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ゴリホフ 「アイナダマール」 日生劇場公演

「金曜ロードSHOW」の「シャーロックホームズ」でセンスのないテロップ貼りまくりが非難ごうごうみたいだけど、テレビの吹替えカットだらけ映画とか、あんなもん今時DQNしか見ないんだから別にどうでもいいんでねーの?




ゴリホフの「アイナダマール」日本初演を観てきました。

  2014年11月15日@日生劇場
  第1部 プロローグ
   長谷川初範、柴山秀明、三枝宏次

  第2部 オペラ「アイナダマール」
   マルガリータ・シルグ: 横山恵子
   ヌリア: 見角悠代
   ロルカ: 清水華澄
   ルイス・アロンソ: 石塚隆充
   ホセ・トリバルディ: 加藤宏隆
   闘牛士: 柴山秀明
   教師: 狩野賢一
   合唱: C.ヴィレッジシンガーズ
   管弦楽: 読売日本交響楽団
   指揮: 広上淳一
   演出: 粟國淳


まずは歌手について。私のお目当ての清水華澄が歌うガルシア・ロルカが期待通りの出来。ただし、期待を大きく上回る、というところまではいかない。女性が男役を歌うということで、やり様によっては妖しくも凛々しくも、といった役どころでしょうが、清水華澄のロルカは見栄えも含めてなんとなくユニセックスというか、男性も女性も感じさせない声。いつもの彼女なら役柄にとことん没入していくのでしょうが、ロルカという人物はちょっと難物だったのでしょうか。印象批評みたいで気が引けるけれど、役の核心に手が届きそうで届かないもどかしさのようなものを感じました。
マルガリータ・シルグ役の横山恵子は、今年の2月の「ドン・カルロ」のエリザベッタが記憶に新しいところ。力のあるドラマティコだと思いますが、今回は時に日本のドラマティコによくありがちなビブラートの大きな歌い方をしたりで、死期の近い往年の大女優という役を見事に表現していたと思います。ヌリアを歌った見角悠代も、リリカルな表現で女優の卵という役どころにはぴったりでした。ルイス・アロンソはクラシック歌手ではなくフラメンコのカンタオールが歌うのですが、石塚隆充のカンテ・ホンドは若々しく輝きのある声で素晴らしかったと思います。まさに白昼の悲劇を彷彿とさせる声。その他、女声合唱、脇役らは過不足なし。

先日の投稿で紹介したドーン・アップショウらの録音はぎりぎりCD1枚に収まるほどの演奏時間でしたが、今回のは90分弱というところか。そのため、ロルカの「マリアナの像に寄せるアリア」などの情緒纏綿たる歌わせ方などは大変良かったと思います。しかし、全体的にはだれたり、胃にもたれる部分もあって、長いな、と思ってしまったのが少し残念でした。これは広上淳一の指揮の所為というよりは、ゴリホフの音楽自体の持つ問題かも知れません。今回の意欲的な取り組みに対して本当に書きにくいことなのだが、正直なところ90分聴き続けるには音楽の力が弱いと思いました。幕切れ近くの三重唱など美しい音楽もふんだんにあり、聴衆にとって判りやすい音楽を追及したというのも結構だが、何度聞いても汲み尽くせない音楽というのはそれだけでは成り立たないのだと思わざるを得ない。血と硝煙の臭いに満ちたスペインの歴史、ロルカの悲劇、それらをこの現代にオペラという形式で表現するにあたって、ビジネスとしての成功はともかく、本当にこんなスタイルで良かったのか、という疑問を持ちました。

演出については、例えば衣装ひとつとってもさまざまな含意があるように思われ、とてもじゃないが細部の意図するところまでは理解できたとは思いません。ロルカがハバナ行を断る場面では、半裸の男性ダンサー達が扇情的な振り付けで腰をくねらせ、ロルカが彼らを拒むことで、ロルカにとってハバナが快楽の地であったこと、にもかかわらず彼が祖国の解放に参加することを選んだことが強調されます。それによって後の場面でルイス・アロンソがロルカを「おかま野郎」とか「ロシアの情夫」と罵る意味合いがよく分る。ただ、やはりロルカの行動というのは、「ぼくは爆発の合間で歌いたい」の歌でも示されている通り、その時代の空気のようなものに熱狂的に流された結果という感じもして(1968年のパリの学生も似たようなものかも知れないが)、すくなくとも共産主義思想への共鳴があったのかどうかは大いに疑問であるのは、前日の投稿にも書いた通り。もう少し演出の細部について見通しがきけば良いのだが、残念ながら私の手にはあまります。

