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ゴリホフ 「アイナダマール」 スパーナ指揮アトランタso.他

とあるネット配信ニュースで、マクドナルド凋落を伝える記事に、「バンクーバーの新聞には「時代遅れの運営」でそれはCEOも認めるところ、としています」云々とあって、これ何気に「ハンバーガーの新聞」と読んで「そんな業界紙あるんや・・・」としばらく感心してました。




11月15日の日生劇場「アイナダマール」の日本初演に向けて予習中。

 
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 オスバルド・ゴリホフ 「アイナダマール」Osvaldo Golijov AINADAMAR
  マルガリータ・シルグ: ドーン・アップショウ
  フェデリコ・ガルシア・ロルカ: ケリー・オコナー
  ヌリア: ジェシカ・リヴェラ
  ルイス・アロンソ: ヘスス・モントーヤ
  ホセ・トリバルディ: エドゥアルド・チャマ
  教師: ショーン・マイアー
  闘牛士: ロブ・アスクロフ
  泉の声: アンネ=キャロリン・バード、シンドー・チャンドラセカラン
  アトランタ交響楽団女声合唱団(合唱指揮:ノーマン・マッケンジー)
  ロバート・スパーノ指揮アトランタ交響楽団
  2005年11月録音
  CD:DG UCCG1383


このオペラを(わざわざ東京まで)観に行こうと思ったのは一にも二にも清水華澄がガルシア・ロルカの役を歌うというのに惹かれたから。正直なところ、作曲者のゴリホフについても、題材であるロルカの生涯と作品についても全くといってよいほど知りませんでした。
まずはオペラから。舞台女優のマルガリータ・シルグは1969年ウルグアイのモンテビデオで「マリアナ・ピネーダ」の舞台上演を控えている。マルガリータは1927年バルセロナにおける「マリアナ・ピネーダ」の初演女優であり、作者のガルシア・ロルカとも親しい(10歳ほど年下でゲイであったロルカに対しては、恋人というよりはミューズ兼庇護者というのが近いのかも知れない)。彼女は1936年にロルカがファランヘ党員に虐殺される前に、彼をキューバに逃がすことができなかったことをずっと悔やんでいる。彼女の回想の中で、ロルカとの出会いから彼の死までが語られ、ロルカ自身の口からマリアナ・ピネーダ、あるいはスペインへの想いが語られる。マルガリータは舞台を愛弟子のヌリアに託して事切れる。
物語自体は決して難解ではありませんが、1969年のモンテビデオと1936年のグラナダ、現実と回想、あるいはマルガリータの幻想が自在に交代し混じり合って、幻想的な雰囲気を醸し出します。
劇中に登場するロルカの戯曲「マリアナ・ピネーダ」のモデルは、1804年に生まれ、1831年に自由主義者の陰謀・蜂起に加担した廉で処刑された実在の人物ですが、オペラの中でもこの名前は何度も現れ、この自由のために殺された女性とロルカの生涯が不思議な符合によって重ね合せに見えてくるのがお話のミソ。

「マリアナ・ピネーダ」はざっと調べた限りでは決してロルカの代表作としての扱いは受けていないようですが、一人のまだ十分に若い寡婦が恋人のために危険を犯し、何も報われないままに捉えられ処刑されるという物語は、オペラの背景としても一読しておく価値があると思いました(邦訳『ロルカ戯曲全集第一巻』長南実訳、㈱沖積舎)。
第1幕、寡婦マリアナ・ピネーダは二人の幼い子供、養母と家政婦と共に暮らしている。判事の娘たちや、その兄フェルナンドが訪ねてきても彼女の心は晴れず、どこか上の空である。そこに一通の手紙が届けられる。そこには政治犯として捉えられていた恋人ドン・ペドロ・ソトマヨールが脱獄に成功し、その日の内にも通行許可証を必要としていることが書かれていた。マリアナは彼女に思いを寄せるフェルナンドにこれを届けさせる。
第2幕、夜も更けた頃、マリアナのもとに恋人ドン・ペドロと自由主義者の一党が密かに集まっている。そこに同志がやってきて、今は決起の時ではないと伝える。家政婦があわてて司法警察の長官ペドロサの訪問を知らせると、一味は裏窓から逃げる。ペドロサはマリアナに自由主義者への協力の疑いがあること、彼女が刺繍を施した一党の旗が押収されたことを告げ、一味の名前を明らかにしたうえで自分のものになれば罪を見逃そうと持ちかけるが、マリアナに撥ね付けられる。
第3幕、逮捕されたマリアナはグラナダの修道院に幽閉されている。そこにドン・ペドロがマリアナを見捨て、イギリスに逃れたとの報せが入る。衝撃を隠せない彼女のもとにペドロサが来て、再度一味の名前を明かすよう迫るが彼女は聞き入れない。次いでフェルナンドも訪ねてきて、マリアナに生きてほしいと懇願するが、マリアナは、自分は自由のために死ぬのだと毅然として言い放つ。やがて彼女は処刑のために連れて行かれる。

ロルカの時代、すなわちスペイン内戦前夜というべき時代にしてもそうですが、1830年前後のスペインの歴史については殆ど日本では知られていないのではないでしょうか。それは簡単に要約するとフェルナンド7世治下における絶対王政と自由主義との相克の時代。その時代の動きと、マリアナ・ピネーダという女性の実像を知るには、下記の文献が参考になります。

https://kitakyu.repo.nii.ac.jp/index.php?action=pages_view_main&active_action=repository_action_common_download&item_id=233&item_no=1&attribute_id=22&file_no=1&page_id=13&block_id=102

そういった時代背景を知らずにこれらの物語を深く理解するのは不可能ですが、この戯曲を読んで印象深く思うのは、彼女の行動原理というのは最初のうちはあくまでも恋のため、恋人のためであったのが、彼の裏切りの後それが「自由のため」に置き換わってしまうことだろうと思います。実は先ほど挙げた論文の中にもこのような記述がありました。ロルカ自身が、「最後にはマリアナは恋人が自由をもって彼女を裏切ったとわかったから、自由の象徴へと転化する」と述べています。これはオペラの中でロルカがマリアナについて、「この作品は政治的なものじゃない」とか「ぼくにとってマリアナは何よりも愛だった」と述べているのとちょうど反対の関係にあるとみてよいと思います。つまりマリアナは(本意ではないにしても)恋ではなく自由のために身を犠牲にし、ロルカは政治ではなく恋のために作品を書いた(その故に殺された)、と。
ロルカの死が政治的暗殺であったのかどうかは諸説あって実際のところは分らないとしか言えないようです(単にファランヘ党員のホモフォビアによって殺されたという説もあるようだ)。その意味からも、1933年ブエノスアイレスの「ラ・ナシオン」紙のインタビューにおける次のロルカの言葉は(本心か、何らかの理由による自己韜晦かはともかく)重要だと思われます。
「私の芸術は民衆的(ポプラール)なものではありません。そうだと思ったことは一度もないんです。〔中略〕扱っているテーマはそう見えるかもしれませんが、ほとんどの作品は民衆的たりえません、というのは、貴族的とはいいませんが洗練に洗練を重ねた芸術だからで、民衆的なるものがもっている単純な即興性とは相容れないビジョンとテクニックがあるからです」

http://www.jspanish.com/yomimono/lorca/lorca17.html

ただ、他の作品はともかく、この基本的に恋から死へまっすぐ一直線に進むマリアナ・ピネーダの物語には、あまり深読みを誘う要素はないように思います。本当は、マリアナとロルカの物語の対称性なり非対称性が偶々そうであったのか作者(作曲者と台本作家)の狙った結果なのか、更には恋と革命の両立可能性なり不可能性なりに関する思索があって然るべきだと思うけれども、ろくすっぽロルカそのものを読んでもいない段階では軽薄の謗りを免れないでしょうからこのくらいにしておきます。

