような気がします。そのなかではやはりこの作品を何度も歌ってきたユーリア・ミハーイが頭一つ抜けていたと思いますが、エロい詩の最中に流し目で舌を激しく動かしたりと、かなりヤバいなと思いました(笑)。

それにしても、ツィンマーマンの時もそうだったのですが、客層がけっこう若くて、普段のクラシックコンサートとは様相がかなり違う(ツイッターの件数が多いのもそのせい)。前回、そのことに対して、「大げさにいえば未来へのかすかな希望を感じた」と手放しで喜んでいたわけだが、よくよく考えるとツィンマーマンとシュトックハウゼンだからここまでの盛況だった訳で、これがハリソン・バートウィッスルやジェルジ・クルタークやジェラール・グリゼーだったらこうはいかなかっただろうという気がします。もちろんブーレーズやルイジ・ノーノなんかでもそうだろう。いや、ツィンマーマンやシュトックハウゼンにしたって、実のところここまで、すなわち膨大なツイートがtogetterでまとめられるといった事態が現れるなど想像もしていなかった訳ですが、ではツィンマーマンとシュトックハウゼンの共通点はなにか、あるいは彼らと先に挙げたバートウィッスル以下の人達との違いはなにか、といえばこれは難問。別の問いとして、プロモーション次第で若い客層を掴めそうな人ならスティーヴ・ライヒとかモートン・フェルドマンとか、あるいはもっと大御所でケージやクセナキスなんかも挙げられるだろう。誰かのツイートにも似たようなコメントがあったのだけれど、要は保守本流(あくまでも現代音楽における、という意味だが)を少し外しているあたりが人気の核心なのでしょう。保守本流の定義というのも難しいのですが、仮にブーレーズが振りそうな現代音楽が保守本流だとすると、(ツィンマーマンは微妙だけど)彼が間違っても振りそうにない音楽が突如間歇的に人気がでて「祭り」状態になる、ということは何となく言えそう。これって日本だけの現象なのか欧米でもそうなのか、とか考え始めるとキリがないのだが、実に興味深い現象ではあります。

それはともかく、今回の「祭り」でよく分かったことは、東京であればプロモーション次第でシュトックハウゼンの「リヒト」全曲上演が可能なのではないか、という感触というか希望を得たこと(残念ながら他の都市では考えられない)。もう既に誰か動いていると思うけれど、何年か先にきっと実現するという気がします。その時はたぶんお台場あたりでヘリコプター四重奏曲の演奏をするのかな。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2015-08-31 22:51 | 演奏会レビュー | Comments(0)

シュトックハウゼン「シュティムング」に関する二、三の事柄

【スタッフ急募】
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年齢容姿経験不問カリカリ支給賞与有(ツナ缶)
㈲谷中ニャンズスタッフサービス
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こんなブログでも何かしら役に立っているみたいで、先日のツィンマーマンのレクイエム公演に関するツイッターを見ていると、作品の予習に使っていただいた方が何人かおられたようでした。
ならば同じくサントリーサマーフェスティバルの目玉のひとつ、明日のシュトックハウゼン「シュティムング」公演に際し、下記のネット文献を紹介しておこう。Stockhausen Verlagから出ている2枚組CD(Stockhausen Edition no. 12)の解説文と同内容のもので、おそらく日本語で読めるもので最も詳細なものだと思います。未読の方は是非目を通していただきたい。

