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ロッシーニのファルサを聴く(その3)~「絹のはしご」

「ダンソン!フィーザキー!」のあとの「トゥーザティーサーザコンサー」のかわりに、辻本茂雄の「ゆるしてやったらどうやー」をつなげてみると意外にしっくりする。





ロッシーニのファルサを聴くシリーズ、今回は序曲だけはそこそこ有名な「絹のはしご」。

 ロッシーニ 絹のはしご La Scala di Seta
 
  ジェルマーノ: アレッサンドロ・コルベッリ(Bs)
  ジューリア: テレーザ・リンクホルツ(Sp)
  ドルヴィル: ラモン・バルガス(T)
  ブランサック: ナターレ・デ・カロリス(Bs)
  ルチッラ: フランチェスカ・プロッヴィジョナート(MS)
  ドルモン: フルヴィオ・マッサ(T)
  マルチェッロ・ヴィオッティ指揮イギリス室内管弦楽団
  1992年10月13-15日録音
  CD:BRILLIANT CLASSICS92399/3-4


私はこれまでにも何度か書いた通り、ロッシーニという人は一作ごとに成長していくタイプの作曲家ではなくて「結婚手形」で世にでた時からスタイルがほぼ完成されていた早熟の天才だと考えています。それにしても、39作ほどのロッシーニのオペラのなかで第6作である本作の完成度はどうだろうか。ここにはロッシーニときいて我々が思い浮かべる、あの愉悦に満ちたロッシーニ・クレッシェンドや、巧緻繊細の極を行くアジリタで飾られたアリア、あるいは明るい太陽の下の事物のようにくっきりとした姿でありながら、一筋の哀愁を刷毛でさっと刷いたようなカヴァティーナの全てが一幕のなかに盛り込まれています。ただ、ここにないもの、この作品では得られない要素を敢えて言うなら、音楽による官能表現ということになるでしょうか。そもそも「絹のはしご」とは、年頃の娘が二階の寝室のバルコニーから男を招き入れるために垂らすあの(映画などでお馴染の)シーツみたいな布のこと。そのタイトルの醸し出す艶めいた要素は実際の音楽にはあまりなくて、ひたすらドタバタめいた芝居と湿り気の少ない知的な音楽が続いていきます。

日本ロッシーニ協会のHPに載っているあらすじや音楽の詳細な解説に私が付け加えることは殆どありませんのですこし雑談を。

http://societarossiniana.jp/lascaladiseta.2011.pdf

IMSLPで検索してみると、序曲やドルヴィルのアリアを除いてはオーケストラ・スコア、ボーカル・スコアともさすがにアップされておりませんが、マキシミリアン・ヨーゼフ・ライデスドルフというピアニスト兼作曲家によるピアノ独奏用の編曲の譜面が挙がっていて若干興味を惹かれました。内容的には序曲と8つのナンバーの全てを含んでいるものの、レチタティーヴォ・セッコは勿論、繰り返しの部分を始め、いたる所で大幅なカットが施されています。その編曲は、簡単な左手の伴奏と右手による歌唱旋律の組み合わせが主ですが、音符が込んでくると両手とも伴奏のみとなってしまう中途半端なスタイル。念の為に言うと、ボーカルスコアではないので歌のパートというのは別段記されていません。やっつけ仕事というか、リストが盛んに書いたオペラ・パラフレーズなどとは比べるべくもないクォリティの低さですが、自宅の居間でピアノに指を置きながら、昨夜のオペラの興奮を思い出すにはこれで十分といったところ。このようなオペラの編曲譜にどれぐらいの需要があったのかよく知りませんが、それなりにビジネスになる程度には売れたのでしょう。現代の我々が、CDやDVD、あるいはyoutubeといったメディアで様々なオペラを家に居ながらに何時でも楽しめることを、なにか文化的な進歩とでもいうように考えがちですけれど、上記のような編曲が出版されていて、そこそこピアノが弾けさえすれば容易にオペラの全曲をさらっとさらうことが出来た19世紀の文化状況と比べて実のところどうなんだろう、という思いがあります。

