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新国立劇場オペラ研修所公演 ロッシーニ「結婚手形」「なりゆき泥棒」

スマホで「なまはげ」と打つとめちゃかわいい鬼の顔の絵がでてくるよ。





新国立劇場のオペラ研修所によるロッシーニのファルサ2本立て公演、わざわざ関西から聴きに行った甲斐がありました。


 2015年2月21日@新国立劇場中劇場
 「結婚手形」
   トビーア・ミル: 西村圭市(Br) 
   ファンニ・ミル: 飯塚茉莉子(Sp)
   エドアルド・ミルフォルト: 水野秀樹(T)
   ズルック: 大野浩司(Br)
   ノルトン: 後藤春馬(Bs-Br)
   クラリーナ: 高橋紫乃(Ms)

 「なりゆき泥棒」
   ベレニーチェ: 種谷典子(Sp)
   ドン・パルメニオーネ: 大野浩司(Br)
   アルベルト伯爵: 岸浪愛学(T)
   エルネスティーナ: 高橋紫乃(MS)
   マルティーノ: 後藤春馬(Bs-Br)
   ドン・エウゼービオ: 伊藤達人(T)

  指揮: 河原忠之
  演出: 久恒秀典
  管弦楽: 東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団


いつも読んでいるブロガーさん達の評価が今ひとつなのは残念だけれど、少なくとも私が聴いた21日の公演のキャストは素晴らしい歌唱であったと思います。どちらかといえば曲目の珍しさに惹かれて聴きに行ったので、正直なところ演奏に対する期待値はさほど高くなかった訳ですが、現在の若手の歌手達の技術がここまで進んでいるとは、と驚嘆の思いを禁じ得ませんでした。特に「結婚手形」のファニー(ファンニ)役の飯塚茉莉子と「なりゆき泥棒」のベレニーチェ役の種谷典子が素晴らしく、彼女たちの歌を聴けただけでもう大満足。とりわけ後者のソロ「あなた方は花嫁を求め Voi la sposa pretendete 」は驚くべき技術で、後半の繰り返しのヴァリアンテもこの上なく華やかでしたがまだまだ余裕のある歌いぶり。おそらく今後頭角を現していかれることと思いますが、彼女のたった1日限りのベレニーチェを聴けたことを私はずっと自慢に思うに違いありません。
ロッシーニのオペラの興行において最も困難なことは、輝かしい声でアジリタを正確に歌えるハイ・テノールの確保であると思いますが、エドアルト役の水野秀樹、アルベルト伯爵役の岸浪愛学ともども、十分期待に応えてくれたと思います。岸浪はちょっと風邪気味だったのか、声が擦れそうになることもありましたが、至難なアリア「どんな神聖な務めも D'ogni più sacro impegno 」を誤魔化し無しで果敢に歌いきって素晴らしかったと思います。
他の歌手たちも総じて優れていたと思いますが、指揮の河原忠之があまりにも歌手の生理に合わせて、というか安全運転に過ぎるものでしたので、ちょっと間延びするところも。ズルックとドン・パルメニオーネを歌った大野浩司など、こまかい音符をはしょらず丁寧に歌っているのには好感を持ちましたが、指揮者は時に過酷であっても更に彼らを追い詰めるべきだったのではないか、などと思いました。脇の何人かはそろそろ中堅といった歌手が押さえていましたが、トビーアを歌った西村圭市は(私は以前「スペインの時」(ラヴェル)のラミーロ、「カーリュー・リヴァー」(ブリテン)の旅人を聴いているが)さすが場数を踏んできた歌手ならでは。そのコミカルな味わいはちょっとインパルスの板倉のコントを観ているような感じです。また「なりゆき泥棒」のドン・エウゼービオ役の伊藤達人も以前「フィレンツェの悲劇」(ツェムリンスキー)のグイドや「カルディヤック」(ヒンデミット)の騎士役を歌うのを聴いていますが、今回はまさかのオネエ役という設定で笑わせてくれました(コミカルで、しかも後味が良い)。脇役も穴がなく、後藤春馬や高橋紫乃のシャーベット・アリアが本来の「お口直し」をはるかに超えて聴かせるものになっていたのも素晴らしいと思います。