http://www001.upp.so-net.ne.jp/kst-info/linerNotes/CD12/Stimmung.html

残念ながら譜例が省略されているので、その驚くほど精緻に書かれた譜面が如何なるものか、なかなか想像もつかないかも知れません。これは先ほど紹介したCDの分厚いリーフレットに何葉も収録されていて大変参考になります。必要最小限の記号だけで演奏者の直観あるいは即興に多くを委ねるタイプの作品とは全く異なり、かなりびっしりと書き込まれている感じです。
できれば公演前にCDの詳細な感想など書きたかったのだが時間がありません。またの機会にしたいと思いますが、ほんの少しだけ。全部で51のセクションのうち第19セクション。ヒナ=ア=テュアテュア=ア=カカイというハワイの神様の名前を唱えるところ、どうしても笑ってしまう。カイカイカイカイ・・・・と猛烈なスピードで発語されると関西人の耳には痒い痒い痒い・・・と聞こえてしまうので、ちょっとこれはなんぎやなぁと(笑)。もっともここで笑うのはちっとも不謹慎じゃなくて、作曲者も草葉の蔭だかシリウス星だかできっと許して下さるだろうという気がします。昨年の「歴年」の寒いギャグとか、シュティムング後半に出てくるエロい詩の朗読とか、これらは作曲家のサービス精神の発露なのか、それとも日本でいうところのオヤジギャグなのか謎ですが、笑ったり「寒っ!」とつぶやいたりはアリだと思うのだが。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2015-08-28 23:37 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

ツィンマーマン 「ある若き詩人のためのレクイエム」日本初演を聴く

谷中で営業中のスタッフ。
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この数ヶ月、早くこの日が来ないかなと心待ちにしていた日がついに終わってしまいました。あれだけギーレン盤で予習していたというのに、実際生で聴いた衝撃というのは喩え様もなく凄まじいものでした。

 2015年8月23日@サントリーホール(大ホール)
 B.A.ツィンマーマン「ある若き詩人のためのレクイエム」
  指揮:大野和士
  ナレーター:長谷川初範、塩田泰久
  ソプラノ:森川栄子
  バリトン:大沼 徹
  合唱:新国立劇場合唱団(合唱指揮:冨平恭平)
  管弦楽:東京都交響楽団
  大石将紀、西本 淳(サクソフォン)、堀 雅貴(マンドリン)、大田智美(アコーディオン)、
  長尾洋史、秋山友貴(ピアノ)、大木麻理(オルガン)
  ジャズ・コンボ:スガダイロー・クインテット
   スガダイロー(ピアノ)、吉田隆一(サクソフォン)、類家心平(トランペット)、
   東保 光(ベース)、服部マサツグ(ドラム)
  エレクトロニクス:有馬純寿