音楽面ではどうかと言えば、全体のかなりの部分がポピュラー音楽の手法で書かれているため、オペラを聴くというよりはミュージカル、あるいはシルク・ド・ソレイユのパフォーマンスか何かのBGMを聴いているみたいな感じがします。ポピュラーといってもいわゆるポップスというのではなくて、ピアソラ風、あるいはところによりカンテ・ホンド風といったところ(特にロルカを捕えるルイス・アロンソの役はクラシックの歌手ではなくカンタオールによって歌われます)。しかし幾つかのナンバーはクラシカルな意味でも非常によく書けていて、聴き手にかなりの緊張を要求し、かつ何度聴いても味わい深い。たとえば、第1景ロルカの歌う「ぼくの部屋の窓から(マリアナの像に寄せるアリア)」Desde mi ventana、あるいは第2景の「告解」Confeción など。全体的に、直情的なマルガリータと、より複雑な性格を持ち、シニカルであったりデカダンな雰囲気を持つロルカ、清純なヌリアというように人物の性格が音楽的に明確に描き分けられています。その点、第3景終幕近くに置かれた三重唱「わたしの血がここに」Doy mi sangre はもっとも重要なナンバーかも知れません。曲調は全然ちがうけれど、その美しさと気高さ、三者三様の歌が緊密に絡み合って縒り合わさる様はまるで「ばらの騎士」の三重唱に比べることもできそうです。
演奏者については、いずれにしてもゴリホフ自身がこの録音に何らかの形でコミットしているはずなので、その巧拙を云々しても無意味だとは思いますが、どの歌手も文句なしの素晴らしい歌唱であると思います。特にロルカ役の妖艶さは通常のクラシカルなレパートリーではなかなか聴けないものでしょう。清水華澄のロルカがどのような歌唱となるのか、大変楽しみにしています。
(この項終わり)
by nekomatalistener | 2014-10-30 23:57 | CD・DVD試聴記 | Comments(2)

林定期能  「夕顔」 「葵上」

近鉄で京都に行く途中、向かいの席に座った坊主頭の若リーマンがスマホ見ながら、何かよっぽど可笑しいのか笑いをこらえて悶絶していた。眉間に皺をよせて虚空を睨んだりしても口元はゆるゆる、小鼻もひくひくしとる。見るのやめときゃいいのにまたチラ見して悶絶。これ、それとなく観察してるこちらも笑いが伝染するのでやめてほしい。




秋晴れの気持ちのよい休日、京都で能を観てきました。

  平成26年10月18日
  平成26年林定期能第五回@京都観世会館

 夕顔
  シテ(女、夕顔) 河村和重
  ワキ(旅僧) 江崎敬三
  アイ(所の者) 茂山逸平
 
 仕舞
  松風  杉浦豊彦
  融   林喜右衛門 

 狂言
 文山立
  シテ(山賊甲) 茂山七五三
  アド(山賊乙) 茂山茂

 仕舞
  花月  樹下千慧
  半蔀  河村浩太郎
  浮舟  味方健

 葵上
  ツレ(照日巫女) 松野浩行 
  シテ(六条御息所の生霊) 河村和晃
  ワキ(横川小聖) 原 大
  ワキツレ(朱雀院の臣下) 有松遼一
  アイ(左大臣に仕える者) 山下守之  


当方はじめての観能。以前から一度は観ておきたいと思っていましたが、先日ブリテンが能の「隅田川」に基づいて作曲した「カーリュー・リヴァー」を観て思い立ち、ようやく重い腰を上げて観てきた次第。不案内な世界でしたが、ネットで調べると様々な流派の公演が毎週のようにあるのですね。本当は「隅田川」を観たかったのですが、以前に読んだことのある源氏物語に基づく演目なら多少とも判りやすいだろうと思い、この公演を選びました。
なにぶん初心者故、気の利いた観劇記は書けません。あくまでも自分の備忘ということで。

まず何よりも後半の「葵上」の面白さに驚愕しました。三島由紀夫の「近代能楽集」で現代劇に翻案されてもいるけれど、原作の恐ろしさには敵わないだろう。
物語の前半、病に苦しむ葵上(舞台に置かれた小袖をそれと見立てる)に取りついた物の怪を見極めようと、照日巫女(てるひのみこ)が枕元に請ぜられる。そこに六条御息所の生霊が現れ、賀茂祭の際の「車争い」で受けた屈辱と嫉妬を切々と語る。ついには葵上を激しく打擲(後妻打ち=うわなりうち)しようとする。後半、比叡山から横川小聖(よかわのこひじり)が呼ばれ、鬼女と化した六条御息所の生霊と激しく対峙し、ようやくのことでこれを調伏するというおはなし。
分類としては四番目物(鬼女物)。シテ(六条御息所)は前半は壺折腰巻の出立に泥眼の面を着け、感情が激すると扇を投げ捨て、激しく葵上に襲い掛かる。また後半は般若の面を着け、打ち杖を振るって小聖に詰め寄る。横川小聖は山伏出立、照日巫女は小面に水衣着流巫出立。生霊と小聖の対決は様式化はされているけれども思いのほか激しく、まさに死闘である。囃子も笛・小鼓・大鼓に後半は太鼓が入り、バロック・オペラでいうならBattaglia(戦いの音楽)といったところ。
世間一般の能のイメージ(退屈とか眠くなるとか)しか持ち合わせていなかった筆者には正に衝撃。能ってこんなに面白いものなのかと目から鱗の思いだが、逆にこれほど視覚的に面白いのは例外なのかもしれません。また視覚面だけでなくテキストも実に面白い。セリフが全て聞き取れた訳ではありませんが、六条御息所の恨みがいたるところで述べられ、恐ろしくも切ない女心がこれでもかと表現されています。「半魚文庫」から少し引用してみましょう。

シテ「われ世に在りしいにしへは。雲上(うんしやう)の花の宴。春の朝(あした)の御遊(ぎよいう)に馴れ。仙洞(せんとう)の紅葉の秋の夜は。月に戯れ色香に染みはなやかなりし身なれども。衰へぬれば。朝顔の。日影待つ間の有様なり。唯いつとなき我が心。もの憂き野辺の早蕨(さわらび)の。萌え出でそめし思の露。斯かる恨を晴らさんとて。これまで現れ出でたるなり。」
**********
シテ「あら恨めしや。今は打たでは叶ひ候ふまじ。
ツレ「あら浅ましや六条の。御息所程の御身にて。うはなり打ちの御振舞。いかでさる事の候ふべき。唯思召し止り給へ。
シテ「いや如何に云ふとも。今は打たでは叶ふまじと。枕に立ち寄りちやうと打てば。
ツレ「この上はとて立ち寄りて。妾(わらは)は跡にて苦を見する。
シテ「今の恨は有りし報。
ツレ「嗔恚(しんい)のほむらは。
シテ「身を焦がす。
神子「おもひ知らずや。
シテ「思ひ知れ。
地「恨めしの心や。あら恨めしの心や。人の恨の深くして。憂き音に泣かせ給ふとも。生きて此世にましまさば。水闇(みずくら)き。沢辺の蛍の影よりも。光る君とぞ契らん。

能を観るのにセリフや謡の文句が判らなくてもよいという人もいるようですが、やはり聞き取れるに越したことはないと思います。いまは高価な謡曲本を買わずともネットで簡単にテキストを入手できるので便利です。

幕間の狂言は「文山立(ふみやまだち)」。追いはぎをしくじった二人の山賊が、失敗を互いの所為にして争い、とうとう果し合いをすることに。しかし、取組を始めても、やれここは崖で危ないの、ここは茨が痛そうだのと決着がつかず、まずは遺書を書こうとする。妻子に宛てた手紙に泣き出した二人は、果し合いを明日まで延ばそうか、いや明日と言わず来年に、いや来年といわず・・・最後はお前のおかげで寿命が延びたと仲直りして手に手をとって帰っていく。
先日別の機会に観た「棒縛」なんかにくらべると哄笑というよりはくすりと笑わせるタイプに思いましたがどうでしょうか。実にばかばかしいお話ですが、ほとんどこのままで落語やコントのネタになりそうなところが凄いと思います。二人が書き上げた手紙を読むところは謡になっていて、演者の芸のみせどころなのかも知れません。