この音源の話に戻りますが、歌手もオーケストラも実に素晴らしい演奏で文句のつけようがありません。どう考えても世界の一流どころが駆けつけて録音するような代物でもないというのに、なんという演奏者の層の厚さだろうか。ジューリアを歌うテレーザ・リンクホルツのアジリタの巧さは唖然とするほどですが、それだけでなく後見人には内緒で既に結婚している人妻ならではの落ち着きを感じさせるところが素晴らしいと思います。
ドルヴィル役のラモン・バルガスはそこそこ名が売れてきているみたいだが、アジリタがきちんと歌えてしかも輝きのある声。他の脇役たちもいずれも適役。生気にみちた管弦楽も魅力的。単に競合盤が少ないということでなく、本当に聴く値打ちのある一枚だと思います。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2015-03-22 00:54 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

林定期能 「東岸居士」 「雷電」

auのおとくちゃん(9歳)嫌いです。なんかイラッとくるし。





今回は秘曲というほどではないにしても、なかなか珍しい演目を観ることが出来ました。

 平成27年3月15日@京都観世会館
 平成27年林定期能第二回

 東岸居士
  シテ(東岸居士) 味方健
  ワキ(旅人) 村山弘
  アイ(所の者) 網谷正美

 仕舞
 右近 國永典子
 俊成忠度 田中義人
 桜川 田茂井廣道
 春日龍神 河村和晃

 狂言
 舟船(ふねふな)
  シテ(太郎冠者) 茂山良暢
  アド(主人) 山口耕道

 仕舞
 杜若 林喜右衛門
 善知鳥(うとう) 大江又三郎

 雷電
  シテ(菅丞相の霊、後に雷) 河村浩太郎
  ワキ(僧正) 原大
  ワキツレ(従僧) 有松遼一
  アイ(能力) 茂山良暢


耳学問ですが「東岸居士」は世阿弥の作であるにも拘らずなかなか評価の定まらない作品のようで、上演の機会はかなり少ないようです。
旅人が都見物で清水寺に参ると、かねがね噂に聞いていた東岸居士という喝食(かっしき)が現れ、橋の改修のために勧進の聴聞を行うという。旅人の所望によって居士は次々と舞を披露し、仏法の要諦を説く。
分類としては四番目物(芸尽物)。今回の上演は橋立という小書があって、冒頭に世の無常と白河橋建立の経緯を語るテキストが追加されています。それはともかく、大したストーリーもないのだがテキストを仔細に読むと非常に面白い。仏教説話風のテキストは読みやすいとは言えませんが、あるキーワードを足掛かりにしていくと全体を見渡しやすいと思います。それは前半のシテの詞、「実に実にこれも狂言綺語(きょうげんきぎょ)を以て。讃仏転法輪の真の道にも入るなれば。人の心の花の曲」という箇所。この狂言綺語という言葉はもともと白氏文集から和漢朗詠集に取られた「願はくは今生(こんじやう)世俗の文字の業(ごふ)、狂言綺語の誤りをもつて、翻(かへ)して当来世々讃仏乗(さんぶつじよう)の因、転法輪の縁とせむ」から来ており、その原義は「これまで私(白居易)は世俗の文学を作って人を惑わしてきたが、これからはそれを仏法を讃え帰依を勧める契機としたい」というものであったのが、後に狂言綺語こそ讃仏乗の因、すなわち歌を詠み舞を舞うことそのものが仏を讃えることであり、神仏もそれを御嘉納されるだろうという意味合いに転じたとされています。「東岸居士」のテキストではさらに終幕の「実に太鼓も鞨鼓も笛篳篥。絃管ともに極楽の。御菩薩の遊と聞くものを。シテ「何と唯。地「何と唯雪や氷と隔つらん。万法皆一如なる実相の門に入ろうよ。」というように、このような狂言綺語、否、歌舞音曲全般に至上の価値を置く考えが高らかに、誇らかに記されていて、これこそ世阿弥が訴えかけようとしたことだろうと思います。もちろんテキストの大半を占める仏法に纏わる記述も(その大半は一遍上人聖絵からの引用とのこと)、この謡曲の鑑賞にはそれらの理解が不可欠だと思いますが如何せん私には不案内な領域であり、今後少しずつ勉強していくつもり。
能そのものは地謡「遊びたはふれ。舞ふとかや」から中ノ舞に入り、クリ・サシ・クセと舞が続きます。中入りの代わりに物着(モノギ=衣装替)があって、腰に鞨鼓を着けたシテが更に鞨鼓の舞を舞うというところが芸尽物といわれる所以。しかしながら素人の私には同じような緩やかな所作が延々と続くようにしか見えず、昼時で花粉症の薬による睡魔のせいもあって所々記憶が飛んでいます。まだまだ修行が足りません(笑)。