あれから2日が経過したというのに、まだまだ衝撃が冷めやらぬといったところ。いつものように、音楽的な聴きどころ→演奏評→その他、といった手順でまとまった小文を書くということ自体、今の段階では不可能に思われます。なにかそれは、巨大な経験が一編の感想文に矮小化されてしまうような気がするから。
ツィンマーマンやレクイエムでツイッターをリアルタイム検索すると、おびただしい数のツイートが現れます。そういえば今回のサントリーホールの客席の主役はなんといっても若者。普段の、こちらの生気まで吸い取られそうな年寄り達がメインの客層とは随分違う。私もツイッターをやらない中年だが、今回ばかりは断片的なツイート風の記述をもって備忘に代えることにしたいと思う。
*
コンサートという形態でこんな体験をしてしまうと、もう今後2年や3年はコンサートに行かなくてもいい、というか、行きたくないと思ってしまう。もちろん極論だし、一時の気の迷いだし、明日にはしれっと別のコンサートに行くかもしれないけれど、今のこの気持ちに偽りはない。だって、1969年作と少々日は経過したが、まだまだ紛れもなくコンテンポラリーな音楽でこれほど感動するというのに、100年も200年も前のクラシック音楽なんて聞いてもつまんないじゃないか。
*
ギーレンのCDを聴いていたときは、最後のドナ・ノービス・パーチェム(我らに平和を与え給え)の叫びがなんとも救いがないように聞こえるなぁと思っていた。実際はそんな生易しいものでなくて、世の中にこれほどの絶望の叫びがあるだろうか、と思わせられるものだった。震撼させられるとはまさにこのこと。
*
開演に先立って長木誠司さんと大野和士さんのプレトークがあったが、そのなかで、ドナ・ノービス・パーチェムの主題が(すぐにヘイ・ジュードの引用でかき消されてしまうが)ワーグナー「神々の黄昏」の愛の救済の動機だという指摘があった。CD聴いてるだけでもなんと悲痛な、と思っていた箇所だが、それが「愛の救済の動機」から来ているとは。なんだかやりきれない。
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ドナ・ノービス・パーチェムの後半の金管の咆哮に、そういえばなんどもこの愛の救済の音型が出てくる。耐え難いほどゆがめられた姿で。そしてその救済への願いはいっさい叶うことなく、対空砲とデモの騒音に流れ込んでいく。
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できればこのブログでは政治のことなど語りたくないと思ってきたが、今回ばかりはそうもいくまい。この巨大なレクイエムを体験しながら、ガザ地区の人々、シリアの人々、ウイグルやチベットの人々のことに思いを馳せないわけにはいかない。ドナ・ノービス・パーチェムとは実にアクチュアルな叫びであって、作曲家の自死後45年経った今、むしろ困難は増大している。
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このコンサートで得た唯一の希望は、これほど前衛的な演目であるにもかかわらずほぼ満員御礼であったらしいということ、そしてなによりその大半が若い人たちであったことだ。いくら客席の一部を合唱団やサウンド・エンジニアリングのために潰していたとは云えこの盛況は驚異的だし、それは単にサントリー芸術財団のプロモーションが巧みであったという理由だけでは説明がつかないと思う。その真の理由は知る由もないが、なんとなく私は彼ら若い人たちをみて、大げさにいえば未来へのかすかな希望を感じたというのは事実だ。普段は政治的に保守寄りの中年男として、若い世代の浅はかな政治参加に鼻白む思いをしたりするくせに、だ。
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プロローグが終わってレクイエムⅠが始まるところと、レクイエムⅡの冒頭、そして最後の「我らに平和を与え給え」の叫び。新国立劇場合唱団の輝かしい成果の中でもこの日のパフォーマンスは図抜けていたと思う。普通に考えて、この作品でもっとも困難を極めるのは合唱のパートに違いない。合唱を指揮した冨平恭平氏が拍手にこたえて舞台に上がったときの、いつも初台でみるのとは全く違ったある種の昂揚感、泣きそうになるのを我慢しているようなすこし強張った表情が忘れられない。
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全体の中では地味な役回りだが、ソプラノとバリトンのソロは本当に素晴らしい。開いた口がふさがらないといったところ。とくに森川栄子の歌唱は凄まじい。私はかれこれ17年も前の1998年に彼女の歌い、演じるリゲティの「死者の謎」や「アヴァンチュール」「ヌーヴェル・アヴァンチュール」を聴いているから、前衛音楽の大ベテランといってよいのだろう。
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音響の有馬さんもすばらしい仕事をされていた。ギーレン盤を聴いてきたものとしては、ドナ・ノービス・パーチェムの後半、もうすこし混沌と明晰さとの折り合いの附け方があるような気もしたが。だがそれも、例の愛の救済の動機がはっきりと聞こえるのを聴けば小さな不満でしかない。
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スガダイロー・クインテットがアンコールに応えて繰り広げたジャズ演奏にはいろんな意見もあるみたいだが、あれがあったから途中で変な気もおこさず無事家に帰れたという人がいてもおかしくない。だがそれよりもっと重要なことは、ツィンマーマンが作品の最後に書き記した絶望の叫びは、あの明るいジャズの一節ごときではびくともしないということ。
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あの、全部読まれることを端から想定していない膨大な日本語字幕は、今回の公演の成功のおおきな要素だと思う。ジョイスのユリシーズ(ペネロペイア)の訳がすごいスピードで縦書きのニコ動みたいに出てきた瞬間にそのことを確信した。でも、フィネガンズ・ウェイクの引用部分がどんなだったか見落としたことがとても残念。
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鳴り止まない拍手に応えて何度も舞台に出てきた大野和士だが、最後の最後に、黄色い表紙のショット社の巨大スコアを、これこそ今日の主役だといわんばかりに誇らしく掲げた。本当に指揮者冥利に尽きるといった思いだろうと思う。そういえば数年前に彼が「トリスタンとイゾルデ」を振り(新国立劇場)、「ユビュ王の晩餐の音楽」を振ったとき(新日本フィル定期)から、この日のことは想定していたのに違いない。
*
最後にもう一度悪態をつくが、こんな体験をしてしまうと、陰気くさいホールで年寄りの咳払いや飴の包み紙を剥く音に耐えながら、古典やロマン派のシンフォニーを聴き、誰それの演奏にくらべてここがどうしたあそこがどうこう、などといったディスクールを垂れ流す行為が本当に愚劣なものに思えてしまう。そろそろ目を覚まして日常に戻らなければならないのだけれど。
*
翌24日は休暇を取っていたので別の用事で上京していた家人と靖国神社を参拝、久しぶりに遊就館を見学した。しかし前日の公演で心が感じやすくなっていたのか、特攻隊員達のおびただしい遺書や遺影をまともに見ることが出来ない。今回のツィンマーマン体験の後遺症はずいぶん長引きそうな予感がする。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2015-08-25 23:22 | 演奏会レビュー | Comments(0)