前半の「夕顔」も源氏物語による一曲。
豊後国から都に上ってきた僧が五条のあたりを歩いていると、草生した庵から女の声がする。僧が仔細を訊ねると、ここは某の院とて源氏と一夜を過ごした折に六条御息所の生霊に取り殺された夕顔の話をする。その夜もすがら僧が祈っていると、やがて夕顔の霊があらわれ、弔いに感謝して消え去る。
三番目物(鬘物)。小書は山端之出、法味之伝。シテの面は若女など、装束は前半が唐織着流、後半は長絹大口とあります。面や装束の知識が深まれば視覚的にも随分と楽しいに違いありません。最初に女の住まう庵を模した作り物が運ばれ、そのなかから女(実は夕顔)が登場します。囃子は笛・小鼓・大鼓。
全体に動きが極めて少なく、物語の大半は地謡によって進められていくので初心者にはやや厳しい感じ。後半は序之舞のかわりにイロエが置かれているとのことですが、これは「シテが茫洋と、現なくさまよう様子」だそうな。興味津々で観ていたので眠くはなりませんでしたが、これに幽玄の美を感じるにはこれから相当の修行が必要か。テキストは途中まで説明が多いように思われますが、中ほどより大変流麗なものとなります。

地「情の道も浅からず。契り給ひて六条の。御息所に通ひ給ふ。よすがによりし中宿に。
シテ「唯休らひの玉鉾の。
地「便に。立てし御車なり。
クセ「ものゝあやめも見ぬあたりの。小家がちなる軒のつまに。咲きかゝりたる花の名も。えならず見えし夕顔の。をり過さじとあだ人の。心の色は白露の。情おきける言の葉の。末をあはれと尋ね見し。閨の扇の色ことにたがひに秋の契とは。なさゞりし東雲の。道の迷の言の葉も。此世はかくばかり。はかなかりける・蜉蝣(ひをむし)の。命懸けたる程もなく。秋の日やすく暮れはてゝ。宵の間過ぐる故郷の松のひゞきも恐ろしく。
シテ「風にまたゝく灯の。
地「消ゆると思ふ心地して。あたりを見ればうば玉の。闇の現の人もなく如何にせんとか思川。うたかた人は息消えて。帰らぬ。水の泡とのみ。散りはてし夕顔の。花は再び咲かめやと。夢に来りて申すとて。有りつる女も掻消すやうに。失せにけりかき消すやうに失せにけり。


能と狂言の合間に都合五番の仕舞が演じられました。ベテランから若手まで、その技量のほどは私には全くわかりません。こういったものも少しは目を養っておきたいものだ。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2014-10-20 23:57 | 観劇記録 | Comments(0)

大阪交響楽団 第189回定期演奏会 ”ロマンティック・ロシア”

某交響楽団(お察しください)のアザラシ、ファゴット奏者Fさん、なんか一段と育ってらっしゃるような気が。これはあれやな、多分一日にイワシ20kgぐらい食べてはるわ。




大阪交響楽団の定期。今回もっとも興味を引かれたのは田村響がソリストを務めるショスタコーヴィチのコンチェルトでした。

  2014年10月16日@ザ・シンフォニーホール
  チャイコフスキー 幻想的序曲「ロメオとジュリエット」
  ショスタコーヴィチ ピアノ協奏曲第2番ヘ長調Op.102
  (アンコール)
  メンデルスゾーン 無言歌「甘い思い出」Op.19-1
  (休憩)
  ラフマニノフ 交響曲第2番ホ短調Op.27

  川瀬賢太郎指揮 大阪交響楽団
  田村響(Pf)

ショスタコーヴィチの2番コンチェルト、なんといっても第2楽章が聴きもの。ショスタコーヴィチの音楽で、これほど素直で美しい音楽も珍しいような気がします。Youtubeならアンドレイ・コロベイニコフの演奏が優れていると思いますが、彼自身がこのようなコメントを寄せています。
main thing one can clearly feel (if open-minded) the Soviet absurd and the 'mask' life in the 1st and 3rd movement. and rare Shostakovich's self-portrait without the mask - in the 2nd movement..

https://www.youtube.com/watch?v=lNC9ct_kN2U

実にこのコメントの通りであると思いますが、実はショスタコーヴィチの音楽における仮面と素顔の違いというのはなかなか複雑なものを秘めているように思います。
たとえば「森の歌」をショスタコーヴィチの仮面である(故に今となっては真面目に聴くに値しない)と見做す言説は世に溢れていると思いますが、ではこれに対する素顔は、といえば交響曲第9番ということになるのだろうか。あるいは「ムツェンスクのマクベス夫人」が素顔なら交響曲第5番は仮面なのか。多分そうなのだろうと思いながら、どうにも釈然としないものが残ります。確かに「森の歌」の臆面もない平易さは仮面と呼ぶに相応しいと思いますが、おなじくこの上なく平易な「祖国は聞いている」(ドルマトフスキーによる歌曲Op.86より)を仮面と呼べるのか。この素直で美しい旋律を聴くと、こちらこそ彼の素顔なのでは、という思いを禁じ得ません。
ショスタコーヴィチが終生、政治との緊張関係の中で仮面をかぶり続けてきた作曲家であるのは事実としても、ではその素顔がいかなるものであったかは、なかなか答えるのが困難な問いであると思います。今回のピアノ協奏曲第2番の第2楽章も然り。少なくともこれが書かれた頃は既にスターリンは死んでいて、これからいよいよ11番以降の交響曲や、7番以降の弦楽四重奏曲のシリーズが書かれ始める頃。もうこのころになると、いったい何がこの人の仮面で、何が素顔なのか判然としなくなります。この第2楽章、もしかしたら素顔と思われている顔の更に下に隠し持っていた、ショスタコーヴィチの音楽のもっとも根幹の部分という気もします。

田村響については今年の7月にリサイタルを聴き、その音の美しさに惹かれました。今回はその美音に加え、リズム感の良さも存分に味わえました。両端の楽章はかなり速めのテンポで、弦の裏打ちのリズムが必死に追いすがるところなどスリリングでしたが、それでも曲芸にならないところが好ましいと思います。もともと超絶技巧を売りにしている作品ではないが、このテンポでクリアな音色のまま弾ききるのは大変な困難に違いありません。注目の第2楽章はどこまでも澄み切ったピアノが美しく、川瀬賢太郎の指揮ともども控え目なルバートが曲想にぴたりと寄り添い、ため息がでるほど。もっと濃厚な演奏も可能でしょうし、この作曲者が50歳ごろの作品にしては清楚すぎるかも知れませんが、これはこれで名演であったと思います。

アンコールは7月のリサイタルのアンコールでも弾いたメンデルスゾーン。前に聴いたときより心持ち表情が濃く、やや崩して弾くところもありましたが、大きなホールで派手にコンチェルトを締めくくった後にはこれぐらいの味付けの濃さが必要なのでしょう。7月が茶懐石のあとの上品な和菓子なら、今回はフレンチのあとの生クリームを用いたデゼールといったところ。大変美味しゅうございました。

順番は前後しますが、「ロメオとジュリエット」、弦と管のバランスにやや問題があったように思います。最初は座席の聞こえ方の問題かと思いましたが、あとのショスタコーヴィチやラフマニノフでは良いバランスでオーケストラが鳴っていたので、1曲目に限っての問題か。管に対して弦がややくぐもった響きで、プルト数の問題というよりチャイコフスキーの書法の問題のような気もしましたが、スコアを調べた訳ではないので確信があってのことではありません。川瀬は見た目は華奢というか、ちょっとやせ過ぎなくらいで、指揮の姿も貧粗といってもよいぐらいなのに、出てくる音楽は意外に粘り腰で、「ロマンティック・ロシア」というコンサートの外題に恥じない力演。それでも真の感動に至らなかったのは、部分部分のまとまりはあっても、息の長い音楽の持続という点で今ひとつなところがあると思われたこと、あとは私が個人的にチャイコフスキーの音楽に心からのシンパシーというものを感じないことに因るのだと思います。

後半のラフマニノフは非常によい演奏でした。名演であったと思います。ここでも、川瀬の指揮姿は巨匠風とは正反対なものであるのに、ラフマニノフに不可欠な粘りと溜めがあって、音そのものにも十分な厚みが感じられるのが不思議です。決して老獪という訳でもなく、どちらかといえば若く素直な指揮だと思いますが、曲を深く把握していることははっきりと伺われます。その結果、ハリウッド風の第3楽章やにぎやかなフィナーレは、時に臆面もなくオケを煽りながらも少しも気恥ずかしくならず、決して皮相的に流れない優れた演奏になっていたと思います。人によってはもうすこし泥臭くても、とか、もっと甘くと仰る向きもあるかも知れませんが、私にはちょうど良い加減の演奏でした。この指揮者、きけば再来週には東京で細川俊夫のモノドラマ「大鴉」を指揮するとのこと、今回のラフマニノフの意外なほど面白い演奏が因って来るところを示唆しているようにも思います。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2014-10-18 00:21 | 演奏会レビュー | Comments(0)

モンテヴェルディ 「ポッペアの戴冠」  ラ・ヴェネクシアーナ

リツイートの代わりにコピペ。
千々岩英一 ‏@EiichiChijiiwa トリフォノフは髪型を角刈りにしても「リストの再来」と言われるのでしょうか?