河原忠之の指揮については先ほども書いた通り少々もっさりしたところもあるのだが、歌手に余裕があるとすばらしく適確なテンポになり、そうでない場合やアンサンブルになるとやけに慎重になる癖があるように思いました。とはいえ、「結婚手形」のフィナーレや「なりゆき泥棒」の五重唱など、アンサンブルでもスリリングに聴かせるところもあって、どこまでが指揮者の計算の内なのか、ちょっと判断に困るところ。私自身はいくつかのブログの悪評ほど酷いとも思いませんでした。それは東京シティフィルの好演によるところが大きいと思います。やや重心が低音寄りなのだが十分に輝きもあり、薄っぺらにならない響きが実に良かったと思います。ロッシーニとなると途端にスッカスカの音を鳴らすオケが多い中、これは良い意味で予想を裏切られました。そのせいで、ところどころ重いテンポの個所も、それはそれでちゃんと音楽として成り立っているように思いました。もちろん私とてもっと颯爽とやってくれないかな、と不満に思う所もありますが、ロッシーニが(驚異的な速筆にも関わらず)一音一音克明に楽譜に書きつけたアジリタをすっ飛ばすような雑な演奏を聞かされるよりは、よほど良かったと思います。

もうひとつ特筆すべきことは美術の美しさ。「結婚手形」では前方に傾いだ丸舞台の両脇に大きな扉のある壁、舞台奥にもうひとつ扉、舞台上にはアンティーク風の地球儀、書き物机に籐の衝立。シンプルだが落ち着いた色合いで、19世紀初頭の中産階級の邸宅の表現としては申し分なし。「なりゆき泥棒」は同じ八百屋舞台の上に、楕円形の額縁に雲が描かれた絵画のようなものが吊り下げられ、前半の嵐の宿の場面ではそれに流れる雲のような照明が当たってあたかも天窓のように見え、後半はロココ風の調度品となって侯爵家の瀟洒な室内を表す。それ以外には舞台下手にソファ、小道具に旅行鞄と4つの荷物を入れた箱のみとシンプルだが、芝居のお膳立てとしては必要にして十分。演出はごくごく常識的なものだが、なじみの薄い出し物なのでこれで良いと思います。

土曜の夜にしては客の入りはよくありません。ロッシーニの天才を知らない人が多いのは残念ではありますが、この国の妙な独墺偏重主義に凝り固まった年寄がクラシックコンサート市場の上客である以上、致し方ありません。だからこそ、ロッシーニの演奏至難な初期ファルサをオール日本人キャストで高水準な舞台で聴く日がこようとは、と実に感慨深いものがありました。日本のオペラ界というのも狭い世界だけれど、その中の若手の世界では今や、かつてのロッシーニ・ルネサンスの頃もかくやというほど、すぐれた才能が現れてきているらしい。声楽家もアスリートと一緒で、年々巧くなっていくものなのかも知れません。来る4月の大阪での「ランスへの旅」公演も楽しみです。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2015-02-24 23:59 | 演奏会レビュー | Comments(2)

杉浦定期能 「弱法師」 「百万」 「鵺」

常岡浩介で検索して猫とかにゃーにゃが出てきたら本人もちょっとうれしいんじゃないかと思うが、江川●子で閉経とかめい●まで上から目線とかお気の毒、あ、後者は合ってるからいいか。





