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いずみシンフォニエッタ定期~リゲティのピアノ協奏曲他

ACのCMで、ファミレスかなんかで年配のウエイトレスが、テーブルを拭いている若いバイトのお姉さんに「いつも丁寧ね~」と言うと若いのが嬉しそうに「あっ・・・ありがとうございます」って返事するのあるよね。関西(とくに京都)ではあんなデタラメなCMはあり得ない。「いつも丁寧ね~(=ほんまに仕事がとろい子やねぇ、もっとちゃっちゃとせんと)」に対する正しい返事は「すんません、すぐ終わりますから(=うるさいんじゃババァ)」です。





大阪を拠点に20世紀以降のコンテンポラリー音楽にこだわるいずみシンフォニエッタの演奏会に行ってきました。今回の目当てはなんといってもリゲティの協奏曲でしたが、他の曲目も大変面白いものでした。


  2015年1月24日@いずみホール
  いずみシンフォニエッタ大阪 第34回定期演奏会
   コープランド アパラチアの春
   ディアナ・ロタル シャクティ~サクソフォンと室内オーケストラのための協奏曲(2004)
   (休憩)
   リゲティ ピアノ協奏曲(1985-88)
   ミヨー 世界の創造Op.81

  板倉康明指揮いずみシンフォニエッタ大阪
  西本淳(sax)、福間洸太朗(pf)


私がリゲティと聞いていつも思い出すのは、岩城宏之さんがご存命の頃にいずみホールで主催された「アヴァンチュール&ヌーヴェル・アヴァンチュール」を中心とした演奏会。少し記憶もあやふやになってきたので調べてみると、1998年6月12日、「音楽の未来への旅シリーズ’98 Ⅰ声の冒険」と題されたコンサートでした。曲目は
ベリオ セクエンツィアⅢ (1965/66)
  声: 野々下由香里

リゲティ 死者の謎 (1988)
  声: 森川栄子、 Pf: 野平一郎

黛敏郎 スフェノグラム<楔形文字> (1950)
  指揮:岩城宏之、声: 野々下由香里、fl: 小泉浩、sax:福本信太郎
  perc: 松倉利之、Vn: 松原勝也、Vc: 刈田雅治、pf: 野平一郎、長尾洋史

リゲティ アヴァンチュール (1962)
リゲティ ヌーヴェル・アヴァンチュール (1962-65)
  指揮:本多優之、Sp: 森川栄子、A: 加藤千鶴、Br: 黒田博
  fl: 小泉浩、hrn: 南浩之、pf: 長尾洋史、cemb: 野平一郎、
  perc: 松倉利之、Vc: 刈田雅治、cb: 猪股研介

というもので、こんなプログラムの演奏会が常時とは言わないが時折開かれるいずみホールというのは、本当に大阪に生まれ育った者として誇りに思います。 この時は確か岩城宏之と武田倫明の両氏によるプレトークがあり、お二人が前衛華やかなりし頃の話をしながら「こんなにガラガラの演奏会というのも久しぶりだね(笑)」などと愉快そうに仰っていたのが印象的でした。実際、前半が終わるなり近くの席にいた学生風の女子二人組が「なにこれ~気持ち悪~」「あたし途中で出よか思たわ」と話すのが聞こえ、ただでさえガラガラのホールが、休憩後さらに客が減ってしまったことも忘れられません。それはともかく、この日の演奏のレベルは今思い出しても大したもので、ブルーノ・マデルナの指揮したリゲティの録音を相当聴き込んで出かけた私は大変な感銘を受けました。

