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片山定期能 「江口」 「野守」

さるアマチュアの室内楽グループに参加した時のこと。当日の演目が黒板にチョークで書いてあって、遠目に見るとハイドンやモーツァルトに並んで「ポケモン大王」と書いてある。ん?と思って近寄ると、「ボワモルティエ 2つのチェロのためのソナタ」と書いてありました。空目にしても酷い。





ごくゆっくりしたペースで観てきた能も、なんだかんだで10回目。身近に感想を語り合う人もおらず、なかなか観方が深まっていかないきらいはあるのですが、相変わらず素人目で感想を綴っていきます。

 2015年7月11日@京都観世会館
 片山定期能

 江口  
  シテ(里の女・江口君の霊)  古橋正邦
  後ツレ(遊女の霊)  橋本忠樹・片山伸吾
  ワキ(旅僧)  福王知登
  ワキツレ(従僧)  中村宜成・喜多雅人
  アイ(江口の里人)  野村又三郎

 仕舞
 春日龍神  武田大志
 蝉丸  橋本礒道
 邯鄲アト  大江信行
 天鼓  清沢一政

 狂言
 鏡男
  シテ(松ノ山家の男)  野村又三郎
  アド(道具屋の亭主)  松田高義
  アド(妻)  野口隆行

 仕舞
 大江山  林喜右衛門
 女郎花(おみなめし)  片山九郎右衛門

 野守黒頭  
  シテ(尉・鬼神)  河村博重
  ワキ(山伏)  江崎欽次朗
  アイ(春日野の里人)  野口隆行
  (ワキツレ2人番組に記載なし)


まずは「江口」。
天王寺に参ろうとする旅の僧の一行が江口の里にやってくる。そこで、昔西行法師が一夜の宿を求めて断られたという故事を語っていると、里の女が現れ、遊女故に法師を泊めることをはばかられたのだという話をし、自分こそは江口の君の幽霊であると告げて姿を消す。供養のために逗留した僧たちのまえに川船に乗った江口の霊が現れ、舞を舞ううちに船は白象となり、江口は普賢菩薩に変じて西の空に消えていく。
何と言っても興味深いのは中世における遊女とはいかなる存在であったのか、ということ。少なくとも江戸時代の太夫や花魁などとはかなり異なった存在であったようです。だが俄仕込みの知識でこの話題に深入りするのは止めておきましょう。
西行法師と江口のやりとりというのは、西行の「世の中を厭うまでこそかたからめ仮の宿りを惜しむ君かな」という歌に対して江口君が「世を厭う人とし聞けば仮の宿に心とむなと思うばかりぞ」と返したことを指しています。しかし後半は物語の重要性はやや後退して、ひたすらゆったりとした舞が続くという体裁になっています。ことばも前半は比較的平易というか、耳で聴いても分かりやすい詩句であるのに対して、中入りの後は美文調とでもいうべき導入に続いて、和漢朗詠集から引かれたと思しい漢籍調の詩句が続き、少なくとも漢文の素養に乏しい現代人にはなかなか理解が難しい。

クセ「紅花の春の朝。紅錦繍の山粧なすと見えしも。夕の風に誘はれ紅葉の秋の夕。黄纐纈の林。色を含むといへども朝の霜にうつろふ。松風羅月に言葉をかはす賓客も。去つて来る事なし。翠帳紅閨に。枕をならべし妹背もいつのまにかは隔つらん。凡そ心なき草木。情ある人倫いづれ哀を遁るべき。かくは思ひ知りながら。
シテ「ある時は色に染み貪着の思浅からず。
地「又ある時は。声を聞き愛執の心いと深き心に思ひ口に言ふ妄舌の縁となるものを。実にや皆人は六塵の境に迷ひ六根の罪を作る事も。見る事聞く事に。迷ふ心なるべし。

言葉の難しさもさることながら、大した物語が展開する訳でもないのにおよそ2時間の大曲。この日は何時にもまして欧米からの観光客や学生さんが多かったのですが、私が心配するのも変な話ですがこの長さと、気の遠くなるようなゆっくりとした舞に怖気づいたりはしなかったか、少々気になります。しかし如何に敷居が高いものになろうとも、この日常生活とはかけ離れた時間感覚こそが大切なのだろうと思います。それはあたかも、遊女が菩薩に変じるために必要な時間であるかのようでした。