だいたい月イチの観能。ホントはもっと見たいのだけれど、これ以上のペースだと消化不良になるような気がして。

  平成27年2月14日@京都観世会館
  杉浦定期能

  弱法師 
   シテ(俊徳丸) 金子昭
   ワキ(高安通俊) 原大
   アイ(通俊の従者) 茂山良暢

  狂言
  悪坊
   シテ(悪坊) 茂山正邦
   アド(出家) 茂山あきら
   アド(宿の亭主) 網谷正美

  百万 
   シテ(百万) 塚本和雄
   ワキ(男) 村山弘
   子方(百万の子) 大江信之助
   アイ(清凉寺門前の男) 丸石やすし

  仕舞
   巴 大江信行
   当麻 大江又三郎
   隅田川 井上裕久
   融 杉浦豊彦

  
   シテ(舟人、鵺の亡霊) 杉浦悠一郎
   ワキ(旅僧) 有松遼一
   アイ(芦屋の里の者) 増田浩紀
   

「弱法師」と「百万」はいずれも生き別れた親子の再会の物語ですが、男親か女親かで色々な事柄が随分と異なります。
まず「弱法師」から。
河内の国、高安の通俊はさる人の讒言によって我が子俊徳丸を追放するが、日が経つにつれて不憫に思い天王寺にて七日施行(せぎょう)を行う。そこに盲目の乞食が現れ舞を舞う。通俊はその乞食が他ならぬ俊徳丸と知り、高安の里に連れ帰る。
次に「百万」。
吉野の男が西大寺で一人の幼子を拾い、嵯峨の大念仏にやってくる。そこに百万という狂女が現れて舞う。幼子が百万こそ自分の母であることに気付く。男が百万に幼子を引き合わせ、二人は再会を喜ぶ。
弱法師では父が子を探しているのだが、劇の主役は子であってしかも盲目である。百万では母が子を探しており、主役は母で狂女という設定。弱法師の父は、我が子と認めて後も、人目を気にして夜になるまで名乗りをしない。百万では子供が先に母であると気づくが、連れている男はすぐには名乗らせず、百万の恨みを買う。ここにはa)共通する項目(名乗りの遅延)と、b)対称的な項目(盲目の子と不自由のない子、物狂いの母と正気の父)が見て取れます。
a)の共通する項目ですが、「弱法師」の通俊の台詞「人目もさすがに候へば。夜に入りて某と名のり。高安へ連れて帰らばやと存じ候。」、あるいは「百万」の男の「これは思ひもよらぬ事を承り候ふものかな。やがて問うて参らせうずるにて候。」はどちらも人によっては随分と情の無い言葉だと思われるかも知れません。すなわち通俊は盲目となった我が子の痛ましい姿を目にしても、世間体のほうが大事なのか、ということになるし、百万の男は幼子が母だと気づいたにも関わらず、尚も百万に物狂いの舞を舞わせてみてみたいという欲望を抑えることができない、ということになってしまいます。しかし、これらの台詞を現代劇のように額面通りに受け取ってはいけないような気がします。この「名乗りの遅延」は、親子の対面が叶った瞬間に劇が終わってしまうという作劇法からの要請というよりも、なにか説話的、神話的あるいは呪術的なレベルでの意味合いがあるような気がします。隅田川の船頭の語りなどもそういった意味合いがあるのかも知れません。
b)の対称的な項目については、母と子の生き別れが他にも「隅田川」「桜川」「三井寺」などがあるのに対し、父と子のほうは他に例があるのかよくわかりません。わずか一例ではこれ以上のことはなんとも言えません。盲目のシテという意味では「蝉丸」があるようですが、こちらは同じ生き別れでも親子ではなく姉弟。レヴィ=ストロース風の変換を当てはめるのはちょっと無理筋か。

弱法師の話に戻ると、この能の見どころというのは偏に盲目の俊徳丸の所作から与えられる痛ましさというものであろうと思いますが、杖で足元を探る動作のリアリティには驚きながらも、情緒的な意味での感動は得られませんでした。これは私の理解が及ばないからか、もともとそういうものなのか。三島由紀夫が皮肉で苦い味わいの近代能楽集に翻案した理由ともども、考えてみましたが簡単に結論はでそうにありません。百万も然り。最後、子方が一人橋懸りから退場すると、しばらくして百万がゆっくりと後を追う。どうも苦難の末に対面したばかりの親子とも思えぬ所作に馴染めないのも、近代的なドラマトゥルギーに染まり過ぎた弊害だろうか。

狂言は悪坊。
気の弱い旅の出家(僧)が悪坊という酔っぱらいにからまれ、嫌々ながらも同じ宿に泊まる羽目に。さんざんなぶられた出家は悪坊が寝入ると仕返しとばかり、悪坊の小袖と自分の十徳を取り替え、悪坊の薙刀や帯刀を持ち去り、かわりに唐傘と助老を置いておく。目を覚ました悪坊は、これは釈迦か達磨が自分を戒めたものであろうと勘違いして宿を発つ。
実際の酔っぱらいは困ったものですがこちらの悪坊はなんとも愛嬌があって可笑しい。ふらつく足で薙刀を柱にもたせ掛けようとして、「柱が十本にも二十本にも見える」云々というところなど大笑いでした。