昔話はこれぐらいにして、ほんの十数年前の一般のリスナーにおけるリゲティの認知度というものを考えた時、昨今のリゲティ・ブーム、腕も人気もあるピアニストがこぞって彼のエチュードを取り上げる風潮というのは隔世の感がありますし、実に喜ばしいことだとは思いますが、その人気というのが決してエチュード集の外に向かっていかないところが若干気に食わないところです。今回福間洸太朗が弾いた「ピアノ協奏曲」は、1985年から88年、エチュード集の第1巻とほぼ同時期に書かれ、同種の語法が使われているどころか、部分的にはエチュード第1曲「無秩序」とか第6曲「ワルシャワの秋」の自己引用に近いものまで含まれていて、これらの音楽に多少馴染んでいる方ならすぐに親しめるものとなっています。今回の演奏を機に、協奏曲もいろんなピアニストが取り上げるようになれば、と夢想しますが、縦を合わせるだけでも大変そうなオーケストラを見ているとなかなか困難という気もします。さらに言えば、エチュードや協奏曲がいくら人気が出たところで、60年代の傑作群(だいたい61年の「アトモスフェール」から67年「ロンターノ」ぐらいまでの諸作)が同様のポピュラリティを持つことは決して無いだろう、というのが少々寂しいところではあります。
福間のピアノはやや線が細く、音色のパレットという点でもちょっと物足りない感じもしますが、これだけの難曲を実に楽しげに弾くというのは凄いことだと思います。オリンピックなんかと一緒で、人間というのはどこまで進化するんだろう、と思ったほど。ピアノ・パートが技巧的に煩雑になればなるほどオーケストラに掻き消されて聞こえなくなるのはピアニストの所為ではなくて作曲家の悪意のなせる業でしょう。オーケストラは大健闘じゃないでしょうか。興奮するところまではいかないが満足しました。

他の曲目は簡単に。
コープランドは、単に古き良きアメリカを描く牧歌的な作品というイメージがありますが、板倉氏の神経質なほど細かくリズムを刻む指揮によって、1920年代のストラヴィンスキーを思わせるような鋭角的な側面が明らかになったのはとても面白い体験でした。私は知りませんでしたが、プログラムによればコープランドは1921年に渡仏してナディア・ブーランジェに師事し、当時パリにいたストラヴィンスキーやミヨーから多大な刺激を受けたらしい。それもなるほど、と思わせる演奏であったと思います。
ディアナ・ロタルの「シャクティ」はサキソフォンの特殊奏法と超絶技巧を駆使した作品。冒頭の尺八のムラ息を思わせるような部分はよくあるパターンという気もしましたが、それに続く部分、カウベルを始めとする打楽器群とバリトン・サックスの激烈な衝突など凄まじいばかり。耳で聴くだけでは、どの楽器がなにをすればこんな音が鳴るのかさっぱり判らない、といった奇天烈な音響に満ちていて刺激的でした。新調性主義などどこ吹く風といった作風で、これを取り上げただけでもいずみシンフォニエッタの「本気度」が伺われます。
最後に演奏されたミヨーは大傑作の大名演だと思いました。指揮はやはりリズムを随分細かく刻んでいるようでしたが、このような指揮がどんな具合にシンフォニエッタのメンバーと反応するのか、ジャズのスイング感と先鋭なモダニスムが並び立っている演奏でした。このテの作品というのは、ストラヴィンスキーの「エボニー・コンチェルト」なんかもそうだが、演奏者のセンスの良し悪しがまともに現れるような気がします(たとえば「エボニー」のストラヴィンスキー自身によるノリノリの演奏とブーレーズの死ぬほど詰らない演奏など)。その点で今回のミヨーは本当に良い演奏でした。

備忘としてあと二点。
その1。最初に西村朗氏と板倉氏のプレトークがあり、オヤジギャグの緩い応酬にちょっと辟易。ま、それもこれも、コンテンポラリーの敷居を少しでも下げる努力といったところか。
その2。開演30分前からロビーにてミニコンサートあり。二人のヴァイオリニスト(佐藤一紀、高木和弘)によるミヨーの二重奏曲(たぶんOp.258)、モーツァルトのシュピーゲルカノンの第1曲(K.Anh C10.16というやつ、偽作とも)、それにトルコマーチの二つのヴァイオリンによる編曲の3曲。モーツァルトは、私はあってもなくても、という感じがしましたが、ミヨーの小品は洒落たアペリティフになっていたと思います。

あ、そうそう。先ほど岩城宏之とリゲティの思い出話をしましたが、実はこの二人、亡くなった日が一日違い。岩城宏之が2006年6月13日で、リゲティが同年同月の12日に亡くなったとのこと。なにか不思議な縁があったのでしょう。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2015-01-26 23:45 | 演奏会レビュー | Comments(0)

ロッシーニのファルサを聴く(その1)~「結婚手形」

香川照之の出てる龍角散TVCMの音楽、なんであそこまであからさまにラヴェルのコンチェルトのパクリなの?