B.A.ツィンマーマン 「ある若き詩人のためのレクイエム」を聴く(続)

お弁当おかずの甘酢味のミートボールが苦手。でも肉球は好きですよ。




いよいよ今週末に迫ったツィンマーマン「ある若き詩人のためのレクイエム」日本初演。こんなマイナーなブログですが、この数日、5月8日にアップした本作品の紹介記事のアクセスが物凄く上昇していて、なんとなく世間が盛り上がってきてるように思う。というのは錯覚で(笑)、実際は極めてマニアックな数十人だか数百人だかの世界の話なんでしょうが、ブログ主としてはこういったささやかな反応が地味に嬉しかったりするわけです。
ところで、この5月の記事の最後に、続編があるように書いてそのまま放置してしまいました。久しぶりに読み返してみて、なんとなく収まりがつかないので蛇足と承知の上で、自分の予習を兼ねて本作で引用されているテキストと音楽を列挙しておきます。

「レクイエム」の全曲は、
プロローグ
レクイエムⅠ
レクイエムⅡ
ドナ・ノービス・パーチェム
の各部分から成り、続けて演奏されます。
プロローグでは合唱がMissa pro fundesを歌うが、オーケストラは極めて禁欲的な書き方。4トラックのテープ録音で、次のようなテキストが読み上げられる。
 ・ヴィトゲンシュタイン『哲学探究』Philosophische Untersuchungen(ドイツ語)
 ・ローマ教皇ヨハネ23世 1962年第2バチカン公会議での演説(ラテン語)
 ・ジョイス『ユリシーズ』より モリー・ブルームのモノローグ(英語)
 ・アレクサンデル・ドゥプチェクのチェコ人民への言葉(1968年8月27日の歴史的録音)(チェコ語)

開始後13分ほどの間に現れるこれら4つのテキストの選択というのが作品全体のカラーを支配しているといえそうですが、この「レクイエム」を聴くという行為は、ある意味聴き手の残りの人生で、これらのテキストを咀嚼し、反芻することが求められているような気がします。これは大変な重荷を背負うということ。いや別に背負わなくてもいいようなものだが、それではそもそもこの作品を聴く意味が、というか聞く必要がないという気もします。

「レクイエムⅠ」冒頭で、オルガン、金管の咆哮と共にRequiemと一声力強く歌われたのちは、再びテープ録音と語り手の朗読が続く。テキスト及び引用作品は下記の通り。