仕舞は前半に四番、後半に二番。巧拙のほどは判りませんが、緩急緩急と並べられていて心地よい。特に二つ目の「俊成忠度」の舞が印象的でした。そういえばまだ修羅物を観ていないことに気づきました。来月「朝長」を観るのが多分初めての経験になると思います。

狂言は舟船(ふねふな)。暇を持て余した主人が太郎冠者と西宮見物に出かける。神崎の渡しで舟に乗ろうと太郎冠者が向こう岸の渡し舟に「ふなやーい」と呼びかける。それを主人が聞きとがめ、それをいうなら「ふね」であろうという。太郎冠者は「ふな」が正しいと言い張り、舟を「ふな」と読む古今の歌を詠む。主人も負けじと「ふね」と読む歌を探すがすぐにネタ切れとなり、太郎冠者にまけて最後は叱り留め。
オチは今の言葉でいうなら主人の逆ギレというところか。些か理屈っぽいところが面白いといえば面白いけれど、なかなか現代の観客を笑わせることは難しいでしょうね。私の思い違いでなければシテの茂山良暢さんがフナというべき個所をフネと読んだために(いや、逆だったかな)一瞬チンプンカンプンになってしまいました。

雷電は菅原道真公の祟りを描いたスペクタクル。本当の通はどうか知りませんが、私のような初心者にはやはりこういった鬼神龍神の類が舞台狭しと暴れまくるものが面白くて仕方ありません。
比叡山の僧正が夜中に護摩を焚いていると、菅丞相(道真公)の霊が現れる。藤原時平の讒言によって大宰府に流され憤死した道真は、雷神となって朝廷を襲い政敵を殺すのだといい、それまで師と仰ぐ僧正には参内しないよう伝えに来たのだった。しかし僧正がそれを断るやいなや、鬼の形相になり姿を消す。後日、勅命により僧正が参内すると激しい雷鳴がおこり雷神が現れる。両者の激しい対決の後、丞相に対して帝より天満自在天神の神号が与えられ、慰めを得た雷神は去っていく。
前半の子弟の情愛に満ちた静かな対話の場と、後半のスペクタクルな場との対比が面白さの主眼ですが、僧正が「王土に住める此身なれば。勅使三度に及ぶならば。いかでか参内申さゞらん」と言った瞬間に、ずっと丞相は面を着けているというのに、まさに顔色がさっと変わるように見えるのが不思議です。その後、ワキ「をりふし本尊の御前に。柘榴を手向け置きたるを。地「おつ取つて噛み砕き。おつ取つて噛み砕き。妻戸にくわつと。吐きかけ給へば柘榴忽ち火焔となつて扉にばつとぞ燃え上がる」のあたりは息詰るような両者の動きと言葉の威力によって手に汗を握る面白さ。中入りで延暦寺の能力(のうりき)が事の次第を語った後、側面に金と黒の市松模様、上面に緋毛氈の畳ほどの大きさの台座が二つ運び込まれ、僧正と雷神が互いに二つの台座を行ったり来たりすることで、紫宸殿、弘徽殿、清涼殿・・・と雷鳴が内裏の四方を巡る様子を表します。その少し前、参内した僧正が遠い雷鳴にはっと気づき、左右上と視線をすばやく走らせる所作も思いのほかリアルで面白い。シテ「あら愚や僧正よ。われを見放し給ふ上は。僧正なりとも恐るまじ。われに憂かりし雲客に。地「思ひ知らせん人々よ(略)昼の間夜の殿を。行き違ひ廻りあひて。われ劣らじと祈るは僧正。鳴るは雷。もみあひもみあひ追つかけ追つかけ互の勢たとへんかたなく恐ろしかりける有様かな。」この言葉と囃子と所作の結合というのは本当にエンタテイメントとして最上のものではないかと思います。そして何より面白く興味深いことは、前段の静かな深更の場面も後段の雷鳴の場面も、笛、小鼓、大鼓のわずか三人で何の不足もなく表現していること(所々太鼓が加わりますが、のべつ幕なし鳴っているのではない)。このわずか三人ないし四人の囃子が、劇の背景を十全に表現するという点において、私がこれまで幾度となく観てきたオペラの大オーケストラに匹敵するというのは大変なことなのではないかと思っています。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2015-03-16 23:16 | 観劇記録 | Comments(0)

