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バルトーク 弦楽四重奏曲連続演奏会vol.3

電車の中で幼稚園くらいの女の子と親戚のおばちゃん風の女性の会話が聞こえてくる。おばちゃんが女の子にすきな食べ物を尋ねると、女の子が元気に「近大マグロッ!」と答えてはりました。





泉原隆志率いる弦楽四重奏団によるバルトーク連続演奏会の最終回は第2番と第6番。伸び盛りの若い演奏家が回を追うごとに成長していく様子は観ていて(聴いていて)素晴らしいと思いました。

 2015年4月24日@カフェ・モンタージュ
  バルトーク
   弦楽四重奏曲第2番Sz.67(1917)
   弦楽四重奏曲第6番Sz.114(1939)

  泉原隆志(vn)、長谷川真弓(vn)、金本洋子(va)、城甲実子(vc)


わずか半年ほど前に、第1回目(3番&5番)を聴いたときは、そのアンサンブルの瑕の多さに少しハラハラしたものですが、その分バルトークの音楽のフォークロア的な側面が際立ち、それはそれで実に面白いものでした。その後、第2回目(1番&4番)では格段にアンサンブルの精度がよくなり、今回は満を持しての最終回という感じがしました。
以前にも書いた通り、バルトークの弦楽四重奏曲については、ジュリアードSQの旧盤に代表されるような先鋭極まりない演奏、4本の鋼鉄製の針金がきりきりと絡み合うような演奏と、私がその昔愛聴していたノヴァークSQのような、肌理の粗い手触りと濃密なマジャールの血を感じさせるような演奏の二つのタイプがあるように思いますが、彼らの演奏はもちろん後者のタイプに近い。それはアンサンブルの精度の問題もあるけれど、むしろそれより峻嶮な山々に挑む彼らの気負いと愚直なアプローチの所為だろうと思います。その結果、第2番の特異な面白さが際立っていた反面、第6番の晦渋さを改めて認識することにもなりました。

第2番は1915年から1917年にかけて書かれたということだが、その少し前に大規模なバレエ音楽「かかし王子」が、そのあとにパントマイム「中国の不思議な役人」が書かれているところを見ると、この時代にバルトークの作風が伝統を踏み越えて大きく変化したのは間違いないところ。したがってこの第2番には、ストラヴィンスキーのオペラ「うぐいすの歌」やシェーンベルクの「グレの歌」と同じく、一つの作品中に様式の大きな変化が刻まれていると言えます。ラプソディックな第1楽章、仏領アルジェリアで採集したサハラの民族音楽の影響を受けた第2楽章に比べると、急進的な第3楽章の特異さが突出しています。一般には弦楽四重奏曲第4番(1928)あたりがバルトークがもっとも「前衛的」であったとされているようですが、私はむしろ1918年あたり、「中国の不思議な役人」もそうだが、「ピアノのための3つのエチュード」なんかのほうがはるかに無調的で演奏も至難、若きバルトークが内なる天才の命ずるままに自由奔放に書いている感じがします。というわけで、弦楽四重奏曲第2番というのは一般に思われているよりもはるかに重要な作品ではないか、と改めて思いました。今回の演奏では第1、第2楽章と第3楽章との落差が巧まずして強調されていた結果、この作品の特異さ、様式の切断のようなものを理解できたような気がします。

アメリカ移住の直前に書かれた第6番は、私にはなかなか腹に入らない難物。カフェ・モンタージュの店主が、バルトークという人は真顔で冗談を言うので、周りの者はどこまでが冗談でどこから本気なのかわからなかった、同様にこの第6番もよく分からない云々と仰っていたのはまさにその通り。楽章を追うごとにMesto(悲しげに)の部分が増殖していくような構造、第1楽章のベートーヴェンの第16番や「大フーガ」を思わせるようなモットーの扱いと、同じくベートーヴェンの後期ピアノソナタのパロディのようなMarcia、冗談のかけらもない苦い味わいのBurlettaに続いてMesto一色に塗りつぶされた救いのない第4楽章。とてつもなく深刻そうなのにどこか飄々としており、真面目かと思えばどこか投げやり、しかもある種の人生に対する悪意のようなものが垣間見えて、一筋縄でいかないとはまさにこのこと。この後にアメリカで書かれた晩年の作品にみられる澄みきった境地のようなものは全く見られません。恐るべき音楽だとは思うけれど、そんなにしょっちゅうは聴きたいと思わないし、今回の演奏を聴いてもその思いは変わりません。今回の演奏は大変な熱演だったと思いますが、残念ながらその晦渋さを超えて、聴き手の腹に落ちるような演奏には至っていないと思いました。ある作品に対して、演奏者が若いということがネックになることなど本当はあまりないと思いたいのだが、この6番ばかりは彼らも歯が立たなかったという他ありません。