テープ
 ・ゲオルギオス・アンドレアス・パパンドレウ 1967年の議会演説(ギリシャ語) 
 ・アイスキュロス『プロメテウス』『ペルシャ人』(古代ギリシャ語)
 ・マヤコフスキー『声をかぎりに』『セルゲイ・エセーニン追悼』(ロシア語およびドイツ語)
 ・シャーンドル・ヴェレシュ『太鼓と踊り』(ハンガリー語)
 ・旧約聖書より『伝道書(コヘレトの言葉)』(ラテン語)
 ・ミヨー「世界の創造」
 ・イムレ・ナジのハンガリー動乱の際の演説(1956年10月31日)(ハンガリー語)
 ・ジョイス『フィネガンズ・ウェイク』(英語)
 ・ワーグナー「トリスタンとイゾルデ」より イゾルデの愛の死
 ・メシアン「キリストの昇天」
 ・クルト・シュヴィッタース『アンナ・ブルーメに』(ドイツ語)
 ・ヒットラーの演説(1939年3月16日)(ドイツ語)
 ・ネヴィル・チェンバレンの演説(1938年)(英語)
 ・エズラ・パウンド『ピサの歌』よりCanto LXXIX』(英語)
 ・アルベール・カミュ『カリギュラ』(フランス語)
 ・ドゥブチェクの演説(1968)(チェコ語)
 ・1939年3月チェコ併合を伝えるドイツのラジオ放送(ドイツ語)
 ・ドイツ連邦共和国基本法(ドイツ語)
 ・毛沢東語録(ドイツ語)
 ・ツィンマーマン「1楽章の交響曲」
 ・コンラート・バイヤー『第六感』(ドイツ語)
 ・ザ・ビートルズ「ヘイ・ジュード」
 ・ハンス・ヘニ・ヤーン『グスタフ・アニアス・ホルンの手記』

語り手
 ・ドイツ連邦共和国基本法(ドイツ語)
 ・毛沢東語録(ドイツ語)

ここまで、オーケストラのトゥッティは殆どなく、禁欲的な音楽がひたすら続きます。また、語り手の朗読するテキストはドイツ基本法と毛語録だけで、あとは8トラックのテープで構成されています。コンラート・バイヤーの朗読のところから「レクイエムⅡ」。ここは4トラック4人の語り手によるテープが少しずつずらされてカノンのようになっていますが、BAZはこれをリチェルカールと題しています。この後ビートルズの引用、ジャズ・コンボの生演奏が続きます。

ここまでで約40分経過。続いてRappresentazioneという部分に入ってようやくソプラノとバリトン歌手の出番が来ます。テキストは先ほど挙げたエズラ・パウンド『ピサの歌』Canto LXXIXの英語とドイツ語によるテキスト。続いてElegiaという短い部分で、ソプラノがシャーンドル・ヴェレシュ『太鼓と踊り』(ハンガリー語)を歌う。続いてTrattoというオーケストラの短い間奏。
「レクイエムⅡ」の最後はLamentoと題されており、合唱はキリエ・エレイソンの他にシラーの歓喜の歌(ただしベートーヴェンの音楽はここではまだ現れない)をテキストにしています。ソプラノとバリトンと語り手がマヤコフスキーの『セルゲイ・エセーニン追悼』のドイツ語訳とラテン語の典礼文を歌い、語って終わります。

最後は悲痛な「ドナ・ノービス・パーチェム(我らに平和を与え給え)」。
合唱、ベートーヴェンの第九の終楽章の引用に続いてビートルズの「ヘイ・ジュード」。ソプラノとバリトンによるヨハネの黙示録によるソロ。続いてオーケストラがようやくフルに展開される。合唱の痛切さと激烈を極める管弦楽の爆発に言葉を失うほど。
その間、
 ・ヨアヒム・フォン・リッベントロップ 1941年対ソ宣戦の言葉(ドイツ語)
 ・ヨーゼフ・ゲッベルス 1943年2月18日ベルリン・スポーツ宮殿における総力戦布告演説(ドイツ語)
 ・スターリン 1941年7月3日ラジオでの演説(ロシア語)
 ・チャーチル BBC録音(英語)
 ・ローラント・フライスラー 1944年7月20日ナチス人民法廷での演説(英語)
 ・オットー・エルンスト・レーマー 1944年7月20日ヒトラー暗殺未遂に係る人民法廷での証言(ドイツ語)

これらのヒストリカルな録音が4トラックのテープで激しく入れ代わり立ち代わり現れるが、対空砲の音やさまざまなデモ隊の叫び声などにかき消されていく。一旦フェイドアウトしたのち、コンラート・バイヤー『第六感』(ドイツ語)の朗読、最後に合唱のDO,NA,NO,BIS,PA,CEMの叫び。