仕舞は四番。今回、隅田川からの舞を見れたのは収穫でした。仕舞は鳥の名を問うシテに対して「沖の鷗」と答えた船頭の対話を受ける地謡、「我もまたいざ言問わん都鳥」から「さりとては渡守、舟こぞりて狭くとも、乗せさせ給え渡守。さりとては乗せさせ給えや」までの部分を取り上げています。素人目にはとても地味なものに見えますが、見巧者にはいろいろと面白いのでしょうか。全体に、「巴」以外はいずれも動きのすくない舞です。

最後は「鵺」。
芦屋の里。旅の僧のもとに舟人が現れ、近衛院の御代、仁平の頃に夜な夜な主上を悩ませた怪物鵺が源頼政に退治されたようすを語って聞かせる。里の者から詳しい経緯を聞いた僧がそのまま留まって供養を行うと鵺が現れ、「思へば頼政が矢先よりは君の天罰を当たりけるよと今こそ思ひ知られたれ」と悔やみながら海のかなたに消えていく。
鵺は「頭(かしら)は猿、尾は蛇(くちなは)、足手は虎のごとくにて、鳴く声鵺に似たりけり」という魔物。前シテは黒頭、黒づくめの装束に怪士(かいじ)の不気味な面、後シテは赤頭に小飛出。前半は動きが少ないが、後半は本性を現した鵺がぞんぶんに舞台を暴れまわって切能に相応しく終わります。見た目の面白さもさることながら、頼政と鵺の対決の場は、シテ「矢取つて打ちつがひ」地「南無八幡大菩薩と。心中に祈念して。よつぴきひやうと放つ矢に。手応へしてはたと当たる。得たりや、おうと矢叫びして。落つる所を猪早太(いのはやた)つゝと寄りてつゞけさまに。九刀(ここのかたな)ぞ刺いたりける」云々といった調子で、まるで平家物語を読んでいるかのよう。ちなみに「弱法師」と「百万」のテクストは仏教説話風の文体で読むのにかなり骨が折れますが、鵺のほうは比較的読みやすく、また聞き取りやすく、こんなことも切能に相応しいポイントかも知れません。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2015-02-16 23:48 | 観劇記録 | Comments(0)

バルトーク 弦楽四重奏曲連続演奏会vol.2

検索画面で「常岡」とうっただけで「常岡浩介 猫」とか「常岡浩介 にゃーにゃ」とか出てきてなごむわー。





泉原隆志率いる弦楽四重奏団のバルトーク連続演奏会の第2回を聴きました。

  2015年2月9日@カフェ・モンタージュ
  バルトーク
   弦楽四重奏曲第1番Sz.40 (1909)
   弦楽四重奏曲第4番Sz.91 (1927)

  泉原隆志(vn)、長谷川真弓(vn)、金本洋子(va)、城甲実子(vc)


同じメンバーによる第1回の様子は以前このブログに書きましたが、

http://nekolisten.exblog.jp/20248537/

今回の演奏もバルトークのフォークロア的な側面を際立たせる演奏という印象は変わりません。しかし、前回よりも技巧のほつれが少なく、音楽への踏込み方も深くなっており、完成度が格段に上がっていました。上り坂にある若い人達らしく、わずか数ヶ月の間に驚くほど巧くなっているように思いました。
私個人のバルトークの弦楽四重奏曲との出会いについては前回書きましたので繰り返しませんが、第1番についてはどうしても後の諸作に比べて、内容の割に長すぎるのではないか、といった感想を持たざるを得ませんでした。しかし、今回彼らの闘志がみなぎるような気負い立つ演奏を聴いて、初めてこの作品を飽きずに最後まで面白く聴きとおせたような気がします。このことは本当に凄いことだと思います。バルトークの、ベートーヴェン以降の弦楽四重奏曲の歴史に連なろうとする気負いが、彼らの今現在の演奏スタイルにぴたりと合致したことでこのような演奏になったのでしょう。そしてその気負いを正しく表現すれば、フォークロア的側面は体臭のように自ずと現れ出るのだと思います。もしかするとこのような表現は、技巧にも優れ、場数を踏んだベテランではなくて、彼らのような伸び盛りの若い四重奏団にしかできないものがあるのかも知れず、今回の演奏を聴けたことは実に貴重な体験であったのかも知れません。