この名無しのカルテット、この後の予定はまったく無いそうだ。泉原さんのコンマスとしての活動も忙しいに違いなく、長期に亘ってアンサンブルを練り上げていくのは大変なのかもしれませんが、今回のバルトークシリーズは大成功だったと思うので、なんとかこれからも弦楽四重奏団としての活動をしてほしいものです。ショスタコーヴィチの15曲、シェーンベルクの4曲、ウェーベルンの3曲(Op.5,9,28)にベルクの2曲etc、彼らの演奏で聴いてみたい作品はたくさんあります。どうか息長く取り組んでほしいと思うのですが。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2015-04-30 23:10 | 演奏会レビュー | Comments(0)

大阪国際フェスティバル2015より ロッシーニ 「ランスへの旅」

ほぼ満席のフェスティバルホールの客の、ざっと半分以上が大阪のオバハンであると推察。豹柄こそ見当たらねど、なんとなく着てるものに気合が入っている印象。「やっ、奥さんどないしはったん、ええの着てはるやん、どこでこおたん?」とか手当たり次第に茶々いれとなるわー。




 
楽しみにしていた「ランスへの旅」公演。終幕近く、もうすぐ終わってしまうのだと思っただけで泣けました。


 2015年4月18日@フェスティバルホール
 ロッシーニ 「ランスへの旅」
  コリンナ: 老田裕子
  メリベーア侯爵夫人: ターチャ・ジブラッゼ
  フォルヴィル伯爵夫人: イザベラ・ガウディ
  コルテーゼ夫人: 石橋栄実
  騎士ベルフィオーレ: 中川正崇
  リーベンスコフ伯爵: アントン・ロシツキー
  シドニー卿: クラウディオ・レヴァンティーノ
  ドン・プロフォンド: 伊藤貴之
  トロンボノク男爵: 三浦克次
  ドン・アルヴァーロ: 木村孝夫
  ドン・プルデンツィオ: 西村圭市
  「ランスへの旅」フェスティバル・シンガーズ
  指揮: アルベルト・ゼッダ
  演出: 松本重孝
  ザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団


大阪国際フェスティバル2015の目玉であった本公演、内外の若手歌手を選りすぐって素晴らしい舞台であったと思います。が、今回のMVPはなんといっても指揮者のアルベルト・ゼッダ。もう80の半ばを過ぎておられると思うのだがなんという溌剌とした音楽だろう。随分長い時間をリハーサルに掛けたそうですが、私がロッシーニの演奏に望むものすべて、輝かしいオーケストラの響き、こころが湧き立つようなリズムの饗宴、強い日差しや抜けるような青空を思わせる声と、そのために却って濃く感じられる影の気配、そんな事々がすべて信じられないぐらいの実在感でもって実現されていました。正直なところ、歌手のレベルに若干のバラツキがあったことは否めませんが、それでも私がこれまでに聴いたロッシーニ演奏としては最上のものであったと思います。

主役級だけで10人前後も出てくるこのオペラで、個別に誰がどうだったか、悲しいかな終わったそばから忘れていく部分もあって全部は書ききれませんが、とくに印象に残った歌手を何人か書き留めておきます。なんといっても一番おいしい役をさらってカーテンコールでも一番大きな拍手をもらっていたのはコリンナを歌った老田裕子でしょう。この人、昨年の「カーリュー・リヴァー」公演で少年の声を歌って好印象を持っていましたが、ややスピントな芯のある、意思の強さを感じさせる声質で、華やかなコロラトゥーラも自在感があって素晴らしいと思いました。メリベーア侯爵夫人を歌ったターチャ・ジブラッゼの、深みのあるメゾにも夢中にさせられます。今回の女性の出演者の中ではもっともロッシーニの様式に寄り添った歌唱だったかもしれません。リーベンスコフ伯爵のアントン・ロシツキーは、かなり粗っぽくて、お花畑をブルドーザーで走り回るようなところもあるが、その声の輝かしさの魅力は否定しがたいものがありました。ヴァリアンテもハイCだかハイDだか、ちょっとやりすぎな感じもあったが、それでもその白熱した歌唱には(多少苦笑いしながらも)大きな拍手を送らざるを得ません。シドニー卿をうたったクラウディオ・レヴァンティーノは、真面目で地味な歌い方が役柄によく合っていて、好感を持ちました。日本人の男性陣ではドン・プロフォンドの伊藤貴之が達者なブッフォぶりを発揮して見事。彼のアリアはアバドの旧盤ではライモンディが怪演していた役ですが、ロッシーニのバスアリアとしても特に優れたアリアだと思います。これぐらいにしておきますが、宿の使用人たちの合唱も含めて、総体としてはなかなかの高レベルであったと思います。特に前半の6重唱や14声のコンチェルタートなど茫然とするくらいの完成度。ただ、今回の公演に限って言えば、私のうけた大きな感銘は歌手よりはむしろオーケストラから受けたものという気がします。ちなみにレチタティーヴォ・セッコはピアノフォルテで古雅な響きがとても美しい。そこそこ饒舌なのに上品なのもよい。シドニー卿のアリアのフルートのオブリガードや、コリンナの伴奏のハープも実にきれいでした。備忘として記しておきます。

