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ハイドンのオペラを聴く(その3)~「騎士オルランド」

カリオストロの城、という文字を見た時の一瞬のスカトロ感。





ハイドンがエステルハージ家のために書いた一連のイタリア語オペラ、そしてアンタル・ドラティの指揮と数々の歌手達の素晴らしさを紹介しています。今回取り上げるのは「騎士オルランド」。

  
  騎士オルランド ~3幕からなる英雄喜劇 
   アンジェリカ: アーリーン・オジェー(Sp)
   エウリッラ: エリー・アメリンク(Sp)
   アルチーナ: グウェンドリン・キルブルー(Ms)
   オルランド: ジョージ・シャーリー(T)
   メドーロ: クラエス=アーカン・アーンシェ(T)
   ロドモンテ: ベンジャミン・ラクソン(Bs)
   パスクァーレ: ドメニコ・トリマルキ(Br)
   カロンテ: マウリツィオ・マッツィエーリ(Bs)
   リコーネ: ガボール・カレッリ(T)
   アンタル・ドラティ指揮ローザンヌ室内管弦楽団
   1976年6月録音
   CD:DECCA 478 1776


このオペラも英語版Wikipediaに立項されています。それによると1782年12月6日にエステルハーザ宮殿にて初演され、ハイドンの在世中はそこそこ人気があったようです。

http://en.wikipedia.org/wiki/Orlando_paladino

台本は他のオペラ(ピエトロ・アレッサンドロ・グリエルモの「オルランドの狂気」(1771))の使い回しのようで、そのこと自体は当時はごく当たり前のことだったのだと思いますが、モーツァルトにとってのダ・ポンテのような台本作家がハイドンの周りにいなかったことがとても残念に思われます。ハイドンのオペラが長く歴史に埋もれてしまったのは、様々な理由があるにせよ、台本の拙さの所為というのが大きいように思います。
それにしても、モーツァルトの「後宮からの逃走」K384とほぼ同時期のこの作品、もう少し後のフィガロやドン・ジョヴァンニほどの深みはないかも知れませんが、少なくとも「後宮」のモーツァルトには全くひけをとらない傑作だと思います。それは情緒に流れない、知的ですこし乾いた音楽。決して万人受けするものではないと思うが、モーツァルトのオペラがお好きな人であれば絶対に聴いて損はしないと思います。

物語はアリオストの有名な「狂えるオルランド」のエピソードに基づいていますが、英雄劇どころかかなりドタバタに近いので省略。契丹の女王の名前がアンジェリカというだけで力が抜けそうになりますが、当時のエキゾチシズムというのはこんな程度だったのだろうか。エキゾチシズムといえば、このオペラの第1幕でオルランドの従者パスクァーレがエウリッラにこれまでの冒険を語るアリア(第9曲)には沢山の地名が出てきますが、Pechino(北京)やTartaria(韃靼)とならんでGiappone(日本)が出てくるのが面白い。そういえばモーツァルトの「魔笛」でも、タミーノは日本の狩の衣装を着ているとト書きに書かれていますね。もちろんどちらも支那や日本の音楽とは何の関係もありません。

ところでこのオペラ、"Dramma eroicomico"(英雄喜劇)と記されています。聞き慣れない感じがするが、18世紀末ごろのセリア風の要素を持つオペラ・ブッファのことをいうらしく、ネットで少し調べてみるとサリエリの「ペルシアの女王パルミーラ」(1795)やフェルディナンド・パエルの「サルジーノ」(1803)、あるいはジモン・マイールの「二日間または水運び人」(1801)などが引っかかるので当時はそう珍しくもないジャンルだったのかも知れません。その特色を語れるほどの知識は筆者にはありませんが、まず題材としては叙事的な物語を扱うセリアでありながらドタバタの要素が入っていること、また音楽面では登場人物によってセリア風の人物とブッファ風の人物がかなり明確に描き分けれられています。
まずは全曲の構成を掲げておきます。イタリア語のリブレットは下記URLに載っており、これを見る限り、本CDの演奏はごくわずかなレチタティーヴォを除いて殆どカット無しの演奏であることが判ります。

http://www.dicoseunpo.it/H_files/Orlando_Paladino.pdf

 シンフォニア
 第1幕
  No.1 導入Introduzione(エウリッラ、リコ-ネ、ロドモンテ)
  レチタティーヴォ・セッコ(R.S.)
  No.2 アリア(エウリッラ)
  R.S.
  No.3 アリア(ロドモンテ)
  No.4 カヴァティーナ(アンジェリカ)
  R.S.
  No.5 シンフォニア
  R.S.
  No.6 アリア(アルチーナ)
  R.S.
  No.7 アリア(メドーロ)
  No.8 カヴァティーナ(パスクァーレ)
  R.S.
  No.9 アリア(パスクァーレ)
  R.S.
  No.10 アリア(アンジェリカ)
  R.S.
  No.11 レチタティーヴォとアリア(オルランド)
  R.S.
  No.12 フィナーレ(アンサンブル)