オペラに先だって、ロルカの生涯を30分ほどの寸劇に仕立てたものが上演されました。まったく白紙の状態で見に来た聴衆にはそれも良かったのでしょうが、多少はそういった背景を齧ってきた者にとってはやや中途半端な内容。それより、先程も演出のところで書いた通り、例えば嘆きの女たちの衣装、カトリックの典礼を思わせるあのごてごてした衣装は一体なんなのか、とか、ロルカと一緒に逮捕された闘牛士や学校の先生は何の罪に問われたのか、また劇中で男たちが翻す旗の意味すること、あるいは旧弊なカトリック世界における当時のゲイの実態とか、舞台で起こることを全部説明するというのは良くないとしても、思わせぶりな演出はそれはそれとして、もう少しレクチャーしてほしいことがあるように思いました。
(この項終わり)
by nekomatalistener | 2014-11-17 22:38 | 演奏会レビュー | Comments(2)

ハイドンのオペラを聴く(その1)~「アルミーダ」

リツイートがわりに引用。いやほんと、この通りだと思うよ。
糖類の上@tinouye
最近思うのだけど、たとえばハイドンのようにつまらなさそうだけど、あれが素晴らしいと思えるようになるのは、ウェーベルンが面白いと思うとか、フェルドマン、近藤譲が面白いと思えるのと似てるのではないか?(いや、確信はないけどね、、




Amazonを渉猟していて偶然見つけたハイドンのオペラ集CD20枚組。これから8回シリーズ(予定)で紹介していきたい。第1回は1784年にエステルハーザ宮殿の劇場で初演された「アルミーダ」。


 アルミーダ ~3幕からなる英雄劇
   アルミーダ: ジェシー・ノーマン(Sp)
   リナルド: クラエス=アーカン・アーンシェ(T)
   ツェルミーラ: ノーマ・バロウズ(Sp)
   イドレーノ: サミュエル・ラミー(Br)
   ウバルド: ロビン・レッガーテ(T)  
   クロタルコ: アンソニー・ロルフ・ジョンソン(T)
   アンタル・ドラティ指揮ローザンヌ室内管弦楽団
   1978年9月録音
   CD:DECCA 478 1776


私はあまり「レコ芸」のような雑誌を読まないので、この世にこんなCDがあるとは知りもしないし思ってもみませんでしたが、まったくとんでもない録音があったものだ。ハイドンのスペシャリストであるアンタル・ドラティの指揮で、錚々たる歌手たちが競演を繰り広げる、まさに至高の録音だと思います。でも、こうやっていくら私がハイドンのオペラの素晴らしさを力説し、演奏の素晴らしさを褒め倒しても、多分誰も聴かないことは判っています。ハイドンのオペラ・・・クラシックが好きという人間を1000人抽出したとしても、その中でハイドンのオペラを積極的に聴いてみたいなんていう人間はどうせ1人いるかいないか、だと思います。感覚的には1万人中2、3人ってところだと思う(東京と地方都市では多少ちがうかも知れないが)。なぜなら、はっきり言うが、こういった作品を享受し心の底から愉悦を感じるのには、音楽美学に関する真の教養が求められるから。まぁ、自分がそういった教養の持ち主であるなどと驕るつもりは全くありませんが、すくなくともそういったレベルになりたいと努力はしているつもり。それにしても、この一連の録音の歴史的重要性というのは、レオポルト・ハーガーが選りすぐりの名歌手を集めて作成したモーツァルトの初期オペラ集の録音にも匹敵するものであると思います。

さて、20枚組のうち最初の2枚に収められた「アルミーダ」、残念ながら歌詞対訳は添付されていませんが、トラック毎に細分化されたシノプシスが附いていて、基本的に他愛もないストーリーなのでこれで十分という感じがします。日本語のあらすじは下記サイトに比較的詳しいものがありましたので紹介しておきます。素材としてはヘンデルの「リナルド」やロッシーニの「アルミーダ」と同じお話で、元ネタはトルクァート・タッソーの叙事詩「解放されたエルサレム」のなかのエピソードです。

http://www.music-tel.com/ez2/o/work/Armida/index.html

また、英語版のWikipediaにはこのオペラが立項されていて参考になります。どこまで信用していいのかよく分りませんが、これによれば1784年2月26日にエステルハーザ宮殿劇場で初演されて以来、1788年までに54回も上演され、更にハイドンの在世中にプレスブルク(現ブラチスラヴァ)、ブダペスト、トリノ、ウィーンでも上演されたとありますから、まずまず成功作だったのでしょう。しかし、その後1968年の蘇演まで長い間埋もれてしまった経緯については明らかにされていません。また、これらの上演がエステルハージ家の私的な演奏会なのか、もっと広く聴衆を集めての上演だったのか、また、この時代であれば当然モーツァルトやサリエリ、あるいはグルックとの相互影響の実態(実際にどの程度、互いの作品を聴く機会があったのか)、等々謎は尽きませんが、なかなか日本語で読める文献もありませんのでひとまずこれらの問いは脇に押しやっておきましょう。

http://en.wikipedia.org/wiki/Armida_(Haydn)