演出は実にオーソドックスなもので、よくも悪くも引っかかるものが全くなく過ぎていきました。まぁお話自体が歌合戦のためにとってつけたみたいな他愛のないもの、と考えれば、演出であれこれ頑張る必要もないわけですが、最後の歌合戦とコリンナの歌によるヨーロッパ各国の友愛と和合の場面に至って、舞台には歌合戦には登場しなかったギリシャの旗が翻るのを目にして、当然のように現代のEUにおける理念と現実、EUをとりまくイスラム国の問題、イスラエルとパレスチナ、ロシアとウクライナのことなどが一瞬頭をよぎります。この究極の余興というべきオペラに無粋すぎる連想であることは百も承知ですが、舞台上の夢のような世界がもうすぐ終わってしまうというもの惜しさと、こんな世界は現実のどこにも存在しないのだという苦い認識とが綯い交ぜになって、感動とも悲しみともつかない複雑な心境になったのは事実。演出(というか小道具)にしてやられた感じはしました。

さて、この「ランスへの旅」にまつわる私の視聴体験だが、クラウディオ・アバドによる新旧録音はもちろんどちらも素晴らしいと思いますが、個人的には2008年1月31日に東京文化会館で聴いたゲルギエフ率いるマリインスキー劇場の引越し公演が今でも鮮やかに思い出されます。ゲルギエフの狙いはマリインスキー劇場の座付き歌手に近い、無名の秘蔵っ子たちのお披露目だったような気がしますが、このときの演出は幕開けからして、劇場内の客席のあちこちから登場人物たちが飛び出して来たり、舞台上にバロック時代のような鬘をつけた楽団員が並んでいたり、と工夫満載。ゲルギエフはタキシードにボルサリーノと真っ白なマフラーをつけてピットではなく舞台上で指揮をし、歌手たちは現代のファッションショーのようなポップな衣装で、時に本物の馬にまたがって颯爽と現れるなど、ありとあらゆるスペクタクルな趣向が凝らされ、その分お話の空疎さがめだったものの、実に楽しい舞台でした。ゲルギエフのロッシーニは、無類の面白さながらなんとなくオーセンティックなロッシーニとは違うんじゃないのか、という落ち着かなさもあったけれど、若手歌手らのまとまりの良さと才気煥発な演出で、それはそれで大満足な一夜でした。その時の演奏と今回の公演を比べようとするつもりはありません。どちらも本当に素晴らしい舞台でしたし、日本にいながらにして二度もこのオペラの舞台を見ることができたことを本当に幸せに思っています。

追記その1
ゲルギエフの時は多少の繰り返しのカットなども入れつつ、長大な一幕仕立てだったように記憶していますが、今回は14声のコンチェルタートで一旦休憩を入れ(ここまでカットなしでちょうど2時間)、歌合戦を中心とする後半(約45分)が続くというスタイル。トイレのこととか考えると妥当な感じですね。
追記その2
今回の公演で新しく建て替えられたフェスティバルホールを初めて体験しました。私の席は一階最後列で、二階席が視界の上方を塞ぐように迫り出していて、ちょっと嫌な予感がしましたが、音楽がはじまると実に美しく、尖りもせずぼやけてもいない、ほどよくブレンドされた音が聞こえて安心しました。まずは良いホールに生まれ変わったことを喜びたいと思います。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2015-04-22 00:31 | 演奏会レビュー | Comments(0)

ハイドンのオペラを聴く(その6)~「報われぬ不実」

アレクセイ・ゲルマンの映画「神々のたそがれ」をヒエロニムス・ボスやブリューゲルの絵画に喩えた人がいたが、確かにあれを観た後でブリューゲルの有名な「農民の婚宴」を見ると、風呂に入ったことのない人々や家の中を歩き回る犬や鶏や家畜の臭気が臭ってくるような気がする。