第4番について、カフェ・モンタージュの店主がベルクの「抒情組曲」と並んで20世紀の弦楽四重奏曲の双璧といったことを口にされていましたが、これに異を唱える向きは少ないだろうと思います。もちろんショスタコーヴィチ、シェーンベルク、ウェーベルン、ブリテンはどうなるんだ、という声もあろうかと思いますが、彼らの作品がどれか一つというよりは全体として重要であるのに比べて、抒情組曲とバルトーク4番はずばり1曲対1曲のガチンコ勝負という感じがします。それだけどちらも多彩で密度の濃い作品ということでしょう。
それはともかく第4番も実に面白い演奏。彼らの演奏は、前回よりはるかに技巧的な難点が克服されているものの、精緻といった感じではなく、かなり粗削りなところも残しているのは確かだろうと思います。しかし粗削りだからこそ、この作品のもつマジャールの血の刻印がはっきりと読み取れるような気がしました。前回、私は第3番を評して「バルトークのラジカルな要素とフォークロア的要素がぎりぎりの地点で奇跡のように両立している」と書きましたが、今回の演奏を聴くと、やはりこの言葉は第4番にこそ相応しいと思います。そういった意味で、作品の本質をとらえた優れた演奏であったと思います。

このシリーズ、来る4月24日、第2番と第6番が最終回。今回も満員御礼だったそうなので、興味のある方はどうぞお早めに。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2015-02-12 22:34 | 演奏会レビュー | Comments(0)

西村朗ピアノ作品によるリサイタル

代替食品ソイレントが出荷開始ってニュース、40年ほど前の映画「ソイレント・グリーン」を知ってる世代にはガセネタとしか思えないんだが・・・





京都のカフェ・モンタージュで西村朗作品によるリサイタル。この40人ほどでいっぱいになってしまう小さなカフェがコンテンポラリー音楽の聖地になる日は近い?

                                            
 2015年2月8日@カフェ・モンタージュ
 西村朗作品集
  《炎の書》(2010)
   (トーク)
  《神秘の鐘》(2006)
  《薔薇の変容》(2005) 
  《カラヴィンカ》(2006)
   (トーク)
  《オパール光のソナタ》(1998)
  《タンゴ》(1998)
  《アリラン幻想曲》(2002)
  《三つの幻影》(1994)
   (アンコール)
  田中吉史《松平頼暁のための傘》(2010/11)
   〔松平頼暁・西村朗両氏の対談の音声素材に基づく〕(委嘱作品)
  ジョン・レノン(西村朗編曲)《ビコーズ》(1969/91)
  武満徹(西村朗編曲)《さようなら》(1953/2001)

  ピアノ:大井浩明、トーク:西村朗


大井浩明が東京でPOC(Portraits of Composers)と銘打ち、毎回一人のコンテンポラリー音楽の作曲家を取り上げて、そのピアノ曲を可能な限り網羅的に演奏するという意欲的なリサイタルのシリーズを続けているのは周知のことだろうと思います。今回のはいわばそのPOCの番外編といったもので、ピアノ曲のみとはいえ、西村朗の音楽がこれほど集中的に取り上げられるということも珍しいだろうと思います。
私は不勉強ながら彼の音楽をほとんど知りません。数年前のN響アワーで「蘇莫者」という舞楽の舞を伴うオーケストラ曲の抜粋を聴いて、かなり好意的な感触を得たけれども、その後あれこれ音源を取り寄せるところまではいかず今日に至りました。そんなわけで良くも悪くも殆ど何の先入観も持たないまま聴いた次第でしたが、ある意味非常に判りやすい音楽という感じがしました。そしてその判りやすさが、音楽としての面白さの根幹をなしているという風にも思えます。
これらの作品について、西村氏自身が大井浩明のブログに自作解題を寄せておられますので、詳細はそれを読んでいただくとして、