音楽三昧の三連休の最終日。
台風直撃を目前に、あわや公演中止かと思っていたら開催強行。でもJRが停まるなどで行けなかった人には払い戻しもするそうな。そんな訳で、元々このようなオペラにはバカでかいホールは不向きだというのに、この日の大ホールは出演者が気の毒なほどガラガラ状態。しかし、渾身の演奏によって、芸文の大ホールが音で満ち溢れるのがまるで奇跡のようでした。


  2014年10月13日@兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホール
  モンテヴェルディ 「ポッペアの戴冠」(ナポリ稿)

    ポッペア: ロベルタ・マメリ(Sp)
    ネローネ: マルゲリータ・ロトンディ(Ms)
    オットーネ、セネカの友人: ラファエレ・ピ(CT)
    オッターヴィア: セニア・マイヤー(Ms)
    セネカ: サルヴォ・ヴィターレ(Bs)
    アルナルタ: アルベルト・アレグレッツァ(T)
    乳母、兵士2: アレッシオ・トシ(T)
    ドルシッラ、美徳: フランチェスカ・カッシナーリ(Sp)
    ヴァレット、幸運: アレッサンドラ・ガルディーニ(Sp)
    愛、侍女: フランチェスカ・ボンコンパーニ(Sp)
    兵士1、ルカーノ、解放奴隷、セネカの友人: ラファエレ・ジョルダーニ(T)
    メルクーリオ、警吏、セネカの友人: マウロ・ボルジョーニ(Br)

    ラ・ヴェネクシアーナ
    ヴァイオリン: エフィックス・プレオ、ダニエラ・ゴディオ
    ヴィオラ: ルカ・モレッティ
    バッソ・ディ・ヴィオリーノ(チェロ): 懸田貴嗣
    コントラバス: アルベルト・ロ・ガット
    アーチリュート: ガブリエレ・パロンパ
    ハープ: キアラ・グラナータ
    指揮、チェンバロ: クラウディオ・カヴィーナ


以前にもどこかに書いたことがありますが、私が高校生の頃に学校の図書館で読んだ本のなかに、イタリア・オペラには3つの金字塔があって、ルネサンス・バロック期の「ポッペアの戴冠」、古典期の「セミラーミデ」(ロッシーニ)、ロマン派の「オテロ」(ヴェルディ)がそれである、と書かれていました。もう30数年も前の話で、誰のなんという本だったかも定かではないのですが、まぁ異論は多々あれども概ね納得のいく3作ではないかと思います。
私が「ポッペアの戴冠」をレコードで初めて聴いたのは大学生の時分、私の年代で古楽に多少なりとも興味がある人間なら大抵そうであったはずだが、御多分にもれずアーノンクールがチューリッヒでの上演後に録音した記念碑的なLPでした。それから誰の演奏だったか、映像も見ているはずですが結局このアーノンクール盤の刷込みが強すぎて、他の演奏を寄せ付けないといった有様でした。
今回の演奏を聴いて、その劇的な激しさだけでなく、陶酔の極みといった音楽の美しさに私はすっかり魅了されてしまいました。これでようやくアーノンクールの呪縛から解けたような気がします。「ポッペア」の物語の面白さについては百も承知のつもりでしたが、演奏会形式とはいえ、簡単な所作とともに歌い、演じられるのを聴いていると、もうほとんど昼ドラの世界。多少は人間としてまっとうなのはセネカくらい。あとは不倫と強欲のうずまく中で、悪徳が勝利するというお話。しかも、ネローネ(皇帝ネロ)やポッペアだけでなく、乳母や召使といった脇役が打算もあらわに大活躍するというのも面白い。すこし時代が下ったバロック期のオペラで、登場人物が5,6名に刈り込まれ、ステロタイプ化するのと対照的。それにしても、最後に悪徳が勝利するというのはこの時代(17世紀中ごろ)の文芸作品にはよくあったのだろうか?驚くほど現代的なお話のように思われます。

物語の面白さもさることながら、モンテヴェルディの音楽の素晴らしさを改めて認識することができたのは何よりであったと思います。歌手たちはいずれも大変すぐれたパフォーマンスでしたが、なかでもポッペアを歌ったロベルタ・マメリは舌を巻く巧さ。ネロの前では猫がすりよるように甘やかな声で、気が遠くなるようなピアニッシモを聴かせるかと思えば、気がおけない乳母の前では尊大に目の眩むようなメリスマを歌って見せる。見た目、立ち姿もこれ以上は望めないくらい美しく、これなら愛の神ならずとも玉座に登らせたくなるというもの。
乳母アルナルタ役のアルベルト・アレグレッツァはややオーバーアクションながらも人物造形に秀でた歌い方で、400年ちかく前に書かれた音楽とは思えません(当時もオネエ歌手が歌ったのでしょうか?)。繰り返しになるけれども、このような本来なら脇役にしかすぎない人物にこれほどの充実した音楽を書いたモンテヴェルディの底知れぬ想像力には震撼させられます。
オットーネを歌ったカウンターテナーのラファエレ・ピも様式感が確かで素晴らしい歌唱。後世のナポリ派みたいなブラヴーラの愉しみはありませんが、これこそモノディ様式の真髄という感じがしました。その他、ネローネ、オッターヴィア、セネカ、ドルシッラ等々、それぞれが適確な歌い方で極上の時間を味わうことができました。今回の演奏、休憩を除くと正味2時間半くらいなので、長大なオリジナル版からはかなりカットがあるようでしたが、出来ることならもっともっと浸っていたかったと思いました。

クラウディオ・カヴィーナがチェンバロを弾きながら指揮する古楽グループ、ラ・ヴェネクシアーナの器楽演奏も概ね納得のいくものでしたが、最後のポッペアとネローネの二重唱、あまりにも甘美すぎてすこし違和感がありました。もう長いこと聴いていなかったので、「こんな音楽だっけ?」と不審におもったほど、ロマンティックな和声附けによる甘いリアリゼーションでしたが、あまりの美しさを前にすると固いことを言うのはやめておこうという気になります。いやもう好きにして、といった感じ(笑)。終演後の聴衆の熱狂はなかなかのものでしたが、意外にあっさりとカーテンコールが終わったのは台風の所為か。

蛇足ですが、芸文の大ホール、関西でも屈指の大きなハコだと思いますが、音響が良いのでこのような古楽器の繊細な響きも過不足なく聞こえます。特に私の聴いた2階前列あたりの音の響き方は秀逸。細いピンの落ちる音も聞こえそうです。最初、がらんとした2階席のはるか彼方に小型チェンバロやハープを見た瞬間の不安が杞憂におわって良かったです。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2014-10-15 00:02 | 演奏会レビュー | Comments(4)

きのこのつぎの音楽 next mushroom promotion

トリフォノフの記事を先輩夫婦が顔本や囀りで拡散してくれたらアクセス数が倍増しとる。SNSおそるべし。




三連休の中日、昼から友人が出演している宝塚交響楽団の定期で、アマチュアとは思えない素晴らしいプロコフィエフの交響曲第5番を聴き、夜はカフェ・モンタージュというダブルヘッダー。なかなか充実した一日でごさいました。