 第2幕
  R.S.
  No.13 アリア(ロドモンテ)
  R.S.
  No.14 アリア(メドーロ)
  No.15 カヴァティーナ(パスクァーレ)
  R.S.
  No.16 二重唱(エウリッラ&パスクァーレ)
  No.17 アリア(アンジェリカ)
  R.S.
  No.18 レチタティーヴォと二重唱(アンジェリカ&メドーロ)
  R.S.
  No.19 レチタティーヴォとアリア(オルランド)
  R.S.
  No.20 アリア(パスクァーレ)
  R.S.
  No.21 フィナーレ(アンサンブル)

 第3幕
  No.22 アリア(カロンテ)
  R.S.
  No.23 レチタティーヴォとアリア(オルランド)
  R.S.
  No.24 戦いの音楽Combattimento
  No.25 レチタティーヴォとアリア(アンジェリカ)
  R.S.
  No.26 合唱(全員)


全曲の構成はカルロ・ゴルドーニ風のドラマ・ジョコーゾの様式に則り、大規模なフィナーレをもつ長大な第1幕(シンフォニアを除いて約72分)・第2幕(約63分)と、非常に短い第3幕(約27分)から成っています。フィナーレの重唱の他に合唱がないのはセリア的と言えるかも知れません。
歌手は、おおまかに言うと、パスクァーレ・エウリッラ・リコーネがブッファ風の人物であり、その他が概ねセリア風の人物ということができそうです。
登場人物の中で実質的な主役であり、かつ典型的なセリアの様式で歌うのは契丹の女王アンジェリカでしょう。彼女が歌うソロは全部で4曲。まず第1幕第4曲はカヴァティーナと名付けられていて、三部形式で抒情的な旋律美を満喫することができます。短調に転じての中間部は短いがフルートのオブリガードが美しく印象的。控え目なフィオリトゥーラも効果的。次いで第1幕第10曲は緩急の二部から成る典型的な大ブラヴーラ・アリア。後半の目覚ましいコロラトゥーラはモーツァルトの「ルーチョ・シッラ」のジューニアのアリアを思い起こすほど。しかも当然のことながら少年モーツァルトのそれよりもずっと大人の音楽になっています。次に第2幕第17曲、これも典型的なブラヴーラの大アリア。急の部分はオーボエとのコンチェルタントな掛合いが素晴らしい効果を生んでいます。最後に第3幕第25曲、アコンパニャート附きの大アリアで、これも後半は華麗なブラヴーラが聴きもの。その他にも第2幕第18曲のメドーロとのアコンパニャートと二重唱もあって、たいへん重い役柄となっています。
外題役のオルランドはセリア寄りの人物ではあるが、ブッファの世界との橋渡しをしているようにも見えます(役柄も音楽も)。彼のアリアは3曲与えられています。まず第1幕第11曲のアコンパニャート附きのアリアは、ソナタ風の二部形式で書かれた格調高いアリア。次いで第2幕第19曲アコンパニャート附きアリアもソナタ風二部形式ですが、曲調は幾分ブッフォな感じがします。最後の第3幕第23曲アコンパニャート附きのアリアは自由な三部形式で書かれ、再び荘重なセリアの様式に戻ります。
最も典型的なブッフォの役柄は従者パスクァーレ。彼は主役並みに4曲のアリアを与えられています。第1幕第8曲のカヴァティーナは終始6/8拍子の二部形式でヘンデル風の前半とブッファ風の後半から成るもの。続く第9曲のアリアは小規模なソナタ形式。早口言葉や口笛の出てくるロッシーニ風のブッファ・アリア(先程北京や日本が登場すると紹介したもの)。第2幕第15曲はカヴァティーナと銘打たれてはいますが、抒情的なそれではなく短い勝利の歌。第20曲の二部形式のアリアはカストラートのまねをしてファルセットで歌う場面が出てくる注目すべきもので、ブッファの楽しさが炸裂します。その他にもエウリッラとの楽しい二重唱(第16曲)もあって殆ど主役級の扱いを受けています。エウリッラは少し後のモーツァルトならスーブレットのために書いたであろう役柄で、パスクァーレとの二重唱など、まるでドン・ジョヴァンニのツェルリーナとマゼットの二重唱のように聞こえます。
その他、サラセンの兵士メドーロもセリア的人物で大アリア風の比較的長いアリアが二つあります(第7&第14曲)。魔女アルチーナは重要な役柄ですが、あまり技巧を駆使したアリアは与えられていません(ソロは第6曲のみ)。おそらく初演時に想定していた歌手の能力によるものだと思います。第3幕にだけ登場する黄泉の国の渡し守カロンテのアリア(第22曲)は、後のロッシーニが脇役の為に書いたいわゆるシャーベット・アリアAria di sorbettoといわれるものと曲調も似ています。一連のブッファ風のナンバーは、モーツァルトを飛び越えてロッシーニの音楽に通じるものがあるように思います。