毎年たいへん興味深い演目で注目される新国立劇場のオペラ研修所公演、今年はロッシーニの珍しいファルサの二本立て(「結婚手形」と「なりゆき泥棒」)。新国立劇場本体のほうは年々プログラムが保守化していて、関西からわざわざ聴きに行くほどの魅力はなくなってしまいましたので、研修所にはなおさら頑張ってほしいところ。もういっそのこと、ご本体には名作オペラだけやってもらって、そのかわりに研修所オペラを年2回か3回やってほしいぐらい。
そんな訳で、2月公演の予習としてロッシーニのファルサを聴いています。

 ロッシーニ 結婚手形 La Cambiale di Matrimonio

  トビーア・ミル: ブルーノ・プラティコ(Bs) 
  ファンニ・ミル: アレッサンドラ・ロッシ(Sp)
  エドアルド・ミルフォルト: マウリツィオ・コメンチーニ(T)
  ズルック: ブルーノ・デ・シモーネ(Br)
  ノルトン: フランチェスコ・ファチーニ(Bs)
  クラリーナ: ヴァレリア・バイアーノ(Ms)
  マルチェッロ・ヴィオッティ指揮イギリス室内管弦楽団
  1990年8月20~23日録音
  CD:BRILLIANT CLASSICS 92399/7


ファルサFarsaとは、wikipediaによれば18世紀の終わりから19世紀初頭にかけて、多くはカーニヴァルの時期にヴェネツィアのサン・モイゼ劇場で演奏された一幕物のコミカルなオペラとのこと。一幕物という以外に、この時代のオペラ・ブッファあるいはドラマ・ジョコーゾと音楽面で大きく異なる要素はないようですが、とにかく享楽的な音楽に特化したオペラということは言えそうです。ロッシーニは生涯に5作のファルサを書いたようですが、このディスクにはその内やや作曲年代の離れた「アディーレ」を除く4作と、Burletta per musicaと銘打たれているが実質的にはファルサである「なりゆき泥棒」が収められていて、研修所オペラの予習にはうってつけの一組。
今回取り上げる「結婚手形」作曲の経緯や全曲の構成など、日本ロッシーニ協会のHPに詳細な論文が寄稿されておりますので、今回はすべてそちらに委ねたいと思います。

http://societarossiniana.jp/cambiale.pdf#search='%E7%B5%90%E5%A9%9A%E6%89%8B%E5%BD%A2+%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%8B'

この論文に私が付加えることなど殆どないのですが、この中で著者の水谷氏が「(前略)全体に個性の発現に乏しく、天才的な着想や後のロッシーニに顕著なエネルギーの横溢は感じられない。それゆえ加速度的に個性を開花させていったロッシーニの歩みを知る者が、本作に物足りなさを感じても仕方ないだろう。」云々と書かれているのは、この音楽の素晴らしさをすこし低く見積もり過ぎているように思います。プロフェッショナルな分析はともかく、何度か聴いた限りでは後のブッファの傑作群に少しも劣らない音楽に満ち満ちていて驚きました。ロッシーニという人はラヴェルやストラヴィンスキーと同様、年齢とともに成熟していくタイプの音楽家ではなくて、いきなり完成された姿でもって世に現れた天才型の音楽家であるということが言えそうです。もちろん、後に「セミラーミデ」のようなオペラ・セリア、あるいは「ランスへの旅」以降のオペラ・コミックでロッシーニは更に進化していくわけですが、ことブッファという様式に関しては、作曲家18歳の実質的な処女作において、もう十分すぎるほど手練れの域に達しているように思います。