  2014年10月12日@カフェ・モンタージュ
  「きのこのつぎの音楽」

    細川俊夫: エディ(2009) Cl
    ナンカロウ: ソナチネ(1935) Pf
    細川俊夫: Vertical Time Study Ⅰ(1992) Cl,Vc,Pf
    福井とも子: Schlaglicht(2002) Vn,Pf
     (休憩)
    徳永崇: 陰影のある刺繍の入れ方(2009) Vn,Vc
    J.エストラーダ: "Yuunohui'Ome"(1983) Va
    川上統: ラナ・ラナンキュラス(2011) Cl,Vn,Va,Pf
    細川俊夫: 時の花(2008) Cl,Vn,Vc,Pf

    next mushroom promotion
    クラリネット: 上田希
    ピアノ: 大宅さおり
    ヴァイオリン: 辺見康孝
    ヴィオラ: 多井千洋
    チェロ: 大西泰徳

next mushroom promotionという現代音楽を専門とするユニットは初めて聴きましたが、なかなかの凄腕集団。「きのこ」といえばジョン・ケージ。したがってケージ以降の音楽をプロモートするという意味だと思いますが、ケージといっても「4’33”」ではなくて「フリーマン・エチュード」の方向か。繊細極まりない細川作品とノイズ系上等みたいな作品が並んでいて刺激的なプログラムでした。
こういった作品についてはどうしても印象批評みたいなレベルになってしまいますが、自分自身の備忘ということで飾らずに書いておきます。
細川俊夫のさまざまな楽器の組み合わせによる3作品は、いずれも最弱音から爆発に至る張りつめた緊張感が凄まじい。特殊奏法による倍音や種々のノイズも含めてとても美しい響きで、生演奏を聴きに行った甲斐があるというもの。いまやこの業界で最も売れている一人だろうと思いますが、確かにエスタブリッシュメントとしての風格さえ感じます(それが音楽として良いことなのかどうかは別だが)。
ナンカロウはこの日の演目の中ではもっとも古い作品ということになりますが、なるほど確かにバルトーク風の両端楽章がジャズ風の緩徐楽章を挿む古典的な造りの音楽。自動ピアノで有名なナンカロウの原点という意味で興味深い作品です。
福井とも子のSchlaglicht、さきほどケージの「フリーマン・エチュード」に言及しましたが、それと共通する激烈さが特徴的。内部奏法や掌のクラスターを含むピアノ・パートも暴力的でカタルシスに富んでいます。この人、next mushroom promotionのディレクターでもあるとのことですが、なかなかあっぱれな肉食系の方のようです。
徳永崇の作品は私にはこの日一番の収穫という感じがしました。ヴァイオリンとチェロの無窮動風アルペジオが中心の音楽ですが、現代音楽のイディオムでこんなに楽しい曲が書けるのか、と聴いていて驚いたほど。作曲家がどういうつもりで書いたかは知りませんが、この機知に富む楽しさは貴重。
エストラーダのヴィオラ独奏作品は、フラウタンドやスル・ポンティチェロのトレモロが延々と続くノイズ系作品。大変な迫力で聴きごたえがあります。ほとんど譜めくり可能な休止がないので、譜面台を3つならべて楽譜のコピーをずらっと並べて弾いてましたがこんなのを見るのも初めて。
川上統も実に面白い作品。カフェ・モンタージュの店主の解説によると、ラナンキュラスは花の名前だそうで、背後にカエルのお話があり、カエルが疲れると口からラナンキュラスを出したり、巨大ラナンキュラスからカエルがいっぱい出てきたり・・・・ほとんど理解不能(笑)。でも確かにちょっと人を食ったような音楽。こういう作品をまとめて聴いてみると、現代音楽が不毛であるかのようにのたまう人達というのは実際にこういったコンサートを聴いたことがないのだろうな、と思います。
台風が近づいているというのによりによって現代モノのプログラム、さぞかしガラガラだろうと思いきや、そこそこ聴衆が集まっていたのには驚きました。さすがはあたらしもんずきの京都人。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2014-10-14 22:59 | 演奏会レビュー | Comments(0)

ザ・カレッジ・オペラハウス公演 「カーリュー・リヴァー」&「鬼娘恋首引」

もしも三島由紀夫がブリテンの「ビリー・バッド」を観たら狂喜したのは間違いないと思うけれど、「カーリュー・リヴァー」だったらどう思っただろう。「近代能楽集」を書いた人の感想を聞きたかったものだ。




ザ・カレッジ・オペラハウスによる鈴木英明とブリテンの一幕物オペラの二本立て公演を観てきました。想像していたよりも遥かに素晴らしい舞台で、こんな公演が観れるのなら関西も捨てたもんじゃないと思いました。


 2014年10月11日 ザ・カレッジ・オペラハウス第51回オペラ公演
 鈴木英明 「鬼娘恋首引」
   番茶姫: 川口りな
   伊呂波匂之助: 中川正崇
   素天童子: 田中勉
   地謡: 木澤佐江子・福島紀子・柏原保典・木村孝夫

 ブリテン 「カーリュー・リヴァー」
   狂女: 西垣俊朗
   渡し守: 桝貴志
   旅人: 西村圭市
   少年の霊: 榎並晴生
   修道院長: 西尾岳史
   少年の声: 老田裕子
   巡礼の合唱: ザ・カレッジ・オペラハウス合唱団

  管弦楽: ザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団
  指揮: 山下一史
  演出: 井原広樹


まずは後半の「カーリュー・リヴァー」から。舞台に接して、ブリテンという人の天才に心底驚きました。以前に「ピーター・グライムズ」を観たときの衝撃からして想像はしていたものの、より狷介な、難解と言ってもよいこの音楽がどうしてこれほどまでに人の心を激しく揺さぶるのか不思議なくらいです。もちろん、この公演までに私は何度となくブリテン自身の監修によるCDを聴いているわけで、予習なしにいきなり聴いたらどう思ったか良く判らないところがあります。たぶん初めて聴いてすぐさま腹に入る音楽ではないのでしょう。しかし真摯にその音楽に向き合おうとする者には間違いなく大きな感動をもたらしてくれる音楽であると思いました。もう今回のレポートは、ブリテンが紛れもなく舞台音楽の天才であること、機会があれはどうか敬遠なさらず皆に聴いてほしいということ、それだけ書けば十分。以下は備忘としての附け足しみたいなものです。

歌手の中では渡し守を歌った桝貴志が抜きんでていたと思います。私は以前、松村禎三の「沈黙」で彼がキチジローを歌ったのを聴いていますが、その時はロドリゴやフェレイラ役の歌手が素晴らしかったせいか、それほど印象に残っていません。しかし今回の渡し守の歌唱は朗々とした美声もさることながら、最初どちらかといえば下卑た人間であったのが、狂女に対する真の同情から一段高い人間に生まれ変わっていく、その微妙な変化が素晴らしいと思いました。
次いで狂女を歌った西垣俊朗も優れた歌唱であったと思います。最初登場したときはエキセントリックに思われた歌唱が、次第に人間の普遍的な悲しみを描きだし、遂には聴く者の肺腑を抉るような表現に至る様はまさに息をのむ思いでした。
旅人役の西村圭市、以前彼がラヴェルの「スペインの時」のラミーロを歌った時、私は「声良し芝居良しで華も実もある逸材」と書きましたが、今回はちょっと物足りなさを感じました。主役二人の歌唱に比べると、まだまだ突き詰めた表現が可能であったのではないかと思いました。修道院長の西尾岳史も少し声が散るせいか、今一つ役に入り込めないように思われました。しかし、全体としてはあとの二人とも、大きく足を引っ張るというほどではなく、感動を損ねることはありませんでした。
少年の亡霊については、子役(榎並晴生・黙役)の姿に合わせて舞台裏で女声(老田裕子)が歌うという趣向。あまり女性を感じさせない素直な歌いぶりで全く違和感はありませんでしたが、本当のところは多少下手でもいいからボーイソプラノで歌われるべきでしょう。せっかく子役に少年合唱団のメンバーを使っているのにもったいない、と思いました。
演出については、まずシンプルな道具立てが素晴らしい。舞台の上に鳥居のように三角形の破風を頂く二本の柱、これが手前と奥に二組。これが前半の「鬼娘恋首引」では能舞台の4本の柱と屋根を抽象化したものとなり、「カーリュー・リヴァー」では同じ道具が教会の象徴となります。舞台に3畳ほど一段小高くなった部分があって、これが渡し舟にもなれば少年を埋葬した塚にもなります。川面や星降る夜を表す背景の映像も抑制が効いていて大変美しいものでした。
渡し守に続いて旅人が歌い始めるところで、巡礼者の群れがまるでゾンビのようにもぞもぞと動いているのがすこし気になりましたが、これは芝居の前半、狂女以外の全ての人物が粗野で卑しい存在であったのが、彼女に深く同情することでキリスト者として再生することを強調しているのかも知れません。実にこの奇蹟によって救われたのは狂女のみならず全ての登場人物であったというべきでしょう。