演奏に関しては今回も選りすぐりの歌手が集められていて、もう贅沢の極みだと思います。なかでも圧倒的に素晴らしいのがアンジェリカを歌うアーリーン・オジェー。この人、私が中学から高校の頃に掛けて蒐集していたヘルムート・リリンクのバッハ教会カンタータのシリーズの主要歌手の一人で、大好きな歌手でした。最近その声を聴く機会もほとんどなくなっていましたが、久しぶりに聴いて、ややほの暗く温かみのある声質と、精密なコロラトゥーラのテクニックに改めて驚きを覚えました。
エウリッラを歌うエリー・アメリングについては私らの年代の声楽好きなら多分知らぬ者はないと思いますが、最近はどうなんでしょうね。古典派や初期ロマン派のリートなど、この人の存在なしでは語れないほどでしたが、オペラにおいてもリリコからスーブレットまで、知的でほどよく品のある語り口が魅力。このハイドンなど、作品にもうすこしポピュラリティがあれば当たり役と言ってもよいくらいだと思います。この人の声を評して「透明」という言い方をよく聞くが、どうでしょうね。透明さよりは人肌のぬくもりのようなものを強く感じます。
パスクァーレを歌うドメニコ・トリマルキはロッシーニのブッファで有名な人ですが、本当に芸達者といった感じがします。ロッシーニと違って悪乗りしすぎないさじ加減がなかなか絶妙。
オルランド役のジョージ・シャーリーは若干歌に「泣き」が入るクセがあって、様式感という点ですこし違和感がありました。その他の歌手達はいずれも過不足のないもので、全体としては大変なクオリティだと思いました。
ドラティの指揮は申し分なし。ハイドンの演奏の難しさというのは、モーツァルトの難しさよりもロッシーニのそれに通じるのじゃないでしょうか。モーツァルトのほうがまだしも情緒的な演奏でもなんとかなる部分があるが、ハイドンはその手の誤魔化しが一切効かなそう。ドラティの知的でしかも推進力のあるアプローチは本当に素晴らしいと思います。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2014-12-29 15:38 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

京都観世会例会 「小鍛冶」 「葛城」 「一角仙人」

私は、日本で最も有力な宗教というのはアニミズムだと思っている。昔、祖父母あたりから「お米の一粒一粒に神さんいてはんねやから粗末にしたらバチあたりまっせ」などと言われた人は多かろう。現代でも、ポゴレリチのリサイタルで、曲が終わるたびに楽譜を床にばさっと落とすのをみて「そんなことしたらバチあたるで」と思った人、たぶんサントリーホールの中に千人くらいいたと思う。




10月に続いて二回目の能鑑賞。

 平成26年12月21日@京都観世会館
 京都観世会十二月例会

 小鍛冶
  シテ(童子、狐=稲荷明神) 林喜右衛門
  ワキ(三条宗近) 宝生欣哉
  ワキツレ(橘道成=一条帝の勅使) 坂苗融
  アイ(宗近に仕える者) 茂山良暢

 狂言
 仏師
  シテ(すっぱ) 茂山あきら
  アド(田舎者) 丸石やすし

 葛城
  シテ(土地の女、葛城の女神) 河村和重
  ワキ(山伏) 小林努
  ワキツレ(山伏) 久馬治彦、岡充
  アイ(所の者) 山口耕道

 仕舞
  和布刈 鷲尾世志子
  土車 武田邦弘
  邯鄲 浅井通昭

 一角仙人
  シテ(一角仙人) 深野貴彦
  ツレ(旋陀夫人) 橋本忠樹
  ツレ(龍神)河村浩太郎、樹下千尋
  ワキ(官人) 原 大
  ワキツレ(輿舁) 有松遼一、岡充


今回観た三曲の能、いずれも超自然の霊異を扱って、しかも舞の華やかさ、面白さが中心となる祝典的なもの。年の瀬の華やぎに実に相応しい番組という感じがしました。それにしても能というものがこんなに面白いものだとは。二回目の観能にしてすっかりはまってしまいそうです。

最初は「小鍛冶」。三条の刀鍛冶宗近は剣を打てとの一条帝の勅命を受けるも、腕のたつ相槌がおらずに困り果てている。宗近が稲荷明神に参ると一人の童子が現れ、古今の剣に纏わる数多の奇譚を語り、宗近に鍛冶の用意をして待てと言う。やがて一匹の狐が現れ、宗近の相槌を見事に果たす。表に「小鍛冶宗近」、裏に「小狐丸」と銘打たれた剣を勅使に捧げると狐は去っていく。
まるで昔話のような微笑ましい内容に加えて、後半の人間と狐が力を合わせて剣を鍛える場面が楽しい。分類は五番目物・霊験物。今回の演出は小書に白頭とあるので、前シテは尉、後シテは白頭(しろがしら)の神狐、これは流派によって様々な衣装や面の違いがあるようだ。作り物は後半に幣帛を飾り付けた剣を打つための壇を模したもの。登場人物の詞は概ね聞き取りやすいが、シテの語る古今の剣の由来のくだりは耳で聴くだけではなかなか難しい。私は半魚文庫で事前にテキストを読んで行ったにも関わらず、地謡の詞はほとんど聞き取れませんでした。もっともこのくだりが判らずとも何ら鑑賞の妨げにはならないと思いますが、ちょっと悔しい。