全曲の構成は次のようになっています(オペラ対訳プロジェクトを参照したが、筆者の考えで採番は一部変更した)。
http://www31.atwiki.jp/oper/pages/2311.html

 第1幕
  シンフォニア
   レチタティーヴォ・セッコ(以下R.S.)
  No.1 アリア(リナルド)
   R.S
  No.2 アリア(イドレーノ)
  No.3a レチタティーヴォ・アコンパニャート(以下R.A)
  No.3b アリア(アルミーダ)
  No.4 行進曲
  No.5a R.A
  No.5b アリア(ウバルド)~R.A.
   R.S
  No.6 アリア(ツェルミーラ)
   R.S
  No.7a R.A
  No.7b 二重唱(リナルド/アルミーダ)

 第2幕
   R.S.
  No.8 アリア(ツェルミーラ)
   R.S.
  No.9 アリア(クロタルコ)
   R.S.
  No.10 アリア(イドレーノ)
   R.S.
  No.11a R.A
  No.11b アリア(リナルド)
  No.12a R.A
  No.12b アリア(アルミーダ)
   R.S.
  No.13 アリア(ウバルド)
   R.S.
  No.14 三重唱(アルミーダ/リナルド/ウバルド)

 第3幕
  No.15a R.A
  No.15b アリア(ツェルミーラ)
  No.16a R.A
  No.16b アリア(アルミーダ)
  No.17a R.A
  No.17b アリア(リナルド)~R.A
  No.18 行進曲
   R.S.
  No.19 フィナーレ(アルミーダ/ツェルミーラ/イドレーノ/リナルド/ウバルド)


合唱が登場せず、アリアをレチタティーヴォでつないでいく構成はセリアとしてはごく標準的ですが、アコンパニャートが随分と多いのはやや特徴的かも知れません。特に第3幕はフィナーレの前にすこしセッコが出てくるだけで後はすべてアコンパニャート。第3幕全体が長大なフィナーレのようになっています。
各ナンバーをその形式に着目して簡易な分析をしてみよう。
まず、シンフォニア(序曲)だが、A-B-A’ の三部形式で書かれています。Aの部分を詳細に見ると、変ロ長調の主題提示からすぐにヘ長調に転調し一旦終始。これが、あたかもソナタの提示部の如く繰り返されますが、完全な繰り返しではなくBに続いていきます。Bの部分は第3幕のリナルドの歌うアコンパニャートからの素材。A’ はAと同じく変ロ長調で始まり、ヘ長調へは転調せずに変ロ長調のまま後半が奏されます。つまり、三部形式とはいうものの、単純なダ・カーポ形式ではなく、ソナタ形式とオペラ素材のパッチワークとの融合が図られており、この時代ならではの音楽といった感じがします。
アリアのうち比較的多くは、シンフォニア同様の構造、すなわちA-B-A’ の三部形式、Aの後半が属調に転調するのに対してA’ の後半は主調のままという形式で書かれており、ダ・カーポ形式のすっきりとした様式感はそのままに、ソナタ形式の弁証法的調性展開を持ち込むことで、物語の停滞とダ・カーポ・アリアの退屈さを克服しようとするメカニズムを見ることが出来ます(No.1、2、5b、6、10、16b)。
場面転換の行進曲といくつかのアリアはより単純な二部形式(A-A’、あるいはA-B)で書かれています(No.4、8、9、12b、13、17b、18)。華々しいコロラトゥーラ技巧の発揮(No.8)や激しいフリオーソ(狂乱)の表現(No.12b)、脇役達の小唄(No.9、13)、あるいはNo.15aからNo.17aの連続して演奏される実質的に長大なフィナーレの締めくくり(No.17b)には、こうした簡潔な形式が相応しいという訳だろう。
主役達の重要なナンバーは少し後のモーツァルトの円熟したアリア同様、緩急の二つの部分からなる長大なアリア(大アリア形式)として書かれています(No.3b、7b、11b)。いずれも後半の急の部分では華やかなフィオリトゥーラが延々と展開され、主役達の歌の技巧をこれでもか、というほど発揮させるものとなっています。また、それらに準ずるものとして、ロンド形式によるナンバー(No.14とNo.15b)があるが、前者は第2幕のフィナーレに相応しい華やかさを備えており、また後者はルフランとクープレの性格の対比を抑えて、騎士を誑かすツェルミーラの色仕掛けを官能的に描いています。
フィナーレの五重唱(No.19)は一種の有節歌曲形式で書かれています。少し後のモーツァルトの、特にジングシュピールの終曲に倣って「ヴォードヴィル形式」と呼んでもよさそうです。
この実に多彩な形式を駆使して書かれたオペラを聴くと、モーツァルトが決して突然変異のごとく現れた訳でないことがよく分ります。しかしこういった形式上の特色がハイドン独自のものか否かは、モーツァルトの若書きのセリアや演奏会用アリアだけでなく、同時代の掃いて捨てるほど書かれたはずのイタリア・オペラと比べなければはっきりとしたことは言えません。音源が殆どないので素人には手がだせませんが、アントニオ・サリエリのオペラとの相互影響などは意義のある研究テーマになるはず。しかしそれ以前に、日本ではハイドンの伝記や作品解説といった基本文献さえまともなものがない現状をまずなんとかしてほしい(特に声楽曲に関して)。いずれにしても、どこまでも様式美を重んじ、決して矩を超えずと思われがちなハイドンですが、思いのほか表現の幅が広く、少しも古臭くなく聞こえるということだけは、いくら強調してもし過ぎるということはないと思います。