前半の「鬼娘恋首引」は狂言の「首引」に基く喜劇。この楽しい歌芝居についてあれこれ評論めいた言説を振りまわすのは野暮というものでしょうから、こちらも備忘として二言三言。
主役3人、鬼の子分を演ずる地謡いずれも不安のない歌唱でしたが、なかでも鬼の頭領である素天童子(田中勉)の親馬鹿振りが大いに笑わせてくれました。音楽はいわゆるわらべ歌風のものでそつなく書かれているという感じ。管弦楽は1管編成のシンプルなものですが、多彩な打楽器やピアノが入っているので非常に華やかに聞こえます。1980年に初演されてからかれこれ10回以上も再演されているというのもむべなるかなといったところ。ただ、私は偶々先日、本物の狂言を観る機会があり(「棒縛」と「寝音曲」の二曲)、ほんとうに腹の底から笑わせてもらったので、この楽しいけれど大笑いとはいかないオペラ仕立てというものの限界を感じたのも事実。まあ元ネタとオペラは別物と言ってしまえばそれまでですが、わざわざ狂言をオペラに仕立て直す必要があったのかなというのが素直な感想です。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2014-10-14 00:21 | 演奏会レビュー | Comments(0)

ダニール・トリフォノフ ピアノ・リサイタル

アフラックの「保険なんて必要ない必要ない」っていうブラックスワンの声、有吉弘行ってさっきまで知らんかったわ。





友人の勧めもあってトリフォノフのリサイタルを聴いてきました。

 2014年10月9日@神戸文化ホール(中ホール) 

  バッハ/リスト編 幻想曲とフーガ ト短調BWV.542
  ベートーヴェン ピアノ・ソナタ第32番ハ短調Op.111
   
   (休憩)
  リスト 超絶技巧練習曲より
    第1曲 ハ長調「プレリュード」
    第8曲 ハ短調「狩」
    第3曲 ヘ長調「風景」
    第4曲 ニ短調「マゼッパ」
    第5曲 変ロ長調「鬼火」
    第2曲 イ短調
    第9曲 変イ長調「回想」
    第10曲 ヘ短調
    第11曲 変ニ長調「夕べの調べ」
    第12曲 変ロ短調「雪かき」
  
   (アンコール)
  ショパン 24のプレリュードOp.28より
    第16曲変ロ短調
    第17曲変イ長調
    第18曲ヘ短調
    第19曲変ホ長調
  バッハ/ラフマニノフ編 ガヴォット(無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第3番BWV1006より)


1991年生まれの23歳。2010年ショパン・コンクール第3位、2011年チャイコフスキー・コンクール第1位という赫々たる経歴のピアニスト。
不勉強でこれまでトリフォノフをまったく聴いたことがなく、リサイタルに先立ってyoutubeであわてて確認したような次第でしたが、ゲルギエフとやったショスタコーヴィチのピアノ協奏曲第1番のソロが非常に面白かったですね。友人は「憑依系」と呼んでいましたが正にそんな感じ。

実際の演奏を聴いてみると、後半のリストが圧倒的な出来栄えでした。個性的という言葉では追い付かないくらいの独特なアーティキュレーションとデュナーミクは、聴き手の先入主を至る所で裏切りますが、これが非常に快い。しかも決して異端とか恣意的とかいう感じはなく、むしろ解釈としては非常にオーソドックスなものにも感じられます。
中でも圧巻は第4曲「マゼッパ」。指の回りも申し分なく豪壮な響きにも事欠きませんが、ベレゾフスキーみたいな体育会系の演奏とくらべると明らかに文系ないしオタク系。しかし決して独善的な演奏ではなく、この技巧のひけらかしみたいな音楽の、意外なほどの内実の豊かさを感じさせてくれます。ただ、贅沢な不満を言えば、技巧を突き詰めた果ての狂気みたいなものはあまり感じられませんでした。この狂気というのは、異論を承知でいうとラザール・ベルマンの演奏に感じられるようなものですが、トリフォノフの演奏というのは見た目の忘我恍惚にも関わらず知的に考え抜かれた演奏でもあって、それが強みでもあり、弱みでもあるといった感じを受けました。
あるいは第9曲「回想」。この「色褪せた恋文」などと揶揄される古色蒼然たるロマンティシズムは、トリフォノフの手に掛かるとどこか計量化と数値化を経て引用されたロマンティシズム、いわばメタ・ロマンティシズムといった趣が感じられ、非常に実験的な音楽に聞こえました。これは彼の知的な面が強みとして発揮された例だと思うのですが、この作品にただひたすら感傷的な甘さを求める聴き手には弱みと映るのかも知れません。
若干物足りないと思ったのは例えば第2曲、あるいは第12曲「雪かき」など。一つは先ほど述べた「狂気」の不足。それと、技巧も音量も十分なのに時に音が薄くなると感じられること。もともとトリフォノフの資質からしても、どちらかと言えば華奢な体格からしても、豊満でvoluptuousなピアノの音色というのは期待できない。また音量についていえば、物理的な音量の大小というよりも、言語化しにくいけれど一種の音圧の大小みたいなパラメータがあって、後者はトリフォノフの音にはあまり感じられないとも言えそうです。そんなこんなで、第11曲「夕べの調べ」は、知的なフィルター(分析的というのとは少し違うけれど)で一旦濾過されたロマンティシズムが時に新鮮であり、後半の分厚い和音の連打によるクライマックスが妙によそよそしく隔靴掻痒の思いをする不思議な演奏でした。ある意味、この第11曲が良くも悪くもトリフォノフの今現在の実力を最もよく示していたのだと思います。
ついでながら、作品にひとつの物語を語らせるべく、トリフォノフ自身の考えによる並べ替えと取捨選択が施されていましたが、そのこと自体はちょっと面白いかな、といった程度で、作品自体の見方を新たにさせるほどの説得力は(すくなくとも一回聴いただけでは)感じられませんでした。この曲の並べ方の意味するものは何度か聴かないと判らないのでしょうね。

プログラム前半のリスト編曲のバッハ、ピリオド志向など歯牙にもかけず、現代のピアノの機能をフルに発揮させる弾き方が潔い。リストやブゾーニの編曲したバッハはこうでなくちゃと思います。しかし、幻想曲冒頭のトッカータ風32分音符の嵐が過ぎ去った後、音楽が沈潜の度合いを増すにつれて、音楽的な停滞が感じられ、私はところどころ意識が飛びそうになりました。リサイタルの冒頭で聴き手の心が集中していない所為もあるけれども、私にとってはやや捉えどころがなく、流れるままに記憶に残りにくい演奏であったように思います。

プログラムの前半にベートーヴェンのよりによって最後のピアノ・ソナタを置く、その意気や良しと言いたいところですが、いろいろやりたいことがあって実際にあれこれと仕掛けてくることが、全体として焦点を結ばない、といった感じの演奏でした。面白いといえば面白いのだが、少なくとも感動する音楽にはなっていなかったと思います。それを若さのせいにしてはいけないと思いますが、あと数年寝かせたほうが良いかも、と思ったのは事実。