ここで狂言。とある田舎者が御堂を建てたはいいが仏像がなく、仏師を訪ねて都にやってくる。そこにすっぱ(詐欺師)が来て我こそは仏師と言い、明日にも仏を作ってやろうと持ちかける。あくる日、田舎者がやってくると仏、実は面をつけたすっぱが鎮座している。すっぱは仏像に成りすましたり人間に戻ったり大忙しだが、田舎者は印相の形が気に食わず、何度も何度もやり直しを頼むうちに次第にしっちゃかめっちゃかに・・・。
いやもうとにかく、理屈抜きに面白く大笑い。素晴らしい芸能だと思います。笑い飯とかにやらせたらそのままコントになりそう。

「葛城」は四番目物、夜神楽物という分類になるらしい。「かつらぎ」ではなく「かづらき」と読むそうだ。小書は大和舞。羽黒山から葛城山に修行に来た山伏の一行が雪の為に難儀しているところを土地の女に助けられる。実はこの女、葛城山の女体の神であったが、役行者の求めによって吉野山と葛城山の間に岩橋を掛けようとする。しかし、その容姿を恥じて夜だけしか仕事をしなかったために役行者の怒りを買い、明王の索で身を縛められたのだという。その夜、山伏たちの加持によって呪縛を解かれた女神が大和舞を舞い、夜明けとともに再び岩戸の中に消えていく。
上演時間およそ1時間25分ほどだがかなり長く感じます。さほど錯綜した物語でもないのだが、間狂言で葛城の女体神と役行者との経緯を長々と語るのが、お昼をいただいた後というのもあって少々眠気を誘いますが、後半に雪の降り積もった庵の作り物から、玉飾りを着け美しく着飾った女神が現れる瞬間は、ほんとうに息を呑む思いがして一気に目が覚めました。そういえばシテに扮するのはこの前の10月に観た「夕顔」でシテを務めていた河村和重。その時は荘重というより、ほとんど動きのない舞の面白さがよく分っておりませんでしたが、今回の大和舞は同じく派手さはないものの、なんともいえず華やいだものが感じられて大変美しく感じられました。錯覚だとは思うけれど、後シテが舞う間、舞台がそれまでとは異なる光に満たされているように感じたのが不思議でした。また、前半の神韻縹渺たる笛の音が雪山の情景に相応しく、また後半は控え目に太鼓が加わって舞を彩るのも実に面白く、囃子にもいろいろあることが判りました。前シテの面は深井または増、後シテは増または十寸髪(ますかみ)というのだが、みても違いがわからないのが素人の悲しさ。

ここで仕舞が三番。今回のは随分と動きのある舞でなかなか楽しめましたが、何せ舞そのものがよく分っていないのでもう少し目が肥えるまで感想は控えておきます。

最後は「一角仙人」。舞台は天竺波羅奈国。鹿の胎内より生まれ、角をはやした一角仙人は、神力で龍神を岩屋に閉じ込めてしまう。それから雨が降らなくなってしまったので、こまった帝は美貌の旋陀夫人(せんだぶにん)を仙人のもとに遣わす。はじめは誘惑をしりぞけていた仙人だが、やがて旋陀夫人の勧めるままに酒に酔ってしまう。神力が衰えたところで岩屋から二柱の龍神が飛び出し、仙人を倒して逃げ去っていく。
五番目物とも四番目物とも。舞台の上には一角仙人の粗末な庵と、龍神の閉じ込められた釣鐘状の岩屋の作り物が据えられ、視覚的にも賑々しい。登場人物の内四人も面を着けるというのも異色でしょう。また、二人の輿舁(こしかき)が旋陀夫人の頭上に輿に見立てた作り物をかざしながら現れる場面、それに続く旋陀夫人の優艶な舞、よっぱらった仙人が旋陀夫人とともに舞うコミカルな舞、二柱の龍神の激しい舞と次々と見どころがあり、お話の荒唐無稽さはともかくとして、一大スペクタクルといった趣があります。今回のような祝典的な演目の最後にはぴったりな感じがしました。能というものが、高尚なものだけでなく、かつてはエンタテイメントでもあったと実感させられた一日でした。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2014-12-22 23:39 | 観劇記録 | Comments(5)

ポゴレリチ・リサイタルまたは夢の文法

ペヤングはお気の毒だがこのツイートちょっと笑いました。
 ぽんこむ(人でなし)♥尼ロリ @Ponkom · 12月13日
 カップヌードルを開封したら中にエビの死骸が!