演奏の素晴らしさについては冒頭に書いた通りですが、ドラティの生気に溢れ、しかも節度のある演奏は特筆に値すると思います。ハイドンのスペシャリストという肩書はアダム・フィッシャーの交響曲全集がでてから少しお株を奪われた感がなくもないが、この木肌のぬくもりのある音と、清潔なアーティキュレーションは何ものにも代えがたいと思います。しかし、なによりも凄いのはこれ以上望むべくもないほどの歌手陣。まるで、田舎風のパテでも食うつもりで小体なビストロに入ったら、子羊のマリア・カラス風だの狩猟鴨のサルミソースだのグランメゾンばりの料理が出てきたみたいな驚き。こういうのを贅を尽くすというのだろう。
まったく、ハイドンのオペラの主役をジェシー・ノーマンで聴けるなんて誰が想像しただろうか。彼女が歌うと、どんな役柄も3割増しで立派に聞こえるものだが、それがけっして牛刀をもって鶏を割く結果にはならずに、役柄に即した真正な表現と思われるのはハイドンの凄さというべきでしょう。しかし何よりも驚いたのは、ドラマティックな表現を得意としていてどちらかといえばフィオリトゥーラなどは不得手という思い込みがあったにもかかわらず、ここでのノーマンの歌唱はそんな思い込みなど軽く蹴散らして唖然とするほどの技巧のキレを見せるということ。もちろんコロラトゥーラの歌手みたいにはいかないけれど、ハイドンの節度のあるフィオリトゥーラにはもはやこれ以上の適確な表現は考えられないほどだ。
リナルドのアーンシェも立派な歌唱だと思います。このディスクの録音時よりもう少し時代が下れば、ロッシーニなどの目もくらむ技巧的なブラヴーラを軽々と歌ってのけるテノールが多数出てきたのでしょうが、それには及ばずともこれはこれで大したものだと思います。イドレーノを歌っているサミュエル・ラミーもロッシーニで名を馳せたバリトンで悪かろうはずがない。これまた呆れるばかりの技巧で、しかも威厳のあるバリトンの役を歌っています。ツェルミーラは典型的なコロラトゥーラの役柄だろうと思いますが、ノーマ・バロウズが素晴らしいアリアを聴かせてくれます。ウバルドのレッガーテも(ちょっと細かい音符が怪しいところもあるが)まずまず。また、たった一曲しかアリアを歌わないチョイ役のクロタルコ役がアンソニー・ロルフ・ジョンソンというのもなかなか贅沢な配役。
以後、少しづつ聴きながらレポートしていきますので少々時間がかかりますがお楽しみに。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2014-11-14 22:34 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

TRANSMUSIC2014 三輪眞弘を迎えて

映画「美女と野獣」が話題に。でもホントは、「野獣が王子様に戻ったので、野獣の毛深い見てくれと優しさにギャップ萌えしていたケモナーのベルはちょっとがっかりしましたとさ。」というのが正しいエンディングだと思うんだがなぁ。




8月のシュトックハウゼン「歴年」コンサートで、二日目の後半に演奏された三輪眞弘の「59049年カウンター(2014)~2人の詠人、10人の桁人と音具を奏でる傍観者達のための」を聴いて(観て)以来、ずっとこの人のことが気に懸っていました。今回、ほぼこの人の個展といってもよい演奏会を大阪で聴くことが出来たのは思いもよらぬ出来事でした。