アンコールはショパンのプレリュードを次々に弾いて、いずれも見事でしたが、最後のラフマニノフが編曲したバッハが素晴らしいものでした。ガヴォットの主題がソプラノだけでなく中声部にも織り込まれた編曲も優れていますが、トリフォノフの演奏を聴いていると、つづら折の道を歩いていて、次から次に小高い山が見え隠れするように、主題が畳み掛けるように現れるのが眩惑的。優れた演奏とは聴覚だけでなく視覚も刺激するようだ。
鳴り止まない拍手に、最後ちょっと茶目っ気を出してピアノの蓋を閉めて笑いを取っていましたが、最後はやはり「火の鳥」のカスチェイの凶悪な踊りで締めてほしかったなぁ(トリフォノフの関西のリサイタルを全て聴いている友人が絶賛していたので・・・)。

蛇足ながら、神戸文化ホール(中ホール)は初めて行きました。どことなく昭和のかおり漂うホールでしたが、私の聴いた2階席前方は短めの残響と粒立ち良くクセのない明快な音響で実に結構。ハコの大きさも、腕のある新進気鋭のピアニストを聴くにはちょうど良い感じ。
(この項終わり)
by nekomatalistener | 2014-10-10 21:54 | 演奏会レビュー | Comments(4)

ブリテン 「カーリュー・リヴァー」 ピーター・ピアーズ他

私が中学の時の理科の先生、化学物質をへんなイントネーションで発音するので気持ち悪かった。たとえば「イソプロピルアルコール」を「あの子らにもゆうたって」のイントネーションで発音するとか。パラジクロロベンゼンを「あら、激辛タンメン」のイントネーションでってのもあった(ほら、チキチキバンバン、ではない)。





ザ・カレッジ・オペラハウスの「カーリュー・リヴァー」公演の予習中。音源は次のもの。
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  ブリテン 教会寓話劇「カーリュー・リヴァー」 

    狂女: ピーター・ピアーズ
    渡し守: ジョン・シャーリー=カーク
    僧院長: ハロルド・ブラックバーン
    旅人: ブライアン・ドレイク
    亡霊の声: ブルース・ウェッブ

    リチャード・アドニー(fl)、ニール・サンダース(hrn)
    セシル・アロノウィッツ(va)、スチュアート・ナッセン(cb)
    オシアン・エリス(hrp)、ジェームズ・ブレイズ(perc.)
    フィリップ・レッジャー(org)
    監修: ベンジャミン・ブリテン&ヴァイオラ・タナード
    1965年6月録音
    CD:LONDON421 858-2

このオペラ(というか、教会寓話劇)が能の「隅田川」を下敷きにしていることはよく知られていると思います。ブリテンは1956年にパートナーのピーター・ピアーズとの旅行中に東京を訪れ、「隅田川」を二度観て感銘を受けたらしい(その割には劇中でオルガンが模倣しているのは雅楽の笙の音色であって、能の囃子とは似ても似つかないのがご愛嬌)。劇の主たる部分はほぼ「隅田川」の物語を踏襲していて、その前後を僧院長の口上と修道士らの合唱が取り囲む構成となっています。
「隅田川」も「カーリュー・リヴァー」も、wikipedia等にあらすじが出ていますので詳述は避けますが、「カーリュー・リヴァー」の物語は「隅田川」の物語をほぼなぞりながら、いくつかの点で相違が見られます。トリヴィアルな事柄から言うと、例えば「隅田川」のかもめと都鳥の件は、gullとcurlew(ダイシャクシギ)に置き換えられていたり、能の亡き少年の墓標に植えられた柳が、オペラではyew tree(イチイ)になっていたり。しかしもっとも大きな変更点は、「隅田川」の少年の亡霊がかき消えた後は「草茫々」とした無常感が残されるのに対して、オペラの方では神の恩寵によって狂女は息子の亡霊にまみえて救済を得るというところでしょう。このあたり、両方のテクストを比べると大変面白いのですが、既にネットでこういった分析をいくつか見かけましたので一例を挙げておきます。
石川伊織「オペラ『Curlew River』における能『隅田川』の変容」(1999/03・『県立新潟女子短期大学研究紀要』第36集所収)
http://www.unii.ac.jp/~iori/aufsaetze/20_010CurlewRiver.html

ここでは先の論文と内容がかぶらないよう、能の特徴的なテクストがどのように「英訳」されているのかを何箇所か具体的に見ておきたいと思います(謡曲のテキストは網本尚子編『謡曲・狂言』角川ソフィア文庫から引用、英文の対訳は拙作)。一言で言うと、能のさまざまなレトリックを駆使した華やかなテクストを英文に置き換えるにあたって、脚本家は能の逐語訳にとどまらず、能には現れない別の比喩を用い、極めて平易な文体でありながら饒舌でもある翻案を行なっています。脚本を書いたウィリアム・プルーマーWilliam Plomerは本国では名の通った詩人のようですが、アルカイックな神秘劇としての味わいを狙った種々の技巧が読みとれるように思われます。
まず、能の冒頭近く、旅人の名ノリ(自己紹介)の後、旅の苦労を語る上歌(あげうた)、

ワキツレ「雲霞、あと遠山に越えなして、あと遠山に越えなして、幾関々の道すがら、国々過ぎて行く程に、此処ぞ名に負ふ墨田川、渡りに早く着きにけり、渡りに早く着きにけり」

オペラではこのような翻案となっています。

Behind me,under clouds and mist,
Heaths and pastures I have crossed;
Woods and moorlands I have passed,
Many a peril I have faced;
May God preserve wayfaring men!
Here is the bank of the Curlew River,
And now I have reached the ferry.

(雲と霧の下、
ヒースの丘や草地を背にして通り過ぎ、
森と荒野を越え、
私は数々の危難を見てきました。
神よ、旅人を守らせたまえ。
ここはカーリュー川の岸辺、
こうして船着き場にたどり着いたのです)

「雲霞」のみ一致していますが、英文のほうが視覚的により具体的に描かれています。また日本語の反復法は対句表現に置き換えられています。

つぎに女物狂(ものぐるひ・狂女)登場最初のセリフ。

シテ「げにや人の親の心は闇にあらねども、子を思ふ道に迷ふとは、今こそ思ひ白雪の、道行人に言伝てて、行方を何と尋ぬらん。聞くや如何に、うはの空なる風だにも」地歌「松に音する習ひあり」

Clear as a sky without a cloud
May be a mother's mind,
But darker than a starless night
With not one gleam,not one,
No gleam to show the way.

(雲ひとつない空のごとく
母の心は曇りなくあるべきところ、
星なき夜よりも我が心は暗く、
たった一すじの光もなく、
道を照らす僅かな光も私にはありませぬ)

ここでは謡曲独特の掛け言葉や和歌の引用は断念されているようです。しかし最も大きな違いは、英文のほうではこのセリフの前に、下に掲げたような長々としたうわ言のようなセリフが置かれていて、「狂」のイメージが強調されています。また子供の喩えとして使われているlambという言葉はいやでもキリストそのものを連想させるに違いありません。

You mock me,you ask me
Whither I go,
How should I know?
Where the nest of the curlew
Is not filled with snow,
Where the eyes of the lamb
Are untorn by the crow,
The carrion crow -
There let me go!

(お前達は私をあざけり、私に尋ねる。
そなたはどこへ行くのか、と。
だがどうして私がそれを知っていようか。
鴫の塒が
雪で覆われることなく、
子羊の両目が
からすに、あの死肉を漁る
からすに抉られることもない、
そのようなところに行かせておくれ)

次に、舟に乗りたければ面白う狂うてみせよという渡し守を女が非難していうセリフ。
シテ「うたてやな隅田川の渡守ならば、日も暮れぬ舟に乗れとこそ承るべけれ、形の如くも都の者を、舟に乗るなと承るは、隅田川の渡守とも、覚えぬ事な宣ひそよ」

英文
Ignorant man!
You refuse a passage
To me,a noblewoman!
It ill becomes you
Curlew ferryman,
Such incivility.