シリーズ6回目は「「報われぬ不実」。

 報われぬ不実L'Infedeltà delusa ~2幕からなるブルレッタ・ペル・ムジカ
  ヴェスピーナ: エディット・マティス(Sp)
  サンドリーナ: バーバラ・ヘンドリックス(Sp)
  ネンチョ: クラエス=アーカン・アーンシェ(T)
  フィリッポ: アルド・ボールディン(T)
  ナンニ: マイケル・デヴリン(Bs)
  アンタル・ドラティ指揮ローザンヌ室内管弦楽団
  1980年6月録音
  CD:DECCA 478 1776

例によってこの作品も英語版Wikipediaに立項されていますのでご参考まで。

http://en.wikipedia.org/wiki/L'infedeltà_delusa

それによると、このオペラは1773年7月26日、Dowager Princess Estaházy の聖名祝日のために初演され、また1773年9月1日のマリア・テレジア訪問を記念して演奏されたとあります。お話は例によって他愛もないものですが、登場人物がいずれも農民であるというのが面白い。その点で主人公が漁師の娘という設定の「真の貞節」とよく似ています。「真の貞節」では主役のアリアにほとんどコロラトゥーラのような技巧的な見せ場がなく、こういった技巧的なアリアというのは神話や英雄譚の登場人物、あるいは爵位のある人物に限ってあてがわれたのではないか、という仮説を以前たてたけれども、「報われぬ不実」でも主人公のヴェスピーナにはほとんど技巧的なフレーズは見られません。同じく農民の娘である脇役のサンドリーナには美しいフィオリトゥーラ(第14曲)があらわれるので、厳格な縛りというほどではないようだが、それでも他のオペラに比べれば幾分控えめな表現に留まっています。また、ヴェスピーナはアリアの数は一番多いが芝居の中ではどちらかといえば狂言回し的な役柄であり、老婆や侯爵や公証人に扮して声色を用いたアリアを歌うなど、後のモーツァルトのブッファであればスーブレット役に相当する役柄。この時代のハイドンのオペラでは、スーブレットという存在が未だ未分化だったのだろうと思います。

全曲の構成は次の通り。

 序曲
 第1幕
  No.1 イントロドゥツィオーネ
  レチタティーヴォ・セッコ(R.S.)
  No.2 アリア(フィリッポ)
  R.S
  No.3 アリア(サンドリーナ)
  R.S
  No.4 アリア(ナンニ)
  No.5 アリア(ヴェスピーナ)
  R.S
  No.6 デュエット(ナンニ・ヴェスピーナ)
  No.7 アリア(ネンチョ)
  R.S
  No.8 フィナーレ(全員)

 第2幕
  R.S.~No.9a レチタティーヴォ・アコンパニャート(ヴェスピーナ)
  No.9b アリア(ヴェスピーナ)
  R.S.
  No.10 アリア(フィリッポ)
  R.S
  No.11 アリア(ヴェスピーナ)
  R.S.
  No.12 アリア(ネンチョ)
  R.S.
  No.13 アリア(ヴェスピーナ)
  R.S.
  No.14 アリア(サンドリーナ)
  R.S.
  No.15 フィナーレ(全員)


比較的短い2つの幕から成り立っており、ゴルドーニ・スタイルの3幕仕立てが多いハイドンとしてはやや異例。ジャンルとしてもドラマ・ジョコーゾではなくてブルレッタ・ペル・ムジカと記されているようです。
序曲はソナタ形式による軽快な第1楽章に緩徐楽章が続き、短調のブリッジを経てアタッカでイントロドゥツィオーネに続いていきます。
テンポや曲調の異なるいくつかの部分が連なったイントロドゥツィオーネや各幕のフィナーレを除くと、大半のアリアがソナタ形式もしくはロンドソナタ形式で書かれており、わずかに第11曲のヴェスピーナの短いカンツォネッタ風のアリアのみ三部形式をとっています。このことは前回取り上げた1775年の「突然の出会い」でも顕著でしたが、この報われぬ不実」ではより徹底的にソナタ形式の原理をオペラに応用しようとする姿勢が見て取れます。このことには、エステルハーザ宮の為に書かれた最初のオペラである本作において、当時すでに自家薬籠中のものになっていたソナタ形式というものを徹底的にオペラに用いてみようとするハイドンの気負いといったものを感じます。以前にも書いたとおり、後々ハイドンはオペラのアリアにおいて、よりシンプルな三部形式や、歌手の叙情的な側面と華やかなアジリタの両方を生かした大アリア形式に次第に作品原理をシフトさせ、モーツァルトがその流れを踏襲するかのように「後宮からの逃走」以降のオペラを書きだすと彼に席を譲るようにオペラから手を引いていったようにも見えます。