 2014年11月8日@いずみホール
 サントリー芸術財団コンサートTRANSMUSIC2014

  クラーレンス・バルロ
  ナイルの1月(1984) 
   室内オーケストラのための
    指揮:野平一郎 
    いずみシンフォニエッタ大阪

  三輪眞弘
  ひとのきえさり、藤井貞和の詞による序奏と朗読(2013)
   シンギング・マシン、アイントンと9人の演奏者のための
    シンギング・マシン、アイントン:マーティン・リッチズ
    いずみシンフォニエッタ大阪

  (休憩)

  フォルマント兄弟
  歌謡曲「夢のワルツ」(2012/2014)
   MIDIアコーディオンとオーケストラのための
    指揮:野平一郎
    MIDIアコーディオン:岡野勇仁
    ギター:佐近田展康
    いずみシンフォニエッタ大阪

  三輪眞弘
  万葉集の一節を主題とする変奏曲(2014)
   MIDIアコーディオンと管弦合奏のための
    MIDIアコーディオン:岡野勇仁
    いずみシンフォニエッタ大阪

  三輪眞弘
  海ゆかば <万葉集の一節を主題とする変奏曲>内包曲(2014)
   MIDIキーボードとパソコンのための
    MIDIキーボード:岡野勇仁
    

大阪という場所柄、このようないわゆるゲンダイオンガクのみの企画を実現させた関係者の蛮勇には敬意を表する次第だが、私の個人的な感想はなかなか言葉になりません。前半の「ひとのきえさり」では作品のそこかしこに3.11の終末論的、黙示録的イメージが垣間見えるのが正直煩わしく、後半「万葉集の一節云々」は太平洋戦争末期のイメージがかなり直截に表現されていて、青臭すぎて政治的メッセージにもならない京大あたりの学生の立て看をみているような鼻白む思いがしました。にもかかわらず、「音楽」としてみた場合に、これらの作品がとんでもない魅力を放っているというのも事実であって、結局のところ、「面白かった」という陳腐な感想に行きついてしまうのが少々歯がゆいところ。もっとも、音楽の定義にもよるけれど、「聴く」というよりは体感する音楽、ひとつのフォルムに収まって自律し、自己完結しているものではなく、ある種のインスタレーションのように「開かれた」それ、という気がします。それが何に向かって開かれているのかは議論のあるところでしょうが、まだうまく言語化できませんがその一部が時事問題というわけなのでしょう(ホントはこういった素人の備忘兼プログ論評というのは、プロの批評なんかが出回る前にアップするに限るのだが、今回ぐずぐずしているうちに白石知雄氏とか大久保賢氏あたりがガンガン書いているのでやりにくくて仕方がない(笑))。

三輪眞弘の音楽の方向性あるいはモティーフとして、司会役の伊東信宏氏が3点にまとめて紹介されていましたが、それによるとひとつは「夢落ち」という要素、つまり「ギヤック族のこれこれこういう儀式の音楽を再現した・・・・という夢を見た」というパターンで紹介されるような、架空の滅ぼされた先住民族あるいは古代民族の音楽や儀式。二つ目はアルゴリズムによる音楽、ある規則を決めておけばパソコンでオートマティックに生成されるような音楽。三つ目は言葉というものに対するこだわり。たとえば機械にことば(人工音声)をしゃべらせるというもの。これはこの通りだと思うが、もうひとつ4つ目の要素が反原発とか反戦のような要素。音楽と政治思想との関わり合いというのも重要かつ困難なテーマだが、私は素直に、相性が悪いもん同士、という感じがします。

演奏順に備忘を書いていきますが、ます最初のバルロの「ナイルの1月」、構成としてはまず最初に7人の弦楽器奏者の奏でるハーモニックスとクロタルのような鈴の音のゆるやかな部分が随分と長く続き、やがて2本のソプラノ・サキソフォン、ピアノとその他の打楽器が加わります。途中、ロマンティックな弦楽合奏や、租界のナイトクラブの音楽みたいな妙ちきりんな音楽を挿んで、前半が回帰しますが、最初そこはかとなく感じられ、中間のエピソードであからさまであった調性感は次第にサックスの阿鼻叫喚に掻き消されていくというもの。演奏後に三輪氏のトークによってその作品を組み入れた理由の種明かしがされた訳だが、それによると、三輪氏がドイツで勉強していた頃、たまたまラジオでこの作品が流れていて、それ以来バルロとは直接の子弟関係はないが最も影響を受けた作曲家として今日に至っているということでした。耳で聴いただけでは判りませんが、この音楽全体がIm Januar am Nil という破擦音のない音素で構成された詩句(あとに続きがあるそうだが)をある規則というかアルゴリズムによって音化したものだという。つまり若き日の三輪が当時やろうとしていたことの全てがここでなされていた、ということだそうだ・・・。しかし、そういった種明かしがなくても、長い時間を掛けて次第にカオティックになっていく音楽を私は面白く聴きました。