http://ooipiano.exblog.jp/23409101/

まず目に付くのは、「水」や「炎」、「光の乱反射」や「鳥の声」といった視覚的、聴覚的なモチーフによる標題楽が多いということ。その当然の帰結として、これらのキーワードを目にしたときに誰もが思い浮かべるであろうピアノ曲の大家、ドビュッシー、スクリャービン、メシアンらの響きの、遠い木霊が聞き取れます。
その視覚的、聴覚的イメージというのは、当日のトークで上掲の解題よりも更に具体的に語られました。例えば、冒頭の《炎の書》は中目黒不動尊で目にした護摩の炎とそのゆらめく火影であること、次の《神秘の鐘》は嵐山の化野を訪れた際にインスピレーションを得たこと、第2曲の子守歌は水子を弔うものであり、両端楽章は渡月橋を渡ってあの世とこの世を往来するイメージであること、最後の《三つの幻影》の第2曲で、内部奏法(低い音の弦を指でミュートしながら鍵を強打する)の音はバラナシ(ベナレス)の河岸の火葬を見た時の、骨が割れる音であること、また第1曲はガンジス河そのもの、第3曲は火葬で唱えられるマントラの音による描写であること云々。
これらの身もふたもない直截な元ネタを、いくら作曲者自身の言葉だからと言って額面通り受け取ってよいのか、それともこれは一種のリスナーに対するサービスなのか、よく分りませんが、少なくとも抽象的な音の運動と響きのみを追求すると思われがちな現代の作曲家の中にあって、視覚的聴覚的かつ具象的なイメージから音楽を作る(今となってはもしかすると珍しいタイプの)作曲家であるということが判りました。そしてその語られたイメージと相俟って、耳で聴いた際にとても判りやすく感じられるということ。その音楽は、セリエリスムとは無縁ながらも新調性主義とも袂を分かっており、しかもところどころ調性的なフレーズが忍び入ることを拒んでもいない、といったスタイルだと思います。決して聴き手の耳に媚びるタイプではないが、ドビュッシーやメシアンを聞き慣れた耳であればそこそこ長時間でも聴きとおせるような判りやすさと言ってよいと思います。
更に、トークでご自身の作品を評して「よく言えばギャラント、悪く言えば饒舌」と仰った通り、一言で言えばものすごく音が多い。その点においても、さきほどから何度も名前を挙げたドビュッシー、スクリャービン、メシアンらと極めて近いところにある音楽という感じがします。これだけ多くの作品を立て続けに聴くと、やや食傷気味になるところ無きにしも非ずではあるが、少なくともリサイタルで一曲ないし二曲取り上げる分には、聴き手にも面白く、弾き手にもカタルシスをもたらすこと必至であると思います。

大井浩明の演奏はいつもながらの明晰なもので、硬質でブリリアントな音質が作品によく合っていたと思います。それと同時に、昨年のドビュッシーのリサイタルでも感じたことだが、以前よりも荒削りなところが目立ってきた感じもします。スコアを見た訳ではないので何とも言えないところもあるが、華麗なアルペジオなどでもっと一音一音の粒立ちが欲しいと思ったことが何度もありました。もしかすると、初見である程度弾けてしまうために、却って細部の磨き上げが上手くいかないタイプなのかも知れません。

アンコールが三曲。
田中吉史の作品はタイトルにもあるように、NHK「現代の音楽」で松平頼暁と西村朗が対談した時の音声をピアノに移したもの。こういうと、聞いたことがない人にとってはちんぷんかんぷんだと思うので、近い例として次のyoutubeを挙げておこう。伊賀拓郎という作曲家が作曲(?)した、元西宮市議の野々村某という43歳児の号泣会見を忠実にピアノに移したもの。これは抱腹絶倒、はっきり言って元ネタよりよほど面白いぐらい。およそ人類の役には立ちそうにないが、凄い才能です。

https://www.youtube.com/watch?v=CbrNtKd2nxQ

さて本家(田中作品)のほうだが、大井氏が曲目紹介を兼ねて語ったところによると、西村氏が放射線遺伝学とかなんとかの学者でもある松平氏にその方面の話題を振ったところ、松平氏が滔々と話し出したので西村氏が「はぁ・・」と気のない返事をする様子などが克明に描かれている(笑)。西村氏の声が素材となっているからこれをアンコールに取り上げたと大井氏が語っておられましたが、私の中では「人の声」を素材とする技法が「鳥の声」を素材としたメシアンを想起させ、技法と響きの両面でメシアンとの近親関係を示唆する西村作品に向けて大きなアーチを掛けてリサイタルを締めくくったといった感じがしました。いっそのこと、この作曲者にはメシアンばりに「人のカタログ」を作曲してもらったらどうだろうか。ジャパネットたかたの高田社長などは素材として極めて面白そうだ。
・・・と、ここまで書いて、ネットで調べてみると、この田中吉史という方、既にルチアーノ・ベリオやブルーノ・マデルナの声、あるいはもっとアノニマスなテレビの気象情報の音声や、専門的すぎて殆どの人にとってはわけのわからない音の連なりでしかない学術発表などを素材に作品を書いているようです。これは面白そうです。
アンコール、あとの2曲はまぁ他愛ないアンコールピースの類か。