・・・とここまで書いて、ちょっと調べてみたらサントリー・サマーフェスティバルのHPにテキストを整理したチャートが出てる(苦笑)。

http://www.suntory.co.jp/sfa/music/summer/2015/layout.html

ま、いいや。こんなマイナーなへっぽこブログにこの数日異様なアクセスがあるのも、BAZに関する日本語のテキストがこれまで如何に少なかったかということの証左でしょうから、どんな形であれ、この機会に一気に日本語のBAZアーカイヴが充実することは良いことだと思います。
というわけで、ツイッターなんかも含めるとこのひと月ほどの間に随分と増えた日本語のディスクールだが、個人的に面白かったのは吉松隆さんのものでした(ここでサージェント・ペパーやピンク・フロイドが出てくるとは思わなんだ、という意味で)。

http://yoshim.cocolog-nifty.com/tapio/2015/08/post-143c.html

サントリーさんのHPで抜けているのはこれらのテキストが何語かということ。以上みてきたとおり、古代ギリシャ語やラテン語、あるいはジョイスの異常な言語を含む様々な言語で成り立っており、これを耳で聴いてすべて理解できる人は皆無だろうし、また種々のサウンド・エフェクトの所為でそもそも聞き取れるように書かれている訳でもない。我々のこの作品への真の理解というのは先ほども書いた通り、コンサートを聴いたときだけでなく、その後の聴き手の一生を掛けるべきものだと言わざるを得ません。私自身が心底額面通りそう思っているかと言えば怪しいものだし、万人の共感を得るとも思わないけれど、BAZ自身は間違いなくそう思っていたのではないか、という気がして仕方ありません。何の根拠もないが、彼の自殺の理由も、このテキスト地獄とどこか関係のあるような気がします。

演奏に関してはただただその真摯な取り組みに頭を下げるのみ。うまいだの下手だの言うも愚かという気がしますが、WERGOの録音によくあるように、解像度はそこそこあるが音像がこぢんまりとまとまって、やや箱庭風に聞こえるのは指揮者ギーレンの資質とは少しちがうのかな、といった感想を持ちました。だからといってこの音源の歴史的な意義の大きさというものがいささかも傷つくわけでないのは言うまでもありません。ついでながら、これから音源を求めようという方にこっそり申し上げますが、このギーレン盤、日本のamazonだと物凄く高価ですが、amazonUKだと送料込でも数分の一のお値段で買えます。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2015-08-19 23:27 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

観世青年研究能公演 「半蔀」 「舎利」

先日、某国大使館主催のパーティーで中野良子さんを目撃。でも一瞬白石加代子かと思ったでござる。





世の中には驚くほど多趣味な人というのもいますが、私はどちらかといえば狭く深くのタイプなのか、あれもこれもというのが苦手。一昨年単身生活を終えたのを機にピアノを再開し、特にこの数ヶ月それなりに時間を割いていたところブログの更新が目に見えて減ってしまいました。最近はCDも殆ど聴いてなくて、youtubeで次何を弾こうかな、とあれこれ齧りながら物色の日々。ま、たぶん今しか出来ないこともあるので一向に構わないのですが・・・。