二曲目の「ひとのきえさり」は、先にも書いた通り、聴きながらちょっと困惑もしましたが、音楽として見るとこれほど面白いものもないと思います。プログラムには藤井貞和による「ひとのきえさり」という3.11にインスパイアされた詩が掲げられており、それを構成する7音節からなる詩句が音化されています。舞台の上手では5人の管楽器奏者が円陣を作って演奏しますが、この5つの楽器がアイウエオの母音をそれぞれ担い、子音に相当する12の音程を詩句に応じて奏するというもののようだ。舞台下手にはシンギング・マシーンなる奇妙な機械が置かれており、アクリルの筒のなかを舌や唇に相当するブイのようなものが浮き沈みし、4人の女性がこれを取り囲んで、ある規則にしたがって子音パイプ(中空のプラスチックのパイプで膝を叩くとそれぞれ異なった音程の音がなる)を叩きながら、隣の奏者といそがしくそのパイプの受け渡しを行う。下手の奥では機械の考案者であるマーティン・リッチズがシンギング・マシーンを操作している。やがて奏者たちが儀式のように黙礼して舞台を去ると、舞台中央にならべられたアイントン(四角い中空の2.7mほどのパイプが3本並べられ、低周波の唸り(Ein Ton といいながら3本のパイプの音が少しずつ周波数が違う)が起こる。シンギング・マシーンが詩句を話す。
こうしてあえて自分の備忘として書いているが、おそらく読んだだけでは何のことやら、という感じでしょうね。判りやすい喩えかどうか自信はないが、言ってみれば「明和電機のライブ」と「ミクロフォニーⅠ(シュトックハウゼン)のライブ」を足して2で割ったような感じ。いや、この儀式の禍々しさはどちらに例えても適切ではないのですが、こんな喩えしかちょっと思い浮かびません。

休憩後の「夢のワルツ」。作曲者としてクレジットされているフォルマント兄弟は三輪眞弘と佐近田展康のユニット名だが、この二人はパンフレットによると父親違いの異母兄弟だそうだ。つまりアカの他人ですね。人工音声で歌うアコーディオンがゴージャスなバックバンド(これを現代音楽のスペシャリスト軍団が演奏するという可笑しさ)にあわせて昭和レトロなムード歌謡を歌うという趣向。MIDIアコーディオンの関節がはずれそうな頼りなさに、聴いている間中、私はおかしくて仕方がありませんでした。作曲者のトークによれば、よく初音ミクとの比較について訊ねられるということだが、三輪の繰り出す音声機械はあのボーカロイドのような完成度はなく、操作する人がまちがえば機械もまちがえるというところがミソのようだ。たしかに、音程も発音もやたら怪しい不完全な楽器にしかできない表現もあるというのは本当だと思います。