ヴィオッティの指揮は大変優れていて、決して精緻という訳でもないが、こういった作品に絶対に不可欠な輝かしい音が鳴っています。過去、何度かこのブログでも書いてきたとおり、日本のオーケストラではこの「薄くてスカスカのスコアを輝かしく鳴らす」スキルというのが不足していることが多いのですが、このような演奏を聴くにつけて実演に接するのが楽しみでもあり不安でもあります。また、IMSLPのフルスコア(出典不明のロシア語版)を見ながら聴いてみましたが、長大なレチタティーヴォや語りも含め、ほぼカットなし、ということで資料的な価値も万全(たぶん)。
歌手達はいずれもなかなかの適材適所。ファンニを歌うアレッサンドラ・ロッシは音程が微妙に心許なく思えるところもあるが、それが却って従来のオペラのようなヒロイン然とした役柄ではなくて、ちょっとネジの一本足りない商人の娘らしくてとても良い。第7曲のアリアのアジリタも、ルチアーナ・セッラみたいに唖然とするようなテクニックで歌うのもいいけれど、このディスクのようにちょっとハラハラしながら聴くのも面白いものです(念の為附記しておくと、そうはいいながらなかなか大したコロラトゥーラのテクニックではあります)。ちなみに第7曲のアリアの後半の繰り返しでは、お約束通り技巧的なヴァリアンテが附加されているのも楽しい。エドアルドのマウリツィオ・コメンチーニも、第2曲の入りの部分など音程が上ずって危なっかしい限りですが、こちらも今風に言えばチャラ男であるこの役柄にはさほど瑕にはなりません。低音男声歌手が三人出てきますが、いずれもブッフォらしくて実に結構。細かいことを言えばキリがないものの、本当に楽しそうに歌っていて素晴らしいと思いました。シャーベット・アリアを歌うクラリーナ役のヴァレリア・バイアーノも技巧がしかりしていて安心して聴けます。

それにしても、しばらくハイドンのオペラばかり聴いてきて、久々にロッシーニを聴くと、馬車とヴィンテージカーくらいはスピード感が違っていて新鮮でした(もちろん馬車には馬車の良さがあるのですが)。それと、すこし落ち目のヨーロッパの商人一家と、カナダからやってきた羽振りのよい新興商人のおりなす家庭劇というのが、いかにも19世紀初頭の時代に相応しく、ハイドンの世界から一気に近代化された感じがするのも一興(ではモーツァルトは?というのは微妙な問いだが、「劇場支配人」などは両者の橋渡しの例と言えるでしょうね、いかにも現実にいそうな人物ばかり登場する、という意味で)。
なお、CDにはイタリア語のリブレットが収録されていますが対訳は無し。最近の箱物は投げ売り状態で安いのはいいとしても対訳がほとんど附いていないのはちょっと残念。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2015-01-22 23:12 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

京都観世会例会 「翁」 「高砂」 「梅」 「岩船」

こたえられないものとはなにか?
「ゴーン・ガール」を観にきたバカなカップルどもが、映画終わったあとに明らかに後悔しているのを一人ほくそ笑みながら見る楽しみ。




観能も三度目。今回は正月に相応しく新春を寿ぐ出し物ばかりでしたが、想像以上に面白いものでした。


 平成27年1月11日@京都観世会館
 京都観世会一月例会(其の一)

   
  翁 観世清河寿
  面箱 茂山逸平
  三番三 茂山千三郎
  千歳 大江泰正

 高砂  
  シテ(尉、住吉明神) 片山伸吾
  ツレ(姥) 梅田嘉宏
  ワキ(阿蘇宮神主友成) 福王和幸
  ワキツレ(従者) 中村宜成・是川正彦
  間(高砂の浦の男) 茂山良暢