イーヴォ・ポゴレリチのリサイタルを聴きました。毀誉褒貶相半ばする人だと思うので最初に結論を書いておきます。私は素晴らしい演奏だと思いました。


  2014年12月14日@サントリーホール
  リスト 巡礼の年第2年「イタリア」から
       ダンテを読んで(ソナタ風幻想曲)
  シューマン 幻想曲 ハ長調 op.17
  (休憩)
  ストラヴィンスキー 「ペトルーシュカ」からの3楽章
  ブラームス パガニーニの主題による変奏曲 op.35


だが、この日私が受けた感銘を言葉にしようと思うと、これが本当に難しい。聴いて思わず感涙に咽ぶといった情緒的な感動でないことは確かだが、かといって知に訴える音楽でもない。曲によってはかなりエキセントリックな解釈だが、定石を外す面白さ、というのともまったく違う。この感動はいったいどこからくるのか、何とかこれを言葉にしてみたいと思う。

その感動の幾分かは、彼がピアノから引き出す比類ない音そのものの純度に負っていると思います。それは瑕や濁りが皆無という訳ではないのだが、轟くような強音も頽れるような弱音も、スタインウェイの性能の限界に迫るような凄まじさで聴く者の心を鷲摑みにする。単に美音とかいった生易しいレベルではなく、そこには音楽というものに常に纏わりつく意味作用を剥奪され、純粋なシニフィアンと化した音そのものがそこにあったという感じがします。それを全身で享受する喜びというものはそもそも言葉になりえないのかも知れません。

もう一つ感じたことは、いかに奇矯と思われるような解釈であろうとそこにはある種の明晰さがあると思われること。妻アリス・ケゼラーゼと死別してからの暫くの間、このピアニストが個性的な解釈といった範囲を超えて、スキャンダラスなほど恣意的に崩れた演奏をし、技巧面でも随分とすさんだ時期があったのは事実だとしても、少なくとも今回の演奏に関して言えば恣意性でなく論理性、混沌ではなく明晰な精神というものを強く感じました。常識的なテンポを大きく逸脱したシューマンでさえ、透徹したソノリテの設計があり、構造が透けて見えるような見通しのよさがあるように思われます。だが、この人はおそらく恐ろしいほどの明晰さで言葉を話しているのだが、その文法が我々の使う言葉のそれとは少し異なっているのかも知れない。それは夢の中で起こる事象が、ほとんど現実と異ならないのにどこかすこし異常だったりするのにも似ている。この人はいわば夢の中で語っているのではないか。

開演の25分ほど前にホールに入ると、舞台の上には私服にスキー帽のポゴレリチその人がすでにピアノの前に座っていて、驚くほど小さな音でゆっくりと、シューマンの第2楽章の左右の手が跳躍する難所やブラームスのオクターブのアルペジオなどを何度も何度もさらっていて驚きました。聴衆の何人かは舞台の前方に集まり、ピアニストの視界に入らぬよう背中の方から様子を見ていましたが、本人は時折客席を放心したように見つめながら、いつまでも弾き続けている。定刻の10分ほど前に一人の女性がそっと近づき何かを囁くと、まるでスローモーションのようにゆっくりと立ち上がり、魂の抜けた人のように蹌踉と舞台の袖に引き上げていきました。その時はあっけにとられましたが、後で演奏を聴くと妙に腑に落ちるものがあり、「ああ、このひとは私とは違う世界の住人なのかも知れない」と思いました。彼の住む世界は、調度や設えは現実と少しも違わないのに、部屋が水で満たされていたり、空気に水ガラスのような粘度があったりするのだろうか。だからシューマンのファンタジーが40分も掛かるのか、というのは冗談だが、彼の演奏を他の演奏(現実の世界のピアニストたちの弾く演奏)と比べてここが異常だとか、あそこがおかしいなどと言うのはもはや意味を為さない言説であることは確かだろうと思います。

実を言えば、シューマンの第1楽章が通常の意味でかなりエキセントリックであった他は、想像していたのよりもはるかに「まともな」演奏でした。リストでは轟然とピアノが鳴り、ロマン派の香りも毒も存分に放ちながら圧倒的なヴィルトゥオジテで弾き切ったといった演奏。シューマンの第1楽章も「文法」こそ違えどそのおそるべき求心力に度肝を抜かれましたが、第2楽章の中間部に溢れるシューマンの真情の吐露をここまで表現した演奏はちょっと他にないのではないか、と思われました。そのあとのコーダの技巧も目覚ましく、さらには第3楽章の静かに潮が満ちていくような音楽には、まさに「ポゴレリチ復活」といった思いをしました。ペトルーシュカはまるで初めて聴く曲のように思わぬところから見知らぬ旋律が聞こえ、火花のような音の閃きがそこかしこに飛び散るのが面白く、イマジネーションの豊かさを感じます。そして何より驚いたのはブラームスの超絶技巧の確かさと、あちこちにシューマンの最良のページにも似た豊穣極まりない響きが聞こえてくることでした。どちらかといえば霊感に乏しい作品と思っていた時期もあったのですが、今回のパガニーニ・ヴァリエーションは作品の真価の見直しを迫るほどの驚異的な演奏であったと思います。