そしていよいよ新作の初演。「変奏曲」と「海ゆかば(内包曲)」は続けて演奏されます。舞台の上にオーケストラの団員がてんでばらばらの方向に向いて座る。指揮者がいないかわりに各人の譜面立てにはそれぞれ一台ずつスマホが置かれていて、一つのPCで制御された各団員バラバラのテンポのメトロノーム(光の点滅信号)を受信し、点滅している。風鈴がなり、アコーディオン奏者が演奏を始めると、このメトロノームに従い各奏者が微妙にずれた合いの手を入れる。ひとしきりそれらが続いた後、演奏をやめた奏者たちが密やかに聞き取れないぐらいの声で特攻隊員の手紙を朗読する。戦時中のラジオ放送のように、「海ゆかば」がテープで流れると、アコーディオン奏者が人工音声で歌うキーボードで海ゆかばを弾く。しかし、最後に魔法が解けたようにキーボードの音声への変換が途絶え、不協和音がいくつか鳴って終わる。
ちょっとコメントに困るというか、その時感じたことが批評として私の中で内面化していかない。いわゆる大本営発表というやつへの反発、社会の同調圧力への反発がばらばらのメトロノームの発想の源となっているようだが、縦が合わなければ合わないほど、音程の怪しい(妖しい)アコーディオンの合いの手としてはより「音楽的に」響いてしまうという皮肉。究極の規則性と究極の無作為性(例えばケージの「易の音楽」!)がしばしば似通った相貌を呈するという、戦後70年繰り返し繰り返し確認された音楽行為をまたしても追体験させられるというか、どんなに規則を捨て去っても音がある限り、音楽として成り立ってしまうという音の本質の強靭さを突きつけられるというか。そんなことは作曲家たるもの百も承知のはずだが、目の前で起こっていることはなんなのか。政治的なるものに惑わされて音の本質を誤ったのか。
こういった音楽に「海ゆかば」をモチーフとして使うというは、はじめのうち如何なものかという思いを禁じ得なかったけれど、けっして茶化さず玩具にせず、粛然と終わるところは辛うじて好感を持ち得たところです。しかし、この日いずみホールで海ゆかばを聴き、なにかしら心に響いた人がいるなら、それはそれでいいけれど靖国の遊就館も是非行ってほしいと思いました(あそこにはこの大伴家持の歌があちこちに掲げられています)。これは政治的信条の問題というだけでなく、こういったセンシティブな問題に対してこそ人は多角的な視座をもつべきであろうと思うから。
なお、始まって数分して、三輪氏が舞台のほうに進んで演奏を中断、客席に向かって何度も謝りながらアコーディオンに繋がっているコードを確認し、最初からやり直し。どうも音声に変換するためのコードが繋がっていなかったようだが、曲が曲だけに、一瞬「これは仕組まれたハプニングみたいなやつか?」と勘繰ってしまいました。まぁライブならではの面白さではありますね。


余談ですが、開演前に大井浩明氏と法貴彩子氏を発見。ほんの立ち話ですが法貴さんとお話することが出来て良かったです。意外というと失礼ですが、いきなり話しかけてきたおっさん(私)にとても愛想よくにこやかにヴォルフガング・リームのお話などして頂き、ますますファンになりました。来年はラヴェルの全曲演奏会や、難曲と仰るリヒャルト・シュトラウスのヴァイオリン・ソナタの再演など予定されておられるようですので、ピアノ好き、ピアノ弾きの皆様ぜひ応援をよろしくお願いします。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2014-11-10 23:11 | 演奏会レビュー | Comments(3)

近藤譲ピアノ作品によるリサイタル The Shape Follows Its Shadow

ハロウィンもすっかり定着してきたみたいだし、いっそのこと「B層の日」とかなんとか祝日にしたらどうか?




カフェ・モンタージュで大井浩明の弾く近藤譲作品のリサイタルを聴きました。

 2014年11月3日@カフェ・モンタージュ

   クリック・クラック Click Crack (1973)
   視覚リズム法 Sight Rhythmics (1975)
   形は影にしたがう The shape follows its shadow (1975/2011)
   歩く Walk (1976)
   記憶術のタンゴ Tango Mnemonic (1984)

    (休憩)

   ピアノのための舞曲「ヨーロッパ人」 A Dance for Piano "Europeans" (1990)
   高窓 High window (1996)
   夏の小舞曲 Short Summer Dance (1998)
   リトルネッロ Ritornello (2005)
   長短賦 Trochaic Thought (2009)

近藤譲といえば、私が高校生の頃(70年代末~80年代前半)に友人から借りたLPで「ブルームフィールド氏の間化」など数曲を聴いたことがあり、興味を覚えたもののそれ以上深入りすることなく、その名前だけが記憶に残ったのでした。NHK-FMでたしか柴田南雄が司会をしていた番組で「風がでたとき」という作品を放送したのも、同じころだったと思います。これは耳に残るというか、ある種の懐かしさのようなものを感じさせる優れた作品だと思いましたが、もちろんその頃はまだ「海のモノとも山のモノとも」の時代で、その作品を体系的に聴くなど土台無理。それからウン十年、大阪のタワレコがまだアメ村の近くにあった頃、アヴァンギャルドからアンビエントまで、なかなかとんがったディスクばかり置いているコーナーがあって(現在の渋谷店を除くタワレコの情けない状況とは大違い)、そこであれこれ目についたものを買い込んだ中に「彼此(おちこち)」というアルバム(「風がでたとき」が収録されていた!)があり、けっこう夢中になって何度も聴いたのだが、結局その時も他の作品をあれこれ聴く機会を逸したまま(当時はこの世界ではそこそこメジャーになっておられた訳だが)、今日に至りました。
つい最近になって、その著書「線の音楽」の復刊に次いで、大井浩明が東京でピアノ作品全曲を弾くというとんでもないリサイタルをするなど、ごくごく狭いコミュニティの中の出来事ではあるが所謂プチブレイク状態になっているのは、私のような中途半端な中年世代には隔世の感があるのだが、それでも自分の若い頃の近藤譲体験を振り返ってみると、「ブルームフィールド氏・・・」の前衛の旗手としての顔と、「風がでたとき」の他に比べるもののない独特な世界の両方を期せずして聴いていたのは、今回のリサイタルまでの長い予習期間としては強ち無駄ではなかったのだと思いました。