ハイドンのオペラを聴く(その5)~「突然の出会い」

やっぱり熊が好き。
(ハイドンの交響曲の話)




  
シリーズ5回目は「突然の出会い」。他にも「思いがけないめぐり会い」「意外なめぐり会い」等々、ポピュラーでない為にタイトルの訳語もマチマチ。あまり良い訳とも思いませんが、ここはwikipediaに合わせて「突然の出会い」としておきます。


 突然の出会いL'Incontro Improvviso ~3幕からなるドラマ・ジョコーゾ・ペル・ムジカ
  アリ: クラエス=アーカン・アーンシェ(T)
  レーツィア: リンダ・ゾーバイ(Linda Zoghby)(Sp)
  バルキス: マーガレット・マーシャル(Sp)
  ダルダーネ: デッラ・ジョーンズ(Ms)
  オズミン: ドメニコ・トリマルキ(Br)
  カランドロ: ベンジャミン・ラクソン(Bs)
  スルタン: ジョナサン・プレスコット(Bs)
  士官: ジェームズ・フーパー(T)
  3人の托鉢僧: ジェームズ・フーパー(T)、ジョナサン・プレスコット(Bs)、ニコラス・スカルピナーティ(Bs)


 (並録)3つのアリアと三重唱曲
 トンマーゾ・トラエッタTommaso Traetta(1727-1779)
 「タウリスのイフィゲニア」よりオレステのレチタティーヴォとアリア
  クラエス=アーカン・アーンシェ(T)

 ハイドン
 「アチデとガラテア」よりネットゥーノのアリア
  マイケル・デヴリン(Bs)

 ジュゼッペ・サルティGiuseppe Sarti(1729-1802)
 「偽の相続人」より騎士のアリア
  アルド・ボールディン(T)

 パスティッチョ・オペラ
 「キルケー、または魔法の島」より三重唱
  アーンシェ(T)、ボールディン(T)、デヴリン(Bs)

  アンタル・ドラティ指揮ローザンヌ室内管弦楽団
  1979年6月録音
  CD:DECCA 478 1776

もう何度も同じ事を書いてきましたが、本当にハイドンのオペラは楽しくて素晴らしいものばかり。これが全くといってよいほど演奏されないのは台本の下らなさも大いにあると思うけれど、これもこの時代なら仕方のないこと。ハイドンのオペラが埋もれた真の理由は、モーツァルトより少し早く生まれてしまったことなのではないか、と思うに至りました。これは器楽作品も一緒で、交響曲や弦楽四重奏曲だってベートーヴェンより早く生まれた者の宿命で殊更軽量級に見做されてしまうところが残念です。