上記は形式という側面から見たこのオペラの特色ですが、音楽的にはどのアリアも実に屈託のない、端正な姿をした楽曲であるとおもいます。しかし、先にも少しふれた通り、全体にフィオリトゥーラが少なく、ひたすらアリアが続くという体裁のオペラでは少し物足りない思いがするのも事実。その点、第14曲のサンドリーナのアリアは提示部第二主題の後半、展開部の後半、再現部第二主題後半がそれぞれ華麗なフィオリトゥーラになっていて、文句なしに素晴らしい。その他の聴き所としては例えば第4曲ナンニのアリアが、ヘンデル風の擬バロック的な開始、管弦楽のクロマティックな書法など変化に富んでとても面白い(ちなみに形式としては第一主題の再現を欠く変則的なソナタ形式にコーダがついたもの)。また第7曲ネンチョのアリアは終始シチリアーノ風のリズムが支配する美しいセレナード。だが全体としてみると、後の作品にくらべてどうしても少し地味な感じがします。

歌手ではサンドリーナを歌うバーバラ・ヘンドリックスがアジリタのテクニックに優れていてとても良いと思いました。ビブラートに若干癖のある人だけれどこのディスクの歌唱はそれがまったく気にならない。ヴェスピーナのエディット・マティスもモーツァルトのオペラでお馴染みの人らしく安心のクオリティ。老婆や公証人のふりをして歌うところはモーツァルトのスーブレットほど弾けないところがちょっともどかしいが、これはハイドンその人のせいとしか言いようがあるまい。いずれにせよ、この二人の取り合わせは、しっかり者のヴェスピーナとちょっとおバカなサンドリーナにぴったりという気がします。アーンシェはいつもながらの安定感。その他脇役も不足なし。ドラティの指揮は文句なしだが、エステルハーザ宮のために書いた8作のうち、最初に書かれたということがなんとなく納得できるというところが、良くも悪くも作品の本質に応じた演奏であるという証左なのだろう。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2015-04-17 23:32 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

杉浦能公演 「賀茂」 「朝長」

アレクセイ・ゲルマン監督の映画「神々のたそがれ」を観る。地球からの科学者が降り立った星はちょうど地球でいえば800年ほど前の中世のような文明が支配する世界だった。そこでは地球人は神と崇められていたが異星人の破壊や殺戮を傍観することしかできない・・・。泥濘と糞尿と臓物にまみれた3時間の地獄めぐりはとにかく暗い汚いキモい臭そうキツイの5K。だが見始めるとあっというまに終わる。パゾリーニの「ソドムの市」を観ながら飯が食える程度のグロ耐性の持ち主には強くお薦めする。




今回ようやく修羅物を観ることができました。能の神髄を垣間見たような気がしました。

 平成27年4月5日@京都観世会館

 賀茂
  シテ(水汲みの女、別雷神) 杉浦悠一朗
  ワキ(室の明神の神職) 原大
  前ツレ(水汲みの女) 山本麗晃
  天女 松井美樹
  ワキツレ(神職) 有松遼一、岡充
  間(末社の神) 茂山逸平

 狂言
 地蔵舞
  シテ(出家) 茂山あきら
  アド(宿の主人) 丸石やすし

 仕舞
 通小町 大江又三郎
 江口キリ 林喜右衛門
 鵜飼キリ 井上裕久

 朝長
  シテ(青墓宿の女・源朝長の霊) 杉浦豊彦
  ワキ(清涼寺の僧) 福王和幸
  ツレ(侍女) 橋本光史
  トモ(従者) 大江泰正
  ワキツレ(従僧) 喜多雅人、是川正彦
  間(下働きの男) 茂山千三郎


そもそもある番組を作る際に、前後の曲にどの程度の関連を置くものなのかわかりませんが、今回の取り合わせを考えてみると、五穀豊穣を祈る祝祭的な作品と、修羅の苦しみを描く作品との対照性、そして共通点としてはどちらもシテが中入りの前後でまったく異なる人物を演じるという比較的珍しい特色、ということになるのでしょう。