個人的な思い出話はこれぐらいにしておきますが、今回のリサイタルで弾かれた10曲のうち、「彼此」系(勝手に名づけてますが・・・)は「歩く」のみ。滅法楽しく、聴くだけでなく弾いてみたいと思わせる作風ですが、この「面白うてやがてかなしき」独自の世界は決してソフトコアな現代音楽ではなく、その類例のなさと俗耳におもねらない妥協のなさは、ハードコアな現代音楽にひけを取らないものであると思います。その他はもっぱらアヴァンギャルドな系列の作品ですが、例えば「視覚リズム法」などはモノクロームなピアノではなく、元の室内楽版で聴けば、この二つの世界がより近く感じられるのではないかという予感がする。こういった作品は、私のばあい、何度も聴かないと腹に入らないので、今回のリサイタルをきっかけに、これから体系的に聴いてみようと思っているのだが、すくなくともこれまでぼんやりと認識してきた「彼此」系とアヴァンギャルド系の音楽というものが非常に隣接していて、極論すればどの作品も金太郎飴のような近藤譲的世界なのではないかという感想を得ました。さらに、後半で弾かれた「高窓」のゆっくりと鳴らされるきらめく不協和音、この美しさは今回新たに知ることになったこの作曲家の魅力であったと思います。ふとモートン・フェルドマンの作品を連想しましたが、もしかすると初期の「視覚リズム法」からして、そのリズムを何倍かに引き伸ばしたら、フェルドマンのたゆたうような、しかし実は極めて精緻にかかれたリズムに通じるのではないか、という気がしました。

前半と後半の演奏前に、近藤譲ご本人の短いトークがあって、大変興味深く、かつユーモラスなものでした。一晩寝たら大分忘れてしまいましたが(笑)、すこし備忘で書きとどめておきます。
・音楽とは心とか気持ちとか、なにかを表現するものだという人がいる。あるいは、音楽とは建築のような、音の構築物を示すものであるという人もいる。私(近藤)はそのどちらでもなくて、昔も今もずっと、ある独立した音の隣に別の音を置くと、もとの音の意味合いが変わる、それがおもしろくて作曲をやってきた。実はピアノ音楽というのは、一人の奏者がこうして置かれた音を一つながりに弾いてしまうので、どうして書いたらよいかよく分らなかった。私は作曲するときはピアノを用いているのだが、何人かのアンサンブルでやる曲をピアノでそのままやれば別の作品になると思うようになった。本来は数人で演奏する音楽を一人で弾くのだから当然難しい。
・リストやショパンの演奏はとても難しいといわれているが、あれはスケールでもアルペジオでも、身体の一連の動きの中に回収できるものである。しかし、私の音楽は一つの音の隣にある音は、もとの音とは独立したものであり、しかも私は一つの音を書くときはかならず「これはこの楽器の開放弦でこんなボウイングで」という具体的・身体的イメージを持っているから、それをピアノで弾くには単に音を鳴らすのではない、ピアニストの解釈、ある種の創作行為が伴う。ピアニストが楽譜の枠内に縛られていることと創作に加担すること、作曲者がいかようにも楽譜を書けるが演奏者の解釈を通さないと音楽として実現しないこと、この両者のアドバンテージとディスアドバンテージは裏腹の関係にある。
・東京で大井さんによる全ピアノ作品の演奏会を先日やったが、今回は時間の制約でこれだけの作品になった。先ほど高田さん(カフェの店主)から大井さんと私が相談して曲目を決めた、という話があったが、これはウソです(笑)。大井さんが「これでいきます」というから、もう仕方がない。しかしよく見ると、今日の選曲は比較的抒情的な作品というのはすべて省かれている。大井さんの資質にあった作品を選ばれている。

もうすこしあったような気もするが・・・。ご本人はいたって気さくなおじさん風。サラリーマンでいうなら、昔はやり手だったけれどいまはちょっと脂っ気が抜けて監査役しております、みたいな感じ。
大井浩明の演奏は、こういった演目だといつもながら上手いなぁと思います。ピアノのレゾナンスを完全な静寂に至るまで完全に聴くことを聴衆に強いる音楽ばかりですが、彼の情に流されない演奏の緊張感というのは大したものだと思いました。
(この項終わり)
by nekomatalistener | 2014-11-04 22:30 | 演奏会レビュー | Comments(0)