それにしても今月のカフェ・モンタージュは20世紀以降の音楽ばかりでなかなかの壮観。私は都合で行けませんが、ジョン・ケージのフリーマン・エチュード演奏会(最初の二巻)とか、ブーレーズのピアノ曲全曲とか、びっくりするようなリサイタルがあるので興味のある方は是非。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2015-02-10 00:51 | 演奏会レビュー | Comments(0)

ロッシーニのファルサを聴く(その2)~「なりゆき泥棒」

西島秀俊が結婚相手に求める条件のなかに、「映画鑑賞に着いてこないこと」というのがあったらしいが、うちの場合、新婚当初に妻とコーエン兄弟の「バートン・フィンク」、D.クローネンバーグの「裸のランチ」を立て続けに観たら「もうあんたとは一生一緒に映画いかへん」と宣言されました(笑)。結果オーライってやつですね。





ロッシーニの初期ファルサを聴くシリーズ、二回目は「なりゆき泥棒」。

 ロッシーニ なりゆき泥棒 L'Occasione fa il ladro

  ベレニーチェ: マリア・バーヨ(Sp)
  ドン・パルメニオーネ: ナターレ・デ・カロリス(Bs)
  アルベルト伯爵: イオリオ・ゼンナーロ(T)
  エルネスティーナ: フランチェスカ・プロッヴィジョナート(MS)
  マルティーノ: ファビオ・プレヴィアーティ(Bs)
  ドン・エウゼービオ: フルヴィオ・マッサ(T)
  マルチェッロ・ヴィオッティ指揮イギリス室内管弦楽団
  1992年2月18-24日録音
  CD:BRILLIANT CLASSICS92399/5-6


この1幕のオペラ、タイトルにBurletta per musicaとあるものの、実際にはFarsaと見做されているということは前回書いた通り。作曲の経緯や全体の構成についてはロッシーニ協会のHPに詳しいので参照されたい。