まずは脇能「賀茂」から。
播磨国室(むろ)の明神の神職が賀茂を訪ねてやってくる。そこに白羽の矢が御神体として祀られているのを訝しんだ神職のもとに二人の水汲みの女があらわれてその由来を語る。昔、秦の氏女(はだのうじにょ)という女が賀茂川で水を汲んでいると白羽の矢が流れてきた。それを持ち帰り、軒に矢を挿したところ女は懐妊し男児をもうけた。その子が3歳になり、人に父のことを尋ねられて軒の矢を指さすと、矢は天に上って別雷神(わけいかづちのかみ)となった・・・。水汲みの女が語り終わって消えると、末社の神、天女、別雷神が次々と現れては舞い、五穀豊穣を祈る。
神々の由来を語るということで、少々辛気臭いものを想像していたところが大違い。後半はアイ(末社の神)、後ツレ(天女)、シテ(別雷神)の舞が続いてスペクタクルな楽しみも十分。結びの部分、シテ「風雨随時の御空の雲居・・・以下の部分、雨や雷が豊穣をもたらすというくだりは如何にも農耕民族の祝祭劇といった趣が味わい深い。前半はあまり動きがないのだが、シテとツレの立居があたかも神人一体の存在に見えてくることに衝撃を感じました。その理由として、着付けのことなど良く分からないのだが、唐織を壺折に着たさまというのだろうか、上着の胸元が大きく開いて前方に迫り出し、また裾を軽く手で押さえて斜めのラインができるので、からだ全体が極端に前傾しているように見える。そのせいで人間が演じていながら何か超自然的な存在に見え、上体を動かさない運びと相俟って何かに操られているようなある種の不気味さを感じるということなのだろう。観能も回数を重ね、少しは目が慣れてきたのか、こんなところにも目を見張りながら約1時間半の長丁場を全く飽きることなく見通したのでした。

狂言は地蔵舞。
出家が一夜の宿を借りようとするが往来の者に宿を貸すべからずとの禁制でままならない。こまった出家は宿の主に笠を預かってくれと言い、主ではなく笠に宿を借りたといって笠の下に座り込んでしまう。この頓智に主も笑いだし、夜寒を案じて酒をだす。出家は酒を飲むのは禁じられているが吸うのは構わぬと、また頓智を繰り出し、主ともども酔っぱらって地蔵舞を舞う。
これは頓智の面白さと後半の謡や舞を楽しむものだろう。シテの最後の長台詞、絶句してアドに何度も助けられ、ようやくのことで終わってちょっと興醒め。こんなこともあるのですね。

仕舞は三番。いつものことで良し悪しの程は判らぬものの、静-静-動の取り合わせが快い。鵜飼はぜひ能として観てみたいものだ。

最後は朝長。
平治の乱の頃。源朝長のゆかりの僧が菩提を弔いに美濃国青墓を訪れる。朝長が自害した宿の女が言うには、都大崩(おおくずれ=現在の京都府相楽郡)の戦で膝を射抜かれた朝長は、不自由な体で雑兵に捉えられ辱めを受けるよりは、と夜中に腹を切ったのだという。その夜、僧のもとに朝長の霊が現れ、供養を感謝し、修羅の苦しみを語るのだった。
2時間近い大曲ですが、あっという間に終わったような気がします。初めての修羅能ということで期待値も高かったわけだが、想像していた以上に素晴らしい舞台であったと思います。前半のシテが語る長い台詞は囃子も地謡も沈黙して、ただただ言葉の力だけで朝長の苦しみを彷彿とさせる。私は演者の巧拙を云々できるような者ではないが、これは大変な力技ではないかと思いました。
シテ「暮れし年の八日の夜に入りて。門を荒けなく敲く音す。誰なるらんと尋ねしに。鎌田殿と仰せられしほどに門を開かすれば。武具したる人四五人内に入り給ふ。義朝御親子。鎌田金王丸とやらん。わらはを頼みおぼしめす。明けなば川船にめされ。野間の内海へ御落あるべきとなり。又朝長は。都大崩にて膝の口を射させ。とかく煩ひ給ひしが。夜更け人静まつて後。朝長の御声にて。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と二声のたまふ。鎌田殿まゐり。こはいかに朝長の御自害候ふと申させ候へば。義朝驚き御覧ずれば。はや御肌衣も紅に染みて。目もあてられぬ有様なり。其時義朝。何とて自害しけるぞと仰せられしかば。朝長息の下より。さん候都大崩にて膝の口を射させ。既に難儀に候ひしを。馬にかゝりこれまでは参り候へども。今は一足も引かれ候はず。路次にて捨てられ申すならば。犬死すべく候。唯返す返す御先途をも見届け申さで。かやうになりゆき候ふ事。さこそいひかひなき者と。おぼしめされ候はんずれども。道にて敵に逢ふならば。雑兵の手にかゝらん事。あまりに口惜しう候へば。是にてお暇たまはらんと。地「これを最期のお言葉にて。こときれさせ給へば。義朝正清とりつきて。嘆かせ給ふ御有様は。よその見る目も哀れさをいつか忘れん。
長々と引用したけれど、戦記物に取材した作品のよいところは耳で聞いても言葉がよく聞き取れること。先日みた「弱法師」とか「東岸居士」のような仏教説話的な作品のテキストは、それこそ外国語のテキストを読むように難解な仏教用語をひとつひとつ辞書を引いて下調べしなければとてもじゃないが聞き取れないのと対照的。文語と口語の違いはあれど、室町の頃から単語レベルではほとんど変化していない日本語の特性に感謝の思いだ。
中入りの後、朝長の霊が出現してからの張りつめた演技にも目を見張りました。面は中将だろうか、時折面であることを忘れるほどの、はっとするような表情を見せる。史実では朝長は自害したのか父義朝の手にかかって死んだのか諸説あるようですが、それはともかく享年16とは痛ましい限り。まことに非業の死を遂げた者の魂を慰めるというのは能の重要な存在意義のひとつであろうと思います。最後の地謡「・・・憂き近江路を。しのぎ来て此の青墓に下りしが。雑兵の手にかゝらんよりはと思ひさだめて。腹一文字に。かき切つて・・・」の部分、およそリアリズムの対極にあるような演劇であるのにこの鬼気迫るものは何だろうか。観終わってしばし言葉もなく茫然とする思いでした。