今回のプログラムで誰しも思うことは、「よくまぁこれだけ難曲を揃えたものだ」というものでしょう。最後にブラームスを聴きながら、このプログラムを貫くテーマはヴィルトゥオジテそのものかも知れないと思いました。第1部の前半に19世紀を代表するヴィルトゥオジテ、第2部の前半には20世紀を代表するそれが置かれ、第1部の後半はデレッタント故に本物のヴィルトゥオーゾというものに強烈なルサンチマンを感じていたであろうシューマンの、切歯扼腕するような作品を配すると、最後のブラームスの想像力の限りを尽くすような難技巧の数々が、シューマンの立ち位置からのリスト作品への返礼のように、あるいはシューマンのルサンチマンを晴らすかのように思われてくるのが実に面白い経験でした。しかしこのプログラムでこんなことを考えさせてくれるというのはよほどのテクニックがあってこそ。やはり凄いピアニストです。

私は別にポゴレリチの信者でもなんでもなく、実は生で彼の演奏を聴くのは初めて。随分昔の、プロコフィエフの6番ソナタとか、シューマンのトッカータの録音とかは凄いと思うけれど、最近の50分近く掛けたリストのソナタなど、youtubeでちらっと観たが正直なところ何だこれ、と思った口です。今回、何人か知人が聴きに行くというのでつい連られてチケットを買ったが、最近ヨーロッパでの隠し録りのyoutubeが出回り(すぐに削除されたが)、ついついそれを観て(音だけ聴くと)奇矯としかいいようがないファンタジーやペトルーシュカにちょっと辟易し、かなり後悔していたのでした。しかし実演を聴いてみるものだ。わざわざこのリサイタルの為だけに関西から出てきただけの甲斐はありました。

最後に蛇足、というか備忘。全曲楽譜を譜面台に置いての演奏。若い男の子が譜めくりに就いたが、ブラームスの途中でポゴが彼に何かつぶやくと、それ以降自分でめくり出した。なにかトラブルがあったのだろう。ブラームスが終わると、すぐさま足で椅子をピアノの下に押し込み、譜めくり用の椅子まで押し込む。アンコールを峻拒している様子は明白なので聴衆のカーテンコールも短め(時間が押していたせいかも)。非常に神経質で気難しそうなのは事実だが、ことさら機嫌が悪かったということでもなさそう。最後まで茫洋とした感じで、ピアノのこと以外は一切考えて無さそうなタイプとお見受けした。
(この項終わり)
by nekomatalistener | 2014-12-16 16:35 | 演奏会レビュー | Comments(3)

ハイドンのオペラを聴く(その2)~「報われたまこと」

きゃっきゃうふふと言えば・・・映画「戦国自衛隊」の千葉真一と夏八木勲やな。




ここひと月ほど、毎晩ハイドンのオペラを聴いていますが全く飽きるということがない。これは古典派のなかでも最上の音楽のひとつという気がします。

 報われたまこと La Fedeltà Premiata ~3幕からなる田園風のドラマ・ジョコーソ
  チェーリア: ルチア・ヴァレンティーニ=テッラーニ(Ms)
  フィレーノ: トニー・ランディ(T)
  アマランタ: フレデリカ・フォン・シュターデ(Sp)
  ペルッケット: アラン・タイタス(Br)
  ネリーナ: イレアナ・コトルバシュ(Sp)
  リンドーロ: ルイジ・アルヴァ(T)
  メリベーオ: マウリツィオ・マッツィエーリ(Bs)
  ディアーナ: カーリー・ロヴァース(Sp)
  スイス・ロマンド放送合唱団(合唱指揮:アンドレ・シャルレ)
  アンタル・ドラティ指揮ローザンヌ室内管弦楽団
  1975年6月録音
  CD:DECCA 478 1776


英語版のWikipediaにはこのオペラが立項されています。これによると1779年にエステルハーザ宮殿の劇場が火災に遭い、これが最新式の劇場に建て替えられたのを祝して1781年2月25日に初演されたとのこと。リブレットはジャンバティスタ・ロレンツィがチマローザの「不誠実な誠実」のために書いたものを改変したもの。チマローザはハイドンよりも18歳近く年下だけれど、ハイドンが遅咲きだったせいでオペラの創作ということでいえばほぼ同時代人なのですね。