http://societarossiniana.jp/ladro.pdf

この解説で特に目を惹くのは、1幕仕立てとは云え90分近いオペラをロッシーニがわずか11日で作曲したということ。当時(19世紀初頭)としては珍しくもなかったのでしょうが、それにしても凄まじいスピードには違いありません。
ロッシーニやドニゼッティがわずか××日でオペラを書いた云々というのはよくある伝説ですが、実際にその手稿を見ると、猛烈なスピードで書き飛ばしたという事よりも、その筆致の迷いの無さと自らの美意識へのこだわりに驚きを禁じ得ません。
IMSLPで「なりゆき泥棒」を検索すると1812年の手稿というのが出てきます。なにも解説がないのでどこまでが真正なロッシーニの自筆なのか、複数の筆跡によるといわれる補筆がどの部分か詳細は判りませんが、全体にスピード感溢れる筆致にもかかわらず訂正の跡が殆ど無く、まさに創作力の爆発といった感じを受けます。
この300頁近いパルティトゥール(総譜)だが、第1曲(序曲と導入)~第8曲(ベレニーチェのレチタティーヴォとアリア)~第5曲(アルベルト伯爵のアリア)~第4曲(五重唱)~第6曲(パルメニオーネとベレニーチェの二重唱)~第7曲(マルティーノのアリア)の順に書かれており、他の部分は欠洛しています。またレチタティーヴォ・セッコはまったく書かれていません。頻出するロッシーニ・クレッシェンドの管弦楽の繰り返しは徹底して記譜が省略されていますが、写譜屋が迷う余地を残さない程度にはきっちりと書き込まれています。多分、パルティトゥールが書かれるそばからパート譜に写譜され、ロッシーニ以外の人間がレチタティーヴォ・セッコを(おそらくは始まりと終わりの調性の指示だけを受けて)作っていったのだと思われます。わずか20歳かそこらの青年ロッシーニにアシスタントがいたのかどうか、あるいは劇場付きの写譜屋がセッコも書いたのでしょうか。しかし単に猛烈なスピードで書き飛ばしたというのでなく、ここぞというところでびっしりと殆ど修正の跡もなく膨大な音符が記譜されているのを見ていると、これでこそ11日で書いたというのも信じられそうだという気になります。例えば第4曲の五重唱(譜例1)、先ほど私は「迷いの無さ」と書いたが、この調子で延々と何ページも書かれているのは本当に壮観という他ありません。そしてもう一つは自らの美意識への強固なこだわり。例えば第6曲(譜例2)のベレニーチェのカンティレーナ、当時の慣例であれば歌の記譜などもっと歌手の裁量に任せて簡略に書くのが普通だとも聞くけれど、ロッシーニはアジリタの一音一音を克明に記譜しています。元の旋律が歌手の我儘によって原形を留めないほどに改変されるような時代にあって、自分の音楽、美意識というものにこだわったロッシーニの心意気が伝わるような気がします。200年も前に書かれた手稿譜を、こうして想像力を逞しくしながら眺めるのも楽しいものです。
(譜例1)
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(譜例2)
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音楽については、上に掲げた論文の中で水谷彰良氏が「(略)本作に続く半年間に生み出される《ブルスキーノ氏》《タンクレーディ》《アルジェのイタリア女》の音楽的充実と天才の発露を思うと、《なりゆき泥棒》はまだ佳作の域を出ない、と言っても許されるだろう」云々と書かれているのは、まぁその通りには違いないとしても、実際に優れた演奏を耳にするとブッファとして十分完成されたものとして楽しく聴くことが出来ます。
わずか9つのナンバーしか含まれていませんが、その中ではヒロインのベレニーチェの比重が非常に重く、高度なコロラトゥーラの技術の駆使によって、後のベッリーニやドニゼッティのプリマドンナ偏重のオペラの先駆にもなっているようです。実際、このファルサを聴く楽しみとは、いかにもブッファ的な哄笑のエネルギーの炸裂とともに、ヒロインの呆れるほどに高度なアジリタやコロラトゥーラを聴く快楽を抜きにしては語れません。
ハイドンやモーツァルトの頃なら、セリアほどの高度な歌唱技術はブッファには求められていなかったのでしょう(セリアの歌唱技術がもっぱらカストラートによって究極まで磨き上げられたのに対し、ブッファはもう少し日常的なレベルでバスやソプラノ歌手によって発展したという違いがあるのかもしれません)。が、ロッシーニの音楽においてはセリア並みのテクニックがブッファにも必要(時代的にもオペラ・セリアとカストラートの凋落と重なっている)。こうして次第にソプラノのヒロインの歌唱技術が高度化し、オペラ全体におけるソプラノの比重が増していった、その行きつく先にいわゆる「狂乱の場」をもつプリマドンナ・オペラが誕生していく、というのは図式的すぎる見方かもしれませんが、あながち間違ってはいないと思います。

歌手のなかではベレニーチェ役のマリア・バーヨが、コロラトゥーラの技術がしっかりしていてたいへん優れています。ディスコグラフィーを見てみると、ファリャやヴィラ=ロボスといったラテンものと、ヘンデルなどバロック・オペラがレパートリーの中心の模様。もうすこし享楽的ではめを外した歌い方もあると思うが、まずは至難な音形がきっちり歌えていないことには話にならない役柄ですから、私は大いに満足しました。アルベルト伯爵も第5曲に派手なブラヴーラアリアがあり、テノールにとっては至難な役どころですが、イオリオ・ゼンナーロの歌唱は及第点、いや非常に素晴らしいと言ってよいでしょう。バーヨにしてもゼンナーロにしても、アリアの繰り返しにはより技巧的なヴァリアンテを置いていますが、知的で様式感を壊さないものでした。脇役達も穴がない。ヴィオッティの指揮も溌剌としています。特段変わったこともしていませんが、勢いがあるのと歌手陣の素晴らしさで文句なしの名演になっていると思います。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2015-02-05 23:30 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)