今回の公演は故杉浦元三郎さんの追善供養ということで最後の附祝言の代わりに「追加」と称する謡が謡われました。いろいろな決まり事がすこしずつわかってくるのも面白いものです。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2015-04-08 00:48 | 観劇記録 | Comments(0)

The People United will NEVER be defeated!

「アリとキリギリス」のwikipediaの記述すごいな。
「この寓話には二つの寓意がある。一つは、キリギリスのように将来の危機への備えを怠ると、その将来が訪れた時に非常に困ることになるので、アリのように将来の危機の事を常に考え、行動し、準備をしておくのが良いというもの。 二つ目は、アリのように夏にせこせことためこんでいる者というのは、餓死寸前の困窮者にさえ助けの手を差し伸べないほど冷酷で独善的なけちであるのが常だ、というものである。」





なんとなくサヨク嫌いだと思っていた大井さんが、よりによってこんなプログラム。4月1日(エイプリルフール)というのと相俟って、これは何か悪い冗談なのか、と最後まで気が抜けない(笑)。


 2015年4月1日@カフェ・モンタージュ
  
  高橋悠治: 毛沢東詞三首 (1975)
  ジェフスキ: 「不屈の民」変奏曲 (1975)(カデンツァは池田拓実(2015)※)
  (アンコール)
  坂本龍一: エナジーフロー (1999)
  吉松隆: 左寄りの舞曲Op.35-2 (1988)

  ※カデンツァで引用された曲: 
  高橋悠治《管制塔のうた》(1978)〔成田空港入場検問廃止記念〕
  セルヒオ・オルテガ《ベンセレーモス》(1971)
  《サリール・アル=サワリム》(2014)