これまでに取り上げた作品同様、このオペラも英語版wikipediaに立項されているので物語など参照されたい。

http://en.wikipedia.org/wiki/L'incontro_improvviso

これによると、1775年8月29日、ハプスブルク家のフェルディナンド大公と奥方のマリーア・ベアトリーチェ・デステがエステルハーザ宮を訪問したのを記念して演奏されたとのことで、その後は1966年の蘇演まで再演された記録はないようです。しかし、このオペラの特色はなんといってもそのトルコ風の音楽。
トルコ風といえば誰しもモーツァルトのトルコ行進曲やオペラ「後宮からの逃走」、ヴァイオリン協奏曲の第5番、あるいはベートーヴェンのトルコ行進曲を思い浮かべると思いますが、ものの本(※)によるとこの嚆矢というのは、1683年のオスマン帝国のウィーン包囲のすぐ後、1686年にヨハン・ヴォルフガング・フランクがハンブルクで上演したVizier Cara Mustaphaen(Vesir Kara Mustafa)というオペラだとされているようです。その後、ヘンデル(タメルラーノ)、ヴィヴァルディ(バヤゼット)、モーツァルト(ツァイーデと後宮)、ウェーバー(アブ・ハッサン)、ロッシーニ(イタリアのトルコ人、マホメット二世)、ビゼー(ジャミレ)と19世紀まで続いていくわけですが、この期間にイタリアだけでも40作もの「トルコ風」オペラが書かれたそうだ(今ふと思ったのだが、オペラじゃないけどサン=サーンスの「動物の謝肉祭」のライオンもそんな感じですね)。
※”Opera and Ballet in Turkey"DIRECTORATE GENERAL OF TURKISH STATE OPER AND BALLETより)
このオペラもそういった流行ものといってしまえばそれまでだが、モーツァルトやベートーヴェンの「トルコ風」が、太鼓やシンバルが入って賑々しい、くらいの意味合いしかないのにくらべると、ハイドンはもう少し踏み込んでトルコのイェニチェリの音楽を研究した形跡が伺われます。
まずは全曲の構成を観ておきます。

 序曲
 第1幕
  No1.導入(カランドロと3人の僧侶)
  レチタティーヴォ・セッコ(R.S.)
  No2.カンツォネッタ(オズミン)
  R.S.
  No3.アリア(カランドロ)
  R.S.
  No4.アリア(カランドロ)
  R.S.
  No5a.レチタティーヴォ・アコンパニャート(R.A.)(レーツィア)  
  No5b.アリア(レーツィア)
  R.S.
  No6.三重唱(レーツィア・バルキス・ダルダーネ)
  No7a.R.A.(アリ)
  No7b.アリア(アリ)
  R.S.
  No8.二重唱(カランドロ・オズミン)
  R.S.
  No9.アリア(オズミン)
  R.S.
  No10.アリア(バルキス)
  R.S.
  No11.フィナーレ(オズミン・バルキス・アリ)

 第2幕
  R.S.
  No12.カンツォネッタ(アリ・オズミン)
  R.S
  No13.アリア(ダルダーネ)
  R.S.
  No14.カンツォネッタ(レーツィア)
  R.S
  No15.アリア(レーツィア)
  R.S
  No16.アリア(アリ)
  R.S
  No17.アリア(バルキス)
  R.S
  No18.カンツォネッタ(カランドロ)
  R.S
  No19.アリア(オズミン)
  R.S
  No20.二重唱(アリ・レーツィア)
  No21.フィナーレ(バルキス・レーツィア・アリ・カランドロ・オズミン・ダルダーレ)

 第3幕
  R.S
  No22.カンツォネッタ(レーツィア)
  R.S.
  No23.アリア(アリ)
  R.S.~R.A.~R.S.
  No24.間奏曲
  No25a.R.A.(レーツィア・アリ・スルタン)
  No25b.フィナーレ(全員)