 狂言
 宝の槌  
  シテ 茂山七五三
  アド 茂山宗彦・茂山千五郎

 仕舞
  屋島 井上裕久
  国栖(くず) 浦田保浩

   
  シテ(女、梅の精) 大江又三郎
  ワキ(藤原某) 福王茂十郎
  ワキツレ(従者) 喜多雅人・福王知登
  間(在所の者) 松本薫

 仕舞
  老松 林喜右衛門
  知章(ともあきら) 杉浦豊彦
  東北(とうぼく) 梅田邦久
  須磨源氏 片山九郎右衛門

 祝言
 岩船  
  シテ(龍神) 河村浩太郎
  ワキ(勅使) 岡充
  ワキツレ(従者) 有松遼一・小林努


数ある能の中でも別格とされ、天下泰平国土安穏を祈る新春ならではの演目「翁」。
「翁」について調べてみると、判で押したように「能にして能にあらず」と書かれており、これは一種の儀式であるとされています。それはその通りですが、その面白さは実際に観てみないことには判りません。
能が始まる10分ほど前から、揚幕に人影が差して清めの切火を切り、鏡の間でもそのカチカチという音がします。「翁」は神事ですから演者は精進潔斎しなければならず、終演まで楽屋も女人禁制などと聞くにつけて、さぞ神妙なことだろうと想像していましたが、確かに最初の内、無言で張りつめたような空気が舞台を支配しています。しかし三人の小鼓と一人の大鼓が掛け声も勇壮に打ち始めると、その土俗呪術的な力というべき迫力にすっかり夢中になってしまいました。また突拍子もないことを、と言われそうだが、私は思わず、クセナキスがバリトンとパーカッションと管弦楽のために書いた「アイスAïs」を思い出し、生前のクセナキスがこの「翁」をもし観たならばどんな感想を持っただろうか、と思ったりしました。これは本当に、日本古来の土着の神々が登場し、俗性と聖性が交錯する類まれな演劇であろうと思います。その後、千歳(せんざい)、翁、三番三(さんばそう、流派により三番叟とも)が順に舞いますが、特に三番三の呪術的な激しい舞には度肝を抜かれました。およそ一時間にも垂んとする長丁場でしたが、吃驚しているうちにあっという間に終わったという感じがします。このような芸能が室町の頃から元の形を保ったまま現代にまで連綿と継承されてきたということは本当に素晴らしいことだと思います。

「翁」が終わるとそのまま「高砂」が演じられます。
肥後国阿蘇の神主友成が京に上る途中、高砂の浦で老人夫婦から高砂と住吉の相生の松の由来を聞く。友成の一行が住吉に着くと先の老人の正体にして実は住吉明神が現れて舞い、天下泰平を言祝ぐ。
最近では結婚披露宴で高砂を舞う年寄もめっきり見かけなくなりましたが、こうして舞台で観ると実によいものです。もっとも、「翁」の衝撃の後では、物語としては今ひとつ面白さがよく分らない感じもしましたが、これは「翁」とセットで新春を寿ぐものと捉えるべきなのでしょう。種類としては初番目物、翁の脇で演じられることから脇能と呼ばれるとのことだが、神が主人公ということよりも、古代の呪術性の残滓を感じ取るべきものかも知れません。それと、その台詞だが、一見常套句とも見える掛け言葉なども多いのだが、千載集や古今集などの引用がもたらすコノテーションを正しく理解するのは付焼刃の予習ではとても無理。これは少しずつ勉強していく他はなかろうと思います。面と装束は前シテが小牛尉(こうしじょう)に大口尉出立。後シテは邯鄲男などの面に透冠(すいかんむり)狩衣大口出立。ツレは姥面に水衣姥出立。

次いで狂言「宝の槌」。主人に都で宝物を手に入れるよう命ぜられた太郎冠者は、すっぱ(詐欺師)に騙され、何の変哲もない太鼓のバチを打ち出の小槌だと信じて買って帰る。さっそく主人に馬を出してみよ、と言われ、呪文を唱えてバチを振るが何も出ない。太郎冠者は言い逃れに、どうせなら狭い道で引き返さなくても済むから後ろにも頭のある馬になさいませだの、速く走るから八本足の馬になさいませだのと時間稼ぎをするが・・・
すっぱが太鼓のバチを売るのに、鎮西八郎為朝が鬼ヶ島から小槌を持ち帰る件をもっともらしく語るのがなんとも面白い。最後の「番匠の音がかつたりかつたり」というオチはよく判りませんでした。言葉のやりとりの面白さで見せる狂言ですが、それだけに考えオチは現代では通じなくなったか。

休憩と仕舞二番を挟んで「梅」。
五条の藤原某が難波津にでかけ、「桜花今盛りなり難波の海押し照る宮に聞こしめすなへ」(大伴家持、万葉集4361)と詠んでいると一人の女が現れ、その歌は天平勝宝7年2月13日に詠んだとされているのだから、この時期ならば梅の盛りのはずと咎める。また大鷦鷯尊(おおさざきのみこと、仁徳天皇)の故事などを持ち出し梅の花を称揚する。その夜、藤原某の一行の許に梅の精が現れ、「たゞ幾久に天地の共に栄まさなむめでたさよ」と御代を祝って舞う。
江戸時代明和年間の新作能であり、そのペダンチックな内容が玄人筋からは甚だ評判が悪いようだが、万葉集や古今集仮名序などの引用が散りばめられた詩句は常套的ながらも流麗、そして主眼はあくまでも梅の精のいつ果てるともない舞の面白さにあり、私はとても面白く拝見しました。前半は作り物として紅梅の木立が置かれ、後半は梅の精が白梅をあしらった天冠を被り、浅緋色の袴に白い表着を襲ねた装束で舞うのが、陶然とするほど美しく舞台映えしていました。