さて一か月ぶりの観能。今回は「半蔀」と「舎利」。その取り合わせの理由を考えてもよく分かりません。相互の関連はあんまりなさそうです。

 2015年8月9日@京都観世会館
 観世青年研究能

 半蔀
  シテ(里女・夕顔女)  河村和貴
  ワキ(僧)  岡充
  間(所の者)  松本薫

 狂言
 柿山伏
  シテ(山伏)  島田洋海
  アド(畑主)  松本薫

 仕舞
 賀茂  大江広祐
 女郎花  林宗一郎

 舎利
  シテ(里人・足疾鬼)  樹下千慧
  ワキ(旅僧)  有松遼一
  ツレ(韋駄天)  河村和晃
  間(能力)  山下守之


まずは「半蔀(はじとみ)」。
紫野雲林院の僧が立花供養をしようとしていると一人の女が現れ、夕顔の花を手向けて姿を消す。里の者から、源氏と情を通じた夕顔が六条御息所の生霊に取り殺されたという話を聞いた僧は、女の供養のために夕顔の住いのあった五条辺りに赴く。そこに夕顔の霊が現れ、舞を舞った後、半蔀の内に消え去る。
私が以前観た「夕顔」とほとんど同工異曲ですが、いくつか違いもあります。女の語りが中心となる「夕顔」は、源氏物語に取材した怪異譚の趣があって、演劇として上手くまとまっている感じがするのに対し、「半蔀」の方は「草木国土悉皆成仏」こそが中心的なテーマであって、あくまでも主役は地味で儚い夕顔の花そのもの、源氏とのエピソードはやや取ってつけた感じがしました。こんなことを書いたのも、「半蔀」で舞っているのは誰なのか、もともと人間としての肉体を持っていた夕顔と呼ばれる女なのか、夕顔の名の謂れとなった軒先の花の精なのか、という事を考えていたからなのですが、結論としては仮に人間の形をとった花の精であると考えるのが妥当でしょう。
後段の舞は「夕顔」と同じく、悠揚迫らざるイロエで、ちょっと長く感じました。私の素養の無さなのかも知れませんが、以前「葛城」を観たとき中入り後の舞を本当に美しいと感じたこともあるので、どうしても「本当はもっと凄いのではないか」と疑ってしまうのです。これは演者を貶しているのではなくて、演者にとって芸の完成というものが無いのと同様に、観る者にとっても今自分が観ているものは本来もっと優れたものなのではないか、それを知る者を見巧者というのではないか、という自問をすべきだと思うから。もっともこれは、一生掛けて解決できるかどうか、といった問題なのかも知れません。

狂言は「柿山伏」。お話は以前にも書いたので省略。狂言においては当たり前のことなのでしょうが、以前観たときと台詞や所作の細かいところがかなり異なるように思いました。山伏役の島田洋海は演技がやや生硬な感じがしましたが、山伏が柿の木を飛び降りてから追い込みまでは今回の方がより分かりやすく可笑しいものでした。

仕舞は「賀茂」「女郎花」の二番。相変わらず仕舞のことはよく判りませんが、「賀茂」は以前に能として観ているので幾分馴染みがあるような気がしました。

最後は「舎利」。
出雲国美保の関の僧が上洛し、泉涌寺(せんにゅじ)に収められた仏舎利をありがたく拝んでいると、一人の里人が現れる。僧が「仏舎利を拝まん為ならば。同じ心ぞ我も旅人。」と里人を招き入れると、里人は鬼の形相となり舎利を収めた厨子を奪い去る。僧は寺男より、釈迦入滅の折り、足疾鬼(そくしっき)が仏の歯を抜いて持ち去ろうとしたところ、韋駄天が現れて取り返したという話を聞く。僧が祈ると、舎利容器を手にした足疾鬼と韋駄天が現れ、激しく戦ったのち足疾鬼は力尽き、韋駄天は舎利を取り戻す。
こちらは派手な二人舞のスペクタクルな愉しみがすべてであって、物語は完全にダシにされている感じがします。だがこれも大切な能の愉しみ。どんなに荒唐無稽であっても面白いものは面白い。
舞台の上には上面に緋毛氈、側面に金糸の紋縁をあしらった台座が置かれ、舎利殿に見立てる。その上に厨子。厨子の頂部には火焔宝珠型の舎利容器。面のことは私はよく判りませんが、前シテは黒頭に怪士(あやかし)、後シテは赤頭に顰(しかみ)でしょうか。韋駄天は天神の面というのが決まりごとのようです。囃子の激しさはこれまで観てきた切能の中でも抜きんでています。以前「翁」の囃子をクセナキスの「アイス」Aïsに譬えたことがあったが、こちらはさしずめ「プサッファ」Psapphaだろうか。音楽劇としてみても実に面白いものでした。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2015-08-13 00:19 | 観劇記録 | Comments(0)