トルコ風ということでは序曲や最後のフィナーレなど、太鼓やシンバルが入って賑やかだが、曲想は特段トルコ風ということはありません。しかし次の第1曲の托鉢僧の合唱が男声だけの斉唱ということで、オペラの幕開けとしてはとても珍しくいかにも「トルコ風」に聞こえます。また終結部では「イラハー」と歌われますが、これは多分「アラーの他に神無し」という言葉の断片なのだろう(※※)。第2曲のあとのセッコでも、「イッラー・イラハー」と歌われます。第3曲のカランドロのアリアは、イェニチェリ(軍楽隊)の音楽を模したもので、モーツァルトやベートーヴェンの「トルコ風」とは比較にならないほど面白い。第8曲の二重唱(カランドロとオズミン)も同様の素材を用いています。
不思議なことに第2幕ではトルコ風の要素はほとんど出てきませんが、第3幕の第23曲アリのアリアはこれまた強烈なトルコ風。形式ははっきりしないが、第1主題が再現部で反行形ででてくる一種のソナタ形式もしくはロンドソナタと見られます。第2主題の短調推移部は奇妙な半音階進行で、これもイェニチェリの研究成果なのかも。次の第24曲間奏曲もいかにもメフテル風の行進曲。これらの楽曲は当時のエステルハーザ宮ではさぞかし前衛的に響いたであろうと思います。既にウィーンを包囲したオスマン帝国の恐怖に満ちた記憶は薄れていたでしょうが、なんとなく禍々しい感じをうけたかも知れません。
※※途中のセッコでもなんどとなく「イッラー・イラハー」が聴かれますが、なんとなくコーランの出鱈目な引用という感じがします。現代の舞台に掛けるには多少センシティブな問題があるかも知れません(問題が問題にならないほど人気がないことのほうが問題?)

その他は特段トルコ風ということはなくて、いつもながらの晴朗で知的な音楽がふんだんに盛り込まれています。聴きどころというと「全部」といいたくなりますが、なかでも第6曲の女声ばかりの三重唱は第1幕の白眉。A-B-A-B-cadenza-codaという構成ですが自由度は高く、3人の女声が絡み合う美しさはいつまでも続いてほしいと思うほどです。また、第2幕では主要な役どころが順次珠玉のようなアリアを歌う歌合戦の様相を呈していて、第2幕全部が聴きどころ。第13曲ダルダーレのモーツァルト風の流麗極まりないアリア、第15曲レーツィアの目覚ましいアジリタが聴きもののアリア、第16曲アリのアリアは広い音域の跳躍やアジリタなど至難な技巧で、終盤にはテノール泣かせのハイDが出てきます。第17曲バルキスのアリアも流麗でアジリタが聴きもの。以上の4曲ともソナタ形式で書かれているのが注目されます。

実はこれまで聴いてきたハイドンのオペラ(1779年の「真の貞節」から1784年の「アルミーダ」までの4作)ではソナタ形式のナンバーというのはとてもすくなく、この1775年の「突然の出会い」のソナタ形式の楽曲の多さというのは大変目立ちます。具体的に言うと、第7,10,13,15,16,17,20,23曲がソナタ形式で書かれており、その多くは展開部の入りでさっと悲しみの影がよぎるような短調への転調が置かれています。その他のナンバーは次々と曲想をかえていくフィナーレ(第11、21曲)や、ロンド風のブッフォアリア(第4、19曲)を別とすると概ねシンプルな二部もしくは三部形式で書かれています。特に「カンツォネッタ」と題されたものはすべてABA、ABABA,ABABといった単純な形式です。何度も繰り返して聴いていると、各ナンバーの曲想と形式とが互いに不即不離の関係にあって、しばしば完璧な形式美を生み出していることに感嘆せざるを得ません。少し長くなりますが、具体例を挙げてみましょう。
第20曲のアリとレーツィアの長い二重唱は第2幕の中でもとくにすぐれた音楽だと思いますが、ソナタ形式の第1主題をまるで協奏曲のように管弦楽がゆっくり奏で、ついてテノール、ソプラノの順にこの主題を歌います。経過句より重唱となり第2主題、経過句の旋律が短調で奏されるところから展開部に入り、そのまま第2主題再現、カデンツァと続いてattaccaでフィナーレへ続いていきます。前半で何度も第1主題が繰り返されるので再現部ではいきなり第2主題から始まるのがなんとも心憎い。およそ情緒的な表現とは程遠いのに、スルタンの目を盗んで愛し合う二人の陶酔も不安もすべて音楽に盛り込まれています。
第3幕第22曲は8分ほどかかる長いナンバーですがカンツォネッタと題されています。たしかにこちらはソナタ形式ではなくて前奏-A(変ロ長調→へ長調)B(ハ短調→変ロ長調)A'(変ロ長調)-間奏-ABA'の構成。ABAは前奏(間奏)の旋律を前後に分け、短調のエピソードBを挟み込んだ形。落ち着いた曲調の傑作だと思う。ここではレーツィアの静かな諦念に即した音楽が置かれたのだろうと思います。