http://en.wikipedia.org/wiki/La_fedeltà_premiata

1781年といえば、モーツァルトとハイドンが本格的に親交を結んだのがこの頃だとされています。ちょうどこの年、モーツァルトはザルツブルク大司教と衝突してウィーンに移り住みます。まさに「天才少年」から本物の天才へと大きく飛躍する年であり、「イドメネオ」が初演された年でもありますが、「後宮からの逃走」以降のブッファやジングシュピールの傑作群はまだ生み出されていません。ところが、このハイドンの「報われたまこと」を聴いていると、その音楽の素晴らしい疾走感や愉悦は後のモーツァルトと比べても少しも遜色がないことに心底驚かされます。きわめて知的で、べたべたした情緒とは無縁の清潔さは、モーツァルトを飛び越えてむしろ部分的にはロッシーニの音楽を予見しているかのようです。
贔屓の引き倒しにならぬよう附記しておくと、後のモーツァルトが「フィガロの結婚」で書いた美しい許しの音楽や、「ドン・ジョヴァンニ」のデモーニッシュな音楽はもちろんハイドンには望むべくもないものであることは確かでしょう。しかしそのことを以て両者に優劣をつけることは無意味でしょうし、モーツァルトのオペラとハイドンのそれとの月とスッポンほども違う人気の差を説明する理由にはならないと思います。それよりも、ハイドンには(モーツァルトにとっての)ダ・ポンテのような優れた台本作家や、シカネーダーのような(少々胡散臭くもあるが)有能なプロモーターがいなかったということが、歴史に埋もれてしまったことの最大の理由なのでしょう。

ストーリーは上で引用したWikipediaにシノプシスが書かれています。また日本語のサイトでは下記のものが見つかりました。

http://www.music-tel.com/ez2/o/work/La_Fedelta_premiata/index.html

3組の男女がすったもんだの末に収まる所に収まるという物語は、粗筋を読んでもごちゃごちゃし過ぎてよく分りません。むしろ、ロッシーニの「ランスへの旅」みたいに、特別の機会(新しい劇場の杮落し)ということで多くの歌手が調達できたせいで、お話は歌合戦のダシ程度になってしまったとも考えられそう。しかし、レチタティーヴォ・セッコが延々と続くのを聴いていると、さまざまな色恋の駆引きが洒落た会話で語られているような気もして、こういったオペラこそ対訳がほしいと思いました。
まぁ、現代人から見れば、最後の最後に神様がでてきてすべて解決(典型的なデウス・エクス・マキナ)というのがバカらしいし、いくら悪役でもメリベーオが最後に殺されちゃうのは祝典的な喜劇にそぐわないような気がしますが、そこは当時と現代とでは感性が違うというより、(フーコーのいうところの)エピステーメが違うからどうしようもない、というところでしょう。ちなみに、わずか10年ほど後にはモーツァルトの「コジ・ファン・トゥッテ」が書かれ、サド侯爵とフランス革命の時代となる訳だが、この間にエピステーメーの切断(知の枠組の断層)が起こったのだろうか、などとあれこれ考えを巡らすのも楽しいものです(フーコーそのものを「トンデモ本」と見做す人には縁がないですが)。


例によって全曲の構成を簡単に記しておこう(今回はリブレットもヴォーカル・スコアも入手できず、CDのブックレットにも詳細なナンバーが書かれていないので、カットの有無やオリジナルのナンバリングは不明です。あくまでも便宜的なものとお考えください)。

 シンフォニア
 第1幕
  No.1 導入Introduzione
   a.合唱 b.レチタティーヴォ・アコンパニャート(以下R.A.) c.アリア(アマランタ) d.合唱
   レチタティーヴォ・セッコ(以下R.S.)
  No.2 アリア(リンドーロ)
   R.S.
  No.3 アリアとレチタティーヴォ(アマランタ)
  No.4 アリア(ペルッケット)
   R.S.
  No.5 アリア(メリベーオ)
   R.S.
  No.6 アリア(フィレーノ)
   R.S.
  No.7 アリア(ネリーナ)
  No.8 アリア(チェーリア)
   R.S.
  No.9 アリア(フィレーノ)
   R.S.
  No.10 アリア(アマランタ)
   R.S.
  No.11 アリア(チェーリア)
   R.S.
  No.12 アリア(ペルッケット)
   R.S.
  No.13 フィナーレ(アンサンブル)

 第2幕
   R.S.
  No.14 アリア(メリベーオ)
   R.S.
  No.15 アリア(フィレーノ)
   R.S.
  No.16 アリア(ネリーナ)
  No.17 狩人の合唱
   R.S.
  No.18 アリア(ペルッケット)
  No.17bis 狩人の合唱
  No.19 レチタティーヴォとアリア(フィレーノ).
   R.S.
  No.20 レチタティーヴォとアリア(チェーリア)
   R.S.
  No.21 レチタティーヴォとアリア(アマランタ)
   R.S.
  No.22 フィナーレ(アンサンブル)
 

 第3幕
   R.S.
  No.23 二重唱(チェーリア・フィレーノ)
   R.S.
  No.24a R.A.(ディアーナ他)
  No.24b 合唱(全員)