二回目の休憩の後に仕舞が四番。いつも書いている通り、舞のイロハも判らないのにしたり顔で何か書くのは躊躇われるが、今回の「東北」を舞った梅田邦久さん、かなりの御歳とみたが、立ち姿や何気ない所作が素人目にも美しく感じられました。何なんでしょうねこれは?こういうのを色気と言ってよいのでしょうか。本当にその道一筋に精進されてこられた方の芸事というのは恐ろしいものです。

最後は「岩船」。本来は前後二場から成るが観世流では後半のみ(半能)で、龍神が宝を載せた天の岩船を率い、勇壮に舞うだけの祝言として演じられます。11時から夕方5時までの長丁場を締めくくるに相応しく、理屈抜きで楽しい出し物でした。前回観た「一角仙人」もそうでしたが、こういったスペクタクルなエンタテイメントというのも能、特に切能と呼ばれる五番目物の重要な要素であるようです。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2015-01-13 23:33 | 観劇記録 | Comments(0)

ハイドンのオペラを聴く(その4)~「真の貞節」

正月休みに映画「ゴーン・ガール」を観る。ベン・アフレックが体育会系脳筋男を演じているのが巧くて、つい「もっと痛い目に遭えばいいのに」と思ってしまう。とびっきりの後味の悪さは性格の悪い人には蜜の味。




シリーズ4回目は「真の貞節」という喜劇。

 真の貞節La Vera Costanza ~3幕のドラマ・ジョコーゾ
  ロジーナ: ジェシー・ノーマン(Sp)
  リゼッタ: ヘレン・ドーナト(Sp)
  伯爵エッリコー: クラエス=アーカン・アーンシェ(T)
  ヴィルロット・ヴィルラーノ: ウラディミーロ・ガンツァロッリ(Bs)
  マジーノ: ドメニコ・トリマルキ(Br)
  男爵夫人イレーネ: カーリー・ロヴァース(Sp)
  侯爵エルネスト: アンソニー・ロルフ・ジョンソン(T)
  アンタル・ドラティ指揮ローザンヌ室内管弦楽団
  1976年5月録音
  CD:DECCA 478 1776


この作品も英語版のwikipediaに立項されています(それにつけても日本語の資料の少なさよ!)。それによると、1779年4月25日にエステルハーザ宮殿で初演された後、どうも楽譜の大半が紛失したらしく、1785年4月の再演に際し、ハイドンは記憶を基に再度書き起こしたのだという。台本は1776年にアンフォッシによって書かれた同名オペラの、フランチェスコ・プッティーニによるリブレットの短縮版とのこと。タイトルや役名などの改定後、1786年から1792年に掛けてブラティスラヴァ、ブダペスト、ウィーン、ブルノ、パリでも演奏されたとのこと。

http://en.wikipedia.org/wiki/La_vera_costanza

このオペラを聴いていると、この後に書かれた「騎士オルランド」などが音楽的にも大きく進歩しているのが如実に感じられます。だからといってこの作品が殊更劣っているという訳ではないのだが、どうしても後の作品と聴き比べるとひとまわり小振りなものに聞こえます。これは1785年の記憶による書き起こしが意外にも1779年の作品を正確にトレースしているのだと考えるべきなのでしょう。あるいは題材をパクっただけでなく台本を短縮してしまったが故に音楽的にも中途半端になったのかも知れません。いずれにしても、毎回同じことを書いているがハイドンの回りにダ・ポンテのような優れた台本作家がいなかったことがとても残念に思われます。