以下はまだ仮説のようなものだけれど、ハイドンはこの1775年のオペラで、ソナタの形式原理をオペラに持ち込み、ほとんど完成の域まで高めながら、そのあとの幾つかの気の張らない喜劇群において一旦ソナタ形式をすて、単純な二部形式や三部形式を旨とする歌芝居の世界に回帰します。しかし、たとえばABA’という三部形式であれば、最初のAは属調でおわり、A’のほうは主調で終わるといったソナタ形式の応用によって、バロックオペラの泣き所であった冗長さのかわりに弁証法的調性展開からくるダイナミズムを手にしたのでしょう。さらに時代が下ると、ひとつのアリアのなかで抒情的なロマンツァと聴衆を夢中にさせる華やかなフィオリトゥーラを両方聴かせる大アリア形式を取り入れ、後進のモーツァルトにその後のオペラの発展を委ねてみずからはオペラの創作を(1791年にロンドンからの注文で「哲学者の魂」を書くまで)止めてしまう、という大きな流れが見えてくるような気がしています。
この仮説はもうすこし時間をかけて検証しなければなりませんが、それはともかくこのオペラにおいて優れたアリアの殆どがソナタ形式で書かれ、その前後にやや気楽なカンツォネッタを配するというアイデアは、ハイドンの作曲家としてのメチエの充実を物語っているのだろうという気がしています。

演奏についてですが、普通のオペラであればヒロインの侍女というのは完全に脇役扱いのところ、この作品では(おそらくフェルディナンド大公の威光を讃えるという目的で多くの歌手を調達できたせいで)二人の侍女がヒロイン(ペルシャの王女レーツィア)とほとんど同等の技量で歌わなくてはなりません。このCDでは、ヒロイン役のリンダ・ゾーバイがやや知名度で劣るものの、しっかりしたテクニックで歌っていますが、それよりむしろ侍女役をマーガレット・マーシャルとデッラ・ジョーンズが歌っているのがなんとも贅沢な感じでとてもうれしい。レーツィアと二人の侍女、それぞれのアリアも三人三様すばらしいが、この三人の三重唱には陶然と酔いしれる心地がします。男声陣も万全。アーンシェというテノールは聞けば聞くほど凄い歌手だと思うようになってきています。そしてドラティの指揮。何も考えてないんじゃないかというぐらい易々と演奏しているけれど、この一切の情緒的夾雑物を取り除いた演奏は、ハイドンの核心に迫るものがある。モーツァルトだって音楽的な純度の高さは同じだろうが、ハイドンとくらべたらまだモーツァルトのほうが情緒でごまかしようがあるのかもしれない、などと思いました。演奏家にとってはハイドンのほうがモーツァルトよりも寧ろ手ごわそう。


CD3枚目の余白にアリアやテルツェットが4曲ばかり収められています。CDのブックレットには何の説明もないのですが、1曲目と3曲目はハイドンが他人のオペラの為に挿入曲として書いたもののようです。トラエッタにしてもサルティにしても、今や名前すら知られていませんが、当時はそこそこ人気があったのでしょう。そして3曲目はハイドン自身の1762年に書かれたオペラのアリア(その他のナンバーは大部分紛失したようだ)、最後に当時はやったパスティッチョ(寄せ集めオペラ)からのテルツェット。どれもこれも聴きごたえがあり、かつとても楽しい作品ばかり。とくに2曲目の若書きのアリアはバスのアリアとしては驚異的なアジリタの連続に唖然とさせられます。また最後の三重唱は附点リズムの無窮動風の音楽が後のロッシーニを思わせるほどからっとした愉悦に満ちています。オペラに続いてこれらを聴きとおすと、まるで豪勢なコース料理のあとに、次から次へ美味しいプチフールが出てくるみたいだ。これぞ贅沢の極み。歌手、管弦楽とも文句のつけよう無し。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2015-03-05 01:07 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)