前回紹介した「アルミーダ」と比べると数々の違いがありますが、それはとりもなおさずセリアとブッファの様式の違いということになると思います。すぐにも気が付くことは以下のようなところ。
①3つの幕の不均衡
 このCDの録音時間は第1幕で約80分(序曲除く)、第2幕が約64分、第3幕が約14分と非常にアンバランス。これは(wikiの受け売りだが)ドラマ・ジョコーゾの様式を確立した劇作家カルロ・ゴルドーニのスタイルだそうだが、現代の感覚からいえばその劇的効果は疑問と言うほかない。
②シンフォニアと交響曲の関係
 ソナタ形式で書かれたシンフォニアはほぼ同時期に作曲された交響曲第73番「狩」の第4楽章にそっくり転用されています。これは当時としてはごく当たり前のことだったようです。おそらくオペラのプロモーションを兼ねていたのでしょう。ちなみに、ディヴェルティメントみたいなこの頃までの交響曲も実にすばらしいものですが、ハイドンがこの分野で真の傑作を書きだすのはもう少し後、1785年から始まる「パリ交響曲(第82~87番)以降のことだと思います。これも話し出すと止まらないのですが別の機会に。
③導入とフィナーレの大規模ナンバー
 よほどのマニアでもない限り、モーツァルト以前のオペラといえばヘンデルあたりまで飛んでしまうのが普通だろうと思います。よって、あたかも突然変異のようにモーツァルトがブッファを完成させたように思いがちですが、ブッファのスタイルというのはハイドンがこれを書いた頃には既に完成されていたのですね。第1幕の導入(No.1)は合唱がアコンパニャートとアリアを挟んで幕開けに相応しく湧き立つような音楽を聞かせます。第1幕のフィナーレ(No.13)は20分近くあり、三重唱から二重唱、次いで次第に歌い手が増えて七重唱まで拡大、第2幕のフィナーレ(No.22)も14分ほどの長さがあり、やはり七重唱のアンサンブル。それぞれいくつもの部分からなり、各々の部分は自由度の高い三部形式や二部形式に分析出来なくもないが、むしろモーツァルトの(例えば「コジ・ファン・トゥッテ」の)長大なフィナーレ同様、次から次に溢れ出る楽想を猛烈なスピードで書き留めたといった趣が強い。第3幕のフィナーレは短い有節歌曲形式によるもので、モーツァルトならヴォードヴィルと名付けただろう。
④セッコとアコンパニャート
No.18までの殆どのアリアはアコンパニャートを伴わず、セッコに引き続いて歌われます。比較的お話が単純なセリアと違い、錯綜に錯綜を重ねるブッファではとにかく早口で膨大な台詞を語らねばならないから当然の措置。No.11のチェーリアのアリアが比較的時間も長く、かろうじて大アリアと呼べるものの、その他は5分を超えるアリアはなく、いずれも三部形式ないし二部形式でかかれています。ただし形式的な自由度は高く、異なる曲想が次々と出てきたり、逆に再現部が圧縮されて断片のようになったり、あの手この手でスピーディにお話が進んでいきます。ここで一転、No.19からNo.21の3曲はアコンパニャート附きのアリアで、オペラの終盤に主役達の歌をたっぷりと楽しませるといった趣向(その分お話の進展はちょっと停滞する)。いずれもアコンパニャートを合わせると7~9分ほどの堂々たる規模の楽曲となります。No.23の二重唱もアコンパニャートはないが趣旨としては似た位置にある。こういったナンバーで、緩急の二部分からなるものを二部形式と呼ぶか大アリア形式と呼ぶかはなかなか微妙。だがNo.23など、6分を超える長さもあり、ゆるやかな部分の恰幅の良さ、緩から急に転じてからのフィオリトゥーラの華麗さなど、大アリア形式と呼ぶにふさわしいと思います。

演奏は本当に素晴らしい。ドラティの演奏はどの部分も少しも下品にならずに、なおかつブッファの楽しさに溢れています。テンポの変化や、転調にともなう表情の変化が適確で、ハイドンの音楽における形式を逸脱する力と、矩を超えまいとする力が絶妙にバランスしていることが耳で聴いて実感できます。歌手については、フレデリカ・フォン・シュターデ、イレアナ・コトルバシュ、ルチア・ヴァレンティーニ=テッラーニの三名花の素晴らしさは私が説明するまでもないと思いますが、あまりのあでやかさにもうよだれが出そうになる。正に至福の時。よくもこれだけ人を揃えたものだ。なかでもヴァレンティーニ=テッラーニは声になんともいえない色気があって堪りません(下品と紙一重のところもあるが許せる)。男声陣も概ね適材適所だが、フィレーノ役のトニー・ランディはもう少し高望みしたくなります。ブッファの二枚目役のリリコ・レジェロは、例えばモーツァルトで言えばドン・オッターヴィオなんかが典型的だが、品位を保ったまま輝かしく歌うのはとても難しい。それを思うと、まぁこんなもんかなとも思うが、どこか精彩を欠く歌い方が気になります。他の3人は声質が明るくブッファにとても向いています。特にリンドーロ役のルイジ・アルヴァとペルッケット役のアラン・タイタスの達者なブッフォ的歌唱は優れています。こういった役どころが時代的にはずっと後のロッシーニを思わせるのでしょう。
もうハイドンで腹いっぱいだけどまだまだ続きます。ハイドン、大好きです。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2014-12-04 23:53 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)