狂言は「鏡男」。
訴訟ごとで都に長逗留していた男が、田舎の妻への土産に鏡を買って帰る。鏡など見たこともない女房は、そこに女の顔が映るのをみて、夫が女を連れて帰ったと思い怒り出す。男は女房を宥めようとして、女房に寄り添い自らも鏡に映りこむが、これまた夫が見知らぬ女に寄り添ったの、恐ろしい顔で女が睨んでいるのと狂乱の体。逃げ出す夫を女房が追いかけて終わる。
いくら大昔だからといって、果たして鏡の何たるかもわからないような人がいたのかどうかよく分かりません。少なくとも現代人を腹の底から笑わせるには高度な技芸が必要な感じがします。今回シテを演じた野村又三郎の芸がすばらしく、なかなか愉快な出し物になっていたのはさすがだと思いました。

仕舞は都合六番。例によってあれこれ巧拙をあげつらうことはできませんが、やはり私のような初心者には最初の春日龍神の激しい舞を若い演者が颯爽と舞うのが大変気持ちの良いものだと思いました。

最後は狂言と同じく鏡が重要なモチーフとなる能「野守」。
出羽国の山伏の一行が大和の春日大社の近く、飛火野にやってくる。そこで野守の老人に近くの池の由来を尋ねると、老人曰くこれは「野守の鏡」といい、昔帝が鷹狩をされた際、行方をくらました鷹が池水に映るのを見て無事これを取戻したという。また池の水ではなく本当の鏡はこの塚にすむ鬼が持っているという話をし、老人は姿を消す。この野守こそ塚に住む鬼であると知った山伏のもとに、鏡を手に恐ろしい形相の鬼が現れる。鬼の鏡には天上から地獄まで森羅万象が映っており、山伏にそれを見せたのち、大地を割って鬼は姿を消す。
お話の元ネタとしては「俊頼髄脳」などがあるそうですが、やや無理のあるお話の展開を追うよりは、中入りの後の、鬼の勇壮な舞を楽しむところに眼目があるのでしょう。しかし、これまで私が見てきた鬼神や怪物の類が活躍する演目、鵺や雷電とくらべても何となくおとなしめ(太鼓を含む囃子は十分に勇壮なのだが)。演者の所為なのか、それともそもそも人に危害を加えぬ鬼というのが矛盾した存在だというのか。なんだかよく分からない内に終わってしまった感じがします。しかし、

地「さて又大地をかがみ見れば。
シテ「まづ地獄道。
地「まづは地獄の有様を現す。一面八丈の浄玻璃の鏡となつて。罪の軽重罪人の呵責。打つや鉄杖の数々。悉く見えたりさてこそ鬼神に横道を正す。明鏡の宝なれ。すはや地獄に帰るぞとて。大地をかつぱと蹈みならし。大地をかつぱと蹈破つて。奈落の底にぞ入りにける。

といった台詞を読んでいると、もっとスケールの大きな上演というのもあり得るような気がしてきました。これは機会があればもう一度観てみたい演目です。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2015-07-14 23:07 | 観劇記録 | Comments(0)

ジョン・ケージ フリーマン・エチュード

聞いた話だけど(ネタかも知らんけど)、会社のワタナベさんという方が片岡鶴太郎に似ているというので、上司とかが「つるちゃん」と呼んでいたのだが、ある日うんと年下の女性が彼に書類を渡すときに「はい、つるちゃん」と言った瞬間、ワタナベさんの顔色が変わって、「ぼくはつるちゃんじゃありません(怒)」と言った。あわててその女性が謝って曰く「あ、ごめんなさい、片岡さん・・・」。