物語の詳細はwikipediaを見ていただくとして、いつものように全曲の構成と主な登場人物の音楽的な特徴をみていくと幾つか興味深いことが判ってきます。

 シンフォニア 
 第1幕
  No.1 イントロドゥツィオーネ(ロジーナ・マジーノ・男爵夫人・エルネスト・リゼッタ・ヴィルロット)
   レチタチーヴォ・セッコ(R.S.)
  No.2 アリア(男爵夫人)
   R.S.
  No.3 アリア(マジーノ)
   R.S.
  No.4 アリア(ヴィルロット)
   R.S.
  No.5 アリア(リゼッタ)
   R.S.
  No.6 レチタティーヴォとアリア(伯爵)
   R.S.
  No.7 アリア(ロジーナ)
   R.S.
  No.8 フィナーレ(アンサンブル)

 第2幕
  No.9 二重唱(マジーノ・ヴィルロット)
   R.S.
  No.10 アリア(エルネスト)
   R.S.
  No.11 五重唱(男爵夫人・ロジーナ・伯爵・リゼッタ・ヴィルロット)
   R.S.
  No.12 レチタティーヴォとアリア(ロジーナ)
   R.S.
  No.13 アリア(ヴィルロット)
   R.S.
  No.14 レチタティーヴォとアリア(伯爵)
   R.S.
  No.16 フィナーレ(アンサンブル))。

 第3幕
   R.S.
  No.17 二重唱(伯爵・ロジーナ)
   R.S.
  No.18 合唱(全員)

オペラの大枠としては例のゴルドーニ風の三幕仕立て。シンフォニアはイタリア風の3楽章からなり、交響曲の原型を見るようですが、この第3楽章の途中から導入の六重唱が始まるのが面白い。第3幕は極端に短く、レチタティーヴォを入れても10分に満たないのは短縮版だからでしょうか。
一般論として、当時のカストラートが技巧の限りを尽くして歌ったであろうブラヴーラ・アリアは専らセリアに特徴的なものであって、ブッファのアリアはさほど高度なコロラトゥーラの技巧を要しないという感じがするが(私の乏しい知識で決めつけてはいけないが・・・)、このオペラでは男爵夫人(第2曲)と伯爵(第14曲)のアリアでかなり技巧的なブラヴーラが出てくる。一方、一番の主人公であるロジーナは劇中で最多の3つのアリアの他、第1幕と第2幕それぞれの長大なフィナーレの中で伯爵との長い二重唱を歌うが、技巧的な見せ場はほとんど無い。このことは、初演時に想定していた歌手の技量のほどを反映しているとも考えられるが、それよりも華麗なコロラトゥーラやフィオリトゥーラというのは古代や中世の英雄譚の人物か、現代劇なら爵位のある人物にこそ相応しいもので、たとえ実質的な主役であっても漁師の娘という役どころには相応しくないとされたのかも知れません。エルネストも侯爵であるが彼はシャーベット・アリアを一曲うたうだけの脇役、したがってそのアリアも平易なものになっています。男爵夫人の小間使いであるリゼッタは非常に重要な狂言回しとしての役割のようだがアリアは一つしか与えられていません(第5曲)。同じ小間使いでもモーツァルトの「フィガロ」のスザンナなどと比べると、初演の年は7年ほどしか違わないのに音楽上の扱いの軽重の差は歴然としています。このことはハイドンとモーツァルトの違いというよりは、旧態依然としたリブレットの使い回しに終始した台本作家と、フランス革命前夜の世相を敏感に反映したダ・ポンテの力量の差だという気がします。それともちろん、ハンガリーの片田舎で領主一家の為に書いていた音楽家と、ウィーンで生活していたフリーの音楽家の差というのもあったでしょう。本当にハイドンのオペラの音楽的な素晴らしさを思うにつけ残念なことではありますが、影があってこその日なたと同じで、ハイドンを知ることでモーツァルトの「フィガロ」や「コジ」の素晴らしさというものもより良く判るというもの。