(無礼な者よ!
お前は私を舟に乗せぬというのか、
この貴顕なるわたくしを。
カーリューの渡し守よ、
このような非礼は
お前のような卑しいものにはさぞ似合いであろう)

ここは「伊勢物語」の業平と渡守の会話を下敷きにしていて、英文はそのあたりの翻案は断念しているようです。そのため後に続くかもめと都鳥のくだりは英文(gullとcurlew)ではなかなか意味の取りにくいやり取りになっています。

最後に、子供の亡霊が消えたのちの結びの場面。
地謡「互に手に手を取り交はせば、また消え消えとなり行けば、いよいよ思ひは真澄鏡、面影も幻も、見えつ隠れつする程に、東雲の空もほのぼのと、明け行けば跡絶えて、我が子と見えしは塚の上の、草茫々としてただ、標ばかりの浅茅が原と、なるこそ哀れなりけれ、なるこそ哀れなりけれ」

英文ではこの地謡に相当する訳文はなく、かわりに僧院長の次のようなセリフが置かれていて、合唱がこれに答えます。教会寓話劇としては当然の終わり方ではありますが、日本の能の無常感は彼の地ではなかなか理解されないのでしょうか。

A vision was seen,
A miracle and a mystery,
At our Curlew River here.
A woman was healed by prayer and grace,
A woman with grief distraught.

(このカーリューの岸辺にて、
この世のものとも思えぬ幻を、
神の秘蹟を私たちは目にしました。
悲しみに気のふれていた女は、
祈りと神の恩寵により救われました)

台本を読むだけでも、元の能とは相当異なった世界観が描かれているのが判ります。これぐらいにしておきますが、こんな調子で全文対比してみたらいろいろな発見があると思います。

肝心の音楽について。ブリテンの音楽についてはごく最近、「ピーター・グライムズ」の舞台をきっかけに親しむようになった為、まだまだ判っていないのですが、それにしても「カーリュー・リヴァー」の音楽は狷介で、人が容易に近づくことを拒むかのようです。およそ70分ほどの演奏時間のうち、最初一時間は極めてストイックな音楽が続きます。始めに少し触れたように、オルガンのパートは笙の和音を模していますが、他の楽器は独特な音の選び方に拠っていて、決して聴き手に媚びません。ところが物語も終盤のThe moon has risen(月は昇りぬ)以降の数分間、ようやく音楽が大きく動き出します。ここは教会旋法による感動的な音楽。物語も母が息子の亡霊によって慰められるクライマックスとなりますが、今度は一気に情緒に訴えかける音楽の運びとなって、本当に素晴らしいと思いながらも若干の戸惑いがなくもありません。思うに、この最後の部分のもたらす感動は真正なものだとしても、それに至る一時間がひたすら苦行になるような聴き方は作品にとっても聴き手にとっても不幸なことだろうという思いがします。大半を占めるストイックな音楽がこちらの心の奥深く染み込むまで、何度も何度もひたすら繰り返して聴くしかないのでしょう。すくなくともそれに値する音楽であるのは間違いないと思います。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2014-10-05 23:10 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

バルトーク 弦楽四重奏曲全曲演奏会vol.1

私が生まれて初めてハマった曲は多分「ワシントン広場の夜は更けて」。本人の記憶はないが、「あんたはこのレコードかけんとご飯食べんかったね~」等の証言多数。





京都のカフェ・モンタージュでバルトークの弦楽四重奏曲を2曲聴いてきました。

  2014年9月30日@カフェ・モンタージュ
   バルトーク
    弦楽四重奏曲第3番Sz.85 (1927)
    (休憩) 
    弦楽四重奏曲第5番Sz.102 (1934)

  泉原隆志(vn)、長谷川真弓(vn)、金本洋子(va)、城甲実子(vc)

私がバルトークの弦楽四重奏曲を初めて聴いたのは中学生の頃、ノヴァークSQの廉価盤LPを買ってそれこそむさぼるように聴いた時期がありました。たまたま安くて目についた程度のきっかけでしたが、名高いジュリアードSQではなくノヴァーク盤からバルトークの世界に足を踏み入れたのは今にして思えば意味のあることだったと思います。精緻極まりないジュリアードに比べて、荒削りでバルトークの土俗性を否応なく暴きだすノヴァークSQの演奏は、一般に傑作とされる4番以降よりも前半の3曲により向いていると思います。実は私、バルトークの6つの弦楽四重奏曲の中では第3番が一番好きなのですが、バルトークのラジカルな要素とフォークロア的要素がぎりぎりの地点で奇跡のように両立している作品だと思います。もし私がジュリアードの旧盤あたりを最初に聴いていたなら、多分第4番のほうをより好んでいたかも知れません。フォークロア的要素を高度に抽象化して激烈な音楽に仕上げた第4番はもちろん傑作だと思いますが、個人的な好き嫌いのレベルでは断然第3番になってしまうのは、若い頃のノヴァークSQ体験の刷込みによるところが大きいのではないかと思っています。

さて今回の演奏、今のところ名無しの弦楽四重奏団ということで、アンサンブルとして練れていないのかも知れませんが、前半の第3番はかなり瑕の多い演奏でした。冒頭のチェロのハーモニックスの上に積みあがる和音からして今ひとつ音程が決まらず、一気に不安になりましたが、案の定seconda parteでは何度か崩壊寸前まで乱れることも。ちょっと「商品」としてどうかな、と思いつつも、なんというかこの作品の「初演」を聴いているような不思議な感覚になりました。これは皮肉でも嫌味でもなくて、彼らが満身創痍ながらも借り物でない自分達の言葉で語っていたということなのだろうと思います。少なくともジュリアードの劣化コピーを聴かされるよりは遥かに面白い演奏でした。多分その率直で奔放な表現が作品のフォークロアな部分にマッチするのだろうと思います。
私は何種類も聴き比べてきたわけでもなく、熱心なコンサート・ゴーアーでもないのでよくは知りませんが、バルトークの場合、やはりジュリアードの旧盤の影響というのが大きくて、その磁場から逃れて自由に演奏するということが非常に困難な状況なのかな、と思います。いま手元にあるエマーソンSQのCDを聴いてもそういった感をつよく持ちます(ものすごく優れた録音ではありますが)。その点今回の演奏、粗はあっても自由にのびやかに(ご本人達はそれどころじゃなかったかも知れませんが)弾いておられた感じを受けたのは良かったと思います。

後半の第5番は前半よりも精度の高い演奏で、作品の核心の部分に迫るものがありました。この第5番については、これまでバルトークの創作の絶頂期に位置しながらも、なにか生命力の衰えのようなものを感じていました。これはほぼ同時期の「弦楽器・打楽器・チェレスタのための音楽」や「2台のピアノと打楽器のためのソナタ」も同様。大変な傑作だけれど1920年代の勢いは残念ながら失われていると思っていました。しかし今回の演奏を聴いて、作品に宿っている膨大なエネルギー(うかつにも今まであまり気づいていなかった)を感じ取ることが出来たように思います。多少粗っぽい演奏ではありますが、既存の演奏のコピーでなく自分達の言葉で表現しようとする気迫が、作品の真価を聴き手に伝えるのだと思います。
個々の奏者の技量を云々することはしませんが、京都市交響楽団のコンマスでもある泉原氏が強力に(強引に)全体を統率するスタイル。場数を重ねてもうすこし余裕が出来たなら伸び代は大きいと見ました。今後バルトークの全曲演奏を目指しているとのこと。作品としての完成度の高さでは随一の第4番や、一筋縄ではゆかぬ悪意と苦い味わいに満ちた第6番などにどう取り組んでいかれるのか大変興味を持っています。

余談ですが、カフェ・モンタージュの店主、ちょっと要領悪そうで軽くイラッと来るタイプなんだけれど、演奏前のちょっとしたトークが飄々としてなかなか良いです。演奏会のフライヤーがいつも手作り感溢れているのですが、今回のは同時代の空気を表したくてアンドレ・ケルテスが1938年に撮ったニューヨーク・シティ・バレエの写真を使ってみたとさりげなく解説。いやぁそのセンス、侮れませんわ。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2014-10-01 23:37 | 演奏会レビュー | Comments(0)