ジョン・ケージの「フリーマン・エチュード」の第3・4巻を聴きました。

 2015年7月7日@京都カフェ・モンタージュ
 ジョン・ケージ
 「フリーマン・エチュード」第3巻・第4巻
 
  vn:辺見康孝


同じ奏者による第1・2巻の演奏は今年の2月15日だったのだが用事で行けず。今回ようやく後半だけとはいえ、生で聴くことができて実に面白い体験をしました。
ケージの「フリーマン・エチュード」、昔は知る人ぞ知るといった曲だったのが、最近はポピュラーとは言えないにしても随分と(名前だけは)知られるようになってきたのではと思います。曲名の由来は、ポール・ズーコフスキーの演奏を想定してベティ・フリーマンから委嘱されたことによるそうだが、前半の2巻を書いて、あまりにも複雑・難技巧になったために長い中断を余儀なくされ、その後アーヴィン・アルディッティの勧めによって作曲を再開したとあります。その間の演奏技術の進歩により、ようやく全曲が完成したという訳だ。
「昔は知る人ぞ知る」云々と書いたけれども、ケージの作品の中で同じ傾向の作品、すなわち音高やテンポ、強弱といったパラメーターが星図やコイン投げの結果のような偶然の産物に拠っており、作品の構成原理もまた易のような偶然性の高いものであるといった共通点をもつもの、ピアノのための「易の音楽」とか「南天のエチュード」なんかも同様だろう。試しにこれらの作品を時系列に並べてみると、「易の音楽」1951年、「南天のエチュード」1974~75年、「フリーマン・エチュード第1~2巻」1977年、「北天のエチュード」1978年、「フリーマン・エチュード第3~4巻」1990年となり、ケージのキャリアの中で意外なほど長い年代にわたって書かれていることがわかります。これらの作品に共通する極端な複雑さや難技巧は、「易の音楽」あたりではコイン投げの結果たまたま音符が密集した結果そうなった、という側面があるのに対し、それ以降の作品は最初から難技巧、ある種の名人芸の披露を狙って作曲されており、その分「わかりやすい」と言えなくもない。また、このような傾向(複雑さや難技巧への偏愛)が70年代の半ばから顕著になるのは、ブライアン・ファーニホウの出現とも関係しているのだろうと思います。ケージといえば、音符が確定的に書かれているか否かに関わらず、なんとなく音が少なく、通常の意味でのヴィルトゥオジティとはかけ離れたイメージを抱きがちだと思うのだが、それは偏に、ケージの中で別の系列をなすこれらの作品群の実演が少なかったということによるのだと思います。だが、大井浩明や辺見康孝のおかげで、こうして高いレベルの実演を聴く機会が増え、当然のこととしてケージの全体像も見直しを迫られるということなのでしょう。もっとも実際の演奏を耳にすると、奏者も大変だろうが聴く方だってほとんど苦行に近い体験をすることになります。もちろん音楽としてとても面白いのだが、どうしても一挺のバイオリンで1時間ちかい演奏を、終始同じテンションを保ったまま聴くというのは想像以上に困難で、ところどころ意識が飛びそうになったりもする。まぁ思いのほかあっというまの1時間で、面白かったのは確かだけれど、正直なところ「易の音楽」の実演を聴いた時ほどの興奮や感激はありませんでした。私自身が弦楽器をやる人間ならもう少し違った感想を持ったかも知れません。

辺見康孝の演奏について、私には巧いだの下手だの言えるだけの見識はないのだが、それにしても若い演奏家がこういったレパートリーに果敢に挑戦するというのは素晴らしいことだと思います。彼の演奏は昨年next mushroom promotionのメンバーとして聞いておりました。その時も感じたことですが、激烈な表現、それは正に苦行のはずなのだが、それを冷静に、むしろ楽しげに演奏していたように思います。演奏会終了後に、あっけらかんと、何ヶ所か緊張の糸が切れて、あまり正確に弾けなかったといった自己批判を云々したと思えば、アルディッティの録音は揺れてはいけないはずのテンポがかなり揺れている、といった演奏者ならではの演奏評が飛び出すのも実に愉快。スコアの特殊な表記の説明も興味深く、サロンならではのインティメイトな一夜でした。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2015-07-13 23:40 | 演奏会レビュー | Comments(2)