ついでにもう少し物語について書いておくと、伯爵がロジーナの貞節を試すために偽りのジェスチャーをしたことから事が紛糾していく訳だが、この無茶苦茶さ、出鱈目さというのは「コジ・ファン・トゥッテ」のドタバタとはやはり根本的なところでレベルが違うという気がします。対訳すら読んでいない中であまり断言めいたことは言えませんが、それは以前このブログで「コジ」を取り上げた際に触れた通り、片や後期バロックから初期古典派のクリシェとしての恋愛劇と、サド侯爵の同時代ならではの性愛のゲーム化との違いほども違うものであって、後者(コジ)を荒唐無稽なロココ風のおあそびと捉えるのはとても皮相的に思われるのだが、前者(ハイドンのリブレット)には残念ながらそのような意味での近代性は感じられそうにありません。そのことも、ハイドンのオペラが歴史に埋もれてしまった理由のひとつだとは思うけれど、だからといってくだらないリブレットが無価値であるとも思いません。クリシェにはクリシェとしてのただしい接し方というものがあるはずであり、その面白さを享受するにはことばと音楽の様式の正しい把握が(おそらくモーツァルトのブッファよりもはるかに)必要とされるような気がします。ハイドンのオペラが長らく埋もれていた最大にして真の理由というのも正にそこにあるのだろう。この1779年(真の貞節)から1790年(コジ)にかけてのわずか10年ほどの間に、オペラの享楽の本質的な部分が断層のように大きく変化した(切断された)ようにも見えるのですが、その時代というのはミシェル・フーコーが同じレベルの変化(切断)を経済学(リカード)や生物学(キュヴィエ)、文学(サド)に同時多発的に見出した時代ともほぼ一致しているのが面白いと思います(前にも同様のことを書いたが、フーコーをトンデモ本だと思う読者はこの件はスルーしてください)。

もう少し各ナンバーの聴きどころなどを挙げておこう。アリアの大半はABA’の三部形式、もしくはABA'B'またはAA'BB'の二部形式あるいはその拡大形で書かれていますが、伯爵の二つのアリアはどちらもABCDとでもいった緩い形式で書かれています。第6曲はアコンパニャートに続いて、Aria di guerra(戦いのアリア)らしくティンパニとトランペットが鳴る勇壮な調子で始まり、緩やかな部分と最初のテンポの再現、さらにテンポをあげて短調に終わります。第14曲はまるでベルカント・オペラのような美しいアコンパニャートに始まり、緩急緩急の4つの部分が続きます。エステルハージ家の人々はハイドンのもたらすイタリアの響きにさぞ夢中になったに違いありません。どちらも明確な形式は持たないにも関わらず、緊密な統一性が感じられる素晴らしいアリアです。
ロジーナのアリアでは第12曲がシュトルム・ウント・ドランク風の激しさで注目されます。また第15曲は荘重なアリアを取り囲むようにアコンパニャートが前後に置かれています。
他には第9曲がめずらしい低音男声の二重唱。第11曲は五重唱とあるが、男爵夫人・伯爵・リゼッタ・ヴィルロットが一声ずつロジーナのレチタティーヴォと歌い交すというこれも珍しい楽曲。ハイドンという人は交響曲でも室内楽でもそうだけれど、本当に機智と発明に溢れた音楽を書くのが得意なようです。

歌手の素晴らしさはこれまで取り上げた諸作と同様。ロジーナ役のジェシー・ノーマンは「アルミーダ」のタイトルロール同様素晴らしいものですが、まるで王妃のように構えの大きな歌唱はさすがに漁師の娘という役柄には若干の違和感を感じざるを得ません。もちろんこの録音の貴重さを何ら傷つけるものではないので、無い物ねだりだと思っていただけたらと思います。リゼッタを歌うヘレン・ドーナトといえば「マイスタージンガー」のエーファや、コリン・デイヴィスが指揮したモーツァルトの大ミサ曲K.427の名唱がすぐにも浮かぶけれど、スーブレットの本質を押さえたこのディスクの歌唱も素晴らしい。ソロが少ないのが本当に残念ですが、この二人のソプラノの真の聴きどころは第6曲の後のロジーナとリゼッタの長いレチタティーヴォ・セッコかも知れません。長いセッコは時間の無い時など私もつい飛ばしてしまうことがあるけれど、この真情に溢れた対話はぜひ飛ばさず聴いてほしいと思います。
伯爵のアーンシェ、マジーノのトリマルキは安心のクォリティ。ガンツァロッリは初期ヴェルディやフィガロのディスクが出ているようですが、あまり録音に恵まれない人みたいなので貴重。他の歌手も不満はありません。
ドラティの演奏も颯爽としているが、なんとなく聴き終わって物足りない思いがするのは、より円熟した作品を先に聴いてしまったが故に味わう贅沢な不満というべきでしょう。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2015-01-12 20:56 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)