  ピアノ: 大井浩明


思うに大井浩明というピアニストは、自分の好む作品をリサイタルで提示するだけでは飽き足らず、その作品の生まれたコンテクストの全体像を示そうとする志向が強いのだと思います。この人が本当に好んでいる作品は、たぶんどこかで本人が話していたとおりシュトックハウゼン、クセナキス、ブーレーズあたりなのだとおもうが、それらの作品を繰り返し繰り返し取り上げるだけでは飽き足らず、その同時代の、あるいはそれに先行する、または影響を受けた人たちの膨大な作品のアーカイヴを提示せずにはいられないのだろう。
同様の志向は多かれ少なかれ、現代音楽(あまり好きな言葉=切り分け方ではないが、便宜的に1945年以降の音楽をこう呼んでおく)を得意とする演奏家に共通するものだろうと思います。ブーレーズもポリーニも、自身のプログラムビルディングによる大規模な現代音楽の連続演奏会を行っています。しかし、ブーレーズが一連の20世紀音楽の回顧展を行った際のインタビューで、ショスタコーヴィチがひとつも入っていないことを訝しんだインタビュアーに対し、「私はショスタコーヴィチが重要な作曲家だとは思いません。それに下品ですし・・・」と答えたように、ブーレーズにしてもポリーニにしても、そのプログラムは彼らの厳しい審美眼に耐える作品のみが選ばれており、彼らの「趣味に合わない」作品は厳しく排除されていたように思う。しかし、大井浩明はこれまで膨大な作品を取り上げているが、それは彼自身が好む作品だけではなく、そのコンテクストを構成するものであれば例え自分の趣味でなく、共鳴もしない、あるいは駄作であっても敢えて取り上げるという点で、他に比べるもののないピアニストという気がします。
そういった意味で戦後のある時期、60~70年代の音楽を取り上げようとすれば、このコンテクストを提示するには政治的メッセージ(それももっぱら左寄りの)の強い一連の作品をオミットするわけには絶対にいかないと考えたのだろう。誰がどう考えたって、思想的な意味で大井浩明とジェフスキーや高橋悠治が共鳴することはありえないにも関わらず、大井浩明は敢えて彼らの作品だけでリサイタルを行う、そういう人なのだ。しかも4月1日(四月馬鹿)に悪意を込めたアンコール曲と並べて。
大井浩明の「政治思想」がいかなるものなのか、彼のツイッターに溢れるネトウヨ風の露悪的なディスクールをどこまで真に受けたものかよく分かりませんが、今回のアンコールも含めた「サヨク的なるものに対するあからさまな悪意」は筋金入りという気がします。カフェモンタージュに集まった聴衆が実のところどう思ったか知らないが(案外、坂本龍一すてき!とか思ったかもしれないが)、もし坂本龍一や吉松隆がこの場に居合わせたなら、その微妙なおちょくり方に憤慨して席を蹴って帰ってもおかしくないとおもいます。

以上は演奏家の思考を忖度しながらの考察だが、一方で聴くものの立場からすれば、こういった演奏会に接して、「音楽は思想(政治)を語りうるか」という根源的な問いを改めて考えないわけにはいかない。私は再三再四書いてきたように、音楽というのは本質的にシニフィアンの連鎖であって、一切の意味作用を剥奪されていると考えるものであるが、反対に音楽というものは本質的に政治的なものであって、人はあらゆるところにそのメッセージ性を感じ取るべきであるという立場があるのは当然だろうと思います。特に革命歌の引用を聞いて人は何を思うべきか、というのはなかなか面白い設問であろう。例えばこれがベルクのヴァイオリン協奏曲であれば、バッハのコラールの引用から「われ満ち足れり」という章句に思いを致さずに音だけを聞くというのは困難だろう。音楽がシニフィアンの連鎖だとしても、いわば不純物の形で介入してくる言葉や意味というものを抜きにしてその音楽を評価できるのか、というのは意外に困難な問いだと思います。

大井浩明の演奏はここ最近いつも思うことだけれど、ディティールが粗っぽくて、長時間聞き続けるのは正直つらいところもある(初めて「不屈の民」を聴いたのがアムラン盤、なんて人は尚更だろう)。しかし今回はそのような演奏スタイルが案外合ってなくもない。学生運動華やかなりしころの集会で奏でられる音楽はこのような粗い手触りのものこそ相応しいだろう。そのような音楽はコンサートホールなんかじゃなくて、昔であれば京大の西部講堂なんかが相応しかったのだと思うが、この日のカフェモンタージュはある意味そのような特殊な空間のオールタナティブとして機能していたように思う。ひさびさにアングラという言葉をふと思いだす実に不思議な感覚。客の入りが少なくて20人ほどしかいなかったが、それもまた良し。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2015-04-02 22:58 | 演奏会レビュー | Comments(0)

現代音楽ファン垂涎の新録音情報

♪セーブン銀行唐揚げ粉♪



パリのIRCAMの知人から聞いた話だが、フランスを代表する指揮者ピエール・ブーレーズの90歳の記念アルバムとしてフィギュアのショートプログラムで使われた音楽を集めたアルバム「コンテンポラリー・フィギュア」を録音するとのこと。曲目はプッチーニの「誰も寝てはならぬ」、ラフマニノフの「ピアノ協奏曲第2番」、ロッシーニの「セビリアの理髪師」など多彩。しかも編集なしでそのまま競技に使えるよう、作品をばらばらにぶった切って、サビの部分をむりやり繋げるといった大胆かつ噴飯もののアレンジを施したという。これに対し、音楽界からは疑問の声もあるものの、スポーツ界の受け止め方は概ね好評だという。また演奏はアンサンブル・アンテルコンタンポラン他の豪華な顔ぶれで、ラフマニノフの独奏は往年の名ピアニスト、リチャード・クレイダーマンが担当する。なお、独奏者はこれから練習を開始するため、実際の録音は2025年頃の予定となる模様。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2015-04-01 21:51 | その他 | Comments(0)